京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP169-P180

「酔ってるか酔ってねえか。わかったもんじゃねえ」と職人はつぶやいた。
「ほんとうになんの用なんですね?」そろそろ本気に腹を立てながら、庭番はまたもやどなりつけた。「何をいつまでもへばりついてるんだ?」
「警察へ行くのがこわくなったのかい?」とラスコーリニコフは冷笑を浮かべながらいった。
「何がこわいんだい? てめえこそ、何を人にからんできやがるんだ」
「かたりめ!」と女がどなった。
「何もこんな野郎を相手にぐずぐずいうこたあねえ」ともうひとりの庭番が口を出した。粗《そ》らしゃの外套の前をはだけて、帯にかぎをぶらさげた大男である。「出てうせろ!………ほんとにかたり野郎め……うせろ!」
 こういうなり、ラスコーリニコフの肩をつかんで、往来へ突き飛ばした。こっちは危うくもんどり打ちそうになったが、どうにか踏みこたえて倒れなかった。身づくろいして、無言のまま見物一同を見やったが、やがてまた先のほうへ歩きだした。
「きみょうなやつだな」と職人がいった。
「近ごろはきみょうなやつが多くなったのさ」と女がいった。
「やっぱり警察へ突き出しゃよかったんだ」と町人はいいたした。
「何もかかり合いになるこたあねえよ」と大男の庭番がいった。「まったくのかたりさ! あのとおり自分から行きたがってるんだから、いいじゃねえか。うっかりかかり合ってみろ! それこそ、抜けられやしねえから……ちゃんと知ってらあな!」
『さて、行ったものか、やめたものか?』ラスコーリニコフは四つつじの車道のまん中に立ち止まって、だれかから最後の言葉でも待つように、あたりを見まわしながら考えた。が、どこからも何ひとつ応じてくるものはなかった。すべては、彼の踏んでいる石のように、がらんとして死んでいた。彼にとって、ただ彼だけにとって、死んでいるのであった……ふとはるかかなた、二百歩ばかり隔てた通りのはずれ、深くなりまさるやみの中に、彼はひとかたまりの群衆を見わけ、がやがやという話し声や叫びを聞き分けた……群衆のまん中には一台の馬車が立っていた……通りの中ほどで、小さな火が一つちらちらしはじめた。『何事だろう?』とラスコーリニコフは右へ取って、群衆のほうへ歩いて行った。何にでもかかり合ってみようとしているようなふうだ、そう思って、自分で冷たい微笑をもらした。警察行きを固く決心したので、すぐに万事かたづくと確信していたからである。

      7

 通りのまん中には、あし毛の悍馬《かんば》をつけた紳士用のぜいたくな二頭立ての四輪馬車が立っていたが、乗り手はいなかった。御者は御者台からおりてそばに立っているし、馬はくつわを取っておさえられている……まわりには大ぜいの人がひしひしとつめかけ、一ばん前には何人かの巡査が立っていた。中のひとりは角灯を手にかがみ込んで、車輪のすぐそばの舗道《ほどう》の上にある何ものかを照らしていた。人々はがやがやいったり、わめいたり、嘆息したりしていた。御者は合点のいかぬような顔をして、ときどきこうくりかえしていた。
「なんという災難だろう! ああ、どうもとんだ災難だ!」
 ラスコーリニコフはできるだけ前へ割り込んで、この騒ぎと人だかりの原因をやっとのことで見定めた。地面には今しがた馬に踏まれたばかりの男が、全身血まみれになって倒れていた。見たところ、いかにもみすぼらしいが、『だんならしい』服装をしている。顔からも頭からも血が流れ、額は一面に傷だらけで、皮ははげ、目もあてられぬ相好《そうごう》をしていた。なみたいていの踏まれかたでないことが、一見して明瞭《めいりょう》だった。
「皆さん!」と御者はくどくどと訴えた。「どうしてこれが避《よ》けられましょう! そりゃもうわっしが馬を追い立てたとか、声をかけなかったとかいうならかくべつだが、けっして急いだんじゃなくて、並み足でやって来たんでございますからな。皆さんがたも見てましたが――人間は粗相《そそう》をしやすいもので、わっしもそのひとりでございますよ。酔っぱらいはご承知のとおり、ろうそくを立てることなんかできやしませんからね!………見るとこの人が、ひょろひょろぶっ倒れそうなかっこうで、通りを突っ切ろうとしている……わっしは一度、二度、三度まで声をかけて、おまけにたづなを締めましたが、この人はまっすぐに馬の足もとへ倒れたんで! いったい、わざとそうしたのか、それともうんと酔っぱらっていたのか知りませんがね……馬は若くて驚きやすいときてるから、一つがんとやったところ、この人がきゃっと大きな声を立てたので、馬のやつはなおのこと……それでとうとうこんなことになっちまって」
