京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P130-141   (『ドストエーフスキイ全集』第13巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦8日目]

たフロックを着け、短く刈り込んだ頭にはソフトを被っていた。これが非常に彼の風采を上げて、立派な美男子にして見せた。彼の愛らしい顔は、いつも快活そうな色をおびていたが、この快活は一種の静かな落ちつきをおびていた。コーリャが驚いたのは、アリョーシャが部屋にいる時のままで、外套も羽織らずに出て来たことであった。確かに急いで来たらしかった。彼はすぐさまコーリャに手をさし伸べた。
「とうとう君も来ましたね。私たちはみんなでどんなに君を待ったでしょう。」
「ちょっとわけがあったものですからね。それは今すぐお話ししますが、とにかく、お近づきになって嬉しいです。とうから折を待っていたんですし、またいろいろとあなたのことを聞いてもいました」とコーリャは少し息をはずませながら呟いた。
「私たちはそれでなくても、もうずっと前から、知合いになっていなきゃならないはずだったのですよ。私もいろいろあなたのことを聞いていました。ですが、ここへ来るのがちと遅かったですね。」
「ねえ、ここの様子はどうなんです?」
「イリューシャの容態がひどく悪くなったんですよ。あれはきっと死にます。」
「え、何ですって! いや、カラマーゾフさん、医術なんてまったく陋劣なもんですよ」とコーリャは熱くなって言った。
「イリューシャはしょっちゅう、本当にしょっちゅう君のことを言っていました。眠ってて譫言にまで言うんですよ、確かに君はあの子にとって以前……あのことがあるまで……ナイフ事件の起るまで、非常に、非常に大切な人だったんですね。それに、またもう一つ原因があるんですよ……ねえ、これは君の犬ですか?」
「僕の犬です。ペレズヴォンです。」
「ジューチカじゃないんですか?」アリョーシャは残念そうにコーリャの目を眺めた。「じゃ、あの犬はもういよいよいなくなったんですか?」
「僕はあなた方がみんな揃って、ひどくジューチカをほしがってることを知っていますよ。僕すっかり聞いたんです」とコーリャは謎のように、にたりと笑った。「ねえ、カラマーゾフさん、僕はあなたに事情を残らず説明します。僕がここへ来たのも、おもにそのためなんですからね。僕は中へ入って行く前に、すっかりいきさつを話してしまおうと思って、それであなたを呼び出したんです」と彼は活気づいて話しだした。「こうなんですよ、カラマーゾフさん、イリューシャはこの春、予備科へ入ったでしょう。ところが、あの予備科の生徒はご存じのとおり、みんな子供連なんです、小僧っ子なんです。で、みんなはすぐにイリューシャをいじめだしたんです。僕は二級も上ですから、むろん遠く局外から見ていました。すると、イリューシャはあのとおり小さくって弱い子のくせに、勝気だもんですから、負けていないで、よくみんなと喧嘩をするんです。傲然とした態度でね、目はぎらぎら燃え立っています。僕はそうした人間が好きなんです。ところが、みんなはよけいあの子をいじめるじゃありませんか。ことにあの時分、イリューシャは汚い外套を着て、ズボンといったら上のほうへ吊りあがってるし、靴は進水式をしてるんでしょう。そのために、やつらはあの子を侮辱したんです。ところが、僕はそういうことが嫌いだから、すぐ中へ入ってやつらを撲りつけました。でも、やつらは僕を尊敬してるんです。カラマーゾフさん、本当ですよ」とコーリャは得意になってながながと自慢した。「だけど、だいたい、僕は子供連が好きなんです。今でも家で、ちびさん二人の面倒を見てるんですが、今日もそれにひっかかって遅れたんですよ。こういう工合で、みんなイリューシャを撲るのをやめました。僕あの子を保護してやったわけです。実際あれは権高な子供ですよ、これはあなたにも言っておきますが、確かに権高な子供ですよ。けれど、あの子は僕にだけは奴隷のように心服して、僕の言いつけは何でもきくんです。まるで僕を神様みたいに思って、何でも僕を真似ようとするじゃありませんか。放課時間になるたびに、僕んとこへやって来るので、僕はしじゅうあの子と一緒に歩きました。日曜日もやはりそうなんです。僕の中学校では、上級生が下級生とこんなに仲よくすると、みんなが笑いますが、それは偏見です。これが僕の意見なんです。それっきりです。ね、そうじゃありませんか? 僕はあの子を教えもすれば、開発もしました。そうでしょう、あの子が僕の気に入った以上、どうして開発するのが悪いんでしょう? カラマーゾフさん、あなたもあんな雛っ子さんたちと仲よくしていらっしゃるが、それもやはり、若い世代に影響を与えて、彼らを益し、開発してやろうと思うからでしょう? あなたのそうした性格を噂で聞いて、その点が僕に非常に興味を与えたんです。けれど、本題に入りましょう。