京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP038~P049

ニャはかえっていまいましそうな顔をして、「ただいっただけならほんとうにそうしたのとちがいます」と申しました。それはむろんそのとおりです。いよいよの返事をする前に、ドゥーネチカは夜っぴて眠りませんでした。あの娘《こ》はわたしがもう寝ているものと思って、床から起き出し、夜通し部屋をあちこち歩きまわっていましたが、しまいには聖像の前にひざをつき、長いこと熱心に祈っていました。そしてあくる朝、わたしに向かって心をきめたと申しました。
『ピョートル・ペトローヴィチがペテルブルグへ立つ準備をしていることは、もうさきほど書きましたが、その人はそちらにいろいろたいせつな用向きがあって、ペテルブルグに弁護士の事務所を開こうという考えなのです。もう長らくいろんな訴訟事件を扱っておられ、三、四日前もある大きな訴訟に勝ったばかりです。ペテルブルグへぜひ出かけなければならぬというのも、大審院にたいせつな用があるからなのです。ねえ、ロージャ、かようなわけゆえ、その人は何かにつけてお前のためにもなる入らしいのです。わたしとドゥーニャは、もうお前に今日の日からでも今後の方針をしっかりと立てて、自分の運勢がすっかり定まったものと考えてもらいたいと、ずっと前から勝手にきめております。ああ、もしほんとうにそうなったら! それこそ神さまがわたしたちにじきじき授けてくだされたお慈悲にちがいない、それよりほかに考えようがないくらい仕合わせです。ドゥーニャはただそればかりを空想しております。わたしたちはそれについて、もう思いきってピョートル・ペトローヴィチに、二こと三こと話してみました。すると先方は大事を取りながら、もちろん、自分にも秘書がなくてはならぬから、給料なども当然他人に払うより、身内に払うほうがよいにきまっている。ただ当人にそういう仕事ができさえすれば(まあ、お前にそれができなくってどうしましょう!)とこういうのです。しかし、大学の仕事もあるから、事務所で働く余暇はあるまい、というような懸念《けねん》ももらしていました。そのときは話もそれきりになりましたが、ドゥーニャは今その事よりほか何ひとつ考えておりません。あの子はここ四、五日というもの夢中になって、やがてお前が訴訟事件でピョートル・ペトローヴィチの片腕、いえ、仲間にさえなって働くというようなことを考えて、もはやすっかり細《こま》かい計画を立ててしまいました。それにはちょうどお前が法科においでなのだから、なおさら好都合だというのです。なつかしいロージャ、わたしもそれにはしごく同意で、あの子の計画や希望を十分たしかと見て、おなじように楽しんでいます。今のところ、ピョートル・ペトローヴィチもあいまいな返事しかしないけれども、それはまったくむりのない話です(つまり、まだお前を知らないからです)。でもドゥーニヤは、さきざき夫のかじ[#「かじ」に傍点]をうまくとっていけば、何事もとげられると、かたく信じております。もちろん、わたしたちもこんなさきざきの空想については、とりわけ、お前が事務所仲間になるなどということは、ピョートル・ペトローヴィチには心して口をすべらしなどしません。なにぶん実証家のことゆえ、すげなくあしらわれてしまうかもしれません。いちがいにつまらない空想と思われるにちがいありませんからね。また同様に、わたしもドゥーニャもお前が大学においでの間、学費を助けてもらいたいというふたりの深い望みについて。一言もまだその人にうち明けてはありません。それをいわないわけは、第一、そんなことはおいおい自然にできることで、そのうえ、こっちからよけいな口をきかなくとも、先方から言いだすにちがいないと思うからです(どうしてあの人がこれしきなドゥーニャの頼みをきかずにおられましょう!)まして、お前は仕事の上で、りっぱにあの人の片腕になってあげることができるのだから、もう恩を着るのではなく、自分でかせいだ俸給《ほうきゅう》ということになるのであってみれば、なおさら話のまとまりが早いでしょう。ドゥーネチカもそういうふうにしたいと願っていますし、わたしもそれに大賛成です。次に、わたしたちがこの話をあの人に持ち出さなかった第二のわけは、近々お前たちふたりが顔を合わすときに、ぜひお前をその人と対等の位置に立たせたかったからです。ドゥーニャがお前のことを夢中になってほめたときに、ピョートル・ペトローヴィチは、だれにもせよ人を判断するには、自分で親しくその人を見ねばならぬ、と答えました。だから、お前という人物について意見をまとめるのは、お前と会ったうえで自分で勝手にする、というわけなのです。