京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP229-P240

目で彼女を引きとめながら、ラスコーリニコフはせきこんでいった。「どうぞお掛けください。きっとカチェリーナ・イヴァーノヴナのお使いでしょう。どうぞ、そこじゃない、こちらへお掛けください……」
 ラスコーリニコフの三つしかないいすの一つに腰をかけ、戸口のすぐそばに座を占めていたラズーミヒンは、ソーニャがはいって来るといっしょに、彼女に道をあたえるために席を立った。はじめラスコーリニコフは、ゾシーモフの掛けていた長いすの一|隅《ぐう》をすすめようとしたが、ふとそれではあまりなれなれ[#「なれなれ」に傍点]しすぎる、それは自分のべッドにもなるものだと気づき、急いでラズーミヒンのいすをさしたのである。
「きみはこっちへ掛けてくれ」と彼はいって、ゾシーモフの掛けていた片すみヘラズーミヒンをすわらせた。
 ソーニャは恐怖のあまり、わなわな身をふるわさないばかりの有様で、ようやく席に着くと、おくびょうげにちらとふたりの婦人を見やった。彼女は見うけたところ、どうしてこんな人たちと並んですわることができたか、自分ながら合点《がてん》がいかないらしい様子だった。ふとそのことを考えると、彼女はすっかりおびえあがって、またすぐ席を立ちあがり、とほうにくれるほどどぎまぎしながら、ラスコーリニコフに話しかけた。
「わたし……わたし……ほんのちょっとお寄りしましたので。おじゃまいたしまして申し訳ありません」と彼女は口ごもりながらいいだした。「わたしはカチェリーナ・イヴァーノヴナの使いであがりました。ほかにだれも人がないもので
ございますから……カチェリーナ・イヴァーノヴナが、明日のお葬式にぜひいらしていただくように、おりいってお願いして来いと申しました。……朝、祈禱式がございます……ミトロファニエフスキイで……それからわたしどもで……母のところで……ひと口めしあがっていただけますと……光栄にぞんじますと……母の申しつけでございます」
 ソーニャはいいよどみ、口をつぐんだ。
「かならず伺うようにします……かならず……」ラスコーリニコフも同様に立ちあがって、同様にいいよどみ、言葉をにごしながら、こう答えた。「どうぞお掛けください」と彼は出しぬけにいった。「ぼくちょっとお話したいことがあるんです。どうぞ、お急ぎかもしれませんが――お願いですから、ぼくのために二分ばかりさいてください……」
 そういって、彼女にいすをすすめた。ソーニャはふたたび腰をおろして、またしてもおずおずと、とほうにくれたように、急いでちらとふたりの婦人を見たが、急に目を伏せてしまった。
 ラスコーリニコフの青白い顔はかっと赤くなった。彼はまるで全身を痙攣《けいれん》にしばられたようになり、目はぎらぎらと燃えだした。
「お母さん」と彼はしっかりした押しつけるような調子でいった。「このかたがソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードヴァです。もうさっきお話したマルメラードフ氏、きのうぼくの目の前で馬のひづめにかけられた、あの不幸な人の娘さんです……」
 プリヘーリヤはソーニャをちらと見て、心もち目をほそめた。ロージャの執拗《しつよう》ないどむようなまなざしに、かなりどぎまぎしていたにもかかわらず、彼女はどうしてもこういう態度を取って、一種の快感を味わずにいられなかった。ドゥーネチカはまじめな表情で、まともに哀れな娘の顔に目を凝らし、合点がいかぬというように、彼女を点検にかかった。ソーニャはこの紹介が耳に入ると、また目を上げようとしたが、こんどは前よりよけいどぎまぎしてしまった。
「あなたに伺おうと思ってたんですが」とラスコーリニコフは急いで彼女に話しかけた。「今日お宅ではどんなふうにかたがつきました? うるさいことはありませんでしたか?……たとえば警察のほうなんか」
「いいえ、すっかりかたづきました……だってなくなった原因が、わかりすぎるくらいわかっているものですから、べつだんうるさいことはございませんでした。ただ同じ家の借家人《しゃくやにん》たちが腹をたてまして」
