京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP181-P192

 彼はからだじゅうおこりにでも襲われたような気持ちで、静かに階段をおりて行った。自分ではそれと意識しなかったけれど、張り切った力強い生命が波のように寄せて来て、その限りない偉大な新しい感覚が、彼の前進にみちあふれた。この感覚は、ひとたび死刑を宣告されたものが、急に思いもよらず特赦を受けたような感じに似ている、とでもいうことができよう。階段の中ほどで、家路に向かう僧が彼に追いついた。ラスコーリニコフは無言の会釈《えしゃく》をかわし、黙ってそれをやり過ごした。しかし最後の幾段かをおりようとした時、とつぜん後ろに忙しげな足音が聞こえた。だれか彼を追っかけて来たのである。それはポーレンカだった。彼女は後ろから走って来ながら、「ねえ、ちょっと! ねえ、ちょっと!」と彼を呼んでいた。
 彼はふり向いた。娘は最後の階段をかけおりると、彼より一つ上の段に立ち止まって、ぴったり彼に、顔を突き合わせた。ぼんやりした明かりが、裏庭からさし込んで来た。ラスコーリニコフは、やせてはいるか愛くるしい少女の顔をつくづくと見た。彼女は楽しげににこにこしながら、無邪気に彼を見まもっている。見たところ、彼女は自身でもすこぶる気に入っている伝言《ことづけ》を持って、かけつけたものらしい。
「ねえ、ちょっと、あなたの名まえなんていうの?……それからも――おうちはどこ?」と彼女はせきこんで、はあはあ息を切らしながらたずねた。 彼はその肩に両手を置いて、何かしら幸福な感じをいだきながら、じっと彼女を見た。この女の子を見ているのが、なんともいえず快い――どういうわけか、それは彼自身にもわからなかった。
「だれがきみをよこしたの?」
「ソーニャ姉さんにいいつかったの」少女はひとしお楽しげにほほえみながらそう答えた。
「ぼくもそう思ったよ――ソーニャ姉さんがよこしたんだろうと」
「母さんも行けっていったのよ。ソーニャ姉さんが行けっていったときに、母さんもそばへ来て、そういったのよ。『急いでかけ出しておいでよ、ポーレンカ!』って」
「きみ、ソーニャ姉さんが好き?」
「ええ、だれよりか一等すき!」なんだかこう特別力をこめて、ポーレンカはいった。と、その微笑が急にまじめくさってきた。
「ぼくも好きになってくれる?」
 返事のかわりに、彼は自分のほうへ近づいて来る少女の顔を見た。ふっくりしたくちびるが、彼を接吻《せっぷん》しようとして、無邪気に前へ突き出される。ふいに、マッチのような細い手が、固く固く彼の首に巻きつき、頭がその肩へ押しあてられた。こうして、少女はしだいに強く顔を彼のからだに押しつけながら、しくしく泣きだした。
「お父さんがかわいそうだわ!」しらばく[#「しらばく」はママ]たってから、彼女は泣きはらした顔を上げ、両手で涙をふきながらいいだした。「このごろ、こんな不仕合わせなことばかりつづくんですもの」彼女はことさら、しかつめらしい顔つきをして、だしぬけにこういいたした。それは子供が急に『おとな』のような口をきこうとするとき、一生けんめいに取りつくろう表情なのである。
「お父さんはきみをかわいがった?」
「お父さんはリードチカを一ばんかわいがってたわ」と彼女は大まじめに、にこりともしないで、もうすっかりおとな口調で言葉をつづけた。
「あの子は小さいから、かわいがってもらえたの。それに病身だったから。あの子にはいつでもおみやげを持って帰ってらしたわ。あたしたちはお父さんにご本を読むことを習ったの。あたしは文法と聖書のお講義」と彼女はすましていい添えた。「お母さんは、なんにもいわなかったけど、それを喜んでらしたのは、あたしたちもわかってたわ。そしてお父さんも知ってらしたわ。お母さんは、あたしにフランス語を教えてやるとおっしゃったのよ。あたしもう教育を受ける年ごろなんですもの」
「きみお祈りができる?」
「ええ、そりゃできるわ! もうせんからよ。あたしはもうおとなみたいに、口ん中でお祈りするのよ。だけどコーリャとリードチカは、お母さんといっしょに声を出して唱えるわ。はじめは『聖母マリヤ』を唱えて、それからもう一つのお祈りをするのよ。『主よ、姉ソーニャをゆるし祝福したまえ』っていうの。そのあとでまた『主よ、われらの第二の父をゆるし祝福したまえ』って。それはね、せんのお父さんがもう死んでしまって、今のは違うお父さんだからなの。あたしたち、せんのお父さんのことも、やはりお祈りしてよ」