それからね、たいせつなロージャ、わたしはいろいろ考えることがあるので(といっても、それはけっしてピョートル・ペトローヴィチに関係したことでなく、ただほんのわたしだけの年よりじみたわがままなのでしょうが)――わたしは、ふたりの婚礼がすんでからも、ふたりといっしょではなく、今までどおりひとりでおいたほうがよくはないかと思われるのです。あの人は思いやりの細かいりっぱな紳士ゆえ、自分のほうからわたしを呼び寄せて、このさき娘と別れないようにいってくれるだろうと、わたしも信じています。今までいいださないのも、それはいわずとも当然な話だからです。けれどわたしは辞退します。今までの経験で一度ならず気づいたことですが、しゅうとめというものは婿にとって、あまりおもしろくないのが常ですからね。わたしはたといだれにもせよ、いささかでも人の迷惑にはなりたくないばかりか、手もとにわずかたりとも自分の食べるものがあり、お前や、ドゥーネチカという子供がいる間は、できるだけ自由な身でいたいと思います。ただできることなら、お前たちふたりの近くに住みたいものです。じつはね、ロージャ、わたしは何よりうれしいことをわざと手紙のおわりに取っておきました。さあ、いよいよ教えてあげましょう。たぶん近いうちにわたしたちはみんないっしょに落ち合って、かれこれ三年ぶりに三人互いに抱き合うことができるのです!もうほとんど確実に[#「確実に」に傍点]、わたしとドゥーニャはペテルブルグへ出かけます。いつということはまだわからないけれど、いずれにしてもごくごく近いうちで、もしかすると来週かもしれないくらいです。何事もピョートル・ペトローヴィチの指図しだいで、あの人はペテルブルグで用事の目鼻がつくと、すぐさまこちらへ知らせてくれるはずになっております。あの人は何やかやの都合でできるだけ結婚式を急ぎたいとかで、なろうことならこの四旬斎《しじゅんさい》のうちに、もしそれが早急すぎて間に合わなかったら、聖母昇天祭後にはどうでもすぐ式をあげたいと申しています。ああ、お前をこの胸に抱きしめるとき、わたしはどんなに幸福に感じるでしょう! ドゥーニャもお前と会ううれしさにすっかりわくわくしてしまって、一度などは冗談に、ただこれだけのためにでも、ピョートル・ペトローヴィチと結婚してもいいと申しました。あの子は天使です! あの子は今は何も書き添えないけれど、たくさんたくさんお前に話すことがあって、とてもいま筆をとる勇気が出ない、五行や六行ではなんにも書くことができなく、た。だ自分で自分をいらいらさせるばかりだから、とこう伝えるように頼みました。なお堅く堅くお前を抱きしめて、数限りない接吻《せっぷん》を送ってくれとのことでした。それにしても、わたしたちはまもなくじきじき会えることとは思いますけれど、わたしはやはり近いうちにできるだけたくさん、お前にお金を送ってあげます。ドゥーネチカが、ピョートル・ペトローヴィチと結婚することをみんなが知ってしまったので、こんどわたしの信用が急に増してきました。で、商人のヴァフルーシンも今なら年金の抵当で、七十五ルーブリくらいまでは融通してくれるにちがいないと思っています。だからお前にも二十五ルーブリか、三十ルーブリはお送りできるかもしれません。も少しよけいに送りたいのですが、道中の費用も心配しなくてはなりません。もっともピョートル・ペトローヴィチは親切にも、ペテルブルグ行きの旅費の一部を引き受けてくれました。つまりわたしたちの荷物や大トランクを自分の手で送ってくれることになっておりますが(だれか知った人を通じて送るらしいのです)、けれど、わたしたちはペテルブルグへ着いてからのことも考えなくてはなりません。たといはじめの二、三日分だけにもせよ、多少の金を握っていなければ、顔を出すこともできませんからね。もっとも、わたしはドゥーネチカとふたりで、すっかりこまごましたことまで計算してみたところ、路銀はほんの僅かですむことがわかりました。家から汽車まではたった九十露里、それはいざという場合を見越して懇意な百姓の馬車屋に頼みました。それから先は三等でらくらくとひと飛びにまいります。そうすればお前に二十五ルーブリでなく、きっと三十ルーブリやりくりして送れるだろうと思っています。でも、もうたくさん、二枚の紙にいっぱい書きつめて、もう余白がありません。どうもたいへんな長物語で、いろんな出来事がうんとたまったものだからね! さあ、それではなつかしいロージャ、近き再会の日を楽しみにお前を抱きしめましょう。そして母の祝福をお前に送ります。ロージャ、たったひとりの妹ドゥーニャをかわいがっておくれ。あの子がお前を愛しているようにお前もあれを愛しておやり、あの子がお前をかぎりなく、自分自身よりも愛していることを心に止めておくれ。