京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集10 悪霊 下』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP169-192

一任するから。ひとつ朝からみんなのところを廻ってくれたまえ。ぼくの訓令は明日か明後日、みんなに聞き分けるだけの落ちつきができた頃、どこかに集めて読んで聞かしたらいいよ……しかし、ぼくが請け合っておくがね、あの連中は明日にもそれだけの落ちつきができるよ。人間はおじけがつくと、まるで蝋のように従順になるものだからね……が、何よりも第一に、きみのほうから元気を落とさないようにしたまえ……」
「ああ、ピョートル・スチェパーノヴィチ[#「スチェパーノヴィチ」は底本では「スチェパーノヴイチ」]、あなた、いらっしゃらなきゃいいんですがねえ!」
「なに、ほんの二、三日の旅だよ。すぐ帰って来る」
「ピョートル・スチェパーノヴィチ」用心深い、けれども、しっかりした声で、エルケリはいい出した。「あなたがペテルブルグへ行かれたってかまやしません。ぼくはちゃんと承知していますよ、あなたは共同の事業のために、必要なことしかなさらないんですからね」
「ぼくは、それより少ない好意をきみから受けるようなことはないだろうと、いつも思っていたよ、エルケリ君。もしペテルブルグへ行くことを察したのなら、あの晩あの際、みなのものを驚かさないために、こんな長旅をするなんていえなかったわけは、きみも察してくれることと思う。あの連中がどんなふうだったか、きみも自分が見て知ってるんだからね。しかし、ぼくは仕事のために、――大切な重要な共同の仕事のために、――出かけるので、リプーチン輩の想像するように、すべり抜けたりなんかするのでないことは、きみも理解してくれるだろう」
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、よしんばあなたが外国へいらっしゃろうと、ぼくは十分理解しますよ。あなたは自分の一身を護る必要があります。なぜなら、あなたはすべてであって、われわれは無ですからね。ぼくはちゃんと理解していますよ、ピョートル・スチェパーノヴィチ」
 哀れな少年は声さえ慄わすのであった。
「ありがとう、エルケリ君……あっ、きみはぼくの痛い指にさわっちゃった(エルケリは無器用に彼の手を握りしめたのである。痛い指は体裁よく黒い絹のきれで縛ってあった)。しかし、ぼくはもう一度明確にいっとくがね、ぼくがペテルブルグに行くのは、ほんの匂いを嗅ぐだけの目的で、一昼夜もいたら、またここへ引っ返すつもりだ。帰って来たら、ぼくは世間の目をごまかすために、田舎のガガーノフのところへ落ちつこうと思っている。もしあの連中が何かで危険を感じたら、ぼくは第一番に出かけて行って、ともにそれを頒つ覚悟だ。もしペテルブルグで滞在が延びるようだったら、すぐ……例の方法できみにお知らせするよ。そして、きみからさらに連中へ伝えてもらうんだ」
 第二鈴が響き渡った。
「ああ、発車までもう五分きりだね。ぼくはね、きみ、ここの仲間がちりぢりになるのが、望ましくないのだ。ぼくは少しも恐れやしない。ぼくのことは心配しないでくれたまえ。結社の網の個々の結び目は、ぼくの掌中にかなりたくさんあるんだから、ここの五人組なんか、何も特別に大切がる必要はないけれど、結び目が一つくらい余計あっても、邪魔にはならないからね。もっとも、ぼくもきみのことは安心してるんだよ。あの片輪どもの傍へ、きみ一人だけ残して行くんだけれどね……心配することはないよ、あの連中はけっして密告しやしない、そんな勇気はありゃしない……ああ、あなたも今日?」ふいに彼は、嬉しげに挨拶に近寄って来るごく年若な男に向かって、まるっきり別なうきうきした声で叫んだ。「あなたもやはり急行で立たれるとは、いっこう知りませんでしたね。どちらへ、お母さんのところへ?」
 この青年は、『お母さん』が隣県で指折りの女地主だったが、ユリヤ夫人の遠縁の親戚に当たっていて、二週間ばかりこの町に滞在していたのである。
「いや、わたしはもっとさきまで、Rまで行きます。八時間ばかり汽車の中に坐ってなきゃなりませんよ。ペテルブルグですか?」と、青年は笑い出した。
「どうして、ぼくがペテルブルグへ行くものと、いきなり想像なすったのでしょう」いっそうあけっ放しな調子で、ピョートルも同じように笑い出した。
 青年は手袋を嵌めた指を立てて、脅かすような手つきをした。
「ええ、そう、お察しのとおりです」ピョートルはさも秘密らしくささやいた。「ぼくはユリヤ夫人の手紙を持って、三、四人ばかり歴訪しなきゃならんところがあるのです。それがどんな人たちでしょう、まったくのところ、馬鹿馬鹿しくなってしまいますよ。いやなお役目ったらありゃしない!」
「しかしねえ、いったいあのひとはなんだって、あんなにおじけてしまったんでしょう?」と青年も同様にささやいた。「昨日あのひとは、わたしさえも部屋へ通してくれないんですよ。わたしなどにいわせれば、あんなにつれあいのことを心配する必要はないのです。それどころか、あの人はまったく見事に火事場で倒れたんじゃありませんか、いわゆる、その、一身を捧げたというわけですからね」
「いや、まあお聞きなさい」とピョートルは笑い出した。「あのひとはね、もうここから……ある人たちが手紙を出してやしないかと、それを恐れてるんですよ。つまり、これについてはスタヴローギン、というより、むしろK公爵がおもな役者なんです……まあ、なにしろ、これには入り組んだわけがあるんです。ひょっとしたら、道々なにかのことをあなたにお話するかも知れませんよ。もちろん騎士道の許す範囲内にかぎりですがね……これはぼくの親類で、少尉補のエルケリです。郡部のほうから出て来たものです」
 今までエルケリのほうへ横目を使っていた青年は、ちょっと帽子に手を添えた。エルケリは挙手の礼をした。
「ねえ、ヴェルホーヴェンスキイさん、汽車の中の八時間は恐ろしい難行ですよ。実はわたしといっしょに、ペレストフという実に面白い大佐が、一等の車に乗ってるんです。隣り領の地主で、ガーリナ、―― 〔ne'e de Garine〕(ガーリン家に生まれた人)を細君にしてるんですがね、なかなかれっきとした人なんですよ。おまけに、自分自身の思想を持っています。この町にはわずか二昼夜しか逗留しなかったです。エララーシュの勝負が馬鹿に好きなんですがね、一つやってみませんか、え? も一人の相手はちゃんと物色しておきました、――プリプーフロフというT町の商人で、顎ひげをたくわえた百万長者です、いや、本当の百万長者です。これはわたしが請け合っておきます……一つあなたをご紹介しましょう。実に面白い金袋です。大いに笑おうじゃありませんか」
「エララーシュならぼくもけっこうですね。汽車の中でやるのはことに愉快ですが、しかし、ぼくは二等ですからね」
「ええ、馬鹿馬鹿しい、そりゃ断じていけません。わたしたちのほうへ越していらっしゃい。さっそくあなたを一等へ移すようにいいつけます。列車長は、わたしのいうことなら聞いてくれるんです。あなたの荷物は何々です、カバン? 膝かけ?」
「けっこう、行きましょう!」
 ピョートルはすぐさま自分のカバンと、膝かけと、書物を持って、恐ろしく気さくに一等車へ移った。エルケリもそれを手伝った。やがて第三鈴が鳴った。
「じゃ、エルケリ君」もう今度は汽車の窓から手をさし伸べながら、ピョートルは忙しそうな様子で、せかせかといい出した。「ぼくはあの連中と勝負を始めるんだよ」
「なんだってぼくに言いわけめいたことをおっしゃるんです、ピョートル・スチェパーノヴィチ。ぼくちゃんと心得てますよ。ぼくすっかり心得てますよ、ピョートル・スチェパーノヴィチ」
「じゃ、また会おう」と彼はいったが、このとき勝負仲間に紹介しようと呼んでいる青年のほうへ、くるりと振り向いてしまった。
 こうして、エルケリは、崇拝してやまぬピョートルを、もはやそれきり見なかったのである。
 彼はきわめて憂欝な様子で家へ帰った。それは何も、ピョートルがとつぜん彼らを棄てたことが心配なためではなかった、が……しかも、彼はあの若い洒落者が呼んだとき、あまりにも思い切りよく自分に背を向けてしまった……それに、『また会おう』などという言葉以外に、何かもっと言い方がありそうなものだ……せめて手なりと、も少し強く握り締めてくれたら……
 この最後の事実が最も重大なことだった。何かしら一種異様なものが、彼の哀れな胸を掻きむしり始めた。それがはたしてなんであるかは、彼自身にもまだわからなかったが、とにかく、昨夜の出来事に関連したものであった。

