京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP253-P264

でも、単に偉人のみならず、わずかでも凡俗の軌道を脱した人は、ちょっと何か目新しいことをいうだけの才能にすぎなくとも、本来の天性によってかならず犯罪人たらざるをえないのです――もちろん、程度に多少の相違はありますがね。これがぼくの結論なんです。でなくては、とても凡俗の軌道を脱することはむずかしい。が、それかといって、そのまま凡俗の軌道にあまんじていることは、やはり本来の天性によってできない相談です。いや、ぼくにいわせれば、むしろあまんずべからざる義務があるくらいです。要するに、これまでのぼくの議論には、ごらんのとおり、かくべつ新しい点など少しもないのです。こんなことは、もう何百ぺんも書かれたり、読まれたりしたことです。ところで、凡人、非凡人の分類については、それが少し気まぐれだってことに、ぼくも異存ありません。しかし、ぼくもあえて、正確な数字にもとづいて主張するわけじゃありませんからね。ぼくはただ根本思想を信じるだけです。その根本思想というのは、こうなんです。人は自然の法則によって、概略[#「概略」に傍点]二つの範疇《はんちゅう》にわかれている。つまり自分と同様なものを生殖する以外になんの能力もない、いわば単なる素材にすぎない低級種属(凡人)と、いま一つ真の人間、すなわち自分の仲間の中で新しい言葉[#「新しい言葉」に傍点]を発する天稟《てんびん》なり、才能なりを持っている人々なのです。その細目は、もちろん無限にあるわけですが、この二つの範疇を区別する特質は、かなりはっきりとしています。第一の範疇、すなわち素材は、概括《がいかつ》的にいって保守的で、行儀がよく、服従をこれ事として、服従的であることを好む人々です。ぼくにいわせれば、彼らは服従的であるべき義務すら持っているのです。なぜなら、それが彼らの使命なのですからね。そこには、彼らにとって断じてなんら屈辱《くつじょく》的なものはありません。第二の範疇はすべてみな、法律を踏み越す破壊者か、あるいはそれに傾いている人たちです。それは才能に応じて多少の相違があります。この種の人間の犯罪はもちろん相対的であり、多種多様であるけれど、多くはきわめてさまざまな声明によって、よりよきものの名において、現存せるものの破壊を要求しています。で、もしおのれの思想のために、死骸《しがい》や血潮を踏み越えねばならぬような場合には、彼らは自己の内部において、良心の判断によって、血潮を踏み越える許可をみずから与えることができると思います――もっとも、それは思想の性質により、思想のスケールによって程度の差があります――ここを注意してください。ただこの意味においてのみ、ぼくはあの論文の中で、犯罪にたいする彼らの権利を論じているわけなのですから(この議論が法律問題から始まっているのを、ご想起ねがいます)。しかし、大して心配することはありませんよ。群衆はほとんどいつの時代にも、彼らにこうした権利を認めないで、彼らを罰し、彼らを絞殺してしまいますから(程度に多少の相違はありますがね)。そして、その行為によってきわめて公明正大に、自分の保守的使命をはたしているのです。が、ただし次の時代になると、この同じ群衆が前に罰せられた犯罪人を台座にのせて、彼らに跪拝《きはい》するのです(多少程度の差こそありますが)。第一の範疇《はんちゅう》は、現在の支配者であり、第二の範疇は、未来の支配者であります。第一の範疇は、世界を保持して、それを量的に拡大していく。第二の範疇は、世界を動かして、目的に導いていく。だから両方とも同じように、完全な存在権を持っているのです。要するに、ぼくの考えとしては、だれでもみな同等の権利を持っているんです。そして――Vive la guerre eternelle(永久の戦い万歳です)もちろん、新しきエルサレムの来現までですがね」
「じゃあなたは、なんといっても、新しきエルサレムを信じていらっしゃるんですか?」
「信じています」ときっぱりした声でラスコーリニコフは答えた。こういいながらも彼は今までずっと、あの長広舌《ちょうこうぜつ》の初めからしまいまで、絨毯《じゅうたん》の上のある一点を選んで、じっとそこばかり見つめていた。
「そ、そ、それで、神も信じていらっしゃる? もの好きな質問で失礼ですが」
「信じています」目をポルフィーリイの顔へ上げながら、ラスコーリニコフはくりかえした。
「ラザロの復活も信じますか?」
「しーんじます。なぜそんなことをお聞きになるんです?」
