京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP301-P312

ともなく思い出された……が、しかし、それについては、彼もすぐ安心してしまった。『もちろん、あんな男はあいつと十把ひとからげだ!』けれど、彼が真剣に恐れたのはだれかというと――それはスヴィドリガイロフだった……とにかく、いろんな心労が目の前に控えていたのである……
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「いいえ、わたしが、わたしが一ばん悪いんだわ!」母を抱きしめて接吻《せっぷん》しながら、ドゥーネチカはこういった。「わたしはあの人のお金に目がくらんだのよ。でも、兄さん、わたし誓っていうわ――わたしはまさかあの人が、あれほど取るに足りない人だとは夢にも思わなかったわ。もし前からあの人をよく見抜いてたら、どんなことにも迷やしなかったんだけど! 兄さん、わたしを責めないでね!」
「神さまが救ってくださったのだよ! 神さまが救ってくだすったのだよ!」プリヘーリヤは、いま起こったいっさいのことが、まだはっきり腑《ふ》に落ちないらしく、なんだか無意識のようにそうつぶやいた。
 一同は互いに喜び合った。五分もたつと笑いだしさえもした。ただときどきドゥーネチカが、さきほどの出来事を思い浮かべながら、青い顔をして、眉《まゆ》を寄せているばかりだった。プリヘーリヤは、自分もいっしょになって喜ぼうなどとは夢にも思っていなかった。つい今朝ほどまで、ルージンとの決裂が恐ろしい不幸に思われていたのである。ただ、ラズーミヒンは、うちょうてんになっていた。彼はまだ思いきって十分にその歓喜を表白できなかったが、まるで五プードもあるおもりが胸から取り除けられでもしたように、まるで熱病やみのようにふるえた。今こそ彼は自分の全生涯を投げ出して、彼女たちに奉仕する権利を得たわけである……それに、今だって何事が起こるか、知れたものではないのだ! しかし、それから先のこととなると、彼はなおのこと小心翼翼《しょうしんよくよく》として、そういう考えを追いのけ、自分自身の想像を恐れていた。ただひとりラスコーリニコフは、じっと同じいすに腰かけたまま、ほとんど気むずかしいといっていいくらいに、放心したような様子をしていた。彼は何よりもまずルージンを、遠ざけることを主張しておきながら、今の出来事にだれよりも一ばん興味がないようなふうだった。ドゥーニャは兄がまだ自分にひどく腹を立てているのだと考えた。プリヘーリヤはおどおどと、彼のほうへ視線を投げていた。
「スヴィドリガイロフは兄さんになんといって?」とドゥーニャは彼のそばへ近寄った。
「あっ、そう、そう!」とプリヘーリヤは叫んだ。
 ラスコーリニコフは頭を上げた。
「あの男はどうしても、お前に一万ルーブリ贈りたいというのだ。それについてぼくも立会いのうえで、一度お前に会いたいというのだ」
「会いたい! そんなことは金輪際《こんりんざい》できません!」とプリヘーリヤは叫んだ。「よくもこの子にお金を贈りたいなんて、そんなことがいえたものだ!」
 それからラスコーリニコフは(かなりそっけない調子で)、スヴィドリガイロフとの会見の顚末《てんまつ》を物語った。もっとも、よけいなこともいいたくなし、またじっさい、必要以上のことには何ひとつ話を向けたくなかったので、マルファ・ペトローヴナの幽霊の話は抜いてしまった。
「で、兄さんはどう返事をなすったの」とドゥーニャは尋ねた。
「はじめ、お前に伝言などしない、といった。するとあの男は、あらゆる手段を講じて、直接会見の目的を達すると声明するのだ。彼の断言するところによると、お前にたいする狂気のさたは、あれは一時の迷いだった。今ではお前にたいして何も感じちゃいないというのだ……あの男はお前をルージンと結婚させたくないんだよ……まあ、全体としても、なんだか曖昧《あいまい》な話しぶりだった」
「兄さん自身は、あの人をどう解釈なすって? どんなふうにお思いになって?」
