京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP217-P228

まったことだろう――ただひょいと手を伸ばして、優しい目つきを見せただけだもの……それに、あの子の目の美しいこと、そして顔ぜんたいの美しいこと! ドゥーネチカよりもきりょうがいいくらいだ……でも、まあ、あの服はなんということだろう、なんてひどい身なりをしているんだろう! アファナーシイ・イヴァーヌイチの店にいる小僧のヴァーシャだって、まだましなかっこうをしている!………ああ、ひと思いにあれに飛びついて抱きしめてやりたい……そして、泣いてみたいんだけれど――でもなんだかこわい、こわくってしようがない……あの子がなんだかこう……ああ、情けない! ちょっと見れば、あんなに優しく話しているのに、それでもわたしはこわい! まあ、いったい何がこわいんだろう?……』
「ああ、ロージャ、お前はとてもほんとうにできまいがね」彼女はわが子の言葉に答えを急いで、いきなりこう引き取った。「ドゥーネチカもわたしもきのうはどんなに……不仕合わせだったか! でも今はもう何もかもすんで、おしまいになったから、わたしたちはまた仕合わせになったんだよ――だからもう話してもかまわないね。まあ考えてもおくれ、早くお前を抱きしめたいと思って、汽車を降りてすぐ、ここへかけつけて来てみると、あの女中さんが――ああ、そこにいますね! こんにちは、ナスターシヤ! あの人が、いきなり出しぬけに、お前は脳病系の熱で寝ていたのに、つい今しがた、お医者にかくれて、熱に浮かされながら外へ飛び出してしまったので、みんなさがしにかけ出したっていうじゃないか。その時のわたしたちの心もちは、お前にゃとてもわかりゃしないよ! わたしはすぐ、家で懇意《こんい》にしていたポタンチコフ中尉――ほら、お前のお父さんのお友だちさ――あの人の非業《ひごう》な最期《さいご》が思い出されたんだよ。お前はもう覚えていないだろうが、やっぱり脳病系の熱でね、同じようなふうに外へ飛び出して、裏庭の井戸へおっこちてしまったんだよ。やっとあくる日になって引き上げたようなしまつなのさ。だからお前、わたしたちはいうまでもない、なおのこと大げさに考えすぎたんだよ。せめて、ピョートル・ペトローヴィチにでも力を借りようと思って、すんでのことにあの人をさがしに飛び出すところだったんだよ……だってお前、わたしたち、ふたりっきりなんだものね、まるでふたりっきりなんだものねーえ」と彼女は哀れっぽい声で言葉じりを引いたが、ふと、『もうみんなまたすっかり仕合わせになっている』にもかかわらず、ルージンのことをいいだすのは、まだかなり危険だと心づいたので、急に話の腰を折ってしまった。
「そう、そう……それはもちろん……残念……」とラスコーリニコフは返事がわりにつぶやいたが、それがいかにも放心したような、ほとんど注意もしていないような様子だったので、ドゥーネチカは驚きのあまり、じっと彼の顔を見つめた。
「ええと、まだ何かいいたいことがあったっけ」一生けんめいに思い出そうとつとめながら、彼は言葉をつづけた。
「そうだ……どうぞ、ね、お母さん、それからトゥーネチカ、お前も……今日ぼくのほうが先にあなたがたのところへ出かけるのがいやで、こちらへまず来てくださるのを待っていたなんて、そんなことを思わないでください」
「まあ、何をいうの、ロージャ!」プリヘーリヤも同じように驚いて叫んだ。
『まあ、いったいこの人はお義理に返事をしているのかしら?』とドゥーネチカは考えた。『仲直りするのも、詫びるのも、まるでお勤めでもするか、学課の暗誦《あんしょう》でもしてるようだわ』
「ぼくは目がさめると、さっそく出かけようと思ったんですが、着物のことでひっかかったのです。昨日あれに……ナスターシヤにいうのを忘れたもんですから……血を洗い落としてくれというのを……で、今やっと着がえしたばかりなんですよ」
「血! なんの血なの?」とプリヘーリヤはぎょっとした。
「なに、なんでもないんです……ご心配なく、お母さん。その血というのはこういうわけです。きのう少し熱に浮かされぎみで、町をうろつき歩いていたとき、馬車にひかれた男にぶっつかったんです……ある官吏です……」
「熱にうかされてた? だって、きみは何もかもすっかり覚えてるじゃないか」とラズーミヒンがさえぎった。
