京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP277-P300

わたしがこのとおり服装《なり》ふりかまわなくなったのは、このごろ田舎に逼塞《ひっそく》しているからですよ。それでもやっぱり、当時はわたしも惜金のことで、牢《ろく》へぶち込まれようとしたこともあるんです。相手はネージンのギリシャ人でしたよ。そのとき偶然マルファ・ペトローヴナなる人物が現われて、いろいろ掛け合ってくれたうえ、三万ルーブリでわたしを身受けしてくれたのです(わたしの借金は、全部で七万ルーブリだったんで)。そこで、わたしとマルファは正式に結婚しました。マルファはわたしを宝物か何かのようにして、すぐさま自分の田舎へ連れて帰った。なにしろ、彼女《あれ》はわたしより五つも年上でしたからね。たいへんわたしを愛してくれましたよ。わたしは七年間というもの、村から外へ出ないで暮らしました。ところで、どうでしょう。あれはずっと死ぬまで、例の三万ルーブリというわたしの借用証文を、他人の名儀にして握っていたんですよ。だから、わたしが何かちょっと謀反気《むほんぎ》でも起こそうものなら、すぐわなへかかってしまうわけです! また、それくらいのことはしかねない女でしたよ! なにしろ女ってやつは、そうしたいろいろな気持ちが、いっしょくたに入り交ってるものですからなあ」
「もしその証文がなかったら、あなたは逃げ出しましたかね?」
「それはなんともご返事に困りますね。わたしはそんな証書なんかには、ほとんど束縛されてなかった。自分でどこへも出て行きたくなかったんですね。マルファは、わたしがつまらなさそうにしているのを見て、自分から二度も外国行きを勧めてくれたものです。しかし、そんなことをしたってしようがないじゃありませんか! 外国へは前にもちょくちょく行ったことがありますが、いつもいやあな気がするばかりでした。いやな気がするというのとも違うが、朝、東がしらむころ、ナポリ湾の海を見ていると、なんとなく気がめいってくるのです。わけてもいやでたまらないのは、じっさい、何か気のめいる原因がありそうなことなんです。いや、やっぱり故郷が一ばんいいですよ。故郷では少なくとも、万事を人のせいにして、自己弁護をすることができますからね。わたしはいま北極探検にでも出かけたいくらいの気持ちなんです。なにぶん、J'ai le vin mauvais(わたしは酒癖が悪いもんですからね)、しかも、飲むのがいやでたまらないんです。でも、酒をやめたら、あとに何も残りゃしません。もうやってみたんですよ。ときにどうです、この日曜にユスーポフ公園で、ベルグが大きな軽気球に乗って飛ぶので、一定の料金で同乗者を募集してるそうですが、ほんとうですか?」
「じゃ、なんですか、あなた飛ぶつもりなんですか?」
「わたしが? いいや……ただちょっと……」スヴィドリガイロフは真剣に考えこんだ様子で、こうつぶやいた。
『いったいこの男はどうなんだろう、本気なのかしらん?』とラスコーリニコフは考えた。
「いいや、証書なんかに束縛されたんじゃありませんよ」とスヴィドリガイロフはもの思わしげに言葉をつづけた。「わたしは自分の勝手で村から外へ出なかったのです。それに、もうかれこれ一年になりますが、わたしの命名日にマルファはその借用証書を返してくれて、おまけに、まとまった金まで添えてくれました。あれはなかなか財産家だったんですよ。そして『わたしがどんなにあなたを信じているか、これでわかりましょう、アルカージイ・イヴァーヌイチ』って――ほんとにあれはこのとおりな言葉を使っていったんですよ! しかしあなたは、彼女《あれ》がこんな言葉を使っていったなんて、ほんとうになさらんでしょうな? それはとにかく、わたしは村で押しも押されもせぬひとかどの地主になって、近在でも人に知られるようになったんですよ。書籍などもやはり取り寄せて読みました。マルファは初めそれに賛成してくれましたが、しまいには、あまり勉強に凝りすぎはせぬかと、心配するようになりました」
「なんだかなくなったマルファ・ペトローヴナが、しきりになつかしく思い出されるようですね!」
「わたしが? そうかもしれません。いや、大きにそうかもしれません。ときに、ついでですが、あなたは幽霊の存在をお信じですか?」
「どんな幽霊です!」
「どんなって、普通の幽霊ですよ!」
「じゃ、あなたは信じますか?」
「さあ、信じないといってもいいかもしれませんな、Pour vous plaire(もしお望みなら)……でも、信じないというのとも違うかな……」
「じゃ、出て来るわけなんですか、え?」
 スヴィドリガイロフはなんだか妙な目つきで彼を見やった。
「マルファ・ペトローヴナが、ときおりご来訪あそばすんです」と、なんとなく奇妙な微笑に口をゆがめながら彼はいった。
「ご来訪あそばすって、どうなんです?」
「なに、もう三度もやって来たんですよ。最初は、葬式の当日、墓場から帰って一時間ばかり後で、あれに会った。それは、こちらへ向けて発《た》つ前の晩でした。二度目はその途中、おとといの夜明けがたに、マーラヤ・ヴィシェラの停車場で見たし、三度目はつい二時間ばかり前、わたしの泊っている宿の部屋の中でしたよ。その時わたしはひとりきりでしてね」
「夢でなくうつつに?」
「ええ、もちろんです。三度ながら夢でないんです。やって来て、一分間ばかり話をすると、戸口から帰って行くんです。いつも決まって戸口から出て行くんです。足音まで聞こえるようでした」
「いったいどういうわけだろう、きみにはかならず何かそんなふうなことがあるに相違ないと、ぼくは初めからちゃんと考えてたんですよ!」とふいにラスコーリニコフはいった。
 と、同時に、そんなことを口走ったのに、われながらびっくりした。彼はひどく興奮していた。
「へーえ! あなたは、そんなことをお考えになったんですか?」と驚いてスヴィドリガイロフは尋ねた。「いったいほんとうですか? だからそういったじゃありませんか、われわれふたりにはどこか共通点があるって、ね?」
「そんなことはけっしておっしゃりゃしませんよ!」やっきとなって言葉するどく、ラスコーリコフはこう答えた。
「申しませんでしたか?」
「そうですとも」
「なんだかいったような気がしますがね。さきほど、はいって来たとき、あなたが目をつむって横になったまま、寝たふりをしておられるのを見て――わたしはこうひとり言をいったようなしだいです、『これがあの男だな!』と」。
「それはいったいなんのことです。あの男とは? いったいそれはなんの話です?」とラスコーリニコフはどなりつけた。
「なんの話ですって? まったくのところ、なんの話やら、わたしも知らないんですよ……」自分でもいささかまごつきぎみで、スヴィドリガイロフは心底から、そうつぶやいた。
 ちょっとの間、ふたりは黙りこんだ。ふたりとも目をいっぱいに見はって、互いに見合っていた。
「こんなことはみんな愚にもつかぬことだ!」と、いまいましそうにラスコーリニコフは叫んだ。「いったい奥さんは出て来て、どんな話をするんです?」
「妻《さい》ですか? まあ、どうでしょう、思いきってくだらない話ばかりなんです。ところで、人間って妙なものじゃありませんか、わたしはそれがしゃくにさわるんでしてね。最初の時には、はいって来て(じつはわたしは疲れていたんです。葬儀、冥福祈禱《めいふくきとう》、それからミサ、饗応《きょうおう》と続いたあげく、やっとひとりになって、書斎で葉巻を吸いつけながら、考えこんでいたら、ちょうどその時なんです)、戸口からはいって来ましてね、『ねえ、アルカージイ・イヴァーヌイチ、あなたは今日、忙しさに取りまぎれて、食堂の時計を巻くのをお忘れになりましたね』というんです。ところがその時計は、じっさい七年のあいだ毎週きまって、わたしが自分で巻いていたので、どうかして忘れると、いつもあれが注意したものなんです。その翌日、わたしはもうこちらへ向けて発《た》ちましてね、明けがた停車場の食堂へはいったわけです――前の晩にちょっとうとうとしたばかりなので、からだはくたくただし、目はとろんとしている――わたしはコーヒーを手に取って、ふと見ると、いつの間にかマルファがカルタを一組手に持って、わたしのそばに腰をおろしながら『あなたの道中を占ってあげましょうか、アルカージイ・イヴァーヌイチ?』という。あれは、カルタ占いの名人だったんです。いや、わたしはあのとき占わせなかったのが、われながら残念でたまりませんよ。びっくりして、いきなり逃げ出したわけなんで。もっとも、そのとき発車のベルも鳴りましたがね。それから今日は、仕出し屋から取ったおそまつきわまる昼食をすまして、重苦しい腹をかかえながらすわっていました。腰かけてたばこをふかしてると、またしてもふいにマルファが、新しい緑色の絹服の長い長いトレーン(尾)をひきながら、おそろしくめかしこんで、はいってくるじゃありませんか。『こんにちは、アルカージイ・イヴァーヌイチ! いかがですこの服は、お好みに合いまして? アニーシカでもこうは仕立てられませんよ』というんです(アニーシカというのは、わたしどもの村のお針子で、農奴あがりなんですが、モスクワへ修行に行っていたかわいい娘です)。それから、マルファはわたしの前に立ったまま、ぐるりとひとまわりして見せましたよ。わたしは服をながめて、それからじいっと気をつけて、妻《さい》の顔を見てやりました。『お前もいいもの好きだなあ、マルファ・ペトローヴナ、こんなくだらないことで、いちいちご苦労千万に、わたしのとこへやって来るなんて』といいますと、『あらまあ、もうちょっとくらいおじゃまをしてもいけませんの』といいます。わたしは少しあれをからかってやるつもりで『わたしはね、マルファ・ペトローヴナ、結婚しようと思ってるんだよ』というと、『そりゃあなたのご了簡しだいですけれどね、アルカージイ・イヴァーヌイチ、女房のお弔《とむら》いも十分すまさないうちから、すぐ結婚に出かけたりなすっちゃ、あまりご名誉な話でもありますまいよ。せめて相手でも、れっきとした人を見つけなすったのならともかく、わたしはちゃんと知っていますが、あの娘《こ》のためにも、あなたのためにもなりゃしません、ただ世間の笑い草になるだけですよ』こういったかと思うと、とたんに出て行きました。まるでトレーンのきぬずれの音まで聞こえるようでしたよ。ねえ、なんとばかげた話じゃありませんか、え?」
