京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P102-105   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦45日目]

はともあれ、自分を侮辱しようなんて気は起すはずがない、こう彼は固く信じていた。彼は世界じゅうで誰ひとり自分を侮辱しようとするものはない、いな、単にないばかりでなく、できないのだと信じきっていた。これは彼が何らの推理をも要せずに、とうからきめている公理であった。この意味において、彼は何の動揺もなく、確固たる足どりで前進する人であった。
 しかし、このとき彼の心中に、ぜんぜん種類の異った杞憂の念が、かすかに動いていた。しかも、自分でそれをはっきりと摑まえることができないので、余計アリョーシャには苦しく感じられた。それは女性に対する恐怖であった。つまりさきほどホフラコーヴァ夫人の手渡した書面の中で、何かしら話があるからぜひ来てくれと、一生懸命に嘆願している、かのカチェリーナ・イヴァーノヴナに対する恐怖であった。この要求と、それについてぜひ行かねばならぬと思う心とは、彼の胸に何か妙に悩ましい感じを宿らした。そして、見苦しくも恥しいさまざまな出来事が、僧院内で相次いで起ったにもかかわらず、この感じは午前中を通じて、次第次第に悩ましいものとなっていった。
 彼が恐れたのは、カチェリーナが何を言いだすか、またそれに対してこちらから何と答えていいか、そんなことがわからないためではない。また全体に女として彼女を恐れたわけでもない。もちろん、彼はあまり女というものを知らないが、しかし、何といっても幼い時から僧院生活に入るすぐ前まで、ずうっと女の中ばかりで暮しているのだ。彼が恐れたのは、この女である、カチェリーナという女である。初めて会った時からして、彼はこの女が恐ろしかった。もっとも、この女に会ったのは、僅か一度か二度、多くて三度くらいなものである。しかし、一度何かの拍子で、二こと三こと言葉を交えたこともあった。彼女の姿は、美しく傲慢な権高い令嬢として彼の記憶に残っている。しかし、彼の心を苦しめたのはその美貌ではなく、何か別なものである。こんなふうに自分の恐怖の原因をきわめることができないために、恐怖はなお一そう彼の心中に募ってゆくのであった。この令嬢の目的は高潔なものに相違ない、それは彼も承知していた。彼女は、自分に対して罪を犯した兄ドミートリイを救おうと、一生懸命になっているのだ、しかもそれはただ寛大な心から出たことにすぎない。ところが、今これを見抜いた上に、こうした寛大な心持に尊敬を払いながらも、彼は、女の家へ近づくにつれて、背筋を寒けが走るように感じた。
 彼の想像したところでは、カチェリーナと非常に親しくしている兄イヴァンは、いま彼女の家に来ていないで父と一緒にいるらしかった。ドミートリイがいないことは、なおなお確かなのである。なぜか彼にはこう感じられた。こういうわけで、自分とカチェリーナとの会見は、さし向いで行われることになる。しかし、彼はこの気味のわるい会見にさきだって、兄ドミートリイのところへ駆けつけ、ちょっと会って来たくてたまらなかった。そうすればこの手紙を見せないで、何かちょっと打ち合わしておくこともできる。しかし、兄ドミートリイの住居はだいぶ遠い上に、今はたしか留守らしく思われた。一分間ほど、一ところにじっと立っていたが、ついに彼は断然こころを决した。馴れた忙しそうな手つきで十字を切ってから、すぐ何かにほお笑みかけながら、彼は自分にとって恐ろしい婦人のもとをさして、しっかりした足どりで歩きだした。
 彼女の家はよくわかっていた。しかし、大通りへ出てから広場を越えたりなどしたら、かなり遠くなってしまう。この町は小さいくせに家がとびとびに建っているので、端から端までは大分の距離になる。それに、父親も彼を待っている。ことによったら、まだ例の言いつけを忘れないで、またまた気まぐれを出さぬともかぎらない。それゆえ、あっちへもこっちへも間に合うように急がなくてはならぬ。かれこれ思いめぐらしたすえに、彼は裏道を通って道のりを縮めようと決心した。彼は町うちのこうした抜け道を五本の指のごとく承知していた。裏道というのは荒れた垣根に沿うて、ほとんど道のないところを通るので、どうかすると、よその編垣を踏み越したり、よその庭を抜けたりしなければならぬ。もっとも、よそといったところでみんな彼の知った家で、出会った人が一々挨拶の言葉をかけるぐらいであった。こういう道を通ると、大通りへ出るのが半分道から近くなる。
 一ところ、父の家のすぐそばを通り過ぎなければならなかった。それは父の庭と境を接した隣りの庭のそばであった。この庭は窓の四つついた、歪み古ぼけた小屋に付属していた。小屋の持主は娘と二人暮しの足なえの老婆で、この町の町人だということを、アリョーシャも知っていた。娘はかつて都で小間使をして、ついこの間まで将軍家などで暮していたが、一年ばかりまえ老母の病気のために帰郷して、はでな着物をひけらかしていた。けれど、この老婆と娘はひどい貧乏になって、隣家のよしみでカラマーゾフ家の台所へ、スープやパンをもらいに来るほどになった。マルファは悦んで二人に分けてやった。ところが、娘はスープの無心をするくせに、自分の着物は一枚も売らなかった。しかも。その中の一つにはやたらに長い尻尾さえついていた。このことはアリョーシャも知っていたが、それはむろん偶然に、町のことなら何一つ知らぬことのないラキーチンから聞いたのである。しかし、聞くとすぐまた忘れてしまった。けれど、いま隣家の庭のそばへ来たとき、ふとこの尻尾のことを思い出して、もの思いに沈んでうなだれていた頭を急に振り上げた……と、実に思いもよらぬ人に出くわしたのである。
 編垣の向うの隣家の庭に兄ドミートリイが、何やら踏台をして胸の辺まで乗り出しながら、一生懸命に合図をして、彼を小手招いているのであった。ドミートリイは人に聞かれやしないかと、叫び声を出すどころか、一ことも口に出すのを忘れているらしかった。アリョーシャは、すぐ編垣のそばへ駆け寄った。
「まあ、お前が振り向いてくれてよかったよ。でないと、おれは危く呶鳴るところだった」とドミートリイは嬉しそうにせかせかと嘶いた。「こっちへ越して来い! さあ、早く! ああ、お前が来てくれて本当によかったよ。おれはたった今お前のことを考えてたところなんだ……」
 アリョーシャは自分でも嬉しかったが、ただどうして編垣を越そうかと惑っていた。しかし、『ミーチャ』は古武士のような手で彼の肘を抑え、弟が飛び越すのを手伝った。アリョーシャは法衣の裾をからげて、町の跣小僧のように、はしっこい身振りでひょいと飛び越した。「さあ、行こう!」勝ち誇ったような囁きがミーチャの喉を洩れた。
「どこへ?」アリョーシャはあたりを見廻したが、自分の立っているのがまるっきりがらんとした庭で、二人のほか誰もいないのを見て、こう囁いた。それはちっぽけな庭であったが、それでも老婆の小屋までは五十歩以上あった。「ここには誰もいないのに、どうしてそんな小さな声をするんです?」
「どうして小さな声をするって? あっ、なんて馬鹿な!」ドミートリイはとつぜん声を一ぱいに張って叫んだ。「本当におれは何だって小さな声をしてるんだろう? 今お前が自分で見たとおりだ、人間の性質というやつは、ふいとわけのわからないことをしでかすもんだなあ、おれはここで秘密に坐って、人の秘密を見張ってるんだ。そのわけはあとで話すが、秘密秘密と思ってるもんだから、急に口をきくのまで秘密にしちゃって、何の必要もないのに、馬鹿みたいに小さな声をしてたのさ。さあ、行こう! ほら、あそこだ! それまで黙っててくれ。おれはお前を接吻したいんだ!

