『カラマーゾフの兄弟』P220-231 (『ドストエーフスキイ全集』第13巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))
た私なぞは、まず警察へ突き出してしまうか……少くとも、その場で横面を張り飛ばすか、しなけりゃならんはずじゃありませんか。ところが、まあ、どうでございましょう、あなたは少しも怒るどころじゃない、その反対に、すぐ私のつまらない言葉をそのまま喜んで採りあげて、出発なすったじゃありませんか。そんなことは、まるでばかばかしい話でございますよ。なぜって、あなたはお父さんの命を護るために、残っていらっしゃるのが本当だったんでございますからね……私はどうしても、こうとらずにゃいられませんよ!」
イヴァンは眉をしかめながら、ぶるぶると慄える両の拳を膝に突いて、じっと腰かけていた。
「そうさ、お前の横面を張り飛ばさなかったのは、残念だったよ。」彼は苦笑した。「お前を警察へ引き摺り出すことは、あの時どうもできなかったんだ。誰がおれの言うことを、本当にしてくれるものか。またおれだって、どんな証拠を見せることもできないじゃないか。だが、横面を張ることは……ああ、残念ながら気がつかなかった。今びんたは禁じられているけれど、お前の面を粥にしてやるんだったにな。」
スメルジャコフはさも気味よさそうに、イヴァンを眺めていた。
「人生の普通の場合には」と彼はいかにも自足したらしい、教訓的な調子で言いだした。それは、いつかグリゴーリイと信仰論をたたかわして、フョードルの食卓のそばで、老人をからかったのと同じ調子であった。「人生の普通の場合には、びんたは実際いま法律で厳禁されています。みんな叩くのをやめました。ですが、人生の特別な場合には、ただこの町ばかりではなく、世界じゅうどこへ行っても、ことに最も完全なフランス共和国でさえも、やはりアダムとイヴの時代と同じように撲っています。それは決して、いつになってもやめやしません。ところが、あなたはあの特別な場合にさえ、思いきっておやりになれなかったのでございますよ。」
「何かね、お前はフランス語を勉強してるのかね?」とイヴァンは、テーブルの上においてある手帳を顎でしゃくった。
「私だってフランス語くらい勉強して、自分の教養をはかってならんという法はありませんからね。私だってヨーロッパのああした仕合せなところへ、いつか行くおりがあるかもしれない、と思いましてね。」
「おい、悪党。」イヴァンは目を光らせ、全身を震わせた。「おれはな、お前の言いがかりを恐れてやしないんだぞ。だから、何でもお前の言いたいことを申し立てるがいい。おれが今お前を撲り殺さないのは、ただこの犯罪についてお前を疑っているからだ。お前を法廷へ引き出そうと思ってるからだ。おれはいまにお前の化の皮を引んむいてやるぞ。」
「ですが、私の考えじゃ、まあ、黙っていらしたほうがよござんすよ。だって、私がまったく何も悪いことをしていないのに、お責めになることなんかないじゃありませんか。それに、誰があなたを本当にするものですか? それでも、もしあなたがしいておっしゃるなら、私もすっかり言ってしまいますよ。私だって、自分を護る必要がありますからね!」
「おれが今お前を恐れてるとでも思うのかい?」
「私が今あなたに申し上げたことは、たとえ法廷では本当にしなくっても、その代り世間で本当にしますからね。そしたら、あなたも面目を潰すじゃありませんか。」
「それはやはり、『賢い人とはちょっと話しても面白い』ということなのかね、え?」イヴァンは歯ぎしりした。
「てっきり図星でございますよ。だから、賢い人におなんなさいまし。」
イヴァンは立ちあがり、憤怒に身を震わせながら、外套を着た。そして、もうスメルジャコフには一言も返事もしなければ、そのほうを見向きもせず、いそいで小屋から出て行った。涼しい夜気は、彼の気持を爽やかにした。空には月が皎々と照っていた。思想と感覚の恐ろしい渦巻が、彼の心の中で煮え返っていた。『今すぐスメルジャコフを訴えてやろうか? だが、何を訴えるんだ。あいつには何といっても罪はないんだ。かえって反対に、あいつのほうでおれを訴えるだろう。実際、おれはあのとき何のためにチェルマーシニャヘ行ったんだ? 何のためだ? 何のためだ? 何のためだ?』とイヴァンは自問した。『そうだ、むろん、おれは何かを予期していた。あいつの言うとおりだ』と、またもや彼の頭に浮んだのは、最後の夜、父の家の階段で立ち聞きしたことであった。けれど、今度はそれを思いだすと、何ともいえぬ苦痛を感じたので、まるで何かに突き刺されたように、歩みさえ止めてしまった。『そうだ、おれはあの時あれを予期していたんだ、まったくそうなんだ。おれは望んでたんだ、まったくおれは親父が殺されるのを望んでたんだ! おれは人殺しを望んだのだろうか、望んだのだろうか? スメルジャコフを殺さなけりゃならん! 今もしスメルジャコフを殺す勇気がなければ、おれは生きてる価値はない!……』