「しかし、いいかげんなことをいっておられるのかもしれませんね」とラスコーリニコフは応じた。
「わたしはめったにうそはつきません」とスヴィドリガイロフはもの思わしげに答え、質問の無作法なのにまるで気もつかない様子だった。
「じゃ以前、それまでに、幽霊をごらんになったことは、一度もなかったんですか?」
「いーいや、見ましたよ。生まれてからたった一度、六年まえのことでした。わたしどもにフィーリカという邸奉公《やしきぼうこう》の百姓がいましたが、その男を葬ったばかりの時に、わたしはついうっかりして――フィーリカ、パイプだ! と大きな声でいいつけると、そいつがいきなりはいって来て、わたしのパイプののせてある隅《すみ》だなのほうへ、つかつかと歩いて行くじゃありませんか。わたしはじっと腰かけたまま、『こいつおれに仕返しに来やがったな』と考えましたよ。というのは、そいつが死ぬ前に、ひどくいい合いをしたからなんです。で、わたしは『よくもきさまはひじの抜けたものを着て、おれのとこへはいって来られたな――とっとと出て行け、このやくざ者!』といってやりました。すると、くるりと向き直って出て行ってしまいましてね、それきりもう出ませんでしたよ。マルファにはそのとき話をしませんでした。わたしはその男のために法事でもしてやろうと思いましたが、気恥ずかしくなって、よしてしまいました」
「医者にみておもらいなさい」
「そりゃおっしゃるまでもなく、ちゃんと承知してます。正直、どこが悪いかわからないけれど、健康でないことだけは確かですな。が、わたしにいわせれば、わたしのほうがあなたより確かに五倍はじょうぶですよ。わたしがお尋ねするのは、幽霊の出現を信じなさるかどうか、というのじゃありません。わたしがお尋ねしたのは幽霊の存在をお信じになるかどうか、ということなんです」
「いや、断じて信じません!」声に一種の憎悪さえひびかせながら、ラスコーリニコフは叫んだ。
「だって、普通なんといっています?」スヴィドリガイロフはそっぽを見ながら、頭を少し傾けて、ひとり言のようにつぶやいた。「世間のものは『お前は病気だ、したがってお前の目に見えるものは、ただ現存せざる幻にすぎない』といいます。か、それには厳密な論理がないじゃありませんか。なるほど、幽霊はただ病人にだけ現われるものだ、ということにはわたしも同意です。しかし、これは単に、幽霊は病人以外のものには現われない、ということを証明するだけで、幽霊そのものが存在しない、ということにはなりませんからね」
「もちろん存在しませんよ!」とラスコーリニコフはいらだたしげにいいはった。
「存在しない? あなたはそうお考えですか?」スヴィドリガイロフはゆっくり彼を見やりながら、言葉をつづけた。「では、こういうふうに考えたらどうです(ひとつ知恵を貸してください)。『幽霊はいわば他界の断片であり、その要素である。もちろん、健康な人間には、そんなものなど見る必要もない。なぜなら、健康な人間は最も地上的な人間だから、したがって、充実と秩序のためにこの世の生活のみで生きなければならん。ところが、ちょっとでも病気をして、肉体組織がノーマルな地上的秩序を少しでもおかされると、たちまち他界の可能性が現われ始める。そして、病気が進むにつれて、他界との接触がいよいよ多くなってくる。で、すっかり死んでしまうと、たちまち他界へ移ってしまう』わたしはこのことを、だいぶ前から考えていたのです。もし来世というものを信じておられるのでしたら、この考えかたも信じていいわけですよ」
「ぼくは来世など信じやしません」とラスコーリニコフはいった。
 スヴィドリガイロフはもの思わしげにじっとすわっていた。
「どうでしょう、もしそこにはくも[#「くも」に傍点]か何か、そんなものしかいないとしたら?」と彼は出しぬけにこういった。
『こいつは気ちがいだな』とラスコーリニコフは考えた。
「われわれはげんに、いつも永遠なるものを不可解な観念として、何か大きなもののように想像しています! が、しかし、なぜ、必ず大きなものでなくちゃならないんでしょう?ところ[#「ょう?とこ」はママ]が、あにはからんや、すべてそういったようなものの代りに、田舎の湯殿《ゆどの》みたいな、すすけた小っぽけな部屋があって、そのすみずみにくも[#「くも」に傍点]が巣を張っている、そして、これがすなわち永遠だと、こう想像してごらんなさい。じつはね、わたしはどうかすると、そんなふうなものが目先にちらつくことがあるんですよ」
「いったい、いったいあなたの頭には、それよりもっと気やすめになるような、もっと公平な考えは浮かばないんですか!」と、病的な感じを声にひびかせながら、ラスコーリニコフは叫んだ。
「もっと公平な? そりゃわかりませんよ。ことによったら、これがあなたのおっしゃる、公平なのかもしれませんからね。それにわたしは必ず、わざとでもそうしたいんですよ!」なんともつかぬ微笑を浮かべながら、スヴィドリガイロフは答えた。
 この醜怪な答えを聞くと、ラスコーリニコフは一種の悪寒《おかん》に打たれた。スヴィドリガイロフは頭を上げて、じっと彼を見つめていたが、急にからからと高笑いをした。
「いや、こりゃじつにどうしたことでしょう」と彼は叫んだ。「つい三十分ばかり前までは、われわれお互いにまだ顔を知らないでいたんだし、今でも敵同士《かたきどうし》のように思っていて、しかも、ふたりの間には、かたづかない用事があるんですよ、ところが、われわれは用事をそっちのけにして、こんな文学談をおっ始めたんですからね! え、わたしがいったのはほんとうじゃありませんか、われわれは一つの森の獣だって?」
「どうかお願いですから」とラスコーリニコフはいらいらして言葉をついだ。「失礼ですが、早く用件をおっしゃってくださいませんか。なぜぼくがご来駕《らいが》の栄をたまわったのか、それを聞かしてくださいませんか……それに……それに……ぼく急ぐんだから。ぼく時間がないんです、ちょっと出かけたいんですから……」
「承知いたしました、承知いたしました。さて、お妹さんのアヴドーチヤ・ロマーノヴナは、ルージン氏と結婚なさるんですね。ピョートル・ペトローヴィチと?」
「どうかして妹にかんする問題はいっさい避けて、あれの名を口にしないようにしていただけないでしょうか? あなたがぼくの目の前で、よくもあれの名を口に出されると思って、ぼくはそれがふしぎなくらいです――もしあなたが、ほんとうにスヴィドリガイロフだったら?」
「だって、わたしはあの人のことを話しに来たんですから、口に出さずにゃいられませんよ!」」
「じゃよろしい、お話しください。しかし、なるたけ手っとり早く!」
「じつは家内の親戚《しんせき》に当たるあのルージン氏については、あなたご自身、もうちゃんと意見をお持ちのことと信じます。よし半時間でもあの男と面会なさるとか、あるいは、何にかぎらずあの男について確かな、ほんとうの話をお聞きになるとかすればですね、あの男はお妹さんの配偶《つれあい》になる資格はありません。わたしにいわせると、アヴドーチヤ・ロマーノヴナはこんどのことについて、きわめて高潔な、打算を無視した心もちから、その……家族のために、一身を犠牲にしようとしていらっしゃるのです。わたしは、これまであなたのことで聞いたうわさを総合してみたうえで、利害関係を破壊することなしに、この結婚を破談にできたら、あなたのほうでもきっとご満足になるだろう、とこんな気がしたしだいなのです。ところが、今こうして親しくお目にかかってみると、わたしはむしろ、それを確信してしまいました」
「あなたとして、それはあまり無邪気すぎますね。いや、ごめんなさい、ぼくはつい、ずうずうしすぎるといいかけましたよ」とラスコーリニコフはいった。