「まったくそれにちがいない!」とだれかの証明する声が群衆の中で響いた。
「声をかけた、そりゃほんとうだ、三度も声をかけたんだ」ともうひとりの声が応じた。
「かっきり三度だ、みんな聞いてた!」と、第三の声が叫んだ。
 もっとも、御者はさほどしょげても、びくびくしてもいなかった。見うけたところ、馬車の持ち主は富裕な名士で、今はどこかで馬車が来るのを待っているらしい。巡査はいうまでもなく、この点がうまくいくようにと、少なからず気をもんでいた。とにかく、けが人を分署なり、病院なりへ収容しなければならなかった。が、だれひとり彼の名を知っているものがない。
 その間にラスコーリニコフは人ごみを押し分けて、なおも近く身をかがめた。ふと角灯の光がこの不幸な男の顔をはっきり照らし出した。彼はその男を見分けた。
「これはぼくが知ってる! 知ってる!」と、彼はすっかり前へ出て行きながら叫んだ。「これは官吏です。退職の九等官で、マルメラードフという! すぐ近所のコーセルの持ち家に住んでいます……医者を早く! 費用はぼくが払います、このとおり!」
 彼はポケットから金を取り出して、巡査に見せた。彼はむやみに興奮していた。
 巡査たちはけが人の身もとがわかったので満足した。ラスコーリニコフは自分の姓名と住所を告げ、まるで生みの父親のことかなんぞのように一生けんめいになり、人事不省《じんじふせい》のマルメラードフを一刻も早くその住まいへ運ぶように主張した。
「ほら、あそこです、この三軒さき」と彼はひとりでやきもきした。「コーゼルの持ち家です。金持のドイツ人の……この人はきっと酔っぱらって、家へとぼとぼ帰るところだったんです。ぼくはこの人を知っていますが……大酒飲みなんでね……家には家族がある。細君に、子供に、それから娘がひとりいるんです。病院へつれて行くまでに応急手当てを、あの家にもきっと医者が住まっているから! 払いはぼくがします、ぼくがします!………なんといっても肉親の看護だから、早く手当てができる。できなかったら病院へ行くまでに死んでしまう……」
 彼は巡査の手にこっそりと、なにがしかの金を握らせさえもした。それに、事件はわかりきった当然のことである。いずれにしても、そのほうが手当ては早いに決まっていた。けが人はかつぎ上げられて、運んで行かれた。手伝い人もいくたりか出て来た。コーゼルの家までは三十歩ばかりしかなかった。ラスコーリニコフはそっと大事に頭をささえながら、あとからついて行き、道案内をした。
「こっちだ、こっちだ! 階段をのぼるときは、頭を上にしなくちゃいけない。ぐるっとまわった……そうだ、そうだ。ぼくが駄賃《だちん》を払うから、礼をするから」と彼はいった。
 カチェリーナ・イヴァーノヴナはいつもの癖で、ちょっとでも暇があれば、すぐに両手をしっかり胸に組み合わせて、何かひとりごとをいっては、ごほんごほんせきをしながら、小さな部屋の中を窓から暖炉《だんろ》へ、暖炉から窓へと歩きつづけるのであった。近ごろ彼女は、十になる姉娘のポーレンカを相手に、よくいつまでも話しこむようになった。娘はまだたくさんわからないことがあったけれど、自分が母親にとって必要なものだということだけは、十分によくのみこんでいたので、いつもその大きな利口そうな目で、母親のあとを追いながら、なんでもわかっているような顔をしようと一生けんめいに苦心していた。が、ちょうどこの時ポーレンカは、いちんち気分のすぐれなかった弟を寝かせつけようと、着物を脱がせているところだった。今夜のうちに洗っておかねばならぬシャツを、取り替えてくれるのを待つ間、子供はしかつめらしい顔をして、かかとをつけてつま先だけ開き、ぴったりそろえた両足を前へ突き出しながら、黙って身動きもせずに、しゃんといすの上にすわっていた。彼はくちびるをとがらせ目をみはったまま、すべて一般に利口な子供が、寝に行く前に着物を脱がせてもらうとき、きまってすることになっている型どおり寸分たがわず、身動きもせずに母と姉の話を聞いていた。その下の女の子は、それこそまったくのぼろぼろ着物を着て、ついたてのそばに立ちながら、自分の番を待っていた。階段へ向かった戸はあけ放しになっていた。それは奥の部屋部屋からたばこの煙の波がたえず流れ込んで、不幸な肺病やみの女をいつまでも悩ましげにせき入らせるので、それを少しでも防ぐためだった。カチェリーナはこの一週間に、いっそうやせが目立ってきたようで、ほおの赤いしみは前よりずっとあざやかに燃えていた。
