京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP265-P276

「あなたはぼくをおたずねになったんですね……庭番のところで?」とうとうラスコーリニコフは口をきったが、なぜかばかに小さい声だった。
 町人はなんの返事もしなければ、ふり返ろうともしない。ふたりはまた黙りこんでしまった。
「あなたはいったいどうしたというんです……人をたずねて来ながら……黙ってるなんて……いったいなんてことです?」
 ラスコーリニコフの声はとぎれがちで、言葉はどうしたものか、はっきり発音されたがらないような感じだった。
 町人もこんどは目を上げて、気味のわるい陰うつなまなざしで、じろりとラスコーリニコフを見やった。 
「人殺し!」とふいに男は、低いけれど明瞭な、しっかりした声でいった。
 ラスコーリニコフは男のそばを歩いていた。彼の足は急に恐ろしく力ぬけがし、背中がぞうっと寒くなった。心臓は一瞬間、まるでかけてあったかぎがはずれたように、いきなりどきんとした。こうしてふたりはまた百歩ばかり、まったく無言のまま並んで行った。
 町人は彼を見もしない。
「何をいうんです……何を……だれが人殺しなんです?」やっと聞きとれるほどの声で、ラスコーリニコフはつぶやいた。
「お前[#「お前」に傍点]が人殺しだ」男はいっそうはっきり句を切りながら、腹の底までしむ込む[#「しむ込む」はママ]ような声でいった。それは憎々しげな勝利の微笑を帯びているようなふうだった。そして、またしてもラスコーリニコフの真青な顔と、その死人のような目をひたとみつめた。
 ふたりはそのとき四つ角へ近づいた。町人は左手の通りへ曲がってゆくと、あとも見ずにすたすた歩きだした。ラスコーリニコフはその場にたたずんだまま、長い間そのあとを見送っていた。男は五十歩ばかり行ったころ、くるりとふり返って、身じろぎもせずに立っているラスコーリニコフをながめた。それは彼の目にも見えた。ラスコーリニコフははっきり見分けることはできなかったけれど、こんども男があの冷たい憎しみにみちた勝ち誇ったような微笑で、にやりと笑ったような気がした。
 ぐったりしたような静かな足どりで、ひざ頭をがたがたふるわせながら、まるでこごえきったようになったラスコーリニコフは、もと来たほうへ引っ返し、自分の小部屋へ昇って行った。帽子を脱いでテーブルの上に置き、十分ばかりというもの、そのそばに身じろぎもせずに立っていた。それから、力なげに長いすの上に倒れて、かすかなうめき声を立てながら、病人のようにその上へ長くなった。目は閉じられた。こうして、彼は三十分ばかりじっとしていた。
 彼は何も考えなかった。ただほんの何かの想念、というより想念の断片か、それとも幻想めいたものが、秩序《ちつじょ》も連絡もなく頭をかすめるだけであった――以前子供の時分に見たか、あるいは、どこかでたった一度会ったばかりで、とても思い出しそうになかった人たちの顔や、V教会の鐘楼や、ある料理屋の玉突き台や、玉突き台のそばにいた士官や、どこかの地階にあるたばこ店の葉巻の匂いや、居酒屋や、汚水でびしょびしょになった上に、卵のからの散らかっている、いつもほとんどまっ暗な裏|梯子《ばしご》……と、どこからか日曜日らしい鐘の音が響いてくる……こうしたものが入れ代り立ち代り、旋風のようにうず巻くのであった。中には気持ちのいいものもあって、彼はそれにすがりつこうとしたが、それらはすぐに消えてしまった。ぜんたいの感じからいうと、何かしら中のほうで彼を押しつけるようだったが、それも大したことではない。どうかすると、かえっていい気持ちだった……軽い悪寒《おかん》はまだ去らなかったけれど、これも同じようにほぼ快い感触だった。
 ふとラズーミヒンの忙しそうな足音と、その声を聞きつけたので、彼は目を閉じて、寝たふりをした。ラズーミヒンはドアをあけて、しばらく思案でもするように、しばらくしきいの上に立っていた。やがて、そっと部屋の中へひと足ふみ込んで、用心深く長いすに近づいた。ナスターシヤのささやきが聞こえた。
「さわらないどきなさい。ぐっすり寝かしといたほうがいいよ。あとで食がすすむから」
「そりゃそうだ」とラズーミヒンは答えた。
 ふたりは用心ぶかく外へ出て、ドアをしめた。また三十分ばかりたった。ラスコーリニコフは目を開いた。そして、両手を頭のうしろにかって、ふたたびあおむけに寝がえりを打った……