あの子は天使です。ところがお前は、大事なロージャ、お前はわたしたちのすべてです。――わたしたちの希望の全部です。お前さえ幸福でいてくれれば、わたしたちもやはり幸福です。わたしのロージャ、お前は以前のように神さまにお祈りをしていますか? われらを創りたまいし贖《あがな》いの主たる神のおん恵みを信じていますか? わたしは当節はやりの不信心が、お前までも見舞いはせぬかと、心ひそかに案じております。もしそうなら、わたしはお前のために祈りましょう。思い出しておくれ、ロージャ、まだお前が幼いころ、お父さまの生きていらした時分、わたしのひざの上に抱かれながら、まわらぬ舌でお祈りをした時分のことを。そのころのわたしたちはどんなに幸福だったでしょう! ではさようなら、いえそれよりもお目もじまでと申しましょう。お前を堅く堅く抱きしめて数限りなく接吻《せっぷん》します。
[#4字下げ]終身かわらぬおん身の母
[#地付き]プリヘーリヤ・ラスコーリニコヴァ』

 手紙を読みにかかったそもそものはじめから、読み終わるまでずっと通して、ラスコーリニコフの顔は涙でぐっしょりになっていた。けれどもいよいよ読み終わったとき、その顔は蒼白《そうはく》に変わり、痙攣《けいれん》のためにゆがんでさえも見えた。そしてくちびるには重苦しい、いらいらした、いじわるな微笑がへびのようにうねっていた。彼は古ぼけてぺしゃんこになったまくらに顔を埋めて、じっと考えた。長いあいだ考えた。心臓は激しく鼓動し、思いはちぢに乱れさわいだ。とうとう彼は、戸だなか箱同様なこの黄いろい小部屋の中が狭くるしくて、息がつまりそうになってきた。視覚も思想もひろびろとしたところを求める。彼は帽子を取った。こんどこそもう階段で人に出会うのをあやぶむようなこともなく、外へ出て行った。そんなことなど忘れていたのだ。彼はV通りを横切って、さながら用事があって急ぐ人のように、ヴァシーリエフスキイ島の方向へ足を向けた。しかしいつもの癖で、道筋にはいっこう気のつかぬ様子で、何やらぶつぶつつぶやいたり、時には大声にひとり言をいうたりしながら、歩いて行った。それがひどく往来の人を驚かすのであった。多くのものは彼を酔っぱらいだと思った。

[#6字下げ]4

 母の手紙は彼を苦しめた。しかし、一ばん根本の重大な点に関しては、まだ手紙を読んでいるうちから、一瞬の間も疑惑や動揺を感じなかった。事件の最大眼目たる中心点は、彼の頭の中で決定されていた。断然なんのちゅうちょもなく決定されていた。『おれが生きているうちは、こんな結婚はさせるもんか。ルージン氏なんかくそ食らえだ!』
『だって事情は見えすいているじゃないか』と彼はうす笑いをもらし、自分の決心の成功に今からいじわるく勝ち誇りながら、つぶやくのであった。『だめですよ、お母さん、だめだよ、ドゥーニャ、お前たちにこのおれがだませるものか!……そのくせ、おれの意見を聞かなかったことや、おれをのけ者にして決めてしまったことを、あやまっているんだからなあ! そりゃそうだろうともさ! あのふたりは、いまさらこわすわけにいかないと思ってるが、いくかいかないか、見てみようじゃないか! なんというりっぱな言いわけだろう。「あの人は実務の人ですから――どうしてなかなか実際的な人ですから、駅つぎ馬車の中か、それとも、まかりまちがえば汽車の中ででも、結婚せねばならぬので、それよりほかにはしかたがない」だとさ。いや、ドゥーネチカ、何もかも見えすいているぞ。お前がおれにたくさん[#「たくさん」に傍点]話したいことがあるというのも、どういうことかおれにはよくわかっている。お前が夜通し部屋を歩きまわって、何を一生けんめいに考えたか、お母さんの寝室にすえてあるカザンの聖母の前で、いったい何を祈ったか、おれはちゃんと知ってるぞ。そりゃゴルゴタへ上るのは苦しいさ。ふん……じゃつまり、きっぱりと決めたわけなんだな……え、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ(ドゥーニャの本名)、実務の人で、思慮分別《しりょふんべつ》のある、自分の財産を持っている(もう[#「もう」に傍点]自分の財産を持っていると、こいつはなかなか重みがあって、ずっと人聞きがいいて)、ふたところに勤めて、新しい世代の確信をもわかつもので、(これはお母さんの言い草だ)しかもドゥーニャ自身の観察によれば、善良らしい[#「らしい」に傍点]男のところへいらっしゃるんですね。このらしい[#「らしい」に傍点]が何よりすてきだって! そしてあのドゥーネチカは、このらしい[#「らしい」に傍点]と結婚しようというのだ!………けっこうなことだ! けっこうなことだ!