「というのは、つまりわたしが自分の利益のためにあくせくしてる、というご解釈なんですね。ご心配には及びませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ。もしわたしが自分の利益のためにあくせくしてるんでしたら、こうまともにいやしません。わたしだってまんざらばかじゃありませんからね。このことについて、一つの心理的ふしぎをあなたにうち明けてお目にかけましょう。さっきわたしは、アヴドーチヤ・ロマーノヴナにたいする愛を弁解するとき、自分のほうが犠牲だったといいました。で、はっきり申しあげますが、現在、わたしは愛など少しも感じていません、絶対に。だから、わたし自身ふしぎなくらいなんです。だってじっさい、あの当時は、何かしら感じていたんですからなあ……」
「遊惰《ゆうだ》と淫蕩のためです」とラスコーリニコフはさえぎった。
「じっさい、わたしは淫蕩|無為《むい》の人間です。しかしお妹さんは、いろいろ多くのすぐれた点を持っておいでになるので、わたしだって、ある種の印象にたいして、降参しないではいられなかった。だが、こんなことは皆くだらないことだ、今では自分でもそれがわかりますよ」
「よほど前からおわかりでしたか?」
「わかりかけたのはもう前からですが、いよいよそうと確信したのは、おとといペテルブルグへ着いた瞬間でした。もっとも、モスクワでは、まだアグドーチヤ・ロマーノヴナの愛を求めて、ルージン氏と競争する気でいたのです」
「話の腰を折ってすみませんが、お願いですから、話を少しはしょって、いきなりご来訪の用向きに移っていただけませんか。ぼく急ぐんですから、ちょっと外出したいんですから……」
「かしこまりました。わたしはここへ着いてから、こんど、ある……航海をしようと決心したので、その前に種々必要な処置をつけてしまいたい、という気になったのです。わたしの子供たちは伯母《おば》のところへ残っていますが、それぞれ財産を持っていますから、わたしという人間は、べつに用がないのです。それに、わたしなんか父親の資格などありませんよ! わたし自身は、一年前にマルファがくれたものだけを持って来ました。わたしにはこれで十分なのです。ごめんなさい、今すぐ用件に移りますから。ついては、おそらく実現するだろうと思われる航海に出かける前に、わたしはルージン氏との話もつけて行きたいと思うのです。あの男はきらいでたまらないというわけでもありませんが、あいつのおかげで、マルファともけんかしたんですからね。つまり、この縁談もマルファの肝《きも》いりだということが、わたしの耳へはいったわけなんです。で、わたしはこんど、あなたを仲介にして、お妹さんとお目にかかりたいと思うんです。なんなら、あなたも列席してくだすってもいい。まず第一に、お妹さんに向かって、ルージン氏との結婚は、けっしてこれっぱかりの利益にもならないのみか、みすみす損になるということをなっとくのいくようにお話したい。それから、せんだってのいろいろな気まずい出来事についてお詫びをしたうえ、わたしから一万ルーブリ贈呈することを許していただきたいのです。つまりそれによって、ルージン氏との決裂から生ずる損害を軽減してさしあげたいと思いましてね。もっとも、この決裂にはお妹さんも大してご異存はない。ただ機会さえきてくれれば、とこう思っていらっしゃるのは、わたしの信じて疑わないところです」
「あなたはほんとに、ほんとに気ちがいです!」ラスコーリニコフは腹が立つというよりも、むしろあきれてこう叫んだ。「よくもそんなことがいえますね!」
「あなたにどなられることは、わたしもちゃんと覚悟していましたよ。が、第一ですね、わたしは金持というわけではありませんが、この一万ルーブリはあってもなくてもいい金なんです。というより、わたしにはぜんぜん不要なんです。もしアヴドーチヤ・ロマーノヴナが納めてくださらなければ、わたしは恐らく、いっそうばかげたことにつかってしまうでしょう。これが一つ。二つには、わたしとして良心にやましいところは、もうとうありません。つまり、いっさいなんの思惑もなしに、この金を提供するのだからです。まあ、ほんとうになさろうとなさるまいと、いずれあなたにしろ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナにしろ、わかってくださるときがありますよ。問題はすべて、わたしが尊敬すべきあなたのお妹さんに苦労をかけたり、不快な思いをおさせしたりした点なのです。だから、いま衷心《ちゅうしん》から後悔して、誠心誠意こう思いこんでいるのです――といって、なにも金で帳消しにしようとか、自分の加えた不快にたいして賠償《ばいしょう》しようとか、そういった意味じゃありません。ただただあのかたのために、何かご利益になることをしたい、というにすぎないのです。つまり、わたしだってほんとに、なにも悪いことばかりする専売特許を握ったわけじゃない、という点を基礎にして申し出たしだいです。もしわたしのこの申し出に、百万分の一でも打算が含まれていたら、わたしはこうまともにいいだすはずがないし、また、わずか一万ルーブリやそこいらの金を提供などしません。げんについ五週間前も、ずっと多額の金をお妹さんに提供しようとしたんですからな。のみならず、ことによると、わたしはごく近々ある娘と結婚するかもしれないのです。してみれば、アヴドーチヤ・ロマーノヴナに野心を持っているのじゃないか、というようなお疑いは、いっさい自然に消滅するはずでしょう。結論として申しますが、アヴドーチヤ・ロマーノヴナはルージン氏と結婚されても、この程度の金はお取りになるわけですよ。ただ出どころが違うだけでね……まあ、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたも腹をお立てにならないで、落ちついて冷静によく考えてください」
 こういうスヴィドリガイロフ自身も、しごく冷静に落ちつきはらっていた。
「お願いですから、それで切り上げてください」とラスコーリニコフはいった。「なんにしても、許すべからざる暴言です」
「けっして、けっして。そんなことをおっしゃったら、人間はこの世でお互い同士、くだらない世間的な形式のために、ただ悪いことばかりし合って、いいことはこれから先もできないことになってしまう。それはばかばかしいじゃありませんか。では、もしかりにわたしが死んで、それだけの金をお妹さんに遺言で残したとしても、それでもやはりお妹さんは拒絶なさるでしょうか?」
「そりゃ大きにありそうなことです」
「いや、それはどうも違いますよ。もっとも、だめならだめでいい、そういうことにしときましょう。しかし、一万ルーブリの金はいざというとき、なかなか悪いものじゃありませんがね。いずれにしても、今お話したことを、アヴドーチヤ・ロマーノヴナにお伝え願います」
「いや、伝えません」
「そういうことでしたら、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしはやむをえず、自分でむりにも会見の機会を求めます。つまり、ご迷惑をかけることになりますよ」
「じゃ、ぼくが伝言すれば、あなたは会見を強要しませんか?」
「さあ、なんと申しあげたらいいか、ちょっと困りますね。一度だけはぜひお目にかかりたいと思うんですが」
「当てになさらないほうがいいでしょう」
「残念ですなあ。もっとも、あなたはわたしをよくごぞんじない。やがてもすこし意気投合するようになるでしょう」
「あなたは、われわれが意気投合するなんて、考えてるんですか?」
「なぜそうならないといいきれます?」スヴィドリガイロフはにやりと笑ってこういうと、立ちあがって帽子を取った。「わたしもじつは、是《ぜ》が非でもあなたをわずらわそうという気はなかったのです。で、こっちへ来るみちみちも、さほど当てにしてはいませんでしたよ。もっとも、けさほどあなたの顔を見て、はっと思うには思ったのですがね……」
「けさどこで、ぼくをごらんになったんです?」とラスコーリニコフは不安げに尋ねた。
「偶然のことでね……わたしはどうもあなたを見てると、何か自分に似通《にかよ》ったところがあるような、そんな気がしてならないんです……しかし、どうかご心配なく。わたしはしつこい人間じゃありませんから。いかさまカルタの仲間ともうまを合わすことができるし、遠い親戚にあたるスヴィルベイ公爵という高官にもうるさがられなかったし、ラファエルのマドンナに関する感想をプリルーコヴァ夫人のアルバムに書く腕もあったし、マルファ・ペトローヴナみたいな女とも、七年間ひと足も村を出ないで同棲《どうせい》したし、昔はセンナヤ広場のヴャーゼムスキイ公爵の家(木賃宿)に泊まったこともあるし、おまけにベルグといっしょに、軽気球にも乗って飛んでみるかもしれないという人間なんですよ」
「まあ、いいです。ときに、伺いますが、あなたはじき旅へおたちになるんですか?」
「旅って?」
「ほら、あの『航海』ですよ……あなた自分でいったじゃありませんか」
「航海? あっ、そうだ!………ほんとにわたしは航海の話をしましたっけ……いや、それは広汎な問題ですよ……だが、もしあなたの尋ねていらっしゃることが、どういうことだかおわかりになったらなあ!」と彼はいい添え、出しぬけに大きな声で引っちぎったように笑った。「わたしはことによると、航海の代りに結婚するかもしれないんです。縁談を世話する人がありましてね」