「文字どおりに信じますか?」
「文字どおりに」
「ははあ……いや、ちょっともの好きにお尋ねしたまでで。失礼しました。ところで、ひとつ伺いますが――またさっきの話にもどりますよ――非凡人はいつもかならず罰せられるとはかぎりますまい。中にはかえって……」
「生きながら凱歌《がいか》を奏する、とおっしゃるのですか? そりゃそうですとも。中には、生存中に目的を達するものがあります。その時は……」
「自分で人を罰し始める、ですか?」
「必要があれば。いや、なに、大部分そうなるでしょう。ぜんたいに、あなたの観察はなかなか警抜ですよ」
「ありがとう。ところで、もう一つどうか。いったいどういうところで、その非凡人と凡人を区別するんです? 生まれる時に何か印でもついてるんですか? わたしのいう意味は、そこにもう少し正確さがほしいと思うんです。いわば、いま少し外面的な特徴がなくてはね。これは実際的な常識家たるわたしとして、自然な不安だと思ってお許しを願います。しかし、どうでしょう、そこにたとえば、何か特殊な制服でも決めるとか、何か身につけるとか、それとも烙印《らくいん》のようなものでも押すとか、そんなわけにはいかんものでしょうかね……十にもないと、もしそこに混乱が起こって、一方の範疇《はんちゅう》の人間が、自分はほかの範疇に属してるなどと妄想《もうそう》をおこして、あなたのうまい表現をかりると、『あらゆる障害を除き』始めたら、その時はそれこそ……」
「ああ、それはじつによくあるやつです! このあなたのご観察は、前のよりさらに警抜なくらいですよ……」
「どうもありがとう……」
「どういたしまして。しかし、こういうことを考慮に入れていただきたいのです。そうした誤解は、ただ第一の範疇、つまり『凡人』(これははなはだまずい呼びかただったかもしれませんが)の側にのみおこりうるものなんですからね。服従にたいする生来の傾向にもかかわらず、牝牛《めうし》にすら見うけられる自然の戯れによって、彼らのうちかなり多くのものが、好んで自分を先覚者、『破壊者』であると妄想して、『新しい言葉』を発しようとしたがる。しかもそれが大まじめなんですからね。と同時に、彼らは実際の新人[#「新人」に傍点]を認めない場合が非常に多い。それどころか、かえってそれを時代おくれの卑劣な考えかたをする人間として、軽蔑しているくらいです。けれど、ぼくの意見では、そこに大した危険はないと思うんです。だから、あなたもまったくご心配には及びませんよ。なぜなら、彼らはけっして、深入りするようなことはないですからね。もっとも、ときには、前後を忘れた罰として、身のほどを知らせるために、むちで打ってやるのはもちろんよろしい。が、それでたくさんです。刑罰の執行人もいりゃしませんよ。彼らは自分で自分を打ちます。なにしろ非常に心がけのいい連中ですからね。お互い同士にそのめんどうを見合うものもあろうし、中には自分の手で自分を罰するものもあるでしょう……そのうえ、いろいろと公《おおやけ》に悔悟の意を表明するようなこともやるから――美しくって教訓的な効果がありますよ。要するに、少しもご心配はいりません……そういう法則があるんですよ」
「いや、少なくともその方面では、多少わたしを安心さしてくだすったが、しかしまだ、ここにもう一つ困ったことがあるんですよ。一つ伺いますが、いったいその他人を殺す権利を持ってる連中、つまり『非凡人』は大ぜいいるんでしょうか、もちろん、わたしはその前に跪拝《きはい》するのをいといませんが、しかしねえ、考えてもごらんなさい、そういう連中がやたらにたくさんあった日にゃ、気味が悪いじゃありませんか、え?」
「ああ、その心配もご無用です」とやはり同じ調子でラスコーリニコフはつづけた。「概して、新しい思想を持った人は、いや、それどころか、ほんのやっと何か新しい[#「新しい」に傍点]ことをいいうるだけの人でも、ごくごく少数しか生まれてきません。ふしぎなくらい少ないんです。ただ一つ明瞭なのは、これらの範疇および細目に属する人の生まれる順序が、何かある自然の法則によって、きわめて精密、的確に定められているに相違ないということです。この法則はもちろん今のところわかっていません。けれどぼくは信じます。それはかならず存在しています。やがてそのうちに明瞭になるかもしれません。で、人類の大部分、すなわち素材は、ただある努力をへて、今日まで神秘になっている何かのプロセスとか、種族の混合とかいう方法によって、ひとしきり陣痛に悩んだ後、たとい千人にひとりでも、独立|不羈《ふき》の精神をもった人間を生み出す、ただそれだけのためにこの世に存在しているのです。