「正直、なんにもわけがわからないんだ、一万ルーブリ提供するというかと思えば、自分は金持じゃないという。どこかへ行ってしまうつもりだというかと思えば、十分もたたぬうちに、そういったことを忘れてるんだ。それからまた急に、結婚しようと思っている、相手も世話する者がある、ともいったっけ……もちろん、何か目的はあるにちがいない。そして十中八、九、ろくなことじゃないだろう。が、それにしても、もしあの男がお前にたいして、よくないもくろみを持ってるとすれば、あんなとんまなやりかたをしようなんて、ちょっと想像しかねるし……もっとも、ぼくはお前に代って、その金はきっぱり断わっといてやったよ。概してあの男は、ぼくの目には妙に思われたよ……いや、むしろ……発狂の徴候《ちょうこう》があるようにさえ思われた。しかし、ぼくだって、まちがってないともかぎらない。ことによると、それは単に独自なごまかしにすぎないかもしれん。しかし、マルファ・ペトローヴナの死んだことは、あの男にもがんときたらしい……」
「おお、神さま、どうぞあの女《ひと》の魂をおやすめくださいまし!」とプリヘーリヤは叫んだ。「わたしはいつまでも、いつまでも、あの女《ひと》のために祈ります! ねえ、ドゥーニャ、その三千ルーブリがなかったら、わたしたちは今どうなっていたろうね! ほんとにまあ、天からでも降って来たようだ! どうだろう、ロージャ、けさ、わたしたちの手もとには、もう天にも地にも、たった三ルーブリしか残っていなかったんだよ。で、わたしとドゥーニャは時計でも質におこうかと、そればかりいろいろ考えたくらいなんだよ。先方からいいださないうちには、あの男からもらうまいと思ったのでね」
 ドゥーニャはスヴィドリガイロフの申し出に、よほどショックを受けたらしく、じっと考えに沈んだまま、いつまでも立ちつくしていた。
「あの人は何か恐ろしいことを考え出したんだわ!」彼女はほとんどふるえあがらんばかりに、ささやくような声でひとりごちた。
 ラスコーリニコフは、このなみなみならぬ恐怖《きょうふ》に気づいた。
「なんだかぼくはまだちょいちょい、あいつと会いそうな気がする」と彼はドゥーニャにいった。
「あいつに気をつけてやりましょう! ぼくが居どころを突きとめてやる!」とラズーミヒンは元気よく叫んだ。「ちょっとでも目を放すものか! ロージャがぼくに許可してくれたんですからね。ロージャ自身がさっきぼくに『妹をまもってくれ』って、そういったんですよ。ねえ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、あなたもお許しくださるでしょうね?」
 ドゥーニャはにっこり笑って、彼に手をさし伸べたが、心痛の色はその顔から去らなかった。プリヘーリヤはおずおずと彼女の顔を盗み見ていた。とはいえ、三千ルーブリは明らかに彼女を安心させたらしい。
 十五分の後には、一同はおそろしくはずんだ調子で話していた。ラスコーリニコフさえも、自分は話こそしなかったが、しばらくの間は熱心に耳をかたむけていた。さかんに熱弁をふるっているのは、ラズーミヒンだった。
「いったいなぜ、なぜあなたがたはお帰りにならなきゃならないんです!」彼は陶酔《とうすい》したようなふうで、歓喜にあふれる言葉をとうとうと吐き出すのであった。「それに、田舎町で何をなさろうというのです? 何よりかんじんなのは、あなたがたが、ここでいっしょにいらっしゃるということです、お互い同士が役に立ち合うってことです――まったくどれだけ力になるか、まあ考えてもごらんなさい! まあ、たとえしばらくの間でもね……そして、どうかぼくを友人にしてください。話相手にしてください。そうすれば、うそじゃありません、それこそすばらしい仕事が始められますよ。まあ、こうなんです、聞いてください、そいつをすっかりくわしくお話しましょう――その計画をね! まだけさのことで、まだなんにも起こらない前に、ぼくはふいと頭に浮かべたんですよ……じつはこういう訳です。ぼくには伯父《おじ》がひとりあるんですが(いずれご紹介しますよ、いたってよくできた、なかなか上品ないいじいさんです!)その伯父が、貯金を千ルーブリばかり持ってるんですが、自分は恩給で食ってるので、少しも不自由しない。で、伯父はもう二年越し、その金を使ってくれ、利子は年六分でいいからと、しつこくぼくを責めるんです。しかし、そのからくりはわかってるんで、伯父はただ、ぼくを助けたいんですよ。ところが、去年はぼくもべつだん必要がなかったが、今年は伯父の出てくるのを待ちかねて、それを借りる決心をしたのです。その上に、あなたがたもこんどの三千ルーブリの中から、千ルーブリだけ提供してくだされば、手はじめとしてはまず十分です。こうして、わたしたちは合資したわけです。ところが、いったい何をするとお思いになります?」