『……だが、なんだってお母さんは「新しき世代」のことなんか書いてよこしたんだろう? 単に当人の性格描写のためか、あるいはもっとほかに目的があるのか? つまり、ルージン氏をよく思わせるために、おれを籠絡《ろうらく》しようというのか? ああ、なんという策士たちだろう! それから、もう一つの事情も知っておきたいものだな――いったい母たちふたりはその日も、その晩も、それからずっと先も、どの程度まで互いにうち明け合ったのだろう? ふたりの間にはすべての言葉[#「言葉」に傍点]が、歯に衣《きぬ》きせずいわれたのだろうか、それともふたりは互いの心もちや考えを悟り合って、何もそんなことを口に出して、かれこれいう必要がないどころか、言葉をもらすのもむだなくらいだったのか? おおかたそんなことも多少あったろう。手紙を見てもわかりきっている。お母さんは、あの男が少々[#「少々」に傍点]とげとげしいように思われた。ところが、お母さんは人がいいものだから、自分の観察をばか正直にドゥーニャに話した。妹はもちろん腹を立てて、「いまいましそうに答えた」わけだ。あたりまえじゃないか! ばか正直な問いなんかもちかけなくても、生地《きじ》はわかりすぎるほどわかっていて、今さら何もいうこともないとすれば、だれしもかんしゃくをおこそうじゃないか。それからお母さんはなんてことを書いているんだろう。「ドゥーニャをかわいかっておくれ、ね、ロージャ、あの子はお前を自分自身よりもよけい愛しているのだから」だとさ。むすこのために娘を犠牲にすることを承知したので、自分でも内々心ひそかに良心の呵責《かしゃく》を感じているのだろうか。「お前は、わたしたちの希望です、わたしたちのすべてです!」だと、おお、お母さん、なんということでしょう!』憤怒《ふんぬ》の念はいよいよ激しく彼の心に煮えたった。もし今ルージン氏に出くわしたら、彼はこの男を殺してしまったかもしれない!『ふん……もっともそれだけはほんとうだ』旋風のように頭の中をぐるぐるまわる想念を追いながら、彼はこう考えつづけた。『それだけはほんとうだ、「人間を知るには長い目で気をつけて見ねばなりません」しかし、ルージン氏は見えすいている。何よりも第一、「事業家で、善良な人らしい[#「らしい」に傍点]」のだ――ばかにしてる。荷物を引き受けた。大トランクを自分の手で届けてくれる! いやはや、まったく善良でないとはいえまいよ。だが、あの人たちふたりは、花嫁[#「花嫁」に傍点]と母親とは、百姓男をやとって、むしろを屋根にした荷馬車に乗って行くんだよ! (おれもそいつによく乗ったものだ!)なに、平気さ! たった九十露里だからな。「それからさきはらくらくと三等で一気に飛んで行く」さ。千露里の道中をな。まあいい分別だ――何事も身分相応ということがかんじんだからなあ。だが、ルージン氏、あなたはどうしたもんですね? だってあれは君の花嫁じゃありませんか……それにまた、おふくろが年金を抵当に旅費を前借りしようとしてるのを、ごぞんじないはずはないでしまう? もっとも、そいつはあなたがた共同の商取引きでもうけも山分けなら、費用も半々というところですかな。下世話《げせわ》にも、ごちそうはいっしょでも、たばこはめいめい持ちといいますからね。だが、ここでも実務家先生、ふたりを少少ごまかしているんだ――荷物は旅費よりも安くつくからな、ことによると、まるまるただで行くのかもしれない。どうしてふたりのものはそれがわからないんだろう。あるいは、わざと気のつかないふりをしているのかな? とにかく満足してる。満足しきっているのだ! しかし、これはほんの三番叟《さんばんそう》で、ほんとうの芝居はこれからなんだから、考えただけでもぞっとする! じっさいこの事件で肝腎なのは――やつのしみったれでもなければ、欲っ張りでもない。万事につけてそうした調子なんだ。だって、これが結婚後ずっとさきざきまでの調子[#「調子」に傍点]なのだから。つまり予言だ……それに、お母さんはなんだってそんな散財をするのだろう? 何をふところにしてペテルブルグなぞへ来るんだろう? ルーブリ銀貨三つか「お札《さつ》」の二枚も持ってか(これはあいつの言い草だ……あのばばあの)……ふん! それに、お母さんはゆくゆくペテルブルグで、どうして暮らしてゆくつもりだろう? 結婚の後は、ほんの当座しばらくでさえも、ドゥーニャといっしょに暮らせないのを、何かのわけでもう気がついたんじゃないか! あの優しい紳士が、きっとなにげなく口をすべらして[#「口をすべらして」に傍点]、自分の腹をにおわせたに相違ない。もっとも、お母さんは両手を振って、「わたしのほうからご辞退します」とはいっているけれど、いったいお母さんはだれをあてにしているのだろう――アファナーシイ・イヴァーヌイチの借金を差し引いた百二十ルーブリの年金か? それから、冬は老いの目を悪くしながらえり巻を編んだり、そで口の刺繍《ししゅう》をしたりする。