「なぜです?」
「死骸《しがい》をいつまでも置いとくって……なにぶんこの暑さで、においがいたしますものですから……で、今日は晩の祈禱式のころに、墓地へ運んでまいりまして、明日まで礼拝堂に置いていただくつもりでございます。カチェリーナ・イヴァーノヴナは、最初それをいやがりましたが、今では自分でも、ほかにしようのないことがわかったようでございます……」
「じゃ今日ですね?」
「母はあす教会のお葬式に、あなたもお出向きくださいますようと申しております。それからあとで宅のほうへも、法事にお寄りを願いたいって」
「お母さんは法事をなさるんですか?」
「ええ、ほんのお口よごしですけど、母はくれぐれも、きのうお助けくださいましたお礼を申すようにとのことで……まったくあなたがお見えにならなかったら、お葬《とむら》いをすることもできなかったのでございますから」
 とふいに、彼女のくちびるとあごがぴくぴくと踊りはじめた。けれど、彼女は急いで目を落とし、じっとがまんして押しこらえた。
 話のあいだに、ラスコーリニコフはしさいに彼女を観察した。それはやせた、まったくやせこけた、青白い、割合に輪郭《りんかく》の整わない、どことなくとがった感じのする顔で、小さな鼻とあごも、とがっていた。彼女は美人とはいいにくいくらいであったが、その代り、青い目が透きとおるよう澄みきって、それがいきいきしてくると、だれしもつい引きつけられてしまうくらい、顔の表情がなんともいえず善良な無邪気な感じになってくるのであった。そのうえ、彼女の顔にもその姿ぜんたいにも、一つきわ立った特色があった。それは彼女がもう十八というにもかかわらず、その年よりもずっと若く、まるでほんの小娘――というよりむしろ子供のように見えることであった。そして、それがどうかするとおかしいほど、彼女の動作に現われるのであった。
「ですが、いったいカチェリーナ・イヴァーノヴナは、あれっぽっちの金で万事をしまつして、おまけにごちそうまでしようとなさるんですか?………」とラスコーリニコフはしっこく話をつづけながら、こうたずねた。
「だって、棺もそまつなのでございますし……それに何もかも手軽にいたしますから、いくらもかかりませんの……さっきカチェリーナ・イヴァーノヴナとふたりで、すっかり勘定をしてみましたら、法事をするくらい余りました……カチェリーナ・イヴァーノヴナはぜひそうしたいと申しますの。だって、やはりそういたしませんでは……母にはそれが、せめてもの慰めなんでございます……ごぞんじのとおりの人でございますから……」
「わかりますとも、わかりますとも……そりゃもちろんです……なんだってあなたはそんなにぼくの部屋を、じろじろごらんなさるんです? さっきもこの母が、棺に似てるなんていったところですよ」
「あなたはきのうわたしどもに、お持ち合わせをすっかりくだすったんですわね!」ソーネチカはふいに、しっかりした早口で、ささやくようにいいながら、急にまた深くうなだれてしまった。
 彼女のくちびるとあごはまたしても踊りだした。彼女はもうさきほどから、ラスコーリニコフの貧しい住まいのさまに胸を打たれていたので、ふとわれ知らずこんな言葉が口を出たのである。一座を沈黙が襲った。ドゥーネチカの目は妙に輝いてきた。プリヘーリヤはあいそよくソーニャをながめた。
「ロージャ」と彼女は席を立ちながらいった。「わたしたちはむろんあとでいっしょに、ご飯をいただくことになってるんだよ。ドゥーネチカ、帰りましょうよ……ねえ、ロージャ、お前すこし散歩してね、それからしばらく横になって休むがいい。そのうえで、なるべく早く来ておくれ……でないと、わたしたちはお前を疲れさせたようで、気がかりだからね……」
「ええ、ええ、行きますとも」と彼は立ちあがりながら、気ぜわしげに答えた。「しかし、ぼくは用事があるから……」
「え、いったいきみたちは、みな別々に食事をするつもりなのかい?」びっくりしてラスコーリニコフを見ながら、ラズーミヒンは叫んだ。「きみ、それは何をいうんだ?」
「ああ、ああ、行くとも、むろん……だが、きみはちょっと残ってくれないか。お母さん、この男はいま入り用じゃないでしょう? それとも、ぼくが横取りするようになりますかしら?」
