京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP145-P168

識をひけらかしたかったんでしょう。それは大いに酌量《しゃくりょう》すべきことで、ぼくもべつにとがめ立てしません。ただぼくは今あなたがどんな人か、ちょっと知りたかっただけなんですよ。なぜといってね、おわかりでしょう。近ごろでは一般の福祉なるものに、いろいろさまざまな事業家がからみついて、手を触れるものをなんでもかでも、利得のためにゆがめ傷つけたので、まるで何もかもぶちこわしになってしまったから。だが、もうたくさんだ!」
「あなた!」なみなみならぬ威厳を見せて、ぐっと反り返りながら、ルージンはいいかけた。「あなたがそう無遠慮な口のききかたをされるとすれば、わたしも……」
「いや、とんでもない、とんでもない……ぼくにそんな失礼なことができますか!………が、とにかくもうたくさんです!」とラズーミヒンは断ち切るようにいって、さっきの話をつづけるために、くるりとゾシーモフのほうへ向いてしまった。
 ルージンは、この釈明を信じるだけの聡明《そうめい》さを持っていた。もっとも、彼はもう二分もたったら、帰ろうと決心したので。
「さて、今日の初対面のお近づきが」と彼はラスコーリニコフに話しかけた。「ご全快の後は、ごぞんじのとおりの関係ですから、ますます深くなるように期待しております……とくにご自愛を祈ります……」
 ラスコーリニコフは頭もふり向けなかった。ルージンはいすから腰を持ちあげにかかった。
「確かに質を置きに行ったやつが殺したんだよ!」と断定的な調子でゾシーモフがいった。
「確かに質を置きに行ったやつだ!」ラズーミヒンも相づちを打った。「ポルフィーリイは自分の考えをもらさないが、それでも入質人を尋問してるよ」
「入質人を尋問してる?」とラスコーリニコフは大きな声でたずねた。
「ああ、それがどうしたんだい?」
「いやなんでもない」
「先生どこからそんな者を見つけ出すんだろう?」ゾシーモフはきいた。
「コッホが教えたのもあれば、質物の上包みに名を書いてあったのもあるし、話を聞きつけて自分からやって来たものも ある……」
「いや、どうも巧妙な、なれきった悪党にちがいないね!なんて大胆な! なんて思いきったやり口だ!」
「ところがどっこい、そうでないんだ!」とラズーミヒンはさえぎった。「つまり、そこがみんなをまごつかすんだよ。ぼくにいわせると――巧妙でもない、なれてもいない。あれは確かに初めての仕事だ! 考えぬいた予定の行動、巧妙な悪党という想像をすると、つじつまが合わない。ところが、不なれなやつとして見れば、単なる偶然がやつを災厄から救い出した、とこうつじつまが合ってくる。偶然てやつは何をしでかすかわかりゃしないよ! 考えてもみたまえ、やつはじゃまがはいるなんてことは、てんで予想もしていなかったらしいじゃないか! しかも、そのやり口はどうだ? わずか十ルーブリか二十ルーブリくらいの品を取り出して、それをポケットヘねじ込んでさ、女物のはいった長持の中でぼろっ切れを引っかきまわしただけなんだ。ところがたんすの上の引出しには、手箱の中にしまった金が、証券類をのけて現金ばかりでも、千五百ルーブリから出て来たんだからね! だから、盗むすべも知らないで、ただ殺すことだけはうまくしおおせたのさ! 初めての仕事だよ、きみ、初めての、まるで動顛しちゃったんだもの! 予定の行動じゃなくて、偶然のおかげでうまく逃げたんだよ!」
「それは、どうやら、このごろやかましい、官吏未亡人の老婆殺しの話らしいですな」とルージンは、ゾシーモフのほうへ向きながら口をはさんだ。もう帽子と手ぶくろを手にして立っていたが、帰る前に、少しばかり気のきいたことをいいたかったのである。
 見かけたところ、彼は有利な印象を与えようと腐心して、みえ坊の本性が分別を圧倒したらしい。
「そう、お聞きになりましたか?」
「そりゃもう、ほとんど隣のことですから……」
「くわしいことをご承知ですか?」
「そうまでは申しかねますが、しかしこの事件については別な事情が、つまり一つの大きな問題が、わたしの興味をそそるんですよ。最近五年間に、下層社会に犯罪が増加したことや、また到るところにひんぴんとして起こる強盗や放火については、今さらいうまでもないとして、なにより奇怪千万なのは、上流社会でも同様に、いわば平行的に、犯罪が増加していくことです。どこそこでは大学生あがりが大道で郵便物を略奪したといううわさがあるかと思えば、またどこそこでは、社会的地位からいっても第一線に立っている人々が、贋造紙幣《がんぞうしへい》をつくっている。かと思えばモスクワでは、最近発行の割増つき債券を贋造する連中の一団が検挙されたが――その主謀者の中には、世界史の講師がひとりいたとか。それからまた海外駐在の書記官が、何か金のことらしいけれど、なぞのような原因のために暗殺されています……で、もし今この金貸しの老婆殺しの犯人が、より高級な社会から出ているとしたら(なぜなら、百姓は金属品など質に入れませんからね)、社会の文化的階級のかかる腐敗|堕落《だらく》をなんと説明したらいいでしょう?」
「経済上の変化が激烈ですからね……」とゾシーモフは応じた。
「どう説明したらですって?」とラズーミヒンがからみついてきた。「つまり、病い膏肓《こうこう》にはいった非実際性のため、といえば説明がつくでしょうね」
「というと、つまり?」
「ほかでもない、モスクワで世界史の講師がいったことですよ。なぜ債券を贋造したかという尋問にたいして、『みんないろいろの方法で金持になっているから、わたしも手っとり早く金持になりたかったのです』と答えた。正確な言葉は覚えていないが、要はたしか、骨を折らないで手っとり早く、ぬれ手であわのもうけがしたい、というんです! みんなすえ膳目《ぜんめ》あての生活をしたり、人のふんどしで相撲《すもう》を取ったり、かんでもらったものを食うといったようなことに、なれっこになってしまったんですね。ところで、いま偉大なる時が訪れたので、ひとりひとりがその正体を暴露してしまった……」
「しかし、なんといっても、道徳というものがあるでしょう? その、なんというか、戒律が……」
「いったいあなたは何を気をもんでるんです?」と思いがけなくラスコーリニコフが割ってはいった、「あなたの理論どおりになってるじゃありませんか!」
「どうしてわたしの理論どおりに?」
「あなたがさっき主張したことを、極端まで押しつめると、人を切り殺してもいい、ということになりますよ……」
「とんでもない!」とルージンは叫んだ。
「いや、それはそうじゃない!」ゾシーモフが応じた。
 ラスコーリニコフは上くちびるをぴくぴくふるわせながら、真青な顔をして横になったまま、苦しそうに息をついていた。
「ものにはすべて程度というものがあります」とルージンは尊大な調子で言葉をつづけた。「経済上の思想は、まだ殺人の勧誘にはなりませんよ。だから、もしかりに……」
「それから、あれはほんとうですか、きみが」ふいにまたラスコーリニコフは、憤怒《ふんぬ》にふるえる声でさえぎった。その声には一種侮辱の喜びとでもいうものがひびいていた。「きみが婚約《こんやく》の花嫁に向かって……しかも彼女がきみに承諾の返事をした時に……あれが貧乏人なのが……何よりもうれしいといったのは、ほんとうですか……貧乏人の娘を細君にもらうのはとくだ、結婚後、細君に権威をふるうのに好都合だから……自分の恩を鼻にかけて、じりじり締めつけるのに都合がいいからって、そうですか?………」
「もし!」ルージンはかっとなって、少なからずまごつき気味ながら、毒のあるいらいらした声で叫んだ。「あなたが……そうまで意味を曲解するなんて! 失礼ながら、こちらもいわせてもらいましょう。あなたのお耳へはいった――いや、あるいは吹き込まれたといったほうがいいかもしれない――そのうわさは、まるっきり確実な根拠を持っちゃおりません……で、わたしは……だれの仕業《しわざ》か……一口にいえば――この毒矢は一口にいえば、ご母堂が……それでなくてもあのかたは……もっとも、じつにりっぱなご気質を備えてはいらっしゃるが、考えかたに多少うわついた、ロマンチックな陰影を持っていられる……ような気がしておったのです……しかし、それにしてもあのかたが、そんな空想で歪曲された形でもって、このことを解釈したり、考えたりしておられようとは、重々意外千万でしたよ……しかも……そのうえ……そのうえ……」
「よく聞きたまえ!」まくらの上に身を持ちあげ、刺すようにぎらぎら光る目でじっと相手をにらみつけながら、ラスコーリニコフはこう叫んだ。「よく聞きたまえ!」
「なんです?」
 ルージンは言葉を止めて、腹立たしい、いどむような顔つきで、じっと待っていた。幾秒かの間、沈黙がつづいた。