[#3字下げ]第7章 スチェパン氏の最後の放浪[#「第7章 スチェパン氏の最後の放浪」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 わたしは固く信じている、――スチェパン氏は、自分の気ちがいじみた計画を遂行すべき時期が迫って来るのを感じた時、非常な恐怖におそわれたに相違ない。わたしはまたこうも信じている、――彼はことにその前夜、かの恐ろしい出来事のあった夜などは、一方ならぬ恐怖に悩まされたに相違ない。ナスターシヤが後でいったところによると、彼はもうだいぶ遅くなって床について、それからぐっすり寝込んだとのことである。けれど、そんなことはなんの証明にもならない。死刑を宣告されたものは、刑の執行の前夜ですらも、ぐっすり深い眠りを貪るという話である。実際、彼が家出をしたのは、どんな神経質な人間でも少しは元気を回復する夜あけの後のことであったけれど(ヴィルギンスキイの親戚の少佐なぞは、夜が明けるが早いか、神に対する信仰さえ失うというではないか)、しかし、わたしの信ずるところでは、彼は今まで一度も恐怖の念をいだかずには、こんな状態でただひとり街道をさ迷う自分の姿を、想像することができなかったに相違ない。彼が二十年間すみ馴れた場所と Stasie([#割り注]ナスターシヤ[#割り注終わり])を見すてて、とつぜん踏み込んだ世界の孤独の恐ろしい感覚も、もちろんはじめしばらくの間は、彼の心に含まれている自暴自棄的なあるもののために、かなり力を弱められたことと思われる。しかし、それはどうでもよい。かりに彼が、自分を待ち設けているすべての恐怖を、どんなにはっきり意識していたとしても、それでもやはり街道へ踏み出して、どこまでも進んで行ったに相違ない! どんなことがあるにもせよ、この事実の中には、何かしら誇らしい、心を躍らせるようなところがあった。ああ、彼はヴァルヴァーラ夫人の豊かな条件を受納して、夫人のお情けのもとに『世間並みの居候として』終わることもできたのだ! しかし、彼はそのお情けをありがたく頂戴して、踏みとどまることをいさぎよしとしなかった。こうして、彼はみずから夫人を棄てて、『偉大なる理想の旗幟』を掲げ、その理想のために街道へ死にに行ったのだ! まさに彼はこういうふうに感じたに相違ない、こういうふうにこの行為は彼の目に映ったに相違ない。
 それから、また別な疑問が、一度ならずわたしの脳裡に浮かんだ。ほかでもない、どうして、彼はあんなふうに逃げ出したのだろう? つまり、なぜ字義どおりに自分の足で逃げ出して、馬車に乗らなかったのだろう? わたしは初めこの事実を、彼の五十年にわたる非実際的生活と、烈しい感動にもとづくとっぴな思想の昏迷だと説明していた。駅馬券だの、馬車だのということは(たとえベルがついているにもせよ)、彼にはあまり単純で、散文的に思われたに相違ない。ところが、その反対に巡礼旅行というやつは、たとえ蝙蝠《こうもり》傘など提げて行くにもせよ、遙かに美しく、そして復讐的な懐かしさを持っているように感じられる、――こうわたしは想像していたのである。しかし、いっさいが終わりを告げた今となってみると、こういうことはその当時、ずっと簡単に決行されたものらしく思われる。第一、彼は馬車を雇うことを恐れたに相違ない。そんなことをすれば、ヴァルヴァーラ夫人が嗅ぎつけて、無理やりに引き留めるおそれがあったからである。実際、夫人はそれを実行したろうし、彼も必ずそれに従ったに相違ない、――そうしたら、偉大なる理想も永久におじゃんになってしまう。
 第二の理由としては、駅馬券をもらうには、少なくとも、目的地を知っていなければならない。ところが、その目的地を知るということが、この際、彼にとって、最も大きな苦痛だったのである。彼はその土地を決めて名ざすことが、どうしてもできなかった。なぜといって、もしどこそこの町と決めてしまったら、もうその瞬間から彼の企ては、彼自身の目から見ても、馬鹿馬鹿しい不可能なものとなってしまうからである。彼はこの点を十分に感じていたのである。実際どこそこの町ときまったところで、彼は何をしようというのだろう? なぜどこかほかの町ではいけないのだ? 例の商人《マルシャン》でもさがそうというのか? しかし、いったいどんな商人《マルシャン》だろう。ここでまたしても、彼にとって何よりも恐ろしい、この第二の疑問が浮かび出たのである。事実、彼にとっては、この商人《マルシャン》ほど恐ろしいものはほかにないのだ。彼は今とつぜん向こう見ずに、この商人《マルシャン》をさがしに飛び出しはしたものの、もちろん、実地にそれをさがし当てるのが何より恐ろしかったのである。いや、もうむしろただの街道がいい、ただ飄然と街道へ踏み込んで、考えずにいられる間はなんにも考えないで、ただ歩けばいいのだ。街道、――それはまるで人生そのもののように、人間の空想のように、何かしら長い、長い、果ても見えないようなものだ。街道の中には思想が含まれている。ところが、駅馬券にどんな思想がある? 駅馬券は思想の終焉だ…… vive la grande route.(街道万歳)さきになったら、またさきのことだ。
 リーザとの思いがけない唐突な邂逅の後(このことはもう前に記しておいた)、彼はいっそう忘我の境に陥ちながら、さきへさきへと進んで行った。街道はスクヴァレーシニキイから、半露里ばかりのところをうねっていたが、――不思議なことには、――彼は初めどうして街道へ踏み込んだか、まるで気がつかなかったくらいである。物事を根本的に判断したり、はっきりと意識したりするのは、このとき彼にとって堪えがたいことであった。細かい雨はやんだり、また降ったりしていた。けれど、彼は雨などにはまるで気がつかなかった。またカバンを肩へ振りかけて、そのために歩きよくなったのにも、やはり気がつかないでいた。こういうふうにして一露里か、一露里半も歩いたろうと思う頃、彼はとつぜん足をとめて、あたりを見廻した。車の轍《わだち》で一面に抉られた、古い、黒々とした街道は、両側にお決まりの楊《やなぎ》をつらねながら、果てしもない糸のように眼前に延びていた。右側は、もうとっくの昔に刈入れのすんだ真っ裸の畑で、左側は灌木の繁みの向こうにちょっとした林が続いている。ずっと遙か向こうのほうには、鉄道線路が斜めに奥へ入り込んでいるのが、あるかなきかに眺められて、その上には何か列車の煙が見えているが、音はもう聞こえなかった。
 スチェパン氏は少しおじけがついて来た、が、それもほんの一瞬間だった。なんというわけもなく、ほっと溜め息をつきながら、彼はカバンを楊の傍に置いて、まず一休みと腰を下ろした。腰を下ろそうとして、身を動かした時、彼は身内にいやな悪寒を覚えて、膝かけに身をくるんだ。と、そのとき初めて雨に気がついて、蝙蝠傘を拡げた。彼はときおり唇をもぐもぐさせながら、しっかりと傘の柄を手に握りしめ、かなり長い間こうして坐っていた。さまざまな幻像が後から後からと、急速に変わりながら、奇怪な列をなして彼の目の前を通り過ぎた。
『リーズ、リーズ』と彼は考えた。『あの娘《こ》といっしょにモーリイスがいたっけ……奇妙な人たちだ……しかし、あの火事は、なんという不思議な火事だったろう。それに、あの娘はいったいなんのことをいったんだろう? いったいだれが殺されたんだろう? 大方スタシーはまだなんにも知らないで、コーヒーでも用意しておれを待ってるだろう……カルタ? いったいおれはカルタに負けて人を売ったかしら? ふむ! このロシヤでは、いわゆる農奴制時代に……あっ、そうだ、フェージカ!』
 彼は驚きのあまりびくりとなって、あたりを見廻した。
『ああ、もしどこかその辺の藪の蔭に、あのフェージカが隠れてたらどうだろう。なんでも、人の話では、あいつはどこか街道で追剥ぎの徒党を作ってるそうだからなあ! ああ、そのときおれは……その時こそおれはあの男に向かって、自分が悪かったと、正直にありのままをいってしまおう……そして、おれが十年間というもの[#「おれが十年間というもの」に傍点]、あの男が軍隊で苦労したより、ずっと余計あの男のために苦しんだことを聞かしてやろう、そして……そして、紙入れをくれてやってしまおう。ふむ! 〔J'ai en tout quarante roubles; il prendra les roubles et il me tuera tout de me^me.〕(おれはみんなで四十ルーブリ持っている。あいつはその金を取っても、やはりおれを殺すだろうなあ)』
 彼は恐怖のあまり、なんのためやら傘をつぼめて、自分の傍へ置いた。このとき遙か向こうの町のほうから、何か田舎馬車のようなものが街道に現われた。彼は不安げに見透しはじめた。
『〔Gra^ce a` Dieu.〕(ありがたい)あれは田舎馬車だ、そして、ゆっくりやって来るようだ。あれなら別に危険なはずがない。あれはへとへとにこき使われたこの辺のやくざ馬だ……おれはいつも馬種を論じていたものだが……いや、あれはピョートル・イリッチがクラブで馬種を論じたので、おれはあの男をカルタで負かしたんだっけ。そして……しかし、あのうしろにいるのはなんだろう? どうやら百姓の女房が馬車に乗っているらしい。百姓と女房―― 〔cela commence a` e^tre rassurant.〕(こりゃどうやら泰平無事になってきたようだ)女房が後について、百姓が前に立ってる―― 〔C'est tre`s rassurant.〕(これはしごく泰平無事だ)あの夫婦の後には牛が角に繩をつけられて、馬車に縛りつけられているのだ。〔C'est rassurant au plus haut degre'.〕(これはますますもって泰平無事だ)』