「ここで?」
「そうです」
「いつそんな暇があったんです?」
「それにしても、アヴドーチヤ・ロマーノヴナには、ぜひ一度お目にかかりたいと思っています。まじめなお願いです。では、さようなら……あ、そうだ、大事なことを忘れていたっけ! ロジオン・ロマーヌイチ、どうかお妹さんにお伝えください。あのかたはマルファの遺言《ゆいごん》で、三千ルーブリもらえることになっていらっしゃるんですよ。これはまったく確かな話なんです。マルファは死ぬ一週間まえに、わたしの見てるところで、その処置をしたんですから。二、三週間たったら、アヴドーチヤ・ロマーノヴナはその金をお受け取りになれるはずです」
「あなたそれはほんとうですか?」
「ほんとうですとも。どうぞお伝えください。では、ごきげんよう。じつは、わたしの泊まってるところは、ここからごく近いんですよ」
 スヴィドリガイロフは出しなに、戸口でラズーミヒンにぱったり出会った。

      2

 もうかれこれ八時だった。ふたりはルージンより先に行き着こうと、バカレーエフの下宿へ急いだ。
「おい、いったいありや何者だい?」通りへ出るとすぐ、ラズーミヒンは尋ねた。
「あれはスヴィドリガイロフだ。妹が家庭教師を勤めているとき、侮辱を加えた例の地主さ。あいつが妹のしりを追いまわしやがったために、妹は細君のマルファ・ペトローヴナに追い出され、あすこの家から暇を取らなきゃならなくなったんだよ。そのマルファ・ペトローヴナは、あとでドゥーニャに詫びをしたんだがね、こんどとつぜん死んでしまったんだよ。さっきあすこで話していたのは、その女のことさ。なぜだか知らないが、ぼくはあの男が恐ろしくてたまらないんだ。やつは細君の葬式をすますと、すぐここへやって来たんだが、じつに変わった男で、何か決心したことがあるらしいんだ。どうも何か知っているようなふうだよ……やつからドゥーニャを守ってやらなくちゃならない……このことをきみにいおうと思ってたところなんだ、いいかい?」
「守る? あんなやつが、アヴドーチヤ・ロマーノヴナにたいして、何をすることができるものかい? いや、ロージャ、そういうふうにいってくれてありがとう……よし、よし、大いに守るとも!………だが、どこに住んでるんだい」
「知らない」
「なぜ、きかなかったんだ? ちぇっ、惜しいことをしたなあ! もっとも、ぼくがすぐに探り出してやらあ!」
「きみはあの男を見たのかい?」ややしばらく沈黙の後、ラスコーリニコフは尋ねた。
「うん、見た。しっかり頭へ入れといた」
「きみはあの男を、正確に見たのかい? はっきり見たのかい?」とラスコーリニコフは追及した。
「うん、そりゃはっきり覚えてるよ。千人からいる中でも見分けられる。ぼくは人の顔を覚えるのが得意なんだからね」
 ふたりはまたちょっと黙っていた。
「ふん!………そうだ、そうだ……」とラスコーリニコフはつぶやいた。「ねえ、きみ……ぼくちょっとそんな考えが浮かんだんだ……ぼくはしじゅう、そんな気がするんだが……あれはことによったら、幻想かもしれないな」
「そりゃいったいなんのことだい? ぼくはきみのいうことがはっきりわからないよ」
「だって、きみらはみんなそういってるじゃないか」とラスコーリニコフは、うす笑いに口をねじ曲げて言葉をつづけた。「おれのことを気ちがいだってさ。ところが、いまぼく自分でもふとそういう気がしたんだよ――もしかすると、ぼくはほんとに気ちがいで、ただ幻を見ただけかもしれない」
「いったいきみ、それはどうしたというんだ?」
「だって、それはだれにもわからないじゃないか! じっさい、ぼくは気ちがいかもしれないさ。そして、この二、三日の間にあったことは、何もかも想像の産物にすぎないかもしれないよ……」
「ああ、ロージャ! きみは、また頭をめちゃめちゃにされたな!………いったいあの男は何をいったんだ。何の用でやって来たんだ?」
 ラスコーリニコフは答えなかった。ラズーミヒンはほんのしばらく考えていた。
「まあ、ひとつぼくの報告を聞いてくれよ」と彼は口をきった。「ぼくはきみのところへ寄ったが、きみは寝ていた。それから食事をすまして、ポルフィーリイのところへ出かけたんだ。ザミョートフはやはりまだあそこにいるんだ。ぼくはすぐあの話を持ち出そうとしたが、ぜんぜんうまくいかないんだ。どうしてもちゃんと話せないのさ。やつらは、まるで話がわからない、合点がいかない、というようなようすなんだ。が、いっこうまごついたらしいようすもない。ぼくはポルフィーリイを窓のほうへ呼んで、話を始めてみたが、またどうしたわけか、とんちんかんになってしまうのだ。あの男がそっぽを見てると、ぼくもそっぽを見てるといったふうでね。とうとうぼくはやつらの鼻先へげんこを突きつけて、親戚としてきさまをたたき膾《なます》にしてやるぞ、といってやった。ところが、やつはただじろっとぼくを見ただけなんだ。ぼくはぺっとつばを吐いて出てしまった。これでおしまいさ。じつにどうもばかげてるよ。ザミョートフとは一つも口をきかなかった。ところでぼくは、こいつ、かえってへま[#「へま」に傍点]をやってしまったぞ、というような気がしたんだが、階段をおりているうちに、ひょいとある考えが浮かんで、ぼくの迷いをさましてくれたんだよ。ほかでもない、なんだってぼくらはお互いに、こうあくせくしてるんだ? もしきみに危険なことかなにかあるというなら、そりゃもう、もちろん騒がなきゃならないが、じっさい、なんにもないじゃないか! きみはまるでこの事件に風馬牛《ふうばぎゅう》なんだから、あんなやつらには、つばでもひっかけてやりゃいいんだよ。あとであいつらを笑ってやろうじゃないか。もしぼくがきみだったら、かえって、からかってやるんだがなあ。なに、あとでやつら恥ずかしくてたまらなくなるんだから! くそ食らえだ! あとでまたとっちめてやる方法もあるんだから、今のところは笑ってやろうじゃないか!」
「もちろんそうさ!」とラスコーリニコフは答えた。
『明日になったらなんというつもりだい?』と彼は腹の中で考えた。ふしぎなことに、『わかった時には、ラズーミヒンはどう思うだろう?』という考えは、今まで一度も彼の頭に浮かばなかったのである。今ふとそれを考えると、ラスコーリニコフはじっと相手の顔をながめた。ポルフィーリイ訪問にかんする今のラズーミヒンの報告には、彼はほんのちょっとした興味しか持たされなかった。あれ以来、彼の利害を左右する事情に、あまり多くの増減があったのである!………
 彼らは廊下で、ぱったりルージンと出会った。ルージンはきっかり八時にやって来て、部屋をさがしているところなので、三人はそろってはいって行ったが、互いに顔も見合わなければ、会釈《えしゃく》もしなかった。青年ふたりはずんずん先へ通ったが、ルージンは作法を守って、控え室で外套《がいとう》を脱ぐのを、わざと手間どらせた。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは彼を迎えに、すぐさま、しきいのところまで出て来た。ドゥーニャは兄とあいさつしていた。
 ルージンは部屋へはいると、かなりあいそのいい態度ではあったが、まえにもましてもったいぶりながら、婦人たちにあいさつした。もっとも、ちょっとへどもどして、なんといっていいかわからない様子だった。プリヘーリヤは、なんとなくてれた形で、サモワールのたぎっている丸テーブルのまわりに、急いで皆に席をすすめた。ドゥーニャとルージンはテーブルの両端に相対して席を占めた。ラズーミヒンとラスコーリニコフは、プリヘーリヤと向き合うことになったが、ラズーミヒンのほうはルージンに近く、ラスコーリニコフは妹のそばにすわった。
 ほんの一瞬間、沈黙が襲った。ルージンは香水のぷんぷんにおう麻のハンカチをゆうゆうと取り出して、君子然《くんしぜん》とした品位を保ちながらも、傷つけられた自分の面目にたいして、十分説明を求めようと固く決心したような態度で、ちゅんと一つ鼻をかんだ。彼はもう控え室にいる時から、このまま外套も脱がずに帰ってしまい、たちどころにふたりの婦人に万事を思い知らせ、腹にしみるだけ厳重に懲《こ》らしめてやろうか、という考えが浮かんだのであるが、さすがに決行はできなかった。そのうえこの男は、はっきりしないことがきらいだったので、この場合、事情を明らかにする必要があった。かくも露骨に命令が蹂躙《じゅうりん》されたところを見ると、そこに何かなければならない。してみれば、まずそれを知ることが第一だ。懲らしめるのはいつでもできるし、それは彼の手中にあることだ。
「道中べつにおさわりもなかったこととぞんじますが」と彼は改まった口調で、プリヘーリヤに話しかけた。
「おかげさまでね、ピョートル・ペトローヴィチ」
「何よりけっこうなことで。アヴドーチヤ・ロマーノヴナもお疲れにはならなかったですか?」
「わたしは、若くって、じょうぶですから、疲れなんかいたしませんが、母はよほどつらかったようですわ」とドゥーネチカは答えた。
「どうも、いたしかたがありませんな。お国名物の道がばか長いんですから。いわゆる『母なるロシヤ』は偉大なものと相場が決まっておりますので……きのうはお出迎いに行きたいのはやまやまでしたが、どうしても間に合わせかねましたしだいです。しかし、まあ大しためんどうもなくすんだことと思いますが」