  世界の中なる神に栄《はえ》あれ
  われの中なる神に栄あれ……

 こいつをおれはたった今お前の来るまで、ここに坐って繰り返してたのさ……」
 庭は一町歩か、あるいはそれより少々広いくらいの大きさであったが、林檎、楓、菩提樹、白樺などの木は四方の垣根に沿うて、ぐるりとまわりに植えてあるだけで、まん中はがら空きになっていた。ここはささやかな草場になっていて、夏になると幾フードかの乾草が刈り取られるのであった。老婆は春になるとこの庭を幾ルーブリかで賃貸していた。ほかにまだ各種の木苺畑があったが、これもやはり垣根のそばにあった。家のすぐそばには野菜畑もあったが、これは近ごろ起されたばかりである。
 ドミートリイは、母屋から最も遠い庭の片隅へ客を案内した。そこには菩提樹の茂みや、すぐり、接骨木《にわとこ》、木苺、ライラックなどの薮陰から、忽然として古ぼけた緑いろの四阿《あずまや》の崩れ残りのようなものが現われた。もう全体に歪みくねって黒ずんで、壁は骨組みを露出していたけれど、ちゃんと屋根がついていて、雨をしのぐこともできる。この四阿はいつごろ建てられたものかわからないが、言い伝えによると、当時の家の持主で、フォン・シュミットとかいう退職中佐が、五十年ばかり前に建てたものらしい。しかし、もうすっかりぼろぼろになって、床は腐り、床板はすっかりがたついて、材木からは湿っぽい匂いがしている。まん中には緑いろの木造のテーブルが掘っ立てになって、そのまわりには同じく緑いろのベンチが並んでおり、その上にはまだ腰をかけることができた。アリョーシャはすぐ兄の高潮した心の状態に気がついた。四阿へはいると、テーブルの上にコニヤクの小堰と、杯が置いてあるのが目に映った。
「これはコニヤクだ!」とミーチャは、からからと笑った。「お前はもう『また酔っ払ってるな』というような目つきをしてるが、幻に迷わされちゃいかん。