 馬車は傍までやって来た。それはかなりしっかりした、体裁の悪くない百姓馬車だった。女房は、何やらぎっしり詰めた袋の上に坐っているし、百姓は馭者台に腰かけて、スチェパン氏のほうへ、横向きに足をぶら下げていた。後には、本当に赤い牝牛が角を縛られて、のそりのそりと歩いている。百姓夫婦は目を丸くしながら、スチェパン氏を眺めた。スチェパン氏のほうでも、やはりそれと同様に、二人を見つめるのであった。けれど、二十歩ばかり傍をやり過ごしたとき、彼は突然そわそわと立ちあがって、馬車を追っかけ始めた。馬車とならんで歩いていたら、自然こころ丈夫なわけだ、と感じたのである。しかし、馬車に追いついた時には、もうそんなことをすっかり忘れて、またもや例のちぎれちぎれな想念や幻像に没頭してしまった。彼はてくてく歩いた。そして、この際、自分が百姓夫婦にとって、こんな街道では思いも寄らぬ謎めいた不思議な存在だということなどは、もちろん考えもしなかったのである。
「まことにはや失礼でござりますが、お前様はどなた様でごぜえますかね?」ふいにスチェパン氏がぼんやりと女房を見つめた時、彼女はとうとうこらえかねてこうたずねた。
 女房は年の頃二十七ばかり、肉づきのいい、眉の黒い、血色のいい女で、赤い唇はやさしげに笑みを含み、その陰から白く揃った歯が光っていた。
「あんたは……あんたは、わたしにいってるんですか?」愁わしげな驚きの色を浮かべながら、スチェパン氏はこうつぶやいた。
「きっと商売する方だべえ」と百姓は自信ありげにいった。
 それは背の高い四十恰好の男で、幅の広い利口そうな顔は、赤い髯でぐるりと取り巻かれていた。
「いや、わたしは商人というわけじゃない、わたしは……わたしは…… moi c'est autre chose. (わたしは少し別なものだ)」スチェパン氏はいい加減にごまかした。そして、万一の用意に心もち馬車の後へさがったので、彼は牛と並んで歩くようになった。
「おおかた旦那方だべえ」ロシヤ語とは違った言葉を聞きつけた百姓は、こう決めてしまって、ぐいと手綱をしゃくった。
「こうして、お前さまの様子を見てると、まるで散歩にでも出かけなすったようでごぜえますね!」と女房はまたしても不思議そうにこういった。
「それは……それはわたしのことをききなさるのかね?」
「よく外国の人が汽車に乗って来さっしゃるが、お前さまの靴も、なんだかここら辺のと違うようでごぜえますね……」
「軍人のはく靴だあ」いかにも得意そうに気取った調子で、百姓は口をいれた。
「いや、わたしは軍人というわけじゃない、わたしは……」
『なんというしつこい女だろう』スチェパン氏は、心の中でぷりぷりしていた。
『それに、あの二人がおれをじろじろ見ることはどうだ!………|しかし要するに《メ・ザンファン》……手短かにいえば、まるでおれはあの人たちに対して、何か悪いことでもしたような気がする、それがどうも不思議なのだ。おれはあの人たちに対して、何一つ悪いことをした覚えはないんだがなあ』
 女房は百姓とささやき合った。
「もしおいやでなかったら、お前さまを乗せてあげてもよろしゅうごぜえますが……もしそのほうが楽だと思いなされば……」
 スチェパン氏は急に気がついた。
「いや、これはどうも、わたしは大変うれしいですよ、ずいぶん疲れたからね。しかし、どうして上ったらいいだろう?」
『これはどうも驚いた』と彼ははらの中で考えた。『おれはこの牛と並んで、あんなに長く歩きながら、いっしょに乗せてもらおうという考えが、起こらなかったんだからなあ……この「現実」というやつは、何か恐ろしく特異な点を有しているものだ』
 しかし、百姓はそれでも馬を止めなかった。
「だが、お前さまはどこへ行かっしゃるだね?」と彼はいくぶん信用しかねたように、問いかけた。
 スチェパン氏はすぐには合点がいかなかった。
「きっと、ハートヴォまでだべえ?」
「ハートフのところへ? いや、ハートフのところというわけじゃない……それに、まるで知り合いじゃないから。もっとも、聞いたことはあるけれど」
「ハートヴォといって、村のこんだよ。ここから九露里ばかりある村だあ」
「村? C'est charmant(それは面白い)そういえば、なんだか聞いたことがある」
 スチェパン氏はやはり歩いていた。なぜか、いつまで経っても乗せてくれなかった。素晴らしい考えが彼の脳裡に閃めいた。
「あんたたちは、ことによったら、わたしを……わたしは旅券を持ってる。そして、わたしは大学教授なのだ。いや、なんなら先生といってもいいが、しかし、先生のかしらなんだ。わたしは先生のかしらだ。〔Oui, c'est comme c,a qu'on peut traduire〕(そうだ、こんなふうに翻訳することができるようだ)。わたしはぜひ乗せてもらいたいのだが、どうだろう……お礼に酒の小びんを買ってあげるが」
「五十コペイカもらわねえとね、旦那、悪い道だあもの」
「でないと、どうもはあ、実につまりましねえだ」と女房も口をいれた。
「五十コペイカ? いや、五十コペイカけっこう。C’est encore mieux, j'ai en tout quarante roubles, mais ……(それはなお都合がいい、おれはみんなで四十ルーブリ持ってる、しかし……)」
 百姓は馬を留めた。そして、二人がかりでスチェパン氏を馬車へ引っ張りあげ、女房とならんで袋の上に坐らせた。旋風のような想念は彼の脳裡を去らなかった。ときおり、彼は自分の心持ちに気がついた。そして、どうしたのかひどくぼんやりしてしまって、まるで必要のないことばかり考えているのに、われながら驚くのであった。こんなに頭が病的に衰弱しているのを意識すると、彼は時々たまらないほど心が重くなって、むしろ腹立たしいくらいであった。
「あれは……あれはいったいどういうわけで、うしろに牛なんか繋いだんだね?」と彼は出しぬけに女房に問いかけた。
「何をおっしゃりますね、旦那様、まるで今まで見たことがないみてえに」と女房は笑い出した。
「町で買ったのでござりますよ」と百姓が口をいれた。「うちの牛がね、お前さま、この春くたばってしまいましただ。はやり病《やまい》でね。近所の牛がみんなやられちまって、半分も残りゃしねえ。泣いたってわめいたって、追っつくことでねえだ」
 こういいながら、彼は轍の跡の凹みに落ちて、容易に動けないでいる馬に鞭をくれた。
「そう、それはロシヤの田舎でよくあるやつだ……それに、全体としてわれわれロシヤ人は……いや、まったくよくあるやつだ」スチェパン氏はいいさしにして、やめてしまった。
「もしお前さまが先生だとすると、ハートヴォなんかへ行って何しなさるだね? それとも、どこかさきのほうかね?」
「わたしは……いや、わたしはどこかさきのほうへ行くというわけでもないが…… 〔c'est a` dire〕(まあいってみると)、ある商人のところへ行くんだよ」
「きっとスパーソフだべえ?」
「そうだ、そのスパーソフなんだ。が、そんなことはどっちでもいいのだ」
「お前さまスパーソフさ行かっしゃるとすれば、そんな靴で歩いて行ったら、一週間もかかりますべ」と女房は笑い出した。
「そうだ、そうだ。しかし、そんなことはどうでもかまわない。我友《メザミ》よ、どうだってかまわないんだよ」スチェパン氏はじれったそうにさえぎった。
『恐ろしく好奇心の強い人たちだ。しかし、女房のほうが亭主より話がうまい。どうもおれの観察するところでは、二月の十九日([#割り注]一八六一年、農奴解放令公布の日[#割り注終わり])からこのかた、百姓の言葉づかいが違ってきたようだ。が、おれの行く先がスパーソフだろうと、スパーソフでなかろうと、この連中になんの係わりがあるんだろう? おれはちゃんと金を払ってやるのだ。そうすれば、何もこんなにしつこくきく必要はないじゃないか』
「スパーソフヘ行かっしゃるなら、蒸気に乗らにゃなりましねえだ」百姓はまたしても話しかけた。
「それはほんとのことでごぜえますよ」と女房は活気づきながら、言葉をはさんだ。「だによって、この岸を馬車で行かっしゃると、三十露里ばかり廻りになりますべ」
「四十露里よ」
「あした二時頃に、ちょうどウースチェヴォで蒸気に間に合いますだよ」と女房は決めてしまった。
 しかし、スチェパン氏はかたくなに黙っていた。二人の訊問者も口をつぐんだ。百姓は馬の手綱をしゃくりしゃくりした。女房はときどき簡単に、亭主と言葉を交わすばかりだった。スチェパン氏はうとうと眠りに落ちた。と、恐ろしく面くらってしまった、――女房に笑いながら揺すぶり起こされてみると、いつの間にやら、かなり大きな村に入って、窓の三つついた、とある田舎家の車寄せの傍まで、来ているのであった。
「旦那、休まっしゃりましたかね?」
「これはどうしたのだ? どこへ来たのだ? あっ、なるほど!………いや……どうだってかまやしない」とスチェパン氏は溜め息をつき、馬車から下りた。
 彼は沈んだ目つきであたりを見廻した。こうした村の光景が、彼の目には何となく奇妙な、恐ろしく縁遠いものに映ったのである。
「ああ、五十コペイカ、わたしは忘れていた!」なんだか並みはずれてせかせかした身振りで、彼は百姓のほうへ振り向いた。
 彼はもうこの人たちと別れるのを恐れているらしかった。
「どうか部屋ん中で勘定してもらいてえだね」と百姓がすすめた。
「あっちのほうがよろしゅうござりますべ」と女房も賛成した。
 スチェパン氏は、やにっこい階段を昇った。