『あの男は何者だろう? あの地の底からわき出たような男は、いったい何者だ? どこにいて何を見たんだろう? あいつは何もかも見ていたんだ、それはもうまちがいない。それにしても、いったいあの時どこに立って、どこから見ていたんだろう? それならなぜ今になって、地の底からわいたように出て来たんだ? それに、どうして見ることができたんだろう――そんなことができるだろうか?……ふん……』ぞっとする悪感《おかん》に身をふるわせながら、ラスコーリニコフは考えつづけた。『またニコライがドアのかげで見つけたサック、これだっても[#「これだっても」はママ]ありうべきことだろうか? 証拠になる?十万分[#「なる?十万」はママ]の一ほどの小さなものでも、見落としたら最後――エジプトのピラミッドくらいの証拠になるんだ! はえが一匹飛んでいたが、あれでも見たのか! そんなことがあってたまるものか?』
 と、彼はにわかに自分が力抜けのしたことを――肉体的に力抜けのしたことを感じて、嫌悪《けんお》の念を覚えた。
『おれはこれを知ってなければならなかったのだ』と彼は苦いうす笑いをもらしながら考えた。『どうしておれは、自分自身を知っていながら、自分自身を予感して[#「予感して」に傍点]いながら、おのなどをとって、血まみれになるようなことをあえてしたのか? おれは前もって知っておかなけりゃならなかったのだ……いや、なに、おれは前もって知っていたんじゃないか!………』と彼は絶望のあまりうめくようにいった。
 ときどき彼はある想念の前に、身じろぎもせずに立ち止まった。
『いや、ああいう人間は作りがちがうんだ。すべてを許されている真の主権者[#「主権者」に傍点]は、トゥーロンを廃墟にしたり、パリで大|屠殺《とさつ》を行なったり、エジプトに大軍を置き忘れたり[#「置き忘れたり」に傍点]、モスクワ遠征に五十万の大兵を消費したり[#「消費したり」に傍点]したあげく、ヴィリノ(現在のヴィリニュス)ではいっさいをしゃれのめして平気でいる。しかも死んだ後では、みんなで彼を偶像に祭りあげるんだからなあ――してみると、すべて[#「すべて」に傍点]が許されてるんだ。いや、こうした人間のからだは肉じゃなくて、青銅でできてるらしい!』
 ある思いがけない見当ちがいの想念が、ふいに彼を笑いださせないばかりだった。
『ナポレオン、ピラミッド、ワーテルロー――それから一方には、ベッドの下に赤皮の長持を入れている、やせひょろけた、きたならしい小役人の後家《ごけ》の金貸しばばあ――ふん、いくらポルフィーリイでも、これを消化すのはたまったものじゃない!………やつらにどうして消化しきれるもんか! 美的感覚がじゃまをするからな――「ナポレオンが、ばあさんのべッドの下にはい込むだろうか!」てなわけで! ええっ、なんてくだらん!………』
 ときどき瞬間的に、彼は熱にうかされているような気がした。彼は熱病的な歓喜の気分に落ちた。
『ばばあなどはくだらない些細事《ささいじ》だ!』と彼は熱くなって、意気ごみはげしく考えた。『ばばあはあるいは過失かもしれないが、あんなものは問題じゃない! ばばあは単なる病気だったのだ! おれはすこしも早く踏み越したかったんだ……おれは人間を殺したんじゃない、主義を殺したんだ! 主義だけは殺したが、踏み越すことは踏み越せなくて、こっち側に残ってしまった……ただ殺すことだけやりおおせたんだ。いや、それさえ今になってみると、やりおおせなかったんだ……ところで主義のほうは、ラズーミヒンのばかはまたなんだって、さっき社会主義者を罵倒《ばとう》したんだろう。彼らは仕事好きな、商売に抜け目のない連中で、「人類一般の福祉《ふくし》」のために働いてるじゃないか……だがおれには生は一度与えられるだけで、二度とはやって来やしない。おれは「人類一般の福祉」を待っているのはいやだ。おれは自分で生きたいんだ、さもなければ、むしろ生きないほうがましだ。なに、おれはぼんやり「人類一般の福祉」を待ちながら、自分の目くされ金をふところに握りしめて、飢えに迫っている母のそばを素通りするのがいやなだけだったんだ。「おれは人類一般の福祉を建設するために、煉瓦《れんが》を一つ運んで行ってるんだ。だから、心の慰めを感じてるんだ」だとさ。はっは! どうしてきみらは、おれをすっぽかしたんだ? おれだって、一度きりっか生きられないんだ。