「お前はとてもほんとうにできないだろう、考えてみることもできないだろう。ねえ、ポーレンカ」と彼女は部屋を歩きながらいった。「お祖父《じい》さまのおうちにいるころ、わたしたちはどんなにおもしろくはなやかに暮らしていたか。それを、あの酔っぱらいがわたしを破滅さしてしまったうえに、お前たちまで破滅させようとしているんだよ! お祖父さまは五等官だから、軍人なら大佐で、まあいわば知事さまみたいだったんだよ。もうほんのひと息で知事さまというところだったのよ。だから、みんながお祖父さまのところへ来ては、『わたしどもはあなたを知事さま同様に思っているのでございます、イヴァン・ミハイルイチ』なんていったものさ。わたしがね……ごほん! わたしが……ごほん、ごほん……ああ、つくづくいやになってしまう!」と彼女はたんを吐き出して胸をおさえながら、叫ぶようにいった。「わたしがね……ああ、一ばんおしまいの舞踏会の時……貴族会長さんのお宅の舞踏会の時………ヘズゼメーリナヤ公爵夫人がね――これはあとでわたしがお前のお父さんと結婚したときに、祝福してくだすったかただよ、ポーレンカ――このかたがね、わたしを見るとすぐ、『卒業式の時にショールをもって踊ったかわいいお嬢さんは、あの人じゃなかったかしら?』と、おききになったんだよ。(ああ、ほころびを縫わなくちゃ。さ、早く針を持って来て、わたしが教えたとおりに繕《つくろ》ってごらん。でないと、明日は……ごほん! 明日は……ごほん、ごほん、ごほん! もっとひどく裂けてしまうから)」と苦しげに身もだえしながら、彼女は叫んだ。「そのときね、ペテルブルグからいらっしたばかりのシチェゴリスコイ公爵という侍従武官が……わたしとマズルカをお踊りになって、その翌日わたしに結婚の申し込みをなすったんだよ。そのとき、わたしは自分でごくていねいにお礼を申しあげて、わたしの心はもうほかの人にささげているからと、お断わりしたの。そのほかの人というのが、つまり、お前のお父さんだったのよ、ポーリャ。するとお祖父《じい》さまがたいへん腹をお立てになってね……あ、お湯はできたか? さあ肌着をおよこし、そしてくつ下は?……リーグや」と彼女は下の娘に呼びかけた。「お前今夜はしかたがないから、肌着なしでおやすみよ。どうにかしてね……くつ下はそばに出しておおき……いっしょに洗うんだから……なんだってあの飲んだくれは帰らないんだろうね! 肌着を雑巾みたいになるまで着て、ぼろぼろに破いてしまった……ふた晩も立て続けに骨を折らされるのはたまらないから、みんなひとまとめにかたづけたいんだけどねえ! ああ! ごほん、ごほん、ごほん、ごほん!また! あれはなんだね?」入口の控え室でがやがやしている群衆と、何か荷物をかついで部屋へ押しこんで来た人に気がついて、彼女は思わず叫んだ。「何事ですの? いったい何を持って来たんです? まあ、どうしよう!」
「いったい、こりゃどこへ置いたもんだろう?」血まみれになって正気を失っているマルメラードフが部屋の中へかつぎ込まれたとき、巡査のひとりはあたりを見まわしながら、こう尋ねた。
「長いす! 長いすへじかに置いてくれたまえ、ほら、こっちを頭にして」とラスコーリニコフが指図した。
「往来でひかれたんだよ! 酔っぱらってるところを!」と控え室からだれやらが叫んだ。
 カチェリーナは真青になって突っ立ったまま、さも苦しげに息をしていた。子供たちは仰天《ぎょうてん》してしまった。小さいリードチカはきゃっと叫んで、ポーレンカにとびかかり、姉にひしとしがみついて、全身をわなわなふるわした。
 マルメラードフを寝かすと、ラスコーリニコフはカチェリーナのそばへかけ寄った。
「どうか後生《ごしょう》ですから、落ちついてください、びっくりしないでください!」と彼は早口にいった。「ご主人は往来を横切ろうとして、馬車にひかれなすったんですが――心配はいりません。今に気がつきますから。ぼくがここへかついで来るようにいいつけたんです……ぼく一度伺ったことがあります、覚えていらっしゃるでしょう……だいじょうぶ、気がつきますよ。金はぼくが払います!」
「ああ、とうとう本望を達したんだ!」カチェリーナは絶望的な叫びをひと声たてると、夫のそばへかけ寄った。
