京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P142-145   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦55日目]

 老人はその目の光にびくっとした。しかし、その時、ほんの一瞬間ではあったけれども、きわめて奇怪な錯誤が生じたのである。その際老人の頭から、アリョーシャの母はすなわちイヴァンの母である、という想念が脱け出してしまったらしい。
「お前の母親がどうだと?」と彼は何か何やらわからずに呟いた。「何でお前はそんなことを言うのだ? どんな母親のことを言うのだな……一たいあれが……やっ、こん畜生! そうだとも、あれはお前の母親さな! ちぇっ、畜生! いや、ちょっと頭がぼうとしたもんだから……こんなことは今までないことだよ、こらえてくれ。わしはちょっとその……へへへ!」
 彼はふいと口をつぐんだ。なかば意味のない、引き伸ばしたような、生酔いらしい薄笑いがその顔の相好をくずした。が、突然この瞬間、玄関で恐ろしい物音がとどろき渡って、獰猛な叫び声が聞えだと思うと、戸がさっと開いて、広間の中ヘドミートリイが飛び込んだのである。老人は慴えあかって、イヴァンのそばへ駆け寄った。
「殺される、殺される! わしを見殺しにしてくれるな、見殺しに!」イヴァンのフロックの裾にしがみつきながら、彼はこう叫ぶのであった。

   第九 淫蕩なる人々

 ドミートリイのすぐ後からグリゴーリイも、スメルジャコフとともに広間へ駆け込んだ。その前、二人は玄関でも彼を通すまいとして争った(それはもう三四日前から授けられている、フョードルの内命によったのである)。ドミートリイが部屋の中へ飛び込んで、ちょっとのま立ちどまったのにつけこんで、グリゴーリイはテーブルを迂回して、奥の方へ通ずる観音開きになった扉をはたと閉めた。そして、最後の血の一滴までこの入口を防いで見せるぞといった身構えで、両足を踏みひろげながら、閉めきった戸の前に立ちふさがった。これを見たドミートリイは叫ぶというよりも、むしろ妙に甲走つだ声をたてて、グリゴーリイに跳びかかった。
「じゃ、あれはそこにいるんだ! あれをそこへ隠してるんだ! どけ、こん畜生!」
 と、彼はグリゴーリイを引き退けようとしたが、こちらは彼を突き飛ばした。忿怒のあまりわれを忘れた彼は、高く手をふり上げて、力まかせに老僕を殴りつけた。と、老僕は足をすくわれたようにどっと倒れた。彼はそれを飛び越して戸の中へ駆け込んだ。スメルジャコフは広間の向うの隅に立っていたが、真っ蒼になって慄えながら、一生懸命にフョードルの方へ摺り寄っていた。
「あれはここにいるんだ!」とドミートリイは叫んだ。「この家の方へ曲ったのを、おれは自分でちゃんと見た、ただ追っつくことができなかっただけなんだ。あれはどこにいる? あれはどこにいる?
 この『あれはここにいる!』という叫びは、フョードルに非常な印象を与えた。あれほどの恐怖もどこへやらけし飛んでしまった。
「捕まえろ、あいつを捕まえろ!」と呶鳴って、彼はドミートリイの後から駆け出した。
 老僕はその間に床から起きあがったが、まだ人心地がつかないふうであった。イヴァンとアリョーシャは父のあとを追ってる音がした。それは大理石の台にのったガラスの大花瓶(大して高価なものではない)であった。ドミートリイがそばを駆け抜ける時、ちょっと触ったのである。
「おーい!」とフョードルは金切り声を立てた。「誰か来てくれい!」
 イヴァンとアリョーシャは、やっと老人に追いついて、無理やりに広間へ引き戻した。
「何だって兄貴の後を追っかけるんです! 本当に殺されるじゃありませんか!」と、イヴァンは腹立たしげに父を呶鳴りつけた。
「ヴァーネチカ・リョーシェチカ、あれはここにおるぞ。グルーシェンカはここにおるぞ。あいつが自分で見たと言うた。」
