京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP337-P360

え、今まで押えていた声がりんりんと響きだした。
「許すわけにいきません!」と彼は出しぬけに叫ぶと、力いっぱい拳《こぶし》で机をたたきつけた。「あなた聞こえますか、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ? 許すわけにいきません!」
「こりゃどうも、あなたはまた何をおっしゃる!」すっかりおびえあがった様子で、ポルフィーリイは叫んだ。「あなた、ロジオン・ロマーヌイチ! え! しっかりなさい! いったいどうなすったんです?」
「許すわけにいきません!」とラスコーリニコフはもう一度叫ぼうとした。
「あなた、もう少し静かに! 人が聞きつけて、やって来るじゃありませんか! そうしたらなんといいます、考えてもごらんなさい!」ポルフィーリイは自分の顔をラスコーリニコフの顔のすぐそばへすり寄せながら、さも恐ろしそうにささやいた。
「許すわけにいきません、許すわけに!」ラスコーリニコフ機械的にくりかえしたがい急にこれもまったくのひそひそ声になってしまった。
 ポルフィーリイはすばやく身をひるがえして、窓をあけにかけ出した。
「新しい空気を入れなくっちゃ! そして、あなた、水でも少しあがるといい。なにしろ、これは発作《ほっさ》ですからね!」
 こういって、彼は水をいいつけに戸口のほうへ飛んで行こうとしたが。おりよくすぐそこの片すみに、水のはいったびんがあった。
「さあ、お飲みなさい」びんを持ってラスコーリニコフのそばへ飛んで来ながら、彼はささやくようにいった。「ちっとはよくなるかもしれません……」
 ポルフィーリイの驚愕《きょうがく》と介抱《かいほう》ぶりがあまり自然らしかったので、ラスコーリニコフは思わず口をつぐんで、はげしい好奇の表情で彼をじろじろ見まわした。もっとも、水は受け取らなかった。
「ロジオン・ロマーヌイチ! ねえ! ほんとにそんなふうにしていらっしゃると、自分で自分を気ちがいにしておしまいになりますよ、ほんとに、ええっ! ああっ! お飲みなさい! ね、少しでもいいからお飲みなさい!」
 彼はむりやりに水のはいったコップを彼の手に持たせた。こちらは機械的にそれをくちびるまで持って行ったが、ふと気がついて、嫌悪《けんお》の表情を浮かべながら、机の上においた。
「そうです、あれは発作《ほっさ》だったんですよ! そんなことをしていると、あなた、また以前の病気をぶりかえしてしまいますよ」とポルフィーリイは親身の同情を帯びた調子で、例の雌鶏《めんどり》がなくような声をたて始めたが、しかし、まだなんとなく、とほうにくれたような顔つきをしていた。「ああ! あなたはなぜそう自分のからだを、たいせつになさらないんです? 昨日もラズーミヒンがやって来ましてね――もっともわたしの性分《しょうぶん》が皮肉でよくないってことは、自分でも異存ありませんさ。異存ありません。しかし、あの連中はそれからどんな結論を引き出したと思います!………ああ、やりきれない! あの男、昨日あなたの帰られたあとでやって来て、いっしょに食事をしましたが、先生しゃべるわしゃべるわ。わたしはただ両手をひろげて、あきれかえるばかりでしたよ!やれ[#「たよ!やれ」はママ]やれまあまあ……と思いましてね! いったいあの男は、あなたの使者で来たんですか? まあ、あなた、おかけなさい、ちょっと腰をおろしてください。お願いですから!」
「いや、ぼくの使者じゃありません! だが、あの男がお宅へ伺ったことも、なんのために伺ったかということも、ちゃんと知っていました」とラスコーリニコフはきっぱりと答えた。
「知っておられたんですって?」
「知っていました。で、それがどうしたというんです?」
「ほかでもありません、ロジオン・ロマーヌイチ。わたしはあなたの御偉業は、まだこれどころじゃない、大したものを知っておりますよ。何もかも承知しております! もう日が暮れて夜近いころに、あなたが貸し間をさがしに[#「貸し間をさがしに」に傍点]おでかけになって、ベルを鳴らしたり、血のことをきいたりして、職人や庭番どもを煙に巻かれたことまで、ちゃんと知ってるんですからね。そりゃその時のあなたの精神状態は、わたしだってわかっております……が、それにしても、あんなことをしていたら、それこそ自分で自分を気ちがいにしておしまいになりますよ、まったくのところ! 頭がぐらぐらしてきますよ! あなたの内部にはさまざまな侮辱――第一には運命から、次には警察の連中から受けた侮辱のために、高潔な憤懣《ふんまん》が激しくわき立ったので、そのためにあなたはなんですな、少しも早く皆に口を開かせて、それでもって、一時にすっかり片をつけてしまおうというので、あちこちもがきまわっておられるんでしょう。つまり、あんな愚にもつかない想像や、ああした嫌疑が、いやでいやでたまらなくなったんですな。え、そうでしょう? あなたの気持ちをうまくいい当てたでしょう?………そんなふうにしておられると、あなたは自分ひとりだけじゃない、ラズーミヒンまで逆上させてしまいますよ。あの男はそんな役まわりにはあまり善人[#「善人」に傍点]すぎますからね。ご自分だって承知しておいででしょう。あなたのは病気で、あの男のは友情だが、しかし、病気ってやつは感染《かんせん》しやすいものですからな……いや、今にあなたの気分が落ちついたら、わたしがよくお話しますよ……まず、ともかくおかけなさい、ね、お願いですから! どうか少し休んでください、まるで顔の色ったらありませんよ。さ、少しおかけなさい」
 ラスコーリニコフは腰をおろした、戦慄《せんりつ》はしだいにおさまり、からだじゅうが一面に、ぽっぽっとしてきた。深い驚参に打たれながら、彼は注意を緊張させて、びっくりしたようにまめまめしく世話をやくポルフィーリイの言葉に、じっと耳を傾けていた。けれども彼は、信じたいと思う一種のふしぎな要求を感じながら、そのひと言もほんとうにしなかった。貸し間さがし云々《うんうん》という、ポルフィーリイの思いもよらぬ言葉は、根底から彼に激しいショックを与えた。『これはいったいどうしたことだ? してみると、あすこへ行ったのを知ってやがるんだな』という考えがふいに浮かんだ。『しかも、自分のほうからおれにしゃべるなんて!』
「さよう、ちょうどそれと同じような心理的事件が、われわれの扱った裁判事件の中にありましたよ。そういう病的な事件がね」とポルフィーリイは早口につづけた。「やはりある男が自分で自分に殺人罪を塗りつけてしまったんですが、しかもその妄想《もうそう》の程度がひどいんですよ。自分の見た幻覚《げんかく》を引っぱり出して、事実を具陳《ぐちん》する、その場の状況を詳述《しょうじゅつ》するというふうで、みんなだれもかれも、ことごとく煙に巻かれてしまっている、とまあどうでしょう! その男はまったく偶然に意識せずして、多少殺人の原因になったとはいうものの、まったく多少という程度にすぎないんです。ところがその男は、自分が殺人の導因を与えたと知ってから、急にくよくよしだし、頭の調子が変になり、いろんな妄想に悩まされだして、すっかり気ちがいみたいになってしまいましてね、あげくのはてに、自分を犯人と思いこんだわけなのです! しかし、けっきょく大審院が事件を明瞭《めいりょう》に審理したので、不幸な男はやっと無罪を証明されて、監視つき釈放ということになりました。これなんか、ひとえに大審院の功によるものですな! いやはや、どうも驚くべきことじゃありませんか! だから、あなた、そんなふうにしてると、どんなことになるかわかりゃしませんよ。夜中にベルを鳴らしに行ったり、血のことを尋ねたりして、自分で自分の神経をいらいらさせたがる傾向が現われだしたら、脳炎くらい引き起こすのは、ぞうさもないことでさあ! だってこうした心理は、わたしが経験によって研究したんですからね。こういうふうなことがこうじると、場合によっては、窓や鐘楼《しょうろう》からでも飛びおりたくなってきますよ。そういった感覚は魅惑の強いものですからな。ベルのことだって同じ理くつですて……病気ですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、病気ですとも! あなたは自分の病気をあまり軽視しておられますよ。いかがです。経験のある医者におみせになったら? だって、あなたのかかりつけの太っちょ、ありゃいったいなんです!………あなたは熱に浮かされてるんですよ! あんなことはみな熱に浮かされて、夢中でやっておられるんですよ!………」
 一瞬間、ラスコーリニコフの周囲のものが、ぐるぐるとまわりだした。
『いったい、いったい今もこの男はうそをついているんだろうか?』という想念が彼の頭にひらめいた。『それはありえない、ありえないことだ!』と彼はこの想念を追いのけるようにした。彼はこの想念が自分をいかなる狂憤におとしいれるかわからない、またそうした狂憤の結果、発狂さえしかねないということを、あらかじめ感じたからである。