 ラスコーリニコフは、彼女が気絶して倒れるような女でないことを、やがてまもなく見てとった。不幸な老人の頭の下には、今までだれひとり気のつかなかったまくらがあてがわれた。カチェリーナは夫の服を脱がせ、傷をあらためにかかった。自分のことは忘れてしまって、ふるえるくちびるをきっとかみしめ、今にも胸からほとばしり出ようとする叫びをおさえながら、一生けんめいにまめまめしく働いて、取り乱したふうもなかった。
 ラスコーリニコフはその間に、医者へ人を走らせた。医者は一軒おいて隣に住んでいることがわかった。
「ぼく医者を呼びにやりました」と、彼はくりかえしくりかえし、カチェリーナにいった。「ご心配はいりません、ぼくが払いますから。水はありませんか?……そしてナプキンでもタオルでも、なんでもいいから早くください。けがはどんなか、まだわからないんですから……ご主人はけがをしただけで、死んでるんじゃありません、ほんとうです……ああ、医者はなんというかしらん!」
 カチェリーナは窓のほうへ飛んで行った。その片すみのぺちゃんこになったいすの上に、子供や夫の肌着を夜中に洗たくするために用意された、大きなたらいがすえてあった。カチェリーナはこうした夜中の洗たくを、少なくとも週に二度、時にはそれ以上自分の手でするのであった。家の者の肌着がひとりに一枚ずつしかなく、着がえすらもないほどの落ちぶれかたではあったが、彼女は不潔なことが大きらいなので、家の中によごれ物をほうっておくよりは、力にあまるむりな仕事でわが身を苦しめても、夜みんなが寝ている間に洗たくして、それを張り渡したつなにかけて、朝までに干しあげ、皆にさっぱりしたものを着せようとするからであった。彼女はラスコーリニコフの求めに応じて、たらいを持って行こうと手をかけたが、危うくその重荷といっしょに倒れそうになった。けれどラスコーリニコフはその間にもうタオルを見つけて、それを水に浸し、血まみれになったマルメラードフの顔をふき始めた。カチェリーナは痛みをこらえるように息をつきながら、両手で胸をおさえてその場に突っ立っていた。彼女自身にも手当てが必要なくらいであった。ラスコーリニコフは、ここへけが人をかつぎ込むように勧めたのは、自分の失策だったかもしれぬということが、だんだんわかってきた。巡査もやはり思い惑うような顔つきで立っていた。
「ポーリャ!」とカチェリーナは叫んだ。「ソーニャのところへかけだしておいで、大急ぎで。もし家にいなくっても、やっぱりそういっておきなさい――お父さんが馬車にひかれたから、帰って来たら、すぐおうちへ来るようにって……はやく、ポーリャ! ほら、この頭巾《ずきん》をかぶって!」
「いっちょ懸命にかけだしといでよ!」と男の子がふいにいすの上から叫んだ。けれどこれだけいうと、すぐまた前のように目をまん円く見はり、かかとを前につま先を開いたまま、黙りこんで、いすの上にちんとすわりつづけていた。
 その間に部屋は人でうずまりつくして、りんご一つ落とすすき間もなくなってしまった。巡査は引き揚げたが、ただひとりだけ残って、階段からわいわい押しかけて来る群衆を、また階段へ追い返すのに骨折っていた。その代り奥のほうの部屋部屋から、リッペヴェフゼル夫人の借間人どもが、ほとんど総出でばらばら飛んで来た。初めのうちこそ、ただ入口で押し合っているばかりだったが、やがてどやどやと部屋の中までなだれ込んで来た。カチェリーナは前後を忘れてしまった。
「せめて死ぬだけでも、静かに死なしてやってくれたらよさそうなもんだ!」と彼女は群衆に向かってどなった。「見世物じゃあるまいし! たばこなんかくわえてさ! ごほん、ごほん、ごほん! いっそ帽子もかぶって来るがいい……まあほんとうに、ひとり帽子をかぶったのがいるよ!………出て行け! 死んだ者にくらい礼儀を守りなさい!」
 せきが彼女の息をつまらせた。しかし、おどかしは効を奏した。見うけたところ、みんなカチェリーナをいささか恐れているらしかった。借間人たちは、近親知友にとつぜんの不幸が起こったとき、最も親しい間柄でさえいつも認められるかの奇怪な心内の満足感をいだきながら、ひとりひとり戸口のほうへじりじりと引っ返した。じっさい、だれしもこういう場合、それこそ真剣なあわれみや同情を持っているにもかかわらず、このような感情が忍び込むのを、どうしても、のがれえないものである。
 ドアの向こうでは、病院へやったらとか、ここでむだに騒いでもしかたがない、とかいうような声が聞こえた。