「ほかでもない、もしきみがもう一度……たった一口でも……母を悪しざまにいったら……ぼくは、きみを階段から突き落とすぞ!」
「きみ、どうしたんだ!」とラズーミヒンは叫んだ。
「ははあ、そうなのか!」とルージンは青くなってくちびるをかんだ。「じつはね、きみ」と彼は、一生けんめいに腹の虫をおさえながら、ゆっくり間をおいていいだしたが、それでも息ははずませていた。「わたしはもうさっきから、一歩ふみ込んだ瞬間から、きみがわたしに敵意を持っておられることは察していました。しかし、もっとよく知っておきたいと思って、わざとここに残っておったのです。病人ではあり、親戚《しんせき》でもあるし、たいていのことはがまんする気だったが、もう今は……断じて……」
「ぼくは病気じゃない!」とラスコーリニコフは叫んだ。
「ではなおさら……」
「とっとと出て行け!」
 けれどルージンはいうべきこともいい終わらないで、またテーブルといすの狭い間をすり抜けながら、もう自分のほうから出かけていた。ラズーミヒンも、こんどは彼を通してやるために席を立った。ルージンはだれにも目をくれず、もうだいぶ前から、病人にかまわないでくれと、かぶりを振って合図をしているゾシーモフにも、会釈《えしゃく》のしるしにうなずこうともしないで、用心ぶかく肩の辺まで帽子を持ち上げながら出て行った。戸口を出る時には、ちょっと背をかがめさえした。その背のかがめぐあいにまで、恐ろしい侮辱を背負っている、とでもいうような感じが現われていた。
「あんな法ってあるかい、あんな法って?」ラズーミヒンは頭を振りながら、度肝《どぎも》を抜かれたようにいった。
「うっちゃっといてくれ、みんなぼくをかまわないでくれ!」とラスコーリニコフは、前後を忘れたようにどなった。
「まったく、いつになったら、うっちゃってくれるんだい?まる[#「だい?まる」はママ]で拷問役人《ごうもんやくにん》だ! ぼくはきみらなんか恐れやしない!もう今はだれひとり、だれひとりこわくない! ぼくのそばを離れてくれ! ぼくはひとりでいたいんだ。ひとりで、ひとりで!」
「行こうじゃないか!」ラズーミヒンにあごをしゃくって見せながら、ゾシーモフはいった。
「とんでもない、これをひとり、うっちゃっといていいものかね」
「行こうってば!」ゾシーモフはがんこにくりかえして、さっさと出てしまった。
 ラズーミヒンはちょっと考えたが、すぐあとを追ってかけ出した。
「病人のいうことを聞かなかったら、どんなことになったかしれやしない」もう階段まで出てから、ゾシーモフはこういった。「いらいらさしちゃいけないんだ……」
「あの男いったいどうしたんだろう?」
「何かちょっとした、いいぐあいの衝動がありさえすればいいんだがなあ! さっきなんか、あんなに元気だったんだもの……ねえ、きみ、あの男、なんだか心に屈託《くったく》があるんだよ! 何かしら、じっとこって[#「じっとこって」はママ]動かない重苦しいようなものが……ぼくはこいつを非常に恐れてるんだ! きっとそうにちがいない!」
「ねえ、ひょっとしたらあの紳士、ほら、ルージン氏のためじゃなかろうか! 話の模様で見ると、先生あの男の妹と結婚するんだよ。そのことについて、ロージャは病気の直前に手紙を受け取っているらしい……」
「そう、おりの悪い時に来やがったもんだよ。まったく、あのやっこさんが何もかもぶちこわしてしまったのかもしれないな。ところで、きみは気がついたかい――ラスコーリニコフはほかのことには、いっさいむとんじゃくで、何をいっても黙っているが、ただ一つ興奮して夢中になることがある。それは例の殺人事件だ……」
「そうだ、そうだ!」とラズーミヒンは相づちを打った。「気がついたとも! ばかに興味を持って、びくびくしているんだ。あれは病気のおこった当日、警察署長のところで初めて聞いてびっくりしたからさ。卒倒までしたんだからね」
「きみ、その話は晩にもっとくわしく聞かしてくれないか。そのうえで、ぼくも話すことがあるから。この病人はじつに興味があるよ! 三十分もしたらまた寄ってみる……ただし、炎症などはおこるまいがね」
「ありがとう! じゃ、ぼくはその間パーシェンカのとこで待っていながら、ときどきナスターシヤにのぞかせて、観察するとしよう……」
 ラスコーリニコフはひとりきりになると、じれったそうな悩ましげな目つきでナスターシヤを見やった。こちらはまだ出て行くのをためらっていた。
「もうお茶ほしくない?」と彼女はたずねた。
「あとで! おれは眠いんだ! うっちゃっといてくれ……」
 彼は痙攣《けいれん》的な身ぶりで壁のほうへくるりと向いてしまった。ナスターシヤは出て行った。

      6

 けれど、彼女が出て行くが早いか、彼は起きあがってドアにかぎをかけた。そして、さきほどラズーミヒンが持って来て、さらに包み直した服の包みを解いて、着がえを始めた。ふしぎなことに、彼はすっかり平静になったような気がした。さっきの気ちがいじみたうわ言もなければ、このごろじゅうのように、居ても立ってもいられぬほどの恐怖もなかった。それは一種|不可思議《ふかしぎ》な、思いがけない平静の、最初の瞬間だった。彼の動作は正確|明晰《めいせき》で、その中には固い意図がのぞいていた。『今日だ、いよいよ今日だ!………』と彼はつぶやいた。もっとも、まだ衰弱していることは、自分でも知っていた。しかし平静の域にまで、固定観念の域にまで達した強い心の緊張が、彼に力と自信を与えた。まさか往来で倒れるようなことはあるまいと、それを彼は心だのみにしていた。すっかり新しいものに着かえてから、テーブルの上にのっている金を見て、ちょっと考えたのち、それをポケットヘ入れた。金は二十五ルーブリあった。それから、ラズーミヒンが衣類代に払ってきた十ルーブリのつり銭、いくつかの五ペイカ玉もつかんだ。やがて、やっとかぎをはずして部屋を出ると階段をおり、あけ放してある台所をのぞいて見た――ナスターシヤは彼のほうへしりを向けて、かがみ込みながら、主婦のサモワールをふうふう吹いている。彼女は、なんにも聞きつけなかった。それにだれにもせよ、彼が出て行こうなどと、どうして想像ができよう? 一分の後には、彼はすでに往来へ出ていた。
 それは八時ごろで、日は沈みかかっていた。依然たるむし暑さだったが、彼はこの悪臭のたちこめ、ほこりだらけな、都会に毒された空気をむさぼるように吸い込んだ。彼はかすかにめまいを覚えた。ふいに何かしら野性的なエネルギーが、その燃えるような両眼とやせ衰えた青黄色い顔に輝きだした。彼はどこへ行くのか、それさえ知らなかった。また考えようともしなかった。彼の頭にはたった一つのことしかなかった。ほかでもない、『こんなこと[#「こんなこと」に傍点]は今日すっかり一ペんに、これからすぐかたづけてしまわなければならぬ。さもなくば家へは帰るまい。こんなふうで生きて行くのはいやだ[#「こんなふうで生きて行くのはいやだ」に傍点]』だが、どんなふうにかたづけるのだ? 何をしてかたづけるのだ? 彼はそれについてなんの考えも持っていず、また考えようともしなかった。彼は一つの想念を追いのけようとしていた。その想念が彼を責めさいなむからであった。彼はただいっさいのことが、どんなふうにもあれとにかく転換してしまわねばならぬということだけを、感じもし悟ってもいた。『たといどんな変わりようだってかまうもんか』と彼は自暴自棄《じぼうじき》的な、こり固まった自信と決心をもって、そうくりかえした。
 古くからの習慣でいつもの散歩の道筋をたどり、彼はまっすぐにセンナヤ広場へ方向をとった。広場の少してまえにある一軒の小店の前の車道で、髪の黒い若い手まわしオルガン弾きが立って、何やらひどく感傷的な小うたを鳴らしていた。それは、前の歩道に立っている十五ばかりの少女の歌につける伴奏であった。少女はお嬢さま然《ぜん》と大きく張ったスカートをはき、ケープを羽織って、手には手ぶくろをはめ、火のような色をした羽飾りつきの麦わら帽子をかぶっていたが、それらはみな古ぼけて、くたびれきっていた。彼女は大道芸人特有の甲高《かんだか》い、とはいえ、かなり感じのいい、力のある声で、小店の中から二コペイカ投げてくれるのを待ちながら、ロマンスをうたっていた。ラスコーリニコフは、二、三人の聞き手とならんで立ち止まり、しばらく耳を傾けたのち、五コペイカ玉を取り出して少女の手に握らせた。少女は、一ばん調子の高いかんじんなところで、急に断ち切るように歌を止めて、手まわしオルガン弾きに大きな声でつっけんどんに「もうたくさん」とどなった。そして、ふたりはのろのろと次の店へ移って行った。