「ポーレンカ、ぼくの名はロジオンていうんだよ。いつかぼくのこともお祈りしてちょうだい。『奴隷《しもべ》ロジオンをも』って――それっきりでいいから」
「あたしこれから一生、あなたのことをお祈りするわ」と彼女は熱心にいった。そして急に笑いだして飛びつくと、ふたたび彼をしっかと抱きしめた。
 ラスコーリニコフは彼女に自分の名と、住所をいって聞かせ、明日はかならず寄るからと約束した。彼女はすっかりうちょうてんになって帰って行った。彼が通りへ出たときは、もう十時をまわっていた。それから五分の後、彼は橋の上に立っていた。さきほど女が身を投げたちょうどその場所である。
『もうたくさんだ!』と、彼は勝ち誇ったようにきっぱりといった。
『蜃気楼《しんきろう》を吹っとばせ、すき好んで招いた恐怖も追っぱらえ、幻も消えてしまえ! 生命はあるんだ! いったい、おれはいま生きてないのか? おれの命は、あの老いぼればばあといっしょに死にはしなかったんだ! ばあさんには天国の冥福を祈っておいたら、それでたくさんだ。もうゆっくり休んでもいいときなんだ! 今は理性と光明の王国だ! そして……意思と力の……さあ、これから力くらべをしようじゃないか!』ある目に見えぬ力に向かって、いどみかけでもするように、彼は昂然《こうぜん》としてつけ加えた。『だっておれは、もう方尺の空間にでも生きる覚悟をしたんじゃないか!』
『……今おれはひどく衰弱しているようだが、しかし、……病気はすっかりなおってしまったらしい。さっきあの家を出るときに、なおるだろうと感じていたんだ。ときに、ここからポチンコフの家はほんのひと足だ。どうしたって、もうラズーミヒンのとこへ、行かなくちゃならん――よしんばひと足でなくっても。賭けはあいつに勝たしてやろう!………まあ、喜ばしといてやれ――なに、かまうものか……力だ、力がかんじんだ――力がなくては何も得られやしない。ところが、力を得るには力をもってしなくちゃならん。つまり、これをやつらは知らないんだ』彼は傲然《ごうぜん》と、たのむところありげにいいたした。そして、やっとのことで足を運びながら、橋を離れた。
 誇りと自信は一刻ましに彼の内部で成長して、次の瞬間には、まるで以前とちがった別の人間になってしまった。とはいえ、いったい何事が起こって、かくまで彼を一変させたのか? それは彼自身にもわからなかった。わらしべにでもすがろうとしていたような彼が、とつぜん『生きて行くことはできる、まだ生命はあるんだ。おれの命は老いぼればばあといっしょに死んだのじゃない』と感じたのである。もしかすると、彼はあまり結論を急ぎすぎたかもしれない。が、彼はそんなことを考えようともしなかった。
『しかし、奴隷《しもべ》ロジオンのことを祈ってくれと頼んだじゃないか』こういう考えがふと彼の頭にひらめいた。『いや、なに、これは……万一の場合のためだ!』と彼はつけたした。そしてすぐに自分ながら、自分の子供っぽいでたらめがおかしくなり、からからと笑いだした。彼はこの上なくいいきげんになっていた。
 彼はわけなくラズーミヒンをさがしあてた。ポチンコフの家では、もう新しい借間人を知っていて、庭番がすぐに道を教えてくれた。もう階段の中ほどから、いかにも大きな会合らしい騒ぎと、いきいきした話し声を、聞き分けることができた。階段へ向かったドアは、いっぱいにあけ放されていて、わめき声や争論が聞こえていた。ラズーミヒンの部屋はかなり大きいほうで、集まった人数は十五人ばかりだった。ラスコーリニコフは入口の控え室に立ち止まった。すぐそこの仕切り板のかげで、主婦の使っている女中がふたり、二つの大きなサモワールや、小皿や、酒びんや、主婦の台所から運んできたピローグとザクースカを盛った大皿のまわりで立ち働いていた。ラスコーリニコフはラズーミヒンを呼びにやった。ラズーミヒンは、うちょうてんになって飛んで来た。彼がいつになく酒を過ごしているのは、ひと目で見えすいていた。ラズーミヒンは、けっして酔うということはなかったのに、この時はどこやら違ったところが見えた。
「じつはね」とラスコーリニコフは急いでいった。「ぼくがやって来たのは、きみが賭《か》けに勝ったということと、じっさい、どんな人でも、自分がどうなるかわからないものだってこととを、ひと口きみにいいたかったからなんだよ。ぼくははいるわけにいかない。ひどく衰弱してね、今にもぶっ倒れそうなんだ。だから今日はこれで失敬する! あす、ぼくのほうへ来てくれないか……」
