京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P222-233   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦26日目]

した声でこう囁いた。もう言葉は少しも途切れなかった。
「手品ですって?」
「ええ、手品、ちょっとした手品なんで」と言う二等大尉の声は、依然として囁くようであった。彼は口を左のほうへねじ曲げ、左の目を細めながら、まるで吸いつけられたようにアリョーシャを見つめるのであった。
「あなた一たいどうしたのです、手品って何です?」とこちらはほとんど慴えたように叫んだ。
「これです、ごらんなさい!」と二等大尉はだしぬけに黄いろい声を上げて言った。
 彼は今まで話のあいだ、右手の親指と人差指で、角のほうをそっと抓んでいた二枚の紙幣を、相手のほうへさし出して見せたかと思うと、急に猛然と引っ掴んで揉みくたにしながら、右手の拳へ固く握りしめるのであった。
「見ましたか、見ましたか!」興奮のあまり真っ蒼な顔をしながら、彼はアリョーシャに向って叫んだ。が、突然その拳を振り上げると、揉みくたになった紙幣を力ーぱい、砂の上へ叩きつけた。「見ましたか!」紙幣を指さして見せながら、彼はまた黄いろい声で叫んだ。「このとおり!」
 と、急に彼は右の足を挙げて、野獣のような憎悪を浮べながら、靴の踵で紙幣を踏みにじりはじめた。そして、はあはあ息を切らして、一にじりごとにこう叫ぶのであった。
「これがあなたの金です! これがあなたの金です! これがあなたの金です! これがあなたの金です!」
 が突然、彼はうしろへ飛びすさって、傲然とアリョーシャの前に身をそらした。その全体の様子が何とも言いようのない誇りを示していた。
「あなたをよこした人にそう言って下さい! 糸瓜は自分の名誉を金で売りません、て!」
 彼は両手を空《くう》へさし上げながらこう叫ぶと、いきなりくるおと向きをかえて飛びだした。が、まだ五足と走らないうちに、突然また振り返って、アリョーシャに手を振って見せた。け`ど、またもや五足と走らないうちにもう一度ふり返った。この時はもはや、ひん曲っだような笑いの痕も消え失せ、顔は涙に濡れて、ぴくぴく引っ吊っていた。とぎれがちな咽せ返るような泣き声で、彼は早口にこう言った。
「あんな恥をかかされて、その代りにお金なんかもらったら、うちの子に何と言いわけができます!」こう言うなり、彼はまっしぐらに駆け出して、今度こそもう振り返ろうとしなかった。アリョーシャは言葉に現わすことのできない憂愁をいだきつつ、じっとそのうしろ姿を見送っていた。二等大尉も最後の一瞬間まで、自分が紙幣を揉みくたにして地べたに抛り投げようとは、ゆめにも考えなかったのであろう。アリョーシャにほそれがよくわかっていた。彼は走っているうちに、一度も振h返らなかった。彼が決して振り返らないだろうということは、アリョーシャも承知していた。彼は二等大尉のあとを追って、声をかけようという気にならなかった。そのわけも自分にはちゃんとわかっている。
 二等大尉の姿が見えなくなった時、アリョーシャは紙幣を拾い上げたが、ただくたくたになって砂の中へおし込まれているだけで、いささかも破損した個所はなく、アリョーシャがひろげて皺をのしたときは、まるで新しいもののようにぱりぱりしていた。すっかり皺のしをすると、畳んでかくしへ入れ、依頼の結果を報ずるために、カチェリーナのもとをさして歩きだした。



 第五篇 Pro et Contra

   第一 誓い

 アリョーシャを第一番に出迎えたのは、やはりホフラコーヴァ夫人であった。夫人はやたらにそわそわしている。留守の間にかなり大変な騒ぎが起ったのである。カチェリーナのヒステリイは卒倒で終って、そのあとから、『何ともいえない、恐ろしい衰弱が来ましてね、あのひとは床について目をつり上げて、譫言を言ってらっしゃいますの。いま熱が出ましたのでね、ヘルツェンシュトゥベも呼びにやりましたし、二人の伯母さんも呼びにやりましたの。伯母さんたちはもう見えていますけれど、医者のほうはまだまいりません。みんなあのひとの部屋に控えていますが、何か変なことになりゃしないかと思って、心配しておりますの、だけど、あのひとはまるで覚えがないんですからねえ。ひどい熱病にでもなったらどうしましょう!』