「きみは大道芸人の歌が好きですか?」と、ラスコーリニコフは、いっしょにならんで手まわしオルガンのそばに立っていた浮浪人ふうの、あまり若くもない男をつかまえて、だしぬけに話しかけた。こちらはきょとんとした目つきで彼を見つめながら、びっくりしたような顔をした。「ぼくは好きですよ」とラスコーリニコフはつづけたが、それはまるで大道芸人のことを話してるのではないような調子だった。「ぼくはね、寒くて暗いしめっぽい秋の晩――それはどうしてもしめっぽい晩でなくちゃいけない――通行人の顔がみんな青白く病的に見えるようなとき、手まわしオルガンに合わして歌っているのが大好きですよ。でなければ、いっそ、ぼた雪が風もなくまっすぐに降っているときなら、もっといい、わかるでしょう? 雪を通してガス燈が光ってる……」
「わかりませんな……ごめん……」質問も質問だが、ラスコーリニコフの奇妙な様子にぎょっとした男は、口の中でもぐもぐいうと、往来の向こう側へ行ってしまった。
 ラスコーリニコフはまっすぐに歩いて行って、あの時リザヴェーダと話していた町人夫婦がいつも屋台店を出している、センナヤの例の一隅《いちぐう》へ出た。が、こんどは夫婦ものはいなかった。その場所を見分けると、彼は立ち止まりあたりを見まわした。そして、粉倉の入口でぽかんとしている赤シャツの若者に声をかけた。
「ここのすみで、町人ふうの夫婦づれが商売しているだろう、え?」
「いろんなのが商売してまさあ」若者は高慢ちきな様子でラスコーリニコフをじろじろ見まわしながら、こう答えた。
「その男の名はなんというのだろう?」
「洗礼を受けたとおりの名さ」
「きみはザライスクの人間じゃないかね? どこの県から来たのかい?」
 若者はもう一度ラスコーリニコフを見つめた。
「わっしらのほうは、旦那、県じゃなくって郡でさ。兄貴はほうぼう旅をしましたがね、わっしは家にばかりいたもんで、なんにもぞんじませんよ……まあ、旦那、もうこれくらいでかんべんしていただきたいもんで」
「あれはめし屋かね、二階のほうのは?」
「ありゃ飲み屋ですよ。玉突きもあります。それにお姫さまたちもいますぜ……にぎやかなもんで!」
 ラスコーリニコフは広場を横切って行った。向こうのとある片すみに、黒山のような人だかりがしている。百姓ばかりである。彼は人々の顔をのぞき込みながら、一ばんこみ合っているまん中へ割り込んだ。彼はなぜかしら、だれとでも話がしたくてたまらなかった。が、百姓たちは彼などには目もくれず、いくつかの小さいかたまりにわかれながら、てんでに何かしらがやがやいっていた。彼はしばらく立っていたが、ちょっと考えてから、右へ方角をとり、歩道づたいにV通りへ足を向けた。広場を通りぬけると、ある横町へはいり込んだ。
 彼は前にも、広場からサドーヴァヤ通りへ通ずる、かぎの手になったこの短い横町をよく通ったものである。ことに最近は、いやでたまらなくなったときなど、『もっといやな気持ちになりやがれ』といったような反抗心から、わざわざこの付近をぶらついたくらいである。しかし今はなんにも考えないではいって行った。そこには、建物ぜんたいが酒場その他の飲食店でふさがっている、一軒の大きな家があった。それらの店からは、帽子もかぶらず着物を一枚ひっかけたきりで、『ちょっと近所を』往来するような身なりをした女どもが、ひっきりなしにかけ出していた。女たちは歩道の上に二、三か所、ことに地下室へおりる口のところに、群れをなして集まっていた。そこから二段ばかりおりると、いろいろおもしろいところへ行かれるのだった。そういった場所の一つから、この時、がたがたいう音と、騒々しい人声が往来いっぱいに流れ出して、ギターが響き、歌が聞こえて、恐ろしくにぎやかだった。入口には女が黒山のようにたかっている。あるものは階段に腰をかけ、あるものは歩道にすわり、またあるものは立ったまましゃべっている。そのそばの車道では、酔っぱらったひとりの兵隊が、何やら大声にののしりながら、巻きたばこをくわえてふらふらしていた。見たところ、どこかへはいろうと思いながら、それがどこだったか忘れたようなふうである。ひとりのぼろ男が、もうひとりのぼろ男と何やらののしり合っていると、そのそばでは死人のように酔いつぶれた男が、往来のまん中にごろごろしている。ラスコーリニコフは、女たちの大ぜい集まっているそばに立ち止まった。みんなしゃがれ声でしゃべっていた。だれもかれも、さらさ[#「さらさ」に傍点]の服に、やぎ皮のくつをはき、頭にはなにもかぶっていなかった。中には四十を越したのもいたが、また十七くらいのもいて、みんなほとんど目の縁にぶたれたあざをこさえていた。
 彼はなぜか下のほうの歌声や、がたがたいう物音や、騒々しい人声に心をひかれた……そこからは、くずれるような笑い声と叫びの合い間に、細い裏声の恐ろしくいなせな歌と、ギターに合わせてだれやらかかとで拍子をとりながら、やけに踊っているのが聞こえた。彼は入口にかがんで、もの珍しげに歩道から玄関をのぞき込みながら、陰鬱《いんうつ》なもの思わしげな表情で、じっとそれに聞き入った。

  『そさまはわたしの大事な殿ご
  『あだにわたしを打たんすな!――

 こういう歌い手の細い声が流れてきた。ラスコーリニコフは、まるでいっさいがそれにかかっているかのように、なにをいま歌っているか聞きたくなった。
『はいってみようかな?』と彼は考えた。『笑ってやがる!酔っ[#「がる!酔っ」はママ]てるんだ。ええっ、ひとつへべれけになるまで飲んでやろうか?』
「ちょいと寄ってらっしゃらなくって、かわいいだんな?」と女のひとりがかなり響きのいい、まだそんなにしゃがれていない声でいった。
 それはまだ若くて、いやらしくない女だった――群れの中のひとりである。
 「よう、べっぴんだね!」彼はわずかに身を起こして、女を見ながらそういった。
 女はにっこりした。彼のおせじがひどく気に入ったので。[#「入ったので。」はママ]
「ご自分だってずいぶんいい男だわ」と女はいった。
「まあ、やせてらっしゃること!」もうひとりが、バスでいった[#「バスでいった」はママ]。「病院からでも出なすったばかりかしら!」
「ちょっと見は、将軍さまの令嬢だが、鼻がみなぺちゃんこだあ!」そばへやって来た百姓が、ふいに一杯きげんで横やりを入れた。粗《そ》らしゃの外套をあけっぴろげにして、醜い顔にずるそうな笑いを浮かべている。
「こいつは、おもしろそうだなあ!」
「おはいりよ、せっかく来たんなら!」
「はいるよ! さあ、うめえぞ」
 こういって、男はころがるように下へおりた。
 ラスコーリニコフは先へ歩きだした。
「ちょいと、だんな!」と娘がうしろから声をかけた。
「なんだい?」
 女はちょっとてれた。
「ねえ、かわいいだんな、わたしあんたとなら、いつでも喜んでいっしょに遊ぶわ。だけど、今はなんだか気がさしてだめなの。ねえ、いい男、一杯飲むんだから、六コペイカばかしちょうだいな?」
 ラスコーリニコフは手にあたるだけつかみ出した。五コペイカ玉が三つだった。
「あら、まあ、なんて気まえのいいだんなでしょう!」
「お前なんていうんだい?」
「ドゥクリーダとたずねてちょうだい」
「だめよ、まあなんてこと、それ」と、ふいに群れの中のひとりの女が、ドゥクリーダに向かって頭を振りながら口を出した。「そんなふうにねだったりしてさ、なんてったらいいかわかりゃしないわ! わたしなんか恥ずかしくて、穴へでもはいりたいぐらいだわ……」
 ラスコーリニコフは、しゃべっている女を珍しそうにながめた。それは三十がらみのあばたづらの女で、打ち身だらけになっており、上くちびるも少しはらしていた。女は落ちついたまじめな口調《くちょう》で、さかんに非難するのだった。
『なんだっけかなあ』とラスコーリニコフはまた歩きだしながら考えた。『あれはなんで読んだのだったかなあ。ひとりの死刑を宣告された男が、処刑される一時間前にこんなことをいうか、考えるかしたって話だ――もし自分がどこか高い山の頂上《てっぺん》の岩の上で、やっと二本の足を置くに足るだけの狭い場所に生きるようなはめになったら、どうだろう? まわりは底しれぬ深淵、大洋、永久のやみ、そして永久の孤独と永久のあらし、この方尺の空間に百年も千年も、永劫《えいごう》立っていなければならぬとしても、今すぐ死ぬよりは、こうして生きているほうがましだ。ただ生きたい、生きたい、生きて行きたい! どんな生きかたにしろ、ただ生きてさえいられればいい!………この感想はなんという真実だろう! ああ、まったく真実の声だ! 人間は卑劣漢《ひれつかん》にできている!………またそういった男を卑劣漢よばわりするやつも、やっぱり卑劣漢なのだ』一分ばかりたってから、彼はさらにこうつけ加えた。
 彼は次の通りへ出た。『やっ! これは「水晶宮《すいしょうきゅう》」だ!さっ[#「」だ!さっ」はママ]きラズーミヒンが「水晶宮」の話をしていたっけ! だが、ええと、おれはなんのつもりだったのかな? そうだ、新聞を読むことだ!………ゾシーモフが新聞で読んだといったんだ……』
