京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P146-149   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦56日目]

悲しそうに言った。
「いいや、いいや、いいや。あれはお前の言葉を信用する。今度のはな、お前自身でグルーシェンカのとこへ行くか、それともほかに何とかしてあれに会うて、あれがどっちを取る気でおるか、――わしかあいつか、どっちにする気でおるか、訊いてほしいのだ、早く、少しも早くな。つまり、お前が自分の目で見て察しるのだ。うん? どうだ? できるかできんか?」
「もし会ったら訊いてみましょう」とアリョーシャは当惑したように呟いた。
「いいや、あれはお前に言やあせん」と老人は遮った。「あれはずいぶんあまのじゃくだから、いきなりお前を摑まえて接吻して、お前さんのお嫁になりたいわ、と言うだろうよ。あれは嘘つきだ。恥知らずだ。そうだ、お前はあれのところへ行っちゃならん、断じてならん!」
「それに、またよくないことですよ、お父さん、まったくよくないことですよ。」
「あいつはお前を、どこへ使いにやろうとしておるのかな。さっき逃げて行く時に『行って来い』と喚いたじゃないか?」
「カチェリーナさんのとこです。」
「金の用だろう! 金の無心だろう?」
「いいえ、金の無心じゃありません。」
「あいつは金がないのだ、びた一文もないのだ。おいアリョーシャ、わしは一晩寝てゆっくり考えるから、お前はもう行ってもよいぞ。ことによったら、あれにも会うかもしれんて……しかし、明日の朝、ぜひわしのとこへ来てくれ、きっとだぞ。わしはその時、お前に一つ言いたいことがある。来るかな?」
「来ます。」
「もし来てくれるなら、自分で見舞いに寄ったような頏をしてくれ。わしが呼んだってことは、誰にも言うのじゃないぞ。イヴァンには一口も言うちゃならんぞ。」
「承知しました。」
「そんなら、さよなら、さっきお前はわしの味方をしてくれたな、あのことは死んでも忘れやせん。明日はぜひお前に言わにゃならんことがあるが……今はまだ、も少し考えておきたいから。」
「いま気分はどんなですか?」
「明日は起きるよ、明日は。もうすっかり癒った、もうすっかり癒った!……」
 アリョーシャは庭を横切ろうとして、門のそばのベンチに坐っているイヴァンに出会った。彼は鉛筆で何やら手帳に書き込んでいた。アリョーシャは兄に向って、老人が目をさまして意識を取り戻したこと、それから自分が僧院へ帰っていいという許しをもらったこと、などを話して聞かせた。
「アリョーシャ、僕は明日の朝お前に会えたら、大へん好都合だがね」とイヴァンは立ちあがって、愛想よく言いだした。こうした愛想のいい調子は、アリョーシャにとってまったく思いがけないものであった。
「僕は明日ホフラコーヴァ夫人のところへ行きますし」とアリョーシャは答えた。「それに、カチェリーナ・イヴァーノヴナのところへも、もしきょう留守だったら、明日また行ってみるかもしれないのです……」
「じゃ、今やはりカチェリーナさんのところへ行くんだね? 例の『よろしく、よろしく』かね!」突然、イヴァンはにたりと笑った。アリョーシャは妙に間が悪くなってしまった。
「僕はさっき兄貴の呶鳴ったこともすっかりわかったし、以前のことも幾分読めたような気がする。兄さんがお前に使いを頼んだわけは、きっと自分が……その……何だ……つまり手っ取り早く言うと、『よろしく言って』ほしいからさ。」
「兄さん! あのお父さんとミーチャとの恐ろしい事件は、一たい、どんなふうに落着するんでしょうねえ?」とアリョーシャは叫んだ。
「確かなことに何とも想像がつかないが、大したことはなく、自然に縺れが解けるかもしれない。あの女は獣だね。とにかく爺さんを家の中に抑えておいて、ミーチャを家へ入れないようにしなくちや。」
「兄さん、失礼ですが、一つ訊きていことがあります。一たいどんな人間でもほかの者に対して、誰それは生きる資格があって、誰それはその資格がない、などと決める権利を持ってるものでしょうか?」