「じゃね、ぼくがきみを家まで送ろう! きみが自分でそんなに弱ってるというくらいだから……」
「だって客をどうするんだい? あの縮れ毛の男はだれだい、ほら、今こっちをのぞいて見た?」
「あれ? あんなやつ知るもんか! きっと伯父《おじ》の知人だろう! が、もしかすると勝手にやって来たのかもしれない……とにかく、あの連中には伯父をつけとくよ。伯父はじつにいい人間だぜ。きみにいま紹介できないのは残念だよ。あんな連中どうだってかまやしないんだ! みんな今ぼくなんかに用はないんだ。それに、ぼくはすこし風にあたらなくちゃならない。だから、きみ、ちょうどいいところへ来てくれたんだよ。もう二分もいようものなら、ぼくはやつらと、なぐり合いをはじめたかもしれないんだ、ほんとうだとも! なにしろ、あきれかえるようなでたらめを、しゃべりだすんだからな……きみ、人間てどこまででたらめがいえるものか、想像もつかないだろう! だが、どうして想像ができないんだ? われわれ自身だって、ずいぶんでたらめをいうじゃないか? まあ、勝手にやらしとくさ、そのかわり、あとでいわなくなるだろうからな。ちょっと待ってくれ。いまゾシーモフをつれて来るから」
 ゾシーモフは何かむさぼるような表情で、ラスコーリニコフに飛びかかった。彼の顔には一種とくべつな好奇の色がうかがわれた。やがてまもなくその顔は晴れやかになった。
「ぜひ寝なくちゃいけませんよ」彼は患者をできるだけていねいにみた後、きっぱりとこういった。「そして夜ねる前に、一つ飲むといいんだがなあ。飲みますか? もうさっきこしらえておきましたが……ちょっとした散薬を一服」
「二服でもけっこう」とラスコーリニコフは答えた。
 散薬はその場で服用された。
「そりゃ非常にいい、きみ自身が送って行こうというのは」とゾシーモフはラズーミヒンにいった。「明日はどうなるか別として、今日のところはなかなか悪くないですな。さっきと比べるといちじるしい変化です。人生は永久の研究だなあ……」
「ねえきみ、いま出しなにゾシーモフが、たいへんなことをぼくに耳うちしたんだぜ」ラズーミヒンは通りへ出ると、いきなりぶっつけにいった。「きみ、あいつらはばかだから、ぼくもきみに何もかもありのままに話してしまうがね。ゾシーモフはぼくにこんなことをいいつけたんだよ。みちみちきみとおしゃべりをして、きみにもしゃべるように仕向けてさ、それをあとですっかり聞かせてくれって。というのは、やつに一つの観念があるからなんだ……つまり、きみが……気ちがいか、あるいはそれに近いものだっていうのさ。まあ、きみ考えてもみたまえ! 第一に、きみはやつよか二倍も三倍も利口だし、第二に、きみが気ちがいでなければ、やつの頭に、そんなばかげた考えがあろうとあるまいと、きみにとってへ[#「へ」に傍点]でもないことだからなあ、第三に、あの一個の肉塊《にくかい》先生、専門は外科のくせに、いま精神病のほうへ夢中になってるもんだから、今日のきみとザミョートフとの会話が、根底からやつを動顚《どうてん》さしてしまったんだよ」
「ザミョートフがきみに何もかも話したのかい?」
「ああ、何もかも。そして、話してくれて。よかったよ。で、ぼくはいま底の底までわかったんだ。ザミョートフもわかったよ……で、まあ、一言にしていえばさ、ね、ロージャ……要するに……ぼく今ほんのぽっちり酔ってるがね……しかし、こんなことはなんでもないさ……要するにあの疑念は……わかるだろう? じっさい、あいつらの頭にこびりついてたんだ、わかるだろう? といって、やつらもだれひとりそれを口に出していうものはないんだ。あまりばかげきった考えだからね。ことにあのペンキ屋がつかまって以来、妄想《もうそう》がすべて一時に崩壊《ほうかい》して永久に消えてしまったんだからな。だが、なんだってやつらは、あんなばかなんだろう? ぼくはその時ザミョートフを少しぶんなぐってやったよ。しかし、これはこの場きりの話だからね、きみ、知ってるなんてことは、そぶりにも出さないでくれよ、いいかね。ぼくは気がついたんだが、やつは、神経質な人間なんだね。ルイザのところであったことなんだ――しかし、今日という今日こそすべてが明瞭《めいりょう》になった。一ばんいけないのは、あの副署員さ!やつ[#「員さ!やつ」はママ]は、きみがあのとき署で卒倒したのを、さっそく種にしやがったんだ。しかしあとでは、自分でも恥ずかしくなったんだがね。ぼくはちゃんと知ってるよ……」