『いったいどうしてこんなことになったのだろう?』彼は臆病な、とはいえ、痛切な怪訝の念にとらわれながら、こうつぶやいた。が、それでもとにかく家の中へ入った。Elle l'a voulue.(彼女はこれを望んでいたのだ)何やらぐさと彼の胸を突き刺したような気がした。
 と、彼はまたもや何もかも忘れてしまった、家へ入ったことさえ忘れたのである。
 それはかなり小綺麗な明るい百姓家で、窓が三つついて、二つの部屋に分かれていた。宿屋というほどではないが、昔からの習慣で知り合いの通行人が立ち寄るような、ちょっとした休み場所だった。スチェパン氏は別に鼻白むこともなく、正面の隅へ歩いて行った。そして、挨拶するのも忘れて腰を下ろすと、そのまま考え込んでしまった。そうしているうちに、街道の湿気のなかで三時間も過ごした後のこととて、なみなみならぬ快い温気《うんき》の感触が急に彼の全身にみなぎった。かくべつ神経質な人が熱病にかかった時にはいつもよくあることだが、寒いところからとつぜん暖いところへ移ったために、時々さっと背筋を流れる悪寒までが、なんだか急に快く感じられるようになった。彼は首を上げた。と、暖炉の傍で主婦《かみ》さんが一生懸命に焼いている熱い薄餅《ブリン》の甘い匂いが、彼の嗅覚をくすぐった。彼は子供らしい微笑を浮かべながら、かみさんのほうへ首を伸ばして、ふいに子供らしい調子でいい出した。
「それはいったいな んですか? ブリンですか? Mais c'est charmant.(これはけっこう)」
「旦那様、いかがでごぜえますね?」すぐに主婦さんが丁寧な調子で引き取った。
「ほしいよ。まったくほしいよ。そして……それから一つお茶もお願いしたいね」とスチェパン氏は元気づいてきた。
「湯沸《サモワール》をあげましょうか? はいはい、それならいつでもできますよ」
 大きな青い模様のついた皿にのせて、ブリンがそこへ運ばれた、――ふつう百姓の家で拵える薄っぺらな、半分小麦の入ったブリンで、熱い新しいバターのかかった、素敵にうまいやつだった。スチェパン氏はさもうまそうにそれを試みた。
「この油っ気の多いこと、このうまいこと! ただね、un doigt d'eau de vie(ブランデイがぽっちり)手に入ったらなあ」
「それは、旦那様、ウォートカがお望みなんじゃありませんか?」
「そ、そ、そのとおり、ほんの少しでいいんだ、un tout petit rien.(まったく少しでいいのだ)」
「じゃ、五コペイカもあったらよろしゅうござりますね?」
「五コペイカだ、――五コペイカ、――五コペイカ、――五コペイカ、un tout petit rien.(まったく少しでいいのだ)」さもおめでたそうな微笑を浮かべながら、スチェパン氏は相槌を打った。
 試みに、農民に何かしてくれと頼むと、そのものは、できることなら、そして、しようという気になったら、一生懸命に愛想よく世話を焼いてくれる。ところが、そのものにウォートカを買って来てくれと頼むと、ふだんの落ちついた愛想のいい態度が、急に何かしらせかせかした嬉しそうな親切に変わる。それは、親身のものに対する心づかいといってもいいくらいである。ウォートカを買いに行く当人は、それを飲むのが頼み主であって、自分ではないということを、前からちゃんと知っていても、やはり頼み主の未来の快感をいくぶん自分でも感じるような具合である。三、四分も経たぬうちに(酒屋はついそこにあった)、スチェパン氏のテーブルの上に、ウォートカの極小びんと、薄い緑色した大きな杯が現われた。
「これがみんなわたしのかね!」スチェパン氏は一方ならず驚いた。「うちにもしじゅうウォートカがあったが、五コペイカでこんなにたくさんくれるものとは、今まで少しも知らなかった」
 彼は杯になみなみとついで、立ちあがった。そして、幾分ものものしい顔つきをしながら、部屋を横切って、向こう側の隅へ行った。そこには、彼といっしょに袋の上に坐っていた女房、――途中うるさくいろんなことを問いかけた眉の黒い女房が陣取っている。女房はちょっと照れて、煮え切らない調子で辞退を始めたが、礼儀の要求するだけのことをいってしまうと、とうとう立ちあがって、ふつう女がするように、行儀よく三口に飲み乾した。そして、さも大仰な苦しみを顔に描いて見せながら、スチェパン氏に杯を返して会釈した。彼もものものしく会釈を返して、得意げな色さえ浮かべながら、テーブルのほうへ戻った。
 これは一種の感興によるものであった。彼自身ですら一秒前には、あの女房をもてなしに出かけようとは、夢にも考えてもいなかったのである。
『おれは民衆に応対するすべを完全に、完全に心得ている。それはおれがいつもあの連中にいったことだ』残りの酒をびんの中からつぎながら、彼は満足げにこう考えた。酒は盃一杯なかったけれど、それでも彼に元気をつけて、体を温めてくれた。少し頭にも上ったくらいである。
『〔Je suis malade tout a` fait, mais ce n'est pas trop mauvais d'e^tre malade.〕(おれはすっかり病気になってしまった、けれど病気になるということはそれほど悪いことじゃないよ)』
「これをお購《もと》めくださいませんか?」という低い女の声が傍でひびいた。
 彼はふと目を上げた。と、驚いたことには、自分の前に一人の婦人―― une dame et elle en avait l'air(一人の婦人、しかも相当の身なりをした婦人)が立っているではないか。年の頃はもう三十過ぎらしく、一見したところはなはだつつましやかな女で、じみな着物を町ふうに着こなして、大きな鼠色のきれを肩にかけている。その顔には、何か非常に愛想のいい所があって、それがすぐスチェパン氏の気に入ったのである。彼女はたったいま小屋へ帰って来たばかりなので、それまで自分の荷物を、スチェパン氏の占領している場所に近い床几の上に置いていたのである、――その中に折カバンが一つあったが、彼は入りしなに好奇心をおこして、それに目をつけたのを覚えている。それは恐ろしく大きな、模造皮でこしらえた袋だった。この袋の中から、彼女は美しく製本した二冊の本を取り出して、スチェパン氏の傍へ持って来た。表紙には十字架が捺してあった。
「Eh …… mais je crois que c'est l'Evangile.(ああ、これはきっと聖書ですね)ええ、ええ、よろこんで頂戴します……ああ、やっとわかった……あなたは、世間でいう聖書売りですね。わたしはたびたび新聞で見ましたよ……五十コペイカですか?」
「三十五コペイカずつでございます」と聖書売りは答えた。
「ええ、よろこんで頂戴します。Je n'ai rien contre l'Evangile.(わたしもけっして聖書には反対じゃありません)そして……もう前から読み直してみたいと思っていたのです……」
 この瞬間、自分はもはや、少なくとも三十年くらい福音書というものを読んだことがない、ただ七年ばかり前にルナンの『耶蘇伝』を読んだとき、ほんの少しばかり思い出したことがあるきりだ、という記憶がちらと彼の心をかすめた。
 小銭の持ち合わせがなかったので、彼は例の十ルーブリ札《さつ》を四枚(これが身上ありたけなのだ)取り出した。かみさんは両替の世話を焼いた。このとき彼はあたりを見廻して、初めて気がついた、――小屋の中にはかなり大勢の人が集まって、もう前から彼の様子をじろじろ眺めながら、どうやら彼の噂をしているらしかった。町の火事の話も出ていたが、例の牛を引っ張ってきた馬車の持ち主が、いま町から帰ったばかりなので、だれよりも一ばん熱心に話していた。つけ火とかシュピグーリンの職工とかいう声も聞こえた。
『あの男はおれを乗せて来る時に、いろんなことをやたらに話したくせに、火事の話はちっともしかけなかったっけ』何か妙な考えが、スチェパン氏の頭に浮かんできた。
「旦那様、ヴェルホーヴェンスキイの旦那様、まあ、これはあなた様でござりますか? どうもまるで思いも寄りませんことで!………それとも、お思い出しなさいませんか?」一人のかなりの年輩をした小柄な男が、出しぬけにこう叫んだ。見かけたところ、昔ふうの家僕らしい様子で、顎ひげを綺麗に剃り落とし、襟の折り返しになった長い外套を着ていた。スチェパン氏は自分の名を聞いてぎょっとした。
「どうも失礼」と彼はつぶやいた。「わたしはどうもはっきり思い出せないので」
「お忘れでございますか! わたくしはアニーシム、――アニーシム・イヴァノフでございますよ。亡くなられたガガーノフの旦那にご奉公しておりました。あなた様はよくスタヴローギンの奥様とごいっしょに、亡くなられたアヴドーチヤ様のところへお見えになりましたので、始終お目にかかっておりました。わたくしはよく奥様のお使いで、あなた様のところへ本を持ってまいりましたし、ペテルブルグのお菓子も、二度ばかり持参したことがございます……」
「ああ、そうだっけ、思い出したよ、アニーシム」とスチェパン氏はほほ笑んだ。「お前、ここに住んでるのかね」
「いえ、スパーソフの町はずれにある、B僧院におります。アヴドーチヤ様のお妹ごマルファ様のところでござります。お覚えでもございましょう。舞踏会へお出かけのとき、幌馬車から落ちて、足をお折りになったお方……いま僧院の近所に住まっておられますので、わたくしもそのお傍についております。ところで、ただ今はごらんのとおり、親類のところへ行こうと思って、町のほうへ出向きますところで……」
