京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP385-P408

て、何がわかるものですか」
「なあに、われわれ自身でさえ、なんのことだかわからないんじゃないか」とだれかの声がつぶやいた。
「いいえね、わたしがいうのは、要心はいつでも大切だということです。万一、密偵なんかのあった場合を思いましてね」と、彼女はヴェルホーヴェンスキイにむかって、説明した。「往来から聞いても、なるほど命名日だから音楽をしてる、と思わしたほうがいいですよ」
「ちぇっ、馬鹿馬鹿しい!」と罵りながら、リャームシンはピアノに向かうと、まるで拳固で撲りつけないばかりの勢いで、出たらめに、鍵板を叩きながら、ワルツを弾き始めた。
「会議のほうがいいとお思いの方は、右の手を挙げていただきましょう」とヴィルギンスカヤ夫人が提議した。
 ある者は挙げたが、ある者は挙げなかった。中には一度あげて、また引っ込めるものもあった。引っ込めて、また出すものもあった。
「ふう、畜生! ぼくはなんにもわからなかった」と一人の将校が叫んだ。
「ぼくもわからない!」とまた一人叫んだ。
「ぼくはわかった!」いま一人はこう叫んだ。「もしイエスだったら手を挙げるんだよ」
「いったいイエスとは何がイエスなんだ?」
「つまり、会議賛成のことなのさ」
「いや、会議を開かないほうだよ」
「ぼくは会議のほうに投票したんです」と中学生はヴィルギンスカヤ夫人に向かっていった。
「じゃ、なぜ手を挙げなかったのです?」
「ぼくはしじゅうあなたを見てたんです。ところが、あなたが挙げなかったから、それでぼくも挙げなかったのです」
「なんて馬鹿な。わたしは自分で提議したから、それで挙げなかったのです。皆さん、もう一ど提議をし直します。会議に賛成する人は、坐ったまま手を挙げないでください。ところで、賛成しない人は、右の手を挙げていただきましよう」
「賛成しない人は?」中学生が問い返した。
「あんたはいったいわざとそんなことをいうんですか?」ヴィルギンスカヤ夫人は怒気心頭に発して、こう叫んだ。
「いいえ、そうじゃありません。賛成するものかしない者かときくのです。だって、これは正確に決める必要がありますよ」こういう二、三の声が聞こえた。
「賛成しないものは賛成しないさ」
「そりゃそうだよ。しかし、いったいどうすればいいんだ。もし賛成しなかったら、挙げるのか挙げないのか?」と将校がどなった。
「いやはや、われわれはまだ立憲政治には馴れていないでな!」と少佐が口を挟んだ。
「リャームシンさん、お願いだからやめてください、あなたががちゃがちゃやるものだから、まるで聞き取れないじゃありませんか」とびっこの教師が注意した。
「本当ですよ、アリーナさん、だれも立ち聴きなんかしやしませんよ」とリャームシンは飛びあがった。「それに弾きたくもない! ぼくはここへお客に来たので、ピアノを叩きに来たんじゃありませんからね」
「諸君」とヴィルギンスキイはつづけた。「会議のほうがいいかどうか、みんな口で答えてください」
「会議だ、会議だ!」という声が四方から起こった。
「じゃ、投票なんかする必要はない、たくさんです。諸君、いかがです、これで十分ですか、それともまだ投票の必要がありますか?」
「いらない、いらない、もうわかった!」
「が、ひょっとしたら、だれか会議に不賛成な人があるかもしれませんね」
「いや、いや、みんな賛成です!」
「いったい会議とはなんのことです!」と叫ぶ声が聞こえた。
 だれもそれに返事をしなかった。
「議長を選挙しなきゃ!」という声が四方から響いた。
「主人公だ、むろん主人公だ!」
「諸君、そういうわけでしたら」と議長に選挙されたヴィルギンスキイはこういった。「わたしはさっき初めて提議したことを、くり返さしていただきます、もしだれかより多くこの席にふさわしい話を始めたいとか、または何か発表したいと希望しておられるかたは、どうか時間を空費しないように、さっそくはじめていただきます」
 一座はしんとした。一同の視線はまたしても、スタヴローギンとヴェルホーヴェンスキイに向けられた。
「ヴェルホーヴェンスキイさん、あなた何も発表したいことはありませんか?」と主婦は真正面からたずねた。
「なんにもないです」彼は椅子の上で大あくびをしながら、そり返った。「ただコニャックを一杯もらいたいものですなあ」
「スタヴローギンさん、あなたはいかがです?」
「ありがとう、ぼくは飲みません」
「わたしはね、何かお話しになることはありませんかってきいてるんです、コニャックのことじゃありません!」
「話す、何を? いや、話なんかしたくないです」
「今コニャックを上げますよ」と彼女はヴェルホーヴェンスキイに答えた。
 女学生が立ちあがった。彼女は今までもう幾度か飛びあがろうとしたので。
「わたしは不幸なる大学生の苦痛を述べ、いたるところで彼らを刺戟して、抗議を起こさせる必要を説くために、この町へ来たのでございます……」
 ここまでいって、彼女は腰を折られた。テーブルの向こうの端に、今度は別な競争者が現われたのである。一同の視線はそのほうへ転じられた。耳の長いシガリョフは、陰気くさい気むずかしげな様子をして、やおら自分の席を立った。そして、メランコリックな身振りで、恐ろしく細かく書きつめた分厚なノートを、テーブルのほうへ置いた。彼は坐ろうともしないで、黙り込んでいた。多くの者は、面くらったような顔つきでノートを見やったが、リプーチンとヴィルギンスキイとびっこの教師は、何やら満足げなていに見受けられた。
「発言を請求します」気むずかしげな、とはいえ、断固たる調子で、シガリョフはこういった。
「よろしい」とヴィルギンスキイは裁可した。
 弁士は腰を下ろして、三十秒ばかり沈黙していたが、やがて、ものものしい声で切り出した。
「諸君!………」
「はい、コニャック!」茶の注ぎ手になっていた親戚の女は、コニャックを取ってきて、ぞんざいな、人を小馬鹿にした調子で、ぶっつけるようにこういうと、盆にも皿にものせないで指につまんで持ってきた杯を、びんといっしょにいきなりヴェルホーヴェンスキイの前に置いた。
 出ばなを叩かれた弁士はもったいらしく口をつぐんだ。
「かまいません、続けてやってください、ぼくは聞いてやしないから!」とヴェルホーヴェンスキイは、勝手に杯へ注ぎながらいった。
「諸君、いま諸君の注意を促そうとするに当たりまして」とシガリョフはやり直した。「第一義的に重大な意義を帯びた一つの事柄について、諸君のご助力を仰ぎます前に(その事柄がなんであるかは、後でおわかりになりますが)、その前にわたくしは序言を述べる必要を感じるのであります」
「アリーナさん、あなたのところに鋏がありませんか?」出しぬけにピョートルがたずねた。
「鋏をどうなさるの?」とこちらは目をまん丸にした。
「爪を切るのを忘れたのです。もう三日も、切ろう切ろうと思ってたんですがね」暢気そうに長い汚らしい爪を見つめながら、彼はこう説明した。
 アリーナは覚えずかっとなった。けれど、ヴィルギンスカヤ嬢は、何かしら御意に召したらしかった。
「わたしなんだかさっきここで、窓の上で見たような気がするわ」と彼女は椅子を立って、窓のほうへ行ったが、やがて鋏をさがし出して、すぐさま持ってきた。
 ピョートルは女学生の顔を見ようともしないで、鋏を受け取ると、さっそくそれをひねくり廻し始めた。アリーナは、なるほどこれはリアリスチックな態度だと悟って、自分の怒りっぽい性質を恥ずかしく思った。一座は無言のまま目を見合わした。びっこの教師は、毒々しい羨しそうな目つきで、ヴェルホーヴェンスキイを見つめていた。シガリョフは言葉を続けた。
「現在のものに取って代わるべき、未来の社会組織の問題研究に自己の精力を傾注して以来、わたくしは次のような信念に到達しました。すなわち、遠い古代よりわが一八七*年までにいたるすべての社会系統の建設者は、自然科学および人間と呼ばるる不可思議なる動物についてなんら知るところのなかった空想家、憧憬者、愚人、自己撞着家にすぎない、ということであります。プラトン、ルッソー、フーリエ、その他さまざまなユートピヤ説、――こういうものはすべて、雀の役にくらい立つかもしれませんが、人類社会のためにはなんら益するところもないのであります。しかし、われわれが役にも立たない瞑想を捨てて、だんぜん行動を開始しようとしている現代において、未来の社会の形式如何は、ことに必須な問題でありますので、わたくしはいま世界改造に関する自分自身のシステムを提供しようと思います。すなわちこれがそうなのです!」と彼はノートをぽんと叩いた。「わたくしはこの集会におきまして、この本の内容をできるだけかいつまんでお話しようと思いましたが、まだそのうえに多くの説明を、口述の際つけ加える必要がありますので、この本の紹介は、章の数からいっても、少なくとも、毎晩十日以上つづけなければなりません(くすくす笑いの声が聞こえた)。それに、あらかじめ、お断わりしておきますが、わたくしのシステムはまだ完成されていないのであります(ふたたび笑声が起こった)。わたくしは、自分の蒐集した材料にまごついてしまいました。わたくしの結論は、出発点となった最初の観念と、直角的に反対している。つまり、無限の自由から出発したわたくしは、無限の専制主義をもって論を結んでいるのです。しかし、一言申し添えておきますが、わたくしの到達した結論以外、断じて社会形式の解決法はありえないです」