 こう言う間にも、夫人はひどく慴えたような顔つきであった。そして、『これはもう大変なことです、大変なことです!』と一こと一ことにつけ加えて、まるで今まであったことは大変でなかったような口ぶりであった。アリョーシャは、愁わしげに夫人の言葉を聞き終った。彼が自分のほうに起った出来事を話しにかかった時、夫人は暇がないからと言って、二ことと聞かないうちに遮ってしまった。そして、どうかリーズのところへ行って、そのそばで自分が来るのを待ってくれと頼んだ。
「アレクセイさん、リーズはね」と夫人は彼の耳もとに囁いた。「リーズは今わたしをびっくりさせましたの、ですけど、悦ばしてもくれました。ですから、わたしあれのことなら何でも赦してやりますわ。まあ、どうでございましょう、あなたが出ていらっしゃるとすぐ、あの子は昨日から今日へかけて、あなたをからかったのを、ひどく後悔しだしたじゃありませんか。もっとも、あの子はからかったのじゃありません、ただ、ふざけたのでございます。けれども、涙のこぼれるほど心から後悔するものですから、わたしびっくりしてしまいましたの。これまであの子がわたしをからかったって、一度も真面目に後悔したことなんかありません。いつも冗談なんでございます。ところでね、あなた、あの子はひっきりなしにわたしをからかってばかりいますの。それが今日はどうしたものか真面目なんです、それこそ大真面目なんですの。あの子はね、アレクセイさん、大変あなたのご意見を尊重しております。ですから、もしできることなら、あの子に腹を立てないで下さいな、そして悪く思わないでね。わたしはいつでもあの子を大目に見ていますの、だって、そりゃ本当に利口な子なんですもの、――そうお思いになりません? 今もこんなことを申しますの。『あの人はあたしの幼馴染みよ、おまけに一番まじめなお友達よ。ところで、あたしは?………』あの子はこういうことにかけては、大変まじめな感情とそれから追憶をもっています。しかし、何より感心なのは、あの言葉なんですの。まことに思いがけないことを、ひょいひょいと言いだすじゃありませんか。たとえて申しますと、ついこの間も梅の木のことで、面白い話がございます。あの子のごく小さい時分、家の庭に一本の梅の木がありました。しかし、今でもやはりあるでしょう、してみると、何も過去の動詞なんか使うことはありませんでしたね。アレクセイさん、梅の木は人間と違いますから、長いあいだ変らないでいますわねえ。あの子の申しますに、『お母さん、あたしあの梅を夢のように覚えてるわ』つまり『うめをゆめのよう』にと言うのですけれど、あの子の言い方は少し違っていました。だって、何だかごちゃごちゃしていたもんですから。むろん、梅なんてばかばかしい言葉ですけれど、あの子はこのことで何か大へん奇抜なことを言って聞かせましたので。わたしどうしてもうまくお話ができませんの、それにもう忘れてしまいました。じゃ、さようなら、わたしもうすっかり頭がごちゃごちゃになって、気がちがいそうですの。ねえ、アレクセイさん、わたし今まで二度も気がちがいかかって、療治してもらったことがありますよ。それじゃ、リーズのところへ行って、あの子に元気をつけてやって下さいまし。あなたはいつも上手にして下さいますからね。リーズ」と夫人は戸口に近寄りながら叫んだ。「さあ、お前があんな失礼なことを申し上げたアレクセイさんを、わたしがお連れ申して来ましたよ。けれど、ちっとも怒ってはいらっしゃらないから安心おし。それどころか、かえってお前がそんなことを気にするのを、不思議がっていらっしゃるよ。」
「Merci, maman.(有難う、お母さん)おはいんなさい、アレクセイ・フョードロヴィッチ。」
 アリョーシャは入って行った。リーズはどうやら間の悪そうな目つきをしていたが、急にぱっと真っ赤になった。彼女は何か恥じているようなふうであったが、いつもこんな時の癖として、やたらに早口で、何の緑もないよそごとを言いだした。それはちょうど、今のところ、このよそごとのみに興味をいだいているかなんぞのようであった。
「お母さんがね、いま何を思い出したのか、あの二百ルーブリのことと……あなたがあの貧乏な将校のとこへお使いにいらしったことを、あたしにすっかり聞かしてくれましたの、それから、その将校が侮辱を受けたっていう恐ろしい話も、すっかり聞いてしまいましたわ。でね、お母さんの話は恐ろしくごたごたしてだけど……だって、お母さんは先ばかり急いでるんですもの……それでも、あたし聞いてるうちに泣いちゃったわ。どうだったの、あなたその金をお渡しなすって、そして今その気の毒な将校はどんなにしてて?………」