イヴァンは家へ帰らずに、すぐまたその足でカチェリーナのところへ赴き、その様子で彼女を驚かせた。彼はまるで気ちがいそのままであった。彼はスメルジャコフとの話を、微細な点まで残らず打ち明けた。そして、いくらカチェリーサから諭されても、落ちついた気分になれず、しきりに部屋の中を歩き廻りながら、奇怪なことをきれぎれに喋り立てた。とうとう彼は椅子に腰をおろし、テーブルに肱を突き、頭を両手で支えながら、奇妙な文句を口走った。
「もし下手人がドミートリイでなくって、スメルジャコフだとすれば、僕もあいつと連帯なんです。だって、僕があいつを使嗾したんですからね。いや、僕はあいつを使嗾したろうか、――そりゃどうだかわからない。けれど、もし下手人があいつで、ドミートリイでなければ、むろん僕も下手人です。」
カチェリーナはこれを聞くと黙って立ちあがった。そして、自分の書きもの卓《づくえ》のところへ行って、その上にあった箱を開き、中から一葉の紙片を取り出して、イヴァンの前においた。これが例の証拠品で、後日イヴァンがアリョーシャに向って、兄ドミートリイが父親を殺したという『数学的証明』と言ったものである。それはミーチャが酔っ払って、カチェリーナに書き送った手紙であった。それを書いたのは、彼が修道院へ帰るアリョーシャと野っ原で出会ったその晩のことで、つまり、カチェリーナの家でグルーシェンカが彼女を辱しめた後のことであった。その時、ミーチャはアリョーシャと別れると、グルーシェンカの家へ飛んで行った。グルーシェンカに会ったかどうかはわからないが、とにかく彼はその晩、料理屋の『都』へ行って、そこで例のとおり盛んに飲んだ。やがて、酔いに乗じて、ペンと紙を取り寄せ、自分にとって重大な証拠品を書いたのである。それは辻褄の合わない、乱雑な、くだくだしい手紙で、どう見ても『酔いどれ』の手紙であった。それはちょうど、酒に酔った人が家へ帰って来て、自分はいま侮辱された、自分を侮辱したものはしようのない悪党だが、自分はその反対に素晴らしい立派な人間で、自分はその悪党に仕返しをしてやるのだと、涙を流し、拳でどんどんテーブルを敲きながら、とりとめもないことを長たらしく、女房や家のものなどにやっきとなって喋りちらす、そういう種類のものであった。彼が酒場でもらった手紙の用紙は、普通の下等な書翰紙の汚い切れっぱしで、その裏には何やら計算のようなものが書いてあった。酔いどれが管を巻くのだから、むろん紙面がたりなかった。で、ミーチャは余白一面に書いたばかりか、最後の幾行かは、前に書いた上へ筋かいに書かれてあった。それはこういう意味の手紙であった。
『宿命的なるカーチャ! あす僕は金を手に入れて、お前の三千ルーブリを返済しよう。偉大なる忿怒の女よ、さようなら、僕の愛よ、さようなら! もうおしまいにしよう! 明日、僕はあらゆる人に頼んで金を手に入れる。もし手に入らなければ、きっと誓っていう、イヴァンが立つとすぐ、親父のところへ行って、頭をぶち割って、枕の下にある金を奪うつもりだ。僕は懲役へやられても、三千ルーブリの金はお返しする。だから、お前も赦してくれ。僕は額を地面につけてお辞儀をするよ。なぜなら、僕はお前に対して卑劣漢だったからだ。赦してくれ。いや、いっそ赦してくれるな、そのほうがお前も僕も気持が楽だろう! お前の愛よりも、懲役のほうがましだ。僕はほかの女を愛してるんだから。お前はその女を、今日こそよく知ったろう。だから、どうしてお前に赦すことができよう? 僕は自分の泥棒を殺すのだ! そして、お前たち一同をのがれて東へ行く。そして、誰のことも忘れてしまおう。あの女もやはり忘れるのだ。僕を苦しめるのはお前ばかりじゃなくって、あの女[#「あの女」に傍点]もそうなんだから、さようなら!
二伸。僕は呪いを書いているが、それでもお前を尊敬しているんだ! 僕は自分の胸の声を聞いている。一つの絃が残って鳴っている。むしろ心臓を真っ二つに断ち割ったほうがいい。僕は自分を殺そう。だが、まずあの犬から殺してやる。あいつから三千ルーブリ奪って、お前に投げつけてやるのだ。僕はお前に対して悪党になっても、泥棒じゃないのだ! 三千ルーブリを待っておいで。犬の寝床の下にあるのだ、ばら色のリボン。僕は泥棒じゃない。自分の泥棒を殺すんだ。カーチャ、軽蔑するような見方をしてくれるな。ドミートリイは泥棒じゃない、人殺しだ! 僕は傲然と立って、お前の高慢を赦さないために、親父を殺し、自分を亡ぼすのだ。お前を愛さないために。
三伸。お前の足に接吻する、さようなら!