「いいえね。ピョートル・ペトローヴィチ。わたしたちはもうもう、がっかりしてしまったんでございますよ」とくべつ声に力を入れながら、プリヘーリヤは急いでいった。「もし神さまがきのう、このドミートリイ・プロコーフィチを、わたしたちのところへおつかわしくださらなかったら、ふたりはまったくとほうにくれてしまうところだったんでございますよ。このかたが、そのドミートリイ・プロコーフィチ・ラズーミヒンさんですの」といい添えて、彼をルージンに紹介した。
「もうお知り合いになったようです……きのう」いまいましげにラズーミヒンをしり目にかけて、ルージンはこうつぶやいた。そして、眉《まゆ》をしかめながら、黙りこんだ。
 いったいルージンは人なかにいるとき、見かけはきわめてあいそらしく、またあいそのいいのを得意にしているくせに、ちょっとでも気に食わぬことがあると、たちまち取っときの手をすっかりなくしてしまい、座をにぎわす気さくな紳士というより、むしろ粉ぶくろというほうが似つかわしくなる、そうした部類に属する人間だった。一同はまた黙りこんでしまった。ラスコーリニコフはかたくなに黙りこくっているし、アヴドーチヤはある時機まで沈黙を破らないつもりでいたし、ラズーミヒンは何も話すことがなかった。で、プリヘーリヤはまた気をもみ始めた。
「あの、マルファ・ペトローヴナがおなくなりになりましたねえ。あなたはお聞きになりましたか?」例の取っときの種をまた持ち出しながら、彼女は口をきった。
「そりゃ聞きましたとも。まっさきに聞いて承知しております。それどころか、アルカージイ・イヴァーヌイチ・スヴィドリガイロフが、奥さんの葬式をすますとすぐ、急いでペテルブルグへ向けて出発したことも、お知らせしようと思ってあがったんですよ。少なくとも、わたしの受け取った確実無比な情報によると、そうなんで」
「ペテルブルグへ? ここへ?」とドゥーネチカは不安らしく問い返して、母親と目を見合わした。
「確かにそうです。そして、出発のあまり急なことや、その前のことを考慮に入れて見ると、もちろん何か当てあってのことですよ」
「まあ! あの人はまたここでも、ドゥーネチカを困らせるんでしょうかねえ?」とプリヘーリヤは叫んだ。
「わたしが思うには、あなたにしろ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナにしろ、何もかくべつご心配なさることはありませんよ。それはむろんあなたが、あの男と何かの関係をつけよう、という考えさえお出しにならなければですな。わたし自身としても気をつけて、今でもあの男がどこに泊まっているか、さがしておるしだいです……」
「ああ、ピョートル・ペトローヴィチ、あなたが今どんなにわたしをびっくりおさせになったか、とてもおわかりにならないくらいですよ!」とプリヘーリヤは言葉をついだ。「わたしはあの人をたった二度見たきりですけれど、恐ろしい、恐ろしい人のように思われましたよ。なくなったマルファ・ペトローヴナも、あの人が殺したにちがいないと、わたしは思いこんでいるほどですの」
「その点はそうばかりも決められないんです。わたしは正確な情報を手に入れていますがね。そりゃあの男が、いわば侮辱というような精神的な影響で、あの事態を早めたかもしれない、その点はわたしもあえて争いはしません。なにしろ。あの大物の平素の行状や道徳的傾向にいたっては、仰せのとおりですからな。あの男はいま財産を持っているかどうか、マルファ・ペトローヴナがあの男にどれだけのものを残して行ったか、そこはわたしも知りません。もっとも、それはごく短期間にわたしの耳へはいりますがね。けれど、もちろんこのペテルブルグへ来たら、たとえわずかの金でも持っているでしょうから、あの男はたちまち前と同じことをやりだすに相違ありません。あの男はすっかり堕落《だらく》しきって、道楽に身を持ちくずして、こういった類《たぐい》の連中のなかでも、随一《ずいいち》なんですからね! わたしは確たる根拠を持っていうのですが、運悪くも八年前にあの男にほれぬいて、借金から救い出してやったマルファ・ペトローヴナは、もう一つ別の点でも、あの男に尽くしているんです。まったくあの婦人の尽力と犠牲のおかげで、確かにシベリヤ行きになってしまいそうな、ある残虐無類な犯罪事件、いわば怪奇きわまる殺人、といったような分子をまじえたものが、きわめて初期のうちに、もみ消されてしまったのです。まあ、あれはこんなふうな男ですよ、もしご承知になりたければ」
「まあ、なんということでしょう!」とプリヘーリヤは叫んだ。
 ラスコーリニコフは注意ぶかく聞いていた。
「あなた、正確な情報を握っていらっしゃるって、それはほんとうですの?」ドゥーニヤは相手の腹にこたえるような、きびしい調子で尋ねた。
「わたしはただ、なくなったマルファ・ペトローヴナから、自分の耳で秘密に聞いたことをいってるだけなんです。お断わりしておきますが、法律上の見地からすると、この事件はすこぶる曖昧《あいまい》なものです。当地にレスリッヒといいまして、小金を貸したり、ほかの商売にも手を出したりしている外国女がいた、いや、今でもいるらしいのです。このレスリッヒなる女と、スヴィドリガイロフ氏は、昔から一種きわめて親密な、しかも神秘な関係を持っていたんです。この女のところに遠縁の娘、たしかおしで、つんぼだったと思いますが、年のころ十五か、ひょっとすると十四くらいかもしれない、姪《めい》がひとりおりました。それをこのレスリッヒがむやみに憎んで、はしの上げおろしにも、がみがみしかりつける、いや、それどころか、むごたらしくひっぱたくんです。それが、ある時、屋根裏で首をくくっているところを見つかったわけなんです。娘は自殺と判定されて、型どおりの手続で事はすんだ。ところがあとで、その小娘は……スヴィドリガイロフのために無残な凌辱《りょうじょく》を受けたと、密告する者があったんです。もっとも、そのへんがどうも瞹眛《あいまい》なんで。というのは、その密告したやつがやはりドイツ女で、信用のおけないあばずれ者なんですからね。それに厳重な意味で密告というほどのことでもなかったので、けっきょく、マルファ・ペトローヴナの尽力と、金のおかげで、事件はほんのうわさだけですんでしまったのです。とはいうものの、このうわさは意味深長なものでした。もちろんあなたはね、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、あの家で拷問《ごうもん》のために死んだ、下男のフィリップの話をごぞんじでしょう。六年前、まだ農奴制時代の話です」
「わたしの聞いたのはまるっきり違います。フィリップは自分で首をくくったんだそうですわ」
「それはまさにそうです。しかしそれは、スヴィドリガイロフ氏の絶え間ない虐待や折檻が、あの男にそういう不自然な死にかたをさせた、いや、もっと適切にいえば、死ぬように仕向けたわけなんですよ」
「わたしはそんなことはぞんじません」とドゥーニャはそっけなく答えた。「わたしはただ、なんだか妙なうわさを聞いたばかりですの。つまり、そのフィリップという男は、憂うつ症の気味のある、いわば独習哲学者で、みんなの言葉をかりていうと、『本に読まれた』んだそうです。首をくくったのも、スヴィドリガイロフさんに打たれたためじゃなくて、人に冷やかされたからだということですわ。わたしがいた時分、あの人は召使いの扱いがよくて、みんなもあの人を愛していたくらいですわ。もっとも、フィリップの死んだことで、は、あの人を責めてはいましたけれど」
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、お見うけしたところ、なんだかあなたは、急にあの男を弁護なさりたくなったご様子ですね」曖昧《あいまい》な微笑に口をゆがめながら、ルージンはこういった。「じっさい、あの男は女にかけたら煮ても焼いても食えない男ですよ。それには、あの奇怪な最期をとげたマルファ・ペトローヴナが、悲しむべき実例ですからね。わたしはただ、疑いもなくあなたがたの眼前に迫っている、やつの新しい計画について、あなたとお母さんにご注意申しあげて、お役に立とうと思ったまでです。わたし一個としては、あの男はまた債権者から監獄へぶち込まれるにちがいないと固く信じております。マルファ・ペトローヴナは子供の将来を思って、あの男に何か所有権を移してやろうなんて考えは、もうとう持っちゃおりませんでした。だから、たとえあの男に何か残して行ったにしろ、それはただ必要かくべからざる程度のものだけで、大した価値もない一時のものにちがいないから、ああいう習慣を持っている男なら一年ともたないに決まっておりますよ」
「ピョートル・ペトローヴィチ、どうぞお願いですから」とドゥーニャはいった。「スヴィドリガイロフさんのお話は、もうこれきりにしようじゃありませんか。そんな話を伺ってると、いやあな気がしてまいりますから」
「あの男はつい今しがた、ぼくんとこへ来てたんだよ」ふいにラスコーリニコフは初めて沈黙を破った。