 ここでラズーミヒンは、自分の計画の説明に移った。そして、ほとんどすべての書籍商や出版業者が、自分の商品の性質をよくわきまえていないから、したがって普通に出版業は成功しないと相場をきめられているが、しっかりしたものさえ出せば、かならず収支つぐなって利潤《りじゅん》をあげるばかりか、ときどきは相当なもうけもあるということを、一生けんめいに説明した。ラズーミヒンはもう二年から人のために働いてきたし、三か国の欧州語にかなり通じていたので、出版業を始めることは、つねづね空想していたところである。もっとも六日ばかり前に、彼はラスコーリニコフに向かって、ドイツ語はぜんぜん「へなちょこ」だといったが、それは彼に翻訳を半分引き受けさせて、三ルーブリの前金を握らせるための方便《ほうべん》だった。ラスコーリニコフも、それがうそなことはよく知っていた。
「どうして、どうして、この好機を逸するわけにゃいきません。だって、一ばんかんじんな資本の一つ――つまり自分の金がちゃんとあるんですもの!」とラズーミヒンは熱くなっていった。「もちろん、たいへんな努力が必要です、しかし、わたしたちは働こうじゃありませんか。あなたとね、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、それからぼくとロジオンと……出版業者の中には、いま非常にいい成績を挙げているのがあるんですからね! ところで、この事業の根本の基礎となるのは、けっきょく何を訳せばいいか、それをよく知ることたんです。ぼくらは翻訳もすれば、出版もやり、勉強もやる、何もかもいっしょなんです。今ならばくも役に立ちますよ。経験があるんですからね。なにしろ、もう二年もほうぼうの出版屋を歩きまわって、やつらの内幕は知り抜いているんです。くろうとだってべつに神さまじゃありませんよ、まったく! なんだってわざわざごちそうを口のそばまで持って来てもらいながら、素通りさせる必要があります? ぼくはすてきな本を二つ三つ知っています。そいつを翻訳して出版するという案だけにたいしても、一冊で百ルーブリずつも取れそうなのを、たいせつに胸の中にひめているんですよ。その中の一冊などは、アイデアだけで五百ルーブリ出すといっても、ぼくは相手にしたくないくらいですよ。あなたがたはどうお思いです? もしぼくがだれかにそんな話をしたら、こんなでくの坊が! といって、あるいはまだ疑うかもしれませんね。しかし、印刷とか、用紙とか、販売とかの雑務となったら、それはいっさいぼくにお任せなさい! ぼくが裏の裏まで承知していますから! はじめはぼちぼちやって、大きく仕上げるんですな。少なくとも、食って行くだけのものはありますよ。どうまちがったって、出した金くらいはもどってきます」
 ドゥーニャの目は輝いた。
「あなたのおっしゃることは、わたしたいへん気に入りましたわ、ドミートリイ・プロコーフィチ」と彼女はいった。
「わたしはこういう話になると、むろん何もわかりませんけれど」とプリヘーリヤは応じた。「それはけっこうなことかもしれませんが、これも先のことはだれにもわかりませんでね。なんだか新しいことだものだから、不安心なようでね。もっとも、わたしたちはどうしたって、ここに残らなければなりません、当分の間だけでもね……」
 彼女はロージャを見やった。
「兄さん、どうお思いになって?」とドゥーニャはいった。
「ぼくも非常にいい考えだと思うよ」と彼は答えた。「会社を作るなんてことは、もちろん、前から空想すべきことじゃないが、五、六冊の本の出版なら、じっさいかならず成功さすことができるよ。ぼくもまちがいなく売れる本を一つ知っている。ところで、この男が経営をうまくやっていくということは、少しも疑いがないね。仕事の頭があるから……もっとも、まだよく相談する暇はあるさ……」
「ウラー(万歳)!」とラズーミヒンは叫んだ。「ところで、ちょっと待ってください。ここに、この家に、同じ主人の持っている住まいがあるんです。それは独立した離れた部屋で、こっちの部屋とは通路がなくって、家具つきなんです。家賃も格安で、小さいながら三|間《ま》あります。まあとりあえず、これをお借りなさい。時計はぼくがあした質屋へ持って行って、金にして来てあげます。それから先は何もかもうまくいくでしょう。何よりかんじんなのは、三人ごいっしょにいられるってことです、ロージャもいっしょに……おやロージャ、きみはどこへ行くんだい?」
「まあ、ロージャ、お前もう帰るの?」プリヘーリヤはほとんどぎくりとしたようすで、こうきいた。 