四伸。カーチャ、誰か僕に金をくれるように神様に祈ってくれ。そうすれば、血に染まないですんだ。誰もくれなければ血に染むことになる! 僕を殺してくれ!
[#地から5字上げ]奴隷にして敵なる
[#地から1字上げ]D・カラマーゾフ』
イヴァンはこの『証拠品』を読んでしまうと、確信を得て立ちあがった。してみると、下手人は兄で、スメルジャコフではない、スメルジャコフでなければ、すなわち彼イヴァンでもないわけである。この手紙は俄然彼の目に、数学的の意味を有するものとして映じてきた。もはや彼にとって、ミーチャの罪を疑う理由は少しもなくなった。ついでに断わっておくが、ミーチャがスメルジャコフと共謀して殺したのかもしれない、などというような疑念は、イヴァンの心に全然おこらなかった。またそういうことは、事実にもはまらなかった。イヴァンはすっかり安心してしまった。翌朝彼は、スメルジャコフとその嘲弄を思いだすと、われながらばかばかしくなった。幾日かたつと、彼はスメルジャコフに疑われたことを、どうしてあんなに苦にしたのかと、驚かれるほどであった。彼はスメルジャコフを蔑視して、あのことを忘れてしまおうと決めた。こうして、一カ月すぎた。彼はもう誰にもスメルジャコフのことを訊かなかった。しかし、彼が重い病気にかかって、正気でないということを、二度ばかりちらと耳にした。『結局、気がちがって死ぬんでしょう。』ある時、若い医者のヴァルヴィンスキイはこう言った。イヴァンはこの言葉を記憶に刻んだ。この月の最後の週に、イヴァンは自分もひどく体の工合が悪いのを感じるようになった。公判前に、カチェリーナがモスクワから招いた医者にも、彼は診察を乞いに出かけた。この時分、彼とカチェリーナとの関係は極度に緊張してきた。二人は、互いに愛し合っている敵同士みたいなものであった。ほんの瞬間ではあったが、カチェリーナが強い愛をもってミーチャに帰って行ったことは、イヴァンを狂おしいばかりに激昂させた。不思議なことには、筆者が前に書いたカチェリーナのもとにおける最後の場面まで、つまり、アリョーシャがミーチャとの面会後カチェリーナの家へ来た時まで、彼イヴァンは一カ月のあいだ一度も彼女の口から、ミーチャの犯行を疑うような口吻を聞いたことがなかった(そのくせ、彼女は幾度もミーチャに『帰って』行って、イヴァンの激しい憎悪を呼び起したのである)。それから、も一つ注意すべきことは、彼がミーチャへの憎悪を日一日と増しているのを感じつつも、同時にその憎悪がカチェリーナの復帰のためではなくて、彼が父親を殺した[#「彼が父親を殺した」に傍点]ためだということを、理解していた点である。彼はこのことを十分に感じていたし、意識してもいた。にもかかわらず、彼は公判の十日前にミーチャのところへ行って、兄に逃走の計画を持ち出した。この計画は、明らかに久しい前から考え抜いたものらしかった。そこには、彼をしてこういう行動に出さした重大な原因のほかに、彼の心にひそんでいたある癒しがたい傷があったのである。それは、ミーチャに罪を着せたほうが彼イヴァンにとって都合がいい、そうすれば、父親の遺産をアリョーシャと二人で四万ルーブリどころか、六万ルーブリずつ分配することができると、スメルジャコフがちょっと一こと洩らしたために生じたのであった。彼はミーチャを逃走させる費用として、みずから三万ルーブリを犠牲に供する決心をした。その時ミーチャのところから帰って来る途中、彼は非常な悲哀と苦悶を感じた。自分がミーチャの逃走を望むのは、ただ三万ルーブリを犠牲に供して、心の傷を癒すためばかりでなく、まだ何かほかに理由があるような気がしたのである。『おれが内心おなじような人殺しだからではあるまいか?』と彼はみずから問うてみた。何やら漠としてはいたが、焼けつくようなあるものが彼の心を毒した。ことにこの一カ月間というもの、彼の自尊心は非常な苦痛を覚えた。が、このことはあとで話すとしよう……
イヴァンはアリョーシャと話をした後、自分の家のベルに手をかけたが、急にスメルジャコフのところへ行くことにした。これは突然、彼の胸に湧きあがった一種特別な憤怒の念に駆られたためであった。ほかでもない、カチェリーナがアリョーシャのいる前で、彼に向って、『あの人が(つまりミーチャが)下手人だって、わたしに言い張ったものは、ただあんた一人だけですわ!』と叫んだことを、ふいに思い出したのである。これを思い出すと、彼は棒立ちになった。彼はかつて一度も、ミーチャが人殺しだなどと、彼女に言い張ったことはなかった。それどころか、スメルジャコフのところから帰って来た時など、彼女の前で自分自身を疑ったほどである。むしろ彼女こそ、そのとき例の『証拠品』を見せて、ミーチャの犯罪を証明したのではないか。