「あれは熱に浮かされてしたのじゃありません、あれは正気だったのです!」ポルフィーリイの戦術を見抜こうと、あらんかぎりの理知の力を緊張させながら、彼はそう叫んだ。「正気だったのです、正気だったのです! おわかりですか?」
「いや、わかっていますよ、聞いていますよ! あなたは昨日も、熱に浮かされちゃいないとおっしゃって、なんだか特別それを強調なすった! あなたのいわれそうなことは、みなよくわかっていますよ! ええ、どうしてどうして!………しかし、ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、一つこれだけでも聞いてください。もしかりにあなたが、事実、ほんとうに罪があるとか、あるいは、あのいまわしい事件になんらかの関係があるとすれば、ね、あなたは何もかも夢中でやったのじゃない、完全に意識してやったのだなんて、冗談じゃない、そんなことを自分でいいはったりなさるでしょうか? しかも、かくべつそれを強調する、強情なくらいに強調する、ねえ、いったいそんなはずがあるでしょうか? ねえ、まったく、そんな理くつってあるものでしょうか、考えてもごらんなさい! わたしにいわせると、ぜんぜんその反対です。だって、もしあなたに何か後ろめたいことがあれば、あなたはどうしたって、『たしかに夢中だった!』と主張なさらなけりゃならんはずです。そうじゃありませんか? ね、そうでしょう?」
 この問いの中には、何かしら、狡猾な感じのするものが響いていた。ラスコーリニコフは、かがみ込んで来るポルフィーリイを避けて、長いすの背へ身をもたせた。そして無言のまま思いまどうように、じいっと相手を見つめていた。
「それからまた、あのラズーミヒン君のことにしてもそうです。つまり、あの男が昨日、わたしのところへ話しに来たのは、自分の意志から出たことか、それともあなたの使嗾《しそう》によるものか? という問題ですな。あなたの立場にあったら、あれは自分の意志で来たのだと答えて、あなたの使嗾によるものだということは、隠さなくちゃならんはずです! ところが、あなたはお隠しにならないんですからな! それどころか、自分の使嗾によるのだと主張なさる!」
 ラスコーリニコフは、けっしてそんなことを主張した覚えがなかった。悪寒《おかん》が彼の背筋を走って通った。
「あなたはうそばかりついていらっしゃる」彼は病的な微笑にくちびるをゆがめながら、弱々しい声でのろのろといった。「あなたはまたしても、ぼくの戦術をすっかり見抜いている、ぼくの答えを全部あらかじめ承知している、というような顔がして見せたいんですね」自分でももう言葉の選択にたいして、当然の注意をはらっていないと感じながら、彼はこういってしまった。「あなたはぼくをおどかそうとしていらっしゃるんです……でなけりゃ、ただもうぼくを愚弄《ぐろう》していらっしゃるんだ……」
 彼はそういいながら、いつまでもひた押しに相手をじっと見つめていた。と、ふいにまた限りなき憎悪が彼の目にひらめいた。
「あなたはうそばっかりいってるんです!」と彼は叫んだ。「あなたは自分でもよく知っていらっしゃるでしょう――犯人にとって一ばんいいごまかしの方法は、隠さないでもいいことは、できるだけありのままをいうことなんです……できるだけ。ぼくはあなたを信用しない!」
「あなたは、なんというひねくれ者だ!」ポルフィーリイはひひひと笑った。「あなたにゃ手こずってしまいますよ。どうもあなたには何か偏執狂みたいなところがありますな。じゃ、わたしを信用しないとおっしゃるんですね? ところが、わたしはこういいますよ――あなたはもう信用していらっしゃる、四分の一アルシン(七一・一二センチ)くらい信用していらっしゃるんです。しかも、わたしは一アルシンぜんぶ信用させて見せますよ。だって、わたしは誠心誠意あなたを愛し、心《しん》からあなたのためよかれと願ってるんですからね」
 ラスコーリニコフのくちびるはわなわなとふるえだした。
「そうです、願ってるんです。ですから、はっきりいいますがね」ラスコーリニコフの手をひじの上のところで、さも親しげにかるく握って、彼は言葉をつづけた。「はっきりいいますがね、あなた病気に注意なさい。おまけに、今あなたのところへ、家族のかたが見えてるんですから、その人たちのことも少しお考えにならなくちゃ。あなたはその人たちを安心させて、いたわってあげなきゃならないのに、びっくりさせてばかりいらっしゃるんだからなあ……」
「それがあなたになんの関係があるんです? どうしてあなたは、それをごぞんじなんです? なんのためにそんなことに興味をお持ちになるんです? してみると、あなたはぼくを監視しておられるんだな。そしてそれを見せつけようとしてらっしゃるんだ!」
「とんでもない! それはみんなあなたから、あなた自身から聞いたことじゃありませんか! あなたは興奮のあまりご自分で、わたしやほかの人たちに、先走りしてお話しなすったのにお気がつかないんですね。ラズーミヒン君――ドミートリイ・プロコーフィチからも、昨日いろいろ興味のある詳細な話を聞きましたよ。いや、あなたはわたしの話の腰をお折りになった。で、つづけていいますがね、あなたはその猜疑《さいぎ》心のために、鋭い機知を持ちながら、事物にたいする健全な判断力までなくしてしまわれたのです。まあ、たとえば、また同じ題目になりますが、あのベルのことだってそうです。あんな貴重な材料を、あんな大きな事実を(まったく大した事実ですよ!)わたしは何もかもそっくり、あなたにぶちまけてしまったじゃありませんか。予審判事のわたしがですよ! ところが、あなたはそれになんの意味も認めていらっしゃらんでしょう? ねえ、もしわたしがほんのちょっとでもあなたを疑っていたら、こんなことをしていいものでしょうか? どうしてそれどころか、まずはじめあなたの疑念をねむらせておいて、わたしがすでにこの事実を知ってるということは、おくびにも出さないようにすべきはずです。あなたの注意をまるで別なほうへそらしておいて、ふいにおので脳天へみね打ちをくわせ(あなたの表現法をかりればですね)、それから、矢つぎばやに『いったいあなたは晩の十時、いやもうかれこれ十一時に近い刻限に、殺人のあった住まいで何をしましたか? なんのためにベルを鳴らしましたか?なんの[#「たか?なん」はママ]ために血のことを尋ねましたか? なんのために庭番どもに変なことをいって、警察ヘ――副署長のところへ行けなどと勧《すす》めましたか』ときく。まあさしずめ、こんなぐあいにやるべきはずなんです。もしわたしがつめの垢《あか》ほどでもあなたを疑ってたらね。それからすっかり正式に口供《こうきょう》をとって、家宅捜索をやるばかりか、しだいによっては、あなたを逮捕さえしなくちゃならないかもしれません……してみると、そういう態度に出ない以上、わたしはあなたにたいしてなんの嫌疑もいだいていないわけです! ところが、あなたは健全な判断力を失っておられるもんだから、くりかえして申しますが、何ひとつお見えにならないんです」
 ラスコーリニコフはぴくりと全身をふるわせたので、ポルフィーリイは明瞭すぎるほど明瞭にそれを見てとった。
「あなたはやはりうそをいってるんです!」と彼は叫んだ。「あなたのねらってることは、何かわからないけれど、あなたはうそばかりついてるんです……さっきあなたがいわれたのは、そんな意味じゃなかった。ぼく誤解なんかするはずがない……あなたはうそをついているんです!」
「わたしがうそをついてる?」と、ポルフィーリイはかっとしたらしく、言葉じりを押えたが、例の愉快らしい嘲笑的な表情を保ったまま、ラスコーリニコフが自分のことをどう思っていようと、少しも気にしていないらしい様子だった。「わたしがうそをついてるんですって?……では、さっきわたしはあなたにたいして、どんな行動をとりました(わたしがですよ、予審判事がですよ)。わたしは自分のほうからあなたに、ありったけの弁護法を暗示したり、ぶちまけたりしたじゃありませんか。いわく『病気、熱病の発作、極度の侮辱、ヒポコンデリイ、警察の連中』などといったような心理描写まで、自分の口から拾い上げたじゃありませんか? え? へ、へ、へ! もっともそれは――ついでに申しあげておきますがね――すべてそうした心理的弁護法や口実や言い抜けなどは、きわめて効力のないもので、どうにでもとれるやつなんですよ。『病気、熱病の発作、うわ言、幻覚だ、覚えていない』これはみな、じっさいそうに違いないが、しかし、その病気のとき、うわ言の間に、いつも決まってそういう幻覚ばかり見えて、なぜほかのことが現われなかったのでしょう? ほかのことだって幻に現われていいはずじゃありませんか? そうでしょう? へ、へ、へ、へ!」。
 ラスコーリニコフは、傲然と、いやしむように相手を見やった。