「新聞あるかい?」かなりひろびろとした、小ざっぱりした酒場にはいりながら、彼はたずねた。部屋はいくつかあったが、あまり客はなかった。二、三人の客が茶を飲んでいて、そのほか遠く離れた一間に、四人ばかりの一団が陣どって、シャンパンを飲んでいた。ラスコーリニコフの目には、その中にザミョートフがいるように思われた。もっとも、遠いのでよく見分けられなかったが。
『なに、かまうもんか!』と彼は考えた。
「ウォートカをさしあげますか?」と給仕がたずねた。
「いや、お茶をもらおう。それから、新聞を持って来てくれ、古いのを。そうだな、五日ばかり前からそろえて。きみにはチップをあげるからね」
「かしこまりました。これが今日の分でございます。それから、ウォートカをめしあがりますか?」
 古い新聞とお茶が来た。ラスコーリニコフは、すわりぐあいのいいように腰を落ちつけて、さがしにかかった。
『イーズレル――イーズレル――アズテック――アズテッタ――イーズレル――バルトーラ――マツシーモ――アズテック――イーズレル……ちょっ、畜生! あっ、ここに雑報がある――女が階段から落っこちた――町人がひとり酔っぱらって死んだ――ペスキの火事――ペテルブルグ区の火事――もう一つペテルブルグ区の火事――またまたペテルブルグ区の火事――イーズレル――イーズレル――マツシーモ――あっ、これだ……』
 彼はついにさがし当てて読みにかかった。活字は目の中でおどったが、それでも彼は『報道』をすっかり読み終わると、むさぼるように次の号をめくり、新しい追加記事をさがし始めた。ページを繰ってゆく彼の手は痙攣《けいれん》的なもどかしさにふるえた。ふいにだれやら彼のそばへ来て、テーブルの向こうに腰をかけた。ふと見ると、――ザミョートフだった。ポマードをつけた黒い巻き毛に分け目をくっきりと見せ、ハイカラなチョッキに、いくらかすれたフロックをまとい、あまり真白でないシャツを着こみ、金鎖をたらして、金指輪をいくつもはめた、いつもに変わらぬザミョートフである。彼は愉快そうだった。少なくとも、大いに愉快らしく、人のよさそうな微笑をたたえていた。その浅黒い顔は、一杯やったシャンパンのために、ほんのりと赤くなっている。
「えっ! あなたはこんなところへ?」彼は、さも百年の知己《ちき》といった調子で、けげんそうに口をきった。「ついきのう、ラズーミヒンが、あなたは引きつづき正気でないって話してたのに。どうも変ですね! ぼくもあなたのところへ行ったんですよ……」
 ラスコーリニコフは、彼がそばへ来るのを覚悟していた。彼は新聞をわきへ押しやって、ザミョートフのほうへふり向いた。彼のくちびるには冷笑が浮かんだ。その冷笑の中には何かしら新しい、いらだたしげな焦燥がのぞくのであった。
「知ってますよ、おいでになったことは」と彼は答えた。――聞きましたよ。くつ下をさがしてくれたそうですね……ときにラズーミヒンはきみに夢中ですよ。きみはあの男といっしょに、ルイザ・イヴァーノヴナのところへ行ったそうですね。ほら、あのとききみが気をもんで、火薬中尉に目くばせしても、先生、いっこう気がつかなかった、覚えてるでしょう――あの女のところへ? こりゃもうわからないはずはないんだがなあ――はっきりした話だのに……え?」
「どうもあの男もあばれんぼだな!」
「火薬がですか?」
「いや、きみの友人ですよ、ラズーミヒンですよ……」
「きみの生活はけっこうなもんですね、ザミョートフさん。ああいう愉快この上ないところへ木戸ごめんなんて! いまきみにシャンパンをごちそうしたのは、ありゃだれです?」
「あれはみんなで……飲んだんですよ……で、まあ、ごちそうしたんですな!」
「報酬ってやつですな! なんでも利用しますね!」とラスコーリニコフは、からからと笑いだした。「いや、なんでもないさ、わが愛すべき少年よ、なんでもないさ!」ザミョートフの肩をぼんとたたいて、彼はいいたした。「ぼくは何も当てつけていってるんじゃない。『つまり仲がいいもんだから、おもしろ半分に』いってるんですよ。これは、ほら、例のペンキ屋の職人が、ミトレイをなぐったときにいったことですよ。例の老婆殺しの件で」
「きみはどうして知ってるんです?」
「そりゃぼくだって、きみよりくわしいかもしれませんよ」
「きみはなんだか変ですね……きっとまだよっぽど悪いんですね。外出なんかしたのは乱暴ですね……」
「きみの目にはぼくが変に見えますか?」
「見えますね。ときに、きみそれはなんです、新聞を読んでるんですか?」
「新聞です」
「やたらに火事のことが出ていますね」
「いや、ぼくが読んだのは、火事のことなんかじゃありませんよ」こういって、彼はなぞめいた表情でザミョートフを見やった。あざけるようなうす笑いが、またもや彼のくちびるをゆがませた。「いや、火事のことじゃありません」と、意味ありげにまばたきしながら、彼はくりかえした。「さあ、白状したまえ、わが愛すべき青年、きみはぼくがなんの記事を読んだか、それが知りたくてたまらないんでしょう」
「ちっとも知りたかありませんよ、ただ、ちょっときいてみただけです。いったいきいちゃいけないんですか? なんだってきみはのべつ……」
「ねえ、きみはりっぱな教養のある、文学的な人ですね、ええ?」
「ぼくは中学を六年までやったきりです」ある威厳を見せながら、ザミョートフは答えた。
「六年まで! いや、きみはじつにかわいい小すずめさんだ! 髪をきちんと分けて、指輪なんかいっぱいはめて――金持はちがったものだ! へっ、なんと愛すべき少年なるかなだ!」
 こういってラスコーリニコフは、神経的な笑いをザミョートフの顔へまともに浴びせかけた。ザミョートフは思わず一足たじたじと後ろへしざった。これは腹を立てたというよりも、すっかり面くらった形である。
「ちぇっ、なんという変な人だ!」とザミョートフはまじめにくりかえした。「どうやらきみはまだ熱に浮かされているようですね」
「熱に浮かされてる? ばかをいっちゃいけない、小すずめ君!………じゃ、ぼくは変ですかね? ふん、それでぼくはきみにとって興味があるでしょう、え?興味があるでしょう?」
「ありますね」
「というのは、つまりぼくが新聞で何を読んだか、何をさがしたかってことでしょう? だって、こんな古い分をしこたま持って来させたんだからね! うさんくさいでしょう、え?」
「まあ、いってごらんください」
「のどから手が出るというやつですね?」
「何かいったい、のどから手なんです?」
「何がのどだか、あとでいいますよ。ところで今はね、わが愛すべき好青年、こう声明しよう……いや、いっそ『白状しよう』だ……いや、これもぴったりしない。『陳述するから、お書きとりください』――そう、これだ! そこで陳述すると、ぼくが読み、興味を持ち、さがし……かつ詮索《せんさく》したのは……」ラスコーリニコフは目をほそめ、ちょっと待った。
「詮索して――そのためにわざわざここへ寄ったのは――官吏未亡人の老婆殺しの件ですよ」自分の顔を思いきりザミョートフの顔に近よせて、彼はついにはほとんどささやくようにそういった。
 ザミョートフも、自分の顔を相手の顔から引こうともしかいで、身動きもせずに、ひたと彼を見た。あとでザミョートフが何よりふしぎに感じたのは、この時ちょうどまる一分間、ふたりのあいだに沈黙が続いて、ちょうどまる一分間、互いににらみ合っていたことである。
「ちぇっ、それがどうしたんです、その記事を読んだのが?」ふいに彼は怪訝《かいが》と焦燥の念にがられて叫んだ。「いったいそれが、ぼくになんの関係があるんです! それがどうしたというんです?」
「ほら、あの例のばあさんですよ」ラスコーリニコフは、ザミョートフの叫び声に身動きもせず、同じくささやくように言葉をつづけた。「覚えてるでしょう。あのとき警察で話が出て、ぼくが卒倒した、あのばあさんですよ。どうです、もうわかったでしょう?」
「いったいなんのことです? 何が……『わかったでしょう』です?」とザミョートフは、ほとんど不安そうな様子でいった。
 ラスコーリニコフのじっとすわって動かぬまじめな顔つきは、一瞬の間にがらっと変わってしまった。とつじょ彼は、まるで自分で自分を制する力がないように、またもやさきほどと同じ神経的な哄笑《こうしょう》を爆発させた。その瞬間、おのを手にして、ドアのかげに立っていた、あの数日前の一せつなが、恐ろしいほどはっきりした実感として記憶によみがえった。せんが、がたがたおどって、表ではふたりの男がののしったり、ドアを押したりしている。と、ふいに彼はふたりをどなりつけて、あくたいを浴びせかけ、舌をぺろりと出して彼らを嘲笑《ちょうちゃく》したあげく、ありったけの声で笑って、笑って、笑いぬいてやりたくなったあのせつな!