実際、子供の中に一種の感傷的な心持が、一種のセンチメンタルな心持が成長していることも、僕は認めます。僕は生来そういう『仔牛の愛情』の敵なんです。それに、もう一つ矛盾があるんですよ。あの子は傲慢だけど、僕には奴隷みたいに心服していました、――まったく奴隷みたいに心服していたんです。それで、よくだしぬけに目をぎらぎら光らしながら、僕に食ってかかって、横車を押すじゃありませんか。僕がときどきいろんな思想を吹き込むと、あの子はその思想に同意しないってわけじゃないけれど、僕に対して個人的の反抗心を起す、――それが僕にはちゃんとわかるんです。なぜって、僕はあの子の仔牛みたいな愛情に対して、きわめて冷静な態度で答えるからです。そこで、あの子を鍛えるために、あの子が優しくすればするだけ、僕はよけい冷静になる、つまりわざとそうするんです、それが僕の信念なんです。僕はむらのないように性格を陶冶して、人間を作ることを目的としていたんですからね……まあ、そういったわけですよ……むろん、あなたはすっかりお話ししないでも、僕の言おうとする心持がおわかりになるでしょう。ある時ふと気がついてみると、あの子は一日も二日も三日も煩悶して、悲しんでいる様子じゃありませんか、しかも、それは仔牛の愛情のためじゃなくって、何かもっと強い、もっと高尚な別のものなんです。何という悲劇だろう、と僕は思いましたね。僕はあの子を詰問して事情を知りました。あの子は何かの拍子で、あなたの亡くなられたお父さん(その時はまだ生きていられましたが)の下男をしてるスメルジャコフと知合いになったんです。すると、スメルジャコフはあの子に、馬鹿げた冗談、いや野卑な冗談、憎むべき冗談を教え込んだのです。それは、柔かいパンの中にピンを突っ込んで、どこかの番犬に投げてやる、すると犬はひもじいまぎれに丸呑みにするから、そのあとがどうなるか見物しろというんです。二人はそういうパンの切れを拵えて、いま問題になってるあの縮れ毛のジューチカ、――誰も食べさせてやり手がなくて、一日から吠えばかりしてる屋敷の番犬に投げてやったんです(カラマーゾフさん、あなたはあの馬鹿げた吠え声がお好きですか? 僕、あれがとても我慢できないんですよ)。すると、先生いきなり飛びかかって、呑み込んだからたまらない。きゃんきゃん悲鳴をあげたり、くるくる廻ったりして、やたらに駈け出したものです。きゃんきゃん啼きながら駈け出して、とうとうどこかへ見えなくなってしまいました。イリューシャが、こう話して聞かせたんです。白状しながら、自分でもしくしく泣いて身慄いするんです。『駈けながら啼いてるんだ、駈けながら啼いてるんだ』と、こればかり繰り返し繰り返し言っていました。この光景があの子を動かしたんですね。こいつは良心の呵責だな、と思ったもんだから、僕は真面目に聞きました。実は前のことについても、あの子を仕込んでやりたかったので、心にもない、不満らしい様子をしながら、『君は下劣なことをしたものだ、君はやくざな人間だ。むろん僕は誰にも吹聴しやしないが、当分、君とは今までのような関係を断つことにする。僕は一つよくこのことを考えてみて、スムーロフ(それは僕と一緒に来たあの子供で、いつも僕に心服してるんです)を中に立てて、また君と交際をつづけるか、それともやくざ者として永久に棄ててしまうか、どっちか君に知らせよう』とこう言ったんです。これがあの子にひどくこたえたんですね。僕はすぐそのとき、あまり厳格すぎやしないかと感じましたが、仕方がありません、それがあの時の僕の信念だったんですからね。一日たって、スムーロフをあの子のとこへやって、自分はもうあの子と『話をしないつもりだ』と言わせました。これは、僕らの仲間で、絶交する時にいう言葉なんです。僕の肚では、あの子を幾日かのあいだ懲らしめてやって、悔悟の色を見た上で、また握手をしよう、というのでした。これは僕が固く決心した計画なんです。ところが、どうでしょう、あの子はスムーロフからそのことを聞くと、やにわに目を光らせて、『クラソートキンにそう言ってくれ。僕はどの犬にも、みんなピンを入れたパンを投げてやるからって』とそう叫んだそうです。で、僕も、『ふん、わがままが始まったな、あんなやつは排斥してやらなきゃならん』と思って、それからすっかりあの子を軽蔑するようになったんです。逢うたびに顔をそっぽへ向けたり、皮肉ににたりと笑ったりしました。そのうちに、あの子のお父さんの事件が起ったんです、ご存じですか、あの『糸瓜』ですよ? でねえ、こんなわけであの子の恐ろしい癇癪は、前から下地ができていたんですよ。子供たちは、僕があの子と絶交したのを見てとると、よってたかって、『糸瓜糸瓜』と言ってからかいだしました。ちょうどそのころ喧嘩がはじまったのですが、僕はそれを非常に残念に思います。なぜって、そのとき一度あの子がこっぴどく撲られたからです。で、ある時、あの子は教場から外へ出るが早いか、みんなに飛びかかってゆきました。僕はちょうど十歩ばかり離れたところで見ていました。誓って言いますが、そのとき僕は確かに笑わなかったはずです。