「しかも、こういう時をねらって!」と、ラズーミヒンは叫んだ。
 ドゥーニャは信じられないといったような驚きの色を浮かべながら、兄を見やった。彼の手には帽子があった。彼は出て行きそうにしていたのである。
「なんだかみんな、まるでぼくの野辺《のべ》送りをするか、永久の別れでも告げてるようだね」なんとなく奇怪な調子で、彼はこういった。
 にやりと笑ったようでもあったが、それはまた微笑でないようでもあった。「ぼくたちが顔を見るのも、これが最後かもしれないからね」と彼はさりげない様子でいいたした。
 彼はこれを、ふと心の中で考えたのだが、どうしたはずみか、つい口へ出てしまったのである。
「まあ、お前はどうしたの!」と母は叫んだ。
「兄さん、あなたどこへいらっしゃるの?」なんとなく妙な調子で、ドゥーニャはこう尋ねた。
「ちょっと、ぼくどうしても行かなきゃならないんだ」自分のいおうとしたことに動揺を感じるらしい様子で、彼は漠然《ばくぜん》と答えた。が、その青ざめた顔には、一種きっぱりした決心の色が現われていた。
「ぼく、そういおうと思ったんです……ここへ来るみちみち……そういおうと思ってたんです、お母さん、あなたにも……それからドゥーニャ、お前にも。つまりぼくたちはしばらく別れていたほうがいいんです。ぼくは気分がすぐれない、心が落ちつかないんです……ぼくそのうちに来ます、自分で来ます、もし……そうしていい時がきたら。ぼくはあなたがたを忘れやしません。愛しています……どうかぼくにかまわないでください! ぼくをひとりきりにしといてください! ぼくはそう決心したんです、もう前から……それは固く決心したことなんです……たとえ、ぼくの一身にどんなことがあろうとも、破滅してしまうようなことがあろうとも、ぼくはひとりでいたいんです。ぼくのことはすっかり忘れてください。そのほうがいい……ぼくのことなど問い合わせないでください。必要があれば、ぼく自分で来るか……あなたがたを呼ぶかします。ことによったら、何もかも復活するかもしれません!………けれど、いまぼくを愛していらっしゃる間は、どうか思いきってください……でないと、ぼくはあなたがたを憎みます、ぼくそれを感じてるんです……さようなら!」
「まあ、どうしよう!」とプリヘーリヤは叫んだ。
 母と妹は激しい驚愕《きょうがく》に打たれていた。ラズーミヒンとても同様だった。
「ロージャ、ロージャ! 仲直りしておくれ、昔どおりになろうよ!」と、あわれな母親は絶叫した。
 彼はのろのろと戸口のほうへ踵《きびす》を転じ、のろのろと部屋から出て行った。ドゥーニャはそのあとを追った。
「兄さん! いったいお母さんをどうするつもりなんですの!」憤りに燃える目で兄を見つめながら、彼女はささやいた。
 彼は重苦しい視線で妹を見た。
「なんでもない、ぼくまた来るよ、ちょいちょいやって来るよ!」自分が何をいおうとしているのか、よく意識していないように、彼は小声でこうつぶやくと、ぷいと出てしまった。
「情知らず、いじわるなエゴイスト!」とドゥーニャは叫んだ。
「あれは――き、ち、が、いです、情知らずじゃありません! あれは発狂してるんです! いったいあなたはそれがわかりませんか? それじゃ、あなたのほうが情知らずです!………」ラズーミヒンは彼女の手を堅く握りしめながら、その耳もとへ口を寄せ、熱した声でささやいた。
「ぼくすぐ来ますから!」死人のようになっているプリヘーリヤに叫びすてて、彼は部屋の外へかけ出した。
 ラスコーリニコフは、廊下のはずれで彼を待ち受けていた。
「きみがかけ出して来ることは、ぼくもちゃんと知っていたよ」と彼はいった。「ふたりのところへもどって行って、あれたちといっしょにいてくれ……明日も来てやってくれ……そしていつも。ぼくは……また来るかもしれない……もしできたら。じゃ失敬!」
 こういうなり、手もさし伸べないで、彼はどんどん離れて行った。
「いったい、きみはどこへ行くんだい? きみ、どうしたんだ? いったいこれはなんとしたことなんだい? そんなのってあるかい!………」ラズーミヒンはすっかりとほうにくれて、つぶやいた。
 ラスコーリニコフはもう一度立ち止まった。
「これを最後にいうが、もうけっして何事もぼくにきいてくれるな。ぼくはなにも、きみに答えることなんかないんだから……ぼくんとこへ来ちゃいけないよ。もしかすると、ぼくやって来るかもしれない……ぼくをうっちゃっといてくれ……だが、あれたちは見すてないでくれ[#「見すてないでくれ」に傍点]、わかったかい?」