 ラスコーリニコフはむさぼるように聞いていた。ラズーミヒンは酔ったまぎれに、ぺらぺらしゃべり立てた。
「あの時は息ぐるしくて、それにペンキのにおいがしたので卒倒したのさ」とラスコーリニコフはいった。
「まだ言いわけしてるよ! それに、ペンキばかりじゃないよ。炎症がまるひと月も徐々に進行していたんだ。げんに、ゾシーモフが証人だ! だが、今あの青二才がどんなにしょげてることか、きみ、想像もできないくらいだぜ! 『わたしはあの人の小指ほどの値うちもない』といってるよ。つまり、きみの小指のさ。しかしあの男だってどうかすると、善良な感情を持つこともあるよ。だが今日の『水晶宮《すいしょうきゅう》』であったことは、やつにとっていい教訓だった。あれは完成の極致だ! だって、きみは初めやつをびっくりさせて、ふるえあがらせたそうじゃないか! きみはまたやつに、あのいまわしい無意味な想像を、ほとんど完全に信じさせておいてさ、それからふいに――舌をぺろりと出して、『へん、どうだ、うまくいったか!』なんて、じつに完璧《かんぺき》というべきだ!やっ[#「きだ!やっ」はママ]こさんすっかりへこんじまって、面目だまをつぶしてしまってるよ! きみは名人だね、まったく! やつらはそんなふうにやっつけてやらなきゃいけないんだ! ぼくがその場にいなくって残念だったよ! やつは今もきみを待ちこがれていたっけ。ポルフィーリイ(予審判事)もきみと近づきになりたがっているよ……」
「ああ……あの男なんか……だが、なんだって人を気ちがい扱いにしたんだい?」
「といって、気ちがいじゃないのさ。いや、ぼくはどうやらしゃべりすぎたようだな……つまり、あの一つの点に、きみが興味をいだいてるってことが、さっきゾシーモフに異常な印象を与えたんだよ……だが今では、なぜ興味をいだくか明暸《めいりょう》になった。すべての状況を知ってみると……またあの時、あの事件が極端にきみをいらいらさして、病気とからみ合わさってしまったことを知ってみるとね……ところできみ、ぼくはいささか酔っ払ってる。しかし、なんだか知らないけれど、やつには何か考えがあるらしい……だから、ぼくそういうのさ――やつは精神病で夢中になっているんだよ。まあきみ、つばでもひっかけておくさ……」
 三十秒ばかりふたりは黙っていた。
「おい、ラズーミヒン」とラスコーリニコフは口を切った。「ぼく、きみに率直にいってしまいたい。ぼくはいま死人のそばにいたんだ。ある官吏が死んだんだ。……ぼくはそこでありったけの金をやってしまった……のみならず、そこであるひとりのものが、ぼくに接吻してくれた。それは、たといぼくがだれかを殺したとしても、やはり……ひと口にいえば、ぼくはそこでもうひとりの、別の、ある人間を見たんだ……燃えるような羽毛《はね》を帽子につけた……だが、ぼくはでたらめをしゃべりだした。ぼく非常に衰弱してるんだ。ぼくをささえてくれ……もうすぐ階段じゃないか……」
「君どうしたんだ……どうしたんだい?」とラズーミヒンは不安げにたずねた。
「少しめまいがするんだ。しかし、問題はそんなことじゃない。問題はただむやみに気が沈むことなんだ。むやみに気が沈むんだ! まるで女の腐ったみたいに……まったく! おや、あれはなんだ? 見ろ! 見ろ!」
「なんだ、いったい?」
「あれが見えないかい? ぼくの部屋にあかりがついてるじゃないか? すき間からさしてるだろう……」
 彼らはもう主婦の戸口と並んだ最後の階段の前に立っていた。はたして、ラスコーリニコフの小部屋にあかりのついているのが、下からも見えていた。
「変だな! ナスターシヤかもしれんぞ」とラズーミヒンはいった。
「いや、いま時分、あれがぼくの部屋へ来ることはないんだ。それに、あいつはもうとっくに寝てるよ。しかし……どうだっていいや! じゃ失敬!」
「何をいうんだ? ぼくはきみを送って来たんじゃないか、いっしょにはいろうよ!」
「いっしょにはいることは知っている。だが、ぼくは、ここできみの手を握って、ここできみと告別したいんだ。さあ、手を出したまえ、失敬!」
「きみ、どうしたんだい、ロージャ」
「なんでもないよ……じゃ行こう……きみは目撃者になるがいいさ……」