「そこなんですよ、金が渡されなかったのです、それには長い話があるんですが。」同様にアリョーシャのほうでも、金を渡さなかったのが何よりも気にかかる、というようなふうつきでこう答えた。そのくせ、彼がそっぽのほうばかり見ながら、やはり直接興味のない世間話をしようと努めているのは、リーズの目にもよくわかった。
 アリョーシャはテーブルに向って、座を占めながら、話にかかった。しかし、話し始めるやいなや、間の惡そうな様子がなくなったばかりか、リーズさえ真面目に耳を傾けさせたほどである。彼はまださきほどの強烈な感動と、異常な印象に支配諮れているので、上手に詳しく伝えることができた。
 彼は以前モスクワにいる頃から、まだ幼いリーズのところへやって来て、新しく自分の身に起ったことや、本で読んだことを話したり、少年の昔を追憶したりするの町好きであった。時とすると、二人で一緒に空想を逞しゅうして、いろんな小説を作ることもあったが、それは主として陽気で滑稽なものであった。で、いま二人は、二年前のモスクワ時代へ飛んで行ったような気持になった。リーズはひどく彼の物語に動かされた。アリョーシャが熱い同情をもって、彼女の眼前にイリューシャの姿を、描き出してみせたのである。不幸な二等大尉が金を踏みにじった一場を、詳細に物語り終った時、リーズは自分の感情を抑えかねたように、両手を拍って叫んだ。
「じゃ、あなたお金を渡さなかったのね、そうして、そのまま逃がしてしまったのね! ああ、どうしたらいいのでしょう、せめてその人のあとから駆け出して、追っかけてごらんになるとよかったのにねえ……」
「いいえ、リーズ、追っかけなかったほうがいいのですよ」と言ってアリョーシャはテーブルのそばを離れ、何か気にかかるようなふうつきで部屋を一廻りした。
「どうしていいの、何がいいの? だって、今その人たちは食べる物もなくって、死んでしまうじゃないの!」
「死んでしまやしません。なぜって、この二百ルーブリは、何といってもあの人だものものですからね。あの人はどうせ明日になれば受け取ってくれますよ。明日は必ず受け取ってくれますよ。」アリョーシャは考え深そうに歩みを運びつつこう言った。「ねえ、リーズ」と彼はふいに相手の前に立ちどまって言葉をつづけた。「僕はあのとき一つ失策をやりました。けれどもこの失策のおかげで、かえって都合がよくなったのです。」
「失策ってなあに? そして、なぜ都合がよくなったのでしょう?」
「ほかでもありませんが、あの人は非常に臆病で弱い性質なのです。もうすっかりいじめ抜かれた、しかも善良な人なんです。僕は今どういうわけであの人が急に憤慨して、金を踏みにじったのかしらんと、いろいろ考えてみましたが、それはつまり最後の一瞬まで、金を踏みにじったりしようとは自分でさえ夢にも考えていなかったからです。今になってわかりましたが、あの人はその時いろんなことに腹を立てたのです……あの人の立場にあっては、それよりほか仕方がないですからね……第一に、あの人は僕の目の前で、あまり金のことを悦んで見せた上に、それを隠そうとしなかったので、そのために腹を立てたのです。もし悦んだにしても、ああまで極端でなく、しかもそんなそぶりを見せないで、ほかの者と同じように気どった真似をして、顔をしかめながら受け取ったとすれば、それなら我慢して納めてくれたに相違ありません。ところが、実際はあまり正直すぎるほど悦んだものだから、それがいまいましかったのです。ああ、リーズ、あの人は本当に正直ないい人ですよ。こんな場合、腹が立つのはただこのこと一つなんです! あの人は話してる間じゅう、よわよわしい力のない声をして、おまけに恐ろしい早口なんです。そして、しじゅう小刻みにひひひと笑うかと思えば、またふいに泣きだすじゃありませんか……ええ、本当に泣きました、それほど有頂天になっていたのです……娘たちのことも話しました……ほかの町で周旋してもらえるとかいう勤め口のことも話しました……そうして、ほとんどすっかり胸の中を僕にひろげて見せてしまうと、さあ今度はその胸の中をひろげて見せたのが、急に恥しべなってきたのです。そのために、僕が憎らしくてたまらなくなったのです。つまり、あの人はむしょうに恥しがりな貧乏人の一人なんです。しかし、何よりおもな理由は、あの人があまり早く僕を親友あつかいにして、あまり早く僕に兜を脱いだからです。はじめしきりに僕に食ってかかって、脅し文句を並べていたものが、金を見るやいなや、僕を抱きしめようとするじゃありませんか。ええ、まったくです、あの人はしじゅう両手を伸ばして僕の体に触っていました。こんな工合だったものだから、必ず自分の屈辱を痛感したに違いありません。