それよりもっと博大な精神を持った人間は、一万人にひとりくらいしか生まれてこないかもわからない(ぼくはわかりいいように概略のことをいってるんですよ)。それよりさらにさらに博大の精神の所有者は、十万人にひとりです。天才的な人間は百万人の中にひとりしか出てこないし、偉大な天才、人類の完成者は、幾百万人と流れ過ぎた後に、やっと生まれ出るか出ないかです。ひと口にいえば、こうしたものがいっさい醸《かも》されているレトルト(蒸溜器)は、ぼくものぞいて見たわけではないが、一定の法則はかならず存在している。また存在しなければならないはずです。そこには偶然などはありません」
「いったいきみらはふたりとも冗談をいい合ってるのかい?」とうとうラズーミヒンがこう叫んだ。「きみらはお互いにごまかしっこでもしてるのかい、いったい? ふたりともすわりこんで、お互いになぶりっこしてるじゃないか! ロージャ、君はまじめなのかい!」
 ラスコーリニコフは無言のまま彼のほうへ、青ざめた、ほとんどもの悲しげな顔を上げたが、なんとも答えなかった。この静かなもの悲しげな顔とならんで、ポルフィーリイの隠しても隠しきれない、ずうずうしい、いらいらした、無作法な[#「無作法な」に傍点]冷嘲《れいちょう》が、ラズーミヒンには異様に感ぜられるのであった。
「ねえ、きみ、もし実際それがまじめなら……そりゃむろん、きみのいうとおりだ、これはべつに新しいものじゃない、われわれが幾度となく読んだり、聞いたりしたものに、似たりよったりだ。しかし、その中で実際の創見[#「創見」に傍点]、まぎれもなくきみひとりにのみ属している点は、恐ろしいことだが、とにかくきみが、良心に照らして[#「良心に照らして」に傍点]血を許していることだ……失敬だが、そこには狂信的なところさえある……したがって、つまりこの点に、きみの論文の根本思想が含まれているわけだよ。ところが、この良心に照らして[#「良心に照らして」に傍点]血を許すということは、それは……それは、ぼくにいわせると、血を流してもいいという公《おおやけ》の、法律上の許可よりも恐ろしい……」
「まったくそうだ、そのほうがもっと恐ろしい」とポルフィーリイが応じた。
「いや、きみはどうかしてつり込まれたんだ! そこには考えちがいがある。ぼく読んでみよう……きみは自分でつり込まれながら書いたんだ! きみがそんなことを考えるはずがない……ぼく読んでみよう」
「論文の中にはこんなことはまるでありゃしない。あれには暗示があるだけだ」とラスコーリニコフはいった。
「そうです、そうです」ポルフィーリイはじっと座に落ちついていられない様子だった。「あなたが犯罪にたいして、どんな見解をいだいておられるか、今こそほぼ明瞭になりましたよ。しかし……どうも、はなはだうるさいようで相済みませんが(まったく、ご迷惑な話で、自分ながら気がさすくらいです!)じつはですね、さっきの範疇の混同という誤解の場合については、十分安心のできるように、説明してくださいました。しかし……それでも、わたしはまだいろいろ、実際上の場合が気になるんですよ! まあ、かりにだれかひとりの男、もしくは青年が、自分をリキュルゴスかマホメットのように妄想《もうそう》して……(未来のですよ、もちろん)さあ、やっつけろと、それにたいするいっさいの障害を、除去しはじめたらどうでしょう……たとえば、大遠征でも企てたとする、遠征には金がいる……そこで、遠征の軍資金の獲得にかかる……ねえ?」
 ふいにすみのほうで、ザミョートフが、ふっと吹き出した。が、ラスコーリニコフはそのほうをふり向いて見ようともしなかった。
「それはぼくも同意せざるをえません」と彼は落ちつきはらって答えた。「じっさい、そういう場合があるにちがいありません。ばかなやつやみえ坊などは、えてこの誘惑にかかるんです。ことに青年がね」
「ね、そうでしょう。そこで、いったいどうなんです」
「なに、どうもしませんさ」ラスコーリニコフはにやりと笑った。「それはなにも、ぼくの責任じゃありませんからね。それは現在もそうだし、将来も常にそうです。げんにあの男も(と彼はラズーミヒンをあごでしゃくった)、今しがた、ぼくが血を許すっていいましたが、そんなことがいったいなんです? 人間社会は流刑や、監獄や、予審判事や、懲役《ちょうえき》などで、十分すぎるくらい保証されてるじゃありませんか――何を心配することがあります? 遠慮なくどろぼうを捜したらいいでしょう!………」
「じゃ、もし捜し出したら?」
「当人の自業自得《じごうじとく》です」