「それはほんとうだ」なにか特別気づかわしげな調子で、ラスコーリニコフはそれに答えた。「何もかも覚えてるよ。ごくごく微細な点まで。ところがね――なぜ、あんなことをしたのか、なぜ、あんなところへ行ったか、なぜ、あんなことをいったか? というだんになると、もうよく説明ができなくなるんだ」
「そりゃわかりすぎるくらいわかりきった徴候ですよ」とゾシーモフが口を入れた。「仕事の実行はどうかすると巧妙をきわめて、老獪《ろうかい》とさえいえるくらいだけれど、行為の支配力、すなわち行為の根本は混乱していて、いろいろ病的な印象に左右される。まあ、夢みたいなもんですね」
『いや、この男がおれをほとんど狂人扱いにするのは、あるいは好都合かもしれないぞ』とラスコーリニコフは考えた。
「でも、それは、健康な人にだってあることかもしれませんわ」不安げにゾシーモフを見ながら、ドゥーネチカは注意した。
「かなり的をいたお説です」とこちらは答えた。「その意味では、まったく、われわれは皆たいていの場合、ほとんど狂人みたいなものです。ただ、ほんのちょっとした差があるだけでね。つまり『病人』はわれわれよりいくらか発狂の度がひどいんです。そこにはどうしても境界をつける必要があります。完全な調和を保った人間なんか、ほとんど絶無といっていいくらいですよ。数万人の中に、いや、数十万人の中にひとりもありましょうかね。しかもそれだって、おぼつかない一標本にすぎないでしょうな……」
 得意な話題で調子に乗ったゾシーモフが、うっかりすべらした『狂人』という言葉に、みんな思わず眉《まゆ》をしかめた。ラスコーリニコフはいっこう注意もしない様子で、青白いくちびるに妙な微笑を浮かべながら、もの思わしげにじっとすわっていた。彼は何やら考えつづけているのであった。
「さあ、それでどうしたい、その馬車にひかれた男は? ぼく話の腰を折ってしまったが!」とラズーミヒンは急いでこう叫んだ。
「なに?」こちらは目がさめたように問いかえした。「そう……それでつまり、その男を家までかついで行く手伝いをしたとき、血まみれになったんだ……ときにお母さん。ぼくはきのう一つ申し訳ないことをしちゃったんです。じっさい、正気じゃなかったんですね。お母さんが送ってくださった金を、昨日すっかりやっちゃったんです……その男の細君に……葬式の費用として。今はやもめになった、肺病やみの、みじめな女なんです……小さいみなしごが三人ひもじい腹をかかえていて……家の中はがらんどう……まだほかに娘がひとりいるんですが……まったくそれをごらんになったら、お母さんだっておやりになったかもしれませんよ……もっとも、ぼくに、そんな権利はなかったんです。ことに、お母さんがどうして調達してくだすったか、それを知ってるんですからね。人を助けるには、はじめにまずその権利を得なくちゃなりません。でないと、Crevez chiens, si vous n'etes pas contents(ひもじけりや犬でも殺せ)ですからね!」彼はからからと笑いだした。「そうじゃないかね、ドゥーニャ?」
「いいえ、そうじゃないわ」ドゥーニャは、きっぱりといった。
「へえ! じゃお前も……何か思惑《おもわく》あってだな!………」彼はほとんど憎悪のまなざしで彼女を見やり、あざけるような微笑を浮かべながらつぶやいた。「ぼくもそれを思い合わさなくちゃならなかったんだ!………ま、いいさ、けっこうなことだ。つまりお前のためになるよ……そして、ある一線まで行きつくさ。それはね、踏み越さなければ不幸になるが、踏み越しても、いっそう不幸になるかもしれない、そういった一線なのだ……もっとも、こんなことはみなくだらない話だ!」つい心にもなく夢中になったのを、いまいましく思いながら、彼はいらだたしげにいい添えた。「ぼくは、ただお母さんに許していただきたいと、そういいたかっただけなんです」彼は角《かど》のあるきれぎれな調子でこう結んだ。
「もういいよ、ロージャ、わたしはね、お前のすることなら、なんでもりっぱだと信じてるんだから!」母はさもうれしそうにいった。
「信じないほうがいいんですよ」微笑に口をゆがめて、彼はさえぎった。
 沈黙がそれにつづいた。すべてこうした会話にも、沈黙にも、和解にも、許容にも、なんとなく緊張したものがあった。そして、だれもかれもがそれを感じていた。