 笑声はしだいに烈しくなった。しかし、笑うのは比較的若い人、つまり立ち入った事情を知らない人たちだった。主婦とリプーチンとびっこの教師の顔には、一種いまいましそうな表情が浮かんだ。
「あなた自身でさえ、自分のシステムをまとめることができないで、絶望に陥られたとすれば、われわれなどはなんともしようがないじゃないですか」と一人の将校が大事を取りながらたずねた。
「あなたのおっしゃるとおりです、将校殿」シガリョフは言葉鋭くそのほうへ振り向いた。「ことに絶望という言葉を使われたのは、さらに肯綮に当たっています。そうです、わたくしは絶望に陥りました。が、それにもかかわらず、このわたくしの本に述べてあることは、ことごとく万古不易の真理です。けっしてほかに方法はありません。それゆえ、無駄に時を失わないように、取り急いで一座の諸君におすすめして、十晩つづけてわたくしの本を聴いたうえ、ご自分の意見を述べていただこう、と思うのであります。もし会員諸君がわたくしの説を聴くことを欲しられないならば、もういっそ初めから別れたほうがいいです、男は官職に就くために、女は自分の厨房へ……なぜなら、もしわたくしの説を否定したら、もはや他の方法を発見できないからであります。けっしてありません! 時を逸するのは、おのれを害するのみです。なぜなれば、必ず後で同じ結果に戻って来るからであります」
 一座がざわつき始めた。『いったいあの男はなんだ、気でも狂ってるのか?』という声が聞こえた。
「してみると、すべてはシガリョフの絶望にかかっているんですな」とリャームシンが結論をくだした。「当面の問題は――彼は絶望すべきやいなや、ということですな」
「シガリョフ氏が絶望に近づいていることは、あの人一個の問題です」と中学生がいい出した。
「ぼくは投票を提議します。シガリョフ氏の絶望は、いかなる点まで共同の事業に関係を有しているか、また同時に彼の説を聴く価値があるかないか、ということをね」将校は愉快げにこう決めてしまった。
「いや、それはちょっと違います」とうとうびっこの教師が口をいれた。全体に、彼はなんとなく人を馬鹿にしたような薄笑いを浮かべながらものをいうので、真面目にいってるのか、ふざけてるのか、はっきり見当がつかなかった。「それはちょっと違いますよ。シガリョフ氏はあまり自分の問題に没頭していられるし、それにあまり謙譲に過ぎるのです。ぼくは同氏の著述を知っています。同氏はこの問題の最後の解決法として、人類を大小同一ならざる二つの部分に分割することを、主張しておられるのです。すなわち、十分の一だけの人が個性の自由をえて、残り十分の九に対する無限の権力を享有する。そして、これらの十分の九はことごとく個性を失って、一種羊の群のようなものに化してしまい、無限の服従裡に幾代かの改造を経たあとで、ついに原始的天真の心境に到達すべきだというのです。それは、いわば原始の楽園みたいなものです。もっとも、働きはしますがね。著者の主張している方法、すなわち人類の十分の九から意志を奪って、幾代かの改造を経てこれを畜群に化する方法は、なかなか立派なものであります。自然科学に根底を置いて、論理的にできています。個々の論点に対しては、異議があるかもしれませんが、著者の頭脳なり知識なりには、一点うたがいをさしはさむわけにいきません。ただ十晩という条件が、とうてい周囲の事情に相いれないのは残念しごくです。それでなかったら、いろいろと面白い話を聞くことができるんでしたが」
「あなたはいったいまじめなのですか?」ヴィルギンスカヤ夫人は、いくぶん不安の色さえ浮かべてびっこに向かってこういった。「この人は人間の処置に困って、十分の九まで奴隷にしてしまうといってるんですか? わたしとうからあの人を怪しいと思ってましたわ」
「つまり、あなたは、ご自分の兄弟のことをいっておいでなんですか?」とびっこの教師がたずねた。
「あなたは親族関係を云々なさるんですか? あなたは、わたしをからかっていらっしゃるんですか、え?」
「それに、貴族を養うために働いて、おまけに、神様かなんぞのように服従するのは――それは陋劣です!」女学生が猛然として口を入れた。
「わたしは陋劣をすすめるのではなくて、楽園をすすめているのです。この地上にそれ以外の楽園はありません」シガリョフは威を帯びた調子でいい切った。
「わたしなぞは、楽園なんかどうでもいい」とリャームシンは叫んだ。「その代わり、処置に困れば、その人類の十分の九を引っつかんで、あとかたも残らないように爆発させてしまいますよ。そして、教育のある少数者を残しておくと、そういう連中が科学的な生活を始めまさあね」
「まあ、道化かなんぞでなければ、あんなこといえやしないわ!」と女学生は真っ赤になった。
「あの人は道化よ、だけど役に立つ男なの」とヴィルギンスカヤ夫人は彼女にささやいた。
「いや、もしかしたら、これが一番いい解決法かもしれないて!」シガリョフは熱くなって、リャームシンのほうへ振り向いた。「きみはむろんわからないでしょうね、きみは今どれくらい深刻なことをいいえたか、自分でも知らないでしょうね、陽気なリャームシン君。しかし、きみの意見はほとんど実行できないから、やはり地上の楽園(そう命名されるなら、そうしてもいいです)くらいのところで、折合わなけりゃなりませんね」
「それにしても、ずいぶん馬鹿馬鹿しい話だなあ!」ふいに口からすべり出たように、ヴェルホーヴェンスキイはこういった。が、彼はどこまでも平然として、目も上げずに爪を切りつづけた。
「どこが馬鹿馬鹿しいのです?」まるで一口でも彼がものをいったらすぐ抑えてやろうと、待ちかまえてでもいたように、びっこの教師はさっそく口をいれた。「なぜ馬鹿馬鹿しいのですか? シガリョフ氏は、いくぶん愛人主義の狂信者という趣きがあります。しかし、ご記憶でもありましょうが、フーリエや、ことにカベーや、そしてプルードンのような人でさえ、思い切って専制的な、思い切ってとっぴな問題の解決法を試みている個所が、少なからずあります。シガリョフ氏などは、ひょっとしたら、彼らよりもずっと冷静に、問題を解決しようとしておられるかもしれません。わたしは忌憚なく申しますが、氏の著述を読了したら、その中のある論点に同意しないわけにいかないです。氏はだれより最もリアリズムを遠ざからなかった人かもしれません。氏の地上の楽園はほとんど本物です、現に人類がその喪失を嘆いている楽園です、もしそういうものがかつて存在したとすれば」
「どうも初めっから口をすべらしそうだと思ったっけ!」とヴェルホーヴェンスキイはまたつぶやいた。
「失礼ですが」とびっこの教師はいよいよ熱くなってきた。「未来の社会組織に関する談話や批判は、現代におけるすべての思索人にとって、ほとんどゆるがせにすべからざる喫緊事ではありませんか。ゲルツェンは生涯そのことのみに心を労しました。ベリンスキイも、ぼくの確かに聞き込んだところでは、未来の社会組織におけるきわめて微細なことまで、たとえば台所の細部な点まで、論じたり解決したりしながら、友だちといっしょに幾晩も過ごしたという話です」
「中には、気の狂う者さえあるくらいですよ」とふいに少佐がいった。
「それにしても、まるで独裁官かなんぞのように、黙り込んで坐っているよりは、何かあるものに到達するまで論じてみたらよさそうなもんですなあ」とうとう思い切って攻撃にかかる気になったらしく、リプーチンはいまいましそうにこういった。
「ぼくが馬鹿馬鹿しいといったのは、シガリョフのことじゃありませんよ」とヴェルホーヴェンスキイは大儀そうに口の中でいった。「ねえ、諸君」彼はほんの心もち瞳を上げた。
「ぼくの考えでは、フーリエだのカベーだの、その他なんとかかとかいう本や、また例の『労働の権利』や、シガリョフ式議論や、――そんなものはみんな小説みたいなものです。そんなものは千でも万でも書けます。美的時間つぶしです。そりゃぼくも察しますよ、なにぶん諸君はこのけちな町に暮らして、退屈なものだから、それで字を書いた紙に飛びつくのでしょう」