だが編み物や刺繍は、例の百二十ルーブリに、せいぜい年二十ルーブリも増すくらいなことだ。おれはよく承知している。すると、つまり、やはりルージン氏の男気をあてにしているわけだ――「自分のほうからいいだして、どうぞと頼んで来るだろう」というつもりでな。だが、ご用心、ご用心! こういうことは、ああしたシルレル式の美しい心をもった連中によくあるやつだからな――いよいよというどたんばまで孔雀《くじゃく》の羽毛で相手を飾ってさ、最後のどんづまりまで良いことばかり頼みにして、悪いほうを見ないようにする。そして、物事に裏のあることは感じていながら、どうしても前もってほんとうのことを自分にいって聞かそうとしない――そんなことは考えただけでも、内心ぎっくりとなるほうだ。けっきょく、美しく飾りたてられたやっこさんが、自身のほうから正直者をお笑い草にするまで、一生けんめいに真相をうち消しているのだ。それはそうと、ルージン氏は勲章を持ってるだろうか? きっとボタン穴に「アンナ」があるにちがいない、賭けでもして見せる。やつはそれを、請負師《うけおいし》や商人仲間の宴会につけて行くのだろう。自分の結婚式にもつけるに相違ない! だが、あんなやつのことはどうでもいい!………
『いや……まあお母さんはそれでもいいさ、かまわないとしよう。もともとそういう人なんだから。だが、ドゥーニャはどうしたもんだ? ドゥーネチカ、かわいい妹、おれはお前をよく知っているぞ? 一ばん最後にお前と会ったとき、お前はもう二十《はたち》だった。そしてもうそのとき、お前の性格はよくわかった。お母さんは「ドゥーネチカはなんでも忍ぶことができる」と書いている。それはおれも知っていた。二年半も前からちゃんと承知していた。そして、その時から二年半というもの、おれはそのことを考えていた。つまり、「ドゥーネチカはなんでも忍ぶことができる」ってことだ。スヴィドリガイロフ氏と、それから生じた多くの結果さえも忍びおおせたのだから、事実なにごとでも忍びうるわけだ。そこでこんどはお母さんといっしょに、貧乏人からもらわれて夫に恩を着せられた女房の長所|云々《うんぬん》という法則を明言した、しかもほとんど初対面早々からそれを明言したルージン氏をも、忍ぶことができるだろうと想像したわけだ。まあかりに、やつが分別のある人間のくせに、「つい口をすべらした」ものとしよう(もっとも、まるっきり口をすべらしたのじゃなくて、かえって少しも早く態度を明らかにしようと思ったかもしれぬ)。だがドゥーニャは、ドゥーニャはどうしたというのだ? あれには男の人となりがはっきりわかっているんじゃないか、だって、一生ともに暮らす男だからな。あれは黒パンをかじって水を飲んでも、自分の心は売りゃしない。楽がしたさに精神的自由を売るような女じゃない。ルージン氏などはおろか、シュレスヴィッヒ・ホルスタイン全部をやるといわれたって、売るようなことはしゃしない。いや、ドゥーニャは、おれが知っているかぎりでは、そんな女じゃなかった。そして……まあ、もちろん、今だって変わっちゃいないだろう!………いや、何もいうことはない! スヴィドリガイロフ夫婦もつらい! 生涯二百ルーブリの家庭教師で、県から県をまわって歩くのもつらい。しかし、それでもおれは知っている。おれの妹は、わが身一つの利益だけのために、尊敬もしていなければ、なんとも相手にならない男と、永久に運命を結びつけて、自分の魂や、道徳的感情を俗化するよりは、植民地の農場主のところへ奴隷《どれい》になって行くか、バルト地方のドイツ人のところへ女中に行くほうが、まだしもだと考えるたちの女だ。そして、よしんばルージン氏が純金か、ダイヤモンドでできた人間であるにもせよ、ルージン氏の合法的|妾《めかけ》になるのを、承知するわけがない! では、なぜこんどそれを承諾したのか? いったいその綾《あや》はなんだろう? このなぞの鍵《かぎ》はどこにあるのだ? わかりきったことだ――自分のため、自分の安逸のため、いや、それどころか、わが身を死地から救うためにても、自分を売るようなことはしないが、人のためには、これ、このとおり売ろうとしているのだ! 愛する人のため。敬慕する人のためには売ってしまう! ここに手品《てじな》の種があるんだ――兄のため、母のために売ろうというのだ! 何もかも売ってしまう! おお、場合によっては、自分の道徳的感情をも押えつけてしまおうし、自由も、安逸も、はては良心までも、何もかも一切合財《いっさいがっさい》、ぼろ市《いち》へ持ち出してしまうのだ! 自分の一生はどうともなれ! ただ愛する人が幸福になりさえすればいい。のみならず、自分で勝手な理くつをこさえて、ジェスイット派そこのけの研究をつむ。「これはそうしなければならないのだ、じっさい、善良な目的のためには、そうしなければならないのだ」などと、たといほんの一ときだけでも、自分を慰めもし説教もするだろう。われわれはだいたいこんな者だ。万事は火を見るごとく明らかだ。