いや、かえって僕はその時、あの子が可哀そうで、可哀そうでたまらなかったくらいです。すんでのことで、駈け出して、あの子を援けようと思いました。が、あの子はふと僕と目を見合せると、何と思ったか、だしぬけにナイフをとって僕に飛びかかり、太股を突き刺したんです、ほら、右足のここんとこですよ。僕は身動きもしませんでした。カラマーゾフさん。僕はどうかするとなかなか勇敢なんです。僕は目つきでもって、『君、僕のつくしたいろんな友誼に酬いるために、もっともっとやらないかね、僕はいつまでも君のご用を待ってるから』とでも言うように、軽蔑の色を浮べて眺めました。すると、あの子も二度と刺そうとしませんでした、持ちきれなかった[#「持ちきれなかった」はママ]んですね。びっくりしたようにナイフを投げ出して、声をたてて泣きながら駈け出しました。むろん僕は、言いつけもしなければ、教師の耳に入れないために、みんなに黙っているように命令しました。お母さんにさえすっかり癒ってしまった時、はじめて言っただけなんです。それに、ほんのちょっとした擦り傷だったんですもの。あとで聞いたんですが、その日にあの子は石を投げ合って、あなたの指まで咬んだそうですね、――しかし、まあ、考えてごらんなさい、あの子の心持はどんなだったでしょう! どうもしようがありません、僕はほんとに馬鹿なことをしたんです。あの子が病気になった時、なぜ行って赦してやらなかったんでしょう、つまり仲直りですね。今になって後悔してるんです。だけど、そこには特別の目的があったんです。あなたにお話ししたいと思ったのはこれだけです……ただ、どうも僕は馬鹿なことをしたようです……」
「ああ、実に残念です」とアリョーシャは興奮のていで叫んだ。「君とあの子の関係を前から知らなかったのが、私は実に残念です。それを知っておれば、とっくに君の家へ行って、一緒にあの子のとこへ来てもらうようにお願いするはずだったのに。本当にあの子は熱がひどい時など、君のことを譫言にまで言っていましたよ。私は君があの子にとって、どのくらい大事な人か知らなかったんで! 一たい君は結局、あのジューチカを捜し出せなかったんですか? 親父さんも子供たちも、みんな町じゅう捜し歩いたんですよ。本当にあの子は病気しながら、『お父さん、僕が病気になったのはね、あの時ジューチカを殺したからよ[#「殺したからよ」はママ]、それで、神様が僕に罰をお当てになったのよ』と言って、涙を流しながら、私の知っているだけでも、三度も繰り返したじゃありませんか。あの子の頭から、とてもこの考えを追い出すことができないんです! もし今あのジューチカを連れて来て、ジューチカが生きてるところを見せたら、あの子は嬉しまぎれに生き返るだろう、と思われるくらいです。私たちはみんな君を当てにしているんですよ。」
「でも、一たいどういうわけで、僕がジューチカを捜し出すだろうなんて、そんなことを当てにしてたんです。つまり、なぜ僕にかぎるんです?」コーリャは非常な好奇心をもって、こう訊いた。「なぜほかの人でなしに、僕を当てにしたんです?」
「君があの犬を捜していられるとか、捜し出したら連れて来て下さるとか、そういう噂があったんですよ。スムーロフ君も何かそんなふうなことを言っていました。とにかく、私たちはどうかして、ジューチカはちゃんと生きていて、どこかで見た人があるというように、あの子を信じさせようと骨を折ってるんです。このあいだ子供たちがどこからか、生きた兎を持って来ましたが、あの子はその兎を見ると、ほんの心持にっこりして、野原へ逃してくれと言って頼みました。で私たちはそうしてやりましたよ。たったいま親父さんが帰って来ました。やはり、どこからかマスチフ種の仔犬をもらって来て、それであの子を慰めようとしましたが、かえって結果がよくないようでした……」
「じゃ、もう一つお訊きしますが、カラマーゾフさん、一たいそのお父さんというのは、どんな人です? 僕はその人を知っていますが、あなたの定義では何者です、道化ですか、ピエロですか?」
「いや、とんでもない。世の中には深く感じながらも、ひどく抑えつけられているような人があるものですが、そういう人の道化じみた行為は、他人に対する憎悪に満ちた一種の皮肉なんです。長いこと虐げられた結果、臆病になってしまって、人の前では面と向って本当のことが言えないのです。ですからね、クラソートキン、そうした種類の道化は、時によると非常に悲観的なものなんです、今あの親父さんは、この世の望みを、すっかりイリューシャ一人にかけているんです。だからもし、イリューシャが死にでもしてごらんなさい、親父さんは悲しみのあまり気ちがいになるか、それとも自殺でもするでしょう。私は今あの人を見てると、ほとんどそう信ぜざるを得ません!」
「僕にはあなたの心持がわかりました。カラマーゾフさん、あなたはなかなか人間をよく知っていらっしゃるようですね。」コーリャはしみじみとこう言った。
「ですが、私は君が犬を連れて来られたので、あのジューチカだとばかり思いましたよ。」
