京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP409-P432

「気が進まないとでもいうんですか、ぼくもそんなことだろうと思ってた!」兇猛な憤怒の発作に駆られながら、彼はこう叫んだ。「そうはいきませんぜ、本当にしようのないやくざな、極道の、箸にも棒にもかからない若殿様だ。ぼくそんなことを本当にしやしない。きみは狼のような欲望を持っているのだ!………まあ、考えてもごらんなさい、きみの注文はあまり大き過ぎるんだが、それでもぼくは思い切れないんですよ! この世界にはきみのような人が他にないからです! ぼくはまだ外国にいる時分から、きみという人を考え出したのです。きみを見てるうちに思いついたのです。もしぼくが片隅から、きみという人を覗いて見なかったら、あんなことは夢にもぼくの心に浮かびやしなかったのです!………」
 スタヴローギンは返事もせずに、ずんずんと階段を昇って行った。
「スタヴローギン!」とヴェルホーヴェンスキイは、うしろからわめいた。「じゃ、一日……いや、二日……いや、まあ、三日だけの猶予を与えましょう。三日以上は駄目ですよ。三日すぎたら、返事を聞かしてもらいますよ!」

[#3字下げ]第9章 スチェパン氏の家宅捜索[#「第9章 スチェパン氏の家宅捜索」は中見出し]

 その間に、こちらでもまた一つ事件が持ちあがった。それはわたしを驚愕させ、スチェパン氏を震駭させるような事件であった。朝八時ごろ、同氏のところから、ナスターシヤがわたしの住まいへ駆けつけて『旦那様が書きつけられました』という報知をもたらした。わたしは初め何一つ合点がいかなかったが、だんだん聞いているうちに、役人どもがやって来て、書類を押収し、それを手帳に『書きつけ』た後、兵隊がそれを風呂敷に包み、手車にのせて持って帰った、ということだけやっと会得できた。それは奇怪千万な報知であった。わたしはすぐさまスチェパン氏のもとをさして急いだ。
 行ってみると、彼は驚くべき状態に陥っていた。すっかり心を取り乱して、無性に興奮しているくせに、それと同時に、紛うかたなく勝ち誇ったような顔つきをしているのであった。部屋の真ん中のテーブルには、湯沸《サモワール》がしゅんしゅん鳴っていて、一杯ついだまま手もつけずに忘れられた茶のコップが、一つぽつんと立っている。スチェパン氏は、自分で自分の動作に気もつかず、テーブルの廻りをうろうろしたり、部屋の隅から隅を歩き廻ったりしていた。彼はいつもの赤いジャケツを着ていたが、わたしの姿を見るが早いか、大急ぎでその上からチョッキと上衣を着込んだ。以前は、だれか親しい友だちにこのジャケツ姿を見られても、けっしてこんなことをしたことはなかったので。彼はすぐさま熱した様子でわたしの手をとった。
「Enfin un ami.(とうとう友だちが来てくれた)」と彼は胸一ぱいにため息をついた。
「|きみ《シェル》、わたしはきみ一人だけを呼びにやったんだよ。だれもほかにこのことを知るものはないのだ。ナスターシヤにいいつけて戸を閉めさして、だれも入れないようにしなければならない。もっともあの連中[#「あの連中」に傍点]は、むろん除外しなけりゃならないがね…… vous comprenez?(きみわかるだろうね)」
 彼は答えを待ち設けるように、不安げにわたしを見つめた。わたしはもちろんとびかかるような勢いで、いろんなことを根掘り葉掘りした。連絡のない、とぎれがちな、おまけに余計な入れごとの多い話の中から、わたしはやっとこれだけのことを知った、つまり、今朝七時頃に『とつぜん』県庁の役人が、彼のところへやって来たというのである。
「〔Pardon, j'ai oublie' son nom. Il n'est pas du pays.〕(失敬、わたしはその男の名前を忘れてしまった。しかしこの国の人ではない)なんでもレムブケーがつれて来たらしい。〔Quelque chose de be^te et d'allemand dans la physionomie. Il s'appelle Rosenthal.〕(なんだか間抜けらしい男で、顔つきから察すると、ドイツ人かと思われる。ローゼンタールという名前だ)」
「ブリュームじゃありませんか?」
「ブリュームだ、まったくそのとおりだった。Vous le connaissez?(きみあの男を知ってたんですか?)〔Quelque chose d'he'be'te' et de tre`s content dans la figure, pourtant tre`s seve`re, roide et se'rieux.〕(なんだか遅鈍らしい、満足しきったような所が態度に現われているが、そのくせ恐ろしくしかつめらしくって、固苦しい、糞真面目な男なんだよ)警察の役人で、しかも下廻りのほうに違いない、je m'y connais.(それはわかっている)。わたしはまだ寝てたんだよ。ところが、どうだろう、その男がわたしに蔵書と草稿を『覗かして』くれと頼むじゃないか。〔Oui, je m'en souviens, il a employe' ce mot.〕(ああわたしは覚えている。その男はこういう言葉を使ったのだ)やつはわたしを引っ張って行かなかった。ただ本だけだ…… 〔Il se tenait a` distance.〕(一定の間隔を保ったわけなんだね)そいつがわたしに来意を説明し始めた時の様子といったら、まるでわたしがその…… 〔enfin il avait l'air de croir que je tomberai sur lui immediatement et que je commencerai a` le battre comme pla^tre.〕(つまり、そいつは、わたしがいきなり飛びかかって、まるで石膏細工かなんぞのように、そいつを叩き毀す、とでも思ったようなふうつきだった)どうもああした下層階級の人間どもは、相当な身分のある人と接触した時、みんなそういうことを考えたがるもんでね。もちろん、わたしはたちまち、ことのなんたるやを悟ってしまった。〔Voila` vingt ans que je m'y pre'pare〕(二十年来、その覚悟をしていたんだからね)わたしはありたけの抽斗をすっかり開けて、鍵もみんな渡してしまった。自分で渡してやったんだ。何もかも渡してやったんだ。〔J'e'tais digne et calme.〕(わたしは威厳を保ちながら平然としていた)。やつは蔵書の中からゲルツェンの外国版と、『警鐘《コロコル》』の合本と、わたしの詩を書き抜いたものを四部もって行った。それっきりなんだ。それから、書類と手紙と 〔et quelque unes de mes e'bauches historiques, critiques et politiques〕(それから、わたしの歴史的、批評的、政治的原稿の中のある物)こういったものをすっかり持って行ったんだ。ナスターシヤの話によると、一人の兵隊が手車にのせて、曳いて行ったそうだよ。おまけに前掛けをその上からかぶせてね、oui, c'est cela(ああ、本当にそうなんだよ)前掛けをね」
 それはまるで譫語のようなものだった。だれにもせよ、こんな話から何か会得ができるだろうか? わたしはまたもや彼に質問の雨を浴せかけた。いったいブリュームが一人で来たのかどうか? だれを代表して来たのか? いかなる職権によって? どうしてあの男がそういう僭越な真似をしたのか? どんなふうにそれを説明したのか?