 ふたりは階段を上り始めた。ラズーミヒンの頭には、ひょっとしたらゾシーモフのいうことがほんとうかもしれない、という想念がひらめいた。「ちぇっ! おれはあまりしゃべりすぎて、先生の頭をめちゃめちゃにしてしまった!」と彼はひとりごちた。ふたりが戸口に近づいたとき、思いがけなく、部屋の中に人声が聞こえた。「いったい何事だ?」とラズーミヒンは叫んだ。ラスコーリニコフは一ばんにドアに手をかけて、さっといっぱいにあけ放した。あけたと思うと、いきなり、しきいの上で棒立ちになった。
 そこには母と妹が長いすに腰かけて、もう一時間半も彼を待っていたのである。なぜ彼は、ふたりをぜんぜん予期もしなければ、まるっきりふたりのことを考えもしなかったのだろう? しかも彼は今日も重ねて、ふたりがすでに向こうを出発して、まもなく到着という報に接していたのではないか。この一時間半のあいだ、ふたりは先を争って、ナスターシヤにいろいろ根ほり葉はりきいた。ナスターシヤは今もふたりの前に立ってい、もう何もかも明けすけに話してしまったのである。彼が病気のくせに『きょう家を飛び出して行った』と聞いたとき、ふたりは驚きのあまり茫然《ぼうぜん》自失した。話の模様でみると、必ず熱に浮かされているにきまっている。
『ああ、いったいどうしたことだろう!』ふたりは泣いた。ふたりはこの一時間半待っている間に、十字架の苦しみを忍んだのである。
 喜ばしげな感きわまった叫びが、ラスコーリニコフの出現を迎えた。ふたりは彼に飛びかかった。にもかかわらず、彼は死人のように突っ立っていた。ふいに襲った堪えがたい意識が、雷のように彼を撃った。それに、ふたりを抱擁《ほうよう》しようにも、彼の手は上がらなかった。上げられなかったのである。母と妹は彼をしっかと抱きしめて、接吻《せっぷん》したり、笑ったり、泣いたりした……彼はひと足ふみ出したと思うと、ぐらぐらっとなり、気を失ったまま床の上にどうと倒れた。
 混乱、恐怖の叫び、呻吟《しんぎん》……しきいの上に立っていたラズーミヒンは、部屋の中へ飛び込んで、その力強い手に病人をかきいだいた。そして病人はすぐさま長いすの上に寝かされた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ!」と彼は母と妹にいった。「ただ気絶しただけです、つまらんことです! つい今しがたも医者がもう非常によくなった、もうほとんど健康体だと、いったばかりです! 水を! ほら、もう正気に返りかけています、さあ、もう気がつきました!………」
 こういいながら、彼はドゥーネチカの手を、関節がはずれそうなほど引っつかんで『もう気がついた』のを見せるために、ぐっと下へかがめた。母も妹も、感動と感謝のこもった目で、ラズーミヒンを神のごとくに仰ぎ見た。ふたりはもうナスターシヤの口から、この『気さくな若い人』が自分たちのロージャにとって、この病中ずっといかなる役を勤めていてくれたか、ちゃんと聞いて知っていた。『気さくな若い人』とは、この晩、ドゥーニャと隔てのない話をした間に、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ・ラスコーリニコヴァが、自分でラズーミヒンにつけた名であった。

第 三 編

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 ラスコーリニコフは身を起こして、長いすにすわった。
 彼はラズーミヒンに手をひと振りして、母と妹にたいするとりとめのない熱心な慰めの言葉を中止させたのち、ふたりの手をとって、二分ばかり無言のまま、かわるがわるふたりの顔に見入った。母は彼のまなざしにぎょっとした。このまなざしには苦しいほど強烈な感情があったが、同時にまた何かしらこり固まったような、むしろもの狂おしくさえ感じられるような、あるものがすいて見えた。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはさめざめと泣きだした。
 アヴドーチヤ・ロマーノヴナは青ざめた顔をしていた。彼女の手は兄の手の中でわなわなとふるえた。
『もう帰ってください……この男といっしょに」と彼はラズーミヒンを指さしながら、きれぎれな声でいった。「あす何もかも……もうだいぶ前に着いたんですか?」
「夕方だったよ、ロージャ」とプリヘーリヤは答えた。「汽車がたいへん遅れてね。だけどロージャ、わたしは今どんなことがあっても、お前のそばを離れやしないよ! わたしはここに泊まります。お前のそばに……」