「ま、待ってください」とびっこの教師は椅子の上で体をしゃくった。「むろんわれわれは田舎者です、そして、それ一つだけでも同情に価するのはもちろんです。しかし、今のところ、見そこなったからといって泣きたいほど残念な珍事は世間に起こらない、ということも承知していますよ。ところが、ある人たちはさまざまな外国できのビラによって、一般的破壊を目的とする団体に加入し、かつ、そういう団体を新しく設立しないかと、われわれにすすめています。その口実とするところは、いかに世界を治療しても、とうてい全治の見込みはないから、それより荒療治で一億人ばかりの頭をちょん切って、そうして自分の体を軽くしておいたら、溝をより正確に飛び越すことができよう、とこういうのです。むろん立派な思想です。しかし、少なくとも、今あなたがああして侮蔑的に遇された、『シガリョフ式理論』と同じくらい、現実と相いれない思想なのです」
「なに、ぼくは理屈をいうために来たのじゃないです」とヴェルホーヴェンスキイは意味深長な言葉を、思わず口からすべらしたが、自分の不用意に気がつかない様子で、もっとよく見えるように蝋燭を引き寄せた。
「残念です。あなたが、理屈をいうために来られなかったのは、実に残念です。そして、あなたがいまご自分の身じまいに、夢中になっておられるのは、まったく残念です!」
「ぼくの身じまいが、きみにとってどうしたというんです?」
「一億の人間の頭というのも、宣伝で世界を改造するのと同様に、実現が困難なことでしょうなあ。ことにロシヤのような国においては、いっそう困難かもしれませんよ」とまたもやリプーチンが思い切って口を出した。
「そのロシヤの国状を当てにしてるんじゃないか」と将校がいった。
「当てにしているという話は、われわれも聞いたです」とびっこが引き取った。「われわれのうるわしい祖国が、この偉大なる目的の実行に最適の国として、神秘な手に指さされているということは、ぼくたちの耳にも入っています。ただこういう心配があります。宣伝の方法でそろそろと問題を解決する場合には、個人としてぼくらは何物かを獲得します。少なくとも、いい気持ちになってしゃべることができます。そして、おかみからは社会事業に貢献するところ少なからずとあって、官等ぐらい頂戴できようというわけです。ところが、第二の場合、すなわち一億人の首という方法で、急激に問題を解決しようとなると、いったいぼくはどういうご褒美にありつけるんでしょう? おそらく宣伝を始めるが早いか、さっそく舌をちょん切られてしまいましょうよ」
「きみなんか必ずちょん切られますね」とヴェルホーヴェンスキイがいった。
「ところがです、どんなに都合よくいったにしろ、そんな首切りの仕事は五十年、いや、まあ三十年より早く片づきゃしません。なぜなら、彼らも山羊や何かと違うから、むざむざと斬らせはしませんからなあ。それよりはむしろ世帯道具を引っからげて、どこか静かな海の平和な島にでも引っ越して、穏かに目を瞑ったほうがよかあないでしょうか? ぼくは確かにこう断言します」と彼は意味ありげに指でテーブルをぽんとはじいた。「あなた方はそういう宣伝によってただ移住を促すばかり、それっきりですよ!」
 彼は得意らしい様子で言葉を結んだ。この男は地方では珍しく頭がしっかりしていた。リプーチンは狡猾そうににやりとした。ヴィルギンスキイは、幾分しょげたらしい様子で聞いていた。その余の連中、ことに婦人と将校たちはなみなみならぬ注意をもって、論争に耳を傾けていた。一同は、これでいよいよ一億人の首の主唱者も、ぐうの音も出ないほどやり込められたものと思って、どうなることかと待ちかまえていた。
「それはなかなかうまいことをいいましたね」前よりもっと気のない調子で、いかにも退屈らしく、まるであくびでも噛み殺すように、ヴェルホーヴェンスキイは答えた。「移住する、――なかなかいい考えつきですな! しかし、それにしても、きみの予感していられるようなさまざまな不利益が、歴然と目に見えているにもかかわらず、共同の事業に馳せ参ずる戦士の数が、日一日とふえていくから、きみはいなくても、ことは足りますよ。今はね、きみ、新しい宗教が古いものに代わろうとしてるんです。だから、こんなに戦士が現われて来るんですよ。なにしろ大きな仕事ですからね。が、まあ、きみは移住したらいいでしょう! ねえ、きみ、ぼくおすすめしますがね、平和な島なんかより、ドレスデンへ行ったほうがいいですよ。あすこは第一に、今までかつて疫病というもののなかった所です。きみは理性の発達した人だから、さだめし死というやつは恐ろしいでしょう。第二に、ロシヤの国境に近いから、愛すべき祖国から収入を受け取るのにも、便利がいいわけですよ。第三には、いわゆる美術の宝庫があります。ところが、きみはかつて文学の教授をしておられたそうだから、美的感覚をもった人に相違ない。それから最後に、ポケット版スイスともいうべき小じんまりした山水もある。これは詩的感興のためにしごくけっこうなしろ物です。なぜって、きみは確かにちょくちょく詩でも書いておられるに相違ないから。まあ、手っとり早くいえば、手箱に納めた宝ものといった形ですよ!」
 一座に動揺が生じた。中でも将校連がざわつき始めた。もう一秒間うっちゃっておいたら、きっとみんな一時にしゃべり出したに相違ない。けれど、びっこの教師は癇性らしく、餌に躍りかかった。
「まあ、お待ちなさい、われわれはまだ共同の事業を離れて、他国へ去ってしまおうといったわけじゃありませんよ! それは理解してもらわなきゃ……」
「それはいったいどういうわけです? きみはぼくがすすめたら、五人組にでも入ろうというんですか?」出しぬけにヴェルホーヴェンスキイはこうきめつけて、やおら鋏をテーブルの上に置いた。
 一同はぎょっとした。謎の人はあまり唐突に正体を現わした。いきなり『五人組』のことなどいい出したではないか。
「どんな人でも自己の潔白を信じるものは、共同の事業を避けようとしやしません」とびっこの教師は口をひん曲げた。「しかし……」
「いや、目下の問題は『しかし』などじゃありません」とヴェルホーヴェンスキイは言葉するどく、威のある調子でさえぎった。「わたしは諸君に宣告します、――わたしに必要なのは直截な返答です。むろん、わたしもここへやって来て、自分で諸君を一団に糾合した以上、諸君に対して説明の義務を有していることは、わかり過ぎるくらいわかっています(これまた、意想外の告白である)。が、わたしは、諸君の持していられる思想のいかんを知るまでは、いかなる説明をも与えるわけにゆきません。むやくな問答を抜きにして(もう三十年間もいたずらにしゃべりつづけるような愚を、二度とふたたびくり返したくないですからね。ところが、今までは事実三十年間、ただしゃべりつづけていたのです)、――わたしは単刀直入におたずねします。いったい諸君はどちらが望ましいのです。社会小説を書いたり、お役所ふうに紙の上で、何千年さきの人類の運命を想像したりするような、悠長な方法がお望みですか? ただし、お断わりしておきますが、そんな呑気なことをしている間に、専制主義はうまく焼けた肉のきれを、遠慮なく呑みつくしてしまいますよ。その肉のきれは、自分から諸君の口へ飛び込んで来るのに、諸君は口のはたを素通りさしてるわけなんです。それとも、また方法はどうだろうと、とにかく人々の束縛を解き、人類が自由に社会組織を改造しうるような、急速な解決に味方をされますか? このほうは、もう紙の上の空想じゃありません、実行に基礎を置いてるんですよ。『一億人の首、一億人の首』といって喧しいことですが、それはまあ、一種の比喩にすぎないとしても、とにかく一億人の首だって、何もそう恐れるには当たりません。なぜなら、呑気な紙の上の空想を追っていたら、百年ばかりの間に専制主義が一億どころか、五億人の首でも食いつくしてしまいますからね。ねえ、そうでしょう、不治の病人は、どんな処方を紙に書いてもらったところで、やはり癒りっこありゃしません。かえってぐずぐずしていると、ますます腐りが廻って、ほかの者まですっかり感染してしまいます。今ならまだしも希望を繋ぎうる新鮮な力も、みんな駄目にされてしまって、われわれは、結局、破滅のほかなくなるのです。実際、雄弁をふるって過激なことをしゃべるのは、なかなか愉快なものです。それはわたしもぜんぜん同感です。しかし、いざ活動となると、――どうも少しおっくうなんでしょう、――いや、しかし、わたしはうまくいい廻すことが不得手でしてね。実のところ、いろいろ諸君に報告したいことがあって、この町へやって来たのですから、一つお集まりの諸君にお願いがあるのです。それは投票なんかじゃありません。今いった二つの方法のうち、どちらが諸君にとって望ましいか、忌憚なく明瞭に述べていただきたいのです。亀の子のように泥沼をのろのろ這って行くほうか、それとも、全速力でその上を跳び越えるほうか?」