「まあ、待って下さい。カラマーゾフさん、僕たちはことによったら、ジューチカを捜し出すかもしれませんよ。だけど、これは、これはペレズヴォンです。僕は今この犬を部屋の中へ入れましょう。たぶんイリューシャはマスチフ種の仔犬よりも喜ぶでしょう。まあ、待ってごらんなさい、カラマーゾフさん、今にいろんなことがわかりますから。だけど、まあ、どうして僕はあなたをこんなに引き止めてるんでしょう!」とコーリャはだしぬけに勢いよく叫んだ。「あなたはこの寒さに、フロックだけしか着ていらっしゃらないのに、僕こうしてあなたを外に立たせておいて。ほんとうに僕は、なんてエゴイストでしょう! ええ、僕たちはみんなエゴイストですよ、カラマーゾフさん!」
「心配しなくってもいいですよ。寒いことは寒いですが、私は風邪なんかひかないほうですから。が、とにかく行きましょう。ついでにお訊ねしておきますが、君の名前は何というんです? コーリャだけは知っていますが、それから先は?」
「ニコライです、ニコライ・イヴァノフ・クラソートキンです。お役所風に言えば息子のクラソートキン。」コーリャはなぜか笑いだしたが、急につけたした。
「むろん、僕はニコライという自分の名前が嫌いなんです。」
「なぜ?」
「平凡で、お役所じみた名前だから……」
「君の年は十三ですか?」とアリョーシャは訊いた。
「つまり、数え年十四です。二週間たつと満十四になります。もうすぐです。カラマーゾフさん、僕は前もってあなたに一つ自分の弱点を自白しておきます。それはつまり、僕の性質をいきなりあなたに見抜いてもらうために、お近づきのしるしとして打ち明けるんです。僕は自分の年を訊かれるのが厭なんです……厭なんていうよりもっと以上です……それにまた……たとえば、僕のことでこんなふうな、ありもしない評判がたってるんです。それはね、僕が先週、予科の生徒と盗賊ごっこをして遊んだ、って言うんですよ。僕がそういう遊戯をしたのは実際ですが、ただ自分のために、自分の楽しみのためにそんな遊戯をしたっていうのは、ぜんぜん中傷です。僕はこのことがあなたの耳にも入ってると思う相当の根拠を持っていますが、しかし、僕は自分のためにそんなことをしたんじゃありません。子供連のためにしたんです。なぜって、あの連中は僕がいなけりゃ、何にも考えだすことができないからです。この町ではいつもつまらない噂をひろげていますからね。この町は中傷の町ですよ、本当に。」
「だって、自分のためだって、べつにどうということはないじゃありませんか?」
「え、自分のために……あなただって、まさか馬ごっこをしないでしょう?」
「じゃ、こういうふうに考えてごらんなさい」とアリョーシャは微笑した。「たとえば、大人は芝居を見に行きますね。だが、芝居でもやはりいろんな人物の冒険が演ぜられるんです。どうかすると、強盗や戦争さえ出て来ます。これだって、やはり一種の遊戯じゃありませんか! 若い人たちが気ばらしに盗賊ごっこをするのは、やはり芸術欲の発展なんです。若い心に芸術欲が芽生えるからです。そして、こういう遊戯はどうかすると、芝居よりももっと手ぎわよく仕組まれることさえあります。ただ違うところは、芝居へ行くのは役者を見るためですが、遊戯のほうでは子供たち自身が役者だってことでしょう。しかも、それは自然なことです。」
「あなたはそうお考えですか? それがあなたの信念なんですね?」コーリャはじっと彼を見た。「あなたのおっしゃったことは非常に面白い思想です。僕もきょう家へ帰ったら、この問題について、少し頭を働かしてみましょう。実際あなたからは何か教えられるだろうと、僕も予期してたんですよ。カラマーゾフさん、僕はあなたから教えを受けようと思って、やって来たんですよ。」コーリャは感動の充ち溢れるような声で、しみじみと言葉を結んだ。 「私も君からね。」アリョーシャは彼の手を握って、にっこりした。
 コーリャはひどくアリョーシャに満足した。ことにコーリャを感動させたのは、アリョーシャがまったく同等な態度で彼を遇し、まるで『大人』と話しをするようにものを言うことであった。
カラマーゾフさん、僕は今あなたに一つ手品をお目にかけますよ。これもやはり一つの芝居なんですよ。」彼は神経的に笑った。「僕はそのために来たんです。」
「はじめまず左へ曲って、家主のところへ行きましょう。そこでみんな外套を脱いで行くんです。なぜって、部屋の中は狭くってむし暑いんですから。」
「なあに、僕はただちょっと入って、外套のままでいますよ、ペレズヴォンはここの玄関に残って死んでいますよ。『ペレズヴォン、|お寝《クーシュ》、そして死ぬんだ!』どうです、死んだでしょう。ところで、僕がさきに入って中の様子を見て、それからちょうどいい時に口笛を鳴らして、『来い《イシ》、ペレズヴォン』と呼ぶと、見ててごらんなさい。すぐ、気ちがいのように飛び込んで来ますよ。ただ、スムーロフ君が、その瞬間、戸を開けることを忘れさえしなければいいです。まあ、僕がいいように手くばりして、その手品をお目にかけますよ……」