「ひと口にいえば」彼は立ちあがりながら、その拍子にポルフィーリイを少しばかり突きのけ、どこまでも主張するような調子で声高くいった。「ひと口にいえば、あなたはぼくを絶対に嫌疑の余地のないものと思っていらっしゃるのか、あるいはそうでない[#「そうでない」に傍点]のか、それをぼくは知りたいんです。どうか聞かしてください。ポルフィーリイ・ペトローヴィチ、はっきりと決定的に言明してください、さあ早く、今、すぐ!」
「いやはや、こりゃどうもやっかい千万な! やれやれ、あなたを相手にするのは、じつにやっかいですなあ」と、ポルフィーリイは愉快らしい、狡猾《こうかつ》な、いささかも心配そうにない顔つきで叫んだ。「それに、あなたがそんなことを知ってなんになるんです、まだあなたにご迷惑をかけようともしない先から!なんの[#「から!なん」はママ]ためにそういろんなことを知ろうとなさるんです。まったくあなたは子供っぽいですな。手の中へ火を入れてくれ、早く入れてくれとねだってる形ですものね!それに、あなたはなぜそう心配なさるんです? どうしてそう自分のほうから押しつけがましくおっしゃるんです、なんの理由で? え? へ、へ、へ!」
「くりかえしていいますが」とラスコーリニコフは狂暴な勢いで叫んだ。「ぼくはもうこの上がまんができません!」
「何がです? 未知の不安というやつがですか!」とポルフィーリイはさえぎった。
「毒舌をたたくのは、よしてください! ぼくはもういやだ!………もういやだといってるんですよ!………がまんができない、いやです!………わかりましたか! わかりましたか!」また拳《こぶし》でテーブルをどんとなぐりつけ、彼は大喝《だいかつ》した。
「まあ静かに、静かに! 人に聞こえるじゃありませんか!わたし[#「んか!わた」はママ]はまじめにご注意しますが、自分というものを大事になさい。わたしは冗談いってるのじゃありませんぞ!」とポルフィーリイはささやくような声でいったが、こんどはさっきのような女じみた善良さも、おびえたような表情もその顔に浮かばなかった。それどころか、いま彼は眉をしかめて、いっさいの秘密とあやふやな態度を一度に破り捨てるようなふうで、おおっぴらに厳然と命令した[#「命令した」に傍点]のである。
 けれど、それはほんのせつなにすぎなかった。荒肝をくじかれたラスコーリニコフは、しかし、たちまち正真正銘の狂憤におちいったが、ふしぎにも、彼は憤怒《ふんぬ》の発作の頂上にあったにもかかわらず、またもや静かに話せという命令に服従したのである。
「ぼくはおめおめと人に苦しめられなんかしませんぞ!」と彼は急にさっきと同じ調子でささやいたが、命令に従わずにいられない自分自身を、苦痛と憎悪《ぞうお》の念とともにいなずまのように意識した。そして、その意識のために、いっそう激しい狂憤の囚《とりこ》になったのである。
「ぼくを逮捕してください、家宅捜索をしてください。しかし、いっさいの行動を正式にやってもらいましょう。人をおもちゃにするのはよしてください! そんな失敬なまねは承知しません……」
「いや、形式のことはご心配に及びませんよ」ポルフィーリイは以前の狡猾《こうかつ》そうな微笑を浮かべ、満足そうな様子さえ見せて、ラスコーリニコフの狂憤に見とれながら、その言葉をさえぎった。「わたしは今日あなたを家庭的にお招きしたので、つまりまあ、ぜんぜん友人関係なんですよ!」
「ぼくはあなたの友情なんか望みません。そんなものは、つばでもひっかけてやりたいくらいだ! いいですか? さあこのとおり、ぼくは帽子を取って出て行くんだ。おいどうだ、逮捕するつもりなら、これにたいしてなんというね?」
 彼は帽子をつかんで、戸口のほうへ行きかけた。
「ときに、一つ思いがけない贈り物があるんですが、見たかありませんかね?」またもや彼のひじの少し上をつかんで、戸口で引き止めながら、ポルフィーリイはひひひと笑った。
 彼は目に見えてますます愉快げな、遊戯的な気分になっていった。そのためにラスコーリニコフはすっかり前後を忘れてしまった。
「思いがけない贈り物とはなんです? どんなものだ?」彼はふいに立ち止まって、おびえたようにポルフィーリイを見やりながら尋ねた。
「思いがけない贈り物は、そら、あすこに、ドアの向こうのわたしの住まいのほうにいますよ。へ、へ、へ!(と彼は自分の官舎へ通ずる、仕切り壁に設けた締まった戸を指さした)。逃げて行かないように、かぎをかけて締め込んどいたのです」
「いったいなんです? どこに? 何ものです?………」
 ラスコーリニコフは、そのドアヘ歩み寄り、あけようとしたが、ドアにはかぎがかかっていた。
「かかってるんです、さあ、かぎ!」
 といいながら、ほんとうに彼はポケットからかぎを取り出して、それをラスコーリニコフに見せた。
「きさまはのべつうそばかりついてやがる!」とラスコーリニコフはもうこらえきれなくなって、怒号を始めた。「でたらめをいうな、このいまいましい道化《どうけ》め!」彼はこうわめきながら、ドアのほうへ、あとずさりしてはいたものの、いささかも臆《おく》した様子のないポルフィーリイに飛びかかった。
「おれは何もかもみんなわかったぞ!」彼はポルフィーリイのそばへかけよった。「きさまはうそばかりついてるんだ、おれにしっぽを出させようと思って、人をからかってるんだ……」
「いや、もうそのうえ、しっぽを出すわけにはいきませんよ。ロジオン・ロマーヌイチ。あなたはまるで夢中になっておられる。そんなにどなるのはおよしなさい、人を呼びますよ」
「うそをつけ、何があるもんか! 人を呼ぶなら呼ぶがいい! きさまはおれの病気を知ってるものだから、人を夢中になるまでからかって、しっぽを押えようと思ってるんだ。それがきさまの魂胆《こんたん》なんだ! そんな手はだめだ、証拠を出せ! おれは何もかもわかったぞ! きさまにゃ証拠なんかありゃしない。ただザミョートフ式の愚にもつかぬ、くだらない邪推があるだけなんだ!………きさまはおれの性格を知ってるもんだから、おれを夢中になるほど怒らしたうえ、ふいに牧師や陪審員《ばいしんいん》などを引っぱって来て、度胆を抜くつもりだったんだろう……きさまはその連中を待ってるんだろう? おい! 何を待ってるんだ? どこにいるんだ? 出して見せろ!」
「どうも、あなた、こんなところに陪審員なんかいてたまるもんですか! 人間ってとんでもない妄想《もうそう》を起こすもんだ!そんな[#「んだ!そん」はママ]ふうじゃ、あなたのおっしゃるように、正式にやることもなにも、できやしませんよ。あなたはその辺のことをなんにもごぞんじないんだ……正式はどこへも逃げやしませんよ。今に自分でおわかりになりますよ!………」とドアのほうへ耳をそばだてながら、ポルフィーリイはつぶやいた。
 じっさいこの瞬間、次の間のすぐ戸口のところで、何かしら物音らしいものが聞こえた。
「あっ、来たぞ」とラスコーリニコフは叫んだ。「きさまはあいつらを呼びにやったんだな!………きさまはあいつらを待ってたんだろう! きさまは思惑《おもわく》があったんだ……さあ、そいつらをみんなここへ出せ。陪審員でも、証人でも、なんでも好きなものを……さあ出せ! おれも用意ができてるぞ!用意が!」
 けれども、そのとき奇怪なことがもちあがった。それこそラスコーリニコフはもちろん、ポルフィーリイでさえも、こんな大団円は予期することもできなかったくらい、普通の場合では思いがけない出来事である。

       6

 後になってラスコーリニコフが、この瞬間のことを思い出すたびに、すべてが次のような形で浮かんでくるのであった。
 ドアの向こう側で聞こえていた物音は、とたんにたちまち大きくなって行き、ドアが細目にひらかれた。
「どうしたんだ、いったい?」とポルフィーリイはいまいましそうに叫んだ。「前からちゃんと注意しといたじゃないか……」
 その瞬間、答えはなかったが、察するところ、ドアの向こうには四、五人の人がいて、だれかを突きのけようとしているらしかった。
「おい、どうしたんだよ?」とポルフィーリイは不安そうにくりかえした。
「未決囚のニコライをつれてまいりました」というだれかの声が聞こえた。
「いけない! 向こうへつれて行け! もうしばらく待つんだ!………なんだってあいつ、こんなところへのこのこ来たんだ! だらしのない!」戸口のほうへ飛んで行きながら、ポルフィーリイはこうどなった。
「でも、こいつが……」とまた同じ声がいいかけたが、急にとぎれてしまった。
 二秒ばかり(それより長くはなかった)、ドアの外では本物の格闘がつづいた。それからふいに、だれかが、だれやらを力まかせに突き飛ばしたらしいけはいがした。と、つづいて、だれか真青な顔をした男が、いきなりポルフィーリイの書斎へつかつかとはいって来た。
 男は見るからに奇妙な様子をしていた。彼はまっすぐに前のほうを見ていたが、だれの顔も目にはいらないようなふうである。目には決心の色がひらめいていたが、同時に、まるで刑場にでも引かれて行く人のように、死のような青みがその顔をおおい、血の気を失った白いくちびるは軽くおののいていた。