「ぼくはだんぜん全速力で泥沼を跳び越えるほうに賛成です!」と中学生は有頂天になって叫んだ。
「ぼくも同様です」とリャームシンが相槌を打った。
「その選択には、もちろん疑惑の余地がないです」と将校の一人がつぶやいた。続いてもう一人、さらにもう一人。
 何より最も人々を驚ろかしたのは、ヴェルホーヴェンスキイが『報告』をたずさえてきて、しかも、それをいま話すと約束したことである。
「諸君、わたしの見受けるところでは、みんな檄文の主旨によって決心されたようですね」と彼は一座を見廻しながらいい出した。
「そうです、みんなそうです」という大多数の声が響いた。
「わしは、実のところ、もっと人道的な決議に賛成なんだが」と少佐がいった。「みんなああいわれるから、わしも皆さんに同意としときましょう」
「では、むろんきみも反対なさらんでしょうな?」とヴェルホーヴェンスキイはびっこの教師のほうへ向いた。
「ぼくはけっしてなに[#「なに」に傍点]するわけじゃありませんが……」こちらは心もち顔をあかくしながら、「ぼくが今みんなに賛成するのは、ただ一座の調和を破らないために……」
「本当にきみらはみんなそうなんです! 自由主義的な雄弁のためには、半年でも議論しかねない勢いでいながら、結局みんなと同じに投票してしまうんだ! 諸君、そうはいうものの、一つよく思案してみてください、諸君はみんな本当に覚悟ができてるんですか?」
(覚悟とは何をさすのだろう。なんだか漠然とした問いではあるが、恐ろしく誘惑に富んでいる)
「もちろん、みんなできています……」という宣言が響いた。
 もっとも、一同は互いにちらと顔を見合わせた。
「しかし、或いは後になって、あまり早く賛成し過ぎたと思って、腹を立てるかもしれませんね。諸君は大抵いつもそうなんだから」
 人々はさまざまな意味で動揺を始めた。動揺はかなり烈しかった。びっこの教師は、いきなりヴェルホーヴェンスキイに食ってかかった。
「失敬ですが、そういう質問に対する答えは、条件つきになってきます。われわれがああして決心を表明した以上、そんな妙な調子で発しられた質問は……」
「どうして妙な調子です?」
「そういう質問は、あんな調子で発しられるものじゃありません」
「じゃ、どうか教えてください。実はね、ぼくはきみが一番に腹を立てられるだろうと、固く信じていたんですよ」
「あなたは、猶予なく活動に着手する覚悟いかんについて、われわれから無理に答えを搾り取られましたが、そもそもどういう権能を授かっていられるのですか? そういう質問をするいったいどんな全権をお持ちなのですか?」
「そんなことは、きみ、もっとまえに気がついたらよかったのに! じゃ、きみはなぜ返答をしたのです? 賛成をしておいて、急に後から気がついたんですな」
「ところが、ぼくにいわせれば、ああいう重大な質問を発した時の、あなたの軽々しい露骨な調子は、こういうことをぼくに考えさしたのです、あなたは全然なんの委任も権能も持っていない、ただあなた個人として、ものずきにやってみただけのことだ、と」
「きみはいったいなにをいってるんです、何を?」恐ろしく心配になり出したように、ヴェルホーヴェンスキイはこう叫んだ。
「ほかじゃありません、入会の勧誘というものは、たとえいかなるものにもせよ、少なくとも二人さし向かいでするもので、知らない人の二十人も集まってるような場所で、あけっぴろげにするもんじゃありません!」とびっこの教師は真っこうから打ちおろした。
 彼は思ったことをすっかりぶちまけてしまった。けれど、彼はあまり興奮し過ぎていた。ヴェルホーヴェンスキイは巧みに不安の表情をつくりながら、一同のほうへ振り向いた。
「諸君、わたしは義務として言明せずにはおられません。こんなことはみんなくだらない馬鹿げた話です。わたしたちの会話はとんだ横道へそれてしまいました。わたしはまだけっしてだれも勧誘したことはありません。わたしが人を勧誘しようとしているなどとは、だれ一人だっていう権利を持っていないはずです。われわれは単に、自他の意見について談じたばかりです。そうじゃありませんか? まあ、それはどっちにもせよ、きみはすっかりぼくを脅しつけましたね」と彼はまたびっこのほうを振り向いた。「ここではこんな罪のない話でさえ、さし向かいでなきゃできないなんて、ぼくまるで思いがけなかったですよ。それとも、きみは密告を恐れるんですか! いったいいま、われわれの間に密告者が潜んでいるのでしょうか?」
 なみなみならぬ動揺が始まった。人々は一時に話し始めた。
「諸君、もしそういうわけでしたら」とヴェルホーヴェンスキイは言葉を続けた。「だれよりも一ばん自分に累を及ぼすようなことをいったのは、このわたしです。そこでわたしは、ある一つの質問に対して諸君のお答えがえたいと思います。むろん、答える答えないは諸君の任意です。絶対に諸君の自由にまかせます」
「どんな質問です、どんな質問です!」一同はがやがやとたずねた。
「ほかではありません。この質問を発した後、われわれは共に踏みとどまるべきか、それとも無言のまま自分の帽子を選り分けて、めいめい勝手な方角へ別れるべきか、その点が明瞭になるような性質のものです」
「その質問というのは、質問というのは?」
「もしわれわれのうちだれにもせよ、政治的意味を帯びた殺人が企てられていることを知ったら、その人はすべての結果を予想して密告するでしょうか、それとも、事件の遂行を期待しながら、わが家にじっと坐っているでしょうか? これに対する意見はまちまちでしょうが、質問に対する答えは明瞭です、われわれはこのまま思い思い別れたものか、それともいっしょに踏みとどまったものか、――むろん、踏みとどまるとすれば、けっして今夜一晩きりじゃありません。失礼ですが、きみに一番におたずねしましょう」と彼はびっこの教師のほうを振り向いた。
「なぜぼくが一番なのです?」
「それは、きみが何もかもみんな一人で始めたからです。どうかお願いだから、ごまかさないでください。この際、小細工を弄したって役に立ちませんよ。しかし、まあ、どうなりとご勝手に、きみのご随意ですよ」
「失敬ですが、そうした質問は、人を侮辱するというものです」
「駄目です。もっと正確にお願いできんものでしょうか」
「秘密探偵の手さきには、かつてなったことがありません」と、こちらはますます口を歪めた。
「後生だから、もっと、正確にいってください。そう手間を取らすのはごめんですよ」
 びっこの教師はもうすっかり腹を立てて、返事もしなくなった。彼は無言のまま眼鏡ごしに毒々しげな目つきで、じっと穴の開くほど、拷問者の顔を見つめていた。
「いなですか、応ですか? 密告しますか、密告しませんか?」とヴェルホーヴェンスキイはどなった。
「むろん密告しません!」びっこの教師は一倍猛烈な声でどなり返した。
「だれも密告するものはありゃしない。むろん密告なんかしない」という多数の声が聞こえた。
「失礼ですが、少佐、一つあなたに伺います。あなたは密告しますか、しませんか?」とヴェルホーヴェンスキイは語を続けた。「いいですか。ぼくはわざとあなたにおききするんですよ」
「しません」
「なるほど、しかし、もしだれか普通のなんでもない人間を殺して、金を剥ごうとする者があると知ったら、あなたはきっと密告されるでしょう、前もって注意を与えるに相違ないでしょう?」
「もちろんです。しかし、それは私人に関する場合で、いまいうのは政治的密告のことですからな。わしも秘密探偵の手さきに使われたことはないです」
「だれもここにそんなものはいやしない」という人々の声がまた聞こえた。「むやくな質問ですよ。だれの答えもみんな一つことです。ここに裏切り者なんかいやしない!」
「なんだってこの人は立つのでしょう?」と女学生が叫んだ。
「あれはシャートフだ。なんだってあなたはお立ちなさるの、シャートフさん?」と主婦が叫んだ。
 実際シャートフは立ちあがった。そして、自分の帽子を手にしながら、ヴェルホーヴェンスキイを見つめていた。彼は何かいおうと思いながら、迷っているようなふうであった。その顔はあおざめて毒々しかった。けれども、彼はついに自己を抑制して、ひと言をも発せず、無言のままぷいと部屋を出て行った。
「シャートフ君、そんなことをしては、かえってきみのためによくないですよ?」ヴェルホーヴェンスキイは彼のうしろから謎のように叫んだ。
「そのかわり、貴様にはためになるだろう、犬、畜生!」シャートフは戸口からわめいて、そのまま行ってしまった。
 ふたたび叫喚の声が起こった。