   第五 イリューシャの寝床のそばで

 もはやわれらにとって馴染みの深いその部屋には、同じく馴染みの深い休職二等大尉スネギリョフの家族が住まっていたが、このとき狭い部屋の中は大勢の人で一ぱいになって、息苦しいほどであった。幾たりかの子供たちも、イリューシャのそばに腰かけていた。彼らはみんなスムーロフと同じように、アリョーシャに曳きずられてイリューシャと仲直りしたことを、否定したいような心持でいたが、事実はやはりそうであった。この場合、アリョーシャの腕前は、『仔牛の愛情』をぬきにして、わざとらしくないように偶然をよそおいながら、子供たちを一人一人、イリューシャと和解させたことである。で、これはイリューシャの苦悶をやわらげるのに、あずかって力があった。以前敵であったこれらの子供たちが、自分に対して優しい友誼と同情を表してくれるのを見ると、イリューシャはひどく感動した、[#「感動した、」はママ]ただ一人クラソートキンのいないことが、彼の心中に恐ろしい重石となって横たわっていた。もしイリューシャの苦い追憶の中に、最も苦いものがあるとすれば、それは例のクラソートキンとの挿話であった。クラソートキンは彼にとって、唯一の親友でもあれば保護者でもあったのに、彼はあのとき、ナイフをふるってその人に飛びかかったのである。賢い少年スムーロフ(一ばん先にイリューシャと仲直りに来た)も、そう思っていた。けれど、スムーロフが遠廻しに彼に向って、アリョーシャが、『ある用事のために』訪ねて来ようと思っていると伝えた時、クラソートキンはすぐ、取りつく島もないように、きっぱりそれを拒絶して、自分がどんな行動をとるべきかは、自分でちゃんと知っているから、誰からも忠告などしてもらいたくない。もし病人のところへ行く必要があれば、自分には『自分の考え』があるから、いつ見舞いに行くか自分で決める、――とさっそく、こんなふうに『カラマーゾフ』に伝えるよう、スムーロフに依頼したのである。それは、まだこの日曜から二週間も前のことであった。こういうわけで、アリョーシャは自分でクラソートキンのところへ行く計画を断念してしまったが、しかしなお一両度、スムーロフをクラソートキンのところへ使いにやった。が、二度ながら、クラソートキンは恐ろしくいらいらした烈しい言葉で、断然その要求を拒絶してしまった。そして、もしアリョーシャが自分で来たら、決してイリューシャのところへ行かないから、この上うるさくしないでくれ、とアリョーシャに答えさせた。で、スムーロフさえこの最後の日まで、コーリャが今朝イリューシャ訪問を決したことを知らなかった。ところが、コーリャは前の晩スムーロフと別れる時、一緒にスネギリョフのところへ行くから、あす家で待っていてくれ、しかし、自分はだしぬけに行きたいのだから、決して誰にも知らせてはいけない、とこう突然に言いだしたのである。スムーロフは承知した。彼はある時クラソートキンが、『ジューチカがもし生きているとしたら、それを捜しだすことができなけりゃ、やつらはみんな驢馬だ』と何げなく言った言葉を根にもって、きっとクラソートキンは行方不明になったジューチカを連れて来るに違いない、と想像していた。けれど、スムーロフが折を見て、その犬に関する推察をおずおずとほのめかした時、クラソートキンは急にかんかんになって怒りだした。「僕にはペレズヴォンというものがあるのに、人の犬なんか町じゅう捜し廻るような馬鹿だと思うのかい、それにピンを呑み込んだ犬が生きてるなんて、そんなことがどうして考えられるものか。それは仔牛の愛情だよ、それっきりさ!」
 ところが、イリューシャはもうほとんど二週間も、片隅の聖像のそばにある小さな寝床から離れなかった。アリョーシャに逢って指に嚙みついて以来、学校へも行かないでいた。彼はその日から発病したのである。もっとも、当座一カ月ばかりはときどき寝床から起きて、部屋の中や玄関などをぶらつくこともできたが、今はすっかり弱ってしまって、もう父親に手つだってもらわなければ、身動きさえもできなかった。父親は心配しておどおどしていた。酒もすっかり断って、愛児が死にはしないかという懸念のために、ほとんど気ちがいのようになっていた。ことに、彼の腕をとって部屋の中を歩かせてから、寝床へ寝かしつけたあとなど、いきなり玄関の暗い片隅へ走り出て、額を壁に押しつけたまま、イリューシャに聞えぬように声を忍ばせ、身を慄わして、さめざめと啜り泣くこともたびたびあった。