 廊下は暗かった。ふたりはランプのそばに立っていた。一分ばかり彼らは黙って互いに顔を見合っていた。ラズーミヒンは生涯この瞬間を忘れなかった。ラスコーリニコフのらんらんと燃える刺しつらぬくような視線は、あたかも一刻ごとに力を増して、ラズーミヒンの魂を、意識をつらぬくようであった。ふいにラズーミヒンはびくっとした。何か奇怪なものがふたりの間をかすめたような感じだった……ある想念が、まるで暗示のようにすべり抜けたのである。なにかしら恐ろしい醜悪なものが、とつじょとして双方に会得《えとく》された……ラズーミヒンは死人のようにさっと青くなった。
「今こそわかったろう?」ふいにラスコーリニコフは、病的にゆがんだ顔をしていった……「ひっ返して、あれたちのところへ行ってくれ」彼は急にいいたして、くるりと踵《きびす》を返すと、家から外へ出てしまった……
 この晩、プリヘーリヤのもとであったことの顚末《てんまつ》は、今さららしく書き立てまい。ラズーミヒンはひっ返して来ると、ふたりのものを慰めて、ロージャは病中静養が必要だ。あれは必ずやって来る、毎日やって来る、彼は非常に健康を害しているから、いらいらさせてはいけない、自分ラズーミヒンは彼によく気をつけて、一流のいい医者をつれて来てやる、それどころか、大ぜいの医者に立会い診察をさせてやる、云々《うんぬん》と誓った……ひと口にいえば、この晩からラズーミヒンは彼らのために、むすこともなり、兄ともなったわけである。

      4

 ラスコーリニコフはいきなりその足で、ソーニャの住まっている濠《ほり》ばたの家をさして行った。それは緑色に塗った古い三階まであった。彼は庭番を捜しあてて、裁縫師カペルナウモフがどこに住まっているか、だいたいの見当を教えてもらった。裏庭の片すみで、狭いまっ暗な階段へ通ずる口を見つけ、彼はやっと二階へ上った。そして、裏庭のほうから二階を取り巻いている廊下へ出た。彼が暗やみの中をうろうろして、カペルナウモフの住まいへはいる口はどこだろうと思案にくれていると、ふいに、彼から三歩ばかり離れたところで、何か戸のようなものが開いた。彼は機械的にそれへつかまった。
「だれ、そこにいるのは?」と不安らしい調子で女の声が問いかけた。
「ぼくです……あなたのところへ」とラスコーリニコフは答えて、思いきり小さな入口の間へはいって行った。
 そこにはぺちゃんこになったいすの上に、ひんまがった銅の燭台にさしたろうそくがとぼっていた。
「あなたでしたの! まあ!」ソーニャは弱々しい声で叫び、釘《くぎ》づけにされたように立ちすくんだ。
「あなたの部屋はどう行くんです? こっちですか?」
 こういってラスコーリニコフは、彼女のほうを見ないようにしながら、大急ぎで部屋へ通って行った。
 しばらくたって、ソーニャもろうそくを持ってはいって来た。そして、ろうそくを下へ置くと、思いがけない彼の訪問に驚かされたらしく、名状しがたい興奮のていで、とほうにくれたように彼の前に立っていた。と、にわかに紅《くれない》の色がさっとその青白い顔にさし、目には涙さえにじみ出してきた……彼女はいまわしくもあれば、恥ずかしくもあり、また甘い気持ちでもあった……ラスコーリニコフは、つと顔をそむけ、テーブルに向かっていすに腰をおろした。その間に彼はちらとひと目で、部屋の様子を見てとることができた。
 それは広いけれど、いたって天井の低い部屋で、カペルナウモフが貸しに出している唯一《ゆいいつ》の部屋だった。左手の壁に、その住まいへ通ずる締めきりの戸口があった。反対の側にあたる右手の壁には、いつもぴったり締めきりになっている、もう一つの戸口があった。そこはもう番号の違った隣の住まいである。ソーニャの部屋はなんとなく物置じみていて、恐ろしく不ぞろいな四辺形をしていたが、それがこの部屋に一種不具的な感じを与えるのであった。掘り割に面した窓の三つある壁は、部屋を斜めに横切っているので、一方のすみはひどい鋭角をなし、鈍いあかりではよく見分けられないほど奥深く入り込んでいるのに反して、いま一方のすみはみっともないほど鈍角になっている。この大きな部屋ぜんたいに家具らしいものはほとんどなかった。右手のすみにべッドがあって、そのそばには戸口に近くいすが一つおいてあった。ベッドのある壁に沿うて、よその住まいへ通ずる戸口のすぐそばに、青いクロースのかぶせてある、そまつな荒けずりのテーブルがあって、そのまわりには籐《とう》いすが二つおかれてあった。それから、反対側の壁に沿うて鋭角をしたすみに近く、小さな雑木のたんすががらんとした中に置き忘れられたように立っていた。それがこの部屋にあるすべてであった。すれてぼろぼろになった黄ばんだ壁紙は、すみというすみが黒くなっている。さだめし冬になると湿っぽく、炭酸ガスでもこもるにちがいない。貧しさはひと目でわかった。べッドのそばにすらカーテンがないほどであった。