「いいえ、そんなことありゃしないよ! じゃ、ドミートリイ・プロコーフィチ、どうぞあなたも食事にいらしてくださいまし、ね?」
「どうぞ、ぜひいらしてくださいね」とドゥーニャもいっしょに頼んだ。
 ラズーミヒンはおじぎをして、満面えみかがやいた。ちょっとの間、急にだれもがなんとなく妙にきまりのわるい思いをした。
「ではさようなら、ロージャ。いえ、そうじゃない、また後ほどね。わたし『さようなら』というのがきらいでね。さようなら、ナスターシヤ……あら、また『さようなら』なんていってしまった!………」
 プリヘーリヤはソーネチカにもあいさつしようとしたが、なぜかそれができなかった。で、彼女はそそくさと部屋を出てしまった。
 けれど、アヴドーチヤは順番を待ってでもいたように、母につづいてソーニャのそばを通りながら、心のこもったいんぎんな低い会釈《えしゃく》であいさつした。ソーネチカはどぎまぎし、おびえたようにあわてて会釈を返した。アヴドーチヤが自分のことも忘れずに、いんぎんな態度を示してくれたのが、彼女にはつらくせつなく感ぜられるかのように、その顔には病的な感じが反射したほどである。
「ドゥーニャ、じゃさようなら!」とラスコーリニコフはもう控え室へ出てから、そう叫んだ。「さあ、手をおくれ!」
「あら、いまあげたじゃありませんか、忘れたの?」優しくきまりわるげに、兄のほうへふり向きながら、ドゥーニャは答えた。
「なに、いいじゃないか、もう一度おくれよ!」
 こういって、彼は堅く妹の指をにぎりしめた。ドゥーネチカはにっと微笑して見せて、ぼうっと顔をあからめた。そして、すばやく自分の手をひくと、母のあとを追って行ってしまった。やはりなぜか幸福にみちた様子で。
「さあ、これでよしと!」自分の部屋へ帰ると、はればれしい目でソーニャを見ながら、彼は口をきった。「神よ、死者に平安を与え、生けるものになお生くることを許したまえ!そうじ[#「たまえ!そうじ」はママ]ゃありませんか? そうじゃありませんか? ね、そうじゃありませんか?」
 ソーニャはあっけにとられながら、にわかに明るくなった彼の顔をながめた。彼はしばらく無言のまま、じっと彼女を見つめていた。なくなった父マルメラードフの彼女にかんする物語が、この瞬間、そっくり彼の記憶によみがえった……

「やれやれ、ドゥーネチカ!」表へ出るやいなや、プリヘーリヤはすぐにいいだした。「今こうして出て来たのが、わたしゃなんだかうれしいみたいな気がする、妙に気が楽になったようでね。でもねえ、きのう汽車の中では、まさかこんなことをうれしがろうとは、思いもよらなかったのに!」
「また同じことをいうようですけれどね、お母さん、兄さんはまだよっぽど悪いのよ。あれがお母さんにはわからなくって? もしかしたら、わたしたちのことを苦にして、からだをこわしたのかもしれなくってよ。わたしたちは、もっと手加減してあげなくちゃならないんですね、そうすればたいていのことはしんぼうできるんだわ」
「だって、お前は手加減してあげなかったじゃないか!」とプリヘーリヤはすぐさま熱くなって、一生けんめいにさえぎった。「ねえ、ドゥーニャ、わたしはお前たちふたりをつくづく見ていたが、お前は兄さんとそっくりそのままだよ、顔だちというよりか、気性のほうがね! お前たちはふたりとも陰気な気むずかしやで、おこりっぽくて、気位が高くて、しかもふたりながら心がひろいんだよ……だって、あの子が利己主義だなんて、そんなことはあるはずがないじゃないの、え、ドゥーネチカ?……ああ、今晩みなが集まってからのことを考えると、わたしゃもう胸がちぢみあがりそうだ!」
「そんなに心配なさらないほうがいいわ、お母さん。どうせなるようにしかならないんですから」
ドゥーネチカ! いまわたしたちがどんなはめになっているか、お前もちっと考えてごらんよ! ピョートル・ペトローヴィチに断わられたら、まあどうなると思って?」と哀れなプリヘーリヤは、ついうっかり口をすべらした。
「もしそうだったら、あんな人になんの値うちがあって!」とドゥーネチカは鋭く、吐き出すように答えた。