「ぼくを苦しめないでください!」と彼はうるさそうに片手を振り、いらだたしげにいった。
「ぼくがそばに残りますよ!」とラズーミヒンは叫んだ。「一刻も離れやしません。うちの客なんかどうとも勝手にしやがれだ! あっちのほうは伯父《おじ》が采配《さいはい》をふってくれるから」
「まあなんとお礼を申していいやら!」またラズーミヒンの手を握りながら、プリヘーリヤはいいかけたが、ラスコーリニコフがまたもやそれをさえぎった。
「たまらない、たまらない!」と彼はいらだたしげにくりかえした。「ぼくを苦しめないでください! もうたくさんです。帰ってください……たまらない……」
「行きましょうよ、お母さん、ちょっと部屋の外へだけでも」とドゥーニャはおびえたようにささやいた。「わたしたちは兄さんを苦しめてるのよ。それは様子でわかるわ」
「じゃ、しみじみ顔も見られないのかね、三年も別れていたのに!」とプリヘーリヤは泣きだした。
「待ってください!」と彼はまたふたりを呼びとめた。「みんなじゃまばかりするものだから、頭がごっちゃになってしまう……ルージンに会いましたか?」
「いいえ、ロージャ、まだよ。でも、あの人はわたしたちの着いたことを、もう知っているんだよ。聞けば、ロージャ、ピョートル・ペトローヴィチがご親切に、今日お前をたずねてくだすったそうだね」いくらかおずおずした調子で、プリヘーリヤはこういいたした。
「そう……ご親切に……ねえ、ドゥーニャ、ぼくはさっきルージンに、階段から突き落とすぞといってやったよ。そして、おととい来いと追い出しちゃった……」
「ロージャ、何をいうのお前は? きっと……お前その……いいたくないんだろう」と驚きのあまりプリヘーリヤはいいかけたが、ドゥーニャの顔を見ると口をつぐんだ。
 アヴドーチヤは兄の顔をじっと見入りながら、その先を待っていた。ふたりは早くもナスターシヤの口から、彼女の判断で伝えうるかぎり、この衝突のことを聞かされていたので、疑惑と期待の念にさんざん心を痛めたところであった。
「ドゥーニャ」とラスコーリニコフは苦しげに言葉をつづけた。「ぼくはこの結婚に不賛成だ。だから、お前もあす第一番にルージンを断わってしまえ、あいつのにおいも家の中にしないように」
「まあ、どうしよう!」とプリヘーリヤは叫んだ。
「兄さん、あなた何をいってらっしゃるか、まあ考えてごらんなさい……」とアヴドーチヤはかっとなっていいかけたが、すぐに自分をおさえた。「兄さんは今そんなこと考えられないんだわね。疲れてらっしゃるのよ」と彼女はつつましやかに結んだ。
「熱に浮かされてるって? ちがう……お前はぼくのために[#「ぼくのために」に傍点]ルージンと結婚しようとしてるんだ。だが、ぼくはそんな犠牲《ぎせい》を受け入れるわけにいかない。だから明日までに手紙を書け……拒絶の手紙を……そして朝ぼくに読ませてくれ、それでかたづくんだ!」
「そんなことできませんわ、わたし!」と妹はむっとしていった。「いったいどんな権利があって……」
「ドゥ-ネチカ、お前も気が短いね、およし、明日のことだよ……お前、いったいあれが見えないの!」と母はドゥーニャのほうへかけ寄りながら、びっくりしてこういった。「ああ、いっそ早く帰ろうよ!」
「うわ言をいってるんですよ!」と酔いのまわったラズーミヒンがどなった。「でなきゃ、どうしてあんなむちゃがいえるもんですか! 明日になりゃ、あんなばかげた気まぐれはふっ飛んじまいますよ……もっとも、今日あの人を追い出したのはほんとうなんです。それはそのとおりです。ところが、先方もおこりましたね……それから一場の演説をして、自分の知識を見せびらかしたが、けっきょく、しっぽを巻いて帰っちまいましたよ……」
「じゃ、あれはほんとうなんてすね?」とプリヘーリヤは叫んだ。
「では、兄さん、明日またね」とドゥーニャは同情をおもてにあらわしながらいった。「行きましょう、お母さん……さようなら、ロージャ!」
「いいかい、ドゥーニャ」と彼は最後の力をふるいながらくりかえした。「ぼくは熱にうかされてるんじゃないよ、この結婚は卑劣だ。たといぼくは卑劣漢にもせよ、お前はそうなっちゃいけない……ふたりのうちどちらかひとりだ……ぼくは卑劣漢だが、そんな妹は妹と思わないぞ。ぼくを取るか、ルージンを取るかだ! さあ、もう行くがいい……」
「いったいきさま、気でも狂ったのか、暴漢め!」とラズーミヒンはどなりつけた。