「きみは気がちがったのか、それとも……」とザミョートフはいいかけて――言葉を止めた。とつぜん心にひらめいた想念に打たれたかのように。
「それとも? なにが『それとも』です? さあ、なんです? さあ、いってごらんなさい!」
「なんでもありません!」ザミョートフはむっとして答えた。「みんなくだらないことです!」
 ふたりとも黙ってしまった。思いがけない発作的な笑いの爆発が終わると、ラスコーリニコフはまた急にもとのもの思わしげな沈んだ様子になった。彼はテーブルにひじづきし、てのひらに頭をのせた。ザミョートフのことなどきれいに忘れてしまったようなふうだった。沈黙はかなり長くつづいた。
「なぜお茶を飲まないんです? さめてしまうじゃありませんか」とザミョートフがいった。
「え? なに? お茶……それもそうだな……」
 ラスコーリニコフは、コップの茶をひと口がぶりと飲んで、パンをひと切れ口へ入れた。それから、ザミョートフの顔をちょっと見ると、ふいにいっさいを思い出したらしく、思わずぴくりと身ぶるいするようなかっこうをした。彼の顔はその瞬間、はじめと同じ嘲笑的な表情をうかべた。彼は茶を飲みつづけた。
「近ごろはじつにああした凶行がふえてきましたね」とザミョートフはいった。「ついこの間も、『モスクワ報知』で読みましたが、大規模の紙幣|贋造団《がんぞうだん》が検挙されましたね。まるでひと会社くらいの人数だったそうです。紙幣を贋造してたんですよ」
「ああ、それはもうずっと前のことでしょう! ぼく、ひと月も前に読みましたよ」とラスコーリニコフは落ちついて答えた。「じゃ、あなたにいわせれば、あんなのが悪党なんですかね?」と彼はうす笑いしながらいいたした。
「悪党でなくってどうします?」
「あれが? あれは子供ですよ、青二才ですよ、悪党なんかじゃありません! あんな仕事をするのに五十人からの人間が寄り合うなんて! そんなのってありますか。三人でも多いくらいだ。それもお互い同士を自分以上に信用してる場合にかぎりますよ! さもなければ、中のひとりが酔っぱらってうっかりしゃべったら、それでもう万事、がらがらっ、といってしまうんですからね! 青二才ですよ! 札《さつ》を銀行で両替えさせるのに、あてにもならない男を雇うなんて――これほどの仕事を、行きあたりばったりの人間に任せるって法がありますか? まあ、かりに青二才連中でも、うまくいったとしましょう。そして、てんでに、百万ルーブリずつも両替えしたとする、ね、ところで、それからあとはどうなるんです? 一生涯のあいだ? それこそひとりひとりが生涯、お互い同士首をしめ合っているわけじゃありませんか! それなら、いっそ首をくくったほうがましなくらいだ! しかも、やつらは両替えすることもできなかったんですからね。銀行へ行って両替えを頼み、五千ルーブリの金を受け取ると、手がぶるぶるふるえだした。四千ルーブリまでは数えたけれど、五千ルーブリめは数えもしないで受け取って、そのままポケットヘねじ込むと、あたふたと逃げ出してしまった。そこで、嫌疑《けんぎ》を招くことになり、たったひとりのばか者のおかげで、万事がらがらといってしまった! え、いったいこんな話ってあるもんですか?」
「手がふるえたのがなんです?」ザミョートフは引きとった。「なに、それはありがちなことですよ。いや、ぼくはぜんぜんありうると信じますね。どうかすると、持ちこたえられませんよ」
「それしきのことが?」
「そりゃきみなら、あるいは持ちこたえられるかもしれませんね? いや、ぼくだったら持ちこたえられない! 百ルーブリやそこいらの礼金で、そんな恐ろしいことをするなんて! 贋造紙幣を持って――しかも、ところもあろうに――それで苦労をしぬいている銀行へ行くなんて――いや、ぼくなんか、てれてしまいますよ、きみは平気ですか?」
 ラスコーリニコフは急にまた、『舌をぺろりと出して』やりたくなった。悪寒《おかん》がときどき瞬間的に彼の背筋を走って流れた。
「ぼくならそんなやりかたはしませんね」と彼は遠まわしに始めた。「ぼくならこんなふうに両替えしますよ。まず最初の千ルーブリは、一枚一枚あらためながら、そっちからもこっちからも四度くらい数えて、それから次の千ルーブリにかかる。数え始めて、半分どころまで来ると、どれか五十ルーブリ紙幣を一枚抜き出して、明かりに透かしながらひっくりかえして見て、もう一度――贋《にせ》じゃないかと明かりに透かして見る。そして『ぼくは気になるんですよ。このあいだも親戚《しんせき》の女が、この手で二十五ルーブリしてやられましたのでね』てなことをいって、そこでさっそく、そのいちぶしじゅうを物語るんです。それから三千ルーブリめの勘定にかかったとき、『いや失礼、ぼくさっき二千ルーブリを勘定するとき、七百ルーブリのところを数えそこなったようだ、どうもそんな気がする』といって、三千ルーブリめの勘定をやめ、もう一度二千ルーブリめの勘定にかかる――まあ、こんなふうにして、五千ルーブリみんな数えてしまうんですよ。そしてぜんぶ数え終わると、また五束目と二束目から一枚ずつ抜き出して、また明かりに透かしながら、またいかにも気がかりらしい顔をして、『どうかこれを取り換えてくださいませんか』――こんな調子で、銀行員がへとへとになって、悲鳴をあげるまでやるんです。もうどうしたらやっかい払いができるかと、とほうにくれてしまうまでね! で、やっとかたづいて出て行くだんになって、ドアをあけると『いや、いけない、ちょっと失礼』と、もう一度ひっ返すんです。そして何か質問を持ちかけて説明を求める――とまあ、ぼくならこんなふうにやりますね!」
「へえきみはなんて恐ろしいことをいう人でしょう!」とザミョートフは笑いながらいった。「しかし、それは口先ばかりで実行となったら、きっとつまずきますよ。そんな場合には、ぼくにいわせれば、きみやぼくばかりでなく、どんな海千山千の向こう見ずでも、自分で自分がどうなるか、けっして保証できるもんじゃありませんよ。何もまわりくどい話をするまでもない、げんにこういう例があります。ぼくらの管内で、老婆がひとり殺されましたが、あれこそ白昼あんな冒険をやってのけて、ほんの奇跡で助かったというだけの不敵きわまる凶漢らしいが、それでもやっぱり手がふるえたんですよ。その証拠には、盗むほうの仕事はまるでできなかったんですからね。持ちこたえられなかったんですな。仕事のやり口で見えすいてますよ……」
 ラスコーリニコフはむっとしたような表情になった。
「見えすいてる? じゃひとつ、つかまえてごらんなさい、今すぐ」と彼はいじわるい喜びの声で、ザミョートフを扇動するように叫んだ。
「そりゃもうつかまえますとも」
「だれが? きみが? きみにつかまりますか? くたびれもうけですよ! きみがたの一ばんの奥の手は、金づかいが荒らいかどうか、くらいのもんでしょう? いままで一文なしでいたやつが、急に金をつかいだすと――それこそ犯人だとくる、そんなことじゃ、子供でもその気にさえなれば、きみがたをだますのはわけありませんぜ」
「ところがね、やつらはみんなそれをやるんですよ」とザミョートフは答えた。「殺すほうは器用にやっつけて、命を的《まと》の冒険をしながら、そのあとではもうすぐに、居酒屋へとび込んでひっかかってしまう。つまり、金づかいで皆やられるんですよ。みながみなきみのように、狡猾なものばかりじゃありませんからね。きみなら、もちろん、居酒屋なんかへ行かないでしょうね?」
 ラスコーリニコフは眉《まゆ》をひそめて、じっとザミョートフを見つめた。
「きみはどうやら味をしめて、その場合に、ぼくがどう立ちまわるか、知りたくてたまらないようですね?」と彼は不満げな調子でたずねた。
「知りたいもんですね」こちらはきっぱりと、まじめに答えた。彼はなんとなく、あまりまじめすぎるくらいに口をきき、まじめすぎるくらいの顔つきになった。
「非常に?」
「非常に!」
「よろしい。ぼくならこんなふうに立ちまわりますね」またもや自分の顔を、やにわにザミョートフの顏へ近づけて、じっと穴のあくほど相手を見つめながら、ラスコーリニコフはささやくような声でいいだした。こんどはザミョートフも、思わずぴくりと身ぶるいした。「ぼくならこんなふうにしますね。まず金と品物を取って、そこを出たら、すぐその足でどこへも寄らずに、どこか寂しい塀《へい》ばかりで、人っ子ひとりいないような場所――野菜畑かなにか、そういったふうなところへ行く。そこにはもう前から、ちゃんと何かの石を見つけておくんです。目方一プード(約一六キログラム)か一プード半もあるやつで、どこかすみっこの、塀のそばにでもころがっている、建築用の残りとでもいった石をね。その石を起こすと――下にはくぼみがあるにちがいない――そのくぼみへ、金も、品物も、何もかも入れてしまう。入れてしまってから、もとのとおりに石をのっけて、足で踏んづけておき、ゆうゆうとそこを立ち去るのです。こうして、一年か、二年、あるいは三年くらいも、手をつけないでおくんですよ――さあ、これでひとつ捜してごらんなさい! これで捜し当てたらえらいもんだ!」
「きみは気ちがいです」ザミョートフもなぜか同様ささやくようにいった。そして、なぜか急にラスコーリニコフから身をひいた。
 こちらは目をぎらぎら光らせた。顔色が恐ろしいほど青くなって、上くちびるがぴくりとしたと思うと、そのままひくひくおどりだした。彼はできるだけ近くザミョートフのほうへかがみこんで、少しも声を出さずにくちびるを動かし始めた。それは三十秒ばかり続いた。彼は自分のしていることを意識しながら、自制ができなかった。ちょうどあの時のドアのせんのように、恐ろしいひと言が彼のくちびるの上でおどって、今にも飛び出しそうだった。ただもうひと息、それを口から出しさえすれば! ただもう音に発しさえしたら!