「なるほど、これで試験が必要なわけなんだね!」とだれかの声が聞こえた。
「役に立ったね!」といま一人が叫んだ。
「役に立ちようが遅すぎやしないかな」と第三の声が口をいれた。
「だれがあの男を呼んだのだ? だれが入れたのだ? いったい何者だ? シャートフというのはだれのことだ? 密告するだろうか、しないだろうか?」という問いが撒くように響いた。
「もし裏切り者だとしたら、猫をかぶっていそうなものじゃないか。ところが、あの男は唾でも吐きかけるようにして、出て行ったよ」とだれかが注意した。
「あらスタヴローギンさんも立ちましたよ。スタヴローギンさんもやっぱり返事をしなかったわ」と女学生が叫んだ。
 スタヴローギンは本当に立ちあがった。それに続いて、テーブルの向こうの端からキリーロフが身を起こした。
「失礼ですが、スタヴローギンさん」と主婦は言葉するどく彼のほうへ振り向いた。「わたしたちここにいるものはみんな、あの質問に答えをしたのに、あなただけは黙って帰っておしまいになるのですか?」
「わたしはあなた方にとって興味のある質問に、返答すべき必要を認めません」とスタヴローギンはつぶやいた。
「しかし、ぼくらはみんなあの答えで冒険をしたのに、あなただけはそうでないんですからね」と幾たりかの声が叫んだ。
「きみたちが冒険したからって、それをぼくの知ったことですか?」とスタヴローギンは笑い出したが、その目はぎらぎら輝いていた。
「どうしてきみの知ったことでないのです? どういうわけです?」という叫喚の声が起こった。
 多くのものは椅子から躍りあがった。
「待ってください、諸君、待ってください」とびっこの教師はわめいた。「ヴェルホーヴェンスキイ氏も、まだあの問いに答えていないじゃありませんか。ただ問いを発したきりですよ」
 この一言は雷電のごとき効果をひき起こした。一同は目と目を見合わせた。スタヴローギンは、びっこの教師の鼻さきでからからと笑って、いきなり部屋を出てしまった。キリーロフもそれに続いた。ヴェルホーヴェンスキイは二人の跡を追うて、控え室へ駆け出した。
「あなたはぼくをどうしようというんです?」と彼はスタヴローギンの手をとって、一生懸命に握りしめながら、舌もつれのする調子でこういった。
 こちらは無言に手をもぎ放した。
「今すぐキリーロフのところへ行ってらっしゃい、ぼくも後から……ぼくぜひ用があるんですから、のっぴきならん用があるんですから!」
「ぼくには用がない!」スタヴローギンは断ち切るようにいい放った。
「スタヴローギン君はやって来ますよ」とキリーロフが引き取った。「スタヴローギン君、きみにも用がありますよ。ぼくあっちへ行って教えてあげます」
 二人は出て行った。

[#3字下げ]第8章 イヴァン皇子[#「第8章 イヴァン皇子」は中見出し]

 二人は出て行った。ピョートルは会議の席へ引っ返して、混乱を揉み潰そうと思ったが、こんな連中を相手に騒ぎ廻るのは馬鹿馬鹿しい、とでも考え直したのだろう、すぐ何もかもうっちゃってしまった。二分の後、彼は立ち去った二人の跡を追って、同じ道を飛ぶように走っていた。走っているうちに、フィリッポフの家へ抜けて出られる少し近い横町がふと心に浮かんだので、泥濘はぎを没するような[#「泥濘はぎを没するような」はママ]抜け道へ駆け込んだ。果たせるかな、彼が目ざす家へ駆けつけたときは、スタヴローギンとキリーロフが門を潜っているところだった。
「きみもう来たのですか?」とキリーロフは気がついていった。「それはよかった。お入んなさい」
「どうしてきみは、一人きりで住んでるなどといったんです?」廊下にちゃんと用意されて、もうしゅんしゅん音を立てている湯沸《サモワール》の傍を通り過ぎようとして、スタヴローギンはこうたずねた。
「だれといっしょに住んでいるか、今におわかりになりますよ」とキリーロフはつぶやいた。「お入んなさい」
 やっと部屋へ入るか入らないかに、ヴェルホーヴェンスキイはさっそくかくしから、さきほどレムブケーのところから取ってきた無名の手紙を取り出して、スタヴローギンの前へ置いた。三人とも腰を下ろした。スタヴローギンは黙って読み終わった。
「それで?」と彼はきいた。
「このやくざ者はそこに書いてあるとおりにしますよ」とヴェルホーヴェンスキイは説明した。「ところで、あの男はあなたの掌中にあるんですから、どういう処置を取ったらいいか、教えてもらいたいんです。ぼくはあえて断言します、あの男は明日にもレムブケーのところへ行きかねませんよ」
「なに、勝手にさしとけばいい」
「どうして勝手に? ましてそれを避ける方法があるのに」
「きみは思い違いしていますよ。あの男は、ぼくの意志に左右されてはいないです。それに、ぼくはどうだってかまやしない。ぼくはあの男なぞに少しも危険を感じない。危険を感じるのはきみだけです」
「あなただってそうです」
「どうだかね」
「しかし、ほかのものがきみを容赦しないでしょうよ、それがわからないのですか? ねえ、スタヴローギン、それはただ言葉の遊戯にすぎないですよ。いったい金が惜しいんですか?」
「へえ、金なんかいるのかねえ?」
「ぜひいります、二千ルーブリか、ミニマム千五百ルーブリ。ねえ、明日といわず今日にもすぐ、ぼくにその金を渡してください。そうしたら、明日の晩までにはきみのために、あの男をペテルブルグへ送り出してしまいます。それがまたあの男の望みなんだから。もしお望みなら、マリヤさんもいっしょにね――これはとくにご注意を願います」
 彼の様子には、まるで常軌を逸したようなところがあった。彼は妙に不用意な口のきき方をした。いわば、よく腹の中で練れてない言葉が、ひとりでにすべり出るようなふうだった。スタヴローギンはあきれて、その顔をうち守っていた。
「マリヤをよそへやる必要なんかぼくにはありゃしない」
「或いはかえっておいやかもしれませんな」ピョートルは皮肉らしくにやりとした。
「或いはいやかもしれないね」
「まあ、手っ取り早いところが、金は出るのですか、出ないのですか?」毒々しげな焦慮の色を現わしながら、なんとなく威を含んだ調子で、彼はスタヴローギンに向かって叫んだ。
 こちらは真面目に相手をじろじろ見つめた。
「金は出ませんよ」
「えいっ、スタヴローギン、きみは何か知ってるんですね、それでなけりゃ、もう何かやったんですね? きみはごまかしていますね!」
 彼の顔はひん曲って、唇のはしはぴくりと慄えた。と、彼は出しぬけに、なんだかまるでわけのわからぬ、なんともつかぬ笑いをたて始めた。
「だって、きみはお父さんから領地の代金をもらったじゃありませんか」ニコライは落ちつき払って注意した。「母がスチェパン・トロフィーモヴィチに代わって、六千か八千の金をきみに渡したはずです。だから、きみのほうから千五百ルーブリ払っておおきなさい。もう人のために金を出すのは、いやになっちゃった。ぼくはそれでなくてさえ金を撒き過ぎたから、もう馬鹿馬鹿しくなっちまった……」と彼は自分で自分の言葉に薄笑いを洩らした。
「ああ、あなたはふざけだしたんですね……」
 スタヴローギンは椅子から立ちあがった。ヴェルホーヴェンスキイも同時にひょいと飛びあがって、出口をふさごうとでもするように、機械的に戸口へ背を向けて立った。ニコライは、今にも彼を戸口から突き退けて、出て行きそうな身振りをしたが、ふいにその手を止めた。
「ぼくはシャートフをきみに渡しゃしないよ」と彼はいった。
 ピョートルはぴくりとなった。二人は互いに睨み合っていた。
「きみがなんのためにシャートフの血を必要とするか、それはさっきぼくがきみにいったとおりです」スタヴローギンの目は輝き出した。「きみはそれを膏薬にして、あんな有象無象をくっつけ合わそうとしてるんです。いまきみは上手にシャートフを追い出しましたね。あの男が『ぼくは密告しない』というはずもなく、またきみの前で嘘なぞつくのは穢らわしいと思うに相違ない、それが、きみにはわかり過ぎるほどわかっていた。しかし、ぼくは、いったいぼくは今なんだってきみに必要なんです? きみはまだ外国にいる時分から、ぼくにつきまとってるじゃありませんか? きみがこれまでぼくに与えた説明などは、ありゃほんの寝言にすぎない。ところが、そんなことをいってる間に、きみはだんだんぼくを吊り出して、ぼくが千五百ルーブリの金をレビャードキンにやったうえ、それで、フェージカにあの男を殺す機会を作ってやるよう仕向けてるんです。ぼくにはちゃんとわかっている。きみはそのうえ、ぼくがついでに女房も殺したがっている、てなことを考えてるのです。こうして、犯罪でぼくを縛りつけたうえ、きみはもちろんぼくに対して権力を握ろうと思ってる、え、そうでしょう? いったいきみなんのために権力がいるのです? 馬鹿馬鹿しい、なんのためにぼくという人間が必要なんです? 一つとっくり傍へ寄って見て、いよいよぼくがきみのお仲間かどうか見定めたうえ、今後ぼくをかまわないようにしてくれたまえ」