「とにかく論理的ですね。ところで、その男の良心はどうなります?」
「そんなことは、あなたの知った話じゃないでしょう?」
「なに、ただちょっと人道的感情でね」
「良心のある人間なら、自分の過失を自覚した以上、自分で勝手に苦しむがいい。これがその男にたいする罰ですよ――懲役以外のね」
「じゃ、ほんとに天才的な人間は」眉《まゆ》をしかめながらラズーミヒンがいった。「つまりその、殺人の権利を与えられてる人間は、自分の流した血にたいしても、ぜんぜん苦しんじゃならないのかい?」
「なぜこの場合ならない[#「ならない」に傍点]なんて言葉を使うんだ? そこには許可も禁止もありゃしない。もし犠牲を不憫《ふびん》だと思ったら、勝手に苦しむがいいのさ……ぜんたいに苦悶《くもん》と悩みは、遠大な自覚と深い心情の持ち主にとって、常に必然的なものなんだ。ぼく思うに、真の偉大なる人間はこの世において、大いなる哀愁《あいしゅう》を感じなければならないのだ」と彼は急にもの思わしげな、この場の話に不似合いな調子でいいたした。
 彼は目を上げて、思い沈んだように、一同を見まわし、微笑をもらして帽子を取った。彼はさきほどはいって来た時にくらべると、あまり落ちつきすぎるくらいであった。彼自身もそれを感じていた。一同は立ちあがった。
「どうも、おしかりをうけるかどうか、お腹立ちになるかどうか知りませんが、わたしは、どうしてもがまんしきれないんです」と再びポルフィーリイは口をきった。「どうかもう一つちょっとした質問を許していただきたいのです(どうも、たいへんご迷惑をかけますがね)、じつは一つちょいとした着想を発表したかったのです、ただほんの忘れないために……」
「よろしい、あなたの着想をいってごらんなさい」ラスコーリニコフはまじめな青ざめた顔をして、待ち設けるように彼の前に立っていた。
「それはこうなんです……いや、なんといったら少しでもうまく現わせるかな……どうもその着想があまりふざけた……心理的なものなんて……じつはこうです。あなたがあの論文をお書きになったときに、まさかそんなことはないはずに決まっていますが、あなたが自分自身をですな、へ、へ! たといほんのこれっから先でも『非凡人』であり、新しい言葉[#「新しい言葉」に傍点]を発する人間だと、お考えにはならなかったでしょうか――つまりあなたのおっしゃる意味でですよ……え、そうじゃありませんか?」
「大いにそうかもしれません」とラスコーリニコフはさげすむような調子で答えた。
 ラズーミヒンは身じろぎした。
「もしそうだとすれば、あなたもそんなことを決行されはしないでしょうかね。まあいってみれば、何か生活上の失敗、窮迫《きゅうはく》のためとか、あるいは全人類にたいする貢献《こうけん》のためとか、そういったような理由で――障害を踏み越えはなさらないでしょうかね……さよう、たとえば、人を殺して盗みをするといったようなことを……」
 こういって、彼はふいにまた左の目で、彼に合図でもするように、ぽちりと一つまたたきした。そして、さっきとそっくりそのままに、声のない笑いを立てた。
「よしぼくが踏み越したとしても、もちろん、あなたになんかいわないでしょうよ」いどみかかるような傲慢《ごうまん》な軽蔑の色を浮かべながら、ラスコーリニコフはそう答えた。
「いや、これはただちょっと伺っただけなんです。つまり、あなたの論文をよくのみ込むために、ただ文学的な意味でね……」
『ふう、なんという見えすいた、ずうずうしいやり口だ!』と嫌悪《けんお》の情を感じながら、ラスコーリニコフは考えた。
「失礼ですが、お断わりしておきます」と彼はそっけない調子で答えた。「ぼくは自分をマホメットだとも、ナポレオンだとも……すべてだれにもせよ、そうした種類に属する人間だと思っていませんから、したがって、そうした人間でないぼくが、いまいわれたような場合、いかなる行動をとるかについて、ご満足のいくような説明を与えることはできかねます」
「いや、ご冗談でしょう。こんにち、わがロシヤにおいて、自分をナポレオンと思わないものがありますか?」急におそろしくなれなれしい態度で、ポルフィーリイはいった。
 その声の調子にすら、こんどはもうとくに明瞭な、あるものがひびいていた。
「先週、わがアリョーナ・イヴァーノヴナをおのでやっつけたのは、ほんとに何か未来のナポレオンとでもいったようなものじゃないかな?」と出しぬけに、すみのほうから、ザミョートフがずばりといってのけた。