『どうも、まるで、みんなおれを恐れてるようだ』上目《うわめ》づかいに母と妹を見ながら、ラスコーリニコフは腹の中で考えた。事実、プリヘーリヤは、黙っていればいるほど、いよいよおじけづくのであった。『別れてる間は、おれもふたりに深い愛情をいだいていたようだったのに』こういう考えが彼の頭にひらめいた。
「あのね、ロージャ、マルファ・ペトローヴナがなくなられたよ!」とふいにプリヘーリヤが口を出した。
「マルファ・ペトローヴナってだれです?」
「あら、まあ、スヴィドリガイロフの奥さんのマルファ・ペトローヴナさ! ついこの間の手紙で、あんなにいろいろ知らせてあげたじゃないか」
「あーあ、覚えています……じゃ、死んだんですか? え、ほんとに?」彼は急に目がさめたように、とつぜん身ぶるいした。「いったいほんとに死んだんですか? なんで?」
「それがねえ、急だったんだよ!」とプリヘーリヤは、彼が興味を持って来たのに元気づいて、せきこみながらいった。「ちょうど、わたしがお前に手紙を出した、あの時だったんだよ、ちょうどあの日に! 世間のうわさだと、あの恐ろしい男が、どうやらそのもとになったらしいんだよ。あの男がたいへんひどく奥さんを打擲《ちょうちゃく》したとかいう話でね!」
「じゃ、その夫婦はいつもそんなふうだったのかい?」と彼は妹のほうを向いてたずねた。
「いいえ、まるで反対なくらいよ。あの人は奥さんにはいつもがまんづよくて、ていねいなくらいだったわ。たいていの場合、奥さんの気性を大目に見過ぎるくらいだったのよ、まる七年の間……それがどうしたのか急に堪忍ぶくろの緒《お》を切らしたの」
「してみると、七年もしんぼうしたのなら、それほど恐ろしい男でもないじゃないか! ドゥーネチカ、お前はあの男を弁護してるようだね?」
「うそよ、うそよ、あれはほんとうに恐ろしい人なの! あれ以上恐ろしいものは、わたし想像もできないくらいだわ」とドゥーニャはふるえあがらんばかりの様子でいい、眉をひそめたまま考えこんだ。
「それは朝のうちの出来事だ。たんだよ」とプリヘーリヤはせかせかと言葉をつづけた。「そのあとで奥さんは、昼の食事をすますとすぐ、町へ行く馬車の支度をいいつけたの。だって、あの人はそんなとき、きまって町へ行くことにしていたもんだからね。食事の時なんか、たいへんおいしくいただいたという話だった……」
「なぐられたばかりで?」
「もっとも、あの人にはいつもそうした……癖があったんだね。昼の食事をすますとすぐ、町へ行くのが遅くならないように、さっそく水浴び場へ行ったそうだよ……じつは、あの人は何かそんな水浴療法をしていたそうだから。あすこには冷たい泉があってね、あの人はそれへ毎日きまってはいってたんだそうだよ。ところが、水へはいるとたんに、いきなり発作が起こったんだね!」
「そりゃそうでしょうとも!」ゾシーモフがいった。
「で、あの男はひどく細君をなぐったんですか?」
「そんなこと、どうでもいいじゃありませんか」とドゥーニャが口を入れた。
「ふん! しかし、お母さんはいいもの好きですね、こんなくだらない話をするなんて」とふいに、ラスコーリニコフはいらだたしげに、つい口がすべったという調子でいった。
「まあ、お前、わたしもう、何をいったらいいか、わからなかったもんだからね」とプリヘーリヤは思わず口をすべらした。
「いったいどうしたんです、あなたがたはみんな、ぼくをこわがってでもいるんですか?」と、ひん曲がったような微笑を浮かべて、彼はいった。
「そりゃまったくほんとよ」ドゥーニャはいかつい目つきでまともに兄を見ながら、こういった。「お母さんは階段を上がるときから、びくびくして十字を切ってらしたくらいですもの」
 彼の顔は痙攣《けいれん》でもしたようにゆがんだ。
「ああ、ドゥーニャ、お前、何をいうんだね? ロージャ、後生だから、おこらないでね。ドゥーニャ、なんだってお前はそんなことを!」とプリヘーリヤはまごまごしていった。「そりゃまったく、わたしはこっちへ来る途中も、汽車の中でずっと考えてばかりいたんだよ――お前に会った時のことだの、お互いにいろんな話をしあう模様だのをね……そう思うと、わたしはうれしくて、うれしくて、道中の長いことも忘れるくらいだったよ! まあ、わたしは何をいってるんだろう! わたしは今でも仕合わせなのに……ドゥーニャ、ほんとにお前はよけいなことを……わたしはもうお前の顔を見ているだけでも、もうもううれしくてたまらないんだよ、ロージャ……」