「何だってお前は、この問題に資格の決定など持ち込むんだい! この問題は資格などを基礎とすべきではなく、もっと自然なほかの理由によって、人間の心の中で決しられるのが一ばん普通だね。しかし、権利という点になると、誰だって希望の権利を持ってないものはないさ。」
「しかし、他人の死を希望することじゃないでしょう?」 
「他人の死だって仕方がないさ。それに、すべての人がそんなふうにして生きてる、というよりむしろ、そのほかの生き方ができないんだからね、自分で自分に嘘をつく必要なんか、どこにもないじゃないか。ところで、お前がそんなことを言いだしたのは、さっきの『毒虫が二匹咬み合ってる』という、僕の言葉を目やすにおいてるのかね? そういうわけなら、僕のほうからも一つ訊ねたいことがある。お前は僕もミーチャと同じように、あのイソップ爺《じじい》の血を流しかねない、――つまり、――殺しかねない人間だと思ってるのかい?」
「まあ、何を言うのです、兄さん! そんなことは夢にも考えたことがありませんよ! それに、大きい兄さんだってそんなこと……」
「いや、それだけでも有難い!」とイヴァンは苦笑した。「実際、僕はいつでも親父を守ってやるよ。しかし、自分の希望の中にはこの場合、十分な余地を残しておくからね。じゃ、さようなら、また明日ね。どうか僕を責めないで、そして悪者扱いにしないでくれ」と彼は微笑を浮べながら言った。
 二人はかつてこれまでなかったように、強く握手をした。アリョーシャは、兄が自分のほうから先にこちらヘー歩近づいて来たが、これには必ず何かの心算があるに相違ないと直覚した。

   第十 二人の女

 父の家を出たときのアリョーシャは、さきほどここへ入った時よりも、なお一そう打ち砕かれ、へし潰されたような心持になっていた。彼の理性も同様、微塵になって散乱したようであったが、同時に彼はそのばらばらになったものを継ぎ合せて、きょう一日のうちに経験したすべての矛盾の中から、一つの普遍的な意味を抽き出すのが恐ろしいように感じられた。何だかほとんど絶望と境を接しているようなあるものがあった。こんなことは今までかつて、アリョーシャの心に生じたことがなかった。こうした一切の上に、山のごとく聳えているのは、あの恐ろしい女に関する父と兄との事件が、一たいいつ終るだろうという、解決することのできない運命的な疑問であった。もう今日こそ彼は自分の目で見た、自分でその現場に居合わして、相対せる二人を見たのだ。とはいえ、不幸な人、本当に不幸な人と感じられるのは、ただ兄ドミートリイー人でなければならない。疑いもなく、恐ろしい災厄が彼を待ち伏せしている。その上、以前アリョーシャが考えていたよりも、ずっと事件に関係の深い人がまたほかにもあるらしい。兄のイヴァンは彼が久しい以前から望んでいたように、自分のほうヘー歩踏み出して来た。しかし、彼はなぜかこの接近の第一歩が、薄気味わるく感じられるのであった。
 ところで、あの二人の女はどうだろう? 奇妙な話ではあるが、さきほどカチェリーナのもとをさして赴く時、非常な当惑を感じたにもかかわらず、今は少しもそんなことがなかった。それどころか、まるでこの婦人の助言でもあてにしているように、自分のほうから彼女のもとをさして急ぐのであった。とはいえ、彼女にことづけを伝えるのは、先刻より余計くるしいように思われた。三千ルーブリの問題がきっぱりと決せられたから、兄ドミートリイはもはや自分を不正直者ときめてしまって、絶望のあまりいかなる堕落の前にも躊躇しないに相違ない。その上彼はたった今起った出来事を、カチェリーナに伝えてくれと言いつけている…… アリョーシャがカチェリーナの家へ入っ七時は、もう七時で、黄昏の色がかなり濃くなっていた。彼女は大通りにある恐ろしく広い、便利な家を一軒借りていた。彼女が二人の伯母と一緒に暮していることも、アリョーシャは承知していた。その中の一人は、姉のアガーフィヤだけの伯母にあたっていた。これは、彼女が専門学校から父の家へ帰って来た時、姉と一緒に世話を焼いてくれた、例の無口な婦人であった。いま一人の伯母は権式の高い、そのくせ貧乏なモスクワの貴婦人である。噂によると、伯母たちは二人とも万事につけて、カチェリーナの言うがままになって、ただ世間体のために姪のそばについているだけなのであった。カチェリーナが言うことを聞くのは、いま病気のためモスクワに残っている恩人の将軍夫人ばかりであった。この人には毎週手紙を二通ずつ送って、自分のことを詳しく知らしてやらねばならなかった。