「〔Il e'tait seul, bien seul.〕(やつは一人きりだった、まったく一人きりだった)もっとも、まだだれやら dans l'antichambre(控室に)おったようだ、oui, je m'en souviens et puis ……(わたしはおぼえてる、それに……)だが、そのほかにまだだれかいたようだった。そして、玄関には番人が立っていたっけ。が、これはナスターシヤに聞かなくちゃならない。こんなことはあれのほうがよく知っている。〔J'e'tais surexcite', voyez-vous, il parlait, il parlait …… un tas de choses.〕(きみも察してくれるだろうが、わたしは恐ろしく興奮していたのだ。あの男はしゃべった、よくしゃべったよ……いろんなことをね)もっとも、あの男はあまり口をきかなかったっけ、それよりわたしのほうがかえってしゃべりつづけていたっけ……わたしは一生の歴史を話して聞かしたんだ。といっても、むろん、そういったふう の見地から見た一生なんだがね…… 〔j'e'tais surexcite', mais digne, je vous l'assure.〕(わたしは興奮してはいたけれど、しかし品位は保っていたよ。それはあえてきみに断言する)が、わたしはどうも泣き出したらしい、それが気になるんだ。手車はあの連中、隣りの店から借りて来たのだ」
「おお、なんというこった、どうしてそんなことができたんだろう? しかし、後生ですから、もっと正確に話してください、スチェパン・トロフィーモヴィチ。だってあなたのいってることは、まるで夢じゃありませんか!」
「|きみ《シェル》、わたし自身も、まるで夢を見てるような気持ちなんだよ…… 〔Savez vous! Il a prononcee' nom de Teliatnikoff.〕(ところでねえ! やつはチエリヤートニコフという名前をいい出したんだよ)そこでわたしはね、その男が玄関に隠れているような気がしたのさ。ああ、そうそう、思い出した。やつはわたしに検事を推薦してくれたっけ、確かドミートリイ・ミートリッチだったと思う…… qui me doit encore quinze roubles de eralache soit dit en passant. Enfin, je n'ai pas trop compris.(それはカルタの勝負で、わたしに十五ルーブリ負けて、それなり払わないでいる男なんだよ。これはついでにいっておくのだ。が、結局、わたしは何が何やら少しもわけがわからない)ところで、わたしはやつの裏を行ってやった。それに、検事なんかわたしの知ったことじゃない。しかし、わたしはやつに秘密を守ってもらいたいと、一生懸命に頼んだらしい。まったく一生懸命に頼んだような気がする。自分の威厳を傷つけやしなかったかと、それが心配になるぐらい…… comment croyez-vous? Enfin il a consenti ……(きみ、いったいこれが本当になるかね、しかし、結局やつも同意して……)ああ、そうだ、思い出した、これはあの男が自分から頼んだのだ。自分はただちょっと『覗きに』来ただけなので、et rien de plus.(それっきりだ)本当にそれだけなのだ。ほかに何もありゃしない……だから、隠しておいたほうがよくはないか、もしなんにも怪しい点を発見しなかったら、事件は何事もなしに終わるんだから、とこう頼んだのだ。そういうわけで、われわれは親友として別れたんだよ。〔je suis tout-a`-fait content〕(わたしもすっかり満足しているのだ)」
「冗談じゃありませんよ。あの男は自分からあなたに対して、こういう場合に必要な手続きと保証を提供したのに、あなたは自分でそれをしりぞけてしまったんじゃありませんか?」わたしは親友としての立場から、思わず憤怒の念に駆られてこう叫んだ。
「いや、保証なんかないほうがいいんだよ。何もすき好んで、世間を騒がすことはないじゃないか。まあ、当分のうち、親友として交渉を持続してゆこう……きみもごぞんじだろうが、もしもそんなことがぱっとしようものなら、この町には……|わたしの敵《メザンヌミ》がたくさんいるんだからね…… 〔et puis a` quoi bon ce procureur, ce cochon de notre procureur, qui deux fois m'a manque' de politesse et qu'on a rosse' a' plaisir l'autre anne'e chez cette charmante et belle Nathalia Pavlovna, quand il se cacha dans son boudoir.〕(それに、あんな検事なんかなんの役に立つものかね、あの検事の豚野郎め。あいつは二度もわたしに失礼な真似をしたのだ。それに、去年あの美人で愛嬌のあるナターリヤ・パーヴロヴナの家で、こっぴどく打ちのめされたことがある。その時やっこさん、夫人の化粧室へ逃げ込んだじゃないか)それにね、きみ、どうかわたしのいうことに反対して、わたしを悲観させないでくれたまえ。なぜって、人が不幸に陥っている時、はたから五十人も百人も親友が口を出して、お前はこんな馬鹿なことをしたぞと教えるくらい、いやなことはないからね。まあ、しかし、かけたまえ。そして、茶でも飲んでくれたまえ。実のところ、わたしは少し疲れたようだ……ちょっと横になって、頭に酢でもつけたほうがよくないかしらん。きみはどう思いますね?」
「ぜひそうしなくちゃなりません」とわたしは叫んだ。「それどころか、氷で冷やしたほうがいいくらいですよ。あなたすっかり頭をめちゃめちゃにしてるんだから! ほら、そんなあおい顔をして、手なんかぶるぶる震えてるじゃありませんか。まあ、横になってお休みなさい。そして、話はも少し後にしたほうがいいんですよ。ぼくは傍に坐って、待っていますから」
 彼は思いきって臥せりかねていたが、わたしは無理やりにそうしてしまった。ナスターシヤが茶碗に酢を入れて持って来た。で、わたしはそれを手拭につけて、スチェパン氏の頭へ当てがった。それから、ナスターシヤは椅子の上に立って、片隅の聖像の前に吊したお燈明をつけにかかった。わたしはびっくりしてそれを見つめていた。第一、お燈明など以前かつてなかったのが、こんど急にひょっこり出てきたのである。
「これはね、さっきあの連中が帰るとすぐ、わたしがいいつけて用意さしたのだ」ずるそうな目つきでわたしを見ながら、スチェパン氏はつぶやいた。「〔quand on a de ces choses-la` dans sa chambre et qu'on vient vous arre^ter〕(こういうものが部屋の中にあると、逮捕にやって来た時に)一種の観念を彼らの頭に吹き込むだろう。すると、帰ってから、こういうものを見ましたと、必ず報告するに違いない……」
 お燈明のほうがすむと、ナスターシヤは戸口に立って、右の掌を頬に押しつけながら、泣き出しそうな様子をして彼を見つめた。
「Eloignez-la.(あれをあっちへやってくれたまえ)なんとか口実を設けて」と彼は長いすから、わたしに顎をしゃくって見せた。「あのロシヤ式の同情が、わたしはいやでたまらないんだよ、〔et puis c,a m'embe^te.〕(それに、うるさいんだ)」
 しかし、彼女は自分で出て行った。わたしは彼がしじゅう戸口へ目を配って、玄関のほうに耳を澄ましているのに気がついた。
「〔Il faut e^tre pre^t, voyez-vous.〕(もう用意しておかなけりゃ、ねえ、きみ)」と彼は、意味ありげにわたしを見上げた。「chaque moment(いつなんどき)やつらが来て、捕まえるかもしれないからね。そうすると、はっと思うまに、人間ひとり消えてなくなってしまうんだ!」
「えっ! だれがやって来るんです? だれがあなたを捕まえるんです?」
「Voyez-vous, mon cher(実はねえ、きみ)、わたしはあの男が帰ろうとするとき、いったいわたしをどうするつもりだ、とこうぶっつけにきいてやったのさ」
「いっそ、どこへ流刑にするつもりだ、ときけばよかったんですよ!」わたしはやはり憤懣の念に堪えかねてこう叫んだ。
「いや、わたしもこの質問を発する時、そういう意味をも含ましたんだ。しかし、やつはなんとも返事しないで、ぷいと出てしまった。Voyez-vous(ところでねえ)、シャツだとか、着物だとか、ことに暖い着物だとかいうものは、いくらあの連中が乱暴なことをするたって、それだけは持って行かしてくれるだろうね。そりゃそうだよ。そうでなかったら兵隊外套で送り出されるんだからね。しかし、わたしは三十五ルーブリだけ(と、ナスターシヤの出て行った戸口を振り返りながら、急に声を落とした)、そっとチョッキのかくしの破れ目に捻じ込んでおいたが、そら、ここのところだ、ちょっといじって見たまえ……わたしの考えでは、やつらもまさかチョッキまで脱がそうとはしまいからね。しかし、ただ見せかけに、金入れの中に七ルーブリだけ残しておいたんだ。『これがありったけです』というわけなのさ。それはきみ、小銭や銅貨のつりなど、テーブルの上に置いてあるから、わたしが金を隠したとは気がつくまいよ。きっとこれがあり金ぜんぶだと思うに違いない。ああ、今日はどこで一夜を明かすやら、神様のほかに知る者はないのだ」