「ねえどうです、もしぼくがあのばあさんとリザヴェータを殺したのだったら?」と彼は出しぬけに口をきって――はっとわれにかえった。
 ザミョートフはぎくっとして彼の顔を見ると、布きれにまごうばかり真青になった。その顔は微笑でゆがんだ。
「いったいそんなことがあってもいいもんか?」彼はやっと聞こえるくらいの声でこういった。
 ラスコーリニコフは毒々しい目つきで、じろりと彼を見やった。
「白状なさい、きみならそれを信じたでしょう?………」とついに彼は、冷ややかな、あざけるような調子でいった。「そうでしょう? ね、そうでしょう?」 
「まるっきりちがいます。今という今こそ、今までよりもっと信じませんよ!」とザミョートフはあわてて叫んだ。
「とうとうひっかかった! 小すずめ君をつかまえたぞ。してみると、『今までよりもっと信じない』といわれる以上、以前は信じてたんでしょう?」
「ええ、けっしてそんなことはないというのに!」とザミョートフはいかにもろうばいしたらしくいった。「じゃきみはつまり話をここへ引っぱって来るために、ぼくをおどかしたんですね?」
「それじゃ信じないんですね? では、あのときぼくが警察を出たあとで、きみらはなんの話を始めたんです。なぜ火薬中尉は、卒倒したあとまでぼくを尋問したんです? おい、きみ!」と彼は立ちあがりながら、帽子をつかんで給仕を呼んだ。「勘定はいくらだい?」
「みんなで三十コペイカいただきます」と給仕はかけよりながら答えた。
「さあ、二十コペイカはきみにチップだ。どうだ、大した金じゃありませんか!」と彼は札を持ったふるえる手をザミョートフの前へさしのべた。「赤|札《さつ》青|札《さつ》で二十五ルーブリ、どこから出て来たと思います? この新しい服はどこから出て来たんでしょう? だってきみはぼくが一文なしだったのを知ってるでしょう! もうおそらくが唹さんを尋問したでしょう………もうたくさん! Assez cause(こんなことはたくさんだ)! さようなら、またそのうち……」
 彼は一種野性的な、ヒステリイじみた、しかもたまらないほどの快感を交えた感触に、全身ふるえおののきつつ外へ出た。――けれども陰鬱《いんうつ》な、恐ろしく疲れはてたような表情をしていた。彼の顔は、何かの発作《ほっさ》のあとみたいにゆがんでいた。疲労感がみるみるうちに大きくなっていった。気力は妙に興奮して、ちょっとした衝動、ちょっとしたいらただしい感情に会っても、すぐ波のように高まったが、その感情の弱まるにつれて、またすぐ弱まっていくのであった。
 ザミョートフはひとりになると、同じところに腰かけたまま、長いあいだもの思いに沈んでいた。ラスコーリニコフは、とつじょとして、例の件にかんする彼の考えをすっかり顚倒《てんとう》させ、いよいよ意見を固めさせたのである。
イリヤー・ペトローヴィチはまぬけだ!』と彼はきっぱり決めてしまった。
 ラスコーリニコフが表のドアをあけると、外からはいって来るラズーミヒンに、思いがけなく入口の階段で、ぶっつかった。ふたりはつい一足てまえまで互いに気がつかなかったので、ほとんど危うくはち合わせするところだった。しばらくの間、ふたりは互いに相手をじろじろ見まわしていた。ラズーミヒンは、非常な驚きに打たれた様子であったが、ふいに憤怒《ふんぬ》の色が――それこそもうほんとうの憤怒の色が、すさまじく彼の目に燃えはじめた。
「きさまはこんなところへ来ていたのか!」と、彼はのども裂けよと叫んだ。「寝床からぬけ出しやがって? ぼくは長いすの下まで捜したぞ! 屋根裏まで捜しに行ったぞ! きみのおかげで、ナスターシヤまで引っぱたかないばかりだったぞ……それだのに、ご当人はこんなところへ来てやがる!ロー[#「がる!ロー」はママ]ジャ! いったいこれはどうしたわけだ、すっかりありのままを話せ! 白状しろ、おい!」
「そのわけはほかでもない、きみたちがうるさくて、やりきれなくなったから、ひとりきりになりたかったのさ」とラスコーリニコフは落ちつきはらって答えた。
「ひとりきりで? 歩くこともできないくせに、まだ布のような青いつらをして、息を切らせているくせに。ばか! いったい、きみは『水晶宮』なんかで何をしていたんだ? 白状しなきゃ承知しないぞ!」
「放せ!」とラスコーリニコフはいって、そのまま通りぬけようとした。
 これでいよいよラズーミヒンはわれを忘れてしまった。彼はぐっと相手の肩をつかんだ。
「放せだ? 『放せ』なんてよくもいえたな! ぼくがきみをこれからどうしようと思ってるか、わかるか? 羽がいじめにして、ふん縛って、小わきにかかえて連れて帰るんだ。錠をおろして閉じこめてやるんだ!」
「なあ、ラズーミヒン!」とラスコーリニコフは静かに、落ちつきはらっていいだした。「ぼくがきみの親切をいやがってるのが、きみはいったいわからないのかね? せっかくの親切につばをひっかけるような人間に親切ぶりを見せるなんて、ずいぶんもの好きな話じゃないか? しかも、相手は苦しい思いをしながら、それをがまんしてるんだぜ!………どうしてきみは病気の初めにぼくをさがし出したんだい? ぼくはことによったら、大いに死ぬのを喜んでたかもしれないんだよ? きみはぼくを苦しめてる、ぼくはきみが……うるさいんだと、今日もずいぶんいったはずだが、あれでもまだ足りないのかい? じっさい、人を苦しめるなんて! いいもの奸きじゃないか! まったくのところ、こうしたいろいろのことが、ひどくぼくの回復をじゃましてるんだよ。だって、ひっきりなしに、ぼくをいらいらさせるからさ。見たまえ、ゾシーモフだって、ぼくをいらいらさせないために、さっき帰って行ったじゃないか! 後生だから、きみもぼくをかまわないでくれ! きみはいったいどんな権利があって、ぼくを力ずくで止めたりなんかするのだ? きみはわからないのかい――完全に正気でいってるんだぜ。きみひとつ教えてくれ――いったいなんといって頼んだら、どういうふうに哀願したら、きみはぼくにつきまとったり、親切をつくしたりするのをよしてくれるんだろう? ぼくは恩知らずだってかまわない、卑劣漢だってかまわない。ただ後生だから、ぼくにかまわないでくれ、かまわないでくれ! かまわないでくれ! かまわないでくれ!」彼は初めのうちこそ、これから吐き出そうとしているかんしゃくに、前から喜びを感じながら、落ちつきはらっていいだしたが、けっきょく、さきほどルージンにたいしたときと同様激昂《げっこう》してしまい、息を切らせながら言葉を結んだ。
 ラズーミヒンは突っ立ったまま、しばらく考えていたが、やがて彼の手を放した。
「じゃ勝手にどこなとうせやがれ!」と彼は低い声で、ほとんどもの思わしげにいった。「待て」ラスコーリニコフがその場を動こうとしたとき、彼はだしぬけにこうどなった。「まあ、ぼくのいうことを聞け。ぼくは宣言するが、きみたちはひとりのこらず、やくざなおしゃべりか、ほら吹きばかりだ! きみたちはほんのちょっと苦しいことができると、まるで雌鶏《めんどり》が卵をかかえ込んだように、そいつを背負いまわるんだ! しかも、そんな時にまで、他人の作品を剽窃《ひょうせつ》するんだからな。じっさい、きみたちには、独立した生活なんてものは、これっから先もないんだ! きみたちはまるで鯨油《げいゆ》でできた人間だ。血のかわりにチーズを絞った残りの滓汁《しる》が流れてるんだ! ぼくはきみたちの仲間をひとりも信用しやしない! きみたちの第一の仕事は、どんな場合でも、どうかして人間らしくなるまいという苦心なんだ! おおい待て!」ラスコーリニコフが、またもや逃げだしそうに動くのを見て、彼は前に倍した憤怒《ふんぬ》のていで叫んだ。「しまいまで聞けといったら! きみも知ってるだろう、ぼくのところでは、きょう引っ越し祝いに人が集まるんだ。もうそろそろ来てるかもしれない。それに、伯父を置いてきぼりにしてるんだ――さっきかけつけてくれたのさ――お客の接待に。そこでもし、きみがばかでないなら、俗物のあほうでないなら、はしにも棒にもかからない大たわけでないなら、外国|種《だね》の翻訳でないならばだ……いやじつはね、白状するが、きみは愛すべき聡明な男だ。が、それでもばかなんだよ!――そこでだ、もしきみがばかでないなら、むだ靴をはきつぶすより、ぼくのところへ来て、ひと晩いっしょに過ごしたらどうだい。もういったん外へ出たのなら、まあ、しかたがないさ!ぼく[#「いさ!ぼく」はママ]は一つきみにすてきな、柔らかい安楽いすを持って来てやろう、家主のところにあるんだ……まあ、お茶の集まりだな……それがいやなら……ちゃんと寝いすに寝かしてやるよ――とにかく、われわれの間に寝てなきゃいけない……ゾシーモフも来るよ。承知かい、え?」