おれだってやはり、生きたいんだ……ええっ、おれは美的しらみ[#「しらみ」に傍点]だ、それっきりさ』ふいに気ちがいのように笑いだして、彼はこうつけ加えた。『そうだ、おれはじっさいしらみ[#「しらみ」に傍点]だ』彼はひねくれた喜びをもってこの想念にしがみつき、それを掘り返したり、おもちゃにしたり、慰めにしながら考えつづけた。『それはもう、一つ二つの理由だけで明瞭《めいりょう》だ。第一に、今おれは自分がしらみ[#「しらみ」に傍点]だってことを考察してることだ。第二に、おれはまるひと月の間、おれのこの計画は自分の欲望や気まぐれのためでなく、りっぱな気持ちのいい目的のためだなどといって、万知万能の神を証人に引っぱり出そうとして、とんだご迷惑をかけたことだ――はっは! それから第三には、実行にあたって、できるだけの正義と、中庸《ちゅうよう》と、尺度と、数学を遵奉《じゅんぽう》しようと決心して、多くのしらみ[#「しらみ」に傍点]の中から最も無益なやつを選び出し、しかもそいつを殺してから、自分の第一歩にいるだけのものを、かっきり過不足なしに取ろうとしたことだ(残った金は、つまり遺言状によって、修道院行きというわけなんだ――はっは!)……こういうわけだから、だからおれは、まぎれもないしらみだ』と彼は歯がみしながらつけたした。『もしかすると、おれ自身のほうが殺されたしらみ[#「しらみ」に傍点]より、もっといやなけがらわしい人間かもしれない。そして殺してしまったあとで[#「あとで」に傍点]、きっとこんなことをいうだろうと、前から予感していた[#「予感していた」に傍点]んだ! ああ、じっさい、この恐ろしさに比べうるものが何かほかにあるだろうか! おお、この俗悪さ! この卑劣さ!………ああ、今のおれはよくわかった――馬上に剣をふるいながら、アラーの神これを命じたもう。服従せよ、「ふるえおののける」卑しき者ども! と呼号したかの「予言者」がよくわかる! どこか町のまん中にすーばらしーい放列をしいて、罪があろうとなかろうと、手当たりしだいにどんどんうち殺し、弁解めいたことさえいわなかった「予言者」はほんとうだ。服従せよ、ふるいおののける卑しき者ども、希望など持つな[#「希望など持つな」に傍点]、きさまらの知ったことじゃない!………これでいいんだ! おお、どんなことがあっても、どんなことがあっても、おれはばばあを許しはせんぞ!』
 髪の毛は汗でぐっしょりになり、わななくくちびるはからからにかわき、じっとすわった目は天井にそそがれていた。
『母、妹、おれはどんなにふたりを愛していたか! それなのに、どうして今はふたりが憎いのだろう? そうだ、おれはふたりが憎いのだ。生理的に憎いのだ。そばにいられるのがたまらないのだ……さっきもおれはそばへ寄って、母に接吻《せっぷん》したが、今でも覚えている……母を抱きながら、もしあのことが知れたら、などと考えるのは……それなら何もかも話してしまおうか? それはもうおれしだいなんだ……ふん!母もお[#「ふん!母も」はママ]れと同じような人間でなければならないはずだ』彼はまるで襲いかかって来る悪夢と戦うように、必死になって考えながら、そうつけたした。『ああ、今おれはあのばばあが憎くってたまらない! もしあいつが息を吹き返したら、おれはきっともう一度殺すにちがいない! かわいそうなリザヴェータ! なんだってあんなところへひょっくり出て来たんだろう! だが、ふしぎだな、なぜおれはあの女のことをほとんど考えないんだろう、まるで殺しなんかしなかったように!………リザヴェータ! ソーニャ! ふたりともつつましい目をした、つつましいかわいそうな女だ……やさしい女たち……なぜ、あの女たちは泣かないのか?……なぜ、うめかないのか?……あの女たちはすべてを与えながら……つつましい静かな目つきをしている……ソーニャ、ソーニャ! 横かな[#「横かな」はママ]ソーニャ!………』