ところへ、ちょうどそのとき僕が失策をやったのです、非常に大きな失策をやったのです。僕だしぬけにこう言ったのです。もしほかの町へ行く旅費がたりなかったら、まだその上にもらうこともできるし、僕も自分の金の中からいくらでも上げます……すると、この言葉が突然あの人の胸にこたえたのです。なぜお前までがおれを助けに飛び出すのだ、というような気がしたのでしょう。ねえ、リース、貧乏な人というものは、あまり皆から恩人顔をされると、たまらなく厭なもんだそうですよ……それは僕も聞いたことがあります、長老さまがお話し下すったのです。僕どんなふうに言っていいかわからないけれど、自分でもよく見うけました。それに、自分でもそのとおりな感じがしますものね。しかし、何より一ばん大切なのはほかでもありません、あの人は最後の瞬間まで、紙幣を踏みにじろうなどとは夢にも思ってなかったのですが、それでも何となく予感していたに相違ありません、それはもう確かな話です。なぜって、あの人の悦び方があまり烈しいから、それを予感せずにはいられないほどでした……実際、いやなことになったように思われますが、それでもやはり、非常に都合よくいったのです。僕の考えでは、むしろこの上なく都合よくいったのです……」
「なぜ、なぜこの上なく都合よくいったんでしょう?」呆れかえったようにアリョーシャを見つめながら、リーズは叫んだ。
「それはこういうわけですよ、リーズ、もしあの人が金を踏みにじらないで持って帰ったら、家へ帰って一時間ばかりたった頃、自分の屈辱を思って泣くでしょう、そりゃ必ずそうあるべきです。そうして泣いた挙句、明日にも早速やって来て、――夜の明けないうちに僕のとこへ来て、さっきと同じようにあの紙幣を投げつけて、踏みにじったかもしれません。しかし、今あの人は『自分で自分を殺した』ってことを自覚してはいましょうが、とにかく非常に勝ち誇った気持で、揚々と引き上げたのです。だから、明日にもこの二百ルーブリを持って行って、無理に受け取らせるのは本当に楽なもんですよ。だって、もうあの人は金を投げつけて、踏みにじって、立派に自分の潔白を証明したんですもの……それに、あの人も金を踏みにじる時、まさか僕が明日もう一ど持って行こうなどとは、夢にも考えなかったでしょう。ところが、この金はあの人にとってはそれこそ本当に必要なんです。もちろん、今こそ非常な誇りを感じているでしょうが、それにしても、自分がどれだけの助力を失ったかってことを、今日にも考えずにはいられますまい。夜なぞはいよいよ一途にそのことを考えて、夢にまで見るに相違ありません。そして、明日の朝になったら、さっそく僕のところへ駆けつけて、詫び言でもしかねない気持になるでしょう。そこを徂って僕が入って行くのです。そして、『あなたは誇りの高い人です、あなたはもうご自分の潔白なことを証明なさいました。さあ、もう取っていただけましょう。私たちの悪かったことはお赦し下さい』と言ったふうに持ちかけたら、必ず取ってくれるに相違ありません!」
 アリョーシャは『必ず取ってくれるに相違ありません!』と言う時、まるで夢中になっているようであった。リーズは思わず手を鳴らした。
「ええ、まったくだわ、あたしいま急にすっかりわかってよ! 本当にアリョーシャ、どうしてあなたはそんなに何でも知ってらっしゃるんでしょうねえ? 年はお若くっても、人の心の中が何でもおわかりになるのねえ……あたしなんか、とてもそんなこと思いつけないわ……」
「いま何より肝心なのは、あの人はよし僕たちから金をもらっても、僕たちと対等の位置に立っているという自信を、あの人に吹き込むことなんです。」依然として夢中になったような調子で、アリョーシャは言葉をつづけた。「いや、対等どころじゃありません。一だん高いところにいると思わせるのです……」
「『一だん高いところ』ですって、うまいわねえ、アレクセイさん。だけど、かまわず話してちょうだい、話してちょうだい!」
「いや、一だん高いところ……というのは、少し僕の言い方がまずかったけど……しかし、そんなことは何でもありません、なぜって……」
「ええ、何でもありませんわ、むろん、何でもありませんわ! ごめんなさいよ、アリョーシャ、後生だから……あのね、あたし今まであなたを尊敬してなかったのよ……いいえ、尊敬してはいたんだけど、対等に尊敬してたのよ。だけど、だけど、今は一だん高く尊敬するわ……あら、怒らないでちょうだい、あたしちょっと警句を言っただけよ」と彼女はすぐに烈しい情《じょう》をこめて、自分で自分の言葉を抑えた。「あたしはこんなおかしな小娘なんですからね。だけど、あなたは、本当にあなたは!……ねえ、アレクセイさん、あたしたちの考えの中に、いえ、つまりあなたの考えの中に、いいわ、もういっそあたしたちのにしましょう……あの不仕合せな人を見下げたようなところはないかしら……だって、あの人の心をまるで高いところから見おろすような工合にして、いろいろ解剖したじゃなくって、え? 今あの人がきっとお金を受け取るに相違ないと、決めてしまったじゃないの、え?」