ところが、突然いまになって彼女は、『わたし自分でスメルジャコフのところへ行って来ました!』と叫んでいる。いつ行ったんだろう! イヴァンは一向それを知らなかった。してみると、彼女はミーチャの犯罪を十分に信じていないのだ! スメルジャコフは彼女に何と言ったろう? 一たいやつは何を、どんなことを言ったのだろう? 彼の心は恐ろしい憤怒に燃えあがった。どうして三十分前に、彼女のこの言葉を聞きのがして、叫ばずにすましたのか、わけがわからなかった。彼はベルをうっちゃって、スメルジャコフの家をさして出かけた。『今度こそ、あいつを殺してしまうかもしれない』と彼はみちみち考えた。
第八 三度目の、最後の面談
まだ半分道も行かないうちに、その日の早朝と同じような、鋭いからっ風が起って、細かいさらさらした粉雪がさかんに降りだした。雪は地面に落ちたが、落ちつくひまもなく風に巻き上げられた。こうして、間もなく本当の吹雪になってしまった。この町でも、スメルジャコフの住まっているあたりには、ほとんど街灯というものがなかった。イヴァンは暗闇の中を吹雪にも気づかず、ほとんど本能的に路を見分けながら、歩いて行った。頭が割れるように痛んで、こめかみがずきずきいった。手首は痙攣を起していた(彼はそれを感じた)。マリヤの家まぢかになった頃、とつぜん一人の酔いどれに出会った。それはつぎはぎだらけの外套を着た背の低い百姓で、よろよろと千鳥足で歩きながら、ぶつぶつ言ったり、罵ったりしていた。急に罵りやめたかと思うと、今度はしゃがれた酔いどれ声で、歌いだすのであった。
やあれ、ヴァンカは
ピーテルさして旅へ出た
わしゃあんなやつ待ちはせぬ
しかし、彼はいつもこの三の句で歌を切って、また誰やら罵りだすかと思うと、またとつぜん歌を繰り返しはじめた。イヴァンはまるでそんなことを考えもしないのに、もうさきほどからこの百姓に、恐ろしい憎悪を感じていたが、やがてそれをはっきり意識した。すると、いきなり、百姓の頭に拳骨を見舞いたくてたまらなくなった。ちょうどこの瞬間、彼ら二人はすれ違った。そのとたん百姓はひどくよろけて、力一ぱいイヴァンにぶつかった。イヴァンはあらあらしく突きのけた。百姓は突き飛ばされて、凍った雪の上へ丸太のように倒れたが、病的にただ一度、『おお! おお!』と唸ったきりで、そのまま黙ってしまった。イヴァンが一歩ちかよって見ると、彼は仰向きになったまま、身動きもせず、知覚を失って倒れていた。『凍え死ぬだろう!』とイヴァンは考えたなり、またスメルジャコフの家をさして歩きだした。
彼が玄関へはいると、マリヤが蠟燭を手に駈け出して、戸を開けた。そして、パーヴェル・フョードロヴィッチ(すなわちスメルジャコフ)は大病にかかっている、べつに寝てるというわけではないが、ほとんど正気を失った様子で、お茶の支度をしろと言いつけながら、それを飲もうともしない、というようなことを彼に囁いた。
「じゃ、暴れでもするのかね?」とイヴァンはぞんざいに訊いた。
「いいえ、それどころじゃありません。ごく穏やかなんでございます。ただあまり長くお話をなさらないで下さいまし……」とマリヤは頼んだ。
イヴァンは戸を開けて、部屋の中ヘー足はいった。
初めて来た時と同じように、部屋はうんと暖めてあったが、中の様子がいくらか変っていた。壁のそばにあったベンチが、一つ取り除けられて、その代り、マホガニイに似せた大きな古い革張りの長椅子がおいてあった。その上には蒲団が敷かれて、小ざっぱりとした白い枕がのっていた。スメルジャコフはやはり例の部屋着を着て、薄団の上に坐っていた。テーブルは長椅子の前に移されていたので、部屋の中はひどく狭苦しくなっていた。テーブルの上には、黄いろい表紙のついた厚い本がのっていたが、スメルジャコフはそれを読んでいるでもなく、ただ坐ったきり、何にもしていないらしかった。彼はゆっくりした無言の目つきで、イヴァンを迎えた。見たところ、イヴァンが来たのに一こう驚かないふうであった。彼はすっかりおも変りがして、ひどく瘦せて黄いろくなっていた。目は落ち込んで、その下瞼には蒼い環さえ見えた。
「お前は本当に病気なのかね?」イヴァンは立ちどまった。「おれは長くお前の邪魔をしないから、外套も脱ぐまいよ。どこへ腰かけたらいいんだ?」
彼はテーブルの反対の側から廻って、椅子を引き寄せ、腰をおろした。
「なぜ黙っておれを見ているんだ? おれはたった一つ、お前に訊きたいことがあって来たんだ。まったくお前の答えを聞かないうちは、どうあっても帰らんつもりだ。お前のところヘカチェリーナさんが来るだろう?」
スメルジャコフは依然として、静かにイヴァンを見ながら、長い間じっとおし黙っていたが、急に片手を振って、顔をそむけてしまった。