 わたしはあまりの馬鹿馬鹿しさに思わずこうべを垂れた。彼の物語ったような順序では、逮捕することも家宅捜査をすることもできないのは、一目瞭然たる話だった。むろん、彼は錯乱してしまっているのだ。もっとも、現行の新法令が制定されるまでは、そういうことも当時往々もちあがったのは事実である。しかし、彼の言葉によれば、彼はより合法的な手続きをすすめられたにもかかわらず、その裏を掻いて[#「その裏を掻いて」に傍点]断然それをしりぞけたというのも事実だった……もちろん、以前、しかもごく近頃まで、県知事は非常の場合、こういうことをする権限をもっていたけれど……しかし、この事件のどこがそうした非常な場合に相当するのだ? こう思うと、わたしは何が何やらわからなくなってしまった。
「これはきっとペテルブルグから電報が来たに相違ないよ」ふいにスチェパン氏はこういった。
「電報! あなたのことで? それはいったいゲルツェンの著書のためですか、あなたの作った劇詩のためですか、本当にあなたは気でも狂ったのですか? いったいどういう理由で捕縛されるんでしょう?」
 わたしはもういっそ腹が立ってきた。彼は渋い顔をして、何か侮辱でも感じたようなふうだった、――それは別に、わたしが大きな声でどなったからではなく、何も捕縛なぞされる理由がないという、その考え方が気に入らなかったらしい。
「今の世の中だもの、どんな理由で捕縛されるかわかりゃしないさ」と彼は謎めいた口調でつぶやいた。
 と、奇怪な思いきって馬鹿馬鹿しい考えが、わたしの頭にちらりと閃いた。
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、一つの親友としてぼくに聞かしてください」と、わたしは叫んだ。「本当の親友としてうち明けてください、けっしてあなたを陥れるようなことはしません。あなたは何か秘密結社にでも関係してるんじゃありませんか?」
 ところが、驚いたことには、彼はこの問題に対しても確たる自信がなかった。自分が何かの秘密結社に関係してるかどうか、自分でもわからなかったのである。
「そうだね、これをなんと解釈したらいいか、voyex-vous ……(ねえ、きみ……)」
「なんですって、なんと『解釈したらいいか』ですって?」
「もし心底から時代の進歩に同感して、それに関与しているとすれば……だれだってそんなことを明言するわけにゆかないじゃないか。自分じゃ関係がないと思っていても、あに図らんや、いつの間にやら何かに関係している、というようなことがあるからね」
「どうしてそんなことがありうるでしょう。この際、問題は諾か否だけですよ」
「〔Cela date de Pe'terbourg.〕(ペテルブルグ以来のことだよ)あのひとと、むこうで雑誌を出そうとしたとき以来のことだよ。そもそもの根ざしはここにあるんだ。あのときわれわれはうまく滑り抜けて、やつらもすっかり忘れていたのだが、今度それを思い出したのだ。|きみ《シェル》、|きみ《シェル》、いったいきみはわたしがどういう人間かわからないのかね!」と彼は病的に叫んだ。「わたしは逮捕されて、囚人馬車にほうり込まれ、そのままつうとシベリヤへ送られて、一生を過ごすか、それとも監獄の中で人から忘れられてしまうか、どっちかなんだ」
 と、彼はふいに熱い熱い涙を流して泣き始めた。涙はひっきりなしにほとばしり出るのであった。彼は例の赤いハンカチで目をおおいながら咽び泣いた。五分間ばかりというもの、痙攣でも起こしたように咽び泣いた。わたしは心の底を引っ掻き廻されたような気持ちになった。二十年の間、われわれにとって予言者であり、伝道者であり、教訓者であり、かつ族長であったこの人、――われわれ一同の前に昂然として、厳かに聳えていたこのクーコリニック([#割り注]第一編第一章五参照[#割り注終わり])、われわれが心から崇拝して、それを自分たちの光栄としていたスチェパン氏が、今だしぬけに泣き出したではないか。教師が鞭を取りに行った後で、恐怖の念に慄えているちっぽけな悪戯者の小学生よろしく、めそめそ泣いているではないか。わたしはかわいそうでたまらなくなってきた。『囚人馬車』が来るということは、わたしが彼の傍に坐っているという事実と同じくらい、心から信じて疑わないらしい。しかも、明日とはいわず今日すぐ、いや、こういってるうちにもやって来るものと、覚悟しているに相違ない。それがどんな理由かと思うと、ゲルツェンの著書なのである、妙な自作の詩なのである! こういうきわめてありふれた現実生活の知識が、全然かけているということは、尊くもまたいまわしく感じられた。
 彼はついに泣きやんで、長いすから立ちあがり、ふたたび部屋の中を歩み始めながら、わたしと話を続けたが、しかし、絶えず窓の外を見すかしたり、玄関のほうへ耳を傾けたりした。わたしたちの話は連絡もなく続いた。わたしがどんなに言葉をつくして立証しても、慰めても、まるで豆を壁へ叩きつけたように、むなしくはじき返されるばかりであった。彼はろくろく聞こうともしなかった。が、それでもやはり、わたしからいろいろ慰めてもらいたくてたまらないのだ。わたしはその意味でのべつしゃべりつづけた。いま彼はもうわたしというものなしには、どうすることもできなかった。で、どんなことがあっても、わたしを手放しそうにもなかった。こう見てとったので、わたしもそのまま居残った。二人は二時間以上も坐り込んでいた。いろんな話の中に、彼はブリュームが二枚の檄文を見つけて、家へ持って帰ったことを、ふと思い出した。
「え、檄文ですって!」わたしは愚かにも、びっくりしてこう叫んだ。「まあ、あなたは……」
「なあに、十枚ばかり家へほうり込んで行ったのさ」と彼はいまいましそうに答えた(彼はわたしと話をするのに、時にはいまいましそうな、時には高慢ちきな、時には哀れっぽい、卑下した調子になるのであった)。「しかし、八枚はわたしが処分したから、ブリュームが持って行ったのは、たった二枚なんだ……」
 と、彼はふいに憤懣のあまり真っ赤になった。
「〔Vous me mettez avec ces gens-la`!〕(きみはわたしをあんな連中といっしょにするんだね!)いったいきみは、わたしがあんな悪党といっしょになれると思うのかね? あんなビラ撒きと? 倅のピョートルと? 〔avec ces esprits-forts de la la^chete'〕(あの臆病な独りよがりの連中と?)ああ、なんということだ!」
「こりゃ大変だ、もしや何かの間違いで、あなたをあの連中といっしょにしたんじゃないかしらん……いや、馬鹿馬鹿しい、そんなことのあろう道理がない!」とわたしはいった。
「|ねえ、きみ《サヴェヴー》」と彼はわれともなしにいい出した。「わたしは時々、〔que je ferai la`-bas quelque esclandre〕(何か世間を騒がすような、下劣なことを仕出かしそうな)気持ちがしていけない。ねえ、きみ、帰らないでくれたまえ、わたしを一人でうっちゃらないでくれたまえ。ああ、〔ma carrie`re est finie aujourd'hui, je le sens.〕(わたしの世間的生活も今日で終わりを告げた。自分でもそれが感じられる)ねえ、きみ、ことによったら、わたしはあの少尉のように、その辺のだれかに飛びかかって、咬みつくようなことを仕出かすかもしれないよ……」
 彼は奇妙な目つきで、びっくりしたような、同時に自分でも人をびっくりさせたいような目つきで、じっとわたしを見つめるのであった。だんだん時が過ぎてゆくのに、いつまで経っても『囚人馬車』がやって来ないので、彼は本当にいらだたしい気持ちになって、しまいにはぷりぷり腹を立ててきた。そのくせだれに向かって、なんのために腹を立てているのか、自分でもわからないのであった。そのとき何かの用で台所から控え室へやって来たナスターシヤが、とつぜん外套かけにさわって、がたりと倒した。スチェパン氏はぴくりとなって、死んだようにじっと立ちすくんだ。しかし、事態がこうと判明すると、彼は黄いろい声を立てて、ほとんどナスターシヤに跳びかからんばかりの勢いだった。そして、地だんだを踏みながら、台所へ追いやってしまった。一分間ばかりたってから、彼は絶望したようにわたしの顔を眺めながら、いい出した。
「わたしはもう駄目になった! |きみ《シェル》」いきなりわたしの傍に腰を下ろし、悄然としてわたしの目をぴったりと見つめた。「|きみ《シェル》、わたしはけっしてシベリヤを恐れるんじゃない、それは立派にきみに誓っておく、o, je vous jure.(ああまったくだよ)」彼の目には涙さえにじみ出た。「わたしの恐れるのは、まるで別なことなんだよ」
 わたしはもうその様子を見ただけで、彼が何かしら非常に重大な、今まで我慢して隠していたことを、いよいようち明けようとしてるんだなと悟った。
「わたしは恥さらしを恐れるんだよ」と彼はさも秘密らしくささやいた。
「恥さらしってなんです? それはまるで反対じゃありませんか! ぼくうけ合っておきますよ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、この事件は今日にもすっかり明白になって、有利な解決がつきますよ……」
「じゃ、きみはわたしが赦免になるものと、固く信じてるんだね?」
「いったい『赦免』とはなんのことです? 本当になんという言葉でしょう! あなたは赦免されるのどうのというようなことを、全体いつ仕出かしたのです? ぼくは断じて明言しておきます。あなたはなんにもそんなことを仕出かしたことはありません!」
「Qu'en savez-vous(ところがね、きみ)わたしの一生は初めからしまいまで……|きみ《シェル》……あいつらは、あいつらは何もかも思い出すに相違ない……もしまた何一つ発見できないとしても、かえってそのほうがいけないのだ[#「そのほうがいけないのだ」に傍点]」とつぜん彼は思いがけなくこうつけ足した。
「どうしてそのほうがいけないのです?」
「かえって悪いんだよ」