「いいえ、リーズ、ちっとも見下げたようなところはありません。」もうこの質問に対して準備があるようなしっかりした調子で、アリョーシャは答えた。「僕はここへ来る途中、もうそのことを考えました。まあ、思ってもごらんなさい、この場合、どうして見下げたようなところなんかあり得るでしょう。僕ら自身あの人と同じような人間じゃありませんか。世間の人はみんなあの人と同じような人間じゃありませんか。ええ、僕らだってあの人と同じことです、決して優れたところはありません。よしかりに優れたところがあるとしても、あの人の境遇に立ったら、あの大と同じようになってしまいます。僕はあなたのことはわかりませんが、僕自身はいろんな点で、浅薄な心をもっていると思います。ところが、あの人の心は決して浅薄などころじゃない、かえってとても優しいところがあります……いいえ、リーズ、あの人を見下げるなんてことは少しもありません! 実はね、リーズ、長老さまが一度こうおっしゃったことがあります、人間てものは子供のように、しじゅう気をつけて世話をしてやらなければならない。またあるものにいたっては、病院に寝ている患者のように看護してやる必要があるって……」
「まあ、アレクセイさん、偉いわね、一緒に病人の世話をするように人間の世話をしましょうよ!」
「ええ、しましょうね、リーズ、僕はいつでも悦んで。しかし、僕自身はどうも本当に準備がマきてないような気がします。時とすると恐ろしく気が短いし、時とするとものを見る目がないんですからね、けれどあなたは別です。」
「あら、そんなこと本当にしなくってよ! アレクセイさん、あたしなんて幸福なんでしょう!」
「あなたがそう言って下さるので、僕まったく嬉しいですよ、リーズ。」
「アレクセイさん、あなたは何ともいえない立派な方ね。だけど、どうかするとまるで衒学者《ペダント》みたいだわ……それでもよく見てると、決してペダントじゃないのね。ちょっと行って戸口を見てちょうだい……そっと開けてみてちょうだい、お母さんが立ち聞きしてやしなくって?」妙に神経的なせかせかした調子で、ふいにリーズはこう囁いた。
 アリョーシャは立って戸を開けてみた。そして、誰も立ち聞きしていないと報告した。
「こっちいいらっしゃいな、アレクセイさん。」次第に顔を赧らめながらリーズは語をついだ。
「お手を貸してちょうだい、ええ、そうよ、あのね、あたしあなたに大変なことを白状しなくちゃならないのよ。昨日の手紙は冗談じゃなくって、あたし真面目に書いたのよ……」
 と、彼女は片手で目を隠した。見受けたところ、これを白状するのが、恥しくてたまらなかったらしい。と、だしぬけに、彼女はアリョーシャの手を取って、慌しく三たび接吻した。
「ああ、リーズ、よくしてくれました」と彼は嬉しそうに叫んだ。「僕もあれが真面目だったことは、よく知ってたんです。」
「よく知ってたんですって、まあ、どうでしょう!」と彼女は自分の口から男の手を離したが、それでも握った手から放してしまおうともせず、恐ろしく報い顔をしながら、小刻みな仕合せらしい笑い声を立てるのであった。「あたしが手を接吻して上げれば、『よくした』なんて。」
 しかし、彼女の咎めだては不公平であった。なぜなら、アリョーシャもやはり、非常にどぎまぎしていたからである。
「僕はいつでも、あなたのお気に入りたいと思ってるんですけど、どんなにしていいかわからないんですもの。」同じように顔を報らめながら、彼はへどもどした調子で呟いた。
「アリョーシャ、あなたは冷淡な失礼な人よ、そうじゃなくって! 勝手にあたしを自分のお嫁さんに決めて、それで安心してるんですもの! あなたはあたしがあの手紙を真面目に書いたものと、信じきってらっしゃるじゃありませんか、まあ、どうでしょう! それは失礼というものよ、ええ、そうよ!」
「一たい僕が信じてたのは悪いことなんでしょうか!」と急にアリョーシャは笑いだした。
「嘘よ、アリョーシャ、それどころか、ほんとにいいことだわ」とリーズは仕合せらしい目つきで、優しく相手を眺めた。
 アリョーシャは相変らず自分の手の中に、彼女の手をとったままじっと立っていたが、とつぜん屈みかかってその唇の真ん中へ接吻した。