 ソーニャは無言のまま、注意ぶかく無遠慮に部屋をじろじろ見まわす客を、じっとながめていたが、しまいには、まるで裁判官か、自分の運命を決する人の前にでも立っているように、恐ろしさのあまり、わなわなふるえ始めた。
「ぼくはこんなに遅く……もう十一時でしょう?」やはり彼女の顔へは目を上げず、彼はたずねた。
「ええ」とソーニャはつぶやいた。「あっ、そう、そうですわ!」まるでこのひと言に救いがあるように、彼女は急にあわてていった。「いま仕立屋さんのところで時計が打ちましたわ……わたし自分で聞きましたから……そうでございます」
「ぼくがあなたのところへ来るのは、これが最後です」ここへ来たのは今が初めてなのに、ラスコーリニコフは気むずかしげな調子で言葉をついだ。「ぼくはもしかすると、もうあ なたにお目にかかれないかもしれません……」
「どこかへ……いらっしゃいますの?」
「わかりません……何もかも明日のことです……」
「では、明日カチェリーナ・イヴァーノヴナのところへも、いらしってくださいませんの?」ソーニャの声は、ぴくりとふるえた。
「わかりません。何もかも明日の朝です……いや、しかし問題はそんなことじゃない。ぼくはひと言いいたいことがあって、来たんです……」
 彼は彼女のほうへもの思わしげな視線を上げた。と、急にはじめて、自分は腰をかけているのに、相手はまだずっと立ち通しでいることに、ふと気がついた。
「なんだって立ってらっしゃるんです? おかけなさいよ」彼は急に調子を変えて、穏やかな優しい声でそういった。
 彼女は腰をおろした。彼はあいそのいい、同情のこもったまなざしで、一分ばかり彼女を見つめていた。
「あなたはなんてやせてるんでしょう! あなたのまあ、この手はどうでしょう! まるで透き通るようだ。指ったらまるで死人のようだし」
 彼は女の手をとった。ソーニャは弱々しげに、にっこりほほえんだ。
「わたしいつもこうでしたの」彼女はいった。
「家にいる時から?」
「ええ」
「いや、そりゃもちろんだ!」彼はちぎれちぎれにこういった。と、その顔の表情も声の響きも、また急に変わってしまった。
 彼はもう一度あたりを見まわした。
「この部屋は、カペルナウモフから借りてらっしゃるんですか?」
「さようでございます……」
「それはあちらに、ドアの向こう側にあるんですか?」
「ええ……あちらにもやっぱりこれと同じ部屋がございますの」
「みんな一つ部屋に?」
「ええ、一つ部屋に」
「ぼくはこんな部屋にいたら、夜はさぞこわいだろうと思いますね」と気むずかしげな調子で彼はいった。
「うちの人がそれはいい人たちですから。それはそれは優しい」まだなんとなく、われに返りかねて、よく前後が考え合わされない様子でソーニャは答えた。「それに道具もみんな、何もかも……何もかも仕立屋さんのものですの。みんなたいへんいい人で、子供たちもしょっちゅうわたしのところへ遊びにまいりますの……」
「それはどもりの子供でしょう?」
「ええ……亭主はどもりで、びっこです。お主婦《かみ》さんもやはり……どもるというほどでもないんですけれど、なんだかすっかり皆までいわないようなぐあいですの。お主婦《かみ》さんは、それはそれはいい人ですわ。主人はもと地主の邸《やしき》に奉公していた百姓出で、子供が皆で七人あります……ただ一ばん上のがどもるんですけど、あとの子はただ病身なだけ……べつにどもりはいたしません……でも、そんなこと、どこからお聞きになりまして?」と彼女はやや驚いたふうで、こういいたした。
「あの時あなたのお父さんが、すっかりぼくに話してくだすったのです……お父さんはあなたのことをみんな話してくれましたよ……あなたが六時に出かけて行って、八時過ぎに帰って来たことも、カチェリーナ・イヴァーノヴナがあなたのペッドのそばにひざをついていたことも」
 ソーニャはどぎまぎした。
「わたし今日、あの人を見たような気がしましたの」と彼女は思いきり悪そうにささやいた。
「だれを?」