「わかりませんなあ」
「実はねえ、きみ、実はねえ、わたしはシベリヤへやられようと、アルハンゲリスクへ流されようと、かまやしない。権利剥奪もいとわない――死ねとあれば死ぬまでだ! ただね……わたしはもっとほかのことが恐ろしいのだ」と彼はまたしても声を潜め、おびえたような顔つきをして、さも秘密らしくこういった。
「いったいなんです、なんです?」
「ぶん撲られることだ」といい、彼はとほうにくれた顔つきでわたしを見やった。
「だれがあなたをぶん撲るんです? どこでどういうわけで?」わたしは、気でも狂ったのではないかと、度胆を抜かれてこう叫んだ。
「どこって、そりゃきみ……そういうことをするところがあるさ」
「だから、どこでそういうことをしてるんです?」
「ええ、きみは本当に」わたしの耳に口を付けないばかりにしながら、彼はささやいた。「ほら、足もとの床が急にぱっと割れて、体が半分下へ落ち込むような仕掛けがあるだろう……これはだれでも知ってることだよ」
「昔話ですよ!」やっと合点がいって、わたしは叫んだ。「古い昔話ですよ。まあ、いったいあなたは今までそれを本当にしてたんですか?」わたしは声をはり上げて、からからと笑い出した。
「昔話だって! 昔話だって何か出所があろうじゃないか。笞刑に遭った者は、自分でそんなことをしゃべるものじゃないさ。わたしは何千べん、何万べんとなくこの光景を想像してみたよ!」
「しかし、あなたは、あなたはなんのためにそんな目に遭うのです? だって、あなたはなんにもしやしないじゃありませんか?」
「だから、なおいけないんだよ。わたしが何もしないということがわかると、やつらわたしをぶん撲るに相違ないからね」
「それから、あなたをペテルブルグへ引っ張って行く、とこう思い込んでるんでしょう!」
「きみ、わたしはもうさっきもいったとおり、今となって何も惜しいとは思わない。〔Ma carrie`re est finie〕(わたしの世間的生活は終わった)スクヴァレーシニキイであのひとと袂を別った瞬間から、わたしは自分の命も惜しいとは思わなくなった……けれど、恥さらし、見苦しい恥さらしをどうしよう。Que dira-t-elle?(彼女がなんというだろう?)もしこのことが知れたら……」
 彼は絶望したようにわたしを見上げた、不幸な友は顔を真っ赤にしていた。わたしも思わず目を伏せた。
「あのひとには何も知れやしません。あなたの身の上に何も起ころうはずがないんですもの。ぼくはまるで生まれて初めて、あなたと話をするような気がしますよ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、まったく今朝のあなたには面くらわされましたよ」
「きみ、わたしは何も恐怖のために、こんなことをいうのじゃないよ。ただかりにわたしが赦免されて、もう一度ここへ連れて帰られるとしても、わたしの身に何事も起こらないとしても、それでもわたしはやはり駄目になってしまうのだ。〔Elle me soupc,onnera toute sa vie.〕(あのひとは一生わたしを疑うだろう)わたしを、詩人であり思想家であり、二十二年間あのひとの崇拝の的だったこのわたしを!」
「そんなことあのひとは夢にも考えないでしょう」
「考えるよ」と彼は深い確信をもってささやいた。「わたしとあのひとはペテルブルグで、何度もこのことを話したものだ。四旬斎のとき、出発の前にね。そのとき二人ともびくびくしていたのだ。〔Elle me soupc,onnera toute sa vie〕(あのひとは一生わたしを疑うだろう)……そうして、その疑いをはらすことができるだろうか? とても本当とは思ってもらえまい。それに、この町の人が一人でもわたしを信じてくれるだろうか、c'est invraisemblable …… et puis les femmes(それは不可能だ……それに、女というものは)……あのひとなぞかえってよろこぶだろうよ。そりゃもちろん、本当の親友として、悲しんでくれるには相違ない、心底から一生懸命なげいてくれるに相違ない。けれど、心の内ではよろこぶに違いないよ……わたしは生涯自分を責められるような道具を、あのひとに授けることになるんだからね。ああ、わたしの一生は亡びた! 二十年間あのひとと二人で、完全な幸福を楽しんできたのに……今度こういうことになろうとは!」
 彼は両手で顔をおおうた。
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたは今すぐこのことを、ヴァルヴァーラ夫人に知らせたほうがよくはありませんか?」とわたしはすすめてみた。
「とんでもないことを!」と彼は身慄いして席を躍りあがった。「けっしてけっして、どんなことがあったっていえやしない。スクヴァレーシニキイで別れる時、あんなことをいわれた後だもの、どうしてどうしてそんなことが!」
 彼の目はぎらぎら輝き出した。
 わたしたちは絶えず何ものかを待ち受けながら、――もうそういう観念が頭へこびりついてしまったのだ、――たぶん一時間か、或いはそれ以上も坐っていたらしい。彼はふたたび横になって、目さえ閉じてしまった。こうして、二十分ばかり、一口もものをいわないで横になっていたので、彼は寝入ったのか、それでなければ、自己忘却に陥ったのかと思われるほどだった。と、彼は急に恐ろしい勢いで身を起こした。そして、いきなり額の手拭をもぎ取って、長いすから躍りあがると、姿見のほうへ飛んで行き、慄える手でネクタイを結び直すのであった。それから、雷霆のような声でナスターシヤを呼んで、外套と、新しい帽子と、ステッキを出すふうにいいつけた。
「わたしはもう我慢できない」と彼はとぎれとぎれの声でいい出した。「できない、とてもできない!………わたしは自分で行く」
「どこへ?」とわたしも同じく躍りあがった。
「レムブケーのところだ。|きみ《シェル》、それはわたしの義務だ、本務だ! わたしは公民だ、一個の人間だ、けっして木の切れっぱしじゃない。わたしは権利をもっている、自分の権利を要求するのだ……わたしは二十年間、自分の権利を要求しなかった、これまで罪深くもそれを忘れていたのだ……けれど、今こそそれを要求する。レムブケーはわたしに向かって、何もかも明言する義務があるのだ、本当に何もかも! あの男は電報を受け取ったに相違ない。あの男にこうわたしを苦しめる権利はない。それができなければ、捕縛するがいい、捕縛するがいい、捕縛するが!」
 彼は妙な金切り声を立ててわめきながら、地だんだを踏んだ。
「ぼくはあなたの考えに賛成です」わたしはだいぶ彼の身の上が気がかりだったけれど、わざとできるだけ落ちつき払っていった。「まったく、こんなに気を腐らせながら家にいるよりか、そのほうがずっと気が利いてますよ。しかし、あなたの今の気分には賛成しかねますね。まあ、ご覧なさい、いったいなんという顔色でしょう。それで、どうしてあすこへ行けますか? 〔Il faut e^tre digne et calme avec Lembke.〕(レムブケーに対しては、もう少し品位を持してゆったりと落ちついてなきゃいけませんよ)本当にあなたは今あすこへ行ったら、だれかに飛びかかって、食いつきもしかねない様子ですよ」
「わたしは自分で自身を危地に陥れるのだ。わたしは獅子のあぎとへ入って行くのだ……」
「じゃ、ぼくもいっしょに行きましょう」
「きみのその親切はわたしも予期していた。よろこんできみの犠牲を受納しよう。真の友人の犠牲だからね。けれど、向こうの家までだよ。ほんの家までだよ。きみはそれ以上わたしと行動をともにして、自分を不利に陥れるわけにはいかない、そんな権利を持ってないよ。O, croyez moi, je serai calme!(大丈夫、安心してくれたまえ、わたしは平静を持しているから!)わたしは今この瞬間、〔a` la hauteur de tout ce qu'ily a plus sacre'〕(まるでこの世にありとあらゆる最も神聖なものの、高い頂きに立っている)ような気がするのだ……」
「ぼくはことによったら、あなたといっしょに、あの家へ入るかもしれませんよ」とわたしは彼の言葉をさえぎった。
「昨日ヴイソーツキイを通じて、例の馬鹿げた委員会から知らせがあったのです、――みんな当てにしているから、ぜひあすは幹事、ではない、なんといいますか……つまり、赤と白のリボンで作った蝶結びを左の肩につけて、盆の監督をしたり、貴婦人がたのお世話を焼いたり、来客の席割をしたりする役目を仰せつかった六人の青年の仲間として、慈善会に出てくれというのです。ぼくは断わろうと思っていましたが、今の場合、ユリヤ夫人と直接相談したいという口実で、あの家へ入って行かないのは馬鹿な話です。こういうふうにして、いっしょに入って行こうじゃありませんか」
 彼はうなずきながら聞いていたが、なんにもわからなかったらしい。わたしたちは閾の上に立っていた。
「|きみ《シェル》」と彼は片隅の燈明のほうへ手を差し伸べた。「シェル、わたしは今まで、これを少しも信じていなかったが、しかし……ああしておこう、ああして!(彼は十字を切った)Allons!(行こう!)」
『いや、このほうがいい』彼といっしょに玄関口へ出ながら、わたしは考えた。『歩いてる途中で、新鮮な空気が気を鎮めてくれるだろう。そうして、落ちついてから家へ帰って、横になって休むという段取りだ……』
 けれど、これはわたしの自分勝手な一人ぎめだった。ちょうどこの『途中で』、また一つの事件が起こって、さらにスチェパン氏の心を震撼し、すっかり彼の気分を凝り固まらしてしまった……実際、正直なところ、この友が今朝とつぜん示したような思い切った行為は、わたしもまったく思いがけなかったほどである。不幸なる友よ、善良なる友よ!