 ラスコーリニコフは無言のまま、しっかり目をすえて、ポルフィーリイをみつめた。ラズーミヒンは眉をしかめて、暗い顔をしていた。彼はもうさきほどから、何かある想念に打たれていたのである。彼は腹立たしげにあたりを見まわした。暗い沈黙の一分間が過ぎた。ラスコーリニコフは身を転じて、出て行こうとした。
「もうお帰りですか!」と思いきりあいそよく彼のほうへ手をさしのべながら、優しい調子で、ポルフィーリイはいった。「お近づきになってじつに、じつに愉快です。ご依頼の件については、けっしてご心配なく。わたしがいったとおり、そのまま書いてお出しください……いや、それより直接わたしの役所へ寄ってくださるのが一ばんいい……二、三日のうちに……なんなら明日にでも。わたしは、今日、十一時ごろにはあちらへ行っております、まちがいなく。何もかもすっかり片をつけましょう……そして、お話しましょう……あなたはあすこ[#「あすこ」に傍点]へ行った最後のひとりだから、何か話してくださることもおできになるでしょうからね……」と彼はこの上もなくお人よしらしい顔つきでつけたした。
「あなたは正式にぼくを調べるつもりなんですか、すっかり道具立てをそろえて?」とラスコーリニコフは鋭く尋ねた。
「なんのために? 今のところそんな必要はありませんよ。あなたははきちがえなすったんです。もっとも、わたしは機会を逃したくないんでしてね……それでたいていの入質人とはもう会って話したんです……中には口供《こうきょう》を取ったものもあります……で、あなたも最後のひとりとして……ああ、ちょうどいいついでだ!」と彼はふいに何やらうれしそうに叫んだ。「いいところで思い出した、おれもいったいどうしたんだろう!………」と彼はラズーミヒンのほうをふり向いた。「ねえ、例のニコライのことで、きみはあのとき耳にたこのできるほど、やいやいいったっけね……なに、あれはわかってるよ、ちゃんとわかってるよ」彼はまたラスコーリニコフのほうへ向き直った。「あの男は白だ。だが、どうもしようがないから、ミーチカも調べなくちゃならなくなったんです……で、つまり用というのはこれなんですよ。要点はですね、あなたはあのとき階段を通りすがりに……失礼ですが、あなたが行かれたのは七時過ぎだったようですね!」
「七時過ぎです」ラスコーリニコフは答えたが、同時にこんなことはいわなくてもよかったのにと、すぐ不快に感じた。
「で、七時過ぎに階段をお通りになったとき、せめてあなたくらいごらんにならなかったですかね――二階のあけ放しになった部屋の中に――ね、覚えておいででしょう? ふたりの職人がいたのを――あるいは、そのうちのひとりだけでも、そこで、ペンキを塗っていたんですが、気がつきませんでしたか? これは彼らにとって、ごくごく重大なことなんですがね!………」
「ペンキ屋! いや、見ませんでした……」とラスコーリニコフは記憶をかきまわすように、ゆるゆる答えた。と同時に、自分の全力を緊張させながら、少しも早くわな[#「わな」に傍点]のあるところを看破《かんか》しなければならぬ、何か見のがしはしないかと、苦痛に心臓のしびれる思いがした。「いや、見ませんでした。それに、そんなあけっ放した部屋なんて、なんだか気がつきませんでしたよ……ああ、そうだ、四階のところで(彼はもう完全にわな[#「わな」に傍点]を看破《みやぶ》って凱歌《がいか》を奏した)――ひとりの官吏が引っ越していたのを覚えています……アリョーナ・イヴァーノヴナの向かい合わせの住まい……覚えていますよ……それならぼくはっきり覚えています……兵隊あがりの人夫が長いすみたいなものをかつぎ出して、ぼくを壁へ押しつけたんです……が、ペンキ屋は、いや、そんなものがいたような覚えはありません……それに、あけ放した部屋なんてものは、どこにもなかったようです、そうです、ありませんでした……」
「おい、きみは何をいってるんだ!」ラズーミヒンはわれにかえって、事情を考え合わせたというふうに、いきなりこう叫んだ。「だって、ペンキ屋が塗っていたのは、殺人の当日じゃないか? ところが、この男の行ったのは三日前だぜ。きみは何をきいているんだ?」
「ふう! すっかりごっちゃにしてしまった!」とポルフィーリイは額をたたいた。「いまいましい、ぼくはこの事件で頭の調子が狂ってしまったよ!」と彼は謝罪でもするように、ラスコーリニコフのほうへふり向いた。「わたしはただもう、だれかあの部屋で、七時過ぎにふたりを見たものはないかと、そればかり一生けんめいに考えてるもんだから、あなたにきいたらわかりゃしないかと、ついそんな気がしたようなわけで……すっかりごっちゃにしてしまった!」