 けれど、ラスコーリニコフはもう返事しなかった。ことによったら、答える力がなかったのかもしれない。彼は長いすの上へ倒れると、ぐったり壁のほうへ向いてしまった。アヴドーチヤは好奇のまなざしでラズーミヒンを見つめた。彼女の黒いひとみは輝いた。ラズーミヒンはこのまなざしに射られて、思わず身ぶるいした。プリヘーリヤは雷に撃たれたように突っ立っている。
「わたしどうしても帰るわけにいきません!」と彼女はほとんど絶望の調子でラズーミヒンにささやいた。「わたしはここに残ります、どこかそこいらに……あなたドゥーニャだけ送ってくださいましな」
「それじゃ何もかもぶちこわしですよ!」とわれを忘れてラズーミヒンは同じくささやくようにいった。「せめて階段へでも出ましょう。ナスターシヤ、あかりを見せて! ぼくは誓っていいますが」もう階段の上へ出てから、彼はなかばささやくような声でつづけた。「じつは先生さっきもわたしたちを、ぼくとドクトルとを、なぐりつけないばかりだったんですよ! え、おわかりですか! 医者でさえそうなんですよ! で、医者は興奮させちゃいけないといって、帰ってしまいました。ぼくは下で番していたところ、先生その間に着がえをして、すべりぬけてしまったんです。だから今でも、あまりいらいらおさせになると、またすべりぬけて行って、よる夜なか何をしでかすかしれませんよ……」
「まあ、何をおっしゃるんですの!」
「それに、アヴドーチヤ・ロマーノヴナにしても、あなたがいらっしゃらないと、ひとりで下宿にはいられませんよ! が、考えてもごらんなさい、あなたがたは、なんてところに泊まっていらっしゃるんでしょう! あの恥しらずのルージンて男も、あなたがたのために、もう少しどうかした宿がさがせなかったものかなあ……いや、もっともごらんのとおり、ぼくすこし酔ってますから……つい悪口をつきましたが、どうかお気になさらないで……」
「でも、わたしはここのお主婦《かみ》さんのところへ行って来ます」とプリヘーリヤはいいはった。「わたしとドゥーニャを今晩だけ、どんなすみっこへでも泊めてくれるように、一生けんめいたのんでみます。わたしは、あれをこのままおいて行かれません。どうあっても!」
 こんな話をしながら、彼らは階段の上の踊り場に立っていた。それは主婦の住まいの入口のすぐ前だった。ナスターシヤは一段下から彼らにあかりを見せていた。ラズーミヒンはひとかたならず興奮していた。
 半時間まえ、ラスコーリニコフを送って来たときは、自分でも白状したとおり、よけいなことにおしゃべりだったが、この晩飲んだ酒がおびただしい量であったにもかかわらず、恐ろしく元気で、ほとんどしらふ同然だった。しかるに今の彼の心理状態は、何かまるで歓喜とでもいうべきものに似通っていた。と同時に、これまで飲んだ酒がすっかり、あらたに倍加された力をもって、一時に頭へ上ったようなぐあいだった。彼はふたりの婦人と並んで立ちながら、ふたりの手をつかまえて、どうかして説き伏せようと、驚くばかりうち明けた調子で、いろいろ理由を並べて見せた。しかも、いっそうそれを確かめるためだろう、ほとんど一語ごとに、ふたりの手をぐいぐいと締め木にでもかけるように、痛いほど握りしめた。そして、いっこう遠慮するふうもなく、アヴドーチヤ・ロマーノヴナをむさぼるように見つめるのであった。ふたりは痛さのあまり、ときおり彼の大きな骨ばったてのひらの中から、その手を振りほどこうとしたが、彼はなんのことか気がつかなかったのみならず、かえっていっそう強く引き寄せるのであった。もし今ふたりが彼に向かって、自分たちのために階段からまっさかさまに飛べといったら、彼はいささかも疑おうとせず、文句なしにさっそくそれを実行したに相違ない。ロージャのことが心配で気が気でないプリヘーリヤは、ひどく常軌を逸したこの青年が、むやみにぎゅうぎゅう手をしめつけるのに気づいてはいたが、彼女にはこの男が神さまのように感じられたので、そうしたとっぴな動作を気に止めたくなかった。けれど、同じ不安に苦しめられていながら、アヴドーチヤのほうは、さして気の小さいほうでもなかったけれど、この荒々しい火に燃える兄の友のまなざしを、驚きといおうより、むしろ恐怖の感じをもって迎えた。ナスターシヤの話で吹き込まれた、このふしぎな男にたいする無限の信頼がなかったら、母の手を引っぱってそばを逃げ出したに相違ない。今となっては自分たちがこの男から逃げ出すわけにいかないらしいということも、彼女はやはり悟っていた。とはいえ十分ほどもたつと、彼女は目に見えて落ちついてきた。ラズーミヒンは、どんな気分でいるときでも、自身のすべてを一瞬の間に表明する特性を持っていて、それでだれもがすぐ、自分の相手の人となりを見ぬいてしまうからであった。
