京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P158-161   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦59日目]

び声を聞きつけて、部屋の中へ駆け込んだ。一同は彼女の方へ飛びかかった。
「ええ、帰るわ。」長椅子から婦人外套を取りながら、グルーシェンカはそう言った。「アリョーシャ、わたしを送ってちょうだいな!」
「お帰んなさい、はやくお帰んなさい、お頼みです!」アリョーシャは、祈るように両手を合すのであった。
「アリョーシャ、後生だから送ってちょうだいってば! わたし歩きながら、それはそれはいいことを一つ教えて上げてよ! 今のはね、わたしあんたのために、わざと一芝居うってみせたのよ。送ってちょうだい、あとで気に入るに相違ないんだから。」
 アリョーシャは両手をよじ合せながら、くるりと脇を向いてしまった。グルーシェンカはからからと笑って家を飛び出した。
 カチェリーナはヒステリイの発作を起した。彼女は痙攣に息をつめられて、しゃくり上げながら泣くのであった。一同はそのまわりをうろうろしていた。
「だから、わたしが前からそう言ったんですよ」と年上のほうの伯母が言った。「わたしがそんな思いきったことをするのはよくないと言ってとめたんだけど……あなたがあまり物事に熱中する性分ですからね……本当にあんな思いきったことをするって法はありませんよ! あなたはあんな種類の女を知りなさらないけれど、誰でもあれは人間の屑だって言っていますよ。本当に、あなたはわがまますぎるんです!」
「あれは虎です!」とカチェリーナは声を振り絞って叫んだ。
「アレクセイさん、なぜあなたはわたしをとめたんです? わたしあの女をうんと思うさまひっぱたいてやったのに!」
 彼女はアレクセイの前でも、自分を抑えることができなかったらしい。しかし、あるいは抑えようとも思わなかったのかもしれない。
「あんなやつは鞭で引っぱたいてやってもいいのだ、処刑台へのせて、首切り人の手を借りて、大勢の目の前で!………」
 アリョーシャは戸口のほうへあとずさりした。
「だけど、まあ!」突然、彼女は手を拍って叫びだした。「あの人が! 本当にあの人はそれほどまでに不正直な、不人情な人間になりさがったのでしょうか! だって、あの人が話して聞かせたのでしょう、あの恐ろしい、永久に呪ってもたりない日の出来事を!『お嬢さま、あなだだってその美しい顔を売りにいらしったじゃありませんか』だとさ! あの女は知ってるんだ! アレクセイさん、あなたの兄さんは悪党です!」
 アリョーシャは何か言いたかったが、言うべき言葉が一つも出て来なかった。彼の心臓は痛いほど締めつけられるのであった。
「アレクセイさん、帰って下さい! わたしは恥しい、わたしは恐ろしい! あす……一生のお願いですから、あす来て下さいませんか。どうかわたしを悪く思わないで下さい、赦して下さい。わたしはまだ自分で自分をどうするかわからないんですから!」
 アリョーシャはよろめくような足どりで往来へ出た。彼もカチェリーナと同しように泣きだしたくなった。と、うしろから女中が追っかけて来た。
「これはホフラコーヴァさまからことづかった手紙ですが、奥さまがあなたにお渡しするのを忘れなさいましたので……もうお昼すぎからまいっておりました。」
 アリョーシャはばら色の小さな封筒を、機械的に受け取って、ほとんど無意識にかくしへ押し込んだ。

   第十一 ここにも亡びたる名誉

 町から僧院までは一露里と少しばかりしかなかった。この時刻になるといつも淋しい道を、アリョーシャは急いで歩いた。ほとんどもう夜のとばりが落ちて、三十歩さきにあるものは見分けがつかなかった。ちょうど半分道のあたりに四辻があったが、その四辻の一本柳の下に何かの影が見えた。アリョーシャが四辻へ足を踏み入れるやいなや、この影はっとその場を離れて、彼のほうへ飛びかかって来た。そして猛烈な声で叫んだ。
「命が惜しくば財布をよこせ!」
「ああ、兄さんですか!」ひどく慄えあがったアリョーシャは、驚いてこう言った。