「そんなら、もっと気をつけなくちゃだめだよ」とラズーミヒンは気むずかしげに注意した。
 最後の会話は、もう控え室でかわされたのであった。ポルフィーリイはいたってあいそよく、彼らを戸口まで見送った。ふたりは陰うつな気むずかしい顔をして通りへ出、いく足かの間、ひと言も口をきかなかった。ラスコーリニコフはほっと深く息をついた……

      6

「……ぼくは信じない! 信じられない!」すっかり度肝を抜かれてしまったラズーミヒンは、一生けんめいにラスコーリニコフの推理をくつがえそうとつとめながら、こうくりかすのであった。
 彼らは早くもバカレーエフの下宿ちかくまで来ていた。そこではプリヘーリヤとドゥーニャが、さきほどから待ちかねているのであった。ラズーミヒンは、彼らがこのこと[#「このこと」に傍点]を初めて口に出したということだけで、もうすっかりまごつき興奮してしまったので、話に夢中になって、のべつ道のまん中に立ち止まった。
「信じないがいいさ!」とラスコーリニコフは冷たい、むぞうさなうす笑いを浮かべて答えた。「きみは例によって、なんにも気がつかなかったらしいが、ぼくはひと言ひと言はかりにかけて量っていたんだよ」
「きみは疑り深いから、それではかりにかけたりなんかするんだよ……ふん……しかし、じっさいポルフィーリイの調子はかなり変だった。それはぼくも承認する。ことにあのザミョートフの畜生がさ!………きみのいうとおりだ、やつには何か臭いところがあった。しかし、なぜだろう? なぜだろう?」
「ひと晩のうちに考えを変えたのさ」
「いや、そりゃ反対だ、そりゃ反対だよ! もしやつらにそんなばかげた考えがあるのなら、それこそ全力を挙げてそれを隠してさ、自分のカルタを伏せておこうと骨折るはずだ。あとで急所をおさえるためにさ……ところが今は――あんなやりかたはずうずうしくて、不注意すぎるよ!」
「もし彼らが事実を、つまり、正真正銘《しょうしんしょうめい》の事実をつかんでいるか、あるいは、いくらかでも根拠のある嫌疑《けんぎ》を持っていたら、さらに大きな勝利を得ようという期待から。ほんとに勝負を秘密にしたかもしれないさ(もっとも、ほんとうなら、ずっと前に家宅捜索をしてるはずだ!)ところが、彼らには事実がない、一つもない――すべてが蜃気楼《しんきろう》だ、すべてどっちにでも解釈のできることばかりだ、ふわふわした観念ばかりだ――だから、やつらはいけずうずうしいやり口で、まごつかそうと、懸命になってるんだ。が、もしかすると、事実がないのに業《ごう》を煮やして、いまいましさ半分に自棄《じき》を起こしたのかもしれない。それとも何か思惑《おもわく》があるのかもわがらん……あの男はなかなか聡明らしいからね……もしかすると、知っているふりをして、ぼくを脅かそうとしたのかもしれない……そこには、きみ、またそれ相当の心理があるよ……だが、こんなことを説明するのはがけらわしい。よしてくれ!」
「まったく侮辱《ぶじょく》だ、侮辱だ! きみの気持ちはよくわかる!しかし[#「わかる!しかし」はママ]……ぼくらはもう今はっきりいいだしたんだから(とうとうはっきりいいだしたのは、じつにいいことだ、ぼくは喜んでるよ!)だから今こそ、ぼくも率直にぶちまけていうが、ぼくはずっと前から、やつらがそんな考えをいだいているのに、気がついてたんだ、ずっとこの間じゅうからね。もちろん、ほんのあるかなしの疑念で、かすかにうごめいている程度なんだがね。しかし、うごめいている程度にもせよ、いったいなぜだろう? どうしてそんな失敬な考えをおこしたんだろう! どこに、どこにそんな根拠がひそんでるんだろう? それでぼくがどんなに憤慨したか、きみにはとても想像ができないくらいだよ! いったいなんてことだ? 貧乏とヒポコンデリイに悩み抜いてる不遇な大学生が、熱に浮かされ通しの恐ろしい大病になる前日、ことによると、もう病気が始まっていたかもしれないときにさ、(いいかい!)この疑り深くって自尊心の強い、おのれの真価をわきまえている男が、もう半年も前から自分の部屋にとじこもって、だれにも会わずにいたあげく、ぼろを身につけ、底の破れたくつをはいてさ、どこの馬の骨ともしれない警官連の前に立ち、彼らの侮辱をじっとしんぼうしている。そこへ思いがけぬ借金――七等官チェバーロフに渡った期限の切れた手形を、鼻先へ突きつけられる。それに、腐ったペンキのにおい、列氏《れっし》三十度の暑さ、締めきったむんむんする空気、人ごみ、前の日にたずねたばかりの人間が殺された話――こうしたものが一時に、空腹のからだへ来たんだからね! これがどうして卒倒しないでいられるもんか! ところがこれを、これをいっさいの根拠にしようてんだからなあ! 畜生! むろん、いまいましい、そりゃぼくもよくわかる。しかしね、ロージャ、ぼくがもしきみだったら、やつらを面と向かって笑い飛ばしてやる。いや、それよりいっそ、やつらの顔へたん[#「たん」に傍点]をひっかけてやる。せいぜい粘つこいのをね。そして、四方八方へ二十くらいほおげた[#「ほおげた」に傍点]を見舞ってやらあ。それがもっとも利口だ、いつでもこの手をやるといいんだよ。ぼくならそれで片をつけてしまうなあ。きみ、なんのくそ! という気になって、元気を出してくれ! 恥ずかしいじゃないか!」