「ふん、なるほど、なるほど」
「あなた様にお目にかかって、まことに嬉しゅうございました。いつもやさしくしていただきましたので」とアニーシムはさも嬉しそうに微笑した。「いったい旦那様、どこへお出かけになるのでございます。お見受けしたところ、まるでお一人っきりのようでございますが……以前はけっして、一人でお出かけのことはございませんでしたに」
 スチェパン氏は臆病そうに相手を見やった。
「もしやわたしどものほうへ、スパーソフヘいらっしゃるのでは?」
「ああ、わたしはスパーソフヘ行くのだ。〔Il me semble que tout le monde va a` Spassoff.〕(なんだか世間の人たちが、みんなスパーソフヘ行くようだ)」
「もしや、フョードル・マトヴェーイチのところではございませんか? それは、さぞお喜びなさることでございましょう。むかし大層あなた様を尊敬していらっしゃいましたからね。今でも始終、あなた様のお噂をしておられますよ。……」
「そうだ、そうだ、そのフョードル・マトヴェーイチのところだ」
「そうでしょうとも、そうでしょうとも。この百姓どもはね、旦那様、なんだかあなた様がかちで街道を歩いていらっしゃるところをお見受けしたとかいって、不思議がっておるのでございますよ。どうも馬鹿なやつらでございまして」
「わたしは……わたしはその……わたしはね、アニーシム、イギリス人のように賭けをやってね、ぜひ歩いて行って見せるって、そして……」
 彼は額やこめかみに汗をにじましていた。
「そうでございましょうとも、そうでございましょうとも」アニーシムは容赦のない好奇の色を浮かべながら、耳を傾けるのであった。しかし、スチェパン氏は、その上おしこたえることができなかった。彼は当惑のあまり立ちあがって、小屋を出て行こうかと思った。けれど、そこへ湯沸《サモワール》が出た。その瞬間、今までどこかへ行っていた聖書売りが帰って来た。彼は、一生懸命にげ路をさがそうとする人のような身振りで、彼女のほうへ振り向いて、茶をすすめた。アニーシムは席を譲って、立ち去った。
 実際、百姓たちの間には疑念が起こっていたのである。『いったいどういう人なんだろう? 街道をてくてく歩いてるところを見つかって、自分では先生だとかいってるそうだが、みなりはまるで外国人みたいで、知恵といったら、小さな赤ん坊みたいだ。そして、辻褄の合わぬ返事ばかりしている。まるでだれかのところから逃げ出したようだ。しかも、金を持ってる!』警察へ届けようか、という考えも湧いたくらいである。『おまけに、町のほうもだいぶ物騒なんだから』
 けれども、これはアニーシムが即座にまるくおさめた。彼は表廊下へ出ると、様子を聞きたがっている人々に、スチェパン様は先生どころではなく、『大層もない偉い学者で、立派な学問を仕事にしておられる方だ。それに、以前はこの辺の地主で、もう二十二年の間スタヴローギン大将夫人のお邸に暮らして、一ばん大切な人に扱われておられる。また町でも皆の人から、並み大抵でない尊敬を受けておる方だ。貴族たちのクラブでは、よく一晩のうちに鼠色札(五十ルーブリ)や虹色札(百ルーブリ)をカルタの勝負に抛り出したものだ。位は高等官で、陸軍の中佐と同じわけだから、もう一段で大佐というところなんだ。金があるたって、金はスタヴローギン大将夫人から、幾らでも際限なしにもらえるんだよ』などとしゃべり立てるのであった。
『〔Mais c'est une dame et tre`s comme il faut〕(しかしこの女は立派な婦人だ、どこといって難のない婦人だ)』アニーシムの攻撃を免れてほっとしながら、スチェパン氏は快い好奇の念をもって、隣りに坐っている聖書売りを観察するのであった。もっとも、こちらは茶を皿に移して、砂糖を噛りながら飲んでいた。『Ce petit morceau de sucre, ce n'est rien(あの砂糖の塊り、ありゃ何でもない)……あの女には何かしら上品な、しっかりした、しかも同時にもの静かなところがある。Le comme il faut tout pur.(まったく難のない婦人だ)もっとも、普通のとは少し趣きを異にしているけれど』
 彼は間もなくこの女の口から、名はソフィヤ・マトヴェーエヴナ・ウリーチナということ、本当の住所はK町で、そこに後家ぐらしをしている姉があること、町人の生まれだということ、自分もやはり後家の身の上だということ、夫は軍曹あがりの少尉だったが、セヴァストーポリで戦死したこと、――などを知った。
「だが、あなたはずいぶん若い、vous n'avez pas trente ans.(まだ三十にならないでしょう)」
「三十四でございます」とソフィヤはほほ笑んだ。
「ええ、あなたはフランス語もわかるんですか?」
「ほんの少しばかり、わたしはそのあとで四年ばかり、立派なお邸に暮らしまして、お子さん方から習ったのでございます」
 彼女の物語ったところによると、わずか十八で夫に死なれた後、しばらくセヴァストーポリで「看護婦」をしていた。が、その後、諸所方々で暮らした挙句、今では福音書を売り歩くようになったとのことである。
「|ああ、そうだ《メモンディユ》、いつか町で奇怪な、きわめて奇怪な事件が起こったのは、あれはもしやあなたじゃありませんか?」
 彼女は顔をあかくした。はたして彼女であった。
「Ces vauriens, ces malheureux!(あのやくざ者めらが、あの情けない奴らが!)……」と彼は興奮のあまり慄える声でいい出した。病的な憎悪にみちた記憶が、彼の心中に、苦しいまでに呼びさまされたのである。彼は瞬間、前後を忘れるほどであった。
『おや、あの女はまた出て行ったぞ』彼女がまたしても部屋にいないのに気がついて、彼ははっとわれに返った。『あの女はしょっちゅう外へ出て行って、何やら忙しそうにしている、心配そうな様子さえしている…… 〔Bah, je deviens e'goi:ste.〕(やッ、おれは自我主義になってくぞ!)』
 彼は目を上げた。とふたたびアニーシムの姿が見えた。けれども、今度は周囲が非常に不気味な光景を呈していた。小屋の中は百姓で一杯になっていた。それは明らかに、アニーシムが連れて来たものらしい。そこにはこの家の亭主もいれば、牛を連れてきた百姓もいるし、そのほか二人の百姓と(これは馭者だということだった)、それからまだ小柄な半分酔っぱらった男などがいた。これは百姓ふうのなりをしてはいるけれども、酒で身を持ち崩した町人ともいうべき面がまえで、髯を綺麗に剃っていた。この男はだれよりも一番よくしゃべった。みんな彼のこと、――スチェパン氏のことを、話しているのであった。牛を連れた百姓は、どこまでも意見を曲げないで、岸づたいに四十露里も行くのは大まわりで、ぜひ蒸気に乗らなければならぬと主張していた。半分酔っぱらった町人と亭主は、熱くなって反対した。
「そりゃ、お前、いうまでもなく、旦那様は蒸気でお出でになったほうが近いに違いない。そりゃそのとおりさ。だけど、この頃のような天気じゃ、蒸気が向こうへ行くまいよ」
「行くよ、行くよ。まだ一週間ぐらいは通うよ」とアニーシムがだれよりも熱くなった。
「そりゃ、まあ、そんなものだ! だけど、出入りに決まりがなくってね。なにしろ、もうだいぶ寒くなって来たから、どうかすると湖尻《ウスチエヴォ》で、三日くらい泊ってることがあるよ」
「あした二時頃には間違いなく入って来るよ。旦那様、晩までにゃ大丈夫、スパーソフヘお着きになりますよ」とアニーシムはやっきとなっていった。
『Mais qu'est-ce qu'il a cet homme.(いったいこの男は何をしようというんだろう)』このさきどうなるのだろうと、スチェパン氏は恐ろしさに身を慄わしていた。
 やがて、馭者も前へしゃしゃり出で、賃金の押し問答を始めた。湖尻《ウスチエヴォ》まで三ルーブリというのであった。ほかの連中もそれならけっして無法ではない、それが当たり前の値だ、湖尻《ウスチエヴォ》までは夏じゅう、その値で行ってたのだとわめいた。
「だけど、ここも大変いい所だ……わたしは別に行きたくないのだ」とスチェパン氏はもぐもぐいい出した。
「ここがいいんですって、旦那様、それはまったくでございます。けれど、スパーソフのほうが今どれだけいいかわかりませんよ。それに、フョードル・マトヴェーイチも、どんなにおよろこびなさることやら」
「|ああ困った《モンディユ》、|皆の衆《メザミ》、これはどうもわたしにとって、あまり思いがけないことなので……」
 そこへやっと、ソフィヤが帰って来た。が、彼女はひどく当惑したらしく、さも悲しそうに床几へ腰を下ろした。
「わたしはとてもスパーソフヘ行かれない!」と彼女は主婦《かみ》さんにいった。
「え、じゃ、あなたも、スパーソフヘ行くんですか?」スチェパン氏は思わずぴくりとなった。
 話を聞いてみると、スヴェトリーツィナという一人の女地主が、もう昨日から彼女をスパーソフヘ連れて行くと約束して、このハートヴォで待つようにいいつけていたのに、当人がやって来ないというのだ。
「わたし、これからどうしたらいいのでしょう?」とソフィヤはくり返した。