「はははは、意外だったかい? おれはどこでお前を待とうかと考えてみたのさ。あの女の家のそばとも思ったが、あすこから道が三つに分れてるから、漲くしたら見落すかもしれない。で、とうとうここで待つことにきめたんだ。なぜと言って、お寺へ行く道はもうほかにないから、お前はぜひここを通るに相違ないだろうと思ってね。さあ、ありのままを言って、おれを油虫のようにへし潰してくれ……しかし、お前は一たいどうしたんだ?」
「何でもありませんよ、兄さん……僕ちょっとびっくりしたもんですから。だけど、兄さん、つい先ほどお父さんの血を流したばかりだのに(とアリョーシャは泣きだした。もうだいぶ前から泣きたかったのだが、いま急に心の中で何か引きちぎれたような気がしたのである)……危くお父さんを殺さないばかりの目にあわして……呪いの言葉まで吐いておきながら……今……ここで……『命が惜しくば財布をよこせ!)なんて、洒落どころの騒ぎですか!」
「ふん、どうして? 無作法だとでも言うのか? 今の境遇に不釣合いだとでも言うのか?」
「いいえ、そうじゃありません……僕はただ……」
「ちょっと待ってくれ。まあ、この夜景色を見ろ。何という暗澹たる夜だろう! 一面の雲で、おまけにえらい風が起ったじゃないか? おれはこの柳の陰に隠れてお前を待ってるうちに、ふいと考えたよ(まったくの話だ!)、このうえ何をくよくよして、何を待つことがいるんだ! ここに柳もあるし、ハンカチもあればシャツもあるから、繩はすぐになうことができる。そいつをちょっと水で濡らしたら、――もうこの大地の荷厄介にならないでもすひし、この低劣な存在でもって神聖な土をけがすこともない! ところへちょうどお前の足音が聞えたのさ、――すると急に何ものか、おれの頭の上へ飛び下りたような気持がした。つまり、何といってもまだおれの愛する人間がいる。あれがそうだ、あの人間がそうなんだ、あれが世界じゅうでおれの一番好きな、たった一人の可愛い弟だ、とでもいうような心持なのさ。そこでおれはその瞬間に、お前が可愛くてたまらなくなったので、一つあれの頸っ玉へ嚙りついてやれと考えたんだ。ところが、またひょいと馬鹿な考えが浮んできて、『一番あれの気の浮き立つようにびっくりさしてやろう』と思ったので、つい『命が惜しくば!』なんて、馬鹿みたいに呶鳴ったのさ。実際、馬鹿な真似だった、赦してくれ、――あれはほんの冗談で、心の中は……やはり真面目なんだよ……ええ、まあ、どうだっていいや、それよりもあそこでどんなことがあった、聞かしてくれ。あの女は何と言った? さあ、おれをへし潰してくれ、遠慮なしに度胆を抜いてくれ! 前後を忘れるほど腹を立てたろうな?」
「いいえ、違います……あそこで見たのはまるで思いがけないことですよ、ミーチャ。あそこで……僕はたった今、両方の人に会いました。」
「両方の入って誰々だい?」
「グルーシェンカとカチェリーナさんです。」
 ドミートリイは棒立ちになった。
「そんなことがあるもんか!」と彼は叫んだ。
「お前、夢を見てるんだよ! グルーシェンカがあの女のところへ行くなんて!」
 アリョーシャはカチェリーナの家へ入った瞬間から、自分の見聞きしたことをすっかり話した。彼は十分ばかり話しつづけた。むろん、流暢な整った話しぶりではなかったが、肝心な言葉や肝心の動作を掴むとともに、ただ一語で自分自身の感じをまざまざと伝えるようにしながら、すべてを明瞭に描き出してみせた。
 ドミートリイは不思議なくらい身動きもしないで、じっと目を据えて無言のまま弟を見つめていたが、彼が一切の事実を理解して、その意味を摑んだということは、アリョーシャにもよくわかった。しかし話の進行につれて、彼の顔は次第に沈んできた、というよりは、むしろもの凄くなってきた。彼は眉を寄せ歯を食いしばっていたが、じっと倨って動かぬ目はさらにしゅうねく凝結して、さらに恐ろしくなったように思われた……と、今まで憤怒に燃えるようにもの凄かった顔が、急に異常な速度をもってさっと一変した時、アリョーシャはなお一倍意想外の感に打たれた。きっと結ばれていた唇が一度に開いて、突然ドミートリイはいかにもこらえかねたふうに、少しも拵えたところのない声で、堤が切れたように笑いだしたのである。実際その笑い方は文字どおりに堤が切れたようであった。彼は長いあいだ笑いに遮られて、ものを言うことさえできなかった。