 彼は前後不覚になってしまった。で、いつの間にどうして往来のまん中に立っているのか、覚えのないのがふしぎに感じられた。もう夕方もだいぶ遅いころだった。たそがれの色も濃くなり、満月が刻々にさえていった。けれど、空気はどうしたのか恐ろしくむし暑かった。人々は群れをなして往来を歩いている。職人や用のある連中は家々に別れて行き、その他の者はぶらぶら歩いている。石灰と、ほこりと、たまり水のにおいがする。ラスコーリニコフは心配そうな沈んだ様子で歩いた。彼は何かつもりがあって家を出たので、何かしなければならない、急がなければならない、ということだけはよく覚えていたけれど、それがなんだったか――とんと忘れてしまったのである。ふと彼は立ち止まった。通りの向こう側の歩道にひとりの男が立って、彼を手招きしているのを見つけたのである。彼は通りを横ぎり、その男のほうへ行った。と、男はふいにくるりと身をひるがえして、まるで何事もなかったように、頭をたれたまま、ふり向きもしなければ、自分で呼んだようなそぶりも見せず、ずんずん歩きだした。『おい、しっかりしろよ、ほんとにあの男が呼んだのかい?』とラスコーリニコフは考えたが、それでもあとを追い始めた。と、十歩も行かないうちに、たちまちまちその男に気づいて、ぎょっとした。それは例の部屋着《へやぎ》を着て、同じように背をまるくしたさっきの町人だった。ラスコーリニコフは少し離れてついて行った。心臓ほどきどき動悸《どうき》を打った。やがてとある横丁へ曲がった――男は相変わらずふり向こうとしない。『おれがつけて行くのを知ってるだろうか?』とラスコーリニコフは考えた。町人はある大きな門内へはいった。ラスコーリニコフは急いで門へ近づいた。そして、男がふり返りはしないか、自分を呼びはしないかと、しばらくじっと見ていた。するとはたして、男は門の下を通り抜けて、裏庭へ足を踏み入れたとき、急にくるりとふり返り、どうやらふたたび彼を手招きしたようである。ラスコーリニコフはすぐさま門の下を通り抜けたが、裏庭にはもう町人の姿が見えなかった。してみると、男はすぐとっつきの階段を上って行ったに相違ない。ラスコーリニコフはそのあとを追って行った。はたして二階ばかり上のほうで、だれかの規則正しい、ゆうゆうとした足音がまだ聞こえている。ふしぎなことには、階段はなんとなく見覚えのあるものだった! げんにもう一階の窓が見える。月の光がわびしげに神秘めかしく、ガラスを通し射し込んでいる。やがてもう二階目だ。やっ!これは[#「やっ!これ」はママ]例の職人がペンキを塗っていた部屋だ……どうしてすぐに気がつかなかったのか! 先へ行く人の足音は聞こえなくなった。『してみると、やつは立ち止まったか、どこかへ隠れたかしたんだな』ああもう三階だ。先へ行ったものだろうか? 上のほうはなんという静かさ、恐ろしいくらいだ……けれども、彼は進んで行った。彼自身の足音が彼を脅かし、不安にした。ああ、なんという暗さ! 町人はてっきり、どこかこの辺のすみに隠れたにちがいない。あっ! 例の住まいは階段へ向かったドアをすっかりあけ放してある。彼はちょっと思案して、はいって行った。控え室はまっ暗で、がらんとして人気がなく、何もかも運び出してしまったようだ、そっとつま先立ちで、彼は客間へ通って行った。部屋は一面、月の光にさえざえと照らされている。ここは何もかも元のままだった。いす、鏡、黄いろい長いす、額入りの画。大きな丸い銅紅色《どうこうしょく》をした月が、まともに窓からのぞいている。『これは月のせいでこんなに静かなんだ』とラスコーリニコフは考えた。『月は今きっとなぞをかけてるんだ』彼は立って待っていた。長いこと待っていた。月光がしんとさえればさえるほど、心臓の鼓動はいよいよ激しくなり、痛いくらいであった。どこまでもしんと静まりかえっている! ふと、木片《こっぱ》でも折ったように、一瞬間、ものの裂けるかわいた音がした。そして、あたりはふたたび死んだようになった。目をさました一匹のはえが急に勢いよく飛んだ拍子に、ガラスへぶっつかって、哀れげにぶんぶん鳴き始めた。ちょうどこの瞬間、片すみの小さい戸だなと窓との問の壁にかかっている女|外套《がいとう》らしいものが見分けられた。『どうしてあんなところに女外套があるんだろう?』と彼は考えた。『このまえ、あんなものはなかったのに……』そっと忍び寄って見ると、外套のかげにだれか隠れているらしいのに気がついた。彼は用心深く、手で外套をのけて見た。と、そこにはいすが置いてあり、そのいすの上に老婆が腰かけていた。すっかりからだを前へ折り曲げて、頭を下へたれているので、どうしても顔を見分けることができなかったけれど、それはまさしく彼女である。彼はしばらくその前に立っていた。『こわいんだな!』と彼は考えて、そっと輪からおのを抜き出し、老婆の脳天目がけて打ちおろした。一度、もう一度。が、ふしぎにも、彼女はおのの打撃にも身じろぎさえしない、まるで木で作ったもののようである。