[#3字下げ]第10章 海賊――運命の朝[#「第10章 海賊――運命の朝」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 途中わたしたちの出くわしたことも、やはり驚嘆に価するものだった。が、いっさいを順序だって話さなければならない。わたしとスチェパン氏がいっしょに表へ出るより、一時間ばかり前のこと、一団の群衆がぞろぞろ市中を練り歩くのを、多くの人々は好奇の目を見はりながら注視した。これはシュピグーリン工場の職工で、総数七十人ばかり、――或いはそれ以上だったかもしれない。彼らはほとんど口もきかないで、ことさら静粛を保ちながら、行儀よく歩いて行った。後で人の話を聞いてみると、この七十人は、全体で九百人ばかりあるシュピグーリン職工の代表として、県知事のもとへ押しかけ、工場主が不在なので、支配人に対する制裁を知事に求めようというのであった。それは支配人が工場を閉鎖して職工を解雇するに当たり、ずうずうしくも職工全部の計算をごまかしたのである。これは今日《こんにち》少しも疑う余地のない明白な事実である。
 ところが、一部の人は、今日までもこの選挙説を否定して、選挙にしては、七十人という人数があまり多すぎる、あれはただ一番ひどく憤慨した連中から自然成立した群衆で、てんでに自分のことを訴えに来たにすぎない、したがって、後であんなに喧しく囃し立てたような、工場全部の『騒擾』などはけっしてなかったのだ、とこう断言している。しかるに、またある一部の人は、あの七十人は単なる騒擾者ではなくて、純然たる政治的色彩を帯びている、つまり、元来がきわめて不逞な性質のうえにかてて加えて、さまざまな檄文に焚きつけられたものに相違ないと、やっきとなって主張するのであった。手短かにいえば、この件に関して、だれか外部からの影響が認められるか、何か陰謀らしいものが存在していたかということは、今日まで正確に知れていないのである。ところで、わたし一個の意見はこうである、職工たちはけっして檄文など読みはしなかった、たとえまた読んだとしたところで、ひと言もわからなかったに相違ない。それは、檄文の筆者がずいぶん無遠慮な文体を好んで使うにもかかわらず、全体としてすこぶる曖昧な書き方をしている、という理由だけでもたくさんである。しかし、実際、職工たちはひどい目に遭わされたうえ、警察に頼んでも、自分らの不平に同情してもらえないので、一塊りになって、『将軍さまのところへじきじき』出かけて、もしできることなら、先頭に嘆願書さえ振りかざして、玄関の前へ行儀よく整列し、将軍さまの姿が現われるやいなや、一同そろってその場にひざまずき、全知全能の神様にでも対するように哀訴しよう、――こう考えるより以上に自然なことがあるだろうか? わたしにいわせれば、騒擾だの、選挙だのと、むずかしく考える必要はない。なぜなら、それは古い歴史的方法だからである。ロシヤの人民は昔から、『将軍さまとじきじき』話をするのが好きだった。しかも、それはただ自己満足のためにすぎないので、結果がどうなろうとかまいはしないのだ。
 だから、わたしは断然こう確信している、――或いは、事実、ピョートルやリプーチン、それにまだだれかほかの人が、――フェージカのような者さえまじっていたかもしれない、――前もって職工たちの間をうろつき廻り、彼らに何か吹き込んだ、というようなことがあるとしても(この点については、実際、かなり正確な証拠があるのだ)、それでも、せいぜい二人か三人、まあ多くて五人ぐらいつかまえて、ほんの試験的にしゃべっただけのことで、それさえなんの効果もなかったに相違ない。反逆云々の噂にいたっては、たとえ職工たちに宣伝書の文句が少々ぐらいわかったにもせよ、愚にもつかないよそごとにしてしまって、さっそく耳をかすのをやめてしまうに違いない。もっとも、フェージカとなると大分わけが違う。この男はピョートルなどよりずっとうまくやったろうと思われる。この時から三日たって起こった町の火事騒ぎにも、二人の職工がフェージカの連累者になっていた。それはこんど、間違いない事実として暴露されたのである。それから、さらに一月たって後、またもや三人の職工あがりの男が、同様に放火強盗犯として郡部のほうでつかまった。しかし、フェージカがうまく煽動して、手っ取り早い直接行動にかからしたといっても、やはりそれは今あげた五人の者にすぎないらしい。というのは、その後ほかの者については、そんな話を少しも聞かないからである。
 それはとにかくとして、職工たちはやがて知事邸前の広場へ、どやどやと押しかけて、無言のまま行儀よく整列した。それから、玄関へ向けて口をぽかんと開けながら、知事の出現を待ち設けた。これは人から聞かされた話だが、彼らはそこに立ちどまるやいなや、さっそく帽子を脱《と》ったとのことである。知事はこの時、ちょうどわざとのように不在だったから、彼が姿を見せる三十分も前のことである。警察のほうからもすぐに駆けつけた。初めはぽつりぽつりであったが、後にはできるだけ勢揃いをしてやって来た。むろん、最初は恫喝的に解散を命じたが、職工たちは垣に行き当たった羊の群みたいに、てこでも動こうとしなかった。そして、どこまでも『将軍さまにじきじき会いに来た』の一点ばりだった。固い決心のさまがうかがわれた。不自然なわめき声がやんで、間もなくもの案じげな様子や、秘密めかしいひそひそ声の命令や、気むずかしげな、あわただしい心づかいの様子(それは上官連の八字に寄せた眉でわかった)などがそれに代わった。警察署長はレムブケーの帰来を待つことに決めた。
 レムブケーが三頭立馬車《トロイカ》を駆って、全速力で駆けつけるやいなや、まだ車を下りないうちから喧嘩を始めたというのは、まるっきり出たらめである。もっとも、彼はよく市中を飛び廻った。うしろを黄いろく塗った馬車に乗って、飛び廻るのが好きだった。そして、『めちゃめちゃに仕込まれてしまった』両方の脇馬が、だんだん夢中になって、勧工場の商人たちを有頂天にさせる頃に、彼は馬車の上に立ちあがり、わざわざそのために脇へ取りつけてある革紐につかまって、背一杯に伸びあがりながら、まるで記念碑のように、右手を空に差し伸べつつ、悠然と町を見渡すのであった。
 けれど、今度の場合はけっして喧嘩などしなかった。もっとも、馬車から下りた時、一こと荒い言葉を吐かずにいられなかったが、それとても、ただ人気を落とすまいがための手段だった。まだいっそうばかげた話がある。ほかでもないが、銃剣をつけた兵隊が召集されただの、どこかへ電報を打って、砲兵隊やコサックを至急派遣するように通達しただのという噂である。しかし、こんなことは今ではいい出した当人さえ、本当にしていないような作り話である。それからまた、ポンプを引っ張って来て、群衆に水を浴せたというのも出たらめである。それはただ警察署長が前後を忘れて、おれはだれひとりとして水の中から体を濡らさずに出るような([#割り注]うまくいい抜ける意[#割り注終わり])真似はさせないぞ、とどなったまでのことである。ポンプの話も、おそらくこれから出たことに相違ないが、こういう次第で、首都の新聞の通信欄にまで転々して行ったのである。まあ、わたしの考えでは、最も正確なヴァリエーションは、最初まず手もとにあり合わせた警官を狩り集め、群衆を囲んでおいて、それから第一課の警部を急使に仕立て、レムブケーのところへ走らしたというくらいのところであろう。警部は、三十分ばかり前にレムブケーが専用の幌馬車に乗って、スクヴァレーシニキイヘ出かけたことを知っていたので、署長の馬車を駆って、その方角を街道づたいに飛んで行った……
 が、実のところ、わたしにとっては、どうしても解釈のつかない疑問が一つ残っている。ほかでもない、どういうわけでこのつまらない、いや、ありふれた一団の訪問者を(もっとも、七十人という人数ではあったが)、いきなり初めっから会うと早々、国家組織の根底まで震撼させるおそれのある反逆運動などにしてしまったのだろう? なぜレムブケー自身までが、二十分ばかりたって、急使の後から姿を現わした時、この観念に飛びついたのだろう? わたしは、もしかしたら、こうではないかと想像している。――もっとも、これだって、やはり個人としての意見なのだけれど、――工場の支配人と昵懇の間がらになっている署長が、この群衆をこうした意味に解釈してしまって、本当に事件を糾明させないほうが有利だ、と考えたのではあるまいか。おまけに、レムブケー自身までが、そういうふうに仕向けたのである。最近この二日間にレムブケーは二度までも、彼と秘密に特別な打合わせを試みた。もっとも、その打合わせはかなり不得要領なものだったが、それでも署長は相手の言葉のはしばしから、シュピグーリンの職工連がだれかに煽動されて、社会革命的な反逆運動を起こすに違いないという考えや、檄文のことに関する心配などが、固く知事公の頭にこびりついているのを見て取った。またそのこびりつき方がなみ大抵でないので、もしそんな煽動云々が出たらめだとわかったら、知事公自身大いに落胆するだろう、と思われるほどであった。『どうかして、ペテルブルグの政府を驚かすような殊勲が立てたくてたまらないのだ』レムブケーのもとを退出しながら老獪な署長はこう考えた『まあ[#「考えた『まあ」はママ]、かまうことはない、こっちにとっては持って来いだ』
 けれど、わたしの固く信ずるところでは、不幸なるレムブケー氏は、たとえ自分の功名手柄のためであろうと、そんな反逆運動なぞ望んでいなかったに相違ない。彼はきわめて正直勤勉な官吏で、結婚の日まで純潔を保った人である。よし彼が罪のない官有薪材とか、同じくらい罪のないミンヘン([#割り注]ドイツ娘の名[#割り注終わり])とかいう空想を実現する代わりに、四十を越した公爵令嬢の虚栄心に巻き込まれたからといって、それがはたして彼自身の罪だろうか? わたしはほとんど確実に知っているが、いま彼がスイスのある特殊な病院へ入って、新たに英気を養わなければならぬような気の毒な心的状態に陥った最初の兆候は、つまり、この運命的な朝から現われたのである。が、もしこの朝から、何か[#「何か」に傍点]明瞭な事実が現われたのを承認するならば、その前の晩にもこれに似寄った事実が、さほど明瞭でないまでも、ある程度まで現われたといったところで、大して不都合なことはないと考える。