 部屋へ帰ると、彼は愛児を楽しませ慰めるために、昔噺や滑稽談を聞かせたり、あるいは自分が見たおかしな人たちの真似をしたり、動物の滑稽な吠え声や啼き声まで真似てみせた。けれども、イリューシャは父親がそうした滑稽な、道化めいたことをするのをひどくいやがった。少年はその不快さを現わさないように努めたが、しかし、父親が世間から馬鹿にされているということを、心臓の痛いほど意識しては、しじゅう『糸瓜』のことや、例の『恐ろしい日』のことなどを、たえまなく思いうかべていた。しとやかで、つつましい、脚の悪い姉のニーノチカも、やはり父のおどけを好まなかった(ヴァルヴァーラ・ニコラエヴナはもうとっくにペテルブルグへ勉強に行っていた)。しかし、半気ちがいの母親はひどくそれを面白かって、自分の夫がもの真似をしたり、何か滑稽な身振りを始めたりすると、心底から笑いだすのであった。彼女を慰めるものはただこれだけなので、そのほかのときは、もうみんなに忘れられてしまったとか、誰も自分を尊敬してくれないとか、みんなに馬鹿にされてばかりいるとか言って、ひっきりなしにぼやいたり泣いたりしていた。が、近来彼女も急に何となく変ってきたように見える。そして、部屋の隅に寝ているイリューシャを見ては、ふかいもの思いに沈むのが常であった。ひどく沈んで無口になり、よしんば泣きだすにしても、聞かれないように低い声で泣いた。二等大尉は彼女のこの変化に気づいて苦しい疑惑を感じた。子供たちの訪問は、最初あまり彼女の気に入らず、ただ腹を立てさせるだけであったが、やがて、その快活な叫びや話し声は彼女の気をまぎらすようになり、とどのつまりは、すっかり気に入ってしまった。もし子供たちが来なくなったら、彼女はひどくふさぎ込んだに違いない。子供たちが何か話をしたり、遊戯でも始めたりすると、彼女はきゃっきゃっと笑って、手を拍つのであった。時には自分のそばへ呼び寄せて、接吻さえした。とりわけ少年スムーロフを愛した。
 二等大尉にいたっては、イリューシャを慰めに来る子供たちの来訪を、最初から満身の歓喜をもって迎えていた。そのために、イリューシャがくよくよしなくなり、はやく回復に向うだろうという希望さえいだくのであった。彼はイリューシャの病状に不安を持っていたが、最後の瞬間まで、愛児が急によくなるに相違ないということを、つかの間も疑わないのであった。で、彼は小さい客たちをうやうやしく迎えて、そのそばを歩き廻ったり、世話をやいたりするばかりか、彼らを抱いて歩かないばかりであった。実際、一ど抱こうとしたことさえある。けれど、こんな冗談はイリューシャの気に入らなかったので、彼もすぐやめてしまった。彼は子供たちのために薑 餅《しょうがもち》や、胡桃などを買って来たり、お茶をわかしたり、サンドイッチを作ったりした。ここで言っておかなければならぬのは、彼はその時分、金廻りがよくなっていたことである。彼ははたしてアリョーシャの予言どおり、カチェリーナ・イヴァーノヴナからの二百ルーブリを受け取った。やがて、カチェリーナは彼らの事情や、イリューシャの病気などをくわしく知ったので、自分から彼らの住まいを訪れて、家族のもの全部と知合いになったうえ、巧みに半気ちがいの二等大尉夫人を魅惑してしまった。それ以来、彼女は金を惜しまなかった。息子が死にはしまいかという恐ろしい想念に圧倒された二等大尉は、以前の誇りを忘れて、おとなしくその施しを受けていた。そのころ医師のヘルツェンシュトゥベは、カチェリーナの依頼によって隔日に規則ただしく病人を見舞ったが、その診療の効果は、はかばかしく見えなかった。彼はただやたらに薬を病人につぎ込むばかりであった。が、そのかわり、この日、すなわち日曜日の朝、二等大尉の家では、モスクワから来たある一人の医師を待っていた。それはモスクワで非常に評判の医師で、カチェリーナがわざわざ手紙をやって招いたのである。それはイリューシャのためではなく、ほかにある目的があったのだけれど、それはあとで話すことにして、とにかく、せっかく医師が着いたので、彼女はイリューシャの診察をも依頼した。このことは二等大尉もあらかじめ知らせを受けていた。
 愛児イリューシャが、絶えず苦にしているコーリャの見舞いを、彼はとうから待ち望んでいたのだが、今だしぬけにやって来ようとは夢にも思わなかった。コーリャが戸を開けて部屋の中へ現われた瞬間、二等大尉も子供たちもみんな病人の寝床のそばに集って、たった今つれて来た小さなマスチフ種の仔犬を見ていた。それは昨日生れたばかりなのだが、行方不明になってむろんもう死んだはずのジューチカのことをしじゅう苦に病んでいるイリューシャを慰めて気をまぎらすために、一週間も前から二等大尉がもらう約束をしていたものである。で、もう三日も前から小さい仔犬、それもありふれたものでなく、純粋のマスチフ種(これがむろん非常に重要な点であった)の仔犬を持って来てくれるということを、ちゃんと聞いて知っていたイリューシャは、微妙な優しい心づかいのために、この贈物を喜ぶようなふりをして見せていたが、その新しい仔犬がかえって彼の心に、かつて苦しめた不幸なジューチカの思い出を一そう強めるかもしれぬということは、父親にも子供たちにもはっきりわかっていたのである。仔犬は彼のそばに横たわってうごめいていた。彼は病的な微笑をうかべながら、瘦せ細った青白い手で仔犬を撫でた。仔犬は確かに彼の気に入ったらしかったが……しかし、それでもやはりジューチカではなかった。やはりジューチカはいなかった。もしジューチカと仔犬が一緒にそこにいたなら、それこそ完全な幸福を感じたことであろうに!