「ここで死んじゃいけないというの!」とカチェリーナは叫んだ。そして、みんなに大雷《おおがみなり》を破裂さしてやろうと、ドアを開けに飛びだしかけたが、ちょうど戸口のところで、今しがた不幸を聞きつけるなり、処置をつけにかけつけたりでヘヴェフゼル夫人にぶっつかった。
 これはいたってもののわからない、やっかい千万なドイツ女だった
 「どうも、まあまあ!」と彼女は両手をうち鳴らした。「だんなさん酔っぱらって、馬に踏まれたってね。病院へやんなさい! わたしは家主よ」
「アマリヤ・リュドヴィーゴヴナ! どうか考えてものをいってください」とカチェリーナは高飛車《たかびしゃ》に切り出した。(彼女は主婦《おかみ》に向かうとかならず、相手が『身のほどを知る』ように高飛車な調子で口をきくのであった。で、今のような場合にも、やっぱりその快感を味わずにいられなかったのである。)「アマリヤ・リュドヴィーゴヴナ……」
「わたしはもう前に、ちゃんと断わっておいたじゃありませんか――けっしてわたしのこと、アマリヤ・リュドヴィーゴヴナといっちゃいけませんて、わたしはアマリ・イワンです!」
「あなたはアマリ・イワンじゃありません、アマリヤ・リュドヴィーゴヴナです。わたしはね、いまげんにドアの向こうで笑っているレベジャートニコフみたいな、けがらわしいおべっか使いの仲間じゃありませんから(ドアの向こうでは、じっさいどっと笑う声と、『さあ取っ組んだぞ』という叫びが響きわたった)、いつでもあなたのことを、アマリヤ・リュドヴィーゴヴナと呼びますよ。もっとも、こう呼ぶのが、
なぜあなたのお気に入らないのか、いっこうにわかりませんがね。あなたもご自分で見ておわかりでしょう――セミョーン・ザハールイチはどんなことになりました? あの人は死にかかっているんですよ。どうかお願いですから、今すぐそのドアをしめて、だれもここへ入れないようにしてください。せめて死ぬだけでも静かに死なしてやってください! でないと、明日にもあなたの仕打ちが、総督さまのお耳にはいりますよ。公爵はわたしの娘時分からごぞんじで、主人にもたびたびお目をかけてくださいましたので、ようっく覚えていらっしゃいます。主人に大ぜいのお友だちや保護者があったことは、だれでもみんな知っています。ただあの人があまり潔白で誇りが強いものだから、自分の因果《いんが》な癖をつくづく感じたので、自分からその人たちを捨ててしまったんです。けれどこんどは(と彼女はラスコーリニコフを指さした)、お金もご身分もあるこの親切なかたが――主人がお小さい時からぞんじあげているかたが、わたしたちを助けてくださるんです。ほんとうですとも、アマリヤ・リュドヴィーゴヴナ……」
 彼女はこれだけのことを、恐ろしく早口に弁じ立てた。しかも、さきへ進めば進むほど、それがいっそう早くなるのであった。けれど、せきが彼女の雄弁を一時に断ち切ってしまった。と、ちょうどこの時、瀕死《ひんし》のけが人が意識を回復して、うめき声を立てたので、彼女はそのほうへかけもどった。けが人は目を見ひらいて、まだなんにもわからず、なんにも見わけられない様子で、まくらもとに立っているラスコ-リニコフの顔にじっと見入った。彼はさも苦しそうに、深く間遠《まどお》に息をしていた。くちびるの両端には血がにじみ出し、額には汗が浮いている。彼はラスコーリニコフが見わけられなかったので、不安げにあたりを見まわしはじめた。カチェリーナは、うれわしげな、とはいえ、いかつい目つきで夫を見つめていたが、その目からは涙が流れるのであった。
「ああ、どうしよう! 胸がすっかりつぶれてる! まあこの血、なんて血だろう!」と彼女は絶望したようにいった。「上着をすっかりとってしまわなくちゃ! すこし横になってちょうだい、セミョーン・ザハールイチ、もしむりでなかったら」と彼女は大きな声でいった。
 マルメラードフは妻の顔を見わけた。
「坊さんを!」と彼はしゃがれ声でいった。
 カチェリーナは窓のほうへ身をひき、窓わくに額を押しあてながら、絶望の叫びを発した。
「ああ、情けない世の中だ!」
「坊さんを!」瀕死の病人は一分ばかり無言の後、再びこういった。
「もう迎えに行きましたよう!」とカチェリーナはどなりつけるように答えた。彼はその叫びに服して口をつぐんだ。そして、おどおどした悩ましげな目つきで、妻をさがし求めた。彼女はまた夫のほうへ帰って、そのまくらもとに立った。彼は少し落ちついたが、それも長くはなかった。