 わたしは、最も信頼すべき筋の報告によって、次の事実を知っている(それは当のユリヤ夫人が、その後、日の出の勢いを失って、ほとんど[#「ほとんど」に傍点]後悔の念を感じながら、――というのは、女はけっして真から[#「真から」に傍点]後悔するものではないから、――この出来事の一部を聞かしてくれた、とまあ、かりに想像していただこう)。ほかでもない、前の晩レムブケー氏は、もはやかなり夜も更けた午前二時すぎに、突然やって来て夫人を揺り起こし、『ぜひとも自分の最後通牒』を聞いてもらいたいといい張った。その要求があくまで強硬なので、夫人も仕方なしに、ぶつぶついいながら、髪にカール・ペーパーを巻いたまま寝床から起き出して、寝いすに腰を下ろした。そして、皮肉な侮蔑の色をおもてに浮かべてはいたが、とにかくしまいまで聞き終わった。このとき初めてユリヤ夫人は、夫がどんな気持ちになっているかを悟って、内心おもわず慄然としたのである。彼女は当然自分の非を悟って、我を折らなければならぬはずだった。けれども、夫人は恐怖を隠しながら、前よりいっそう我を張り出したのである。
 彼女はすべての女と同様に、夫に対する一種の戦術を心得ていた。これはもう一度や二度でなく、実地に応用されて、そのつどレムブケー氏を狂憤させたものである。ユリヤ夫人の戦術は、相手を軽蔑しきった無言の行で、それが一時間、二時間、一昼夜、時とすると、三昼夜ぐらい続きかねないことがある。たとえどんなことがあっても、夫がなんといおうと、何をしようと、三階から飛び下りるとて窓へよじ上ろうと、けっしてものをいわないのである。つまり、感じの鋭い男にとって、我慢のできない戦術なのである! ユリヤ夫人はこの数日間の夫の失敗や、また妻の行政的手腕を妬むようなそぶりに対して、県知事としての夫を懲らしめようと思ったのか、それとも、妻のデリケートな遠謀深慮のあるところを解しないで、若い人たちに対する態度を非難する夫に不満の念を抱いているためか、或いはピョートルに対する夫の鈍感な意味のない嫉妬に腹を立てているためか、――とまれ、夫人は、夜の三時という時刻にも、今までかつて見たこともないレムブケー氏の興奮にもいっさい頓着なしに、この時も折れて出ないことに決心したのである。彼は前後を忘れて、夫人の化粧室の絨毯の上を、あっちへ行ったりこっちへ来たり、縦横無尽に歩き廻りながら、『何もかもみんな、すっかり』吐き出してしまった。もっとも、まるっきり脈絡も何もなかったけれど、その代わり、胸の中で煮えくり返っていることを、すっかりぶちまけてしまった。『なぜといって、もうあまり言語道断に過ぎるからだ』といった。彼は劈頭第一に、みんなが自分を笑い草にして、『自分の鼻を抓んで自由に引き廻しているのだ』と切り出した。『言い廻し方なんかどうだってかまやしない!』夫人の薄笑いに気がつくと、彼はいきなり黄いろい声を立てて叫んだ。『鼻を抓むといったっていいじゃないか、それが本当なのだから仕方がない!………』『駄目ですよ、奥さん、いよいよ最後の瞬間が到来したのです。今は笑ったりなんかしてる時じゃありません。女の技巧なぞ弄してる時じゃありません。われわれは体をくねくねさして、しなを作りたがるどこかの貴婦人の化粧部屋なんかにいるのじゃない。まあ、いわば、真実を語るために気球の上に出くわした、二つの抽象的な存在物なのだ』(彼はもちろんまごついてしまって、自分の思想に正しい形式を発見することができなかったのである。もっとも、思想そのものは間違ってはいないのだ)。『それはあなたですよ、奥さん、わたしを以前の状態から引き出してしまったのは、あなたですよ。わたしがこの位置を引き受けたのは、ただあなたのためのみです。あなたの虚栄心のためのみです……あなたは皮肉な笑い方をしていますね? そう得意にならないでください、そう急がないほうがいい。よろしいかね、奥さん、断わっておきますが、わたしだってこの位置を自由にこなすことができます、それだけの腕はあります。なあに、こんな位置の一つくらいじゃない。十の位置だって立派にこなしてお目にかけます。わたしはそれだけの手腕があるんだ。しかし、奥さん、あなたといっしょにいると、あなたが傍にいると、到底こなすわけにいかないのです。あなたが傍にいると、わたしには手腕がなくなるからです。元来、中心が二つあるべきものでない。ところが、あなたはそれを二つこしらえたのだ、――一つはわたしのところにあるし、もう一つはあなたの化粧部屋にあるのだ、――権力の中心が二つできたのですよ、奥さん。しかし、わたしはそんなことを許すわけにいかん、到底ゆるすわけにいかん! 公務というものは、夫婦生活と同様で、中心は一つしかあるべきでない、二つの中心ということは不可能だ……いったいあなたはなんというお礼をわたしにしてくれたのです?』と彼は引き続きこう叫んだ。『わたしたちの夫婦生活には何もありゃしない、ただあなたがしじゅうのべつわたしに向かって、お前はつまらん男だ、馬鹿だ、いや、それどころか、卑劣漢だと証明すると、わたしはまたしじゅうのべつ意気地なく、おれはつまらん男じゃない、馬鹿じゃない、かえって高潔な性格で皆を駭かせているのだ、と反証しなければならん羽目に落とされる、――ただこれっきりだ、ほかに何もありゃしない。さあ、いったいこれがお互いに恥ずべきことじゃないでしょうか?』
 こういいながら、彼は両の足で素早く頻繁に、絨毯[#「絨毯」は底本では「絨毬」]の上で地だんだを踏み出した。で、ユリヤ夫人も仕方なく、峻烈な威厳を示しながら、やおら立ちあがらなければならなかった。彼はすぐおとなしくなった。が、その代わり、今度は感傷的な心持ちに移って、すすり泣き、――そうだ、本当にすすり泣きを始めた。ユリヤ夫人の深い沈黙に、もう我慢しきれなくなって、われとわが胸を叩きながら、まる五分間ばかり泣きつづけたのである。そのうちに、とうとう取り返しのつかぬ失策をしてしまった。つまり、ピョートルに嫉妬を感じていると、うっかり口をすべらしたのである。自分でも、方図のない馬鹿をいったと気がつくと、彼はもう気ちがいのように猛り立って、『神を否定するようなことは許しておけない。自分はお前のサロンに集まって来る信仰のない不都合きわまる連中を、すっかり追い散らしてやる。全体、知事なるものは神を信ずべきだ。したがって、知事夫人とても同じことだ。おれは若いやつらがたまらないほどいやなんだ、え、もし奥さん、あなたは自分の品位を保つうえからいって、夫のうえに心を使い、たとえ手腕のない男であっても(だが、わたしは手腕のない男じゃありませんよ)、その能力を弁護するのが当たりまえじゃありませんか! ところが、ここの者がわたしを軽蔑するようになったのも、つまり、もとはといえば、あなたのためですぞ。あなたが、あいつらをあんなふうにしてしまったんですぞ!』と彼は叫んだ。彼はまた続けてこうも叫んだ。婦人問題などというものは、揉み潰してしまってやる。そんなものは匂いもしないようにしてくれる。あの愚にもつかない婦人家庭教師の慈善会なぞは、明日にもきっぱり差し止めて、解散さしてしまう(家庭教師なぞは、勝手に、どうでもするがいい!)。さっそく、明日の朝にも、婦人家庭教師に出あい次第、『コサックをつけて、県外へ放逐してくれる! 意地にでもそうする、意地にでもきっとして見せる!』と彼は金切り声を立てた。『ねえ、奥さん、あなたは知っていますか、ここの工場では、あなたの好きな、やくざ連中が、職工どもを煽動してるんですよ。わたしはそれをよく知っています。いいですか、故意に、檄文を撒き散らしてるんですよ。故意に! いいですか、わたしはそのやくざ連の名前を、四人まで承知していますよ。ああ、わたしは気が狂いそうだ、もうすっかり気が狂いそうだ、すっかり※[#感嘆符二つ、1-8-75]……』
 しかし、この時、ユリヤ夫人はとつぜん沈黙を破り、いかめしい調子で宣言した、――そんな大それた陰謀のあることは、とうから知っている。が、それはみんなつまらないことで、あなたはあまり真面目に解《と》り過ぎたのだ。まあ、あの悪戯者のことなら、自分は四人ばかりではない、残らずみんな知っている(夫人は嘘をついたのだ)。けれども、そんなことで気など狂わすつもりはさらにない。それどころか、かえってますます自分の能力に信を措いて、万事円満に解決をつけるつもりでいる。つまり、青年たちを励まして、理性にめざめしめ、そのうえで、突然ふいに彼らの計画が暴露したことを証明して、合理的、光明的事業に貢献するような目的を彼らに啓示してやろう、というのである。
 ああ、この時、レムブケーの心持ちはどんなであったか――ピョートルはまたしても自分をだました、あの男は自分に話したよりずっと余計に、ずっと早く、夫人にいろんなことをうち明けているのだ、きっとあの男こそ、こうした不逞な計画の首唱者に相違ない、――こう思うと、彼はもう前後を忘れてしまった。
『おぼえていろ、このわからずやの意地悪女め!』一度にすべての制縛を断ち切って、彼はこう絶叫した。『おぼえていろ、おれは今すぐ貴様のけがらわしい色男を引っ捕まえて、足枷《あしかせ》を嵌めて監獄へぶち込んでしまうぞ。もしそれができなければ、――おれは自分でたったいま貴様の目の前で、この窓から身を投げて死んでやるから!』
 この長たらしい説法に対する答えとして、ユリヤ夫人は憤怒のあまり顔を真っ青にしながら、いきなり破裂したように高らかな笑い声を立てた。それは十万ルーブリの年俸で招聘されたパリの女優が、フランス劇場で婀娜者《あだもの》に扮して、無礼にも嫉妬など起こした夫を、面と向かって嘲笑う時にそっくりそのままな、時には低く揺れたり時には高く反響したりするような、長い長い笑いであった。レムブケーは窓に身を躍らせようとしたが、突然まるで釘づけにされたように立ちどまり、両手を胸に組んだまま死人のようにあおい顔をして、もの凄い目つきになると、笑いつづける夫人を見据えた。