 アリョーシャが控え室に入って、戸を開けてくれた小間使に自分の来訪を取り次ぐように頼んだ時、広間のほうでは早くも彼の来訪を知ったらしかった(ひょっとしたら、窓から見たのかもしれない)。と、急に、何かがたがた騒々しい物音がして、たれか女の駆け出す足音や、さらさらという衣摺れの音などが聞えだ。何だか二三人の女が駆け出したような気配である。アリョーシャは、自分の来訪がこんな騒ぎをひき起すはずはないのにと奇妙に思った。しかし、彼はすぐ広間へ案内された。
 それは田舎式とまるで違って、優美な道具類を豊かに並べた大きな部屋であった。長椅子や|円 榻《クシェートカ》や大小のテーブルがおびただしく配置され、四方の壁にはさまざまな画がかかり、テーブルの上にはいくつかの花瓶やランプが置かれて、花卉類もたくさんにあった。そればかりか、窓のそばには魚を入れたガラスの箱さえ据えてあった。黄昏時のこととて部屋の中は幾分うす暗かった。つい今しがたまで人の坐っていたらしい長椅子の上には、絹の婦人外套《マンチリア》が投げ出され、長椅子の前のテーブルの上には、飲み残されチョコレートの茶碗が二つと、ビスケットと、青い乾葡萄のはいったガラスの皿と、菓子を盛ったいま一つの皿、――などがうっちゃってあるのに、アリョーシャは気がついた。どうも誰かを饗応していたらしい様子なので、アリョーシャは来客の席へぶつかっ化のだな、と思って眉をひそめた。
 しかし、その瞬間とばりが上って、カチェリーナが忙しそうな、せかせかした足どりで入って来た。そして、歓喜の溢れ化微笑を浮べながら、両手をアリョーシャのほうへさし伸べた。それと同時に、女中が火をともした蝋燭を二本持って来て、テーブルの上へおいた。
「まあよかった。とうとうあなたも来て下さいましたわね!わたし今日いちん日あなたのことばかり、神様にお祈りしていましたの! どうぞお坐り下さいまし。」
 カチェリーナの美貌は、このまえ会った時も、アリョーシャに烈しいショックを与えた。それは三週間ばかり前ドミートリイが、彼女自身の熱心な希望によって、はじめて弟を連れて行って紹介した時のことである。その会見の時は二人の間に、どうもうまく話がつづかなかった。カチェリーナは、彼が恐ろしくどぎまぎしているらしいのを見て、世馴れぬ少年を容赦するといった様子で、初めからしまいまでドミートリイとばかり話していた。アリョーシャはじっと黙り込んでいたけれども、いろいろなことをはっきりと見分けたのである。
 そのとき彼を驚かしたのは、思いあがった令嬢の権高い様子と、高慢らしく打ち解けた態度と、自己に対する深い信念であった。これは断じて疑いの余地がなかった。アリョーシャは自分が誇張におちいっていないことを信じていた。彼は、その誇りに充ちた大きな黒い目の美しいこと、それが彼女の蒼白い、むしろ蒼黄ろいような長めな顔にことのほかよく似合うこと、などを発見したのである。この目の中にも、また美しい唇の輪郭の中にも、いかにも兄が夢中になって打ち込みそうではあるけれど、長く愛していられないような何ものかがあった。ドミートリイがその訪問のあとで、自分の許嫁を見てどんな印象を受けたかとしつこく弟に訊ねたとき、アリョーシャはこの感想をむきつけに言ってしまった。
「兄さんはあのひとと一緒に、幸福に暮すでしょうが……しかし、それは穏かな幸福ではないかもしれませんよ。」
「そこなんだよ。ああいうふうの女は、いつまでもああいうふうでいるんだよ。ああいうふうの女は、決して諦めて運を天に任せるということをしない。で、何だな、お前はおれが永久にあの女を愛さないと思うんだな?」
「いいえ、もしかしたら、永久に愛するかもしれませんけれど、あのひとと一緒になっても、しじゅう幸福でいられないかもしれませんよ……」
 アリョーシャはそのとき真っ赤になって、自分の意見を述べた。そして、つい兄の乞いにつり込まれてこんな『愚かな』考えを吐いたのを、自分ながらいまいましく思った。なぜなら、彼がこの意見を口に出すと同時に、自分にも恐ろしくばかばかしく感じられたからである。それに、自分のようなものが婦人