「これはまたどうしたの? 一たいあなたどうなすったの?」とリーズは叫んだ。
 アリョーシャはすっかりまごついてしまった。
「もし間違ったことだったらごめんなさい……僕はもしかしたら、ひどく馬鹿げたことをしたかもしれません……あなたが僕を冷淡だなんておっしゃるもんだから、僕つい接吻してしまったんです……しかし、本当にやってみると、妙な工合になったようですね……」
 リーズはいきなり噴きだして、両手で顔を隠してしまった。
「おまけに、そんな着物で……」という声が笑いの間から洩れて聞えた。
 が、急に彼女は笑いやめて、すっかり真面目な、というよりむしろ、いかつい顔つきになった。
「ねえ、アリョーシャ、あたしたち接吻はまだまだ控えなくちゃならないわ。だって、あたしたちまだそんなことできないんですもの。あたしたちはまだまだ長いこと待たなくちゃなりませんわ」と彼女は急にこう言って括りをつけた。
「それよか、あたしの訊きたいのはね、どういうわけであなたはこんな馬鹿を、病身なばか娘をお選みなすったの? あなたみたいな賢い、考え深い、何でも気のつく方が、どうしてわたしなんかを……ああ、アリョーシャ、あたし本当に嬉しいわ。だって、あたしあなたに愛していただく値うちなんか一つもないんですもの!」
「ところが、ありますよ、リース。僕は二三日のうちに断然お寺を出てしまいます。一たん世の中へ出た以上、結婚しなくちゃなりません、それは自分でよくわかっています。それに長老さまもそうしろとお言いつけになったのです。ところで、あなたより以上の妻を娶ることもできなければ、またあなたよりほかに僕を選んでくれる人もありません。僕はもうこのことをよく考えたのです。第一に、あなたは僕を小さい時分から知っています。また第二に、あなたは僕の持っていない多くの能力を持っています。あなたの心は僕の心より快活です。第一、あなたは僕よりはるかに無垢です。僕はもういろんなものに触れました、いろんなものに……だって、僕もやはりカラマーゾフですもの、あなたにはそれがわかりませんか! あなたが笑ったりふざけたりするくらい何でしょう……僕のことにしてもね……それどころか、かえって笑って下さい、ふざけて下さい。僕はそのほうが嬉しいくらいです……あなたは、うわべこそ小さな女の子のように笑っているけれども、心のなかでは殉教者のような考え方をしているんですもの……」
「殉教者のようですって? それはどういうわけ?」
「そりゃね、リーズ、さっきあなたはこんなことを訊いたでしょう、――僕らがあの不仕合せな人の心をあんなふうに解剖するのは、つまりあの人を見下げることになりはしないか、って。この質問が殉教者的なのです……僕はどうもうまく言い現わせないけど、こんな質問の浮んでくるような人は、みずから苦しむことのできる人です。あなたは安楽椅子に坐っているうちに、いろんなことを考え抜いたにちがいありません……」
「アリョーシャ、手を貸してちょうだい、どうしてそんなに引っ込めるの?」嬉しさのあまり力抜けのしたようなよわよわしい声で、リースはこう言った。「それはそうと、アリョーシャ、あなたはお寺を出た時どんなものを着るつもり、どんな着物を? 笑っちゃいや、怒らないでちょうだい、これはあたしにとって、それはそれは大事なことなんですもの。」
「僕、着物のことまで考えなかったけれど、あなたの好きなのを着ますよ。」
「あたしはね、鼠がかった青いビロードの背広に、白いビケのチョッキを着て、鼠色をした柔かい毛の帽子を被ってほしいの……それはそうと、さっきあたしがあなたは嫌いだ、昨日の手紙は嘘だって言った時、あなたはあたしの言ったことを本当にして?」
「いいえ、本当にしなかった。」
「ああ、なんてたまらない厭な人だろう、どうしても癖がなおらないのねえ!」
「実はね、あなたが僕を……その……愛してらっしゃるようだ……と思ったけれど、あなたが嫌いだとおっしゃるのを、本当にしたようなふりをしてたんです。だって、そのほうがあなたに……都合がいいから………」
「あら、なお悪いわ! 悪くってそして一等いいのよ、アリョーシャ。あたしあなたが好きでたまらないわ。さっきあなたがいらっしやる時、判じ物をしたのよ。あたしが昨日の手紙を返して下さいと言って、もしあなたが平気でそれを出して渡したら(それはあなたとして、まったくありそうなことなんですもの)、つまり、あなたはわたしを愛してもいなければ、何とも思っていないことになる。つまり、あなたは馬鹿なつまらない小僧っ子で……そしてあたしの一生は滅びてしまうと思ったの、――ところが、あなたは手紙を庵室へおいてらしたので、あたし、すっかり元気がついたのよ、だって、あなたは返してくれと言われるのを感づいて、あたしに渡さないように、庵室へおいてらしたんでしょう? そうでしょう?」