 四方から叫び声が起こった。一同は彼のほうへひとみを向けた。ルージンさえわくわくしだした。
「一時間半ばかり前、ぼくが寝ているところへはいって来て、ぼくを起こして名のりをあげたんだ」とラスコーリニコフは言葉をつづけた。「かなりくだけた態度で、愉快そうなふうだったよ。そしてなんだか、そのうちにぼくと意気投合するものと、すっかりひとりで当てこんでいたっけ。いろいろ話のあった中で、あの男はしきりにお前と会いたがってね、ドゥーニャ、ぼくにその仲介をしてくれと頼むんだ。あの男はお前にあることを申し入れたいといって、その内容をぼくにうち明けたよ。そのほかにね、ドゥーニャ、あの男は確実な話として、マルファ・ペトローヴナが死ぬ一週間まえに遺言して、お前に三千ルーブリ残してくれたと、ぼくに報告したよ。そして、その金はごく近いうちに、お前の手にはいるだろうという話たった」
「まあ、ありがたいこと!」とプリヘーリヤは叫んで、十字を切った。「あの人のためにお祈りしてあげなさいよ、ドゥーニャ、お祈りして!」
「それはまったくほんとうです」とルージンはつい口をすべらした。
「で、で、それから、どうだったの?」とドゥーネチカはせきたてた。
「そう、それからあの男のいうには、自分も大して金持じゃない、財産は全部、いま伯母のところにいる子供たちに渡ってしまうのだ。それから、どこかぼくの近くに泊まってるとかいったが、どこだか知らない。聞かなかった……」
「でも、あの人はいったい何を、何をドゥーニャに申し入れるんだろうね?」とプリヘーリヤはおびえあがって尋ねた。「お前に話したって?」
「ええ、話しました」
「なんなの?」
「あとでいいましょう」
 ラスコーリニコフは口をとじて、茶のほうへ、手を伸ばした。
 ルージンは時計を出して見た。
「わたしは仕事の都合で、おいとましなくちゃなりません。そうすれば、おじゃまにもならないし」彼はいささかむっとしたような顔つきで、こういいたしながら、いすから腰を浮かしかけた。
「いっておしまいにならないでくださいまし、ピョートル・ペトローヴィチ」とドゥーニャはいった。「あなたはひと晩じゅういるつもりで、いらしってくだすったんじゃありませんか。それにあなたはご自分で、何やら母と話したいことがあるって、そう書いていらっしゃるじゃありませんか」
「それはまさにさようです。アヴドーチヤ・ロマーノヴナ」とルージンはふたたびいすに腰をおろしながら、相手に思い知らせるような調子でいったが、帽子は手に持ったままだった。「わたしは、おっしゃるとおり、あなたとも、ご母堂とも、よく話したい考えでおりました。しかも、ごく重要な件にかんするお話です。けれどご令兄が、わたしの前ではスヴィドリガイロフ氏の申し出をいうわけにいかないとおっしゃる、それと同じ理くつで、わたしも……ほかの人の前では……きわめて重要な二、三の件についてお話したくもありませんし、またできもしないわけです。それに、あれほどかたくお願いしといたかんじんな点が、実行されていないようなしまつですから……」
 ルージンは苦い顔をして、しかつめらしく口をつぐんだ。
「兄が、この会見に同席しないようにという、あなたのご希望を実行しなかったのは、ほかでもありません、わたしがそれを主張したからでございますの」とドゥーニャはいった。「あなたは兄に侮蔑《ぶべつ》されたとかって、お手紙に書いていらっしゃいましたが、それなら猶予《ゆうよ》なく事情をはっきりさして、おふたりに仲直りしていただかなければならないと、こう考えましたの。もしロージャがほんとにあなたを侮辱したのでしたら、兄はあなたに謝罪しなければなりません[#「しなければなりません」に傍点]し、またするだろう[#「するだろう」に傍点]と思います」
 ルージンはとたんに元気づいてきた。
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、この世の中には、いかに善良な意志をもっていても、忘れられない侮辱があります。何事にも一定の限界があって、それを踏み越えるのは危険なわざです。一度越したら最後、あとへ返すことはできません」
「わたしが申しあげたのは、そのことじゃございませんの、ピョートル・ペトローヴィチ」と少しじれったそうにドゥーニャはさえぎった。「ようくお考えになってくださいまし。わたしたちの将来というものは、この問題ができるだけ早くはっきりして、円満に解決するかどうか、それだけで決まるんじゃありませんか。わたしは遠慮なくぶっつけに申しますが、そうするよりほか考えようがないのでございます。もしあなたがいくらかでも、わたしをたいせつに思ってくださいますなら、むずかしいことではありましょうけれど、この話は今日にもすぐかたづけてしまわなければなりません。もう一度申しますが、もし兄に失礼がございましたら、兄がお詫びをいたしますから」
「あなたがそんなふうに問題をお取りになるとは驚きましたね、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ」とルージンはしだいにいらいらしてきた。「わたしはあなたをたいせつに思い、かつ尊敬してはおりますけれど、それと同時に、ご家族のうちのだれかを愛さないということは、きわめてきわめて、ありうべき事柄ですよ。僭越《せんえつ》ながら、あなたの愛という幸福こそ求めてはおりますが、同時に不可能な義務を負うことはできません……」
「ああ、そんなに了簡《りょうけん》の狭いことはよしてくださいまし、ピョートル・ペトローヴィチ」とドゥーニャは情のこもった調子でさえぎった。「そして、わたしがいつも信じていたように、また信じたいと願っているように、あのよくもののわかった上品な人になってくださいまし。わたしはあなたにたいせつなお約束をいたしました。わたしはあなたの許嫁《いいなずけ》です。だから、この話はどうぞわたしにお任せくださいまし。そして、わたしに公平なさばきをつける力があるものと、信じてくださいまし。わたしが裁判官の役を引き受けるということは、兄にとっても、またあなたにとっても、思いがけない贈り物でございます。わたしは今日あなたのお手紙を拝見してから、ぜひこの席に来てくれと兄に頼んでやりましたときも、自分の考えは少しも知らせてやりませんでした。ね、わかってくださいまし。もしあなたがたが仲直りしてくださらないと、わたしはあなたがたふたりのうち、どちらかを選ばなければなりません。あなたのほうからも兄のほうからも、問題がそういうふうになってきたんですの。わたしこの選択は誤りたくありませんし、また誤ってもならないのです。あなたのためには兄と別れなければなりませんし、兄のためにはあなたと手を切らなければなりません。今わたしは、あの人がわたしの兄かどうかということを、確実に知りたいと思います。そして、知ることができると思います。またあなたについては、わたしがあなたにとってたいせつな人間かどうか、あなたがわたしを尊重してくださるかどうか、つまり、あなたはわたしの夫かどうか、ということをね」
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ」ルージンはむっとしていった。「あなたのお言葉はわたしにとって、あまりにも意味深長です。いや、もっと突っ込んでいいますが、あなたに許していただいているわたしの位置から見て、むしろ心外千万なくらいです。わたしとこの……高慢ちきな青年を同列にあつかおうとなさる、心外千万な合点のいかぬ対照のなさりかたは、今さら申しあげないとしても、今のお言葉で見ると、あなたはわたしになすった約束を破棄《はき》する可能性を認めておいでなさるわけです。あなたは『わたしか兄さんか』とおっしゃる。してみれば、わたしがあなたにとって大した意味を持っていないことを、思い知らせていらっしゃるわけです……わたしは、お互いの間に存在している関係からいっても……義務からいっても……そういうことは断じて許容するわけにいきません」
「なんですって!」とドゥーニャはかっとなって、「わたしはあなたの利害を、今までわたしにとってたいせつであったもの、わたしの生活全部[#「全部」に傍点]だったものと、同列に見なしているんですよ。それだのに、わたしが、あなたを十分尊重しないといって、急に腹をお立てになるんですのね!」
 ラスコーリニコフは無言のまま、皮肉ににやりと笑った。ラズーミヒンは全身をぴくっとさせた。が、ルージンはこの反駁《はんばく》を頭から相手にしないで、ひと言ひと言にいよいよ執念ぶかく、いらいらしてきた。まるでしだいに油がのってくる、というようなあんばいだった。