「父ですの。わたし通りを歩いていました。すぐ近所の角のところで、九時過ぎでしたわ。すると、父が前のほうを歩いているようなんですの。それがまるで、父そっくりなんですもの。わたし、カチェリーナ・イヴァーノヴナのところへ行こうと思ったくらいですわ……」
「あなたは散歩してたんですか?」
「ええ」とソーニャはまたどぎまぎして目を伏せながら、引っちぎったように答えた。
「だってカチェリーナ・イヴァーノヴナは、ほとんどあなたを打たないばかりだったそうじゃありませんか、お父さんのところにいる時分?」
「まあ、とんでもない、まあ、あなた何をおっしゃいますの、違いますわ!」とソーニャは何やらおびえたように彼の顔を見つめた。
「じゃ、あなたはあの人を愛してるんですか?」
「あの女《ひと》を? ええ、そりゃあ――もう!」とつぜん、せつなそうに両手を組み合わせながら、ソーニャは哀れっぽく言葉じりをひいた。
「ああ! あなたはあの女《ひと》を……もしあなたがあの女《ひと》をごぞんじでしたら。だって、あの女《ひと》はまるで子供なんですもの……だって、あの女《ひと》はまるで頭が狂ったみたいになってるんですもの……苦労しすぎたせいで。まあ、もとはどんなに賢い人だったでしょう……どんなに気持ちの広い人だったでしょう……どんなに優しい人だったでしょう!………あなたはなんにも、なんにもごぞんじないんですわ……ああ!」
 ソーニャはまるで絶望したもののように、わくわくして身をもだえ、手をもみしだきながら、これだけのことをいった。彼女の青白いほおはまたぱっと燃えて、目には苦痛の色が現われた。察するところ、彼女の心の琴線にいろいろ激しく触れることがあって、何かを表現し、物語り、弁護したくてたまらないらしかった。なにかしらあくことを知らぬ同情が[#「あくことを知らぬ同情が」に傍点](もしこういう表現が許されるなら)、とつぜん彼女の顔の輪郭にくまなく描き出された。
「打《ぶ》ったなんて! いったいあなたは何をおっしゃるんですの! まあ、打ったなんて! またかりに打ったにしても、それがなんですの! ねえ、それがなんですの? あなたはなんにも、なんにもごぞんじないんですわ……あの人はそりゃ不仕合わせな人ですの。ああ、なんて不仕合わせな人でしょう! しかも病身なんですもの……あの女《ひと》は公平ってものを求めているんですわ……あの女《ひと》は清い人なんですの。あの女《ひと》は、何事にも公平というものがなくちゃならないと信じきって、それを要求しているんですの……たとえあの女《ひと》はどんな苦しい目にあっても、まがったことなんかいたしません。あの女《ひと》はね、世の中のことが何もかも正しくなるなんて、そんだわけにいかないってことに、自分じゃてんで気がつかないで、そしていらいらしてるんですの……まるで子供ですわ、まるで子供ですわ! けども、あの女《ひと》は正しい人ですわ、正しい人ですわ!」
「ですが、あなたはどうなるんです?」
 ソーニャは反問するような目つきで相手を見た。
「あの人たちはみんな、あなたの肩へかかってきたわけじゃありませんか。もっとも、そりゃ前だってあなたにかかっていたにゃ相違ない。それに、なくなったお父さんも酒代をねだりに、あなたのところへ、ちょいちょい来たという話ですからね。ねえ、そこでこれからどうなるんです?」
「わかりませんわ」とソーニャは沈んだ調子で答えた。
「皆あそこに、ずっとつづけているんですか?」
「さあ、わかりませんわ、あの家には、借《か》りがあるんですものね。げんに今日もお主婦《かみ》さんが、立ちのいてもらいたいといったところ、カチェリーナ・イヴァーノヴナも、もう一刻だっていたくないといったんだそうですの」
「どうしてあの女《ひと》は、そんなにいばってるんです? あなたを当てにしてるんですか?」
「ああ、いけません、そんなふうにおっしゃらないでくださいまし!………わたしたちは一つ家のもので、いっしょに暮らしているんですもの」ソーニャは急にまた興奮し、いらいらさえしてきた。それはちょうどカナリヤかなにか、そうした小鳥が腹を立てたらこうもあろうかと思われるようなぐあいだった。「それに、あの女《ひと》はどうしたらいいのでしょう! どうしたら、いったいどうしたらいいのでしょう?」と彼女は熱くなって興奮しながら畳みかけて尋ねた。「それに今日だっても、あの女《ひと》はどんなに、どんなに泣いたことでしょう! あの女は頭《ひと》がめちゃめちゃになっていってるんですの。あなたはそれにお気がつきませんでした? 