 やがて彼の視線は、片すみで発作でも起こしたようにふるえながら、子供らしくみはった、びっくりしたようた目で、じっと父を見つめている小さいリードチカ(彼の秘蔵っ子)の上に止まった。
「あ……あ……」と彼は気づかわしげに彼女のほうを目で教えた。
 彼は何かいいたかったのである。
「それからまだなんですの?」とカチェリーナが叫んだ。
「はだしだ! はだしだ!」と彼はうつけのようなまなざしで、娘の素足をさしながらつぶやいた。
「黙んなさい!………」と癇性《かんしょう》らしい声でカチェリーナはどなりつけた。「なぜはだしでいるか、自分で知ってるくせに」
「ありがたい、医者だ!」とラスコーリニコフはうれしそうに叫んだ。
 几帳面《きちょうめん》らしい年とったドイツ人の医者が、うさんくさそうな顔つきで、きょろきょろあたりを見まわしながらはいって来た。病人のそばへ寄って脈をとり、注意ぶかく頭をいじって見た後、カチェリーナの手をかりて、血でねとねとになっているシャツのボタンをはずし、病人の胸をはだけた。胸は一面に目もあてられぬほど、めちゃめちゃにくだけていた。右のほうの肋骨《ろっこつ》が二、三本折れていて、左のほうは心臓のま上に、黄味がかった黒い斑点《はんてん》が、大きく無気味にひろがっていた。むざんなひづめのあとである。医者はまゆをひそめた。巡査は医者に向かって、けが人は車輪に引っかかったまま、敷石道を三十歩ばかり引きずられて行った、と話して聞かせた。
「こりゃもう一度正気に返ったのが、ふしぎなくらいですよ」と医者はそっとラスコーリニコフにささやいた。
「で、いったいどうなんでしょう?」とこちらは問い返した。
「もうほんのちょっとです」
「まるで望みがないんですか?」
「ぜんぜんありません! もう息をしてるというだけですよ……それに、頭のほうもなかなかの重傷ですからな……さよう……放血をやってみてもいいが……しかし……それもむだでしょう。五分か、せいぜい十分で最期ですな」
「じゃ、とにかく、放血をやっていただこうじゃありませんか!」
「そう……しかし、前もってお断わりしておきますが、それはぜんぜん徒労ですよ」
 この時また足音が聞こえて、控え室の群衆が左右にわかれた。と、しきいの上に、用意の聖餐《せいさん》をささげた僧が現われた。小柄な白髪の老人である。その後ろから、巡査がついて来た。通りからいっしょなのである。医者はすぐ僧に席をゆずり、意味ありげに目と目を見合わした。
 ラスコーリニコフは医者に向かって、せめて今すこし残っていてくれと、むりやりにたのんだ。医者はひょいと肩をすくめて、居残ることにした。
 皆はあとへ引きさがった。式はごく簡単に終わった。死にゆく人はほとんど何ひとつわからなかったらしい。彼はただとぎれとぎれに不明瞭《ふめいりょう》な音を発することができたばかりである。カチェリーナはリードチカの手を取り、男の子をいすからおろして、片すみの暖炉のほうへひっこみ、そこにうやうやしくひざをついた。それから、子供をも自分の前にひざまずかせた。女の子はただふるえるばかりだったが、男の子はむき出しのひざをついて、規則ただしく小さな手をあげては、大きく胸に十字を切り、床に額をこつんこつんとあてながら礼拝した。見たところ、それがかくべつおもしろいらしかった。カチェリーナはくちびるをかみしめ、涙をのんでいた。彼女も同じように祈った。ときどき幼いもののシャツを直してやったり、祈禱《きとう》をつづけながら、ひざまずいたまま立ちもしないで、たんすから小さなショールを取り出し、あまりむき出しになっている娘の肩へかけてやったりした。その間にまた奥の部屋部屋へ通ずるドアが、ときどき物見高い連中の手であけられた。入口の控え室では、見物に来た各階の店子《たなこ》たちが、あとからあとから、ひしひしとつめがけたが、部屋のしきいをまたぐものはない。わずか一本のろうそくの燃えさしが、こうしたすべての情景を照らすのであった。