またこの事件で、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフが関係者で、しかもその主役だということも明瞭《めいりょう》だ。いや、それもよかろう。兄の幸福をはかることもできるし、大学をつづけさせることもできるし、法律事務所の共同経営者にもしてやれるし、一生の運命を保証することもできる。そして、後にはおそらく名誉に包まれて、人から尊敬される金満家《きんまんか》になるかもしれない。あるいはけっこうな人間として生涯《しょうがい》を終わるかもしれないのだ! したが、お母さんは? けれど問題はロージャなのだ、かけがえのないロージャ、総領むすこのロージャなのだ! さあ、こういう総領むすこのためなら、たといあんなすばらしい娘でも、犠牲にしてならぬという法がどこにある! おお、ふたりともなんといういじらしい、とはいえ、まちがった心だろう! いや、なんのことはない、これではわれわれも、ソーネチカの運命を拒むことができなくなる! ソーネチカ、ソーネチカ・マルメラードヴァ、世のつづくかぎり永遠に尽きぬソーネチカ! あなたがたふたりは犠牲ということを、犠牲というものの深さを、十分に測ってみましたか? どうです! 手に合いますか? 得になりますか?合理的[#「なりますか?合理的」はママ]ですか? ねえ、ドゥーネチカ、お前はわかっているかい? ソーネチカの運命は、ルージン氏と結びつけるお前の運命に比べて、少しもけがらわしいことはないのだよ。「あれには愛情などあろうはずがない」とお母さんは書いている。え、もし愛情のほかに尊敬すらもないとしたら、いやそれどころか、嫌悪と侮蔑があるとしたら、そのときはどうするのだ? そうなると、ここでもまた「さっぱりとした身なりということに気をつけねば[#「さっぱりとした身なりということに気をつけねば」に傍点]」ならぬことになる。そうじゃないか、え? ところで、おわかりですかね、あなたさまにはおわかりですかね――そのさっぱりした身なりというのが、何を意味するのか? おわかりですかね――ルージン夫人のさっぱりした身なりは、ソーネチカのさっぱりした身なりと同じだということが? いや、ことによったらもっと悪い、もっとけがらわしい、もっと卑しいものかもしれないのだよ。なぜといってごらん、ドゥーネチカ、お前のほうはなんといっても、多少楽をしようという目算もひそんでいるが、一方はそれこそもう飢え死にするかしないかという問題なんだからな! 「このさっぱりした身なりというやつは高いものにつくんだよ、ドゥーネチカ、高いものに」ところで、もしあとで力及ばず後悔するようになったら? その悲しみはどれほどか――嘆き、のろい、人知れず流す涙は、どれくらいかしれやしない? だってお前はマルファ・ペトローヴナとは違うからな。いったい、そのときお母さんはどうなるのだ? だって、お母さんはもういまから不安を感じて、煩悶《はんもん》しているのだもの、万事がはっきりわかった暁はどうだろう? それにまたおれはどうなるのだ!………ほんとうにお前たちはおれのことをなんと考えたのだ? ドゥーネチカ、おれはお前の犠牲なんかほしくない。お母さん、ぼくはいやです! ぼくの目の黒い間は、そんなことをさせやしない、断じてさせるものか! させるものか! 承知するわけにいかん!』

 彼はふいにわれに返って、足を止めた。
『させない? じゃ、そうさせないために、お前はいったいどうするつもりだ? さし止めるのか? どうしてお前にその権利がある? そういう権利を持つために、お前は自分のほうで何を彼らに約束することができるのだ? 大学を卒業して職を得た時に[#「大学を卒業して職を得た時に」に傍点]、自分の運命全部を、自分の未来一切を、彼らにささげるというのか? いや、それはもう聞き飽きた。だって、それはまだ未知数[#「未知数」に傍点]じゃないか。だが今は? 今げんに何かしなければならんじゃないか、いったいそれがわかっているのか? それだのにお前は、いま何をしていると思う? お前はかえって彼らから略奪しているじゃないか。だって彼らの金は、百ルーブリの年金かスヴィドリガイロフ家の苦しみかを抵当にして借りたものじゃないか? スヴィドリガイロフや、あのアファナーシイ・イヴァーヌイチ・ヴァフルーシンなどのような連中から、お前はどうして彼らを守りおおせるつもりだい? おい未来の百万長者、彼らの運命をつかさどるゼウスの神どの! 十年もしたらというのか? ふん、十年もたつうちには、おふくろはえり巻の内職か、それとも涙のためにでも、めくらになってしまうだろう。いや、それどころか、栄養不良でミイラになってしまうだろうよ。ところで、妹は? 十年たってから、いや、この十年の間に、妹の身はどうなっているか、ひとつ考えてみるがいい。どうだ、わかったか?』