「でも、わたしたちはいま出て来て、いいことをしたね」とプリヘーリヤはせっかちに相手の言葉をさえぎった。「ロージャは、どこかへ急な用があるといってたが、ちょっとは外を歩いて、新しい空気でも吸うといいんだよ……ほんとにあの部屋の息ぐるしいことったら、恐ろしいよう……だけどここじゃ、どこへ行けばいい空気が吸えるんだろう? ここじゃ通りでも、通風口のない部屋の中にいるのと同じだもの!ああ、[#「だもの!ああ、」はママ]ほんとうになんて町だろう……ちょっと少しわきへお寄り、つぶされてしまうよ。なんだかかついで来たから! あら、ピアノを運んで来たんだよ、ほんとに……なんてやたらにぶっつかるんだろう……わたしはね、あの娘もやはり恐ろしくってしようがないよ……」
「娘ってだれ、お母さん?」
「ほら、あれさ、ソフィヤ・セミョーノヴナ、いま来ていた……」
「どうして?」
「わたしなんだか虫が知らせるようでね、ドゥーニャ。まあ、お前はほんとうにするともしないとも勝手だけれど、あの娘がはいって来たとたんに、わたしはそう思ったよ――つまりここにこそ、ほんとうのいわくがあるって……」
「なんにもいわくなんかありゃしないわ!」とドゥーニャはいまいましげに叫んだ。「お母さんの虫の知らせも困ったものね! 兄さんはきのう初めてあの娘さんに会ったばかりで、はいって来たときも、だれだか気がつかなかったくらいじゃありませんか」
「じゃ、まあ見ておいで! わたしはあの娘のことが気になってしようがないんだよ。まあ、いまに見ておいで、見ておいで! わたしはほんとにびっくりしてしまったよ。わたしのほうを一生けんめいに見るその目つきったら、わたしはいすの上にじっといたたまれないほどだったよ。覚えておいでかい、あれが紹介を始めたときさ? わたし変な気がしたよ――ピョートル・ペトローヴィチがあんなことを書いてるのに、ロージャはあの娘をわたしたちに、しかもお前にまで引き合わせるんだもの! だからつまり、たいせつな人なんだよ!」
「あの人がいろんなことを書くのは、なにも珍しかありませんわ! わたしたちのことだって、世間ではやはりうわさしたり、書いたりしたじゃありませんか。いったいお忘れになったの? わたしあの娘さんは……りっぱな人で、そんなかげ口は皆でたらめにちがいないと思うわ!」
「そうであってくれればね!」
「ピョートル・ペトローヴィチはたちの悪い金棒《かなぼう》引きよ」とふいにドゥーネチカはずばりといった。
 プリヘーリヤは鳴りをひそめた。会話はぷつりと切れた。

「ねえきみ、きみにちょっと話があるんだ……」とラスコーリニコフは、ラズーミヒンを小窓のほうへ引っぱって行きながら、こういった……
「では、カチェリーナ・イヴァーノヴナに、いらしてくださいますと申し伝えますから……」ソーニャはそわそわと帰り支度をして、会釈《えしゃく》しながらいった。
「ただ今すぐ、ソフィヤ・セミョーノヴナ、ぼくたちの話はなにも秘密じゃないんですから、けっしてかまいませんよ……ぼくはまだあなたにひとこといいたいことがあるんです……」といい終わらないうち、彼は急にぷっつり断ち切ったように、ラズーミヒンのほうへふり向いた。「あのね、きみ、きみは知ってるんだろう、あのほら、なんといったっけな!………ポルフィーリイ・ペトローヴィチさ?」
「知らなくってさ! 親類だもの、それが、どうしたんだい?」こちらはこみあげてくる好奇心にがられて、こういいたした。
「だって、あの男がいまあの事件を……ほら、例の殺人事件さ……ねえ、きのうきみらが話していた……あれを扱ってるって?」
「うん……それで?」とラズーミヒンは急に目をみはった。
「あの男が入質人を調べたそうだが、じつはぼくもおいたものがあるんだ。なに、つまらないものだがね、でもぼくがこっちへ出て来るときに、妹が記念にくれた指輪と、おやじの銀時計なんだ。皆で五、六ルーブリのしろ物だが、ぼくにしてはたいせつなものなんだよ、記念《かたみ》だからね。そこで、どうしたもんだろう? ぼくはそいつをなくしたくないんだ、ことに時計のほうをね。さっきドゥーネチカの時計の話が出たとき、母があれを見せろといいやしないかと思って、ぼくはびくびくしていたんだ。なにしろ、おやじのあとに残った唯一の記念品《かたみ》なんだから。もしあれがなくなったら、母は病気になってしまう! なにしろ女だからね! まあ、こういったわけで、どうしたもんだろう、ひとつ教えてくれないか!警察へ[#「ないか!警察へ」はママ]届けることは知ってるが、それよりいっそ、ポルフィーリイに直接のほうがよくはないかと思うんだ、え? きみどう思う? なんとか早く処置をつけなくちゃ。見ていたまえ、また食事の前に、母がきっといいだすから!」