彼はぎょっとしてなおも近く身をかがめ、老婆をと見こう見しはじめた。すると老婆もいよいよ低く頭をたれた。そのとき、彼は床につくほどすっかり身をかがめて、下から彼女の顔をのぞき込んだ。のぞいてひと目みると、死人のようになってしまった。老婆は腰かけたまま笑っている――彼に聞かれまいと一生けんめいにしんぼうしながら、聞きとれないくらい静かに笑っているのだ。ふと寝室のドアがごく細目に開かれて、そこでもやはり笑ったり、ひそひそささやいたりしているような気がした。彼は狂憤の囚《とりこ》になって、力まかせに老婆の頭を打ち始めた。けれどもおのの一撃ごとに、寝室の笑い声とささやきはますます高く、はっきり聞こえてきた。そして、老婆は全身を揺すぶりながら笑うのである。彼はやにわに逃げ出そうとしたが、控え室はもう人でいっぱいだった。階段へ向かった戸口は、どこもかしこもあけ放され、階段の踊り場にも、階段にも、それから下のほうにも――人の頭がうようよつながって、みんなこちらを見ている――しかし、だれもかれもが息をひそめて、無言のまま待っているのだ!………彼は心臓が苦しくなり、足は根がはえたように動かなくなった。……彼は声を立てようとして――目をさました。
 彼は苦しげに息をついた――けれどふしぎなことには、夢が依然としてつづいているように思われた。部屋のドアはあけ放されて、しきいの上にはかつて見たことのない男が立ったまま、じっと彼を見まもっているではないか。
 ラスコーリニコフは、まだ十分目を開くまもなく、すぐにまた閉じてしまった。彼はあおむきになったまま、身じろぎもしなかった。
『これは夢のつづきかな、違うかな?』と彼は考えた。そして、ひと目だけ見ようと思って、ごくわずかだけ気づかれぬように、もう一度まつげを上げて見た。見知らぬ男はまだ元のところにたたずみ、彼のほうをうかがいつづけている。
 ふいに男は用心ぶかくしきいをまたいで、後ろ手にそろっとドアをしめテーブルへ近寄って、一分ばかり待っていた――その間ずっとラスコーリニコフから目を放さなかったので――それから静かに、音のしないように、長いすのそばのいすに腰をかけた。帽子をわきの床に置いて、両手をステッキの上に重ね、その上へあごをのせた。見うけたところ、長く待つ用意らしい。ラスコーリニコフが、しばたたくまつげを通して見分けえたかぎりでは、この男はすでに若いほうでなく、ほとんどまっ白なくらい明るい色の濃いひげをはやした、肉づきのいい男であった……
 十分ばかりたった。まだ明るくはあったが、もうそろそろ暮れに近い。部屋の中はしんかんと静まりかえっている。階段のほうからも、物音ひとつ聞こえてこなかった。ただ一匹の大きなはえが、勢いよく飛んだはずみに、窓ガラスにぶっつかっては、ぶんぶん鳴いているだけであった。とうとう、そうしているのがたまらなくなってきた。ラスコーリニコフはいきなり身を起こし、長いすの上へすわった。
「さあ、いってください、いったいなんのご用なんです?」
「いや、わたしもあなたが眠っていらっしゃるのじゃなく、ただ寝たふりをしていられるのを、ちゃんと、知っていましたよ」と見知らぬ男は落ちつきはらって笑いながら、奇妙な調子で答えた。「自己紹介をお許しください、わたしはアルカージイ・イヴァーヌイチ・スヴィドリガイロフですよ……」

第四編

     1

『いったいこれは夢のつづきだろうか?』もう一度ラスコーリニコフの頭にこんな考えが浮かんだ。
 用心ぶかい信じかねるような目つきで、彼はこの思いがけない客に見入った。
「スヴィドリガイロフ? 何をばかばかしい! そんなことがあってたまるものか!」彼はとうとう、いぶかしさに堪えかね、声に出してこういった。
 客はこの叫び声にも、いっこう驚いた様子はなかった。
「わたしは、二つの理由があっておたずねしたのです。第一には、もうよほど前からあなたのことを、あなたにとってきわめて有利な方面から、いろいろ聞かされていたので、親しくお近づきになりたいと思ったわけです。第二には、お妹さんのアグドーチヤ・ロマーノヴナに直接利害関係のある一つのことについて、あるいは、あなたも援助をこばみはなさらんかもしれないと、こんな空想を持っているからです。わたしがひとりで紹介もなしに行ったら、お妹さんはある先入観のために、庭先へも入れてくださらないかもしれません。ところが、あなたのお口添えがあれば、その反対に……とこう目算しましてね……」