 こうして彼は自分をさいなんだ。そして一種の快感をおぼえながら、こうした自問自答でおのれを嘲笑《ちょうしょう》し、愚弄《ぐろう》するのであった。もっとも、すべてこれらの問題は目新しいものでもなければ、とつぜん起こったものでもなく、ずっと以前から内訌《ないこう》している古いものであった。もう久しい前から、これらの問題は彼を悩ましはじめて、今では彼の心をずたずたに引き裂いてしまった。現在のこうした憂悶《ゆうもん》が彼の心に生まれたのは、もうずっとずっと前のことで、それがしだいに成長し、つもりつもって、最近にいたっては、恐ろしい、奇怪な、ありうべからざる疑問の形をとって、完全に成熟し凝結《ぎょうけつ》したのである。この疑問はいやおうなく解決を要求しながら、彼の感情をも、知性をもへとへとに悩み疲らせたのだ。こんどきた母の手紙はとつぜん雷のように彼を打った。もういまは明瞭《めいりょう》に、問題の解決難のみを考えて、受動的に苦しんだり、悩んだりしているときではない。ぜひとも何かしなければならぬ。しかもいますぐ、一刻も早く。ぜがひでも決行しなければならぬ、でなければ……
「でなければ、ぜんぜん人生を拒否するんだ!」とつじょ、彼は狂憤にかられて叫んだ。「あるがままの運命を従順に生涯かわることなく受け入れて、活動し生き愛するいっさいの権利を断念し、自己内部のいっさいを圧殺《あっさつ》してしまうんだ!」『わかりますかな、あなた、わかりますかな、もうこの先どこへも行き場のないという意味が?』ふいに昨日のマルメラードフの質問が、彼の心に浮かんだ。『だって人間はだれにもせよ、たといどんな所でも、行くところがなくちゃだめでがすからな……』
 ふいに彼はぎくりとした。これもやはり昨日と同じである一つの想念が、またしても彼の頭をひらめき過ぎたのである。しかし、彼がぎくりとしたのは、この想念がひらめいたからではない。つまり、彼はこの想念が必ず『ひらめく』に相違ないのを、ちゃんと知っていたからである。予感して[#「予感して」に傍点]いたからである。むしろそれを待ち設けていたほどである。それにこの想念は、ぜんぜん昨日のものとはいえなかった。ただその間《かん》の相違は、ひと月前まで、いやつい昨日までも、それはただの空想だったのが、今では……今では急に空想でなく、なにか新しいすぎ味のある、まるでかつて覚えのない形で現ねれたごとである。そして、彼自身を忽然《こつぜん》としでそれを意識した……彼は頭をがんと打たれたような気がして、目のなかが暗くなった。
 彼は急いであたりを見まわした。彼は何かを求めていた。腰をおろしたくなったので、ペンチをさがしているのだった。おりしもその時、彼はKブルヴァール(並木通り)を通っていたので。ベンチは百歩ばかり先のほうに見えた。彼はできるだけ急いで歩いた。けれどもその途中、ちょっとした事が彼の身辺に起こって、しばらくのあいだ彼の注意をすっかり引きつけてしまった。
 彼はベンチを見つけだそうとしているうちに、前のほう二十歩ばかりのところを歩いて行く少女の姿を認めた。しかしはじめはその女にも、今まで眼前にちらつくいっさいの事物と同様、彼はなんの注意もはらわなかった。今までも彼は家まで歩いて帰りながら、通って来た道筋をてんで覚えないというようなことも一度や二度ではなかった。もうそういうふうに歩くのが癖になっていたので。けれど、いま歩いて行く女には、ひとめ見た瞬間から、どことなく変なところのあるのが目についた。で、彼の注意はしだいにそのほうへ吸いつけられていった――最初は気のりせぬふうで、なんとなくしゃくなようにさえ感じられたが、やがておもむろに強い注意に変わっていった。この女の変なところはいったいなんであるか、それを急に突きとめたくなった。だいいち彼女はまだ若いはずなのに、この炎天に帽子もかぶらず、パラソルも持たず、手ぶくろもはめないで、なんとなく奇妙に両手を振りながら歩いていた。彼女は軽い絹地の(いわゆる『やわらかもの』の)服を着ていたが、これもやっぱりひどく妙ちきりんな着かたで、どうにかこうにかいいかげんにボタンをかけ、おまけに後ろの腰のあたり、スカートのつけ根辺がひどく破れ、一か所などは今にもちぎれてしまいそうに、ぶらぶら揺れながら下がっていた。小さいえり巻があらわな首に巻かれていたが、それもゆがんでわきのほうへずっている。かてて加えて、娘はひょろひょろとつまずいたり、あちらこちらとよろめきながら、あぶなっかしい足どりで歩いていた。ついにこの邂逅《かいこう》は、ラスコーリニコフの注意を完全に呼びさました。彼はベンチのすぐそばで娘に追いついたが、彼女はベンチヘたどりつくやいなや、いきなりその片すみへどうと倒れて、ペンチの背に頭を投げかけ、いかにも疲れきった様子で目をとじた。そのさまをじっと見入ったとき、娘がひどく酔っぱらっていることを彼はたちまち察してしまった。こうした現象を見るのは、ふしぎでもあれば、奇怪でもあった。彼は見当ちがいではないかとさえ思った。彼の前にあるのはいたって若々しい顔で――せいぜい十六か、もしかしたら十五かと思われる――小さな、白っぽい髪をした、美しい顔であったが、それでも燃え立つように赤くなって、どこやらはれぼったい顔だった。娘はもう意識がもうろうとしているらしく、片方の足をいま一方の足へのせていたが、その上げかたがなみよりもずっと高かった。あらゆる点から見て、往来にいることさえも意識していないらしい。