「もういいですよ、お母さん」母のほうを見ないで、その手を握りしめながら、彼は当惑したようにつぶやいた。「まだ話はいくらでもできますよ!」
 こういったかと思うと、彼は急にどぎまぎして、さっと顔色を変えた。またしても、このあいだのあの恐ろしい感覚が、死のように冷たく彼の胸を走り過ぎたのである。またしても、自分がいま恐ろしいうそをいったことが、とつぜんはっきり合点がいったのである。今はもうけっして、ゆっくり話ができるどころか、どんな問題についても、だれとも話をすること[#「話をすること」に傍点]ができないのだ。この苦しい想念の印象があまりに強かったので、彼は一瞬間、ほとんどわれを忘れて席を立つと、だれのほうも見ず、いきなり部屋を出て行きかけた。
「どうしたんだ、きみは?」とラズーミヒンは彼の手をつかんで声高に叫んだ。
 彼はふたたび席にもどって、無言のまま、あたりを見まわしはじめた。一同はけげんな表情をうかべて彼をながめていた。
「いったい、あなたがたはみんななんだって、そうつまらなそうに黙りこんでるんです!」彼はとつぜん、まったく思いがけなくこう叫んだ。「何か話したらいいじゃありませんか! じっさい、こんなにぼんやりすわってたってしようがない!さあ、[#「がない!さあ、」はママ]何かお話しなさいよ! 話そうじゃありませんか……せっかく集まったのに、黙りこくって……さあ、何か!」
「ああ、ありがたい! またきのうのようなことが始まるのかと思って!」とプリヘーリヤは十字を切りながらつぶやいた。
「いったいどうなさったの、兄さん?」とドゥーニャは疑わしげにたずねた。
「いや、なんでもない、ちょっとしたことを思い出したんだ」と彼は答えて、急にからからと笑いだした。
「いや、ちょっとしたことならけっこうです! じつはぼくも、もしやと思ったくらいでした……」と長いすから立ちあがりながら、ゾシーモフはいった。「ときに、わたしはもうおいとましなくちゃなりません。また後ほどお寄りするかもしれません……もしお目にかかれたら……」
 彼は会釈《えしゃく》して、立ち去った。
「なんてりっぱなかただろう!」とプリヘーリヤはいった。
「ああ、りっぱな、よくできた、教育のある、利口な男ですよ……」急にラスコーリニコフは、それまでにない、いきいきした調子で、何かしら思いがけないほど早口にいった。「病気になる前にどこで会ったろう、どうもいっこうに覚えがないが……どこかで会ったような気がする……それから、これもやはりいい男ですよ!」と彼はラズーミヒンをあごでしゃくった。
「お前、この男が気に入ったかい、ドゥーニャ?」と彼は妹に問いかけて、急になんと思ったか大声で笑いだした。
「ええ、たいへん」とドゥーニャは答えた。
「ちぇっ、きさまは……くだらんことをいう男だな!」恐ろしくてれ[#「てれ」に傍点]て、まっ赤になったラズーミヒンは、そういいながら長いすから立ちあがった。
 プリヘーリヤは、軽くほほえんだ。ラスコーリニコフはからからと爆笑した。
「おい、きみはどこへ行くんだ?」
「ぼくもやっぱり……用が」
「きみに用があってたまるかい、じっとしていたまえ! ゾシーモフが行ったから、それできみも用ができたのかい。行っちゃいけない………ときに、何時だろう? 十二時かね?おや、ドゥーニャ、すてきな時計を持ってるじゃないか! だが、なぜまたみんな黙ってしまったんです? ぼくばかりに、ぼくひとりにばかりしゃべらしてさ……」
「これはマルファ・ペトローヴナにいただいたのよ」とドゥーニャは答えた。
「それも、たいそう高い品なんだよ」とプリヘーリヤが口を添えた。
「ははあ! だが、なんという大きな時計だ。まるで女持ちのようじゃない」
「わたしはこんなのが好きなのよ」とドゥーニャはいった。
『してみると、花婿の贈り物じゃないんだ』とラズーミヒンは考えて、なぜかしらうれしくなった。
「ぼくはまたルージンの贈り物かと思った」とラスコーリニコフはいった。
「いいえ、あの人はまだドゥーネチカに何ひとつ贈り物をしないんだよ」
「ははあ! ときに、お母さん覚えてるでしょう、ぼくが一度恋をして、結婚しようとしたことを」と母親の顔を見ながら、彼は出しぬけにいいだした。こちらは思いがけない話題の転換と、それをいいだしたむすこの調子に打たれて、どぎもを抜かれた。
「ああ、お前、そうだったね!」
 プリヘーリヤは、ドゥーネチカとラズーミヒンに目まぜをした。