「それは目算ちがいですよ」とラスコーリニコフはさえぎった。
「ちょっと伺いますが、おふたりはついきのうお着きになったばかりでしょうな?」
 ラスコーリニコフは答えなかった。
「きのうです、知っていますよ。わたしもじつはおととい着いたばかりなんで。そこで、ね。ロジオン・ロマーヌイチ、あの件については、あなたにこう申しあげようと思うのです。弁解は無用だとは思いますが、これだけのことはいわしてもらいます。いったいあのことについては、あの一件については、まったくのところ、わたしのほうに、それほど犯罪めいたものがあるでしょうか? 偏見を抜きにして、良識で判断してですな?」
 ラスコーリニコフは無言のまま、いつまでも彼をじろじろ見まわしていた。
「自分の家で頼りない娘を追っかけまわして、『けがらわしい申し出でその娘を恥ずかしめた』ということですか――そうですか?(どうも自分のほうから先きまわりしますな!)――しかしわたしだって人間です。そしてet nihil humanum(すべて人間的なものには無関心でない)……ひと口にいえば、わたしも人並みに誘惑を感じて、ほれることもできるんです。それをまず考えてください。そうすれば、すべてきわめて自然に解釈がついてしまいます。いっさいの問題は、わたしが悪人か、それともあべこべに犠牲なのか? という点にあるんですよ。犠牲とはどういうわけか? ほかでもありません。あの時アメリカか、スイスへでもかけおちしようといいだしたとき、わたしはこの上もない敬虔《けいけん》な感情を持っていたのかもしれませんよ。そればかりか、双方の幸福を築こうと考えていたのかもわかりませんぜ! なにしろ理性ってものは、情欲に奉仕するものなんですからね。ことによったら、わたしのほうがよけいに自分の身を破滅さしたのかもしれませんぜ。ほんとに冗談じゃない……」
「いや、問題はまるでそんなことじゃありませんよ」と嫌悪《けんお》の表情でラスコーリニコフはさえぎった。「ぼくはただもうあなたがいやでたまらないんです。あなたがほんとうだろうと、まちがっていようと、お近づきになるのもいやなんです。さ、こうして追い立ててるんだから、帰ったらいいでしょう!……」
 スヴィドリガイロフはふいに、大きな声でからからと笑った。
「どうも、あなたはなかなか……あなたはなかなかごまかしがきかない!」思いきりあけっ放しな笑いかたをしながら、彼はそういった。「わたしは細工でものにしようと思ったんだが、あなたはすっかりほんとうの足場に立っておしまいになった!」
「ところが、今そういいながら、あなたはまだ小細工をつづけている」
「それがどうしたんです? それがどうしたんです?」とスヴィドリガイロフはあけすけに笑いながらくりかえした。
「だって、これはいわゆるbonne guerre(正々堂々たる戦い)で、りっぱに許さるべき小細工ですからね!………しかし、何にしても、あなたは話の腰を折っておしまいなすった。で、もう一度念を押しますが、例の庭先の一件さえなかったら、なんにも不快なことはなかったんですよ。マルファ・ペトローヴナが……」
「そのマルファ・ペトローヴナだって、やはりあなたがなぐり殺したそうじゃありませんか?」とラスコーリニコフは無作法に口を入れた。
「あなたもそのお話をお聞きでしたか? もっとも、お耳に入らずにゃいないわけですなあ……さて、このご質問にたいしては、まったくなんと申しあげたらいいかわかりませんよ。もっとも、自分の良心はこの点にかけては、しごく平静なものですがね。といって、このことでわたしが何か心配していたように、思ってくだすっちゃ困りますよ。あれはごくごくあたりまえな、正確無比な状態の下に起こったことなんですからな。検死の警察医も、酒をほとんど一びんもやっつけて、飯をたらふく食って、すぐ水にはいったために起こった卒中だ、とこう診断しましたよ。それに、ほかの原因なんか、けっして出て来るはずがないんですからね……いやね、それよりわたしは、しばらくの間、ことにこんど汽車に乗って来る途中、こういうことを考えたんですよ。自分はあの……不幸を、何かのはずみで間接に招来したのじゃないか?何か精[#「いか?何か」はママ]神的刺激とか、そんなふうの原因でね。ところが、わたしは自分で結論しましたよ、それさえ断じてあろうはずがないって」
 ラスコーリニコフは笑いだした。
「そんなに心配するなんて、いいもの好きですね!」