 それは平民らしい服装をして、頭を短くおかっぱに刈り込み、妙にかわいたような細い顔の輪郭をした、やせぎすで中背の、まだいたって若い男だった。思いがけなく突き飛ばされた男は、彼のあとから第一番に部屋へ飛び込んで、その肩をつかまえた。それは看守だった。が、ニコライは手をぐいとしゃくって、またもや振りほどいてしまった。
 戸口のところには、いくたりかの物見だかい連中が集まった。あるものは、部屋の中まではいり込もうとしていた。以上のことはほとんど一瞬間に起こったのである。
「あっちへ行け、まだ早い。こっちから呼ぶまで、待っておれ!………なんだって先へつれて来るんだ?」とポルフィーリイはやや度《ど》を失った形で、いまいましくてたまらないようにつぶやいた。
 ニコライはいきなりぱたりとひざをついた。「なんだお前?」とポルフィーリイは驚いて、こうどなった。
「わるうございました! あれはわっしの仕業《しわざ》なので! わっしは人殺しでございます!」とふいにニコライは、いくらか息をはずませてはいたが、かなり高い声でいった。
 十杪ばかりの間、沈黙がつづいた。一同はあきれてものがいえないというようなふうだった。看守さえ思わず一歩うしろへたじろいで、もうニコライのそばへ寄ろうともせず、機械的に戸口のほうへ、あとずさりして棒立ちになった。
「なんだって?」束《つか》の間《ま》の麻痺状態からわれに返って、ポルフィーリイはこう叫んだ。
「わっしは……人殺しでございます……」ほんの心もち無言でいた後、ニコライはまたくりかえした。
「なんだって……お前が!………どうして……だれを殺したのだ?」
 ポルフィーリイは明らかにろうばいしていた。ニコライはまたほんの心もち無言でいた。
「アリョーナ・イヴァーノヴナと、妹さんのリザヴェータ・イヴァーノヴナを、わっしが……殺しました……おので。魔《ま》がさしたんでございます……」彼はふいにこういいたすと、また黙ってしまった。
 彼はその間ずっと、ひざをついていた。
 ポルフィーリイはややしばらく、思いめぐらすように立っていたが、急にまたおどりあがり、呼ばれもしないのに集まった証人連に手を振って見せた。こちらはすぐに姿を消して、ドアはぴったり締まった。それから彼は片すみに立ったまま、仰天したような目つきでニコライをながめているラスコーリニコフをちらと見て、そのほうへ足を向けようとしたが、急にまた立ち止まり、彼を見やったと思うと、すぐさま視線をニコライのほうへ移した。それから、またラスコーリニコフとニコライを見くらべたが、急に夢中になったようなようすで、またもやニコライのほうへ飛んで行った。
「なんだってきさまは、魔がさしたなんかって、出しゃばったまねをするんだ?」と、彼はほとんど憎々しげにどなりつけた。「お前に魔がさしたかささないか、おれはまだ尋ねちゃおらんじゃないか、さあいえ……お前が殺したのか?」
「わっしが下手人《げしゅにん》なので……申し立てをいたします……」とニコライはいった。
「ちぇっ! なんで殺したんだ!」
「おのでございます。前から用意しておいたんで」
「ちぇっ! 先ばかり急いでやがる! ひとりでか?」
 ニコライは問いがわからなかった。
「ひとりで殺したのか?」
「ひとりなんで。ミーチカにゃ罪はありません。あの男はまるっきりこれにかかわり合いがないんで」
「ミーチカのことなんか、あわてていわなくてもいい! ちぇっ! じゃ、お前はどうして、どうしてお前はあのとき階段を走っておりたのだ? だって、庭番がお前たちふたりに出会ったじゃないか?」
「あれはみんなの目をくらますためなんで……そのためにあの時……ミーチカといっしょに走っておりたんで」ニコライはせきこみながら、前から用意しておいたらしく、こう答えた。
「ふん、やっぱりそうだ!」と憎々しげにポルフィーリイは叫んだ。「腹にもないことをいってるんだ!」と彼はひとり言のようにつぶやいたが、ふいにまたラスコーリニコフが目についた。
 察するところ、彼はニコライのことにすっかり気を取られて、ちょっとの間ラスコーリニコフのことをほとんど忘れていたらしい。で、いま急にわれに返ると、きまりわるそうな様子さえ見せた……
「ロジオン・ロマーヌイチ! 失敬しました」と彼はラスコーリニコフのほうへ飛んで行った。「それじゃいけません……どうぞ、失礼ですが……あなたはここにおられてもしようがありませんから……わたし自身も……ごらんのとおり、どうもこういう思いがけない贈り物なんでして!………さあどうぞ!………」
 彼はラスコーリニコフの手を取って、戸口を指さして見せた。
「あなたもどうやら、こんなこととは予期なさらなかったようですね?」とラスコーリニコフはもちろん、まだ何ひとつはっきりわからないなりに、もうこの間にかなり元気づいて問い返した。
「あなただって思いがけなかったでしょう。ほうら、手が、こんなに、ふるえている! へへ!」
「それにあなたもふるえていらっしゃいますね、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ」
「わたしもふるえていますよ。あまり意外だったもんですからね!………」
 彼らは、もう戸口のところに立っていた。ポルフィーリイは、ラスコーリニコフが出て行くのを、じれったそうに待っていた。
「ところで、思いがけない贈り物は、けっきょく、見せてくださらないんですか?」出しぬけにラスコーリニコフは、あざけるような調子でいった。
「とはおっしゃるが、そのご当人の口の中じゃ、歯の根が合わず、がちがちいってるじゃありませんか、へ、ヘ! あなたも皮肉な人ですな! ではまた、いずれ改めて」
「ぼくはもうこれでさようなら[#「さようなら」に傍点]だろうと思いますが!」 
「何事も神さまのおぼしめしです、何事も神さまのおぼしめしです!」妙にひん曲がったような微笑を浮かべながら、ポルフィーリイはそうつぶやいた。
 事務室を通りぬけるとき、ラスコーリニコフは、大ぜいのものがじっと自分のほうを見つめているのに心づいた。控え室の群衆の中で彼は目ざとく、あのとき夜中に警察へ行けといったあの[#「あの」に傍点]家の庭番ふたりを見わけた。彼らは立って何かを待っていた。けれど、彼が階段へ出るが早いか、ふいにまた自分のうしろに、ポルフィーリイの声を聞きつけた。ふりかえって見ると、ポルフィーリイがはあはあ息を切らしながら、追っかけて来るのであっ。
「もうひと言だけ、ロジオン・ロマーヌイチ。ああしたいろんなことは、みんな神さまのおぼしめしですが、しかし、やっぱり正式に、何かとお尋ねしなくちゃならんことになるでしょう……そういったわけで、またお目にかかれるはずですな、そうでしょう!」
 こういって、ポルフィーリイは微笑をふくみながら、彼の前に立ち止まった。
「そういったわけですな」と彼はもう一度いいたした。
 彼はもっと何かいいたかったのだが、なんとなくいい出しにくいらしい、とも想像ができた。
「いや、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ。どうかさきほどのことは、なにぶんお許しを願います……少々とりのぼせたものですから」ちょっとからいばりがしてみたいという欲望をおさえかねるほど、もうすっかり元気を回復したラスコーリニコフは、こんなふうなことをいいかけた。
「どういたしまして、どういたしまして」と、ほとんどうれしそうな調子で、ポルフィーリイは引き取った。「わたしもご同様ですよ……わたしはどうも皮肉な性分《しょうぶん》でしてな、申しわけありません、申しわけありません! またお目にかかりましょう。神さまのお手引きがあれば、かならずかならずお目にかかりますよ!――」
「そして、徹底的にお互い同士を認識し合いますかね?」とラスコーリニコフは引き取った。
「そう、徹底的にお互い同士を認識し合いましょう」とポルフィーリイはおうむ返しにいった。そして、目を細めながら、まじめくさって彼をじろりと見た。「これから命名日の祝いに?」
「葬式です」
「ああ、そうだっけ、葬式にね! まあ、おからだをたいせつに、おからだを」
「どうも、ぼくのほうからは、なんと申しあげていいやら、見当がつきません!」もう階段をおりかけたラスコーリニコフは、こう相手の言葉を受けたが、ふいにくるりポルフィーリイのほうへふりかえって、「まあ、今後いっそうのご成功をお祈りする、とでも申しましょうか。だが、なんですね、あなたがたの職務も、じつに滑稽《こっけい》なもんですね!」
「なぜ滑稽なんです?」同じく帰りかけていたポルフィーリイは、たちまち耳をそばたてた。
「だって、そうじゃありませんか。ほら、あのかわいそうなミコールカ(ニコライ)を、あなたはずいぶん責めさいなんだことでしょうね。心理的に、あなた一流のやりかたで、あの男が白状するまで、ね。昼も夜も『きさまは人殺しだ、きさまは人殺しだ……』といっていじめつけなすったに相違ない。ところでこんど、あの男が白状してしまうと、あなたはまた、『うそつけ、きさまは人殺しじゃない! きさまにそんなことのできるはずがない! 腹にもないことをいってやがる!』なんて、からだじゅうの骨がみしみしいうほど痛めつけようとなさる。ねえ、これでも滑稽な職務じゃないでしょうか?」