「お主婦《かみ》さんのところなんかだめですよ、それこそ愚のこっちょうです!」プリヘーリヤを説き伏せようとして、彼は叫ぶのであった。「よしあなたがお母さんであるにもせよ、ここに残っていらっしゃると、ロージャを気ちがい同様にしてしまいますよ。そうなったら、どんなことになるか知れたもんじゃない! どうです、ぼくこうしましょう。今さしずめ、あすこにナスターシヤをつけといて、ぼくがあなたがたをお送りしましょう。ふたりきりで町をお歩きになるわけにゃいきません。このペテルブルグってところは、そういう点では……いや、そんなことはどうでもいい! それから、あなたがたのところから、すぐここへ引っ返して、十五分もたったら、誓ってまたあなたがたのところへ報告を持って行きます。ロージャがどんなふうか? 眠っているかどうか? そういったようなことをね。それから、いいですか、それからひとっ走りぼくの家へ行って――なにしろ家には客がいて、みな酔っぱらってるんですから――そして、ゾシーモフを引っぱって行きます。これはロージャをみている医者ですよ。今ぼくんとこにいるんですが、酔っちゃいませんから。この男は酔いません。この男はけっして酔いませんよ! で、この男をロージャのところへ引っぱって行って、それからすぐもう一度あなたがたのところへ飛んで来ます。つまり、あなたがたは一時間のうちに、ロージャについて二つの報告を受け取られるわけです――医者の報告もね。いいですか、主治医の報告ですよ。これはもうぼくなんかの報告とはわけがちがいますからな! もし病人が悪ければ、ぼく誓ってあなたがたをここへご案内します。が、いいようだったら、そのままゆっくりおやすみなさい、ぼくはひと晩ここに、入口の間に泊まりますよ。ロージャは気がつきゃしません。そして、ゾシーモフは、お主婦さんのところへ泊まらせます。手近にいてもらうためにね。さあ、どうです、このさい、あなたがたと医者と、どちらがいいでしょう? ね、医者のほうが役に立つでしょう、役に立つでしょう。だから、これでお帰んなさい! お主婦さんのとこへはだめです。ぼくはいいけれど、あなたがたはだめです。入れてくれやしません。というのは……というのは、あの女がばかだからです……あの女はアヴドーチヤ・ロマーノヴナのことで、ぼくをやくにきまってます。それから、あなたにたいしてもそうですが……アヴドーチヤ・ロマーノヴナにたいしては、まちがいなしです。あれはまったく、まったく意想外な性格の女ですよ! もっともぼくだってやはりばかだなあ……なに、どうだっていいや! さあ、行きましょう! あなたがたはぼくを信じてくださいますか? え、ぼくを信じてくださいますか、くださいませんか?」
「帰りましょうよ、お母さん」とアヴドーチヤはいった。「このかたはきっと約束どおりにしてくださるわ。だって、げんに兄さんを生きかえらせてくだすったんですもの。それに、もしお医者さまがほんとうに泊まるのを承知してくださるなら、それに越したことはないじゃありませんか?」
「そうだ、あなたは……あなたは……ぼくを理解してくださる。あなたは――天使だから!」とラズーミヒンはうちょうてんになって叫んだ。「行きましょう! ナスターシヤ! 大急ぎで上がって行って、病人のそばについててくれ、あかりを持ってだよ。ぼくは十五分たったら帰って来る……」
 プリヘーリヤはまだ十分なっとくはしなかったが、それ以上、反対もしなかった。ラズーミヒンはふたりに腕をかして、階段をつれておりだ。とはいえ、彼は母親に不安を感じさせた。『そりゃ気さくな、いい人だけれど、約束したことがみんな実行できるかしら? だって、こんなに酔っぱらっているんだもの……』
「ああ、わかった、あなたはぼくがこんなていたらくなのを、気にしていらっしゃるんですね!」ラズーミヒンはそれと察して、彼女の懸念をさえぎった。彼はもちまえの並みはずれた大またで、歩道を𤄃歩《かっぽ》して行ったので、ふたりの女はやっとのことで彼のあとについて行ったが、彼はそれに気もつかなかった。「ばかばかしい! というのは……ぼくがまのぬけた酔っぱらいづらをしてることです。しかし、問題はそんなことじゃありません。ぼくはなるほど酔っていますが、そ