「どうしたんだ?」とイヴァンは叫んだ。
「どうもしません。」
「どうもしないはずはない!」
「ええ、まいりましたよ。だが、どうだっていいじゃありませんか。帰って下さい。」
「いや、帰らない! いつ来たか言え!」
「なに、私はあのひとのことなんか覚えてもいませんよ。」スメルジャコフは軽蔑するように、にたりと笑ったが、急にまたイヴァンのほうへ顔を向けて、一種もの狂おしい憎悪の目で彼を見つめた。それは、一カ月前に会ったときと同じ目つきであった。
「どうやら、あなたもご病気のようですね。まあ、げっそりとお瘦せなすったこと、まるでその顔色ったらありませんよ」と彼はイヴァンに言った。
「おれの体のことなど、心配してくれなくてもいいから、おれの訊いたことに返事をしろ。」
「それに、あなたの目の黄いろくなったことはどうでしょう。白目がまるで黄いろくなってしまって、ひどくご心配ですかね?」
彼は軽蔑するように、にたりとしたが、急に声をたてて笑いだした。
「おい、いいか、おれはお前の返事を聞かないうちは帰りゃしないぞ!」とイヴァンは恐ろしく激昂して叫んだ。
「何だってあなたは、そうしつこくなさるんです? どうして私をいじめなさるんです?」とスメルジャコフはさも苦しそうに言った。
「ええ、畜生! おれはお前に用事なんかないんだ。訊いたことにさえ返事すりゃ、すぐ帰る。」
「何もあなたに返事することなぞありませんよ!」とまたスメルジャコフは目を伏せた。
「いや、きっとおれはお前に返事をさせる!」
「どうしてそんなに心配ばかりなさるんです!」とスメルジャコフは急にイヴァンを見つめた。彼の顔には軽蔑というよりも、もはやむしろ一種の嫌悪が現われていた。「あす公判が始まるからですか? そんなら、ご心配にゃおよびません、あなたに何があるもんですか! 家へ帰って安心してお休みなさい。ちっとも懸念なさることはありゃしません。」
「おれはお前の言うことがわからん……どうしておれが明日の日を恐れるんだ?」とイヴァンはびっくりしてこう言った。と、ふいに彼の心は事実、ある驚愕に打たれて、ぞっとしたのであった。スメルジャコフはまじまじとそれを眺めていた。
「おわかりにな―り―ませんかね?」と彼はなじるように言葉を切りながら言った。「賢いお方が、こうした茶番をやるなんて、本当にいいもの好きじゃありませんか!」
イヴァンは黙って彼を眺めた。イヴァンはこういう語調を予期しなかった。それは、実に傲慢きわまるものであった。しかも、以前の下男が、いま彼にこうした口をきくというのは、それこそ容易ならぬことであった。この前の面談の時でさえ、まだまだこんなことはなかった。
「ちっとも、ご心配なさることはありませんて、そう言ってるじゃありませんか。わたしゃああなたのことは、何も申し立てやしませんからね。証拠がありませんや。おや、お手が慄えてますね。どうして指をそんなに、ぶるぶるさせていらっしゃるんです? さあ、家へお帰んなさい。殺したのはあなたじゃありません[#「殺したのはあなたじゃありません」に傍点]。」
イヴァンはぎくっとした。彼はアリョーシャのことを思いだした。
「おれでないことは自分で知っている……」と彼は呟いた。
「ご存じ―ですかね?」とまたスメルジャコフは言葉じりを引いた。
イヴァンはつと立ちあがって、スメルジャコフの肩を摑んだ。
「すっかり言え、毒虫め! すっかり言っちまえ!」
スメルジャコフはびくともしなかった。彼はただ狂的な憎悪をこめた目で、イヴァンにじっと食い入るのであった。
「じゃ、申しますがね、殺したのは実はあなたですよ」と彼はにくにくしくイヴァンに囁いた。イヴァンはどっかと椅子に腰をおろした。ちょうど何か思いあたりでもしたもののように、彼は意地わるそうに、にやりとした。
「お前はやっぱりあの時のことを言っているのか? このまえ会った時と同じことを!」
「そうです、このまえ私のところへおいでの時も、あなたはすっかり呑み込みなすったじゃありませんか。だから、今も呑み込みなさるはずでございますよ。」
「お前が気ちがいだってことだけは、おれにも呑み込めるよ。」
「よくまあ、飽き飽きしないことですね! 面と向ってお互いにだましあったり、茶番をやったりするなんて? それとも、また面と向って、私一人に罪をなすりつけようとなさるんですか? あなたが殺したんですよ、あなたが張本人なんですよ。私はただあなたの手先です。あなたの忠実な僕《しもべ》リチャルド[#「忠実な僕《しもべ》リチャルド」はママ]だったんです。私はあなたのお言葉にしたがって、やっつけたんですからね。」