「へ、へ、へ! 今わたしがニコライに『腹にもないことばかりいってやがる』といったのに、ちゃんとお気がついたんですね?」
「どうして気がつかないでいられます?」
「へ、へ! なかなか敏感ですね、じつに敏感だ。なんにでも気がおつきになる! まったくユーモアの天分を持っていらっしゃる! 滑稽の真髄を把握《はあく》なさるんですからな、へへ! 作家の中ではゴーゴリが、こういう天分をきわめて豊富に持っていたそうですな?」
「そう、ゴーゴリがね」
「さよう、ゴーゴリがね……じゃ、いずれまた」
「いずれまた……」
 ラスコーリニコフはまっすぐに家路へ向かった。彼はすっかり頭が混乱して、何がなにかわからなくなってしまったので、家へ着くが早いか、いきなり長いすに身を投げて、やっとからだを休めながら、いくらかでも考えをまとめようと努《つと》めながら、十五分ばかりじっとしていた。ニコライのことにいたっては、とかくの判断にとりかからないことにした。彼は激しいショックを受けたのを感じていた。ニコライの自白の中には、今の彼にはどうしても理解することのできない、説明のしようもない、驚くべきものがひそんでいる。しかし、ニコライの自白は厳然《げんぜん》たる事実であった。この事実の結果は、彼にとってたちまち明瞭《めいりょう》になった。虚偽は暴露しないでいるはずがない。その時はまた彼の取り調べを始めるにちがいない。しかし、少なくともそれまで彼は自由である。だから、ぜひ何か自分を守るために工作しておかなければならぬ。なぜなら、危険は避けがたいからである。
 とはいえ、それはどの程度だろう? 状況はだんだんはっきりしてきた。ポルフィーリイとの先刻の一幕を、ざっと[#「ざっと」に傍点]荒筋だけ拾って思い出したとき、彼は恐怖のあまり、もう一度|戦慄《せんりつ》せずにいられなかった。もちろん、彼はまだポルフィーリイの目算を、すっかり知っているわけではない。さきほどは彼の作戦を残りなく看破することができなかった。けれど作戦の一部は暴露された。そして、ポルフィーリイの作戦上のこの『一手』が、彼にとっていかに恐ろしいものであったかということは、もちろん、なんぴとといえども、彼以上に理解することはできなかったはずだ。ほんのいま一歩で、彼はもう完全に、実質的に、正体を現わしてしまったかもしれないのだ。彼の病的性格を知って、ひと目で確実に彼を見抜き、かつ把握《はあく》したポルフィーリイは、あまり思いきりがよすぎたものの、しかし、ほとんど確実な行動を取ったのである。さきほど、ラスコーリニコフはずいぶん自分の立場を傷つけた。それはなんとしても争われないにしても、しかし、事実[#「事実」に傍点]にまではやはりまだ達していなかった。これらはすべてまだ相対的なものにすぎない。が、はたしてそうだろうか?はたし[#「うか?はた」はママ]て彼は今すべてを理解してるのだろうか? 誤算してはいないか? 今日ポルフィーリイはどんな結果へ導いて行こうとしたのだろう? じっさい、彼は今日なにか準備していたのか? そうだとすれば、それはいったいなんだろう?じっさい[#「ろう?じっ」はママ]、彼は何か待っていたのだろうか? どうだろう?もしニ[#「ろう?もし」はママ]コライのおかげで、あの思いがけない大詰めがやって来なかったら、ふたりは今日どんなふうに別れたろう? ポルフィーリイは自分の作戦を、ほとんど全部見せてしまった。もちろん、それは冒険だったに相違ないが、とにかく見せてしまった。もしじっさい、ポルフィーリイに何かあれ以外の計画があったとすれば、それをも出して見せたに相違ない(ラスコーリニコフには、どうもそう思われてしかたがなかった)。いったいあの『思いがけない贈り物』とはなんだろう? ただの嘲弄《ちょうろう》にすぎないのか? それとも何か意味があるのか? このなぞの下に何か具体的な証拠なり、有力な起訴理由なりに類したものが、ひそんでいるだろうか? 昨日の男は? あの男はいったいどこへ消えてしまったのだろう? 今日どこにいたのだろう? もしポルフィーリイが、何か確かなものを握っているとすれば、もちろん、それは昨日の男と関連したことに相違ない……
 彼は頭をたれて、ひざにひじをつき、両手で顔をおおい、長いすに腰かけていた。神経的な戦慄《せんりつ》はまだ全身を走りつづける。ついに彼は帽子をつかんで立ちあがり、ちょっと考えた後、戸口のほうへ足を向けた。
 彼はなんとなく、少なくも、今日一日だけはほとんど絶対に安全と見なしていい、そういう予感がした。ふいに心の中でほとんど喜びに近い感じを覚えた。彼は少しも早くカチェリーナのところへ行きたくなった。葬式にはむろん遅れてしまったが、法事には間に合うだろう。そうすれば、そこですぐソーニャに会える。
 彼は立ち止まって、ちょっと考えた。病的な微笑がそのくちびるにおし出された。
『今日だ! 今日だ!』と彼は口の中でくりかえした。『そうだ! どうしても今日だ! きっとそうしなくちゃ……』
 彼はドアをあけようとしたとたん、急にそのドアがひとりでに開き始めた。彼は思わずふるえだし、あとへ飛びすさった。ドアはそろそろと静かに開いて、ふいに人の姿が現われた――あの大地からわき出たような[#「大地からわき出たような」に傍点]昨日の男である。
 男はしきいの上に立ちどまって、無言のままラスコーリコフをちらと見た後、部屋の中へひと足ふみ込んだ。彼は昨日と寸分違わぬ身なりをし、同じようなかっこうをしていたが、顔と目つきにはいちじるしい変化が生じていた。いま彼は、なんとなくしょげた様子で、しばらくじっとたたずんでいたが、やがてほっと深いため息をついた。もしこのうえ、てのひらを片ほおに押し当てて、首を一方に傾けさえすれば、まるで百姓女そのままという形だった。
「なんの用です?」ラスコーリニコフは生きた心地もなくこう尋ねた。
 男はしばらく黙っていたが、急に低く腰を曲げて、ほとんど床にとどくほどの会釈《えしゃく》をした。少なくとも、右手の指は床に触れた。
「きみどうしたんです?」とラスコーリニコフは叫んだ。
「わっしがわるうございました」と男は低い声でいった。
「何が?」
「悪い了簡《りょうけん》を起こしまして」
 ふたりは互いに顔を見合わせていた。
「いまいましくなったんでございます。あの時あなたがあすこへおいでになって、たぶん、酔っておられたのではありましょうが、庭番に警察へ行けといったり、血のことを尋ねたりなさいましたね、それをぼんやり酔っぱらいだと思って、うっちゃっておいたのが、いまいましくなりましたんで。あまりいまいましくって、夜の目も寝られないようになりました。で、わたしゃあなたの所番地を覚えておりましたんで、きのうここへ来て尋ねましたようなわけで!………」
「だれが来たんです?」ラスコーリニコフは瞬間的に記憶を呼びさましながら問い返した。
「わっしでございます。つまり、あなたにゃ申し訳のないことをしましたんで」
「じゃ、きみはあの家にいるんですか?」
「へい、あすこなんで。わっしゃあの時、みんなといっしょに、門の下に立っておったんですが、それとも、もうお忘れになりましたかね? わっしどもはもうずっと昔からあすこに仕事場を持っておりますんで。わっしどもは毛皮屋商売の町人で、家で注文仕事をしておりますんですが……なんともかともいえないほど、いまいましくなりまして……」
 ふいにラスコーリニコフは、一昨日の門の下の情景がはっきり思い出された。あの時そこに庭番のほか、まだいくたりかの男と、女も二、三人立っていたことが、思い合わされた。あの時いきなり警察へ突き出せといった、ひとりの声を思い起こした。その顔は思い出せないし、いま会っても気がつくまいけれど、自分がその時そっちを向いて、何やら答えたことが頭に残っている……
 してみると、これで昨日のあの恐怖は、すっかり解消したわけである。いま考えてみてさえ何よりも恐ろしいのは、こんなつまらないこと[#「つまらないこと」に傍点]のために、危うく破滅にひんしていたことである、危うく自分で自分を滅ぼそうとしていたことである。これでみれば、間借りの一件と血の問答以外、この男には何も話せないわけである。したがって、ポルフィーリイもやっぱりあの夢うつつの中でしたこと[#「夢うつつの中でしたこと」に傍点]よりほか、まったく何も握っていないはずだ、どっちともつかない[#「どっちともつかない」に傍点]例の心理[#「心理」に傍点]よりほか、なんの証拠もなければ、確かなつかまえどころもいっさいないはずである。してみれば、このうえなんの事実もあがらないとすれば(そんなものはもうあがるはずがない、はずがない、はずがない!)そのとき……彼らは自分をどうすることができよう? たとえ逮捕したところで、なんの理由で自分をだんぜん有罪とすることができよう? これでみれば、ポルフィーリイはたった今、ついさきほど、貸し間さがしのことを聞いたばかりで、それまではまるで知らなかったのだ。