 彼は息がつまってものが言えなかった。今日グルーシェッカが来ようとは思っていなかったので、あれがここにいるという意外な報知は、一時に彼を気ちがいのようにしてしまったのである。彼は腑抜けになったようにぶるぶる慄えていた。
「だって、あれが来なかったのは、ご自分でも見て知ってらっしやるじゃありませんか!」とイヴァンが叫んだ。
「しかし、こっちの口から入ったかもしれん。」
「こっちの口は閉っていますよ、現にあなたが鍵を持ってらっしゃるくせに……」
 ドミートリイは突然、ふたたび広間に現われた。もちろん、彼は裏のほうの入口が閉っているのを見いだした。そして実際、鍵はフョードルのかくしに入っているのであった。部屋部屋の窓もやはりすっかり閉め切ってある。つまり、どこからもグルーシェンカが入って来るはずもなければ、どこからも逃げ出すところはなかった。
「あいつを捕まえろ!」ふたたびドミートリイの姿を見るが早いか、フョードルは金切り声を立て始めた。「あいつはわしの寝室で金を盗んだ!」
 と言うなり、イヴァンの手をもぎ放して、彼はまたしてもドミートリイに飛びかかった。こちらは両手を振り上げると、いきなり老人の鬢に残っているまばらな毛をひっ摑んで、轟然たる物音とともに床へ引き倒した。そして、倒れている父親の顔をなおも二つ三つ、靴の踵ですばやく蹴飛ばしたのである。老人は帛《きぬ》を裂くような声で悲鳴を上げた。イヴァンは兄ほど腕力はないけれど、両手で彼を抱え込んで無理やりに父親からもぎ放した。アリョーシャもおぽつかない力を絞って、前から兄に抱きつきながら、同じように加勢をするのであった。
「気がちがったんですか、殺してしまうじゃありませんか!」とイヴァンは呶鳴った。
「それがこんなやつには相当してらあ!」せいせい息を切らしながらドミートリイは叫んだ。「もし死ななかったら、また殺しに来てやる。のがれっこないんだ。」
「兄さん! 今すぐここを出てって下さい!」とアリョーシャは威をおびた声で叫んだ。
「アリョーシャ! お前どうか教えてくれ、お前一人だけを信用するから。今あの女がここへ来たか来なかったか? 今あの女が横町から出て編垣のそばを通り抜けて、この方角へすべり込んだのを、おれが自分でちゃんと見たんだ。おれが声をかけたら、逃げ出しちゃったんだ……」
「誓って言いますよ。あのひとはここへ来やしません。それに、誰一人あのひとが来ようなどとは思っていなかったのです!」
「でも、おれはあの女をちゃんと見たんだがなあ……してみると、あれは……よし、すぐにあれがどこにいるか探り出してやる……あばよ、アリョーシャ! もうこうなったら、このイソップ爺に金のことなんか一ことも言っちゃならんぞ。しかし、カチェリーナ・イヴァーノヴナのところへは、これからすぐに行って、ぜひとも『よろしく申しました』と言ってくれ! いいか、よろしくよろしくと言うんだぞ! そして、今日あったことを詳しくあのひとに話してくれ。」
 その間に、イヴァンとグリゴーリイは老人を助け起して、肘椅子へ坐らした。その顔は血みどろになっていたが、気分はしっかりしたもので、貪るようにドミートリイの叫び声に耳を傾けていた。彼は本当にグルーシェンカが、どこか家の中にいるような気がしてならなかったのである。ドミートリイは出しなに、さもにくにくしげな目つきをして彼を睨んだ。
「おれは貴様の血を流したからって。決して後悔しないぞ!」と彼は叫んだ。「用心しろ、じじい、せいぜい自分の空想を大切にするがいい、おれだってやはり空想を持ってるんだからな! 貴様なんかおれの方から呪ってやる、すっかり縁を切ってしまうんだ……」
 彼は部屋を駆け出した。
「あれはここにおる、確かにここにある! スメルジャコフ、スメルジャコフ」と老人は指で下男をさし招きながら、しゃがれた声で聞えないくらいにこう言った。
「あれがここにいるもんですか、ばかばかしい、わけのわからない爺さんだなあ」とイヴァンは毒々しく呶鳴りつけた。「やっ、気絶した! 早く水を、タオルを! 早くしろ、スメルジャコフ!」