「警察なんか絶対にだめだ、どうしてもポルフィーリイのところだな!」ラズーミヒンはなぜか非常に興奮して叫んだ。「いや、そいつは愉快だ! なにもぐずぐずしてることはない、すぐ出かけよう。ほんのひと足だ。きっと家にいるよ!」
「そうだな……行ってもいい……」
「あの男もきみと近づきになるのは、非常に、非常に、非常に、非常に喜ぶよ! ぼくもきみのことはあの男に、もうたびたび話したよ、いろんなときにね……げんに昨日も話したんだぜ。行こう!………じゃ、きみはあのばあさんを知ってたんだね? そいつはけっこうだ!………これは、じつにうまい都合になってきたぞ!………あっ、そうだ……ソフィヤ・イヴァーノヴナ……」
「ソフィヤ・セミョーノヴナだよ」とラスコーリニコフは訂正した。「ソフィヤ・セミョーノヴナ、これはぼくの友人で、ラズーミヒンといいます。いい男ですから……」
「これからお出かけになるんでしたら……」まるでラズーミヒンのほうを見ないで、ソーニャはこういったが、そのためよけいにまごまごしてしまった。
「じゃ、いっしょに出かけましょう!」とラスコーリニコフは話を決めた。「今日にもさっそく、ぼくあなたのところへお寄りします。ただね、ソフィヤ・セミョーノヴナ、どこにお住まいですか、それを聞かしてくれませんか?」
 彼はまごついたというほどではないが、何となくせきこんだ様子で、彼女の視線を避けるようにした。ソーニャは自分の居所を教えたが、その時また赤くなった。三人はいっしょに出かけた。
「かぎはかけないのかい?」ふたりの後ろから階段をおりながら、ラズーミヒンがきいた。
「一度もかけたことはないよ!………もっとも、もう二年ばかりというもの、しょっちゅう錠を買いたいとは思ってるんだがね」と彼はむぞうさにいいたした。「かぎをかける必要のない人間は、幸福なもんですね?」と彼は笑いながら、ソーニャに話しかけた。
 やがて三人は表へ出て、門口で立ち止まった。
「あなたは右へですね、ソフィヤ・セミョーノヴナ? ときに、あなたはどうしてぼくをさがしあてました?」何かまるで別なことをいいそうなようすで、彼はたずねた。彼はたえず彼女の落ちついた、澄んだ目を見たかったけれど、なぜかそれができなかった……
「だってきのうポーレチカに、お住まいをおっしゃったじゃありませんか」
「ポーリャ? ああ、そう……ポーレチカ! あの……小さい女の子……あれはあなたの妹さんでしたね? ぼくあの子に住所を教えたかしら?」
「まあ、お忘れになったんですの?」
「いや……覚えています……」
「それに、あなたのことはなくなった父からも、あの当時おうわさを伺ったことがありますの……もっとも、そのときは、まだお名まえをぞんじませんでしたし、父もやはりそうでした……ただいままいりましたとき……昨晩ご苗字を伺いましたので、ラスコーリニコフさまのお住まいはどちらかと尋ねましたのですけれど……あなたがやはり間借りしていらっしゃるとは、思いもよりませんでした……では、失礼いたします……わたしはカチェリーナ・イヴァーノヴナのところへ……」
 彼女は、やっとふたりに別れたのがうれしくてたまらなかった。彼女は目を伏せて、急ぎ足に歩いた。一刻も早くふたりの目から隠れて、次の通りへ曲がる右角までの二十歩を、一刻も早く通り過ぎ、ひとりきりになってゆっくり歩きながら、だれの顔も見ず、何ひとつ気にもとめないで、いま話した一つ一つの言葉、一つ一つの状況を考えたり、思い出したり、考え合わせたりしたかったのである。彼女はこれまでかつて一度もこんな感じを経験したことがなかった。大きな新しい世界がいつともなく、ぼうっと彼女の心に入り込んだのである。彼女はふとラスコーリニコフが今日たずねたいといったことを思い出した。もしかしたら朝のうちに、ことによると今すぐにも!