「じゃ、今日ポルフィーリイに話したのはきみなんですね……ぼくが行ったということを話したのは?」思いがけない想念に打たれて叫んだ。
ポルフィーリイって?」
「予審判事ですよ」
「わっしが話しました。あのとき庭番が行かなかったので、わっしが出かけました」
「あなたのお見えになるほんのちょっと前でございます。そして、あの人があなたをいじめてるところを、すっかり聞いておりましたよ」
「どこで? 何を? いつ?」
「なに、やはりあすこでございますよ。あの仕切り壁のかげで。わっしゃ、ずっとあすこにおりましたんで」
「えっ? じゃ、きみがあの思いがけない贈り物だったんだな? どうしてそんなことができたんだろう? ああ!」
「じつはこういうわけなんで」町人は語りはじめた。「わっしゃね、庭番たちがわっしのいうことを聞かないで、もう時刻が遅いから、かえって、今ごろ何しに来たとしかられる、なんかって、警察へ行こうとしないんでね、もういまいましくって、夜の目もおちおち寝られないようになりましたので、いろいろと調べにかかりました。きのうすっかり調べあげたんで、きょう出かけて行ったわけでございます。はじめて行ったとき、あのかたはおるすでした。一時間ほどしてから行ってみたら、こんどは会ってくださいませんでした。三度目に行って、やっと通されましたんで。そこでわっしは何もかも、ありのまま申しあげました。するとあのかたは、部屋の中をあちこち歩きだしなすって、げんこでご自分の胸をたたきながら『きさまはこのおれをなんという目にあわすのだ、悪党! そんなことと知っていたら、護送つきで召喚《しょうかん》するところだったのに!』とおっしゃいました。それからかけ出して、だれかを呼んで来て、その人とすみのほうで話を始めなすったが、さてまたわっしのところへ来て、いろいろ尋ねたり、怒りつけたりなさいました。そしてさんざんわっしをお責めになりましたよ。わっしは何もかも申しあげて、きのう、あなたがわっしの言葉にたいして、何ひとつ返事ができなかったことや、わっしがだれかおわかりにならなかったことなど話しました。その時もまた、あのかたは部屋の中をかけまわりだして、自分の胸をたたいたり、腹を立てたり、またかけだしたりなさいましたが、あなたのお見えになったことを取り次いで来ると――さあ、仕切り壁の向こうに隠れろ、そしてしばらくのあいだ、どんなことが聞こえても身動きもしないで、じっとすわっていろ、とこうおっしゃいましてね、自分でいすをはこんだりして、ドアにかぎをかけておしまいになりました。ひょっとしたら、お前も尋問するかもしれんということでございました。ところで、ニコライが連れられて来ると、あなたのお帰りになったあとで、わっしを出してくださいました。そして、またいずれ呼び出して、尋問するとおっしゃいました……」
「きみの前でニコライを尋問したのかい?」
「あなたを送り出すと、わっしもすぐに出してしまって、それからニコライの尋問を始めました」
 町人は言葉を切って、ふいにまた指が床に着くほど頭を下げた。
「どうかわっしが讒訴《ざんそ》したり、悪心を持ったりしたのを、かんべんなすってくださいまし」
「神さまが許してくださるさ」とラスコーリニコフは答えた。
 彼がこの言葉を発するやいなや、町人はこんどは床まででなく、帯の辺まで頭を下げて、ゆっくり踵《きびす》を転じ、そのまま部屋から出て行った。
『何もかも両はじにしっぽができたぞ、これですっかり、どっちへでも取れるようになったぞ』とラスコーリニコフはくりかえし、いつにもまして元気よく部屋を出た。
『さあ、これからまだたたかうんだ』彼は階段をおりながら、憎々しげなうす笑いを浮かべてそういった。その憎悪は自分自身にかんするものであった。彼は侮蔑と、羞恥《しゅうち》の念を覚えながら、自分の『気の小さい行為』を思い浮かべた。

第五編

      1

 ドゥーネチカとプリヘーリヤの親子を相手に、運命を左右するような談判をしたその翌朝は、さすがのルージンも、酔いのさめたような気がした。彼がこの上なく不快に感じたのは、じっさいできてしまったこととはいいながら、昨日のうちはまだ夢みたいな、ありうべからざるもののように思っていたあの出来事を、しだいに取り返しのつかぬ既定の事実として受け入れなければならなくなってくることだった。傷つけられた自負心の黒いへびが、夜っぴて彼の心臓を吸いつづけたのである。寝床から起き出るとルージンはすぐに鏡を見た。夜の間に胆汁《たんじゅう》がからだじゅうにまわりはしなかったかと、それを気づかったのである。しかし、その方面は今のところ無事だった。近ごろ少しあぶらぎってきた、上品な、色の白い自分の顔をながめた彼は、ことによったら、もっと立ちまさった花嫁を、どこかほかで捜し出せるに相違ないと腹の底から確信して、ちょっとのまみずからを慰めたくらいである。けれど、すぐさまわれに返り、勢いよくわきのほうへぺっとつばを吐いた。このしぐさは、彼と同居している若い友人、アンドレイ・セミョーヌイチ・レベジャートニコフの口辺に、言葉には出さないが、皮肉な微笑を浮かべさしたものである。この微笑に気がつくと、彼はさっそく腹の中で、それをこの若い友人との貸借勘定の中へ入れた。最近この友人にたいする彼の勘定書きは、だいぶ計算がかさんでいたのである。ことに昨日の会見の結果をこの男に話したのは、まちがいだったと考えついたとき、彼のむしゃくしゃは、いっそう募《つの》ってきた。それは彼が熱くなって、つい口数が多くなるにつれて、かんしゃくまぎれにしゃべってしまったので、昨日としては、もう二つめの失策なのであった……それから後も、この朝はまるでわざとねらったように、不愉快なことばかりあとからあとから起こった。あまつさえ大審院のほうでも、今まで奔走していたある事件の失敗が、彼を待ち受けていた。とりわけ彼をいらいらさせたのは、間近な結婚を見越して借り受け、彼が自分のふところで造作までした住まいの家主である。この家主というのは成り上り者のドイツ人の職人で、このあいだ取り決めたばかりの契約の解除を、いっかな承知せず、ほとんど新しく造作した住まいをそのまま返すというのに、契約書にうたってある違約金の全額支払を要求した。家具屋がこれまた同じく、買ったばかりでまだ届けてない家具の手付金を、一ルーブリも返そうとしなかった。
『まさか、家具のために、わざわざ結婚するわけにもいくまい!』とルージンは腹の中で歯ぎしりした。が、それと同時に、彼の頭にはもう一度死にもの狂いの希望がひらめいた。『いったい、いったいあの話はほんとにもうあれきり取り返しのつかぬほど瓦解《がかい》して、おじゃんになってしまったのだろうか? いったい、もう一度やってみるわけにはいかないだろうか?』ドゥーネチカのことを思うと、彼の心はまたもや誘惑に動かされてずきずきした。彼は悩ましい心もちでこの瞬間をじっと忍んだ。もし今すぐ、ただの願望だけでラスコーリニコフをなきものにすることができたら、ルージンは猶予《ゆうよ》なくそれを実行したにちがいない。
『失策はまだこればかりではない、あのふたりに金をまるでやらなかったことだ』レベジャートニコフの小部屋へ、沈んだ気持ちで帰って来ながら、彼はそう考えた。『なんだって、くそいまいましい、おれはこうユダヤ人じみてしまったのかなあ? それじゃまるで先の見通しがなかったというものだ? おれはあのふたりにもう少し不自由さしておいて、おれを神さまのように思わしてやろう、とこう考えていたのだが、どっこいあのしまつだ!………ちぇっ!………いや、もしおれがふたりに、この間じゅうから結納《ゆいのう》や贈り物――たとえば、たんすだとか、手箱だとか、宝石だとか、反物だとか、ぜんたいにそういったような、クノップの店やイギリス商店などで売ってるがらくたに、千五百ルーブリも出していたら、この事件はもっと手ぎれいに……もっとがっちりまとまっていたにちがいないのだ! そうしたら、こんどみたいに、ああたやすく破談にするわけにもいかなかったろうに!ああい[#「うに!ああ」はママ]う手合いは、破談にする場合には、贈り物も金も必ず返さなくちゃならんと思う、そういう質《たち》の連中なのだからな。ところが、返すのはつらくもあるし、惜しくもある! それに、良心のほうからいったって、しりくすぐったいわけだからな。今まであんなに金ばなれがよく、かなり優しくしてくれた人を、そうそう藪《やぶ》から棒に追い出すなんて、できるわけのもんじゃない……といったようなぐあいでな……ふん! こいつはしくじった!』