「やっつけた? じゃ、お前が殺したんだね?」イヴァンは総身に水を浴びたようにぞっとした。何やら頭の中で非常なショックを受けたかのように、彼は体じゅうがたがたと慄えだした。その時はじめて、スメルジャコフもびっくりして彼を見つめた。たぶんイヴァンの驚愕があまりに真剣なのに、打たれたものらしい。
「じゃ、あなたは本当に何にもご存じなかったんですか?」とスメルジャコフは信じかねるように囁いた、イヴァンの目を見つめて皮肉な笑いをもらしながら。
イヴァンはいつまでも彼を眺めていた。彼は舌を抜かれでもしたように、口をきくことができなかったのである。
やあれヴァンカは
ピーテルさして旅に出た
わしゃあんなやつ待ちはせぬ
という歌が、とつぜん彼の頭の中に響きはじめた。
「ねえ、おい、おれはお前が夢じゃないかと思って、恐ろしいんだ、おれの前に坐っているのは幻じゃないか?」と彼は呟いた。
「幻なんてここにいやしませんよ、私たち二人と、もう一人ある者のほかはね。確かにその者は、そのある者は今ここに、私たちの間におりますぜ。」
「それは誰だ? 誰がいるんだ? 誰だ、そのある者は?」あたりを見まわしたり、すみずみに誰かいないかと忙しげに捜したりしながら、イヴァンはびっくりして訊ねた。
「そのある者というのは神様ですよ、天帝ですよ。天帝はいま私たちのそばにいらっしゃいます。しかし、あなたがいくらお捜しになっても、見つかりゃしませんよ。」
「お前は自分が下手人だと言うが、それは嘘だ!」とイヴァンはもの狂おしく叫んだ。「お前は気ちがいか、それとも、この前のように、おれをからかおうとするのだろう!」
スメルジャコフはさきほどと同じように、いささかも驚かずにじっとイヴァンを見まもっていた。彼はいまだにどうしても、自分の疑念をしりぞけることができなかった。やはりイヴァンが『何もかも知っている』くせに、ただ『こっちばかりに罪をなすりつけようとしている』というような気がした。
「ちょっとお待ちなさい。」とうとう彼は弱々しい声でこう言って、ふいにテーブルの下から自分の左足を引き出し、ズボンを捲し上げはじめた。足は長い白の靴下につつまれて、スリッパをはいていた。彼はそろそろと靴下どめをはずして、靴下の中へ自分の指を深く突っ込んだ。イヴァンはじっとそれを見ていたが、急にぴくりとなって、痙攣的にがたがた慄えだした。
「気ちがい!」と彼は叫んで、つと立ちあがると、うしろへよろよろとよろめいて、背中をどんと壁にぶっつけ、体を糸のように伸ばして、ぴったり壁にくっついてしまった。彼はもの狂おしい恐怖を感じながら、スメルジャコフを見つめた。スメルジャコフは、イヴァンの驚愕を少しも気にとめないで、やはり靴下の中を捜していた。しきりに指先で何か摑もうとしているらしかったが、とど何かを探りあてて、それを引き出しにかかった。イヴァンは、おそらく書類か、それとも何かの紙包みだろうと見てとった。スメルジャコフはそれを引き出すと、テーブルの上においた。
「これです!」と彼は低い声で言った。
「何だ?」イヴァンは身ぶるいをしながら答えた。
「どうか、ごらん下さい」とスメルジャコフは相変らず低い声で言った。
イヴァンはテーブルのほうヘー歩ふみ出し、その紙包みを手に取って開こうとしたが、まるで何か不気味な恐ろしい毒虫にでもさわったように、急につと指を引っこめた。
「あなた指がまだ慄えていますね、痙攣していますね」とスメルジャコフは言い、自分でそろそろと紙包みを開いた。中からは虹色をした百ルーブリ札の束が三つ出て来た。
「残らずここにあります、三千ルーブリあります、勘定なさるにもおよびません。お受け取り下さい」と彼は顋で金をしゃくりながら、イヴァンにこう言った。イヴァンは椅子にどうっと腰を落した。彼はハンカチのように真っ蒼になっていた。
「お前、びっくりさしたじゃないか……その靴下でさ……」と彼は異様な薄笑いを浮べながら言った。
「あなたは本当に、本当にあなたは今までご存じなかったのですか?」とスメルジャコフはもう一ど訊いた。
「いや、知らなかった。おれはやはり、ドミートリイだとばかり思っていた。兄さん! 兄さん! ああ!」彼は急に両手で自分の頭を摑んだ。「ねえ、おい、お前は一人で殺したのかい?兄貴の手[#「かい?兄貴の手」はママ]を借りずに殺したのか、それとも一緒にやったのか?」
「ただあなたと一緒にしただけです。あなたと一緒に殺しただけです。ドミートリイさんには何の罪もありません。」
「よろしい、よろしい……おれのことはあとにしてくれ。どうしておれはこんなに慄えるんだろう……口をきくこともできない。」