『おぼえてろ、おぼえてろ、ユリヤ……』彼はせいせい息を切らしながら、哀願するような声でこういった。『おぼえてろ、おれだって何かして見せるから!』
 この言葉に続いて起こったさらに烈しい、新しい笑いの破裂を聞くとひとしく、彼は歯を食いしばり、呻き声を立てながら、出しぬけに猛然と躍りかかった――が、それは窓のほうではなく、夫人に拳を振り上げながら、飛びかかったのである! しかし、彼はそれを打ち下ろしはしなかった、――そんなことはない、大丈夫そんなことはない。が、その代わり、それきり彼は力が尽きてしまった。地を踏む足の感覚もなく、書斎へ駆け込んで、いきなり着のみ着のままで、用意の寝床へ突っ伏しに倒れた。そして、痙攣的な手つきでベッドカバーを頭から引っかぶると、そのまま二時間ばかり、じっとしていた、――寝るでもなく考えるでもなく、胸には石のような感覚を、心には鈍い、もそろとも動かぬ絶望をいだきながら……ときどき彼は全身を悩ましげに、熱病やみのようにぴくぴくと慄わせた。なんだかまるでとりとめのない、他愛もないものが、ひょいひょいと心に浮かんできた、――十五年も前ペテルブルグ時代に彼の家にあった長針の取れた古い掛け時計を思い出すかと思うと、今度は恐ろしく陽気なミリブアという役人のことだの、一度その男といっしょにアレクサンドロフスキイ公園で雀を捕まえたことだの、捕まえてはみたものの、二人のうち一人はもう六等官の身分であることを思い出して、公園の隅から隅まで響き渡るような声で笑ったこと、なども心に浮かんだ。
 思うに、彼は朝の七時頃、やっと寝入ったにちがいない。しかも、自分では気もつかず、快い夢の数々を見ながら、いい気持ちで寝入ったに相違ない。十時頃に目をさますと、やにわに騒々しく寝床から飛び起きた。一時にすべてが思い起こされた。彼は自分で自分の額をぴしゃりと平手で叩いた。朝飯もしたためず、ブリュームにも、警察署長にも、けさN会議の委員が閣下のご起床を待っていると知らせに来た官吏にも、だれにも面会しなかった。そして、なに一つ聞こうとも、理解しようともせず、彼はまるで気ちがいのように、ユリヤ夫人の居間へ駆け出した。そこにはソフィヤ・アントローボヴナという、とうからユリヤ夫人のところに寄食者《かかりうど》となっている生まれのいい老婦人が居合わして、奥様はもう十時ごろに大勢づれで三台の馬車に乗り、ヴァルヴァーラ夫人訪問にスクヴァレーシニキイヘ行かれた、それは二週間後に開催の計画になっている、次回の――第二回の慈善会会場に当てられるべき、スタヴローギン家の模様を検分するためで、三日前に当のヴァルヴァーラ夫人と約束したことなのだ、と説明した。この報らせに仰天したレムブケーは、書斎へ取って返すやいなや、性急に馬車を命じた。彼はおちおち待っていられないほどだった。彼の心はユリヤ夫人に憧れ渡っていたのである、――ただ一目彼女の顔を見て、五分間ほど傍にいたらいいのだ。そうしたら、或いは彼女も自分のほうを見て、その姿に心づき、前のようににっこり笑うかもしれぬ、ゆるしてくれるかもしれぬ、――おお!『いったい馬はどうしたのだ?』彼はテーブルにある厚い本を、機械的にめくって見た。彼は時々こんなふうに、本で占いをした。当てずっぽに本をめくって、右側のページの上から三行ばかり読むのである。出て来たのは次のような文句であった。“Tout est pour le mieux dans le meilleur des mondes possibles.”(いっさいのものはあらゆる世界において優れたるが中にも最も優れたるもののために存す)ヴォルテールの『カンディード』である。彼はぺっと唾を吐いて、急いで馬車のほうへ駆け出した。
『スクヴァレーシニキイだ!』
 馭者の話によると、『旦那さま』は途中ひっきりなしに急《せ》き立てていたが、馬車が『お邸』へ近づき始めた頃、とつぜん轅《ながえ》を転じてふたたび町へ引っ返せと命じた。『もっと早く、お願いだから、もっと早く』と彼はいった。ところが、町の城郭まで行きつかないうちに、『旦那さまはまたわたしにとめろとおっしゃって、馬車からお出ましになりますと、道を突っ切って、畑の方へいらっしゃるじゃありませんか。わたしはどこかお悪いのじゃないかと思っておりますと、旦那さまはじっと立ちどまって、一心に花を眺めておられるのでございますよ。こうして、ずいぶん長く立っておられますので、本当にわたしも妙だなあと思ったくらいでございます』という馭者の申立てだった。わたしはあの朝の天気を覚えている。ひいやりと晴れ渡っていたが、風立った九月の日であった。道の外へ踏み出したレムブケー氏の前には、早くも穀類を刈り取ってしまった素裸な野の荒寥たる景色が展開していた。風は唸り声を立てながら、しおれゆく黄いろい草花のみすぼらしい残骸を揺るがして行く……はたして彼は自分の身の上を、『秋』と霜に打ちひしがれた見る影もない野の花の運命に引きくらべたかったのであろうか? どうもそうは考えられぬ。いや、むしろ確かにそうではないと考える。例の馭者を初めとして、そのとき署長の馬車に乗ってやって来た第一課の警部の証言もさることながら、彼は花のことなぞまるでおぼえていなかったに相違ない。警部はその後になって、知事閣下が一たばの黄いろい花を手にしているのを、実際目撃したと断言した。この男は職務に至大な誇りを感じている行政官吏で、ヴァシーリイ・フリブスチエーロフと呼ばれ、町にとってはまだ新来の客だったが、職務執行にかけてはちょっと類のない熱心と、一種猛烈な野猪的なやり口と、いつもお決まりの一杯機嫌らしい様子で、すでに儕輩を擢んでて名を轟かしていた。彼は馬車から飛び下りると、知事閣下の奇妙な様子にべつだん不審をいだくでもなく、気ちがいじみた、とはいえ信念にみちた表情で、『市中が不穏でございます』と遠慮なく、ずばりとやってのけた。
「うん? なんだって?」とレムブケーは厳めしい顔つきでそのほうへ振り向いたが、いっこう驚いたふうもなければ、馬車や馭者のことをおぼえているらしいふうもなく、まるで書斎の中にでもいるような態度だった。
「第一課警部フリブスチエーロフでございます。閣下、市中に暴動が起こっております」
「フリブスチエール([#割り注]ドイツ語で海賊の意[#割り注終わり])?」とレムブケーはもの案じ顔に問い返した。
「さようでございます、閣下、シュピグーリンの職工どもが騒擾を起こしておりますので」
「シュピグーリンの職工どもが!………」
『シュピグーリン』という言葉を聞いた時、なにかあるものが彼の頭に浮かんだらしい。彼はぴくりと身慄いさえして、額に指を当てた。『シュピグーリン!』やがて無言のままではあったけれど、依然としてもの案じげな様子で、彼はやおら馬車の傍へ歩み寄り、その中に腰を下ろすと、町へ帰るように命じた。警部も同じく後から馬車を走らした。
 わたしの想像するところでは、道々レムブケーの心には、いろいろのテーマに関する奇抜な想念が浮かんできたに相違ない。しかし、彼が知事邸まえの広場へ乗り入れた時、何か確固たる想念なり一定の意図なりを抱いていたかどうか、すこぶる疑わしいが、きちんと行儀よく並んで、毅然たるおももちで立っている『暴徒』の群や、巡査の列や、とほうにくれたような顔をした(ことによったら、わざととほうにくれたような顔をしていたかもしれない)警察署長や、知事のほうに集中された一同の期待の色や、――こういうものが目に入るやいなや、彼は全身の血が一時に心臓へ押し寄せるのを覚えた。彼は真っ青な顔をして馬車を出た。
「帽子を脱がんか!」彼はせいせい息を切らしながら、やっと聞こえるか聞こえないかの声で、こういった。「膝をつけ!」今度は思いがけなく、――自分でも思いがけないくらい甲走った声でこう叫んだ。これに続いて起こった事件の結末も、つまり、この思いがけないという点に起因しているのである。それはちょうど謝肉祭の山遊([#割り注]雪の丘の頂きから手橇に乗ってすべり下りる遊び[#割り注終わり])みたいなものであった。高い頂きからすべり始めた橇が、坂の途中でとまるなどということがありえようか? それに、なおさら都合の悪いことには、レムブケーは今まで晴ればれした性質をもって知られた人で、一度も人をどなりつけたり、地だんだを踏んだりしたことがなかった。こういう人は、もし何かの拍子に橇が綱を切って坂をすべり出すようなことが起こったら、それこそ人一倍危険なのである。彼は、目の前のものが何もかも、ぐるぐる廻り出したような気がした。
「海賊《フリブスチエール》ども!」前よりもいっそう甲走った、いっそう馬鹿げた調子で彼はわめいた。と、その声は急にぷつりと切れた。彼はまだ自分が何を仕出かすかわからなかったが、今に必ず何か仕出かすに相違ないのはわかっていた。彼はそれを自分の全存在で直感しながら、ぼんやりそこに突っ立っていた。
『おお!』という声が群衆の中から聞こえた。一人の若い者は十字を切り始めた。三、四人の男は本当に膝をつこうとしたが、ほかの連中は海嘯《つなみ》の寄せるように、どっと三歩ばかり前へ出た。そして、いっせいにがやがやと叫び始めた。『将軍さま……わっしらは四十コペイカずつの約束でしたのに、支配人が……生意気いうなって……』とかなんとかいうのであったが、何一つはっきり聞き分けられなかった。
 悲しいかな、レムブケーはなんにも了解ができなかった。花はまだ彼の手中にあった。さきほどスチェパン氏が囚人馬車を信じて疑わなかったように、暴動は彼にとって明々白々の事実だった。しかも、目を皿のようにして彼を見つめている『暴徒』のあいだを、『煽動者』たるピョートルが、あちこちと奔走している。昨日から瞬時も忘れることのできないピョートル、憎んでも余りあるピョートル!