「いったい何をお笑いになるんです? まあ考えてもみてください。わたしは前後を通じてたった二度、むちでぶったきりですよ。しかも、あとさえつかないくらいなんで……どうか、わたしを恥しらずだなどと思わないでください。わたしだって、あれが陋劣《ろうれつ》千万なことだくらい、百も承知していますよ。が、それと同時に、マルファがわたしのこと、なんといいますか、前後を忘れた行為を、むしろ喜んでいたらしいのも、わたしは確かに知っております。あなたの妹さんにかんする物語も、すっかりかす[#「かす」に傍点]も残らないほどおさらいしてしまった。で、妻はもう三日も家にくすぶっていなけりゃならなかったんです。なにしろ町へ持って行く材料もなくなったし、手紙の朗読も(手紙を読み歩いたことはお聞きになったでしょう!)町の人に飽かれてしまったんでね。そこへふいに、この二つのむちが、まるで天の贈り物のように、降って来たわけなんですよ! で、あれはまず第一番に、馬車の支度をいいつけました!………わたしはもう今さららしく申しませんが、女ってものは、たとえどんなにおこった顔をしていても、侮辱されるのが非常に、非常にいい気持ちだ、といったような場合があるものです。もっともそれは、そうした場合は、だれにでもありますがね。概して人間は、侮辱されることが大好きなんですよ。これにお気がつきましたか? しかし、女はこれがかくべつなんです。それどころか、ただそれだけを楽しみに過ごしてる、といってもいいくらいですからね」
 一時ラスコーリニコフは、立ちあがって部屋を出てしまい、それでこの会見を打ち切ろうかと、ちょっと考えてみたけれど、多少の好奇心と一種の打算ともいうべきものが、ほんの一瞬彼を引き止めた。
「あなたはけんかがお好きですか?」と彼はぼんやりした調子で問いかけた。
「いや、大して」とスヴィドリガイロフは落ちつきはらって答えた。「マルファとだってほとんど一度も、つかみ合いなんかしたことはありませんよ。わたしどもはごくむつまじく暮らしていて、あれはいつもわたしに満足していました。わたしがむちなど使ったのは、七年の結婚生活のあいだ、あとにもさきにもたった二度きりです。もっとも、どうにでも意味の取れる第一節の場合を別にしてね。初めての時は、結婚後ふた月して、田舎へ引っ込む早々でした。それからこんどの最近の場合ですな。あなたは定めてわたしのことをひどい悪党で、時代逆行者で、農奴搾取《のうどさくしゅ》者だと思っておられたでしょうな? へ、へ……ときに、ロジオン・ロマーヌイチ、一つ思い出していただきましょう。五、六年前まだあのありがたい言論自由時代(農奴解放前後の風潮をさすにひとりの貴族が――名を忘れましたが――新聞や雑誌でさんざんたたかれたことがあります。先生、汽車の中でドイツ女をむちで引っぱたいたというわけなんです、覚えておいでですか? その時分もう一つ、やっぱりその年のことですが、『ヴェーク[#「ヴェーク」に傍点]の醜悪な行為』が起こったのです(ね、そら、『エジプトの夜』(プーシキン作)の公開朗読、覚えておいでですか? 黒き目よ! おお、わが青春の黄金の時よ、汝《なれ》は今いずくにかある! ね)。さて、わたしの意見はこうです。そのドイツ女を引っぱたいた先生には、あまり深く同情しません。なぜって、じっさいそれは……なにも同情することなんかないからです! しかし、にもかかわらず、わたしはこう声明せずにいられません。どうかすると、どんな進歩主義の人でも絶対に紳士的な態度で終始一貫しうると、自分で自分に保証しかねるような、そうした挑発《ちょうはつ》的な『ドイツ女』どもが、この世の中には、いるもんですよ。その当時は、だれひとりとしてこの見地から、事件を見る人はなかったのですが、そのじつ、この見地こそ、真の人道的見地だったのです。いや、まったくですよ!」
 こういって、スヴィドリガイロフはまた出しぬけに笑いだした。ラスコーリニコフの目にはもう疑う余地もなかった。この男は何か堅く決心して、胸に一物ある男に相違ない。
「あなたはきっと五、六日の間ぶっ通しに、だれとも口をきかずにいたんでしょう?」と彼は尋ねた。
「まあそうですね。それがどうしたんです。わたしがこんな調子のいい人間なので、あなたはきっとびっくりなすったんでしょう?」
「いや、あなたがあまり調子よすぎるのに、驚いてるんです」