 ルージンはまたもや歯がみをしながら、自分で自分をばかといった――もちろん、腹の中だけで。このような結論に到達すると、彼は出がけより二倍も毒々しい、いらいらした気持ちで帰って来た。カチェリーナの部屋で行なわれている法事の支度は、いくらか彼の好奇心を引きつけた。彼はもう昨日のうちから何かの拍子で、この式の話を聞いていたのみか、なんだか自分も招待されているような覚えさえあった。が、自分の用にまぎれて、ほかのことはいっさい聞き流していたのである。墓地のほうへ行っているカチェリーナのるすを預って、食事の用意にかかったテーブルのまわりを忙しそうにしているリッペヴェフゼル夫人のところへ、彼は急いで尋ねに行き、法事が盛大にとり行なわれるはずで、同じ家に住んでいるものがほとんど全部招待されていることを知った。その中には故人と一面識もない人まではいっていて、カチェリーナとけんかしたことのあるレベジャートニコフさえ招待されている。そして最後には当の彼ルージンも、ただ招待されているというだけでなく、この家の間借人ぜんたいの中で、一ばんおも立った客として、今か今かと待たれているのであった。またそういうリッペヴェフゼル自身も、これまでいろいろさや当てがあったにもかかわらず、礼をつくして招かれていた。で、彼女は今ほくほくしながら、主人代りにまめまめしく世話をやき、そのうえ喪服ではあったけれど新しいものを着て、めちゃめちゃにめかしこみ、得意然としていたわけである。こうしたさまざまな事実と情報は、ルージンに一種のヒントを与えた。彼はなんとなく思い沈んだ様子で、自分の部屋――といってもレベジャ-トニコフの部屋へ帰って来た。それはほかでもない、招待された人たちの中にラスコーリニコフも交っているのを知ったからである。
 レベジャートニコフはどうしたわけか、この朝ずっと家に引きこもっていた。この男とルージンの間には一種きみょうな、しかし、ある点から見れば自然な関係が、ちゃんとできあがっていた。ルージンはここに移って来たそもそもの日から、無性やたらに彼を軽蔑し憎んでいたが、同時に、いくらか彼を剣呑《けんのん》がっているようなところもあった。彼がペテルブルグへ着くとともに、この男のところに宿を決めたのは、けちな経済観念のためばかりではなかった。もっとも、それも原因だったには相違ないが、そこにはまた、ほかの理由もあったのだ。彼はまだ田舎にいる時分、かつて自分の教え子であったレベジャートニコフが、最も尖端《せんたん》的な若い進歩主義者のひとりとして、とほうもない内容を持った、あるおもしろい団体で、重要な役割を働いているとのうわさを聞いた。これがルージンに非常なショックを与えたのである。こうした底力のある、いっさいを知り、いっさいを軽蔑し、かつ万人を暴露する団体は、もうかなり以前からルージンに脅威を感じさせていた。それは何かしら特殊な、しかも、すこぶる漠然とした恐怖なのである。むろん彼自身はまだ田舎にいた時分のことだから、こうした種類[#「こうした種類」に傍点]の事柄については、概略的な程度でも正確な観念を持つことができなかったのである。彼もまた多くの人々と同じく、都会――ことにペテルブルグには、何かしら進歩主義者とか、虚無主義者とか、暴露主義者とか、その他何々何々という連中のいることを聞いていた。そして多くの人々同様に、これらの名称の性質や意義をばかばかしいほど誇張し、曲解していたのである。この数年来、彼が何よりも恐れていたのは、この暴露主義[#「暴露主義」に傍点]であった。これこそ彼の絶えまなき不安の最大原因なのであった――しかもその不安は、おりから彼が自分の事業をペテルブルグへ移そうと空想していたさいとて、いっそう誇大されていた。この点、彼はちょうどよく小さい子供が脅かされるようなぐあいに、いわゆる『おびえあがって』いたのである。五、六年前、彼がまだ田舎でやっと自分の栄達を築こうとしはじめたばかりのころ、その時まで彼が一生けんめいにしがみついていた県の有力者で、かつ彼の保護者である人が、むごたらしく暴露の犠牲になった場合を二つまで見た。一つの場合は、たんだかかなりな醜態《しゅうたい》を演じて結末になったし、もう一つのほうは危うくめんどうなことになりかかったくらいである。つまりこういうわけで、ルージンはペテルブルグへ着くと同時に、とりあえずこうした方面の真相を調べあげ、必要に応じては万一の場合のために先手を打って、『わが新しき世代』に取り入ろうと決心したのである。この万一の場合のために、彼はレベジャートニコフに期待をかけていた。で、たとえば、ラスコーリニコフを訪問したときなども、彼はもう他人の口まねで覚えた決まり文句を、どうにかすらすらと使いこなせるようになったのである。
 もちろん彼は、レベジャートニコフが恐ろしく単純な俗人であるということを、早くも見わけてしまった。しかし、この事実も、いっこうにルージンの迷いを解きもしなければ、元気をつけもしなかった。たとえ、進歩主義者がひとりのこらず、同じようなばか者であると確信しても、なお彼の不安はしずまらなかったに相違ない。じつのところ、そうした教理とか、思想とか、システムとか、(こういうもので、レベジャートニコフは彼に突撃して来たのである)そういったものなどは、彼になんの用もなかった。彼には独得の目的があった。彼はただ猶予なく寸時も早く、そこでは[#「そこでは」に傍点]何がどうなっているかを知るのが必要なのであった。はたしてこれらの人人[#「これらの人人」に傍点]に実力があるかどうか? はたして自分にとって恐るべきものがあるかどうか? もし自分が何か仕事を始めたら、彼らは自分を暴露するかどうか?もし[#「うか?もし」はママ]暴露するとしたら、いかなる点にたいして暴露を行なうのだろうか? また全体に、このごろはどんな点にたいして暴露を行なっているか?もし彼らがじっさいに力を持っているとすれば、どうにかして彼らに接近したうえ、さっそく彼らに一杯食わしてやることはできないか? これは必要なことかどうか? たとえば、彼らの力を利用して、何か自分の出世の助けになるようなことはできないか? ひと口にいえば、彼の前には数百の疑問が控えていたのである。
 このレベジャートニコフはどこかの勤め人だが、腺病質の瘰癧《るいれき》もちで、ふしぎなくらい亜麻色の毛をした、背の低い小柄な男で、カツレツのようなほおひげを立て、それをじまんにしていた。おまけに、ほとんど年じゅう目が悪かった。気持ちはかなり柔和なほうだったが、言葉は恐ろしく自信ありげで、時には度はずれに高慢くさく聞こえることがあった――それが彼の貧弱な風采《ふうさい》と比較して、ほとんどいつも滑稽《こっけい》の感を与えた。それでも、リッペヴェフゼルの下宿人の中では、かなり幅のきくほうだった。つまり酔っぱらい騒ぎもしないし、間代もきちょうめんに払ったからである。こうした性質があるにもかかわらず、レベジャートニコフはどこかまがぬけていた。彼が進歩主義や『わが新しき世代』に合流したのは、じつは感激から出たことなのである。この男は、お手軽に最新の流行思想に付和雷同《ふわらいどう》して、すぐさまそれを俗化してしまい、時には生《き》まじめに奉仕しているいっさいのものを、またたく間にカリカチュア化してしまうような、そんじょそこらにうようよしている俗人や、へなへなした月足らずや、何ひとつ学びおおせたことのないわからずやなどの、種種雑多な大群のひとりなのであった。
 もっとも、レベジャートニコフはごくのお人よしだったにもかかわらず、こっちでもやはり、自分の同居人であり、昔の後見人であるルージンが、いやでたまらなくなりかかっていた。それは双方から、とつぜん相互的に起こったことなのである。レベジャートニコフがいかに単純でも、ルージンが自分をだましていることも、内心ひそかに軽蔑していることも、『じっさいは、けっしてそんな人間じゃない』ということも、だんだん少しずつ見ぬいたのである。彼はルージンにフーリエの教義や、ダーウィンの理論などを説いて聞かそうと試みたが、こちらはとくに近ごろになって、なんだかあまり冷笑的な態度でそれを聞くようになったのみか、最近は悪口までつくようになった。それはほかでもない、ルージンが本能的に相手の正体を見ぬくようになったからである。つまり、レベジャートニコフは平凡なうすばかであるばかりか、もしかするとうそつきで、自分のサークルでさえ、少しおも立ったところとはなんの関係もなく、ただ又聞きで少しばかり知っているにすぎない。のみならず、話のしどろもどろになりがちなところから見ても、自分の宣伝事業すら、ろくすっぽ知らないらしいから、暴露家などには、どうしてどうしてなれそうもない! ついでにちょっといっておくが、ルージンはこの一週間半ばかり(ことに最初の間は)、レベジャートニコフから妙な賛辞を受けていた。といって、つまりべつに抗議をしないで、黙って聞いていたのである。たとえば、まもなくどこかメシチャンスカヤ(町人街)あたりに、新しい『共産団』ができれば、あなたは喜んでその建設に尽力するだろうとか、あるいは、結婚のその当日に、ドゥーネチカが恋人を作るような了簡を起こしたとしても、あなたはそのじゃまをしないだろうとか、また、将来生まれる子供にも洗礼を受けさせないだろうとか、すべてそういったふうのことだった。ルージンはいつもの癖で、どんな性質を自分に押しつけられても抗弁しようとせず、こんなふうなほめかたでも黙認していた――それほど彼は、あらゆる賛辞がうれしかったのである。