頭がめちゃめちゃになっているんですの。明日は何もかも式《かた》どおりにしたい、ザクースカやいろんなものをそろえなくちゃ、などと子供みたいに気をもんでいるかと思うと……両手を折れるようにもんだり、血を吐いたり、泣いたりして、こんどは急にやけ[#「やけ」に傍点]になったように、壁へ頭をぶっつけようとしたりするんですの。ところが、そのうちに気がしずまってくると、あの女《ひと》は今だにあなたを頼りにしましてね、今あの人はわたしの助け船だ、なんて申すんですの、それからこんどは、どこかで少しお金を工面して、わたしといっしょに自分の生まれた町へ帰って、いいところのお嬢さんがたを入れる寄宿学校を建てて、わたしをその舎監にする、こうして、まるっきり別な美しい生活を始めるんだなどといって、わたしを接吻《せっぷん》したり、抱きしめたり、慰めたりしてくれるんですの。だって、すっかり信じきってるんですもの! そんな夢みたいなことを信じてるんですもの! だけど、どうして、あの女《ひと》にさからうことができましょう? 今日なども、いちんち自分で掃いたり、ふいたり、繕《つくろ》ったり、あの弱い力でたらいを部屋の中へ引っぱり込んだりしたあげく、とうとう息を切らして、ベッドの上へぱったり倒れてしまったんですの。でもまだ今朝は、わたしあの女《ひと》とふたりで、ポーレチカとレーナのくつを買いに市場へ行って来たんですよ。もうすっかり破けてしまったものですから。ところが、胸算用して行ったお金が足りなかったんですの。とても足りなかったんですの。あなたはごぞんじありませんけれど、あの女《ひと》はなかなか好みがあるもんですから、それはしゃれた、かわいいくつを選《え》ったんですの……でね、いきなりその店さきで、商人たちのいる前で、お金が足りないって泣きだすじゃありませんか……ああ、わたしそれを見ているのが、どんなに気の毒だったでしょう」
「そりゃそのはずですよ、あなたがたが……そういう暮らしをしておられる以上……」とラスコーリニコフは、苦いうす笑いを浮かべていった。
「まあ、いったいあなたは、かわいそうじゃないんですの?かわい[#「ですの?かわい」はママ]そうじゃないんですの?」とソーニャはまたもや、いすからおどりあがるようにした。「だってあの時あなたは、まだなんにもごらんにならないうちから、ありたけのお金を恵んでくだすったじゃありませんか。ですもの、もし何もかもごらんになったら、ああそれこそどうでしょう! わたしは幾度、ほんとに幾度あの人を泣かせたことでしょう! つい先週だってそうでしたわ! ああ、わたし、なんて人間でしょう! 父のなくなるつい一週間前のことでした。わたしはむごたらしい仕うちをしましたの! それは幾度、幾度したかわからないくらいですわ。ああ、今日も今日とてそれを思い出して、一日どんなに苦しかったかしれませんわ!」
 ソーニャは思い出の苦しさに堪えかねて、こういいながら両手をもみしだいた。
「それはあなたがむごたらしい人だとおっしゃるんですか?」
「ええ、わたしですわ、わたしですわ! わたしがその時まいりますと」と彼女は泣きながら言葉をつづけた。「なくなった父がこう申しますの。『ソーニャ、わしに本を読んで聞かせてくれんか。なんだか頭痛がしてしかたがない。読んでくれ……ほら、この本だよ』といって、何かの本を出しました。それは、すぐ隣に住んでいるアンドレイ・セミョーヌイチのところで――レベジャートニコフさんのところで借りて来たんですの。いつもそんな滑稽本《こっけいぼん》を借りて来ていましたわ。その時わたしは、『もう帰る時刻ですもの』といって、そのまま読もうとしなかったんですの。わたしがそのとき寄ったのは、ただカチェリーナ・イヴァーノヴナに、えりを見せたいのが主だったんですもの。古着屋をしているリザヴェータが、えりとそで口を安く持って来てくれたんですけどね、それはきれいな、まだまだ新しい品で、模様がついていますの。すると、たいへんカチェリーナ・イヴァーノヴナの気に入りましてね、自分でかけて鏡に映して見たりして、それこそもうすっかり気に入ってしまったんですの。そして、『わたしにおくれよ、ソーニャ、後生《ごしょう》だから』っていうじゃありませんか。『後生だから[#「後生だから」に傍点]』といったんですもの、よくよく、ほしかったものと見えますわ。だって、あの女《ひと》がそんなものをかけたって、しようがないじゃありませんか? ただなんとなしに、昔の幸福な時代が思い出されたんですわね!