「〔Mais, ma che`re et nouvelle amie〕(わたしの親愛な新しい友)、ねえ、わたしだってその女地主のように、その、なんとかいったっけなあ、あのわたしが馬車を傭った村へ、あなたを連れて行ってあげますよ。そして、明日、――そう、あす二人でスパーソフヘ行こうじゃありませんか」
「あら、あなたもやはりスパーソフヘいらっしゃるのでございますか?」
「〔Mais que faire, et je suis enchante'!〕(だって仕方がないんです、それにわたしは非常に嬉しいのです)わたしはしんからよろこんであなたをお連れしましょう。そら、あの連中がしきりに望むもんですから、わたしは馬車を傭ったのです……わたしが傭ったのは、きみたちのうちだれだったかねえ」スチェパン氏は急にスパーソフヘ行きたくなった。
 十五分ばかり後に、二人は蔽いの付いた二輪馬車に座を占めた。彼は恐ろしく活気づいて、さも満足そうな様子だった。彼女は例の袋を持って、感謝にみちた微笑を浮かべながら、その傍に坐った。アニーシムは二人を助け乗せた。
「ご機嫌よろしゅう、旦那様」彼は一生懸命に馬車のまわりを奔走した。「あなた様にお目にかかって、こんなうれしいことはございません!」
「さようなら、さようなら、ご機嫌よう」
「フョードル・マトヴェーイチにお会いになりますか、旦那様……」
「ああ、会うよ……フョードル・ペトローヴィチにね……じゃ、さようなら」

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

「ねえ、|あなた《マアミ》、あなたを友《アミ》と呼ぶことを許してくださるでしょう、|そうでしょう《ネスパ》?」二輪馬車が動き出すやいなや、スチェパン氏はせかせかと口を切った。「ねえ、わたしは…… 〔j'aime le peuple, c'est indispensable, mais il me semble que je ne l'avais jamais vu de pre`s, Stasie …… cela va sans dire qu'elle est aussi du people …… mais le vrai peuple〕(わたしは民衆を愛します。それは避くべからざる心持ちです。けれど、わたしは今まで民衆に接近したことがないような気がする、ナスターシヤ……あの女がやはり民衆から出たのはいうまでもないことです。が、しかし本当の民衆)つまり、街道に立っているような、本当の民衆のことをいうのです。どうもあの連中は、わたしのゆくえばかり気にしてるようだ……が、こんないやな話はやめましょう。わたしはどうも少ししゃべり過ぎるようだが、それはたぶんせっかちのためでしょう」
「あなたはお気分がすぐれないようでございますね」鋭い、けれども、うやうやしい目つきで、ソフィヤはじっと彼を見入った。
「いや、なに、ちょっと何かにくるまったら、それでいいんです。全体として、なんだかせいせいした風が吹きますね、なんだか少しせいせいしすぎる。しかし……まあ、そんなことは忘れましょう。わたしがおもにいおうとしたのは、そんなことじゃないのです。〔Che`re et incomparable amie〕(親愛な比類なき友)、わたしはほとんど幸福になったような気がする。しかも、その原因はあなたなんですよ。しかし、わたしにとって、幸福は不利益なんです。だって、わたしはすぐに自分のほうから、すべての敵をゆるしてしまうからです……」
「だって、それはたいへんけっこうじゃございませんか」
「いつもそうとは限りませんよ、〔che`re innocente. L'Evangile …… voyez vous, de'sormais nous le pre^cherons ensemble.〕(無垢な友よ、福音書というものは……ねえ、これから二人で伝道して歩こうじゃありませんか)わたしもよろこんであなたの美しい本を売りますよ。これはいい思いつきかもしれない、そんな気がする、〔quelque chose de tre`s nouveau dans ce genre〕(そういうふうなことの中では何か非常に新しいもののようだ)ロシヤの人民は宗教心に富んでいます。C'est admis(それはもう認められている)けれど、まだ福音書を知らない。わたしはそれを彼らに説いて聞かせよう……口ずからの説明によって、或いはこの驚くべき書物の誤りを正すことができるかもしれません。もっともわたしはこの書物に対して非常な尊敬を払うことを惜しまないのですがね。わたしは街道においても有用な材となります。わたしは常に有用の材でした。わたしはいつもあの連中[#「あの連中」に傍点]にそういってたのです、〔et a` cette che`re ingrate〕(そしてあの愛すべき恩知らずの女にも)おお、ゆるしましょう、ゆるしましょう。なによりも第一に、いつでも、あらゆる人をゆるしてやりましょう。そして、自分も人からゆるしてもらえるという希望を持とうじゃありませんか。だって、あらゆる人はお互いに罪を犯し合っているんですからね! ええ、みんな罪があるんです!………」
「それは大変よくおっしゃいました。わたしもなんだかそう思われます」
「そう、そう……わたしも大変よくいったような気がします。わたしは世間の人たちにも非常にうまく話すつもりです。しかし、わたしは何をおもに話すつもりだったのかしらん? わたしはしじゅう話が脇へそれて、はっきり覚えられないんですよ……ねえ、あなたは許してくださるでしょうか、わたしはあなたと別れたくない。わたしはこう感じるのです。あなたの目と、そして……わたしはあなたの身のこなしにも驚嘆してるんです。あなたは本当に率直です。あなたの言葉にもなんだか賤しいところがあるし、お茶を茶碗から皿へ移して、あのひどい砂糖の塊りを噛ったりされるけれど、しかし、あなたには何かしら美しいところがある、それは顔つきでもわかります……ああ、あかい顔をしないでください、わたしを男として恐れないでください、〔che`re et incomparable, pour moi une femme c'est tout.〕(親しく類いなき友よ、わたしにとって女というものは生活の全部なのです)わたしは女の傍に暮らさずにはいられない。けれど、ただ傍にいるだけです……わたしは恐ろしく、まったく恐ろしく脇へそれてしまいましたね……わたしは何をいおうと思ったのかどうしても思い出せない。ああ、常に神によって女を送らるる者は幸いなりです、そして……わたしは一種の歓喜さえ覚えるような気がしますよ。街道にも高遠な思想があります! そうだ、――わたしが思想のことをいおうとしたのは、このことだったのです。やっといま思い出した。今まではいうことが壺に嵌まらなかったのです。が、なんだってあの連中は、わたしをこんなにさきのほうへ連れて来たんだろう? あすこもなかなかよかったんですがねえ。ここは―― 〔cela devient trop froid. A propos, j'ai en tout quarante roubles et voila` cet argent〕(なんだか寒くなってくる。ところで、わたしはここにみんなで四十ルーブリもっています。これがその金です)さあ、取ってください。わたしはどうも扱い方が下手です。落としたり取られたりしてしまいます。それに……わたしはなんだか眠くなってきたような気がする。なんだか頭の中がくるくる廻るようだ。ああ、廻る、廻る、廻る。おお、あなたはなんという親切な人でしょう。それは何を掛けてくだすったのです?」
「あなたはきっとひどい熱病にかかっていらっしゃるんですよ。わたし毛布を掛けてあげましたの。ただお金のことはわたし……」
「おお、お願いだから、n'en parlons plus, parce que cela me fait mal(もうそんな話は止めましょう、なんだか気持が悪くなるから)おお、あなたはなんて親切なんでしょう!」
 彼はなんだか、急にぱったり言葉を切った。と、思いがけないほど早く、熱病やみらしい悪寒に苦しめられながら、寝入ってしまった。十七露里も続いた村道は、あまり平坦なほうでなかったので、馬車は容赦なくがたぴし揺れるのであった。スチェパン氏はたびたび目をさました。そして、ソフィヤがそっと当てがってくれた枕からちょっと頭を持ち上げて、彼女の手を取りながらきくのであった。
「あなたはここにいますね?」
 それは彼女が自分の傍を去りはせぬかと、恐れるかのようであった。彼はソフィヤに向かって、何かの獣が歯を剥き出しながら大きな口を開けているのを夢に見て、それがいやでたまらなかったとも話した。ソフィヤは彼の身が無性に心配になってきた。