「クラソートキンだ!」一番にコーリャの入って来るのを見つけた一人の子供が、突然こう叫んだ。と、室内には明らかに動揺が起った。子供たちはさっと道を開いて、寝床の両側に並んだので、途端に病床のイリューシャがすっかり見えた。二等大尉はまっしぐらにコーリャのほうへ駈け寄った。
「どうぞお入り下さい、どうぞお入り下さい……大事なお客さん!」と彼はコーリャに呟いた。「イリューシャ、クラソートキンさんがお前を見舞いに来て下すったよ……」
 しかし、クラソートキンは、まず彼に手を与えて、社交上の礼儀作法に関する驚くべき知識を示した。彼はまっさきに、安楽椅子に腰かけている二等大尉夫人のほうへ向いて(彼女はちょうどこの時ひどく不機嫌であった。そして子供たちがイリューシャの寝床を遮った、[#「遮った、」はママ]自分に新しい仔犬を見せてくれないと、ぶつぶつ小言をいっていた)、きわめて慇懃に足摺りをし、次にニーノチカのほうへ向きを換えて、一個の婦人として同様に会釈をした。この慇懃なふるまいは、病める夫人にきわめて快い印象を与えた。
「この人はお若いけれど、立派な教育のおあんなさることがすぐわかりますわ」と彼女は両手をひろげながら、大きな声で言った。「ところが、ここにいるほかのお客さんたちときたら、まあ、何ということでしょう、お互いに乗っかりっこなんかして入って来てさ。」
「何だよ、おっ母さん、お互いに乗っかりっこするなんて、一たいそれは何のことだね?」と二等大尉は愛想よく囁いたが、いくらか『おっ母さん』を心配しているふうであった。
「玄関のところで、お互いに肩に乗っかって入って来るんですよ。れっきとした家へ、肩車で入って来るなんて、何というお客さんでしょう?」
「では、誰が、誰がそんなことをして入って来たんだね、おっ母さん、誰が?」
「今日は、ほら、あの子はこの子の肩に乗ってるし、またこの子はあの子の上に乗ってさ……」
 けれど、コーリャはもうイリューシャの寝床のそばに立っていた。病人は見る見るさっと蒼くなった。彼は寝台の上に身を起して、じっとコーリャを見つめた。こちらはもう二カ月も、以前の小さい親友を見なかったので、愕然としてその前に立ちどまった。こんなやつれて黄いろくなった顔や、熱に燃えて何だかひどく大きくなったような目や、こんな瘦せ細った手などを見ようとは、想像することもできなかったのである。彼はイリューシャがおそろしく深い、せわしそうな息づかいをしているのや、唇がすっかり乾ききっている様子などを、悲痛な驚きをもってうちまもった。彼はイリューシャのほうヘ一歩あゆみ寄って手をさし伸べると、ほとんど喪心したような様子でこう言った。
「え、お爺さん……どうしたね?」
 けれども、その声は途切れて、磊落な調子が持ちきれなかった。彼の顔は突然ぴくりと痙攣し、唇のあたりで何かがわなわなと慄えた。イリューシャは病的ににこっとしたが、やはり言葉を出すことができなかった。コーリャは急に手を上げて、何のためかイリューシャの髪を掌で撫でた。
「なに……大……丈夫……だよ!」と彼は静かにイリューシャに囁いた。それは相手に力をつけるためというわけでもなく、自分でもなぜかわからずにそう言ったのである。二人はまたしばらくだまっていた。
「それは何だね、新しい仔犬かね?」コーリャはおそろしく無表情な声で、突然こう訊いた。
「そう……で……す」とイリューシャは息を切らせながら、囁くように長く声を曳いた。
「鼻が黒いから、こりゃ猛犬だよ、鎖に繋いでおくやつなんだよ。」いかにも仔犬とその黒い鼻だけが刻下の大問題であるかのように、コーリャはもったいらしく、きっぱりと言った。が、その実、彼は『ちっちゃな子供』のように泣きだすまいと、内部に起ってくる感情を抑えるため、しきりに努力しているのであったが、やはりどうしても抑えきれなかった。「大きくなったら、鎖に繋いでおかなきゃならないようになるよ。僕ちゃんとわかってる。」
「この犬は大きくなるよ!」むらがっている子供の一人がこう叫んだ。
「そりゃ、マスチフ種だもの、大きくなるにきまってるさ。こんなに、牛の仔くらいになるよ。」ふいに幾たりかの声が響き渡った。
「牛の仔くらいになりますとも、本当に牛の仔くらいになりますとも」と二等大尉はそばへ飛んで来た。「私はわざとそういう素敵な猛犬を捜したんです。そいつのふた親もやはり大きな猛犬でね、背の高さが床からこのくらいもありましたよ……どうかおかけ下さい、イリューシャの寝台の上か、でなければ、こちらのベンチへ。どうぞおかけ下さい、大事なお客さま、長いあいだ待ちこがれていたお客さま……アレクセイさんと一緒においで下さったんですな?」