 この朝、どういうわけか、五分利つきの債券を何枚か現金にかえて来たルージンは、テーブルに向かって紙幣や債券の束を勘定していた。今までほとんど金というものを持ったことのないレベジャートニコフは、部屋の中を歩きまわりながら、この紙幣《さつ》束を無関心な、といおうより、むしろ、侮蔑《ぶべつ》の気持ちで見ているような顔をしていた。ルージンのほうでは、レベジャートニコフがこんな大金を平気でながめられようとは、これから先も信じていなかった。またレベジャートニコフのほうでも、情けないような気持ちでこう考えた――もしかするとルージンは、自分のことをそんなふうに考えかねない男かもしれない、それどころか、自分の無力さや、ふたりの間に大きな距離のあることを当てつけるために、紙幣の束をひろげたてて、自分の気持ちをくすぐり、嘲弄《ちょうろう》する機会がきたのを喜んでいるのかもしれない。
 レベジャートニコフはルージンをつかまえて、新しい特殊な『共産団』の建設という、十八番の題目を進展させにかかったけれど、今日は相手が今までになくいらいらして、いっこう注意をはらおうとしないのに気がついた。そろばん玉のかちかちという合い間合い間に、ルージンの口からもれる簡単な抗弁と批評はあまりにも見え透いた意識的な侮蔑と、嘲笑にみちみちていた。が、『人道主義的』なレベジャートニコフは、ルージンの不きげんを昨日の破談のせいにして、一刻も早く、その題目へ話を持って行こうとあせった。彼はこの問題について、この先輩《せんぱい》の失望を慰めうるのみならず、将来の精神的発達に、『必ず』裨益《ひえき》しうるような、進歩主義的で宣伝価値のある意見を持っていたのである。
「いったい、あすこじゃ、あの……後家さんのとこじゃ、どんな法事があるんです?」レベジャートニコフの言葉を、一ばんかんじんなところでさえぎりながら、ルージンはふいにこう問いかけた。
「まるでごぞんじないような口ぶりですね。ついきのう、わたしがそのテーマについて話したうえ、すべてこうした宗教的儀式にかんする思想を発展させたじゃないですか……それに、あの女はあなたも招待したじゃありませんか。わたしは聞きましたよ。あなたはご自分できのうあの女とお話しなさったし……」
「ぼくはまさかあのばかな乞食《こじき》女が、あのもうひとりのばか野郎からもらった金を、すっかり法事に入れあげようとは夢にも考えなかった。いまあのそばを通って、びっくりしたくらいですよ。酒だとかなんだとかいって、たいへんな支度なんですからね……おまけに何人も客を呼んでるが、なんのことだかさっぱりわけがわからん!」とルージンは何か目的でもあるらしく、何やかや尋ねるような顔をして、話をこっちへ持って来ながら言葉をつづけた。「なんだって? ぼくも招待されてるんですって?」急に顔を上げながら、彼はいいたした。「それはいったい、いつのことです? ぼくは覚えがないが、もっとも、ぼくは行きませんよ。ぼくがあんなところへ行ってどうするんだ? ぼくはただきのう、ちょっと通りすがりに、あの女と話しただけなんですよ――貧しい官吏の未亡人として、一時|扶助《ふじょ》という形で一年分の俸給《ほうきゅう》を扶助料にもらえるかもしれないという話をね。してみると、あの女はそのお礼にぼくを招待したんじゃないかな? へ、へ、へ!」
「わたしもご同様行かないつもりです」とレベジャートニコフはいった。
「そりゃそうだろうとも! 自分が手をくだしてなぐったんだからね。気がさすのはわかりきってるさ。へ、へ!」
「だれがなぐったんですって? だれを?」とベジャートニコフは急にどきっとして、顔まで赤くした。
「なに、きみがですよ、カチェリーナ・イヴァーノヴナをね、ひと月ばかり前に、どうです! ぼくは聞いたんだからね、きのう……つまり、これがきみらの信念というやつなんですよ!………それじゃ婦人問題の議論だって怪しいもんだ、へ、へ、へ!」これで気やすめになったらしく、ルージンはまたそろばんをはじきにかかった。
「そんなことは皆でたらめの誹謗《ひぼう》ですよ!」この一件を持ち出されるのを、絶えずびくびくしていたレベジャートニコフはむきになった。「それはまるで事実と相違していますよ!それ[#「すよ!それ」はママ]は別の話ですよ……あなたは聞きちがいをしていらっしゃる。根もない世間のかげ口ですよ! あの時わたしはただ自己防衛をしただけなんです。あの女が先にわたしに飛びかかって、引っかこうとした……あの女はわたしのほおひげを片っぽう、すっかり引き抜いてしまったんですからね……どんな人間だって、自分の身柄くらいは、守ってよさそうなものですね。それに、わたしはだれにだって暴行を加えることなんか、許すわけにいきませんよ……主義としてね。だって、あれはもうデスポチズム(専制主義)です。いったいわたしは、どうすればよかったんです? ぼんやりあの女の前に立ってるんですかね? わたしはただあの女を突きのけただけですよ」
「へ、へ、へ!」とルージンは、いじのわるそうな笑いかたをつづけた。
「あなたは、自分が腹が立って、むしゃくしゃするものだから、わざと突っかかって来るんでしょう……あんなの、くだらない話で、婦人問題なんかには、けっして少しも触れちゃいません! あなたの解釈はまちがっています。わたしはこう考えたんですよ。もし婦人が万事につけて、体力までも男子と同等だとすれば(このことはもう肯定されていますよ)、そうすれば、したがって、あの場合だっても、平等でなくちゃならんはずです。もっとも、あとでよく考察した結果、そんな問題は本質的に存在すべきでない、と結論しました。なぜかといえば、けんかはあってはならないもので、けんかなんて場合は来《きた》るべき社会において、考えることさえできないものだからです……したがって、もちろん、けんかの中に平等を求めるのは、奇怪なことに決まっています。わたしもそれほど、ばかじゃありませんからね……もっとも、けんかというものはあります……つまり、今後はなくなるけれど、今はまだある……ちぇっ! 畜生! どうもあなたと話してると、妙に脱線してしまう! わたしが法事に行かないのは、ああした不快ないきさつがあるからじゃない。ただ主義として行かないだけです。法事などといういまわしい偏見の仲間入りをしたくないからです、そうなんですよ! そりゃもっとも、行ったってさしつかえはないですよ。ただ冷笑してやるために。ね[#「ために。ね」はママ]……ただ残念なのは、司祭が来ないということです。さもないと、むろん行くんですがね」
「というと、つまり他家《たけ》へごちそうになりに行って、そのごちそうといっしょに、自分を招待してくれた人たちにまで、その場でつばをひっかけようというんですね。いったいそうなんですか?」
「いや、けっしてつばをひっかけるのじゃありません、ただ抗議をするんです。わたしは有益な目的をいだいて行くんです。開発と宣伝を、間接に助けうるわけなのです。人はだれでも開発し、宣伝する義務があります。それも、峻烈《しゅんれつ》であればあるほど、いいのかもしれませんよ。わたしは思想の種を投げることができます……その種から、事実が生じるというわけですよ。なんでわたしがあの人たちを侮辱することになります? もっとも、はじめは怒るかもしれないけれど、やがてそのうちに、わたしが利益をもたらしてやったことに、自分でも気がつくでしょう。げんにわれわれ仲間のテレビヨーヴァですね(いま共産団にはいっている婦人なんです)、それが家庭を飛び出して……ある男に身を任せたとき、自分の両親にあてて、偏見の中に住んでいるのはいやだから、自由結婚をするという手紙を送った。ところが、それではあまり乱暴すぎる、両親にはもう少し、しんしゃくしなくちゃ、手紙だってもう少し穏やかに書かなくちゃといって、非難するものがあったのです。が、わたしにいわせると、そんなことはまったくくだらないことで、穏やかに書く必要は少しもありません。むしろ、そういう時にこそ抗議する必要があるくらいですよ。あのワレンツなどは七年間も夫と同棲しながら、ふたりの子供を捨てて、一挙に手紙で夫にこう宣告したものですよ。『わたしはあなたといっしょにいては、幸福でいられないことを自覚しました。あなたは、共産団という手段による、ぜんぜん別な社会組織のあることをわたしに隠して、このわたしをだましていらっしゃいました。それは永久に許すわけにいきません。わたしは最近そのことを、あるりっぱな人から聞いたので、その人に身を任せ、いっしょに共産団を組織することにしました。あなたをだますのは破廉恥《はれんち》なことと思いますから、率直に申します。あとはどうともお好きなように、わたしを引きもどそうなどとは考えないでください。あなたはあまり手遅れにしておしまいになすったのですもの。ご幸福を祈ります』まあ、そうした種類の手紙はこんなふうに書くもんですよ!」
「そのテレビヨーヴァってのは、きみがいつか三度目の自由結婚をやったとかいってた、あの女じゃありませんか?」
「いや、厳密に判断すれば、やっと、二度目ですよ! しかし、よしんば四度目であろうと、十五度目であろうと、そん