 馭者は二人の客をいきなり一軒の大きな田舎家へ連れて行った。それは窓の四つもついた家で、庭の中にはいくつかの離れもあった。目をさましたスチェパン氏は、大急ぎで中へ入って、家じゅうで一ばん広く、一ばん綺麗な二つ目の部屋へ通った。寝ぼけたような彼の顔は、ひどく忙しげな表情に変わった。彼はさっそくおかみをつかまえて(それは四十恰好の、真っ黒な髪をした、まるで鼻ひげでもたくわえたように見える、背の高いしっかりした女房だった)、自分は一人でこの部屋を借り切ってしまう。『そして、ちゃんと閉め切って、だれもここへ入れることはならん。〔parce que nous avons a` parler. Oui, j'ai beaucoup a` vous dire, che`re amie.〕(わたしたちは話があるんだから。そうですよ、ソフィヤさん、わたしはたくさんあなたに話したいことがあるんです)わたしはそれだけのことをする、きっとするよ!』と彼はおかみに手を振って見せた。
 彼は恐ろしく急き込んでいたけれど、なんだか舌がよく廻らなかった。おかみは無愛想な様子で聞いていたが、承諾のしるしに沈黙を守っていた。とはいえ、その沈黙には何かしら無気味なところが感じられた。彼はそんなことにはいっさい頓着なしに、せかせかした調子で(彼は恐ろしくせき込んでいた)、すぐあちらへ行って、さっそくできるだけ早く、『一刻も猶予しないで』何か食べるものをこしらえてくれと、おかみに命じた。
 このとき口ひげの女房はこらえかねた様子で、
「ここはあなた宿屋じゃありませんよ。わたしたちはお客さんに食事の用意はいたしません。まあ、蝦でも煮て湯沸《サモワール》を立てるぐらいのことで、そのほかには何もできませんよ。新しい魚は、明日でなければできませんからね」
 けれども、スチェパン氏は両手を振りながら、『それだけのことはするよ、早く、早く』と腹立たしげな、じれったそうな声でくり返すのであった。とうとう魚汁《ウハー》に烙鶏《やきとり》ということに決まったが、おかみは村中さがしても鶏は手に入らぬといった。が、とにかくさがしに行くのを承知したが、まるで大変なお慈悲でもかけてやるような顔つきだった。
 おかみが出て行くやいなや、スチェパン氏はすぐさま長いすに腰を下ろし、ソフィヤも自分の傍にかけさせた。部屋の中には長いすや肱掛けいすがあったけれど、恐ろしい姿になったものばかりであった。概して部屋はかなり広く、一部分は板で仕切られて、その向こうに寝台など置いてあった。黄いろいぼろぼろの古い紙を張った壁には、神話か何かを描いた恐ろしい石版画が掛けてあるし、正面の隅には額のようになったのや、折屏風のようになった銅《あか》の聖像が、長い列をなしてかかっている。全体に、道具類は奇妙な寄せ集めものだった。何か都会ふうなところと、太古の俤を持った百姓ふうのところが、見苦しくいっしょくたになったような部屋である。しかし、彼はそんなことにはいささかの注意も払わなかった。それどころか、家から十間ばかりのところから展けている大きな湖を、窓ごしに覗いてみようともしなかった。
「やっとわたしたちは二人きりになりましたね。もうだれも入《い》れることじゃない! わたしはあなたに何もかもすっかり、そもそもの初まりから聞いてもらいたいのです」
 ソフィヤは烈しい不安の色を浮かべながら、彼を押し止めた。
「あなた、ごぞんじでございますかしら、スチェパン様……」
「〔Comment, vous savez de'ja` mon nom?〕(えっ、あなたはもうわたしの名を知ってるんですか?)」彼はよろこばしそうに微笑した。
「さっきアニーシムさんと話をしていらしった時、ちょっと傍《はた》から伺ったんですの。ところで、生意気なようでございますが、わたしのほうから一つご注意申したいことがありますので……」
 こういって彼女は、だれか立ち聴きでもしてはいないかと、閉め切った戸口のほうを振り返りながら、早口にこうささやいた。ほかでもない、ここに、――この村にいるのは、とんでもない災難だ。ここの百姓はみんな漁師で、それを生計《なりわい》にしているけれど、毎年夏になると、旅客の懐ろから思う存分の金を絞り取るのである。この村は通りぬけができないで行きどまりになっているので、汽船が入って来て泊ることになってはいるものの、よく船の来ないことがある、ちょっと少し天気模様が悪くなると、どんなことがあってもやって来ない。すると、二、三日のうちに旅客がうんとたて込んで、村じゅうの家が一杯になってしまう。村の者はそればかり待ちかまえているので、すべての値段を三倍ぐらい高く絞り取る。それに、この家の亭主は土地でも一番の金持ちなので、恐ろしく高慢な無作法な男である。なにしろ網だけでも千ルーブリからのものを持っている、とこういうのであった。
 スチェパン氏はソフィヤのひどく元気づいた顔を、ほとんどなじるような目つきで見つめながら、幾度か押し止めるような手つきをした。けれども、彼女は少しもそれにひるまず、いいたいだけのことをいってしまった。彼女の言葉によると、ソフィヤはすでにこの夏、ある一人の『ごく立派な婦人』と町からここへ来て、やはり汽船の着く間、まる二日泊ったことがあるが、その時のつらかったことは、いま思い出しても恐ろしいくらいだ、というのであった。
「ところが、スチェパン様、あなたはこの部屋を一人で借り切ってしまうとおっしゃいましたね……わたしはただ前もってお知らせしたいと思って……あの向こうの部屋にもやはりお客さんがあるのです。一人はだいぶ年輩の人で、一人はまだ若い方でございます。それから、子供をつれた奥さんのような方もいらっしゃいます。ところで、明日の二時頃までには、この家が一杯になるほど人が集まります。もう二日ばかり汽船が入りませんでしたから、明日は必ず来るに相違ないのでございます。こういうわけで、部屋を借切りにしたり、食事をご注文になったり、ほかの客を断わらせたりなすった、そんなことでうんと取られるに違いありません。都会《まち》でも聞かないような値段を吹っかけるに違いありません……」
 しかし、彼は苦しかった、しんから苦しかったのである。
「Assez, mon enfant(やめてください、あなた)、お願いだから、やめてください。〔Nous avons no^tre argent et apre`s ―― et apre`s le bon Dieu.〕(わたしたちにはあの金がある。そして後は、その後は神様のお心にまかせましょう)わたしは不思議なくらいです。あなたのような高尚な考えを持った人が、どうして…… assez, assez, vous me tourmentez.(たくさんです、たくさんです、あなたはわたしを苦しめるんです)」と彼はヒステリックな声で叫んだ。「わたしたちの前には未来がある。それだのに、あなたは、あなたはその未来のことでわたしを脅しつけるんだ……」
 彼はさっそく自分の経歴を語り始めた。けれど、あまりせき込んでいたので、初めのうちはよくわかりかねるほどであった。物語はかなり長く続いた。魚汁《ウハー》が出、鶏が出て、ついにサモワールが出たが、彼はいつまでもいつまでも語りつづけた……物語はいくぶん奇妙な病的な感じを与えたが、しかし、彼自身すでに病気だったのである。それはとつぜんおそってきたはげしい知力の緊張だった。こういう状態はもちろんすぐ後で、彼自身の組織内における異常な力の沮喪となって、反動を来たすに相違なかった。ソフィヤも彼の物語を聞いているうちにこれを予感して、憂慮の念を禁じ得なかった。彼は『まだ若々しい胸をいだきつつ、野を駆け廻った』幼年時代から話を始めた。一時間も経って、やっと二回の結婚と、ベルリンの生活まで進んだのである。もっとも、わたしはこうした彼を嘲笑しようとは思わない。そこには実際、彼にとって最も崇高なある物があった。新しい言葉でいえば、生の争闘が含まれているのであった。彼は将来の行路の友として選んだ女を、自分の目の前においているので、少しも早くいっさいのことを、いわばまあ、彼女に頒とうと思ったのである。彼の天才は、今後、生涯を共にする女にとって、秘密として埋めらるべきでない……もしかしたら、彼はソフィヤのことを無上に誇張して考えていたかもしれぬ。けれど、彼はもはや選択を終えたのである。彼は女なしに生きていられなかった。彼女が彼の言葉をほとんど少しも理解していない、最も肝腎な点さえ会得できないでいるということは、彼も自分で相手の顔つきによって、はっきり見てとった。
『Ce n'est rien, nous attendrons(こんなことはなんでもない、も少し待ってみよう)、まあ、当分の間は、直感によってでも悟ってくれるだろう……』
「|わが《マ》友《アミ》よ、わたしはただ、あなたの心がほしいだけなんです!」物語をやめて、彼はこう叫んだ。「それから、今わたしを見つめていらっしゃる、そのやさしい魅力に富んだ目つきと。ああ、どうか顔をあかくしないでください! もうお断わりしたじゃありませんか……」
 やがて物語が進行して、今まで一度もだれ一人として、スチェパン氏を理解し得るものがなかったことや、『わがロシヤにおいては、多くの才あるものが空しく滅びてゆく』ことや、そういうほとんど天下の大議論といっていいようなくだりに移った時、この憐れなとりこの女にとっては、ますます雲をつかむようなところが多くなってきた。
『どうもあまり高尚なことばかりで』と彼女は後で、しおしおとした声でいった。