「あなたはあの時分、大胆でしたね。『どんなことをしてもかまわない』などと言っておいででしたが、今のその驚き方はどうでしょう!」とスメルジャコフは呆れたように呟いた。「レモナードでもおあがりになりませんか。今すぐ言いつけましょう。とても気分がはればれとしますよ。ところで、こいつをまず隠しておかなくちゃ。」
こう言って、彼はまた紙幣束を顋でしゃくった。彼は立ちあがって戸口へ行き、レモナードの支度をして持って来るように、マリヤに言いつけようとしたが、彼女に金を見られないように、何か被せるものを捜すことにして、まずハンカチを引き出したが、これは今日もまたすっかり汚れていたので、イヴァンが入って来た時に目をつけた、例のテーブルの上にただ一冊のっている黄いろい厚い書物を取り上げて、それを金の上に被せた。その書名は『我らが尊き師父イサアク・シーリンの言葉』と記してあった。イヴァンは機械的にその表題を読んだ。
「レモナードはいらない」と彼は言った。「おれのことはあとにして、腰をかけて話してくれ、どういう工合にやったのか、何もかもすっかり話してくれ……」
「あなた、外套でもお脱ぎになったらいいでしょう。すっかり蒸れてしまいますよ。」
イヴァンは今やっと気づいたように外套を脱ぐと、椅子から立たないで、ベンチの上へ投げ出した。
「話してくれ、どうか話してくれ!」
彼は落ちついてきたらしかった。そして、今こそスメルジャコフがすっかり[#「すっかり」に傍点]言ってしまうだろうと信じて、じっと待ち受けていた。
「どんな工合にやっつけたかというんですね?」スメルジャコフはほっとため息をついた。「例のあなたのお言葉にしたがって、ごく自然な段どりでやっつけましたよ……」
「おれの言葉なんかあとにしてくれ」とイヴァンはまた遮ったが、すっかり自己制御ができたらしく、もう以前のように呶鳴らないで、しっかりした語調で言った。「どういう工合にやったか、詳しく話して聞かせてくれ、すっかり順序を立てて話してくれ、何一つ忘れちゃいけない。詳しく、何より第一に詳しく。どうか話してくれ。」
「あなたが立っておしまいになったあとで、私は穴蔵へ落ちました……」
「発作でかね、それともわざとかね?」
「そりゃわざとにきまってますよ。何事によらず、すっかり芝居を打っていたんです。悠々と階段を下までおりて、悠々と横になると唸りだして、連れて行かれるまでばたばたもがいていました。」
「ちょっと待ってくれ! ではその後も、病院でもずっと芝居をしていたのかね?」
「いいえ、そうじゃありません、あくる朝、病院へ行く前に、本当に激しい発作がやって来ました。もう永年こんなひどいのに出会ったことがないくらいで、二日間というもの、まるっきり感じがありませんでしたよ。」
「よろしい、よろしい。それから。」
「それから、寝床に寝かされましたが、いつも私が病気になった時のおきまりで、マルファさんが自分の部屋の衝立ての向うへ、夜どおし寝かしてくれることはわかっていました。あの女は、私が生れ落ちるとから、[#「生れ落ちるとから、」はママ]いつも優しくしてくれましたからね。夜分、私はうなりました、もっとも、低い声でしたがね。そして、今か今かと、ドミートリイさんを待っていました。」
「待っていたとは? お前のところへか?」
「私のところへ何用があります? 旦那の家へですよ。なぜって、あの人がその夜のうちにやって来ることを、もうとう疑っちゃおりませんでした。だって、あの人は私がいないから、何の知らせも手に入らないので、ぜひ自分で塀を乗り越えて、家の中へ入らなけりゃならないはずですものね。そんなことは平気でできるんですから、きっとなさるに違いありません。」
「だが、もし兄が行かなかったら?」
「そうすりゃ、何事もなかったでしょうよ。あの人が来なけりゃ、私だって何も思いきってしやしませんからね。」
「よろしい、よろしい……もっとよくわかるように言ってくれ。急がずにな、それに第一、何一つ抜かさないように!」
「私は、あの人が旦那を殺すのを待っていたのです……そりゃ間違いないこってす。なぜって、私がそうするように仕向けておいたんですからね……その二三日前からですよ……第一、あの人は例の合図を知っています。あの人はあの頃、疑いや嫉妬が積り積っていたのですから、ぜひこの合図を使って、家の中へ入り込むにきまりきっていたんですよ。それは決して間違いっこありません。そこで、私はあの人が来るのを待ってたわけなんで。」
「ちょっと待ってくれ」とイヴァンは遮った。「もし、あれが殺したら、金を持って行くはずじゃないか。お前だってそう考えるはずじゃないかね? してみれば、そのあとで何がお前の手に入るんだい? おれはそいつがわからないね。」