「いったいフェージカが自分できみのところへ行ったんですか?」とヴェルホーヴェンスキイは息をつまらせながらたずねた。
「ああ、来ましたよ。あれのさし値もやっぱり千五百ルーブリ……ほら、あの男が自分で裏書きしてる。そら、あすこに立ってる……」とスタヴローギンは手を差し伸べた。
 ピョートルはくるりと振り返った。と、薄暗い閾の上に、新しい人影が浮かび出た、――フェージカである。半外套を着てはいるが、まるで自分の家にでもいるように、帽子なしの素頭であった。彼は白い揃った歯を剥き出し、にたにた笑いながら立っていた。黄いろい陰のさしたり引いたりする黒い目は、『旦那』たちをうち守りながら、用心ぶかそうに、部屋の中をきょろきょろ走り廻っていた。彼はどうも合点のゆかぬふしがあった。察するところ、たった今キリーロフに連れられて来たものらしく、その不審げな目は彼のほうへ向けられた。フェージカは、閾の上に立っていたが、部屋へ入って来ようとはしなかった。
「大方この男にぼくらの取引を聞かせるためか、それとも手に金でも握ってるところを見せるために、ちゃんときみのところに用意してあったと見えるね。そうでしょう?」とスタヴローギンはきくと、そのまま返事も待たないで、さっさと部屋を出てしまった。
 ヴェルホーヴェンスキイはほとんど狂気のようになって、門の傍で彼に追いついた。
「待て、一足も動くな!」彼は相手の肘をつかみながら、こうわめいた。
 スタヴローギンはその手をうんとしゃくったが、もぎ放すことができなかった。もの狂おしい憤怒の発作が彼の全幅を領した。いきなり左手でヴェルホーヴェンスキイの髪をつかむと、力まかせに地べたへ叩きつけて、門の外へ出て行った。けれど、まだ三十歩と行かないうちに、ヴェルホーヴェンスキイがまた追っかけて来た。
「仲直りをしましょう、仲直りを」と引っ吊ったような声で彼はささやいた。
 ニコライはひょいと肩をすくめたが、立ちどまりもしなければ、振り返ろうともしなかった。
「ねえ、明日リザヴェータさんをきみのところへ連れて行きますよ、どうです? いやですか? なんだって返事をしないんです? なんでもお望みをいってください、ぼくが必ずかなえてあげます。ねえ、お聞きなさい、ぼくはシャートフを譲りますよ、いやですか?」
「じゃ、きみがあの男を殺そうと決心したのは、ほんとなんだね?」とニコライは叫んだ。
「ああ、いったいあなたは、なんのためにシャートフなんかがいるんです? どうしようというんです?」絶えずちょこちょこと前のほうへ駆け出しては、スタヴローギンの肘をつかまえながら(しかも、自分でそれに気がつかないらしい)、極度の興奮に達したヴェルホーヴェンスキイは、息をつまらせながら、口早にこういった。「まあ、お聞きなさい、ぼくあの男をあなたにあげます。仲直りしようじゃありませんか。きみの要求は過大なものだけれど、しかし……とにかく仲直りしてください!」
 スタヴローギンはとうとう相手に視線を向けたが、その刹那おもわずはっとなった。それはいつものような、いな、さきほど部屋の中で見たような目つきではなかった。あんな声でもなかった。彼の目の前にはまるで別な顔があった。声の調子もがらりとちがっていた。ヴェルホーヴェンスキイは祈っていた、哀願していた。それは何よりも貴重なものを奪われて、もしくは奪われんとして、いまだに正気に返れないでいる人の表情だった。
「まあ、きみはいったいどうしたんです?」とスタヴローギンは叫んだ。
 こちらはそれに返事もせず、ただ彼の後を走りつづけた。依然として哀訴するような、同時に執拗な目つきで、相手の顔色をうかがうのであった。
「仲直りしましょう!」と彼はいま一どささやいた。「実はね、ぼくもフェージカと同じように、長靴の中にナイフを隠してるんです。けれど、ぼくは和睦します」
「本当にきみはなんだってぼくが必要なんだろう、いまいましい!」もう極度の憤怒と驚異に駆られて、スタヴローギンはこうどなりつけた。「いったいなにか秘密でもあるのかね。いったいぼくはきみにとって、どんなまじないになるんだろう?」
「まあ、お聞きなさい、ぼくらはまた新しい混乱時代([#割り注]十七世紀初頭の空位内訌時代[#割り注終わり])を現出するのです」こちらはほとんど熱に浮かされてでもいるように、早口にこうささやいた。「ぼくらが混乱時代を現出しうるということを、きみは本当にしないんですね。ぼくらは、それこそいっさいのものが根底からくつがえされるような、恐ろしい混乱時代を現出するのです。カルマジーノフが何一つ縋るべきものがないといったのは、正鵠に当たっています。カルマジーノフはとても利口な男です。なに、ロシヤ全国にあんな集団がたった十くらいあれば、それこそぼくはもう捕捉し難い存在です」
「あんな馬鹿者ばかりかね」こんな言葉が、スタヴローギンの口から気のなさそうな調子ですべり出た。
「ああ、スタヴローギン、きみ自身もう少し馬鹿におなんなさい、も少し馬鹿に! 実はね、きみはそんなことを望むほど、大して利口じゃありませんぜ。きみは恐れてるんです、きみは本当にしないんです、きみは仕事が大仕掛けなのでおじけづいたのです。それに、あの連中がどうして馬鹿なんです? あの連中はけっしてそれほど馬鹿じゃありませんよ。今の世の中で、正気なものはだれ一人ありゃしません。実際、今の世の中には、特殊な頭脳をもった人間が恐ろしく少ないですからね。ヴィルギンスキイはまことに純な男です。ぼくらのようなものから見ると、十層倍も純な男です。しかし、あんな男なんかどうだっていい。リプーチンは悪知恵の張ったやつです。けれど、ぼくはたった一つあいつの弱点を知っています。実際、どんな悪ごすい男だって、それぞれ弱点のないやつはありませんからね。ただリャームシンだけは少しもそんな弱点がない。その代わりあの男はぼく擒縦自在です。こういうふうな集団が、まだほかに二つ三つあるんですよ。それに、いたるところ通用する旅券と金、それだけでも大したもんでしょう。え、ただそれだけでもね? それから、取っときの隠れ家と来てるんですからね、まあ、いくらでもさがすがいいや。一つの集団を引っこ抜いても、別なのがすぐ鼻っさきにあることはごぞんじないのだから、ぼくらは混乱時代をおっ始めるんです……なに、ぼくら二人でたくさんです、いったいきみはそれを本当にしませんか?」
「シガリョフを相棒にしたまえ、そして、ぼくは呑気にさしといてもらいましょう……」
「シガリョフは天才的な男です。知ってますか、あの男はフーリエ型の天才ですよ。しかし、フーリエより大胆です、フーリエより強いです。ぼくはあの男を利用するつもりです。なにしろ、あの男は『平等案』を考え出したんですからね!」
『この男は熱に浮かされてるんだ。なにか非常に変わったことが、この男の心に起こったに違いない』とスタヴローギンはも一ど彼の顔を見つめた。二人は立ちどまろうともせずに、歩きつづけた。
「あの男の説は、手帳《ノート》ではなかなかよくできてるんです」とヴェルホーヴェンスキイは語を続けた。「あの男の説くのは、探偵説です。あの男にいわせると、社会の各員は、互いに他人を監視し合って、それを密告するの義務を有してるんです。個人は全社会に属し、全社会は個人に属して、すべてのものはことごとく奴隷なんです。その奴隷という点において、各人平等というわけです。極端な場合には、誹譏、讒謗、殺人という方法も応用されるが、まあ、おもなのは平等ですよ。第一着手として教育、科学、才能などの水準を引き下げます。科学や才能の高い水準は、一だん高級な能力を持ったものが到達しうるのみだが、そんな高級な能力なんか必要はない! 高級な能力は、常に権力を掌握した専制君主なのです。実際、高級な能力は専制君主たらざるをえない。そして、常に益をもたらすより以上に、人心を荼毒《とどく》していた。だから、彼らは迫害されるか、でなければ刑罰を受けています。シセロは舌を抜かれ、コペルニクスは目を抉り出され、シェイクスピアは石を投じられた、――というのがシガリョフ一派の主張なんです! 奴隷はみな平等でなければいけない。専制主義のないところに、自由も平等もあったためしがない。しかし、羊の群には平等がなくちゃならない、これがシガリョフ一派の主張なのです! ははは、あなた不思議ですか? ぼくはシガリョフ説賛成ですよ!」
 スタヴローギンは足を速めて、少しも早く家へ行き着こうと努めた。『もしこの男が酔っぱらってるとすれば、いったいどこで飲んで来たんだろう』という考えが、ふと彼の心に浮かんだ。『まさかあのコニャック一杯のせいでもなかろう』