『だが、こいつ、なかなかうまく説明したぞ』とラスコーリニコフは考えた。
「なんのくそだって? だが、明日はまた尋問だぜ!」と彼は悲痛な調子でいった。「あんなやつらに弁解じみたことをいわなくちゃならんのかなあ? ぼくはきのうあの酒場で、ザミョートフなどを相手にしてみずからを卑しくしたのさえも、心外なくらいだよ……」
「畜生! ぼく、自分でポルフィーリイのところへ行ってやろう! そして、親戚として[#「親戚として」に傍点]やつの胸ぐらを押えつけて何もかもすっかりぶちまけさしてやろう! ザミョートフなんかもう……」
『やっと気がつきやがった!』と、ラスコーリニコフは考えた。
「待てよ!」とつぜん、彼の肩を押えながら、ラズーミヒンは叫んだ。「待てよ! きみはまちがったことをいったんだ! ぼくよく考えてみたが、きみはまちがったことをいってる! だって、あれがなんのトリックなもんか? きみは職人|云々《うんぬん》の質問をトリックだといってるが、よくかみ分けてみろ。もしきみがあれ[#「あれ」に傍点]をやったのなら、職人が……壁を塗っていたのを見たなんて、かりにも口をすべらすだろうか? どうしてどうして、よしんば見たにしろ、なんにも見なかった、というのがあたりまえだよ! 自分に不利なことを自白するやつが、どこにあるもんかね?」
「もしぼくがあれ[#「あれ」に傍点]をやったとすれば、きっと職人も部屋も見たというね」目に見えて嫌悪《けんお》の色を浮かべながら、いやいやそうにラスコーリニコフは答弁をつづけた。
「でも、なんだって自分に不利なことをいうんだい?」
「なぜって、みたまえ、尋問のときも何もかも一切合財《いっさいがっさい》知らぬ存ぜぬの一点ばりで押し通すのは、ただ百姓かまったく無経験な新米のすることだよ! 多少でも教養があり経験のある人間なら、かならずできるだけ、やむをえない外面的な事実を、すっかり自白しようとつとめるに相違ない。ただ別な原因をさがし出して、事実にすっかり違った意味を与え、ぜんぜん別な光に照らし出して見せるような、何かこう思いもよらぬ特性をちょっとはさみ込むのだ。ポルフィーリイも、ぼくがかならずそういう答弁のしかたをして、ほんとうらしく思わせるために見たと答えたうえ、説明の意味で何かちょっとはさむだろうと、それをあてにしてたにちがいないんだ……」
「だって、あの男はすぐその場で、二日前あそこに職人がいるわけはないから、したがって、きみはどうしても凶行のあった日の七時過ぎに、あそこにいたに相違ないと、こういいそうなはずじゃないか。つまり、つまらんことでつり出してしっぽを押えたろうよ!」
「そうなのさ、やつはつまり、それを当て込んでたのさ。ぼくがよく考える暇がなく、すこしでもまことしやかに答えようとあせって、二日前に職人のいるはずのないことを、忘れるだろうというわけさ」
「どうして、そんなことが忘れられるんだ!」
「大きにありがちなこったよ! そういうごくつまらないことで、狡猾《こうかつ》な連中が一ばんよくまごつくものさ。人間が狡猾なら狡猾なだけ、そういった小さなことで、しっぽをつかまれようとは、思いもそめないからね。ごく狡猾な人間は、つまり思いきってくだらないことで、しっぽを押えなくちゃならないんだ。ポルフィーリイは、きみの思ってるほど、まんざらのばかじゃないよ……」
「もしそうだとすりゃ、あいつは卑劣漢だ!」
 ラスコーリニコフは笑いださずにいられなかった。が、それと同時に、彼は最後の説明を試《こころ》みたとき、ああまで活気づいて乗り気になったのが、ふしぎに思われた。それまでの会話は気むずかしい嫌悪《けんお》の気持ちで、しかたなしにつづけていたのではないか。
『おれもある点では、調子に乗るんだな!』と彼は腹の中で考えた。
 しかし、それとほとんど同じ瞬間に、思いもよらぬ不安な想念に打たれたかのように、彼は急に落ちつきがなくなった。不安はしだいに増してきた。ふたりはもうバカレーエフの下宿の入口まで来ていた。