「いやだ!」
「うそをつけえ―え!」とラズーミヒンはじれったそうにわめいた。「どうしてきさまにそれがわかるもんか? 自分で自分の行為に責任の持てない男じゃないか! それに、きみにゃこの間《かん》の消息はわからないんだ……ぼくは千べんもこんなふうに人とけんか別れをしたが、いつもすぐ仲直りをしたもんだ……きまりがわるくなってきて、また相手のところへのこのこ帰って行くんだ! じゃ、覚えておいてくれ、ポチンコフの家の三階だよ……」
「そんなふうだと、なんですね、ラズーミヒンさん、おそらくあなたは親切をつくしたいという満足感のために、他人に自分を打つことさえ許しておやりになるでしょうね」
「だれを? ぼくを? そんなことを考えただけでも、そいつの鼻柱をひん曲げてやるよ! ポチンコフの持ち家だよ、四十七号で、バーブシキンという官吏の住まいだ……」
「ぼくは行かないよ、ラズーミヒン!」とラスコーリニコフは踵《きびす》を転じて、さっさと歩きだした。
「ぼくは賭《か》けでもする、きっと来ずにはいないから!」とラズーミヒンはあとから追いかけるように叫んだ。
「でなければ、きさま……でなければ、もう絶交だ! おおい、待て! ザミョートフはここにいるか?」
「ここだ」
「会ったかい?」
「会った」
「話をしたかい?」
「した」
「なんの話を? いや、きみなんか勝手にしろだ、いわなくてもいいや、ポチンコフの持ち家、四十七号のバーブシキンだ。覚えておけよ」
 ラスコーリニコフはサドーヴァヤ通りまで行き着くと、町角を曲がってしまった。ラズーミヒンはそのあとをもの思わしげに見送っていた。とうとうあきらめたように手を振って、家の中へはいりかけたが、また階段の途中で立ち止まった。
『ええ、くそ、いまいましい!』と彼はほとんど声に出していった。『しゃべることは筋道が通っている。だがまるで……しかし、おれもばかだな! 気ちがいだって、筋道の通った話をしないともかぎらないじゃないか? どうやらゾシーモフも、これを多少おそれているらしかった!』と彼は指で額をこつんとたたいた。『だが、どうしたもんだろう、もし……あいつをひとりで勝手にさせるって法はない! 身投げくらいするかもしれん……ああ、こりゃしまったぞ! いけない!』こう考えて彼はまたあとへ引っ返し、ラスコーリニコフのあとを追ってかけ出した。けれど、もう影も形も見えなかった。彼はぺっとつばを吐いて、一時も早くザミョートフに様子をきこうと、急ぎ足で『水晶宮』へ引っ返した。
 ラスコーリニコフはまっすぐに××橋まで行って、そのまん中の欄干《らんかん》近くたたずんだ。そして、両ひじをその上にもたせ、遠くかなたをながめ始めた。ラズーミヒンと別れると、彼ははなはだしい衰弱感を覚えて、ここまでたどり着くのもやっとであった。往来でもかまわない、どこかへすわるか、横になるかしたかった。彼は水の上へかがみ込んで、ばら色をした夕日の最後の反映や、じりじりと濃くなっていくたそがれの中に黒ずんで見える家並みや、左側の河岸通りにある屋根部屋らしいものの中で、たった一瞬間投げつけられた太陽の最後の光線を反映して、さながら火災に包まれたように輝いている遠い小窓や、さてはくろずんできた運河の水を、機械的にながめていたが、とりわけこの水を注意ぶかく、じっと見入っているようであった。ついにそのうち、目の中で赤い輪みたいなものが、ぐるぐるまわり始め、家々が左右に動きだし、通行人も、河岸通りも、馬車も……すべてがぐるぐる回転し、踊り始めた。ふいに彼はぶるっと身ぶるいした。それはある一つの奇怪な見ぐるしい光景のおかげで、再度の卒倒から救われたのかもしれない。彼は何者か自分の右手へ来て、ならんで立ったような気がした。目を上げて見ると、黄いろい、やせた面長な顔と、どす赤くくぼんだ目をした、背の高い、頭に布片《ぬの》をかぶった女の姿が映じた。彼女はまともにひたと彼を見つめていたが、そのじつ、何も目に止まらず、だれひとり見分けなかったらしい。ふいに彼女は右手で欄干《らんかん》にもたれ、右足を持ち上げて、格子の外へさっと出したかと思うと、つづいて左足も同様にして、やにわに濠《ほり》の中へ身をおどらせた。きたない水がさっと開いて、瞬間にその犠牲をのんだが、一分ばかりすると、身投げ女は浮きあがり、静かに下のほうへと流れて行った。頭と足は水に隠れ、背中だけを上に見せながら、ずれたスカートをまくらのように、ふわりと水面へふくらましている。
「身投げだ! 身投げだ!」と幾十人かの声が叫んだ。人だかりがしてきて、両側の河岸通りは見物人が垣《かき》のようにつづいた。橋の上のラスコーリニコフのまわりにも、群衆が後ろから押したり突いたりしながら、黒山のようにたかってきた。
「あれえ、まあ、あれは隣のアフロシーニュシカじゃないか!」どこかその辺で泣くような女の叫び声が聞こえた。「皆さん、助けてくださいよう! だれか引き揚げてくださいよう!」
「ボートだ! ボートだ」と群衆の中でわめく声がした。
 けれど、もうボートはいらなかった。ひとりの巡査が河岸の石段をかけおりて、外套と長ぐつをぬぎ捨てると、いきなり水の中へ飛び込んだ。仕事はまるでぞうさなかった――身投げ女は、石段から二歩ばかりのところを流れていたので、彼は右手で女の着物をつかみ、左手で同僚のさし出す竿《さお》をすばやくつかんだ。こうして女はすぐ引き揚げられ、石段の花崗《みかげ》の敷石の上に置かれた。彼女はまもなく正気に返って身を起こし、べったりすわって、両手で無意味にぬれた着物をこすりながら、くしゃみをしたり、鼻をふんふん鳴らしたりしはじめた。彼女はなんにも口をきかなかった。
「酒がすぎてこんなことになったんですよ、皆さん、酒がすぎて」こんどはもうアフロシーニュシカのそばで、例の女の声がこういった。「こないだも首をくくろうとしたのを、やっと繩《なわ》からおろしたんですよ。わたしはいま、店へ買物に行ってたもんですから、娘っ子をそばへつけて見張らせといたんだけど――もうこんなまちがいをしでかしちまって! 町内の人なんですよ、すぐこの近所に住んでおります、はしから二軒目、ほら、あそこんとこ……」
 群集は散り始めた。巡査らはまだ身投げ女の世話をやいていた。だれやら警察がどうとかわめいた……ラスコーリニコフはすべてのことを妙に冷淡な、無関心な感じでながめていた。彼はいまわしくなってきた。『いや、そんなことはけがらわしい……水は……いけない』と彼は心の中でつぶやいた。『何事もありゃしない』と彼はいいたした。『何も待つことはない。警察がどうとかいったが、あれはなんだろう……ザミョートフはなぜ警察にいないんだ? 警察は九時すぎには開いているのに……』彼は欄干《らんかん》のほうへ背を向けて、あたりを見まわした。
『ふん、それがどうしたというんだ! それもいいじゃないか!』彼は断固《だんこ》たる調子でこういうと、橋から離れ、警察の方角をさして歩きだした。彼の心はうつろで、がらんとしていた。何を考える気もしなかった。憂愁までも消えうせて、『何もかもかたづけてしまう』ために家を出た、あのさきほどの意気ごみも跡かたすらなかった。そして、深い無関心な気持ちがそれに代った。
『なに、これだってやはり結末だ!』濠端《ほりばた》の通りを歩きながら、彼は静かにものうく考えた。『とにかく、かたづけてしまう、そうしたいんだから……だが、しかし、ほんとうに結末かな? いや、どうだって同じことだ! 方尺の空間はあるだろう――へっ! しかし、いったいなんの結末なんだろう? いったいほんとうの結末だろうか? おれはやつらにいってしまうだろうか、どうだろう? ええ……くそっ! だいいち、それにおれは疲れてるんだ。どこでもいいから、少しも早く横になるか、すわるかしたいんだ! 何よりも恥ずかしいのは、すべてがあまりばかばかしすぎるってことだ。だが、それもくそくらえだ。ええっ、なんてくだらないことがよくも頭へ浮かんでくるもんだ……』