 コーリャは、イリューシャの寝台の脚の辺に腰をおろした。彼はざっくばらんに話を始めようと思って、みちみち用意して来たのだけれど、今はすっかり糸口を失ってしまった。
「いいえ、僕ペレズヴォンと一緒に……僕は今ペレズヴォンという犬を飼っています。スラヴ流の名前なんです。あそこに待っていますが……僕が一つ口笛を鳴らすと、すぐ飛び込んで来ます。僕も犬を連れて来たんだよ。」彼はふいにイリューシャのほうに向った。「お爺さん、ジューチカを覚えてるかね?」彼はだしぬけにこう訊いて、イリューシャをぎょっとさせた。
 イリューシャの顔は歪んだ。彼は悩ましげにコーリャを見やった。戸口に立っていたアリョーシャは顔をしかめながら、ジューチカの名を口に出すなという意味を、そっと頭で合図したが、コーリャはそれに気がつかなかった、あるいは気がつこうとしなかったのかもしれない。
「ジューチカはどこにいるの?」とイリューシャは引っちぎったような声で訊いた。
「ちょっ、君のジューチカなんか、――駄目だよ! 君のジューチカは行方不明じゃないか!」
 イリューシャは口をつぐんだが、もう一度じいっとコーリャを見た。アリョーシャはコーリャの視線を捕えて、またしきりと頭を振って合図したが、コーリャはつと目をそむけて[#「コーリャはつと目をそむけて」はママ]、今度もやはり気がつかないようなふりをした。
「どこかへ駈け出して、行方不明になったんだ。あんなご馳走を食ったんだもの、いなくなるにきまってるじゃないか」とコーリャはなさけ容赦もなく、切って捨てるように言ってのけたが、自分もひどく息をはずませているらしかった。「そのかわり、僕にはペレズヴォンという犬がある……スラヴ流の名前でね……君のところへ連れて来たんだ……」
「いらない!」とイリューシャはいきなりそう言った。
「いや、いや、いるよ、ぜひ見たまえ……君も喜ぶよ。僕わざと連れて来たんだ……あの犬みたいに、やはり尨毛なんだよ……奥さん、ここへ僕の犬を呼んでいいですか?」彼は不思議にも極度の興奮を感じながら、突然スネギリョーヴァ夫人に向ってこう言った。
「いらない、いらない!」とイリューシャは悲しげな、引っちぎったような声で叫んだ。彼の目には非難の色が燃えていた。
「もしあなた………」二等大尉は、壁のそばにおいてある大箱に腰をかけようとしたが、急につと立ちあがった。「あなた……一つまた今度……」と彼は呟いたが、コーリャは無理ひたいに大尉の言葉を遮りながら、突然、「スムーロフ、戸を開けてくれっ!」と叫んだ。そして、スムーロフが戸を開けると同時に、ぴっと呼子を鳴らした。と、ペレズヴォンが一散に部屋の中へ駈け込んだ。
「跳ねるんだ、ペレズヴォン、芸だ! 芸だ!」とコーリャはいきなり席を立ちあがって叫んだ。犬は後脚で立って、イリューシャの寝床の前でちんちんをした。と、思いがけないことが起った。イリューシャはぶるぶると身ぶるいをして、急に力一ぱい体を前へ突き出し、ペレズヴォンのほうへかがみ込んで、茫然感覚を失ったようにその犬を見た。
「これは……ジューチカだ!」彼は苦痛と幸福にひび割れたような声で叫んだ。
「じゃ、君は何だと思ったんだね?」とコーリャはかん高い嬉しそうな声で、力一ぱいに叫んだ。そして、犬のほうへかがみ込んで摑まえると、イリューシャのほうへ抱き上げた。
「見たまえ、お爺さん、ね、目が片っ方ないだろう、左の耳が裂けてるだろう、君が話して聞かせた目印と、寸分ちがわないよ。僕はその目じるしでこの犬を捜したんだ。しかも、あの時すぐに捜し出したんだ。この犬は誰のものでもなかったんでしょう。この犬は誰のものでもなかったんでしょう!」彼は二等大尉や、その細君や、アリョーシャや、それからまたイリューシャを見まわしながら、早口に説明した。「この犬はフェドートフの家の裏庭にいたんだ。そこに垂れ込もうとしたんだけど、あすこで食べものをやらなかったんだよ。ところが、先生、田舎から逃げ出した犬でね……僕はそれを捜し出したんだ……ね、お爺さん、この犬はあの時、君のパンを呑み込まなかったんだよ。もし、呑み込んでれば、むろんもう死んでいるはずだ、むろんそうだとも! いいあんばいに、早く吐き出したんだよ、――こうして、まだ生きてるところを見るとね。ところが、君は吐き出したのに気がつかなかったんだよ。吐き出しはしたが、やはり舌を突かれたんで、あの時きゃんきゃん鳴いたんだ。そして、鳴きながら駈け出したもんだから、君はすっかり呑み込んだものと思ったんだ。そりゃ鳴いたのも無理ないよ。だって、犬の口ん中の皮はとても華奢なんだもの……人間のより柔かいんだ、ずっと柔かいんだ!」とコーリャは猛烈な勢いで叫んだ。彼の顔は喜びのために燃えるように輝いていた。
 イリューシャは口をきくこともできなかった。彼は口をぽか