「じゃ、その手を接吻しなかったんだな! じゃ、接吻しないで、そのまま逃げ出したんだな!」と彼は何だか病的な悦びを浮べながら叫んだ。この悦びは、もしあれほど無技巧な趣きがなかったら、あるいは傲慢な悦びとさえ言うことができたかもしれない。「じゃ、あの女が『虎』だって呶鳴ったのか? まったく虎だよ! そして、あいつを処刑台へのせなきゃならんて? そうともそうとも、おれも同意だ、実際その必要があるんだよ、もう前からその必要があったんだよ! だがなあ、アリョーシャ、処刑台はいいとしても、まず最初にすっかり快くなっておく必要があるよ。しかし、あの傲慢な女王の心持がよくわかるじゃないか、あの女の面目がその『お手』の中に躍如たりだ。極道女だなあ! あいつはこの世で想像し得るすべての極道女の女王だ! その中に独得の歓喜があるんだよ! それで、あいつはすぐ家へ走って帰ったのか? おれはすぐ……よし……おれはこれからあいつのところへ一走り行って来るぞ! アリョーシャ、どうかおれを責めんでくれ。あの女は絞め殺しても飽きたりないやつだ、それはおれもぜんぜん同意なんだけれどなあ……」
「そして、カチェリーナさんは!」とアリョーシャは悲しげに叫んだ。
「あの女もわかったよ、すっかり腹の底まで見すかしちゃった、こんなによくわかったのは今がはじめてだ! これはもう世界四大州の発見だ、いや、四大州じゃなくて五大州だ! 本当に何という大胆なことをしたものだろう! それはちょうどあの時の女学生のカーチェンカそっくりだ。父を救おうという高潔な理想のため、恐ろしい侮辱を受ける危険を冒してまで、馬鹿な乱暴な将校のところへ平気で出かけて行ったあの時のカーチェンカそっくりだ! 並みはずれた誇り、冒険の要求、運命に対する挑戦、無限の挑戦……こういったような心持なんだ! お前の話では、あの伯母さんがとめたんだってね。あの伯母さんは、お前、例のモスクワの将軍夫人の実の妹だが、これもなかなかわがままな女で、姉さんより一倍鼻を高くしていたんだよ。ところが、ご亭主が官金費消の罪で、領地から何から一切のものをなくしてしまうと、あの伯母さん急に調子を低くして、それからこっち、ずっと小さくなってしまったのさ。この人がとめようとかかったけれど、カーチヤが耳もかさなかったわけなんだね。『何だってわたしに征服できないものはありません、何だってわたしの権力内にあるのです。わたしがその気になりさえすれば、グルーシェンカでも、手の中に丸め込んでお目にかけます』という腹だったのさ。そうして、自分で自分を信じきって、自分で自分にから威張りをやったんだもの、誰を恨むこともできんじゃないか? あの女がわざわざ自分のほうからグルーシェンカの手を接吻しだのは、何かずるい目算があってのことと思うかい? どうしてどうして、あの女は本当に心底からグルーシェンカに惚れ込んだのさ。いや、グルーシェンカではない、自分の空想に惚れ込んだのだ、自分の夢に惚れ込んだのだ、なぜって、それは『わたしの空想ですもの、わたしの夢ですもの、』惚れ込まずにいられるはずがない! しかし、アリョーシシャ、どうしてお前はあの女たちのところから逃げ出して来たい? 法衣の裾をからげて駆け出したのかい?」
「兄さん、あなたは、自分がどんなにカチェリーナさんを侮辱したがってことに、ちっとも注意をはらわなかったようですね。兄さんはあの日のことを、グルーシェンカに話したでしょう。たった今グルーシェンカがあのひとに面と向って、「あなだだってその美しい顔を売りに、ないしょで若い男のところへいらしたでしょう!」って言ったんですよ。ねえ、兄さん、これ以上の侮辱があるでしょうか?」アリョーシャが最も心を痛めたのは、まるで兄がカチェリーナの屈辱を、悦んでいるように思われることであった。もちろん、そんなことがあり得ようはずはないけれど……
「なあるほど!」ドミートリイは急に恐ろしく顔をしかめて、掌で自分の額をぱちりと叩いた。彼はもうさきほどアリョーシャからこの侮辱のことも、『あなたの兄さんは悪党です!』とカチェリーナが叫んだことも、一度にすっかり聞いたくせに、今はじめて気がついたのである。「そう、本当におれはカーチ