 警察署へはどこまでもまっすぐ行って、二つ目の曲がり角を、左へ取らなければならなかった――警察はそこからひと足だった。けれど、最初の曲がり角まで来ると、彼は立ち止まってちょっと考えた後、横町へそれてしまった。そして、通りを二つ越して、まわり道をしながら先へ進んだ――これは何もあてなしだったのかもしれないが、あるいはほんの一分でも先へ延ばして、余裕を作ろうとしたのかもしれない。彼は地面ばかり見て歩いた。ふとだれか耳もとで何やらささやいたような気がした。彼は、頭を持ち上げて見ると、いつの間にかあの家[#「あの家」に傍点]のそば、しかも門のすぐ前に立っていた。あの晩[#「あの晩」に傍点]からこっち、彼は、ここへ来たこともないし、そばを通ったこともなかったのだ。
 言葉で現わせない欲求が、彼をいやおうなしに、ぐんぐん引っぱって行った。彼は家の中へはいって、門の下を通りぬけ、それから右手にある最初の入口をくぐって、なじみの階段を四階へと上がり始めた。せまい急な階段はひどく暗かった。彼は一つ一つの踊り場に立ち止まって、もの珍しげにあたりを見まわした。一階目の踊り場では、窓わくがすっかり取りはずしてあった。『あの時にはこんなことはなかった』と彼は考えた。と、まもなく、ニコライとミトレイが仕事をしていた、例の二階の部屋が現われた。『しまってるな。そしてドアも新しく塗りあがってる。つまり、いよいよ貸しに出たんだな』やがてもう三階……それから四階になった……『ここだ!』と、怪訝《かいが》の念が彼を捕えた。中へ通ずるドアがいっぱいにあけ放されて、中には人がいるらしく、話し声が聞こえていた。これま彼のぜんぜん予期しないことだった。しばらくちゅうちょした後、彼は最後の幾段かを上がって、住まいの中へは入って行った。
 この住まいもやはり新しく修繕されていた。中には職人がはいっていたが、それがまた彼をぎょっとさせたような形だった。彼はなぜかこの住まいが、あのとき見捨てて行った状態とそっくりそのままで、死骸《しがい》すら床の上で同じ位置にころがっているに相違ないような気がした。ところが今はいって見ると、壁はま裸で、家具は一つもない。なんだか変な感じだ! 彼は窓のほうへ行き、窓じきりに腰をかけた。
 職人はみなでふたりきり、どちらもそろって若い者で、一方は少し年かさ、一方はずっと若かった。彼らは以前の黄いろいぼろぼろのよごれた壁紙の代りに、薄紫色の花模様のついた新しい白い紙で壁をはっていた。ラスコーリニコフはなぜかそれがひどく気に入らなかった。こんなに何もかも変えられてしまうのを惜しむように、彼は敵意を持った目でその新しい壁紙をにらんでいた。
 職人たちはだいぶ手間どったとみえて、いま急いで紙を巻きおさめ、帰り支度をしているらしかった。ラスコーリニコフが現われたのも、彼らの注意をひかなかった。ふたりは何か話し合っていた。ラスコーリニコフは腕組みをして、耳を傾け始めた。
「あの女がな、ある朝おれんとこへやって来たんだ」と、年かさのほうが若いほうにいった。「べらぼうに早く、大めかしにめかしこんでよ。『なんだってお前、人の前でそうでれでれしやがるんだい、なんだってべたべたしやがるんだい?』とおれがいうと、やつめ『あのね、チート・ヴァシーリッチ、わたしこれから先ずっとお前さんの自由になりたいと思うのよ』ときやがった。まあ、こういうわけなのよ! ところで、そのめかしようといったら、雑誌だ、なんのこたあない雑誌だよ!」
「そりゃなんのことだい、おっさん、その雑誌って?」と若いほうが聞いた。彼は見たところ、『おっさん』にいろんなことを習っているらしかった。
「雑誌てえのはな、お前、つまり色を塗ったきれいな絵のことさ。ここの仕立屋へ土曜ごとに、外国から郵便で来るんだ。つまりな、男でも女でも、だれがどんな服を着たら似合うかってんだ。つまり、見本絵さ。男のほうはたいてい外套を着てるが、女のほうになるてえと、てめえがありたけのものをほうり出しても、まだ足りないくれえ、どえらい衣裳だぜ!」
「このペテルにゃ、なんだってないものはないんだねえ!」若いほうは夢中になっていた。「おふくろとおやじのほかにゃ、なんだってあらあ!」
「それだけをのけたら、なあ、兄弟、どんなもんでもあらあな!」と年かさのほうは教訓めいた調子でいった。
 ラスコーリニコフは立ちあがって、もと長持、べッド、たんすなどの置いてあった、次の間へはいって行った。家具を取り払った部屋は、恐ろしく小さく見えた。壁紙はすっかりもとのままで、その片すみには聖像龕《おずし》のすえてあった場所がくっきり跡を残している。彼はひとわたり見まわしてから、もとの窓へ引っ返した。年かさのほうの職人が、横目でちらと彼を見た。
「なんのご用ですね?」ラスコーリニコフのほうへふり向きながら、彼はいきなりこうたずねた。
 返事をする代りに、彼は立ちあがって控え室へ出て行き、ベルのひもをぐいと引いた。あの時のベル、あの時と同じブリキのような響き! 彼はふたたび三たびそれを引いた。彼は耳をすまして追憶をたぐりだした。以前の、悩ましく恐ろしい醜悪な感覚が、だんだん明らかにいきいきと、記憶によみがえってきた。彼はひと引きごとにぴくり、ぴくりとふるえあがった。しかもそれと同時に、だんだんいい気持ちになってきた。
「いったい、なんの用なんだい? お前は何者なんだ?」彼のそばへ出て来ながら、職人はきめっけた。
 ラスコーリニコフはふたたびドアの中へはいった。
「家を借りようと思って」と彼はいった。「見てるんだよ」
「夜、家を借りに来る人はありませんや。おまけにそれなら、庭番といっしょに来なくちゃだめですよ」
「床も洗っちまったな。ペンキを塗るのかい?」とラスコーリニコフはつづけた。
「血はもうないかい?」
「血って、なんですね?」
「ほら、ここでばあさんが妹といっしょに殺されたじゃないか。ここはまるで血の海だったのさ」
「お前はいったい何者だい?」と職人は不安げに叫んだ。
「ぼくかい」
「そうさ」
「お前、それが知りたいのか?………じゃいっしょに警察へ行こう、そこで聞かしてやるから」職人たちはけげんそうに、しばらく彼を見つめていた。「もう帰らなくちゃならねえ。すっかり、手間どっちゃった。行こうよ。アリョーシカ。戸じまりをしなくちゃ」と年かさの職人がいった。
「うん、行こう!」とラスコーリニコフは無関心な調子で答えて、先に立って部屋を出ると、ゆるゆる階段をおり始めた。「おい、庭番!」門のところまで来ると、彼は声高に呼んだ。
 五、六人のものが入口のすぐそばで、ぼんやり往来の人を皃ながら立っていた。それはふたりの庭番と、ひとりの女と、部屋着をきた町人と、その他一、二のものだった。ラスコーリニコフはいきなりそのそばへよった。
「なんのご用で?」と庭番のひとりが応じた。
「警察へ行って来たかい?」
「いま行って来ました。あなたはなんのご用で?」
「向こうには皆いるかい?」
「いますよ」
「署長もいたかい?」
「ちょっと来ていました。あなたなんのご用です?」
 ラスコーリニコフはそれには答えず、考えこみながら、一同とならんでたたずんだ。
「住まいを見に来たんだとよ」年かさのほうの職人がそばへ来ながらいった。
「どの住まいを?」
「おれたちが仕事してるところさ。『なんだって血を洗ってしまったのだ? ここじゃ人殺しがあったじゃないか。ところで、おれは借りに来たんだ』なんてよ。それから、ベルを鳴らし出して、まるで綱《つな》を引きちぎらないばかりだったよ。それから、警察へ行こう、そこで何もかも話してやる、とかなんとかって、うるさくからんできたのさ」
 庭番は合点《がてん》のいかぬ顔をして、眉をひそめながら、ラスコーリニコフをじろじろと見まわした。
「あなたはいったいどなたですね?」と彼はやや声を励まして問いかけた。
「ぼくはもと大学生だった、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフというもので、ここから、あまり遠くない横町にある、シールの持ち家の十四号にいるんだよ。庭番にたずねてくれ……知ってるから」ラスコーリニコフは相手のほうを見向きもせず、薄暗くなった通りをじっと見つめながら、たいぎそうな、もの思わしげな調子で、これだけのことをいった。
「が、なんだってあなたは部屋の中へはいったんで?」
「見るためにさ」
「何を見るものがあります?」
「いっそふんづかまえて、警察へ突き出しちまえ!」とふいに町人が口を出したが、すぐ黙ってしまった。
 ラスコーリニコフは肩ごしに町人をしり目にかけて、注意ぶかくじっと見つめていたが、ものうげな低い調子でいった。
「そうだ、突き出しちまえ!」と町人は元気づいて、相手の言葉を引き取った。「なんだってこの男はあのこと[#「あのこと」に傍点]をいいだしたんだ? いったい何を腹に隠してるんだ。うん?」