「ただ今日だけはいらっしゃらないように、どうぞ、今日でないように!」まるで小さい子供がおびえたとき哀願するように、彼女は胸のしびれるような思いでつぶやいた。「ああ、どうしよう! わたしのところへ……あの部屋へ……あのかたがごらんになる……ああ、どうしよう!」
 で、彼女はそのとき、ひとりの見知らぬ男がすぐあとから、根気よくつけて来るのに、もちろん気のつくはずがなかった。男は彼女が門を出るとすぐ、つけていたのである。ラズーミヒン、ラスコーリニコフと、彼女が三人そろって歩道の上で立ち話をしていたちょうどそのおり、この通行人のそばを通りすがりに、思いがけなく小耳にはさんだ。『ラスコーリニコフさまのお住まいはどちらかと尋ねました』というソーニャの言葉に、思わずぴくりとしたのである。彼はすばやくしかも注意して三人を、ことにソーニャが話しかけていたラスコーリニコフを見まわし、それから家をじろりとながめて、記憶に止めた。これはすべて一瞬間のことで、歩きながらのことだった。それから男は、何くわぬ顔をして通り過ぎ、少し先へ行ってから、何か待ち受けるように足をゆるめた。彼はソーニャを待っていたのである。三人が別れを告げているのも、ソーニャがすぐどこか自分の家へ帰って行くらしいのも、彼はすっかり見てとったのである。
『だが、いったいどこへ帰って行くんだろう? あの顔はどこかで見たような気がする』と彼はソーニャの顔を思い出しながら考えた。『ひとつ突き止めなきゃ』
 曲がり角まで行き着くと、彼は通りの反対側へ移って、ふりかえって見た。すると、ソーニャはあとから同じ道を、なんにも気がつかないで歩いて来る。曲がり角まで来ると、ちょうど彼女も同じほうへ曲がった。彼は反対側の歩道から、目を離さないようにしてつけて行った。五十歩ばかり行くと、彼はまたソーニャの歩いている側へ移って、そばまで追いつき、五歩ばかりの間隔をおいてあとをつけた。
 それは年のころ五十ばかり、丈《たけ》は中背よりもやや高く、幅の広い怒り肩のために、いくらか猫背《ねこぜ》のように見える、体格のいい男であった。彼はハイカラな着ごこちよげな服装をし、いかにも堂々たる紳士らしい風采《ふうさい》をしていた。彼はしゃれたステッキで一歩ごとに歩道をこつこつ鳴らし、手には新しい手ぶくろをはめていた。ほお骨の高い大きな顔はかなり感じがよく、いきいきした色つやを帯びていて、ペテルブルグ人らしくなかった。髪はまだ非常に濃く、ほんのわずか白いものが見えるだけで、完全な亜麻色をしていた。シャベル形にのばされた幅広の濃いひげは、額の髪よりもっと明るい色をしていた。空色の目は冷たく、じっともの思わしげな表情をし、くちびるはまっ赤だった。ぜんたいに彼は少しも老いこまない質《たち》の、年よりずっと若く見える男であった。
 ソーニャが濠《ほり》ばたへ出たとき、歩道には彼らふたりきりであった。彼はしさいに観察しているうちに、彼女がもの思いに沈んで、ぼんやりしているのに気がついた。自分の家まで来ると、ソーニャは門の中へはいった。彼は、そのあとからついてはいったが、いささか驚いたようなふうだった。中庭へはいると、彼女は自分の住まいへ通ずる階段をさして、右のすみへ向かった。『おや!』と見知らぬ紳士はつぶやき、彼女のあとから階段を上がり始めた。その時ソーニャは初めて彼に心づいた。彼女は三階へ上がって廊下をまがり、ドアにチョークで『裁縫職カペルナウモフ』と書いてある、九号室のベルを鳴らした。『おや?』と見知らぬ紳士はふしぎな符合に驚いて、またくりかえした。そして、並びの八号室のベルを鳴らした。二つの戸口は、六歩ばかりしか隔てていなかった。
「あなたはカペルナウモフのところにお住まいですか!」と彼はソーニャを見て笑顔《えがお》でいった。「きのう、わたしはあの男に、チョッキを直してもらいましたよ。わたしはついお隣のマダム・レスリッヒ――ゲルトルーダ・カールロヴナのところに下宿してるんですよ。妙なことがあればあるものですなあ!」
 ソーニャはじっと注意ぶかく彼を見つめた。
「お隣同士ですな」と彼は何かかくべつ愉快らしく話しつづけた。「わたしはペテルブルグへ来てから、やっと三日目なんです。では、またお目にかかりましょう」
 ソーニャは答えなかった。ドアが開くと、彼女は自分の部屋へすべり込んだ。なぜか恥ずかしくなり、なんとなくおじ気《け》づいたような風情《ふぜい》たった……

 ラズーミヒンは、ポルフィーリイのところへ案内するみちみち、かくべつ興奮したような気分になっていた。「いや、きみ、じつによかったよ」と彼は幾度もくりかえした。「ぼくもうれしい! ぼくもうれしいよ!」
『いったい何がそんなにうれしいんだ?』とラスコーリニコフは腹の中で考えた。