「つまり、あなたの無作法な質問に腹を立てなかったからですか? そうなんですか? しかし……なにも腹を立てることはありませんからね。あなたがお尋ねになったとおりに、こちらも返事をしているんで……」ふしぎなほど素朴《そぼく》な表情をして、彼はこういいたした。「じつのところ、わたしはなんにも、これという興味を持たない男なんですよ、じっさい」彼はなんとなくもの思わしげな調子で、言葉をつづけた。「ことに今はそれこそ、なあんにもしていない……もっともあなたとしては、何か当てがあって取り入ろうとしているのだ、とそうお思いになってもむりじゃありません。ことにあなたの妹さんに用があるなどと、自分で明言したんですからね。しかし、露骨にいってしまいますが、わたしは非常に退くつなんです! とくにこの三日というものはね。だから、あなたに会ったのがうれしくてたまらないくらいなんですよ……悪く思ってもらっちゃ困りますがね、ロジオン・ロマーヌイチ、あなただって、わたしの目には、なぜかどうも恐ろしく妙な人のように見えますよ。なんとおっしゃっても、どうもあなたには何かあるようだ。ことに今ね――といって、今のこの瞬間をいうのじゃありません、ぜんたいにこのごろ……いや、いや、もういいません、もういいません、そんなに顔をしかめないでください! これでもわたしだって、あなたの思っておられるような、そんな熊じゃありませんからね」
 ラスコーリニコフは陰うつな表情で彼を見つめた。
「それどころか、あなたはまるで熊じゃないかもしれませんよ」と彼はいった。「ぼくの見たところでは、あなたは上流社会の人か、少なくとも場合によっては、りっぱな紳士になれる人です」
「いや、なに、わたしはべつだんだれの評価にも興味を持っちゃいないんですよ」そっけない、いくらか傲慢《ごうまん》な影を帯びた調子で、スヴィドリガイロフは答えた。「だから、時には俗物になったって、いいわけじゃありませんか。だって、この俗物という着物が、わが国の気候では着ごこちがいいし、それに……自分でもそれにたいして、生来の傾向を持っているとすればね」と彼はまた笑いながらいいたした。
「でも、ぼくの聞いたところでは、きみはここに大ぜい知人を持っておられるそうじゃありませんか。いわゆる『相当縁故や伝手《つて》のある』ほうじゃありませんか。だとすると、いったいどうして、なんの当てもないなんていわれます?」
「それはおっしゃるとおりです。知己《ちき》はあります」とかんじんな点には答えないで、スヴィドリガイロフは引き取った。「もうちょくちょく出会いましたよ。もうこれで、三日ぶらつき歩いていますからね。で、こっちも気がつけば、先方でもこっちに気がつく様子です。そりゃあもちろん、わたしも身なりはきちんとしていますし、全体に貧乏なほうじゃありません。だって、農奴解放《のうどかいほう》もわたしのほうには大したこともなくてすんだんですからね。森林や河沿いの草場などがおもで、収入は少しも減らなかったわけなんです。しかし……わたしはそんな連中のとこへは行きません。前からもうあきあきしていましたからね。これでもう三日も出歩いていますが、だれにも声をかけないくらいですよ……それにまたこの町! まあ、いったいどうして、こんなものがロシヤにできたんでしょうなあ、あきれたもんじゃありませんか! 役人どもとあらゆる種類の神学生の町ですからなあ! もっとも、八年ばかり前に、ここでぶらぶらしていた時分には、ずいぶんいろいろ気のつかないこともありましたがね……ただ一つ解剖学《かいぼうがく》にだけは、今でも望みを嘱《しょく》していますよ、まったく!」
「解剖学って?」
「が、いろんなクラブだとか、デュッソーだとか、諸君の好きなトーダンス(つま先舞踏)だとか、それからまあ、プログレス(進歩)というやつも加えていいでしょう――まあ、こんなものはわれわれがいなくたって、勝手に存続させたらいいでしょうよ」彼はまたもや質問を無視して、こう言葉をつづけた。「それに、いかさまカルタ師になるのも、ぞっとしませんからね!」
「あなたは、いかさまカルタ師までやったんですか?」
「どうしてそれをせずにいられます? 八年ほど前、われわれはこの上もないりっぱな仲間を作って、時を過ごしていたもんですよ。それがね、みんな態度や押出しの堂々たる人間ばかりで、詩人もいれば、資本家もいるという有様でした。それに全体わがロシヤの社会では、最も洗練された態度や作法は、ちょいちょいなぐられたことのある連中に属しているものなんですよ――あなたそれにはお気がつきましたかね?