「ふん! そう! だが、何を話したものかなあ! もうあまり党えていないくらいだ。それは病身な娘でしたよ」彼はまた急に考えこんで、目を伏せながら、言葉をつづけた。「まったくの病身でした。乞食《こじき》に物をやることが好きでね、しょっちゅう尼寺のことばかり空想していましたよ。そうそう、一度などは、ぼくにその話を始めて、涙を流して泣いたことがありましたっけ。そうだ、そうだ……覚えている……よく覚えている。きりょうの悪い女でしてね……まったく、どうして、あの時あんな女に心をひかれたんだか、わけがわからないくらいです。おそらく、いつも病気がちだったせいだろうと思います……もしそのうえ、びっこかせむしだったら、もっと好きになったかもしれない……(彼はもの思わしげににたりと笑った)こういうわけで……何かまるで春の夢みたいなものだったんですよ……」
「いいえ、それは春の夢ばかりじゃないわ」とドゥーネチカは感情のこもった調子でいった。
 彼は注意ぶかく、緊張した表情で妹を見つめていたが、その言葉はよく聞きわけられなかったか、それとも了解できなかったらしい。それから、深いもの思いのていで立ちあがり、母のそばへ寄って接吻《せっぷん》すると、また席へもどって腰をかけた。
「お前はまだ今でもその娘を愛しているの?」とプリヘーリヤは感動したさまでいった。
「その女を? 今でも? ああ、そう……お母さんはあの娘のことをいってるんですね! いや、今じゃそんなことはもう、なんだかあの世のことみたいで……そして、ずっと前のような気がします。それにまわりのことが何もかも、この世の出来事ではないようなんです……」
 彼は注意ぶかく一同の顔を見た。
「げんにお母さんたちだって……まるで千里もてまえから見ているような気がする……ちぇっ、だが、いったいなんだってこんな話をしてるんだろう! なんのためにくどくどきくんだ!」と彼はいまいましげな調子でいいたして、口をつぐむと、つめをかじりかじり、また考えこんでしまった。
「まあ、お前の部屋ったら、なんとひどいところだろうね、ロージャ、まるでお棺のようじゃないか」重苦しい沈黙を破りながら、ふいにプリヘーリヤがいった。「お前がそんな憂鬱《ゆううつ》病にかかったのも、半分はこの部屋のせいだと思うよ」
「部屋?………」と彼は放心したように答えた。「そう、部屋もだいぶん手伝っていますよ……ぼくもやはりそう思いましたよ……だが、お母さん、今あなたがどんな奇妙なことを考えだされたか、自分でもごぞんじないでしょう」と彼は急にこういいだして、奇妙なうす笑いをもらした。
 もうちょっとしたら、この邂逅《かいこう》も、この三年ぶりに会った肉親も、それから何事であれ語り合うことの絶対に不可能な目下の状態で用いられているこの親しげな調子も――すべてが彼にとって、ついに堪えがたいものとなったに相違ない。けれども、まだ一つ、のっぴきならぬ問題が残っていた。それはどうでもこうでも、ぜひ今日きまりをつけてしまわなければならない――これはさきほど目をさました時から、決心していることだった。いま彼はその問題[#「問題」に傍点]を思い出して、いい逃げ道のように喜んだ。
「ねえドゥーニャ」と彼はまじめなそっけない調子で口をきった。「きのうのことはむろんぼくがあやまるけれど、根本 はけっして譲歩しないから、それだけは自分の義務として、もう一度、お前に断わっておく。ぼくか、ルージンか、ふたりにひとりだ。ぼくは卑劣漢でもかまわないが、お前はいけない。どっちかひとりだ。もしお前がルージンのところへ行けば、ぼくはその場かぎりお前を妹と思わないぞ」
「ロージャ、ロージャ、それでは! お前、きのうとまるで 同じことじゃないか!」とプリヘーリヤは、情けなさそうに叫んだ。「どうしてお前は、しじゅう自分のことを卑劣漢だなんていうの、わたしは聞いていられない! きのうだってそうです……」
「兄さん」とドゥーニャは同じくそっけない調子で、きっぱりと答えた。「このことでは、兄さんのほうにまちがいがあるんですわ。わたしは昨夜ひと晩じゅう考えてみて、そのまちがいを見つけましたの。つまり問題はこうなの。どうやら兄さんは、わたしがだれかに、だれかのために、自分を犠牲にささげていると、こう想像してらっしゃるけれど、そんなことはけっしてありません。わたしはただ自分のために結婚するんですの。だって、わたし自身が苦しいんですもの。もっともそのほかに、もし自分が身内のためになるようなら、うれしいと思いますわ、けれど、わたし、それが根本の動機で決心したんじゃありません……」