  空しくも偽り多き世の人を信ずることなく
  われとわが疑いを忘れはつべし……

 おれは酔っ払ってるんじゃない、ただ、『味わってる』のだ。これは、あのラキーチンの豚野郎の言い草だよ。あいつはそのうちに五等官になって、いつまでも『味わう』式の言い方をするだろうよ。まあ、坐れ、アリョーシャ、おれはお前を抱いて、つぶれるほどこの胸へしめつけてやりたい。なぜって世界じゅうに……本当の意味で……(いいか! いいかい!)ほーんとーの意味で……おれが愛している人間は、お前一人っきりだからなあ!」
 この最後の一句を発した時、彼は前後を忘れるほど興奮していた。
「お前一人っきりだ、が、もう一人ある、『卑しい女』に惚れ込んだのだ。そのためにおれは破滅しちゃったのだ。しかし、惚れ込むというのは愛することじゃない。惚れるのは憎みながらでもできる。覚えとけよ! まあ今のうちしばらく陽気な話しっぷりをするぜ! まあ坐れ、このテーブルの前によ、おれはこう横のほうから坐って、お前の顔を見ながらすっかり話しちゃうから。お前は黙ってるんだぞ、おれがすっかり話しちゃうから。なぜって、もう時機が到来したんだからなあ。もっとも、おれば本当に小さな声で話さなきゃならん、と考えたんだよ。だって、ここは……ここは……どんなことで意外な聞き手が出て来ないともかぎらんからなあ。よし、すっかり話して聞かせよう。いわゆる、あとは次回のお楽しみかね。一たいどういうわけでおれはこの四五日、いや、現に今もお前を待ち焦れてたんだろう?(おれがここへ錨をおろしてからもう五日目だ。)この四五日、本当に待ち焦がれてたんだよ。ほかでもない、お前一人だけに話したかったからだ。なぜって、そうしなくちゃならないからよ。お前という人間が必要だからよ、なぜって、明日にも雲の上から飛びおりるからよ、明日にもおれの生活が終ると同時に、また新しく始まるからだよ。お前は山のてっぺんから穴ん中へ落ちるような気持を経験したことがあるか、夢にでも見たことがあるか? ところがおれは今、夢でなく本当に落ちてるんだ。しかし、おれは恐れやしない、お前も恐れないがいい。いや、実は恐ろしいけれど、いい気持なんだ。いや、いい気持どころじゃない、有頂天なのだ……ああ、畜生、どっちだって同じこった。強い心、弱い心、女々しい心、ええ、どうだってかまやしない! ああ、自然は讃美すべきかなだ。ごらん、日の光はなんて豊かなんだろう。空は澄み渡って、木の葉はみんな青々として、まだすっかり夏景色だ、いま午後三時すぎ、静寂! お前、どこへ行ってたい?」
「お父さんのところへ。しかし、初めカチェリーナ・イヴァーノヴナのところへ行こうと思ってました。」
「あのひとのところと、それから親父のところへ? ふむ! 何という暗合だろう! 一たいおれがお前を呼んだのは何のためだと思う、お前に会いたいと思って待ち焦れていたのは何のためだと思う、おれの心の襞の一つ一つに、憧憬の念を籠めたのは何のためだと思う? ほかでもない、お前をおれの代理として最初おやじのところへ、それからあのひとのところへ使いにやって、それでもって両方の片をつけようと思ったのさ。天使をやりたかったのさ。おれは誰を使いにやってもよかったんだが、どうしても、天使でなくちゃならなかったんだ。ところ