 下男は水を取りに駆け出した。とうとう老人は寝室へ運ばれ。寝台の上に臥かされた。人々は濡れ手拭で頭を巻いてやった。コニヤクの酔いと、心の激蔵と、打撲の痛みのために弱りはてた老人は、頭が枕にふれるが早いか、すぐさま目をつり上げて人事不省に落ちてしまった。イヴァンとアリョーシャは広間へ帰った。スメルジャコフはこわれた花瓶のかけらを運び出しでいた。グリコーリイは沈んだ様子で目を伏せながら、じっとテーブルのそばに立っていた。
「お前も頭を冷やしたほうがいいのじゃないか、やはり寝床へ入ってふせったらどうだね」と、アリョーシャは老僕に向って言った。「僕ら二人ここにいて、お父さんの看護をするから。兄さんがずいぶんひどくお前をぶったものねえ……おまけに頭を……」
「あの人はわしに向って失敬なことをしただ!」とグリゴーリイは一こと一こと区切りながら、沈んだ調子で言った。
「あの人はお父さんにも『失敬なことをした』のだ、お前どころのさわぎじゃないよ!」と、イヴァンは口を歪めながら言った。
「わしはあの人に湯までつかわして上げたに……あの人はわしに失敬なことをしただ!」とこちらは繰り返し言うのであった。
「ええ、勝手にしろ、もしおれが兄さんを引き放さなかったら、本当に殺してしまったかもしれやしない。あんなイソップ爺《じじい》に大して手間がかかるものかね!」とイヴァンは弟に囁いた。
「とんでもない!」とアリョーシャは叫んだ。
「どうしてとんでもないのだ。」依然として小さな声で、イヴァンは毒々しく顔を歪めながら囁いた。「毒虫が毒虫を咬み殺すのだ、結局、両方ともそこへいくんだよ!」
 アリョーシャはびくりとした。
「しかし、もちろん、僕は決して人殺しなんかさせやしないよ、たった今もさせなかったくらいだからね。アリョーシャ、お前ここへ残っておいで、僕は庭を少し歩いて来るから。何だか頭が痛くなった。」
 アリョーシャは父の寝室へ赴き、枕もとの衝立の陰に一時間ばかり坐っていた。と、ふいに老人は目を見開いて、何やら思い出そうとするかのように、長いこと無言のままじっとアリョーシャを見つめていた。突然はげしい興奮の色が灸の顔に浮んだ。
「アリョーシャ」と彼は心配そうに囁いた。
「イヴァンはここにおる?」
「庭です、頭が痛いんですって。あの人が僕らの番をしてくれてるんです。」
「鏡を貸してくれ、そら、そこに立ててある。」
 アリョーシャは箪笥の上に立ててある、小さな丸い組み合せ鏡を父に渡した。老人はてむにその中を見入った。鼻がかなりひどく腫れあかって、額には左の眉のあたりに紫色の打ち身が目立って見えた。
「イヴァンは何と言うておる? アリョーシャ(お前はわしのたった一人の子供だ)、わしはイヴァンが怖い、わしはあいつよりイヴァンのほうがもっと怖い。わしの怖くないのはお前一人きりだ……」
「イヴァン兄さんだって恐れることはありません、あの人は腹こそ立てていますけれど、僕らを守ってくれますよ。」
「アリョーシャ、ところで、あいつのほうは? グルーシェンカのところへ飛んで行ったのか? おい、いい子だから本当のことを教えてくれ。さっきグルーシェンカがここへ来たか来なんだか?」
「誰も見たものがないんですもの。あれは嘘です、来やしません。」
「それでも、ミーチカはあれと結婚する気でおるのだ、結婚する気で!」
「あのひとは兄さんと一緒になりゃしませんよ。」
「ならんとも、ならんとも、ならんとも、決してなりゃせん!……」今の場合、これより嬉しい言葉を聞くことはできないかのように、老人は躍りあからないばかりに悦んだ。彼は歓喜のあまり、アリョーシャの手を取って、自分の心臓へ強く押しつけるのであった。そればかりか、涙さえ目に輝きだしたほどである。「さっきわしが話した聖母マリヤの像も、お前にやるから持って行くがよい。お寺へ帰るのも許してやるわ……さっきのはほんの冗談だから、腹を立てんでくれ。ああ、頭が痛い。アリョーシャ……アリョーシャ、どうかわしの得心がゆくように、一つ本当のことを言うてくれんか!」
「また例の、あの女が来たか来ないか、ですか?」とこちらは