 彼女は少し目を丸くしながら、いかにも骨の折れるらしい様子で、耳を傾けていた。スチェパン氏が『現代第一流の先覚者連中』に対して、諧謔や皮肉を弄し始めたとき、彼女はもう心細くなってしまった。二度ばかり彼の笑いに対する答えとして、にっこりほほ笑もうと試みたが、その結果は泣くよりも悪かった。で、スチェパン氏のほうでも、とうとうばつが悪くなって、いっそう猛烈な毒々しい調子でニヒリストや『新しい人々』の攻撃にかかった。彼女はもう、てもなくおびえあがってしまった。彼女が初めていくぶんほっと息をついたのは(もっとも、それはきわめて皮相な安心であった)、彼の恋物語が始まってからである。女というものは、たとえ尼であろうとも、やはり常に女である。彼女は微笑を浮かべたり、首を振ったりしたが、すぐその後から顔を真っ赤にして伏目になった。それがすっかりスチェパン氏をうちょうてんにしてしまった。彼は感興にかられて、ずいぶんたくさん嘘をついた。彼の話によると、ヴァルヴァーラ夫人は世にも美しいブリュネットであった(『ペテルブルグばかりでなく、ヨーロッパの多くの首都を熱狂せしめたことさえある』)。夫は『セヴァストーポリの戦いで弾丸に貫かれて』斃れたが、その原因は自分が夫人の愛に価しないことを感じて、妻を競争者(といって、つまりスチェパン氏のことなので)に譲るためであった。
「そうきまり悪がらないでください、|わが《マ》|淑やかな《トランキール》友よ、|わが《マ》|キリスト教徒《クレスチエンヌ》よ!」自分で自分の物語をほとんどぜんぶ信じながら、彼はソフィヤに向かってこう叫んだ。「それは一種きわめて高尚な感情でした。実際あまりに微妙な感情だったものだから、わたしたちは二人とも一生の間、一度も口に出していわなかったくらいです」
 こういう状態になった原因は、彼の引続いて話したところによると、一人のブロンドであった(このブロンドはダーリヤとでも仮定しなければ、スチェパン氏がだれのことをいったのか、わたしには見当がつかない)。このブロンドはいろいろとブリュネットの恩になっていて、遠い親類として、恩人の家に生長したのである。ついにブリュネットはスチェパン氏に対するブロンドの恋に気がついて、自分の中に閉じこもるようになった。ブロンドのほうはブロンドのほうでスチェパン氏に対するブリュネットの恋に気がついて、やはり自分自身の中に閉じこもるようになってしまった。こうして、三人のものは互いに義理をたて合って、悩ましい心をいだきながら、めいめい自分の中に閉じこもったまま、二十年の沈黙を守り通したのである。『おお、それはなんという熱情だったろう、本当になんという烈しい熱情だったろう!』偽りならぬ歓喜の情にすすり泣きながら、彼はこう叫んだ。『わたしは彼女の(つまりブリュネットの)美の真っ盛りを見た。わたしは毎日彼女が自分の傍を、まるでわれとわが美しさを恥じるような風情で通り過ぎるのを(一度などわたしは『充実した自分の肉体を恥じるように』といったものだ)、胸を掻きむしられるような思いで眺めた』
 ついに彼はこの熱に浮かされたような、二十年の夢を棄てて逃れた。
「|二十年《ヴァンタン》! そして、いまこの街道に立ったのです……」
 それから彼は、何かまるで脳に炎症でも起こしたような調子で、今日の『この思いがけない運命的な二人の邂逅、――永遠に続くべきこの邂逅が』、はたして何を意味しているかを、ソフィヤに説明して聞かせた。ついにソフィヤは恐ろしく当惑した様子で、長いすから立ちあがった。女の前にひざまずこうとするようなそぶりさえ見せたからである。彼女はほとんど泣き出さないばかりだった。たそがれの色はしだいに濃くなりまさった。二人はこの閉め切った部屋の中に、もう幾時間もこもっているのである……
「いえ、もうあちらの部屋へやってくださいまし」と彼女はよどみよどみいい出した。「でないと、人がなんとか思いますから」
 彼女はとうとう振り切って出て行った。彼は、すぐ横になって休むと約束して、彼女を外へ出してやったが、別れ際に恐ろしく頭が痛いと訴えた。ソフィヤは入って来た時から、自分のカバンやほかの荷物を取っつきの部屋へ残しておいた。それは、おかみなどといっしょに寝るつもりだったので。けれども、彼女は体を休めることができなかった。
 夜ふけになって、スチェパン氏は疑似コレラの発作を起こした。それはわたしを初めとして、友人一同に熟知されているいつもの病気で、ふつう神経的興奮や精神的動揺の結果として現われるものであった。哀れなソフィヤは、一晩じゅう寝ることができなかった。彼女は病人を看護する必要上、たびたびおかみの部屋を通って、小屋を出たり入ったりしなければならなかったので、そこに眠っている旅客やおかみがぶつぶついい出して、夜明けごろ彼女がサモワールを立てようと思い立った時などは、とうとう口汚く罵り始めたほどである。スチェパン氏は発作の間じゅう、半意識の状態にあった。時々、夢うつつのように、サモワールの用意がされていることや、自分が何か飲ましてもらっていることや(それは木苺入りの茶なので)、何かで腹や胸を暖めてもらっていることなどが感じられた。しかし、彼は絶えず彼女[#「彼女」に傍点]を自分の傍に感じていた。これは彼女が来たのだな、彼女が行ったのだな、彼女が自分を寝台から起こしたのだな、彼女がまた寝さしてくれたのだな、と感じた。夜中の三時頃から、少し楽になった。彼は身を起こして、寝台から足を下ろし、ほとんどなんにも考えないで、いきなり彼女の足もとへ身を投げた。これは、さっき膝を突いた時の気取った態度とは、ぜんぜん別なものだった。彼は他愛なく女の足もとに倒れ伏して、着物の裾を接吻するのであった。
「たくさんですよ、わたしは、まるでそんなことをしていただく値打ちのない女です」彼を寝台へあがらせようと努めながら、彼女はしどろもどろにつぶやいた。
「あなたはわたしの救い主です」彼はうやうやしく女の前に両手を合わせた。「〔Vous e^tes noble comme une marquise!〕(あなたはまるで侯爵夫人のように、気高い方です!)わたしは、やくざ者です! おお、わたしは一生涯、破廉恥漢で通しました……」
「どうか心を落ちつけてください」とソフィヤは祈るようにいった。
「わたしはさっき嘘をついた、――それは単に虚飾のためです、役にも立たない贅沢心から出たことです。ええ、みんな、みんな嘘っぱちです、初めからしまいまで……ああ、なんというやくざ者だ!」
 こうして発作は一転して、ヒステリックな自己譴責へ移っていった。わたしは以前、ヴァルヴァーラ夫人に宛てた彼の手紙を紹介するに当たって、もはやこの種の発作について一言しておいた。彼は突然リーザのことや、昨日の朝の邂逅のことを思い出した。
「あれは実に恐ろしいことだった、――きっと何か不幸が起こったに違いない。それだのにわたしは何もきかなかった、なんにもつき留めないで来た! わたしは自分のことばかり考えていたのだ! あのひとはどうしたのだろう? あなた、いったいあのひとがどうしたのか知りませんか?」と彼はソフィヤに縋るようにしてたずねた。
 それから、彼は、『自分の心はけっして変わらない』、必ずあのひと[#「あのひと」に傍点]のところへ帰る、と誓うのであった(それはヴァルヴァーラ夫人のことなので)。
「わたしたちは(つまりソフィヤといっしょに)毎日あのひとの玄関口へ行って、あのひとが馬車で朝の散歩に出るところを、そっと見ましょう……ああ、わたしはあのひとにいま一方の頬を打ってもらいたい。わたしはよろこんで打たれます。わたしは、comme dans votre livre(あなたの持ってる本に書いてあるように)いま一方の頬をあのひとにさし出します! 今こそわかりました。いま一方の……『頬』を向けるという意味が、今やっと合点がいきました。今まではどうしてもわからなかったのです!」
 こうして、ソフィヤの生涯で最も恐ろしい二日間の日が到来した。彼女は今でも、この二日間のことを思い出すと、胸のおののきを禁じ得ないのである。スチェパン氏の病状はしだいに険悪になって、汽船は今度こそかっきり午後二時に入港したものの、彼はそれで出発することができなかった。ソフィヤも彼ひとり見残して行く気力がなかったので、やはりスパーソフ行きを延ばすことにした。彼女の話によると、スチェパン氏は汽船が出てしまったと聞くと、ひどく喜んだとのことである。
「いや、ありがたい、いや、けっこうだ」と彼は寝床の中からいった。「わたしは、スパーソフヘ行かなきゃならないかと、心配でたまらなかったのですよ。ここは実にいい、ここはどこよりも一番いい……あなたはわたしをおいて行きゃしないでしょう? ああ、行かないでいてくれたんですね!」
 しかし、『ここ』はけっしてそんなに好くはなかった。彼はいささかも女の苦労を察しようとしなかった。彼の頭はいろんな空想ばかりで一ぱいになっていた。彼は自分の病気を何か一時的な、ささいなことのように思って、そんなことはてんで気にかけなかった。ただ二人で『あの本』を売りに行くことばかり考えていた。彼はソフィヤに、少し福音書を読んでくれと頼んだ。
「わたしはもう前から読んだことがない……原本でね。だから、だれかにきかれたら、間違ったことをいうかもしれない。なんといっても、やはり準備しておかなきゃなりませんよ」
 彼女は彼の傍へ腰を下ろして、書物をひろげた。
「あなたは読み方がうまいですね」一行も読み終わらないうちから、彼は口をいれた。「わたしにはわかる、ちゃんとわかる。わたしの眼鏡ちがいじゃなかった!」曖昧な、けれども、勝ち誇ったような調子で、彼はこうつけ足した。