「ねえ、スタヴローギン、山をならして平地にする、――これはいい思いつきですよ、滑稽じゃありません。ぼくは、シガリョフに賛成します! 教育もいらない、科学もたくさんだ! 科学なんか無くったって、千年くらいは材料に不自由しませんよ。ただ、服従というやつを、うまく完成しなきゃならない。この世にただ一つ不足してるのは、この服従です。教育欲というやつは、すでに貴族的な欲望ですからね。また、ちょっとでも家庭らしいものや、愛などというやつがきざすと、もうそこに所有欲が起こるんですからね。なに、ぼくらはこの欲望というやつを処分しますよ。飲酒、誹謗、密告などを道具に使うのです。かつて聞いたこともないような、淫蕩の風を起こす。あらゆる天才を二葉のうちに窒息させる。こうして、いっさいのものを一つに通分してしまうのです、――つまり、絶対の平等です。『われわれは一つの職業を習い覚えた、われわれは正直な人間だ、だから、ほかになんにもいりゃしない』つい近ごろ英国の労働者が、こういう答えをしたそうです。ただ必要なものが必要なだけだ。これが今日以後、全地球のモットーとなるのです。しかし、痙攣もまた必要です。このことは、われわれ支配者が面倒を見てやらねばなりません(奴隷には支配者がいりますからね)。絶対の服従、絶対の没人格ですが、三十年に一どくらい、シガリョフ氏も痙攣というやつを道具に使うんです。すると、だれもかれも突然たがいに食い合いをはじめる。が、これもある程度までで、まあ、退屈しないだけにすればいいんです。退屈というやつは、貴族的感覚ですからね。シガリョフ一派には希望というものがなくなるのです。希望や苦闘はわれわれのために必要なので、奴隷どものためにはシガリョフ説があります」
「きみは自分を除外するんですか?」とまたスタヴローギンがたずねた。
「そして、きみもやはり。実はね、ぼくは世界をローマ法王の手に渡そうと思ったんです。法王をはだしでモッブの前に歩み出させるんです。そして、『お前たちはわしをこれほどまでにしてしまった!』てなことをいわすと、すべての者が、わあっとそのほうへ帰順してしまいます。軍隊までその仲間です。法王が上段にいると、ぼくらはそのまわりを取り囲む。そして、ぼくらの下段にはシガリョフ一派が来るわけです。ただインターナショナルが、法王と妥協してくれなけりゃなりませんが、それも実現されるに相違ないです。法王の爺さんなどは二つ返事です。爺さんにとっては、ほかにしようがないんですからね。まあ、ぼくの言葉をおぼえておってください、ははは! どうです、馬鹿げていますか? さあ、馬鹿げているかいないか返答してください」
「たくさん」とスタヴローギンはいまいましそうにつぶやいた。
「まったくたくさんです! まあ、お聞きなさい、ぼくは法王をやめちゃったんですよ! シガリョフ一派なんか、くそ食らえだ! 法王なんかどこなと勝手にうせるがいい! まったくぼくらに必要なのはきわものなんで、シガリョフ説なんかじゃない。なぜって、シガリョフ説は宝石屋の店に飾るべきもんですからね。あれは理想です。あれは未来のものです。シガリョフ説は宝石屋で、そして、すべての愛他主義者と同様に、ごくおめでたくできてるんです。われわれにはもっと下等な労働が必要です。ところが、シガリョフは下等な労働を軽蔑してるんですからね。ねえ、きみ、法王は西欧のものです。ロシヤで立つべき人はきみです!」
「ぼくの傍をどいてくれ、この酔いどれめ!」とつぶやいて、スタヴローギンは足を早めた。
「スタヴローギン、きみは美丈夫です!」ほとんど有頂天になって、ピョートルはこう叫んだ。「きみは自分の美しいことを知っていますか? きみの持っているものの中で一ばん貴いのは、きみが少しもそれを知らずにいることです。ええ、ぼくはすっかりきみという人を究めつくしました! ぼくはしょっちゅう横のほうから、隅っこのほうからきみを眺めているんです! きみには単純なところさえあります、ナイーヴなところさえあります、きみはそれを知っていますか? まだ残っています、本当に残っています! きみはきっと苦しんでるでしょう、しかも真剣に苦しんでるに相違ありません。それもやはりこの単純な心のためです。ぼくは美を愛します! ぼくはニヒリストだが、しかし、美を愛します。全体、ニヒリストは美を愛さないものでしょうか? なに、彼らはただ偶像を愛さないだけです。ね、ところが、ぼくはある偶像を愛します! つまり、きみがぼくの偶像なのです! きみはだれひとり侮辱しない。そのくせ、みんなに憎まれている。きみは人を平等に見ていらっしゃる。そのくせ、みんなきみを恐れている、――これが何よりなんです。だれもきみの傍へやって来て、なれなれしげに肩を叩くようなことをしない。きみは恐ろしいアリストクラートです。アリストクラートが民主主義におもむくのは、実に崇高なものです! きみは自分のものにしろ、人のものにしろ、人間の命を犠牲にするくらいなんとも思ってやしない。きみはまったくうってつけの人なんです。ぼくはちょうどきみのような人が必要なんです。ぼくはきみのような人をほかにだれも知りません。きみは指揮官です。太陽です。ぼくなんかきみの自由になる虫けらです……」
 彼はふいにスタヴローギンの手を接吻した。ぞっとするような悪寒《おかん》がニコライの背筋を走った。彼はおびえたように、その手をもぎ放した。彼は立ちどまった。
「気ちがい!」思わずスタヴローギンはこういった。
「本当にぼくは譫語《うわごと》をいってるかもしれません、熱に浮かされてるかもしれませんよ!」と、こちらは早口に引き取った。「しかし、ぼくは第一歩を考え出しました。シガリョフなどいつまでたっても、この第一歩を考え出しっこありません。実際この世には、シガリョフみたいな人間が多いんですよ! ところが、たった一人、ロシヤじゅうでたった一人、この第一歩を考え出したものがある。きみはそれがだれかわかりますか。その人間はぼくなんです。なんだってそんなにぼくを見るんです? きみは、きみはぼくに必要なのです。きみがなかったら、ぼくはゼロです。きみがなかったら、ぼくは蠅同然です、びんづめの思想です、アメリカなしのコロンブスです」
 スタヴローギンはじっと立ちすくんで、相手のもの狂おしい目つきを見つめていた。
「ねえ、ぼくらは初め混乱時代を現出するんです」ひっきりなしにスタヴローギンの左の袖をつかまえながら、ヴェルホーヴェンスキイは恐ろしくせき込むのであった。「これはもうきみにはいったことだけど、われわれは人民のまっただ中に没入するのです。きみはおわかりにならんかもしれないが、ぼくらはもう今でもなかなか優勢なんですよ。ぼくらの味方は単に人を殺したり、家を焼いたり、古典的な方法でピストルを射ったり、または咬みついたりするような、そんな連中ばかりじゃありません。あんな連中は邪魔になるだけでさあ。ぼくは規律をほかにしては、何物も理解できないたちなんです。実のところ、ぼくは策士なんですよ、社会主義者じゃありません、はは! ねえ、ぼくはそういう連中を、すっかり勘定して見ましたよ。子供らといっしょになって、彼らの神や揺籃を笑う教師、これはもうこっちのものです。殺された者より、殺した者のほうがより多く発達している。また金を獲るため殺人を犯さざるをえなかったのだ、などといって教養ある犯人を弁護する弁護士、これも確かにこっちのものです。実際の感覚を経験するために百姓を殺す学生も、こっちのものです。なんでもかでも犯人を釈放しようとする陪審員、これもまったくこっちのものです。自分の自由主義がまだ不十分ではないかと、法廷でびくびくしている検事も、同様こっちのもの、ええ、こっちのものですとも。そのほか、行政官吏、文学者、なあに味方はたくさんあります、うんとたくさんあります。しかも、そういう連中は、自分でもそのことを知らないのです。また別な方面からいうと、学生や馬鹿者どもの柔順さ加減は、もう極度に達しました。教師連中は胆汁の入った袋を押し潰されてしまったのです。いたるところ名誉心が方図もなく発達して、野獣のような貪欲心のさかんなこと、今までかつて聞いたこともないくらいです……ねえ、ぼくらがほんのできあいの思想で、どのくらい成功を贏ちうるか、きみはとてもわからないでしょう? ぼくが立った頃には、リトレエ([#割り注]コントの弟子、実証派[#割り注終わり])の、犯罪は精神錯乱なりというテーゼが猖獗を極めていたが、こんど帰って来て見ると、もう犯罪は精神錯乱どころか、最も健全な常識なんです、ほとんど義務です、少なくとも潔白な反抗です。『だって、発達した人間じゃないか、もし金が必要だったら、どうして人を殺さずにいられるものか!』というふうですからね。しかし、これなんぞはまだ生やさしいほうなんです。ロシヤの神も安ウォートカの前にはもう尻ごみしていますよ。百姓も酔っぱらってる、母親も酔っぱらってる、子供も酔っぱらってる、教会はがらんとしてしまった、裁判所では『笞《むち》二百、それがいやなら一樽もって来い』といった調子です。ああ、この時代風潮をもっともっと発展させなきゃなりません。ただ残念なことには、そう安閑と待ってる暇がないけれど、そうでなかったら、あの連中をもっともっと酔っぱらわしてやるんだがなあ! それに、プロレタリヤがいないので実に残念だ! が、それも今にできます、きっとできます、そういう傾向で進んでるんだから……」