「おお、ところが、そうでないんですよ、リーズ。だって、手紙は今もちゃんと持ってるんです、さっきもやはり持ってたのです。ほら、このかくしに、ね。」
 アリョーシャは笑いながら手紙を取り出して、遠くのほうから彼女に見せた。
「ただし、あなたに渡さないから、そこからごらん。」
「え? じゃ、あなたさっき嘘ついたのね。あなたは坊さんのくせに嘘ついたのね!」
「あるいはそうかもしれません」とアリョーシャも笑って、「あなたに手紙を渡すまいと思って、蝮をついたのです。これは僕にとって、非常に大切なものですからね。」突然つよい情をこめてこう言いたすと、彼はまた赧くなった。
「これは一生涯だれにも渡しゃしません!」
 リーズは有頂天になって彼を見つめていた。
「アリョーシャ」と彼女はふたたび囁いた。「ちょっと戸口を覗いてみてちょうだい、お母さんが立ち聞きしてやしなくって?」
「よろしい、見て上げましょう。しかし、見ないほうがよくないでしょうか、え? なぜそんな卑しいことでお母さんを疑うのです!」
「なぜ卑しいことなの? どんな卑しいこと? お母さんが娘のことを心配して立ち聞きするのは、お母さんの権利だわ、ちっとも卑しいことじゃなくってよ」とリーズは真っ赤になった。
「前もってお断わりしておきますがね、アレクセイさん、あたしが自分でお母さんになって、あたしみたいな娘を持ったら、あたしぜひ娘の話を立ち聞きするわ。」
「本当ですか、リーズ? そりゃいけませんよ。」
「まあ、どうしましょう! 何も卑しいことなんかありゃしないわ! これが世間なみのお話を立ち聞きするんだったら、そりゃ卑しいことに相違ないでしょうが、現在生みの娘が若い男と一間に閉じ箚るなんて……ねえ、アリョーシャ、よござんすか、あたしは結婚したらすぐ、こっそりあなたを監督してよ。そればかりか、あなたの手紙をみんな開封して、すっかり読んでしまうわ……それは前もってご承知を願います……」
「それはむろんです、もしそういうことなら……」とアリョーシャは口の中で呟くように言った。「けれど、よくないようだがなあ……」
「まあ、なんて見下げようでしょう! アリョーシャ、後生だから、のっけから喧嘩するのはよしましょうよ、――あたしいっそ本当のことを言っちまうわ、そりゃもちろん、立ち聞きするなんてよくないことだわ、そりゃもちろんあたしが悪くって、あなたのおっしゃることが本当よ。だけど、あたしそれでもやっぱり立ち聞きするわ。」
「なさいとも。しかし、僕には何もそんなうしろ暗いことがありませんからね」とアリョーシャは笑いだした。
「アリョーシャ、あなたわたしに従うつもりなの? これも前にちゃんと決めとかなくちゃ。」
「ええ、悦んで、ぜひともね。だけど、根本の問題は別ですよ。根本の問題については、もしあなたが僕に一致しなくっても、僕は義務の命ずるとおりに行うから。」
「それはそうなくちゃならないわ。ところでね、あたしはその反対に根本の問題についても、あなたに服従するのは言うまでもなく、万事につけてあなたに譲歩するつもりなのよ。このことは今あなたに誓ってもいいわ、――ええ、万事につけて、一生涯」とリースは熱情をこめて叫んだ。「あたしそれを幸福に思うわ! 幸福に思うわ! そればかりでなく、あたし誓って言うけど、決してあなたの話を立ち聞きなんかしません、一度だってそんなことをしません。そして、あなたの手紙を一通だって読みゃしません。だって、あなたはどこまでも正しい人だ。のに、あたしはそうでないんですもの。もっとも、あたしは恐ろしく立ち聞きがしたいんだけど(それは自分にわかっています)、それでもやはりしませんわ。だって、あなたが卑しいことだっておっしゃるんですもの。あなたは今、いわばあたしの神様みたいな人よ……それはそうと、アリョーシャ、どうしてあなたはこの二三日、――昨日も今日も浮かない顔をしてらっしゃるの。あなたにいろんな心配があるのは知ってるけど、そのほかに何か、特別な悲しみがあるように見えてよ、――ひょっとしたろ、秘密な悲しみかもしれないわ、ね?」
「そうです、リーズ、秘密な悲しみです」とアリョーシャは沈んだ調子で言った。「あなたがそれに気がついたところを見ると、やはり僕を愛してるんですね。」
「一たいどんな悲しみなの? 何を案じてるの? 話してもよくって?」とリースは臆病な哀願の色を浮べながら言った。