 ちょうどこの時、姉を迎えに行ったポーレンカが、群衆を押しわけながらすばやくはいって来た。あまり急いで走ったので、はあはあ息を切らしていたが、はいるといきなり頭巾《ずきん》をぬいで、目で母親をさがし出すとそのそばへ近づき、「そこに来ててよ! 途中で会ったの!」といった。母親は彼女をもおさえつけて、自分のそばにひざをつかせた。と、群衆の中から年ごろの娘が、おずおずと音もなく前へ進み出た。貧苦と、襤褸《つづれ》と、死と、絶望にみちたこの部屋の中に、彼女がとつぜん姿を現わしたのは、ふしぎな思いがするほどであつた。彼女もやはり貧しい衣裳を身にまとって、安っぽい服装《なり》をしてはいたが、ある特殊の社会にしぜんとできあがっている趣味と法則に合《がっ》したもので、いやにけばけばしく下品な色をして、いやしい目的をむき出しにしていた。ソーニャは控え室のしきいぎわに立ち止まったが、しきいはまたがなかった。とほうにくれてしまって、何ひとつ意識しないようなようすである。この場合には不似合いな、長い滑稽《こっけい》なトレーン(尾)のついた、幾人の手をくぐったかしれない、はでな絹服のことも、戸口をいっぱいにふさいでしまった、とほうもない大きさのクリノリン(腰張り)も、薄色のくつのことも、夜は不用なパラソルを持っていることも、燃え立つような緋《ひ》の羽毛《はね》飾りをつけた、滑稽な丸い麦わら帽子のことも、何もかも忘れはてたようである。子供らしくあみだにかぶったこめ帽子の下からは、恐怖のあまり口をあけて、目をじっとすえた、やせて青白いおびえたような顔がのぞいていた。ソーニャは年ごろ十八ばかり、やせて背丈は小さいけれど、すばらしい青い目をした、かなり美しいブロンドであった。彼女はべッドと僧をじいっと見つめた。やはり急いで来たので息をきらせていた。やがてようやく、群衆のひそひそ話や二、三の言葉が耳へはいったらしく、彼女は目を伏せて、しきいをひと足またいだが、やはり戸口で止まってしまった。
 懺悔《ざんげ》と聖餐《せいさん》式は終わった。カチェリーナはまた夫の床《とこ》へ近づいた。僧が帰りしなに、告別と、慰安の言葉を述べようとして、カチェリーナのほうへ向いたとたん、
「この子供たちをどうしたらいいのでしょう?」と彼女は鋭い、いらいらした調子で、幼いものたちを指さしながらいった。
「神さまは慈悲ぶかい、主のお恵みにすがりなさい」と僧はいいかけた。
「ええ! お慈悲ぶかくっても、それはわたしたちにゃ届きません!」
「そのようなことをいうのは罪です。奥さん、罪ですよ!」と僧は頭を振りながら注意した。
「じゃ、これは罪じゃないんですの?」と臨終の夫を指さしながら、カチェリーナはさけんだ。
「それは思わぬ惨事《さんじ》の原因となった人が、あなたに賠償をしてくれるでしょう。収入を失ったという点だけでもな……」
「あなたは、わたしのいうことが、おわかりにならないんです!」とカチェリーナは片手をひと振りして、いらだたしげにさえぎった。「なんのために賠償なんかしてもらうんです? だってあの人が自分で酔っぱらって、馬の足もとへ倒れ込んだんじゃありませんか! それに、収入とはなんですの? あの人は収入どころか、ただ苦労の種をつくってくれたばかりです。あの飲んだくれったら、何もかもお酒にしてしまったんです。わたしたちのものを盗み出しちゃ、居酒屋へ持って行ったんです。子供たちやわたしたちの生涯《しょうがい》を、居酒屋でめちゃめちゃにしてしまったんです! 死んでくれてありがたいくらいだ! かえって損が少なくなるくらいです!」
「臨終の時には許してあげにゃなりませんて。そんなことは罪ですぞ、奥さん、そんな気持ちは大きな罪ですぞ!」
 カチェリーナは夫のそばで小まめに、なにくれと世話をした。水を飲ませたり、頭の汗や血をふいてやったり、まくらを直してやったりしながら、ときどき仕事の合い間に僧のほうへふり向いては、何かと話をしていたのであるが、この時は急に前後を忘れたようになって、彼に食ってかかった。
「ええ、神父さん! それは、ただの言葉です、言葉だけです! 許すなんて! 今日だって、もしひかれなかったら、ぐでんぐでんになって帰って来るんです。一枚看板の着古したシャツの上にぼろを重ねて、そのまま正体なく寝倒れてしまうんですよ。ところが、わたしは夜明けまでも水をじゃぶじゃぶやって、あの人や子供たちの着古しを洗ったり、それを窓の外へ干したりして、さて夜が白みかけると、こんどはすわり込んでほころびをつくろわなければならない。これがわたしの夜なんです! これでも許すなんてことがいえますか!………もういいかげんに、わたしは許してきましたよ!」
 と、恐ろしいほどはげしいせきが、彼女の言葉を断ち切った。彼女は片手で苦しげに胸をおさえながら、一方の手でハンカチヘたんを受け、それを僧の前へ突き出して見せた。ハンカチは一面に血だらけであった。
 僧は頭をたれて、ひと口もものをいわなかった。