『うそをついてる!』と彼は、憎々しげにつめをかみながら、心の中で思った。『気位の高い女だ!恩を着せたがっていながら、本音をはくのがいやなんだ! つまり高慢なのだ! ああ、なんてみな卑劣な根性なのだろう! やつらの愛は憎み合っているような愛だ……ああ、おれはじつに……やつらが憎くってたまらない!』
「ひと口にいえば、わたしはピョートル・ペトローヴィチと結婚します」とドゥーネチカは言葉をつづけた。「そのわけは、つらいことが二つあれば、少しでも軽いほうを選びたいからですの。わたしはあの人が期待していることを、何もかも忠実に履行するつもりですから、つまりあの人をだますことにはなりません……兄さん、なぜ今にやりとお笑いになったの?」
 彼女も同じようにかっとなった。その目には憤怒《ふんぬ》の色がひらめいた。
「何もかも履行する?」毒々しいうす笑いをもらしながら、彼は問いかえした。
「ある程度まではね。ピョートル・ペトローヴィチの求婚の仕方と形式で、あの人が何を要求しているのか、すぐわかりましたもの。あの人は自分というものを、あまり高く評価しているかもしれません。でもその代り、わたしも相当に認めてくれるだろうと、それを期待しているんですの……何をまた笑ってらっしゃるの?」
「お前はまた何を赤くなるんだい? お前はうそをついている。お前はわざとうそをついてるんだ。ただ女らしい強情で、おれに我《が》を張り通したいもんだからさ……お前はルージンを尊敬することなんかできやしない。ぼくはあの男と会いもし、話もしたんだよ。してみると、お前は金のために自分を売ってるのだ。してみると、いずれにしても卑劣な行為だ。ぼくはね、お前がすくなくともまだ赤くなれる、それだけでも喜んでいるよ!」
「そんなことないわ、うそなんかいやしません!………」ドゥーネチカはしだいに冷静さを失いながら、こう叫んだ。「わたしだって、あの人がわたしを認めてもくれ、たいせつにもしてくれると確信しなかったら、結婚なんかしやしませんわ。またわたし自身も、あの人を尊敬できるという確信がなかったら、けっして結婚なんかするものですか。幸いわたしは、今日さっそくその確信をうることができるんですの。こうした結婚は、兄さんのおっしゃるように卑劣なことじゃありませんわ! また、たとい兄さんのおっしゃることがほんとうで、わたしがまったく卑劣な決心をしたのだとしても――そうまでにおっしゃるのは、兄さんとしてもあまり残酷じゃなくって? なんだって兄さんは自分にもない……かもしれないような勇気を、わたしに要求なさるんですの? それはあまり横暴だわ! 圧制だわ! もしわたしがだれか他人の一生を破滅させるとでもいうのならともかく、ただわたし自身のことじゃないの。わたしはまだ人を殺したことなんかなくってよ!………なんだってそんな目をしてわたしをごらんになるの? どうしてそんなに真青になるの? ロージャ、どうしたの? ロージャ、兄さんてば……」
「ああ、どうしよう! また気絶してしまった!」とプリヘーリヤは叫んだ。
「いや、いや……くだらない、なんでもありゃしない!………少しめまいがしただけで、気絶でもなんでもありゃしません……気絶気絶って一つ覚えみたいに!………ふん! そこでと……何をいうつもりだったっけ? そうだ。お前は今日にもさっそく、お前があの男を尊敬することができ、あの男が……お前を認めてくれてるという確信をうるといったが、いったいそりゃどういうわけだい? ねえ、そういったろう?お前は[#「たろう?お前は」はママ]確かに今日といったようだが? それともぼくの聞き違えだったか?」
「お母さん、兄さんにピョートル・ペトローヴィチの手紙を見せてあげてくださいな」とドゥーネチカはいった。
 プリヘーリヤはふるえる手で手紙を渡した。彼は非常な好奇心をもってそれを受け取ったが、ひろげて見る前に、彼はとつぜん何かに驚いたような顔つきで、ドゥーネチカを見つめた。
「おかしい」とつぜん何か新しい想念に打たれでもしたように、彼はゆっくりした語調でいった。「おれはなんだってこんなに気をもんでるんだろう? 何をこんなにわめいたり騒いだりしてるんだろう? 勝手にだれとでも好きな男と結婚するがいい!」
 彼はひとりごとのようにいったが、声はかなり高かった。そしてしばらくの間、どぎもを抜かれたような顔をして、妹を見つめていた。