「ところが、あの人には決して金のありかがわかりっこありませんよ。あれはただ私が、金は蒲団の下に入っていると言って、教えておいただけなんで、まったく嘘の皮なんです。以前は手箱の中に入っていましたが、旦那は世界じゅうでただ一人、私だけ信用していましたから、そのあとで私が、金のはいった例の封筒を、聖像のうしろの隅へおきかえるように教えたんです。そこなら、ことに急いで入って来た時など、誰にも気づかれる心配がありませんからね。こういうわけで、あれは、あの封筒は、旦那の部屋の片隅の聖像のうしろにあったので。蒲団の下へ入れるなんて、そりゃ滑稽なことですよ。まだせめて手箱の中へ入れて、錠でもかけておきまさあね。でも、今はみんな、蒲団の下にあったものと信じきっていますが、馬鹿な考え方じゃありませんか。で、もしドミートリイさんがお父さんを殺しても、大ていの人殺しにありがちなように、ちょっとした物音にもおじけて、何一つ見つけ出さずに逃げてしまうか、それともふん縛られるかにきまっています。そうなりゃ、私はいつでも、あくる日でも、その晩にでも、聖像のうしろからその金を持ち出して、罪をすっかり、ドミートリイさんになすりつけることができますからね。私はいつだって、それを当てにしていいわけじゃありませんか?」
「でも、もし兄が親父を殴っただけで、殺さなかったとしたら?」
「もしあの人が殺さなかったら、むろん、私は金を取らないで、そのまま無駄にしておいたでしょう。が、またこういう目算もありましたよ。もしあの人が旦那を殴りつけて気絶させたら、私はやはりその金を盗んで、あとで旦那に向って、あなたを殴って金を取ったものは、ドミートリイさんのほかに誰もありません、とこう報告するんですよ。」
「ちょっと待ってくれ……おれは頭がこんぐらかってきた。じゃ、やっぱりドミートリイに殺させて、お前が金を取ったと言うんだな?」
「いいえ、あの人が殺したんじゃありません。なに、今でも私はあなたに向って、あの人が下手人だと言えますが……しかし、今あなたの前で嘘を言いたかありません。だって……だって、お見受け申すとおり、よしんば実際あなたが今まで、何もおわかりにならずにいたにしたところで、よしんば私の前でしらを切って、わかりきった自分の罪を人に塗りつけていらっしゃるのでないとしたところで、やっぱりあなたは全体のことに対して罪があるんですからね。なぜって、あなたは兇行のあることを知りながら、また現にそれを私に依頼しておきながら、自分では何もかも知っていながら、立っておしまいなすったんですものね。ですから、私は今晩、この一件の張本人はあなた一人で、私は自分で殺しはしたけれど、決して張本人じゃないってことを、あなたの目の前で証明したいんですよ。あなたが本当の下手人です!」
「なに、どうしておれが下手人なんだ? ああ!」イヴァンは自分の話はあとまわしにする決心を忘れて、とうとう我慢しきれずにこう叫んだ。「それはやはり、あのチェルマーシニャのことかね? だが、待て。よしんばお前が、おれのチェルマーシニャ行きを、同意の意味にとったとしても、一たい何のためにおれの同意が必要だったんだ? お前は今それをどういうふうに説明する?」
「あなたのご同意を確かめておけば、あなたが帰っていらしっても、紛失したこの三千ルーブリのために、騒ぎをもちあげなさることもあるまいし、またどうかして、私がドミートリイさんの代りに、その筋から嫌疑をかけられたり、ドミートリイさんとぐる[#「ぐる」に傍点]のように思われたりした時に、あなたが弁護して下さるってことが、ちゃんとわかっているからですよ……それに、遺産を手に入れておしまいになれば、その後いついつまでも、一生私の面倒を見て下さるでしょうからね。なぜって、あの遺産を相続なさったのは、何といっても私のおかげですよ。もしお父さんがアグラフェーナさんと結婚なすったなら、あなたはびた一文、おもらいになれなかったでしょうからね。」
「ああ! じゃ、お前はその後一生涯、おれを苦しめようと思ったんだな!」イヴァンは歯ぎしりした。「だが、もしおれがあのとき出発せずに、お前を訴えたらどうするつもりだったのだ?」
「あの時あなたは何を訴えようとおっしゃるんですね? 私があなたにチェルマーシニャ行きを勧めたことですか? そんなのはばかばかしい話じゃありませんか。それに、私たちが話し合ったあとで、あなたが出発なさるにせよ、残っていらっしゃるにせよ、べつに困ることはありゃしませんや。もし残っていらっしゃれば、何事も起らなかったでしょう、私はあなたがこの話をお望みにならないことを知って、何事もしなかったでしょうよ。が、もし出発なされば、それはあなたが私を裁判所へ訴えたりなどせずに、この三千ルーブリの金は私が取ってもいい、とこうおっしゃる証拠なんですからね。それに、あなたは