 マルメラードフはいまわのきわの苦しみに襲われていた。彼はその目を、またかがみ込んだ妻の顔から放さなかった。何かいいたくてたまらない様子で、一生けんめいに舌を動かしながら、不明瞭な言葉を発して切り出そうとしたが、カチェリーナは夫が許しをこおうとしているのを察し、すぐさま命令するように叫んだ。
「黙ってらっしゃい! いわなくてもいい! 何をいいたいのか、わかっていますよう……」
 で、病人は口をつぐんだ。しかしその時、頼りない視線が戸口へ落ちると、彼はソーニャを見つけた。
 この時まで彼は娘に気づかなかった。彼女は片すみの物かげに立っていたのである。
「あれはだれだ? あれはだれだ?」と彼はふいに息ぎれのするしゃがれ声でいった。全身に不安の色を現わし、恐ろしそうな目で娘の立っている戸口をさし示しながら、身を起こそうともがいた。
「寝てなさい! 寝てなさいよう!」カチェリーナは叫んだ。
 けれども彼はほとんど超自然的な力で片ひじを立てた。そしてしばらくの間、まるで娘がだれかわからないように、ふしぎそうに視線をじっとすえながら、その顔を見つめていた。のみならず、彼はまだこんな服装《なり》をしている娘を、一度も見たことがなかったのである。と、ふいに彼は娘を見分けた――しいたげられ、踏みにじられた娘――けばけばしい安衣裳を恥じ入りながら、臨終の父に告別する番が来るのを、つつましげに待っている娘。限りない苦悶《くもん》が彼の顔に描き出された。
「ソーニャ! 娘! 許してくれ!」と彼は叫んで手をさし伸べようとしたが、ささえを失ってぐらっとしたかと思うと、うつぶせに長いすから床へどうと落ちた。人々はかけよって抱き起こし、もとの長いすに寝かしたが、その時、彼はもう息を引き取っていた。ソーニャは弱々しくあっと叫んで、いきなりそばへ走りより、父を抱きしめたと思うと、そのまま気が遠くなってしまった。彼は娘の腕の中で死んだのである。
「とうとう本望を達した!」カチェリーナは、夫の死骸《しがい》を見て、こう叫んだ。「さあ、これからいったい、どうしたらいいのだろう! どうしてこの人を葬ったものだろう? どうしてあれたちを、あの子たちを、どうして明日から養ったらいいんだろう?」
 ラスコーリニコフはカチェリーナのそばへ寄った。
「カチェリーナ・イヴァーノヴナ」と彼はいいだした。「つい先週、なくなられたご主人が、ぼくに自分の身の上話と、おうちの様子を、話して聞かせてくださいました……誓っていいますが、ご主人はあなたのことを、感激に近い尊敬の念をもって話しておられました。ご主人が、皆さんに献身的な愛情をささげ、ことに、あのお気の毒な病癖を持っていられたにもかかわらず、あなたを尊敬しかつ愛しておられることを伺ったその晩から、ぼくはご主人の親友になったのです……そこで、カチェリーナ・イヴァーノヴナ、失礼ですが、いまぼくに……友人の義務を尽くすことを許してくださいませんか。ここに……たしか二十ルーブリあるはずです――もしこれが何かのお役に立ちましたら……そしたら……ぼくは……いや、なに、いずれまた伺います……きっと伺います……ぼくさっそく明日にも伺うかもしれません……では、さようなら!」
 彼はすばやく部屋を出て、人ごみを押しわけながら、いそいで階段のほうへ行った。けれど群衆の中で、警察署長のニコジーム・フォミッチにぱったり出会った。彼はこの不慮《ふりょ》の災厄《さいやく》を聞くとすぐ、親しくその処置を講じようと思い立ったのである。署での一幕以来、ふたりはそれきり会わなかったが、ニコジーム・フォミッチは彼を見わけた。
「ああ、あなたですか?」と彼はラスコーリニコフに声をかけた。
「死にました」とラスコーリニコフは答えた。「医者も来、坊さんも来て、万事ちゃんと式《かた》どおりにいっています。どうか、あの不幸のどん底に落ちた婦人を、あまりわずらわさないでください。それでなくても肺病なんですから。もしできることなら、何か元気をつけてやってください……ね、あなたは親切なかたでしょう、ぼく知っています……」相手の目にひたと見入りながら、うす笑いをふくんで、彼はいい添えた。
「それにしても、きみはだいぶ血まみれのようですな」角灯の光で、ラスコーリニコフのチョッキになまなましい血痕《けっこん》をいくつか見つけて、署長は注意した。
「ええ、よごしました……ぼくは血だらけです!」何かしら一種特別な表情をして、ラスコーリニコフはこういった。それからにやっと笑い、一つうなずくと、階段をおりて行った。