「だってぼくは、君もあのばあさんのところに質を置いてたなんて、まるで知らなかったよ。で……で……それはよほど前かね? つまり、もうだいぶ前にあすこへ行ったのかね?」
『なんて頭の単純なばかだ!』
「いつって?………」とラスコーリニコフは考えながら立ち止まった。「そう、殺された三日ばかり前に行ったかなあ。しかし、ぼくはいま、その品物を受け出しに行ってるんじゃないよ」と彼は妙にせきこみながら、かくべつ品物のことが気になるというふうで、あわてていい直した。「だって、ぼくは一ルーブリしか持ってないんだからね……あのきのうのいまいましい夢遊病のおかげでさ!」
 彼は夢遊病という言葉を、とくに力を入れて発音した。
「うん、そうだ、そうだ、そうだ!」ラズーミヒンはせきこみながら、何やらしきりに相づちを打った。「ああ、つまりそれで、あの時どうしてきみが……あんなにショックを感じたのか……じつはね、きみはあのとき、熱に浮かされながら、しきりになんだか指輪のことだの、鎖のことばかりうわ言にいってたんだよ!………うん、そうだ、そうだ……それではっきりした、今こそ何もかもはっきりした」
『へえ! あいつらの頭に、そんな考えがしみこんでるんだな! この男なんかおれのためには、十字架にだってかけられるのもいとわないほどなんだが、それですらも、おれが指輪のことをうわ言にいったわけが、はっきり[#「はっきり」に傍点]したといって喜んでいやがる! どうもすっかりこいつが根を張ってたとみえる!………』
「だが、いま行って会えるだろうかな?」と彼は声に出して尋ねた。
「会えるとも、会えるとも」ラズーミヒンは急いでいった。「あれは、きみ、いい男だよ、今にわかるがね! もっとも、少し無骨なところもあるがね。といって、世なれた人間なんだけれど、ぼくは別の意味で無骨だというんだよ。なかなか利口だ、まったく利口だ、目から鼻へ抜けるくらいなのだが、ただ考えかたに何か特殊なところがある……容易に人を信じなくて、懐疑派で、皮肉屋で……一杯くわすことが好きなんだ。いや、一杯くわすというよりか、つまり、人を愚弄《ぐろう》することが好きなんだね……まあ、古い物質主義的な方法さ……けれど、本職のほうはききてだよ、なかなかのききてだ……去年も、ほとんど手がかりのなくなった殺人事件を、みごとに捜しあてたぜ! きみとは非常に、非常に、非常に近づきになりたがってるよ!」
「なんだってまた非常にだい?」
「つまり、べつに何も……じつはね、近ごろきみが病気になってから、ぼくが話のついでに、よくきみのことをしゃべったもんだから、先生も聞いてたわけさ……それにあの男はね、きみが法科にいたけれど、事情があって卒業できないでいるのを知って、なんという気の毒なことだ、などといったこともあるよ。で、ぼくは結論したんだ……つまり、こんなことがみんな原因になってるんで、これ一つだけじゃない……きのうもザミョートフが……ねえ、ロージャ、ぼくはきのう、きみを家へ送りながら、酔ったまぎれに何かしゃべったろう……で、ぼくはね、きみが大ぎょうに考えやしないかと、心配しているんだよ。じつは……」
「それはなんだい? 皆がぼくを気ちがい扱いにしてるってことかい? なに、ほんとうかもしれないさ」
 彼は緊張したようなうす笑いをもらした。
「そ、そうなんだ……なに、ばかな、そんなことじゃない!……まあつまり、ぼくのいったことはみんな……(あのときいったほかのこともひっくるめて)あれは皆でたらめだ、酒の上のことだ」
「何をきみはそんなに言いわけしてるんだい! ぼくはそんなことにはもうあきあきした!」とラスコーリニコフは大げさにいらだたしげな顔をして叫んだ。
 もっとも、多少は芝居でもあった。
「いいよ、いいよ、わかったよ。口にするのも恥ずかしいくらいだ……」
「恥ずかしいならいわないがいい!」
 ふたりは口をつぐんだ。ラズーミヒンは夢中というより以上の喜びかただった。ラスコーリニコフは嫌悪《けんお》の念をいだきながら、それを感じたのである。ラズーミヒンがいまポルフィーリイについていったことも、やはり彼に不安を与えた。
『あの判事も、やはり泣き落としにかけなくちゃならないかな』彼は青くなり、胸をどきどきさせながら、こう考えた。『できるだけ自然にやるんだ。しかし、何もいわないのが一ばん自然だ。一生けんめい[#「一生けんめい」に傍点]に何ひとつ口説《くど》かないようにすることだ! しかし、一生けんめいとなると、また不自然になってしまう……まあ、向こうの出かたしだいだ……見てみよう……今すぐだ……だが、今こうして行ってるのは、いいことか悪いことか? 飛んで火に入る夏の虫じゃないかな。胸がどきどきする。これがいけないんだ!………』
「この灰色の家の中だ」とラズーミヒンはいった。