 彼は依然として驚きの表情を残したまま、やっと手紙をひらいた。それから、ゆるゆると注意ぶかく読み始め、二度まで読み返した。プリヘーリヤはかくべつ不安に悩まされていた。それにほかの者も、みんなある特殊なものを期待していた。
「これは驚いた」ややしばらく考えたあとで、手紙を母親に返しながら、彼はだれに向いてともなく口をきった。「あの男は弁護士で、しじゅう訴訟事件を扱ってるから、話だってやはり特別な……癖があるけれど――書くほうとなとる[#「書くほうとなとる」はママ]、まるで無学じゃないか」
 一座は少しざわざわとした。彼らはまるで違ったことを期待していたので。
「だって、ああいう連中は、みなこんなふうに書くんだよ」とラズーミヒンがきれぎれな声で注意した。
「じゃきみは読んだのか!」
「うん」
「わたしたちがお目にかけたんだよ、ロージャ。わたしたちは……さきほどご相談したんだよ」とプリヘーリヤはまごまごしながらいいだした。
「それはつまり裁判所式の文体なんだよ」とラズーミヒンはさえぎった。「裁判所の文書は今でもそういうふうに書いてるんだよ」
「裁判所式? そうだ、裁判所式なんだ、事務家ふうなんだ……まるっきりの無学というのでもないが、非常に文学的というのでもない。つまり事務家ふうなんだ!」
「ピョートル・ペトローヴィチは、ご自分が貧しい教育を受けてきたことを、隠してなんかいらっしゃいません。かえって、独力で自分の道をひらいたのを誇りとしていらっしゃるくらいですわ」兄の新しい調子にむっとして、アヴドーチヤは注意した。
「けっこうだ、誇りにしてるとすりゃ、それだけの理由があるんだろうよ――ぼくは反対なんかしないよ。ねえ、ドゥーニャ、ぼくがこの手紙に対して、こんな瑣末《さまつ》な批評しかしなかったので、お前はどうやら憤慨したらしいね。そして、何かいまいましさ半分にお前をいじめるつもりで、わざとこんなつまらないことをいいだしたとでも考えてるかもしれないが、それどころじゃない、この手紙の文体に関連して、この場合断じてよけいなことといえないようなことが頭に浮かんだのだ。手紙の中に一つ『自業自得《じごうじとく》』という非常に意味深長な、ことさら目立つように書かれた言葉があるじゃないか。そればかりか、ぼくが行けばすぐ帰ってしまうという威嚇《いかく》がある。この帰るという威嚇は――もしいうことを聞かなければ、お前たちふたりをも捨ててしまうぞ、というのと同じことだ。ペテルブルグまで呼び出した今となって、捨ててしまおうというんだよ。そこでお前はどう考える――ルージンにこんな書きかたをされても、たとえばこの男か(と、彼はラズーミヒンを指さした)、またはゾシーモフか、でなければ、われわれのなかのだれかが書いた場合と比べて、同じように腹を立てることができるかい?」
「い、いいえ」とドゥーネチカは活気づきながら答えた。「わたしもよくわかったわ――この手紙の書きかたはあまり知恵がなさすぎるけれど、ただ文章がへたなだけかもしれないって……まったく兄さんの批評はうまかったわ。思いがけないくらい……」
「これは裁判所式の書きかただ。ところが、裁判所式にやると、こうよりほかには書けないんだから、ことによると、あの男が自分で思ったより以上、無作法になったのかもしれない。しかし、ぼくはもすこしお前の迷いを解いてやらなくちゃならない。この手紙の中には、まだ一つ問題がある。それはぼくにたいする誹謗《ひぼう》だ。しかもかなり卑劣なものなんだ。ぼくはきのう、とほうにくれているやもめに金をやった。しかし『葬儀費と称して』じゃない、じっさい葬式の費用にやったんだ。それから――やつのいわゆる『いかがわしい生業《なりわい》をいとなんでいる娘』には、ぼくきのう生まれて初めて会ったんだが、金はその娘の手に渡したんじゃなくて、まさにやもめの手に渡したんだ。それやこれやで見ると、あの男がぼくを中傷して、お前たちと仲たがいをさせようという、あまりせっかちすぎるもくろみが見えすいている。しかも、やっぱり裁判所式な書きかたなんだ。つまりあまり腹の見えすいた、せっかちな、知恵のない書きかたなのさ。やつはなかなか利口な男だが、しかし利口に立ちまわるには、利口だけじゃ足りないよ。これだけでおよそ人物はわかってしまうから……あの男がお前をほんとうに認めてるとは、どうも思えないよ。こんなことをいうのも、要するに参考のためだ。つまり、心からお前のためを思えばこそだよ……」