「あとで言いましょう、リーズ――あとで……」とアリョーシャは当惑した。「それに、今はよくわからないでしょう。僕自身もうまく話せないだろうと思います。」
「あたしわかってよ、そのほかに兄さんや、お父さんがあなたを苦しめるんでしょう?」
「ええ、兄さんたちもね」とアリョーシャはもの思わしげに言った。
「あたしあなたの兄さんのイヴァン・フョードルイチが嫌いよ」とだしぬけにリーズが言った。アリョーシャは多少の驚きをもってこの言葉に注意した。けれども、何の意味やらわからなかった。
「兄さんたちは自分で自分を滅ぼしているのです」と彼は言葉をついだ。「お父さんもそうです。そして、ほかの人までも、自分と一緒に巻き添えにしてるのです。先だってパイーシイ主教も言われたことですが、その中には大地のようなカラマーゾフ的の力が働いているのです、――それは大地のように兇暴な、生地のままの力です……この力の上に神の精霊が働いてるかどうか、それさえもわからないくらいです。わかっているのは、僕もカラマーゾフだ、ということばかりです……僕は坊さんかしら、坊さんだろうか? リーズ、僕は坊さんでしょうか! あなたは今さきそう言ったでしょう、僕が坊さんだって?」
「ええ、言ったわ。」
「ところが、僕は神を信じてないかもしれないんですよ。」
「あなたが信じてないんですって? まあ、あなた何をおっしゃるの?」リーズは低い声で用心深そうにこう言った。しかし、アリョーシャはそれに答えなかった。このあまりに思いがけない彼の言葉には、何か神秘的な、あまり主観的なあるものがあった。これは彼自身にもはっきりわからないながらも、すでに前から彼を苦しめていることは疑う余地もなかった。
「ところが、今その上に、僕の大切な友達が行ってしまおうとしているのです。世界の第一人者がこの土を見捨てようとしているのです。僕がどんなにこの人と精神的に結び合されてるか、それがあなたにわかったらなあ! それがあなたにわかったらなあ! それだのに、いま僕はたったひとり取り残されようとしているのです……僕はあなたのとこへ来ますよ、リーズ。これからさき一緒にいましょうね……」
「ええ、一緒にね、一緒にね! これからは一生涯いつも一緒にいましょうね。ちょっと、あたしを接吻してちょうだい、あたし許すわ。」
 アリョーシャは彼女を接吻した。
「さあ、もういらっしゃい、ご機嫌よう! (と彼女は十字を切った。)早く生きてるうちにあの人[#「あの人」に傍点]のところへいらっしゃい。あたしすっかりあなたを引き止めてしまったわね、あたし今日あの大とあなたのためにお祈りするわ。アリョーシャ、あたしたちは幸福でいましょうね? ね、幸福になれるでしょうね?」
「なれるでしょう、リース。」
 リースの部屋を出たアリョーシャは、母夫人のもとへ寄るのを得策と思わなかったので、夫人に別れを告げないで家を出ようとした。しかし、戸を開けて階段口へ出るやいなや、どこから来たのか当のホフラコーヴァ夫人が、目の前に控えていた。
最初の一言を聞くと同時に、アリョーシャは彼女がわざとここで待ち受けていたのだと悟った。
「アレクセイさん、なんて恐ろしいことでしょう。あれは子供らしい馬鹿げたことです、無意味なことです、あなたはつまらないことを空想なさらないだろうと思って、わたしそれを当てにしていますの……馬鹿げたことです、馬鹿げたことです、まったく馬鹿げたことです!」と夫人は彼に食ってかかった。
「ただね、お願いですから、あのひとにそんなことを言わないで下さい」とアリョーシャは言った。「でないと、またあのひとが興奮するでしょう。ところで、今あのひとの体には、それが何より悪いのですから。」
「分別のある若いお方の分別のあるご意見、確かに承知しました。あなたが今あの子の言葉に同意なすったのも、たぶん、あの子の病的な体の工合に同情して下すったため、さからいだてしてあの子をいらいらさせまい、とお思いになったからでしょうね、そう解釈してよろしゅうございますね?」
「いいえ、違います、まるっきり違います。僕は全然まじめにあのひとと話したのです」とアリョーシャはきっぱり言い切った。
「こんな場合、まじめな話なんてあり得ないことです、考え得られないことです。第一に、わたしはこれから決してあなたを家へ入れませんし、第二に、わたしはあの子を連れてこの町を発ってしまいますから、それをご承知ねかいます。」
「なぜですか、一たい」とアリョーシャは言った。「だって、あの話はまだ先のことですよ、まだ一年半から待だなくちゃならないんですもの。」