「やがて生涯の伴侶《はんりょ》となろうという人、つまり夫にたいする愛は、兄弟にたいする愛を凌駕《りょうが》しなければならないはずです」と彼は教訓的な調子でいった。「いずれにもせよ、わたしは……同列に見られるのはたまりません……先刻わたしは訪問の用向きを、ご令兄の前では申しあげたくもないし、また申しあげるわけにいかないと主張しましたが、それにもかかわらず、わたしはいま一応ご母堂にお願いして、一ばん根本的な、しかもわたしにとって心外千万な点について、ぜひとも事態を明らかにいたしたいと思うのです。ご子息は」と彼はプリヘーリヤのほうへ向き直った。「昨日ラッスードキン氏……(それとも……確かそうでしたね? ごめんください、お名まえをつい失念しまして――と彼はあいそよくラズーミヒンに会釈《えしゃく》した)このかたの前で、わたしの考えを曲解して侮辱されたのです。つまり、いつぞやあなたとコーヒーを飲みながら、内輪話の中に申しあげたことですが、世間の苦労を味わった貧しい娘さんとの結婚は、わたしの考えでは、何不自由なく育った娘さんと結婚するよりも、道徳的にも有益なことであるから、夫婦関係の上からいっても有利だと申しあげた、あのことなのです。わたしの見たところでは、ご子息はあなたご自身の通信を基礎として、故意《こい》にばかばかしいくらい言葉の意義を誇張して、何か悪だくみでも持っているように、わたしを非難なすったのです。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、どうかわたしの誤解をといて、安心させてくだされば、わたしはそれをもって幸福といたします。つまり、わたしのいったことをどんな形で、ロジオン・ロマーヌイチあての手紙にお伝えになったか、ひとつ聞かせていただきたいものです」
「わたし、もう覚えておりませんので」とプリヘーリヤはへどもどした。「わたしは自分で伺ったとおりに書いてやりましたので、ロージャがあなたになんとお伝えしたかぞんじませんが……ことによったら、あれがほんとに何か大げさに申したかもしれません」
「しかし、あなたの暗示がなかったら、ご子息も誇張なさるわけにいかないはずですよ」
「ピョートル・ペトローヴィチ」とプリヘーリヤはきっとなった。「わたしとドゥーニャとが、あなたのお言葉を大して悪いほうへ取らなかったのは、わたしたちのここ[#「ここ」に傍点]へ来ていることが証拠でございます」
「そうだわね、お母さん!」と賛成するようにドゥーニャはいった。
「してみると、このこともやはりわたしが悪いわけなんですな!」とルージンはむっとした。
「ピョートル・ペトローヴィチ、あなたはそういうふうに、何もかもロージャをお責めになりますけれど、あなただって先刻のお手紙に、あれのことでうそを書いていらっしゃるじゃありませんか」とプリヘーリヤは急に元気づいて、こういいたした。
「わたしが何かうそを書いたなんて、そんな覚えはありませんな」
「あなたはこう書いておられるのです」ルージンのほうをふり向こうともせず、ラスコーリニコフはずけずけといいだした。
「ぼくがきのう金をやったのは、まさに轢死者《れきししゃ》の寡婦《かふ》だったのです。それを寡婦ではなくて、娘にやったのだなんて書いておられる(その娘というのは、ぼくきのうの日まで見たこともなかったんですよ)。あなたがそれを書かれたのは、ぼくを家族のものとけんかさすためで、そのために卑劣きわまる文句で、自分の知りもしない娘の行状を書き添えたんです。それはみないやしいかげ口というものです」
「失礼ですが」憤怒《ふんぬ》に身をふるわせながら、ルージンは答えた。「あの手紙で、あなたの性格や行為にまでいい及んだのは、ただそれによって、ご令妹とご母堂の依頼を履行《りこう》したまでです。つまり、あなたをおたずねした時の模様はどうだったか、あなたがわたしにどんな印象を与えられたか、そういうようなことを細かく知らせてほしいとのことだったのです。ところで、いま指摘された手紙の文面にかんしては、そこに一行でも事実相違の点があったら、見せていただきましょう。つまり、あなたが金を使われなかったかどうか、あの家族はたとえ不仕合わせだとはいいじょう、けがらわしい人間はひとりもいなかったかどうか、というような点にかんしてですな」
「が、ぼくにいわせると、あなたなんか、ありたけの美点をかき集めても、あなたがいま石を投げているあの不幸な娘の、小指だけの価値もありゃしない」
「すると、あなたはあの女をご母堂や、ご令妹と一座させるだけの決心がおありですな?」
「それはもう実行しましたよ、もし知りたいとおっしゃれば申しますがね。ぼくは今日あの娘を、母とドゥーニャとならんですわらせましたよ」
「ロージャ!」とプリヘーリヤは叫んだ。
 ドゥーネチカは顔を赤らめ、ラズーミヒンは眉を寄せた。ルージンは毒々しく、高慢ちきに、にやっと笑った。
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ」と彼はいった。「ごらんのとおりですから、これじゃ話の折り合うわけがありません。わたしはもうこれでこの問題は万事永久に終わったもの、はっきりしたものと考えさしていただきます。もはやこのうえ、親子兄妹対面のお楽しみや、秘密ご伝達のおじゃまをしないように、遠慮することといたしましょう(と彼はいすから立ちあがって、帽子を取った)。けれど、帰りがけに、あえて注意させていただきますが、こんな出会い、いや、曖昧《あいまい》な妥協《だきょう》は、ごめんこうむりたいものですな。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、あなたにはとくにこの点をお願いしておきます。ましてあの手紙は、ほかのだれでもない、あなたにあてたものなんですからな」
 プリヘーリヤも少々むっとした。
「あなたはなんですか、わたしたちをご自分の権力で、自由にしようとしていらっしゃるようですね。ピョートル・ペトローヴィチ。どうしてお望みどおりにしなかったかというわけは、もうドゥーニャが申しあげました。あれはいい考えを持っていたのでございます。それにあなたのお手紙は、まるで命令でもなさるような書きかたですもの。いったい、わたしどもはあなたのお望みを、いちいち命令のように守らなくてはならないでしょうか? それどころじゃありません、わたしはっきり申しあげますけれど、あなたは今わたしどもにたいしては、かくべつ優しく、寛大にしてくださらなければならないはずです。だって、わたしたちは何もかもふり捨てて、ただあなたを頼りに、ここまで出て来たんですもの。してみれば、それでなくても、おおかたあなたの権力内に置かれてるわけじゃありませんか」
「いや、そうばかりでもありませんよ、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ。ことに今しがた、マルファ・ペトローヴナの遺言状に書かれた、三千ルーブリのご披露《ひろう》があったあとですからな。しかもそれは、わたしにたいするお話しぶりの変わったのから見ても、たいへんいいおりだったらしいご様子で」と彼は毒々しくいいたした。
「そのお言葉から見ますと、ほんとにわたしどもの頼りない身の上を当てにしていらしったものと、想像してもよさそうですね」といらだたしげにドゥーニャはいった。
「けれども今は少なくとも、そんなことを当てにするわけにいきません。ことにアルカージイ・イヴァーヌイチ・スヴィドリガイロフ氏の秘密な申し出を伝達される、おじゃまをしたくありません。あの男はご令兄にその全権を委任したわけなんでしょう。わたしの見るところでは、その申し出はあなたにとって重大な意味、いや、ことによったら、きわめて愉快な意味を持っているのかもしれないようですな」
「まあ、なんということを!」とプリヘーリヤは叫んだ。
 ラズーミヒンは、いすにじっとしていられなかった。
「お前これでも恥ずかしくないのかい、ドゥーニャ?」とラスコーリニコフは尋ねた。
「恥ずかしいわ、兄さん」とドゥーニヤはいった。「ピョートル・ペトローヴィチ、とっとと出て行ってください!」彼女は憤怒《ふんぬ》にさっと青ざめながら、彼のほうへふり向いた。
 ルージンもこうした結末になろうとは、夢にも思いがけなかったらしい。彼はあまりに自分自身と、自分の権力と、ふたりの犠牲《いけにえ》の頼りない境遇に、希望をかけすぎていたのである。今でもまだほんとうにならないほどであった。彼は真青になり、くちびるがわなわなとふるえだした。
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、わたしが今こんなはなむけをもらって、この戸口から出てしまったら、そのときは――どうか覚悟してください――わたしはもう二度と帰っては来ませんから。ようっくお考えなさい! わたしのいうことに二|言《ごん》はありませんぞ」
「なんてずうずうしい!」ドゥーニャはすっくと席を立ちながら叫んだ。「えええ、わたしはあなたに帰って来ていただきたくありません!」
「えっ? なるほどそうですか!」最後の瞬間まで、こうしたが大団円《だいだんえん》を信じていなかったルージンも、今はまるでつぎ穂を失って、思わずこう叫んだ。「なあるほど、そうですか!しかし、いいですか、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、わたしは抗議することだってできますよ」
「あなたはどんな権利があって、娘にそんなことをおっしゃるんです!」とプリヘーリヤは熱くなって割って入った。「いったい、どんな抗議がおできになるんですの? いったい、どんな権利を持ってらっしゃるんですの? ふん、あなたのような人に、かわいいドゥーニャをあげられましょうかい? さ、出て行ってください、わたしたちにかまわないでいただきましょう! もともとわたしたち、自分のほうが悪いんです。こんなまちがったことを、思いきってしようとしたんですからね。とりわけ、わたしが一ばん悪かったのです……」