「きみひとりで行っててくれないか」と出しぬけにラスコーリニコフはいった。「ぼく、すぐ引っ返して来るから」
「どこへ行くんだ? もう来てしまったじゃないか!」
「ぼくはちょっと、ちょっと、用があるんだ……三十分たったらやって来る……ふたりにそういっといてくれないか」
「じゃ、勝手にしたまえ、ぼくもいっしょについて行くから!」
「なんだい、きみまでぼくを苦しめたいのか!」と彼はなんともいえぬ悲痛な焦燥《しょうそう》と、この上もない絶望を声にひびかせながら叫んだので、ラズーミヒンはもうあきらめてしまった。ラズーミヒンはしばらく入口の階段に立って、ラスコーリニコフが自分の横町の方角へ足早に歩いて行くのを、むずかしい顔をしてながめていた。が、ついに歯を食いしばり、こぶしを固めて、今日にもさっそくポルフィーリイのやつをレモンのようにしぼりあげてやろうと心に誓いながら、ふたりがあまり長く姿を見せないので、もうそろそろ気をもみかけているプリヘーリヤを安心させようと、階段を上って行った。
 ラスコーリニコフが自分の家までたどり着いたとき――こめかみは汗でびっしょりぬれ、息づかいはさも苦しそうであった。彼は急いで階段を昇り、あけ放しになっている自分の部屋へはいると、そのまま掛け金をかけてしまった。それから、にわかにぎょっとしたふうで、気でもちがったように、あのとき臓品《ぞうひん》をかくしておいた片すみの壁紙の穴へかけ寄って、その中へ手を突っ込み、すみずみくまぐま残りなく、折れ目までひっくりかえして調べながら、二、三分間、念入りに穴の中を探りまわした。なんにもないことを確かめてから、彼は立ちあがり、ほっと息をついた。さきほどバカレーエフの家の玄関口まで行き着いたとき、ふと心の迷いがおこったのである。ほかでもない何かの品、たとえば、鎖かカフスボタンか、あるいは、それを包んだ紙きれで老婆が手ずから上書きしたものが、あの時どうかしたはずみですべりぬけ、どこかのすき間へ落ち込んだかもしれない。そうしたら後日になって、思いがけない、いやおういわさぬ証拠となって、ふいに彼の目の前へ突き出される、そういうことがないともかぎらない。
 彼はもの思わしげなさまで、じっと立っていた。恥ずかしめられたような、半ば無意識な怪しい微笑が、そのくちびるにただよっていた。とうとう彼は帽子を取り上げ、そっと部屋を出て行った。彼の頭はこんがらかっていた。彼はもの思わしげに門の下へおりて行った。
「ほら、ちょうどその人が見えましたよ!」と高い声でこう叫ぶものがあった。
 彼は頭を上げた。
 庭番が自分のふ部屋の戸口に立って、だれやらあまり背の大きくない男に、彼をさして見せていた。それは部屋着《へやぎ》のような服にチョッキを着こみ、遠目には女のように見える、一見して町人ふうの男だった。あぶらじみた帽子をかぶった頭は下のほうへがっくりとたれ、ぜんたいの姿もなんだか背中が曲がっているような感じだった。ひねてしわのよった顔は、年が五十を越していることを示している。小さなどんよりした目は気むずかしそうにきびしく、なんだか不満らしい表情をしていた。
「なんだね?」と庭番のほうへ近寄りながら、ラスコーリニコフは尋ねた。
 町人は額ごしに横目を使って、彼をじっと注意ぶかく落ちつきはらって見つめた。それから、ゆっくりと踵《きびす》をかえして、ひと口もものをいわずに、門の中から通りへ出て行った。
「いったいどうしたんだ!」とラスコーリニコフは叫んだ。
「だれだか知りませんが、あの男があんたの名をいって、ここにこういう大学生がいるか、だれのところに下宿してるか、なんて尋ねるんですよ。そこへあんたがおりて見えたから、わたしが指で教えてやったら、さっさと行っちまうじゃありませんか。ほんになんてこった」
 庭番もやはり、いくらかけげんそうな様子だったが、大したことでもなく、またちょっと小首をひねった後、くるりと向きを変え、自分の小部屋へひっこんでしまった。
 ラスコーリニコフは、町人のあとを追ってかけ出すと、すぐにその男を見つけた。相変わらず規則正しいゆうゆうとした足どりで、じっと足もとをみつめながら、何やらしきりに考えるらしく、通りの向こう側を歩いて行く。彼はまもなく男に追いついたが、しばらくあとからついて行った。とうとうそのうちに男と並んで、横からその顔をのぞき込んだ。向こうもすぐ彼に気がついて、すばやくちらりと彼を見やったが、また目を落としてしまった。こうして、彼らはものの一分間ばかり、互いにからだを並べながら、無言のまま歩いて行った。