『何より一ばんかんじんなのは、きのうおれがあの鬼ばばあの家へ行って、血のことをきいたのを、ポルフィーリイが知っているかどうかってことだ。はいるとすぐまっさきに、このことを一目で見破らなくちゃならん。相手の顔つきで、読まなけりゃならん。でないと……いや、たとい身の破滅になってもさぐってみせる!』
「ときに、きみ」とふいに、彼はラズーミヒンに向かい、ずるそうな微笑を浮かべながらいった。「ぼくは今日きみが朝から、どうもおそろしく興奮しているのに気がついたが、当たったろう?」
「どう興奮してるんだい? べつになにも興奮なんかしてないよ」ラズーミヒンはぎくっとした。
「いや、きみ、まったく目についたよ。さっきいすに掛けてる様子だって、いつもとまるで違ってたぜ。いやに端っこのほうにちょこんと乗っかって、のべつ痙攣《けいれん》でも起こしてるようだったぜ。わけもないのに飛びあがったり、変におこりっぽいかと思うと、ふいにどうしたのか、甘い甘い氷砂糖のようなご面相になったり、おまけに赤い顔までしたじゃないか。ことに食事にまねかれたときなんか、恐ろしくまっ赤になったぜ」
「そんなことがあるものか、うそいえ、いったいなんだってそんなことをいうんだ?」
「じゃ、きみはなんだって小学生みたいにもぞもぞするんだい? ちぇっ、こん畜生、また赤くなりやがった!」
「きさまはなんて恥しらずだろう、じつに!」
「じゃ、なぜ、きみははにかむんだい? ロメオ! まあ待ってろ、おれは今日どこかですっぱぬいてやろう、は、は、は! ひとつおふくろを笑わせてやろう……それからまた、ほかのだれかも……」
「まあ聞いてくれ、聞いてくれ、聞いてくれったら、だってこりゃまじめなことなんだよ、これはじっさい……そんなことをしたら、いったいどうなると思う、くそっ!」とラズーミヒンは恐ろしさにぇっ肝を冷やしながら、すっかりまごついてしまった。「いったい、何をあの人たちにいうつもりなんだい? ぼくは、きみ……ちぇっ、きさまはなんて恥しらずだ!」
「いよう、もういよいよ春のばらという風情だ! またそれの、きみによく似合うこと、ちょっときみに見せてやりたいよ。六尺豊かのロメオときた! だがきみ、今日はうんとみがきあげたもんだな、つめまで掃除してるじゃないか、え?今まで[#か、え?今まで」はママ]いつそんなことがあったい? おや、こりゃポマードまでつけてるぞ! 頭をかがめて見せろよ!」
「こん畜生!」
 ラスコーリニコフはもう押えきれないほど笑いころげた。そして、笑いながら、ポルフィーリイ・ペトローヴィチの住まいへはいった。つまりラスコーリニコフには、これが必要だったのである。彼らが笑いながらはいって来て、控え室でもまだ高笑いしているのが、中から聞こえるようにしたかったのである。
「ここでひと言でもいったら承知せんぞ、でなけりゃきさまを……たたきつぶすぞ!」ラスコーリニコフの肩をつかみながら、ラズーミヒンは狂気のようにわめいた。

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 こちらはもう部屋の中へ足を踏み込んでいた。彼はどうかして吹き出すまいと、精いっぱいこらえているような顔つきで、はいって行った。そのあとから、すっかり動顚《どうてん》して、見るからすさまじい面相のラズーミヒンが、しゃくやくのようにまっ赤になり、さも恥ずかしそうにのっそのっそと、へまなかっこうをしてはいって来た。その顔つきと全体の様子は、このときまったく滑稽《こっけい》そのものだったので、ラスコーリニコフの笑いをいかにも自然に感じさせた。ラスコーリニコフはまだ紹介もされないのに、部屋のまん中に突っ立ってけげんそうにふたりを見ている主《あるじ》に会釈《えしゃく》した後、手をさしのべて握手したが、その間も絶えず自分のうきうきした気分をおさえて、せめて二口でも三口でも自己紹介の言葉を述べようと、見るから一生けんめいになっている様子だった。けれど、やっとのことでまじめな態度にかえり、何かいいだそうとして――またなにげなしといったようなぐあいに、ラズーミヒンのほうを見やると、もうこんどこそ、どうにもがまんしきれなくなった。押えに押えていた笑いは、今まで押えていた度が強かっただけ、いっそうはげしく破裂した。また『この心底からの』笑いを聞いて、ラズーミヒンの見せたものすさまじい形相は、この場の光景ぜんたいに、この上なく真実みにとんだ陽気な気分と、それに、何よりたいせつな自然らしさとを添えたのである。ラズーミヒンは、わざとあつらえたように、なおもこの仕事を手伝った。
「ちぇっ、こん畜生!」と彼は片手をひと振りして咆えはじめたが、そのはずみに、もう飲んでしまったお茶のコップののっている小さな円テーブルをなぐりつけた。
 何もかも一度にけし飛んで、がらがらとすさまじい音を立