「しかし、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ」と、ルージンは狂憤《きょうふん》のあまり、夢中になってしまった。「あなたは、ああした約束でわたしを縛っておきながら、いまさらそれを破棄するなんて……そして、そして、おまけに……おまけにわたしはおかげで、よけいな失費をさせられたじゃありませんか……」
 この最後の抗議は、あまりにもルージンの性格にはまっていたので、憤怒《ふんぬ》の発作とそれを押える努力のために、真青になっていたラスコーリニコフも、急にがまんしきれなくなり、からからと笑いだした。けれど、プリヘーリヤは思わずわれを忘れてしまった。
「失費ですって? それはいったい、どんな失費なんですの? まさかあなたは、わたしたちのトランクのことをおっしゃるんじゃありますまいね? だって、あれは車掌があなたにただで乗せてくれたんですよ。まあ、なんてことでしょう。わたしたちがあなたを縛ったんですって! まあ正気になってくださいよ、ピョートル・ペトローヴィチ、それはね、あなたのほうがわたしたちの手足を縛ったので、わたしたちがあなたを縛ったのじゃありませんよ!」
「もうたくさんよ、お母さん、後生だからもうよして!」とドゥーニャは哀願した。「ピョートル・ペトローヴィチ、どうぞお願いですから、出て行ってくださいまし!」
「出て行きますとも。ただ最後に、たったひと言いっておきます!」もうほとんど自制力を失って、彼は叫んだ。「ご母堂はもうすっかり忘れてしまわれたようですが、わたしはあなたのああした風評が、近所近在一円にひろがったにもかかわらず、あなたをもらおうと決心したんですよ。わたしはあなたのために、世論を無視して、あなたの名誉を回復してあげたのだから、もちろん、大いばりでその報酬《ほうしゅう》を当てにしても、いや、さらにあなたの感謝を要求しても、いいわけだと思いますがね……しかし、今ようやく目が明いてきました!ことに[#「した!こと」はママ]よると、世論を無視したのは、きわめてきわめて軽率な行為だったかもしれない、それが自分でもわかります……」
「この野郎、頭が二つあるとでもいうのか!」ラズーミヒンはいすからおどりあがって、今にも制裁を加えようと身構えながら、こうどなりつけた。
「あなたは卑劣な、いじの悪い人です!」とドゥーニャはいった。
「何もいうな! 何もするな!」と、ラズーミヒンを押し止めながら、ラスコーリニコフは叫んだ。それから、ぴったり顔を突き合わさないばかりに、ルージンのそばへ進みよった。「さあ、とっとと出て行ってください!」と彼は低い声で、はっきり言葉を分けながらいった。「もうひと言も口をきかないで、さもないと……」
 ルージンはややしばらく、憤怒にゆがんだ真青な顔をして、じっと彼を見つめていたが、やがてくるりと踵《きびす》を転じて、そのまま出て行った。いまこの男がラスコーリニコフにいだいたほどの憤怒と憎悪は、だれしもめったに感じることがなかったに相違ない。彼はラスコーリニコフを、彼ひとりのみを、いっさいの原因にしてしまったのである。しかし、ここに特筆しなければならないのは、もう階段をおりて行きながらも、事はまだぜんぜん瓦解《がかい》してしまったのではないかもしれない、ふたりの婦人にかんしては『十分、十分』回復の見込みさえあると、こんなふうに考えたことである。

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 何よりかんじんなのは、最後の瞬間まで、こうした結末を夢にも予期しなかったことである。彼はいよいよのどんづまりまで、赤貧《せきひん》洗うがごとき頼りないふたりの女が、自分の勢力下から脱出するかもしれないなどと、そうした可能性を想像もしていなかったので、傲然《ごうぜん》と力みかえっていたのである。この信念を手伝っていたのは、彼の虚栄心と、うぬぼれと呼ぶのが最もふさわしい自信の念であった。雑輩《ざっぱい》からたたき上げたルージンは、病的なほどうぬぼれがつよく、自分の頭脳と才知を高く評価していた。時とすると、ひとりでそっと鏡に映る自分の顔に見とれることさえあった。しかし、彼がこの世の何より愛していたのは、あらゆる方法をつくしながら、粒々《りゅうりゅう》辛苦の結果手に入れた自分の金だった。その金こそは彼を引き上げて、自分より上にあったあらゆるものと、同列にしてくれたのである。
 今さっき彼がドゥーニャに向かって、自分は悪い風評があるにもかかわらず、彼女をめとろうと決心したのだと、悲痛な語調でほのめかしたのは、あくまでまじめな気持ちでいったのであった。それどころか、ああした『あさましい亡恩のふるまい』にたいして、深い憤懣《ふんまん》の情さえも覚えたほどである。もっとも、ドゥーニャに縁談を申し込んだ時には、すでにマルファ・ペトローヴナ自身が、公然とそうした風説を根底からくつがえしてしまい、町じゅうの人もそんなことなど忘れて、ドゥーニャをかばっていたので、彼もそれが愚にもつかない妄説《もうせつ》だということを、十二分に信じていたのである。それに彼自身も、そういう事情をあの当時から知っていたのを、否定するわけにはいかなかったろう。にもかかわらず、彼はドゥーニャを自分と同じ地位まで引き上げてやろうとした自分の決断を、やはりどこまでも高く評価し、それを功業のように思っていた。で、今ドゥーニャにこのことをいいだしたのも、これまでひたすら愛《め》でいつくしみ、内心ひとりで嘆賞していた大事な秘密の想念を表白したわけなので、どうして人がこの功業を嘆賞しないのかと、ふしぎでたまらなかった。もうラスコーリニコフをたずねて行ったあの時からして、彼は十分に自分の功業の成果を収め、この上もない甘美な謝辞を聞くつもりで、恩人気どりではいって行ったものである。で、いま階段をおりながら、彼が自分の真価を認められず、この上ない侮辱を受けたように考えたのは、むりがらぬしだいである。
 ドゥーニャは彼にとって、もうそれこそなくてはならぬものだった。彼女を思いきるなどとは、思いも及ばないことである。もう長いあいだ、五、六年このかた、彼は結婚ということを楽しい空想にしながら、それでも絶えず金をちびちびためて、時節到来を待っていたのである。彼は希望にみちた気持ちで、心の深い深い奥のほうで、品行がよくて貧乏な(どうしても貧乏でなくてはならない)若くてきりょうのいい、素姓も正しければ教育もあり、しかも、うき世の苦労をなめつくしておくびょうになった娘――あくまで従順な(彼ひとりだけに)、生涯自分を恩人として敬いあがめ、頭も上げないような娘を夢想していた。彼が仕事のひまひまに静かなところで、この魅惑に富んだ楽しいテーマについて、どんな甘いエピソードや情景を空想の中に描いたかわからない!そこへ[#「ない!そこ」はママ]急に、数年来の空想がほとんど実現されるばかりになった。アヴドーチヤ・ロマーノヴナの容色と教養は、彼を驚嘆させ、その頼りなげな境遇は、いやが上にも彼の欲望をそそったのである。しかもそこには彼が空想していたのより、より以上のものさえあった。この娘は誇りがつよくて、いじがあり、品行は模範的で、教養と頭脳の発達は彼以上である(彼はこれを直感した)。しかも、これほどの女性が一生涯彼の偉業に奴隷《どれい》的感謝をささげ、彼の前にうやうやしくおのれをむなしゅうする。そして彼は絶対無限に君臨しようというのである!………ちょうどわざとねらったように、彼はそのちょっと前から、長い熟慮と期待の後に、いよいよ根本的に方針を改めて、いっそう広い活動圏内へ踏み出すと同時に、もう久しいあいだ、おぼれるほどあこがれていた一段うえの社会へも、徐々に移って行こうと決心していた……ひと口にいえば、彼はペテルブルグへ打って出ようと決心したのである。彼は女というものが仕事の上で、『あくまで、あくまで』助けになることを知っていた。美しく、品性の高い、教養ある女性の魅力は、彼の人生行路を飾り、人々を彼のほうへひきつけ、彼のために一種の後光となることができる……それが、急に何もかも崩壊《ほうかい》しようとしているのだ! この思いもかけぬ醜悪《しゅうあく》な決裂は、彼にとって落雷のような作用をしたのである。それは一種醜悪な悪ふざけだった。ばかげた話だった! 彼はほんの少しいばってみたばかりで、ろくろくいいたいこともいえなかった! 彼はただちょっと冗談をいって、調子に乗りすぎただけなのだが、こんな重大な結果になってしまった! おまけに、彼はもう自己一流の愛しかたで、ドゥーニャを愛していた。心の中ではもう彼女に君臨していた――しかるに、俄然《がぜん》!………いや! 明日にも、明日にもさっそく事態を回復し、手当てを加え、修正しなければならない。第一――いっさいの原因たるあの傲慢《ごうまん》な乳くさい青二才を、ぺしゃんこにやっつけてやらねばならぬ。それからラズーミヒンのことも、このとき病的な感覚とともに、われ