 ドゥーネチカは返事をしなかった。決心はもうさっきからついていたので、彼女はただ夜が来るのを待つばかりであった。
「で、ロージャ、お前はいったいどう決めるつもりなの?」思いがけない彼の新しい事務的[#「事務的」に傍点]な口調に、いよいよ不安を増したプリヘーリヤはこう問いかけた。
「そりゃなんです、『どう決める』って?」
「だってほら、ピョートル・ペトローヴィチがこのとおり、今晩お前が来ないように……もし来れば、すぐ帰ってしまうと書いているじゃないの。だからお前どうします……来るつもり?……」
「それはもうむろん、ぼくの決めるべきことじゃなく、第一に、あなたの決めるべきことですよ。もしルージンのそうした要求を、侮辱とお思いにならなければね。それから第二には、ドゥーニャの心しだいです。もしやはり侮辱を感じなければ。ぼくはあなたがたのお好きなようにしますから」と彼はそっけない調子でいいたした。
ドゥーネチカはもうちゃんと決心してね。わたしもそれに同意なんだよ」とプリヘーリヤは急いで口をはさんだ。
「わたしはね、ロージャ、ぜひともその席へ兄さんに来ていただくように、おりいってお願いしようと決心したのよ」とドゥーニャはいった。「来てくれて?」
「行こう」
「わたしあなたにもお願いしますわ。今夜八時にわたしどもへいらしてくださいませんか」と彼女はラズーミヒンに向かっていった。「お母さん、わたしこのかたにも来ていただきますわ」
「けっこうだとも、ドゥーネチカ。さあ、これでお前たちの相談がきまったから」とプリヘーリヤはいい添えた。「思いきってそういうことにしてしまおうよ。わたしもそのほうが楽だから。わたしは面《めん》をかぶったり、うそをいうのがきらいでねえ。いっそ、何もかもほんとうのことをいってしまおうよ……もうこうなりゃ、ピョートル・ペトローヴィチがおころうとおこるまいと、どうだっていいさ!」

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 そのときドアが静かに開いて、ひとりの娘がおずおずとあたりを見まわしながら、部屋の中へはいって来た。一同は驚きと好奇の念をいだきながら、そのほうへふり向いた。ラスコーリニコフはひと目見たとき、彼女がだれかわからなかった。それはソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードヴァであった。彼は昨日この娘を初めて見たのだけれど、ああいう時ではあり、ああいう環境でもあり、また当人もああいう身なりをしていたために、彼の記憶にはまるで違った顔かたちが印象されていた。いま見ると、彼女はむしろ、みすぼらしいくらい、じみな服装《なり》をした、まだまるで若い子供子供した娘で、つつましやかな礼儀正しいものごしをして、晴れやかな、しかし、どことなくおびえたようなところのある顔だちをしていた。彼女は思いきってそまつな普段着を身につけて、頭には流行おくれの古びた帽子をかぶっていたが、手には昨日のとおりパラソルを持っていた。部屋の中が思いがけなく人でいっぱいなのを見て、彼女はまごついたというよりも、すっかり度を失い、まるで小さい子供みたいにおどおどしながら、すぐ引っ返そうとするようなそぶりさえ見せた。
「ああ……あなたですか!………」ラスコーリニコフはなみなみならぬ驚きのさまでこういったが、急に自分でもまごまごしてしまった。
 彼は、すぐそのとき、母や妹がルージンの手紙によって、『いかがわしい生業《なりわい》をいとなむ娘』の存在を、多少なりとも知っているはずだということを、ふと思いうかべた。彼はたった今ルージンの誹謗《ひぼう》を反駁《はんぱく》して、その娘は初めて見たばかりだといったのに、とつぜんその当人がはいって来たのである。それから彼はまた『いかがわしい生業をいとなむ娘』という言葉にたいしては、少しも抗弁しなかったことを思い出した。こうしたすべてのことが、はっきりとではなかったが、瞬間的に彼の頭にひらめいた。けれど、なおよく注意して見ると、娘が卑しめられ、恥ずかしめられた哀れな存在であることに、急に気がついた。それはまったくかわいそうなほど小さくなっていじけていた。彼女が恐怖のあまり逃げ出しそうなぞぶりを見せたとき、彼は自分の内部で何かひっくり返ったような気がした。
「あなたがいらっしゃろうとは、思いもかけなかった」と。