 ラスコーリニコフは、腰もかけず、立ち去ろうともしないで、思いまどうさまで娘の前に立っていた。このブルヴァ-ルはふだんでもおおむねがらんとしていたが、いまこの日盛りの二時すぎには、ほとんど人影一つ見えなかった。ところが、十五歩ばかり離れたブルヴァールのはずれに、ひとりの紳士が立ちどまって、いかにも何か目的《あて》があるらしく、しきりに娘のほうへ近づこうとしている様子だった。どうやら、彼も遠くから彼女を見つけて、あとをつけて来たのだけれど、ラスコーリニコフがじゃまになるらしかった。彼は、相手にけどられまいと苦心しながら、ラスコーリニコフのほうへいじわるげな視線を投げ、いまいましい貧乏男が行ってしまって、自分の番の来るのをじれったそうに待っている。それはもう明白だった。くだんの紳士は年ごろ三十そこそこ、でっぷりとふとった男で、血の中に牛乳でも交ったような色つやをし、ばら色のくちびるの上には小さな口ひげをたくわえ、恐ろしくしゃれた身なりをしていた。ラスコーリニコフはむやみに腹が立ってきた。彼はだしぬけに、どうかしてこのあぶらぎったしゃれ者を怒らしてやりたい気がおこった。彼はちょっと娘をうっちゃって、紳士のほうへ近づいた。
「おい、きみ、スヴィドリガイロフ[#「スヴィドリガイロフ」に傍点]! きみはここに何用があるんです?」と彼はこぶしを固めて、憤怒《ふんぬ》のあまりあわ立つくちびるに冷笑を浮かべながら、こうどなりつけた。
「そりゃいったいなんのこってす?」と紳士は眉《まゆ》をしかめて、高慢ちきな驚さの色を浮かべながら、いかめしい調子で問いかえした。
「ここからとっとと行きなさい、とこういうわけなんです!」
「なにを生意気な、この野郎!」
 そういって、彼はステッキを振り上げた。ラスコーリニコフは、このでっぷりした紳士なら、自分のような男のふたりくらい、わけなくしまつできるということさえ考えず、こぶしをふり上げて飛びかかった。が、その瞬間、だれやら後ろから彼をしっかと抱きとめた――ふたりの間に巡査が割ってはいったのである。
「ふたりともおよしなさい、往来でけんかなんかしちゃいけません。いったいどうしたというんです? きみはいったい何者だ?」ラスコーリニコフのぼろ服を見わけると、巡査はきっと彼のほうへふり向いた。
 ラスコーリニコフはその顔を注意ぶかくながめた。それは半白の口ひげと、ほおひげのある、ものわかりのよさそうな目つきをした、たくましい兵隊型の男たった。
「ぼくはちょうどきみに来てもらいたかったのだ」彼は巡査の手をつかみながらどなりかえした。
「ぼくはもと大学生で、ラスコーリニコフというものです……それをあなたも知っといていいでしょう」と彼は紳士のほうへふり向いた。「きみ、いっしょに行こうじゃありませんか、見せるものがある……」
 こういって、巡査の手を引っつかむと、彼はベンチのほうへ連れて行った。
「まあ、ごらんなさい、すっかり酔っぱらっています。つい今しがたこのブルヴァールを歩いて来たんです――どうした娘だかわかりませんが、商売人とは思われない、きっとどこかで飲まされた……だまされた……らしいんです……はじめて……ね、おわかりでしょう。そして、そのまま往来へほうり出されたものなんです。ごらんなさい、この服の破れていることを。ごらんなさい、この服の着ざまを。だってこれは着せられたもので、この娘が自分で着たんじゃありませんよ。なれない手で、つまり男の手で着せたんですよ。それは見えすいている。ところで、こんどはこっちをごらんなさい――ぼくが今けんかをしようとしたこのきざ男は、ぼくの知らない初対面の人間ですが、今みちみち、酔っぱらって正体のないこの娘に目をつけて――娘がこんな有様でいるもんだから――これから娘に近づいて、うまく手に入れたくってうずうずしている――どこかへ引っぱり込むつもりでね……そりゃもう、きっとそれにちがいないです。だいじょうぶ、ぼくの考えちがいじゃありませんから。ぼくはちゃんとこの目で見たんだが、先生この娘を観察して、じっと目を放さずにいたのです。ただぼくがじゃましていたものだから、ぼくが行ってしまうのを、さっきからずっと待っていたのです。ふん、やつは今すこしわきへ離れて、たばこを巻くようなふりをしてやがる……どうかしてこの娘をやつの手にわたさないようにしたいものですな、どうかしてこの娘を家まで送り届けてやりたいものですな――ひとつ考えてくれませんか!」
 巡査はすぐに万事をのみこんで、頭をひねった。ふとった紳士の件は明白だったから、残るのは娘のことばかりであ