「笞《むち》だ!」もういっそう思いがけなく彼はこう絶叫した。
 死んだような沈黙がおそうた。
 最も正確な情報と、わたし自身の推測を綜合したところ、事件の前半はこういうふうにして起こったものらしい。しかし、これからさきはわたしの推測も情報も、だんだん怪しくなって来る。とはいえ、二つ三つ確かな事実がないでもない。
 第一としては、なんだかあまり早すぎると思われるくらい、笞《むち》がこの場面へ現われてきた。それは明察力に富んだ警察署長が、前もって待ちごころに用意していたものに相違ない。もっとも、実際しもとの罰を受けたのは、やっと二人くらいのもので、三人とはなかったろうと思う。このことは立派に断言しておく。群衆がことごとく、――少なくとも、半分から処罰されたなどというのは、真っ赤な嘘である。それから、傍を通りかかった一人の貧しい、とはいえ身分のある婦人が引っ捕えられて、即座になんのためだか笞を受けたというのも、同様に根もない馬鹿げた噂である。しかし、それからしばらくたって、この婦人のことがあるペテルブルグ新聞の通信欄に載っているのを、わたしはちゃんと自分で読んだのである。それから、町の墓地にある慈善院に勤めているアヴドーチャ・タラプイギナという婦人についても、次のような噂が伝わった。ほかでもない、この婦人がどこかへお客に行って、慈善院へ帰って来る途中、広場を通りかかったので、そういう場合きわめて自然な好奇心にそそのかされて、弥次馬連を押し分けて前へ出た。そして、その場の光景を見るが早いか、『まあ、なんという浅ましいこったろう!』と叫んで、ぺっと唾を吐いた。おかげでやはりつかまえられて、こっぴどくぶん撲られたとのことである。
 この出来事は新聞に載っただけでなく、町の人が憤慨のあまり、彼女に同情金を募ったほどである。わたしも二十コペイカ寄付した。ところが、どうだろう? タラプイギナなどという婦人は、この町に住んでいないということが後でわかった! わたしもわざわざ墓地の慈善院まで出かけて調べて見たけれど、それでもタラプイギナなんていう名前は、まるで聞いたこともないとのことだった。そればかりか、わたしが市中で行なわれている噂を話したところ、恐ろしく腹を立てたくらいである。わたしがこのタラプイギナなどという実在していない大物のことを述べたわけは、ほかでもない、スチェパン氏の身の上にも、この女と同じことがあやうく起こりかけたからである(もしこの女が実際いたものとしての話だ)。それどころか、このタラプイギナに関する馬鹿馬鹿しい噂も、どうやらスチェパン氏から出たものらしく思われる。つまり、噂がだんだんと広がってゆくうち、妙に脱線して、タラプイギナに早変わりしたのかもしれない。第一に、何よりも合点のゆかないのは、どうして彼がわたしの傍を通り抜けたか、である。わたしたち二人が広場へ入るが早いか、もうどこかへ行ってしまったのである。何かしら非常によくないことが持ちあがりそうな気がしてならなかったので、わたしは広場をぐるっと廻って、真っ直ぐに彼を知事邸の玄関へ連れて行こうと思ったが、彼は自分で勝手に好奇心を起こし、ちょっと一分だけ足を留めながら、だれか行き当たりばったりの男を捕まえて、いろいろ質問の矢を放ち始めた。ふと気がついてみると、スチェパン氏はもうわたしの傍にいないではないか。わたしは本能的にそれと悟って、一ばん危険な場所へ飛び込んで、彼をさがしにかかった。わたしはなぜということなしに、彼の橇が坂をすべり始めたなと直感したのである。果たせるかな、彼はすでに事件の真っただ中に入っていた。今でも覚えているが、わたしはいきなり彼の手をつかんだ。けれど、彼は限りなき威厳を示しながら、静かに傲然とわたしの顔を見つめた。
「|きみ《シェル》」といった彼の声には、何か張りきった絃の切れたような響きがあった。「ああ、もうあいつらが、ここで、この広場の中で、われわれの目の前で、ああ無作法に采配を振るんだもの、こんなやつ[#「こんなやつ」に傍点]なんか……もし自由に働く機会を与えられたら、どんなことを仕出かすか、たいてい知れたもんだ」
 そういって、彼は憤懣のあまり、全身をわなわな慄わせながら、量り知れない挑戦の欲望をおもてに浮かべつつ、二歩ばかり隔てて傍に立ったまま、目を皿にしてわたしたちを見つめているフリブスチエーロフのほうへ、もの凄い破邪の指を差し向けたのである。
「こんなやつ[#「こんなやつ」に傍点]!」もう目の前が真っ暗になってしまって、相手はこう叫んだ。「こんなやつとはだれのことだ? いったい貴様は何者だ?」と彼は拳を固めながら詰め寄った。「貴様は何者だ?」もの狂おしい病的な声で彼はやけにわめいた(断わっておくが、彼はスチェパン氏の顔をよく知っていたので)。
 もう一瞬間うっちゃっておいたら、彼はスチェパン氏の襟首を引っつかんだに相違ない。けれど、ちょうどいいあんばいに、レムブケーが声のするほうへ振り返り、何か思いめぐらすもののように、じっとスチェパン氏を見つめていたが、ふいに、じれったそうに片手を振った。フリブスチエーロフは腰を折られた。わたしはスチェパン氏を引っ張って、群衆の中から連れ出した。もっとも、彼自身もう退却したくなったのかもしれない。
「帰りましょう、帰りましょう」とわたしは押しつけるようにいった。「わたしたちが撲りつけられなかったのは、もちろん、レムブケーのおかげですよ」
「帰ってくれたまえ、きみ。きみまでをこんな危険に陥れようとしたのは、わたしが悪かった。きみには未来がある。きみに相応した野心も持ってるのだからね。ところが、わたしなんかは、―― 〔mon heure a sonne'.〕(わたしの時はもう終わったのだ)」
 彼は毅然たる足取りで知事邸の玄関口へ登って行った。玄関番はわたしを知っていたので、わたしは二人ともユリヤ夫人を訪ねて来たのだと触れ込んだ。やがて、わたしたちは客間に腰を下ろして待つことにした。この友を一人でうっちゃっておく気にはならなかったが、それでも、まだこのうえ何かと口をきくのは無駄だと悟った。彼はさながら祖国のために、決死の覚悟でもした人のような顔をしていた。わたしたちは並んで座を占めないで、めいめい別々に隅っこのほうへ坐った。わたしは入口のドアに近いところにいるし、彼はまただいぶ離れた真むかいの席を占めて、もの思わしげに首を一方にかしげながら、両手を軽くステッキにもたせていた。例の鍔広の帽子は左手に持っていた。こうして、わたしたちは十分間ばかり坐っていた。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 突然レムブケーが警察署長を従えて、足早につかつかと入って来た。そわそわした目つきでわたしたちを一瞥すると、格別の注意も払わないで、右手の書斎へ入って行こうとした。が、スチェパン氏は彼の前に立って、行く手をふさいだ。恐ろしく背の高い、ほかの人とまるで似たところのないスチェパン氏の姿は、彼に特別の印象を与えた。レムブケーは立ちどまった。「これはだれだ?」彼は合点がゆかないらしい様子で、署長に問いかけるようにつぶやいたが、いっこうにそちらへ顔を向けようともせず、いつまでもじろじろとスチェパン氏を見廻していた。
「退職五等官スチェパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキイです、閣下」ものものしげに頭を下げながら、スチェパン氏はこう答えた。
 閣下は依然として相手を見守っていたが、それはきわめて鈍い目つきだった。
「何用です?」といいながら、彼は長官らしいぞんざいな、気むずかしげな態度で、じれったそうにスチェパン氏のほうへ耳を向けた。たぶん、なにか願書でも持って来たただの請願者だろうと、やっとのことで合点したらしい。
「実は今日《こんにち》閣下の名で来訪したさる官吏のために、家宅捜索を受けたのでございます。それにつきまして……」
「名は、名は?」急にあることに想到したらしく、レムブケーはせき込んでたずねた。
 スチェパン氏はいっそうものものしい調子で、自分の名前をくり返した。
「あーあ! あれだ……あの例の養殖場だ……ねえ、きみ、きみが今までいったりしたりしたことは、みんなああいう方面から……きみは大学教授でしょう? 大学教授でしょう?」
「かつて以前N大学で、青年諸子に若干の講演を試みるの光栄を有しました」
「青年諸子に!」レムブケーは、ぴくりとしたふうである。もっとも、自分がなんの話をしているのか、だれと話をしているのか、いまだにはっきりわからなかったに相違ない。それはわたしが賭けをしてもいい。
「わたしはね、きみ、けっしてそういうことを許すわけにゆかんです!」と彼は急に恐ろしく腹を立てた。「わたしは青年諸子を許さん。それはみんな檄文です。それはきみ、社会に対する侵略です、海上侵略にひとしいです、海賊《フリブスチエール》的行為です……いったいなんのお頼みですか?」
「それは反対です。あなたの奥さんが明日の慈善会で、何か講演をしてくれとわたしに頼まれたので。わたしのほうは何もお頼みしてはいません。わたしはただ自分の権利を要求に来たのです……」
「慈善会で? 慈善会などやらせやしない。わたしはきみがたの慈善会など許さんです! 講演? 講演?」と彼は気でも狂ったように叫んだ。
「閣下、失礼ですが、わたしに対して、も少し丁寧なものの言い方をしていただきたいものですね。まるで子供にでもいうように、頭ごなしにどなりつけたり、地だんだを踏んだりしないように」
「きみはいまだれと話をしているか、たぶんわかっておいででしょうな?」とレムブケーは真っ赤になった。
「十分わかっています、閣下」
「わたしは身をもって社会を守っている。ところが、きみがたはそれを破壊しておるのだ!………きみは……だが、わたしはきみのことを思い出してきた。きみはスタヴローギン将軍夫人の家で、家庭教師をしておったのでしょう?」
「そうです、わたしはスタヴローギン将軍夫人の家で……家庭教師をしておりました」
「そして、二十年の間というもの、今日《こんにち》まで積もり積もったいっさいのものの養殖場となっておったのだ……いっさいの