「われわれが少し馬鹿になったのも、やはり残念だね」とスタヴローギンはつぶやいて、もとの道を歩き出した。
「まあ、お聞きなさい。ぼくはね、自分でこんなのを見ましたよ。六つばかりの男の子が、酔っぱらった母親の手を引いて、うちへ連れて帰ってると、母親はその子を口汚く罵るのです。きみ、ぼくがそれをよろこんでると思いますか? なに、いっさいがぼくらの手に落ちた時には、ぼくらも或いはそんなことをすべて治療してしまうかもしれません……もし必要とあれば、四十年くらいどこかの荒野へ追いやって、難行さしてもいいです……しかし、今のところ一代か二代、放縦時代がぜひなくちゃならない。人間がいまわしい、臆病な、残酷な、我利我利一点ばりの蛆虫になってしまうような、前代未聞の陋劣な放縦の時代――これがわれわれに必要なんです! それから、そこにちょいと『新しい血』がいりますな、つまり、少しばかり馴れるためです。きみ、なにを笑ってるんです? ぼくは別に自己撞着なんかしてやしませんよ。ぼくは愛他主義者やシガリョフ一派に撞着するだけで、自己撞着なんかしやしません! ぼくは策士で、社会主義者じゃないんだから。ははは! ただ時日が少ないのが残念ですよ。ぼくはカルマジーノフに、五月に初めて聖母祭までに片をつけると約束したんですよ。早すぎますか? はは! ねえ、スタヴローギン、とっぴなことをいうようですがね、ロシヤの百姓は、口汚い悪口雑言こそするが、醜悪哲学《シニズム》というものはありませんよ。まったくあの土に繋がれた奴隷のほうが、カルマジーノフなんかより余計、自己を尊敬していました。だって、百姓はずいぶんひどい目に遭わされたけれど、それでも自分の神は立派に守りおおせた。ところが、カルマジーノフはそれができなかったんですからね」
「いや、ヴェルホーヴェンスキイ君、ぼくは初めてきみの告白を聞きました。聞いて驚いてしまった」とニコライはいい出した。「してみると、きみはまるっきり社会主義者じゃなくって、何か政治上の……野心家かなんぞですね?」
「策士ですよ、策士ですよ。きみはぼくの正体が気になるんですね。今に本性を現わしますよ。そのほうへ話を持っていってるんですもの。ぼくだって無意味にきみの手を接吻したんじゃありませんよ。が、まず何より人民に信じさせる必要があります――われわれは自分の望むところを知っているが、彼らは『棒ちぎりを振り廻して、同士打ちをしている』にすぎないってことをね。ああ、本当に時日があったらなあ、――時日がないのが唯一の難点です。われわれは破壊を宣伝するのです……それはなぜ? というやつが、また実に魅力に富んだ問いでね! が、それにしても、少々小手だめしをしておかなけりゃ、こいつは必要ですよ。われわれはまず火事を道具に使います……伝説を道具に使います……こうなると、どんなやくざな集団でも役に立ちますよ。ぼくはあなたにこういう集団の中から、いかなる砲火の中にも突進して行って、しかもそれを光栄とし、いつまでも感謝するような、殊勝な人間をさがし出してあげます。まあ、こうして混乱時代が始まるんです! この世界がかつて見たこともないような、大動揺が始まるんです……ロシヤは一めん濛気にとざされ、大地は古い神を慕うて号泣する……さあ、そこである人物を登場さすのです……だれだと思います?」
「だれだろう?」
「イヴァン皇子([#割り注]伝説の主人公[#割り注終わり])です」
「だーれだって?」
「イヴァン皇子です、きみです、きみなんです!」
 スタヴローギンはちょっと考えた。
「僣位者のイヴァンですか?」深い驚愕に打たれると、興奮の極に達した相手をじっと見つめながら、とつぜん彼はこうたずねた。「じゃ、つまり、なんですね、それがきみの計画なんですね!」
「ぼくらは『今あの人は潜伏してるのだ』といいます」何かまるで恋でもする人のような声で、ヴェルホーヴェンスキイは静かにささやいた。実際、彼は陶酔してでもいるようだった。「わかりますか、この『あの人は潜伏している』という短い一語が、どんな意味を有しているか? しかし、その人はついに出現するのです。姿を現わすのです。ぼくらはあの去勢宗徒の連中より、ずっと気の利いた伝説を放ちますよ。その人は実際に存在しているが、まだだれも見たことがない、――ああ、実に面白い伝説を放つことができるんですよ! つまり、一ばん大切なのは、新しい力が現われたという点なのです。これが万人に必要なんです、これを人々が憧憬してるんです。社会主義なんかなんです? 古い力は破壊したが、新しい力は注入しえないじゃありませんか。ところが、ぼくらのは力です。しかも、今まで聞いたこともないような、素晴らしい力なんです! ぼくらはほんの一度、うんと杆《てこ》をもって力を入れたら、もう地球が持ちあがるんですよ。何もかも持ち上るんですよ!」
「それじゃ、きみは真面目にぼくを当てにしてるんですか?」スタヴローギンは毒々しくにやりとした。
「何を笑ってるんです、しかも、そんなに意地悪そうに? ぼくをおどかさないでください。ぼくは今まるで子供みたいなんですから、そんな笑い方をされただけでも、死ぬほどおどしつけられてしまいますよ。いいですか、ぼくはだれにも……きみを見せないつもりです。ええ、だれにも……そうしなくちゃいけないんです。その人はいる、しかし、だれもまだ見たことがない、どこかへ姿を隠しているのだ、とこう思わせなきゃ駄目です。しかしね、十万人のうち一人くらいには見せてもいいです。すると、その男は、ロシヤの国じゅう駆け廻って、『見た、見た』とわめいて歩く。サヴァオスの神イヴァン・フィリップイチでさえ、戦車に乗って昇天するところを、群衆が『現在この目で』見たというではありませんか。が、きみはイヴァン・フィリップイチじゃない。きみは美丈夫です。神のごとく誇らかな、自分のためには何ものをも求めない、犠牲の円光を背負った『隠れたる』美丈夫です。まあ、何より有効なのは伝説です! きみはきっと彼らを征服します。一目見ただけで征服しますよ。なにしろ新しい真理をいだいて『隠れてる』人なんですからね。そこでぼくらは、ソロモンの咒文めいたものを二つ三つ道具に使う。それにいろんなグループや五人組があるんですものね、――新聞なんかいりゃしませんよ! 一万人くらいの中で、たった一人だけの請願をいれてやったら、それこそだれもかれも請願をもってやって来る。どんな田舎の、どんな百姓でも、どこかに一つの洞穴があって、そこへいろんな願書を差し入れるという話だ、ってなことを、ちゃんと承知するようになる。『新しく正しき掟は現われたり』という呻きの声で、地球がびりびり震え出す。海は波立って、仮普請の小屋掛けはばらばらに崩れ落ちてしまう。そのとき初めてぼくらは、石造建築を起こす方法を考えてもいいのです。それはまったく前後未曾有の事業です! しかし、建設するのはぼくらです、ええ、ぼくらだけです、ほかにだれもありゃしません」
「狂気の沙汰だ!」とスタヴローギンは口を入れた。
「なぜです、なぜきみはいやなんです? 恐ろしいのですか? ぼくがきみに目星をつけたのは、きみが何ものをも恐れない人だからですよ。どうです、筋が立ちませんかね? だって、ぼくはまだ今のところ、アメリカなしのコロンブスです。実際、アメリカなしのコロンブスに、筋道の立とうはずがないじゃありませんか?」
 スタヴローギンは押し黙っていた。やがてそのうちに、家のすぐ傍まで来た。二人は車寄せの傍に立ちどまった。
「ねえ」とヴェルホーヴェンスキイは相手の耳へかがみ込んだ。「ぼくは金をもらわずに、きみのために働きましょう。ぼくは明日にも、マリヤの片をつけてしまいます……金をもらわずにね。そして、明日にもさっそくリーザさんをきみのところへ連れて来ます。どうです、リーザさんがほしくはないですか、明日ですよ?」
『この男どうしたんだ、本当に気でも狂ったんだろうか?』と思って、スタヴローギンはにやりとした。玄関の戸が開かれた。
「スタヴローギン、ぼくらのアメリカになってくれますね」ヴェルホーヴェンスキイは、いま一ど最後に彼の手をつかんだ。
「なんのために?」とニコライは真面目な、いかつい調子で問い返した。