京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集10 悪霊 下』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP025-048

ら響いて来た。
「読んでください、読んでください」と、幾たりかのうちょうてんになった婦人連の声が、それに相槌を打った。ついに拍手の音も起こったが、しかし、あっさりした勢いのないものだった。
 カルマジーノフはひん曲ったような微笑を浮かべて、椅子から体を持ち上げた。
「まったくでございますよ、カルマジーノフさん、わたしたちはみんな名誉と思ってるくらいなのですから……」とうとう貴族団長夫人も、我慢し切れなくなっていった。
「カルマジーノフさん」広間の奥まったほうから、出しぬけに若々しい声でこう呼びかけるものがあった。それは郡部の小学校の若い教員で、この地へはつい近ごろ来たばかりの、おとなしい人柄な青年だった。彼は堂々と自席から立ちあがった。「カルマジーノフさん、もしわたしが、今あなたの朗読されたような愛の幸福を恵まれたとしても、まったくのところ、朗読会の席上で読み上げる文章の中へ、自分の恋物語をおさめようとは思いませんね……」
 彼は顔を真っ赤にしていた。
「諸君、わたしはもう朗読を終えたのです。もうこれでおしまいとして、退席します。しかし、ただ最後の六行だけ読ましていただきます」
「さらばわが友よ、読者よ、さらば!」彼はさっそく原稿を手にして読み始めた。が、もう肘掛けいすには腰をおろさなかった。「さらば、読者よ。とはいえ、余はしいて友として袂を別たんことを主張するものではない、事実、このうえ諸君を煩わす必要がどこにあろう。もし幾分たりとも諸君の慰みになることなら、余は罵られてもいとわない、おお、余は甘んじて罵られよう。けれど、もしわれわれが永久に忘れ合うことができれば、それが何より一番である。そして、かりに読者諸君が突然やさしい心になって、余の前にひざまずき、涙をこぼしながら、『書け、カルマジーノフよ、おお、われらのために書け、祖国のために書け、子孫のために書け、月桂冠のために書け』と乞うにしても、余は礼節を守ってその好意を謝しながら、なおも諸君に答えるだろう。『いや、愛すべき祖国の同胞よ、われわれはもう互いに十分面倒をかけ合った。メルシイ、今はめいめい思い思いの道をとるべき時だ! メルシイ、メルシイ、メルシイ!』と」
 カルマジーノフはうやうやしく一揖すると、まるでうだったように真っ赤になって、楽屋の中へ入ってしまった。
「ふん、だれが膝を突いたりなんかするものか。なんという馬鹿げた想像だろう」
「実にどうもえらい自惚れだね!」
「あれはただのユーモアだよ」だれやら少しもののわかるのが、こう訂正した。
「ちょっ、そんなユーモアなんぞ真っ平ご免だよ」
「だが、それにしてもあれは生意気だよ、諸君」
「けれど、まあ、とにかくやっとすんだよ」
「ほんとに睡くなっちゃったあ!」
 しかし、こうした無作法な後列の(もっとも、後列ばかりではなかった)高ごえは、別な方面の聴衆の拍手に消された。それはカルマジーノフを呼び出したのである。ユリヤ夫人と貴族団長夫人をかしらにした幾たりかの婦人が、演壇の傍へ押し寄せた。ユリヤ夫人の手には、白いビロードの台にのせた見事な月桂冠と、もう一つ薔薇の生花で作った花環があった。
月桂冠!」とカルマジーノフは微妙な、やや毒を含んだ薄笑いを浮かべながらいった。「わたしはもちろん感謝の情に堪えません。あらかじめ用意されたものではありますが、まだ凋れる暇のない、生きた感情のこもったこの花環を受納いたしましょう。しかし、淑女方《メーダーム》、まったくのところ、わたしはこんど急にリアリストになりましたので、今の世の中では、月桂冠もわたしの手にあるよりは、熟練した料理人の手にあるほうが、遙かにところを得たものと思われます……」
「そうとも、料理人のほうがずっと役に立たあ」ヴィルギンスキイの家で『会議』に列した、例の神学生がこう叫んだ。
 会場の秩序は少なからず破られた。月桂冠の贈呈式を見ようとして、方々の席から跳びあがるものが大分あった。
「ぼくはこれから、料理人に三ルーブリ増してやってもいい」も一人が大きな声で相槌を打った。その声は、あまりだと思われるくらい大きかった、これでもかというような大きな声だった。
「ぼくもそうだ」
「ぼくも」
「いったいここに食堂はないのか?」
「諸君、つまりわれわれは詐欺にかかったのだ……」
 しかし、ついでに断わっておくが、こういう無作法な連中も、まだやはり町の上級官吏や、同じく広間にい合わした警部などを、ひどく恐れていたのである。十分ばかり経ってから、ようやく人々は元の席に着いたが、以前の秩序はもはや回復できなかった。かわいそうにスチェパン氏の講演は、ちょうどこうした混乱がそろそろ萌し始めた時に当たったのである。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 けれど、わたしはも一ど楽屋へ駆け込んで、もう前後を忘れながら彼に忠告した。わたしの考えでは、すでに何もかもぶっ毀れてしまったのだから、この際ぜんぜん演壇に登らないで、腹痛か何かを口実にさっそく家へ帰ったほうがよかろう、そうすれば、わたしもやはりリボンを捨てて、いっしょに出かけてもかまわない、といった。彼はこの瞬間、演壇のほうへ向かっていたが、急にその足をとめて、傲然たる目つきでわたしを頭から足の爪先まで見おろすと、勝ち誇ったようにいい放った。
「きみ、きみはいったいどういうわけで、わたしをそんな卑怯なことのできる人間だと思うのです?」
 わたしはそのまま引きさがってしまった。この人が何か恐ろしい騒動を起こさないで、無事にあすこから帰って来るはずはないと、わたしは信じて疑わなかった。それは二二が四というくらい明瞭だった。わたしはすっかりしょげてしまって、ぼんやり立っていると、スチェパン氏の後で登壇する順序になっている、来遊の教授の姿がちらと目に映った。例の、拳をたえず上へ振りあげては力まかせに打ち下ろしていた、さっきの人である。彼は相変わらず自分の仕事に夢中になって、意地悪げなしかも勝ち誇ったような薄笑いを浮かべ、何やら口の中でぼそぼそいいながら、あちこち歩き廻っている。わたしはほとんど無意識に彼の傍へ寄った。ここでも余計なおせっかいをしたものである。
「あなたごぞんじですか」とわたしはいった。「いろんな例から推してみるのに、講演のとき二十分以上も聴衆を引き止めると、もうそれからさきはてんで聴いてもらえませんよ。どんな名家でも、三十分と持ちこたえることはできないです……」
 彼はとつぜん立ちどまって、憤怒のあまり全身を慄わしたかと思われるほどであった。はかり知れない傲慢な表情が彼の顔に浮かんだ。
「ご念には及びません」と彼は吐き出すようにつぶやいて、わたしの傍を歩み去った。
 このとき広間で、スチェパン氏の声が響き出した。
『ええっ、お前たちはみんなどうともなるがいい……』と考えながら、わたしは広間へ駆けだした。
 スチェパン氏は、さきほどの混乱の名ごりの収まらぬうちに、肘掛けいすに腰を下ろしたのである。前列の人々は、あまり同情のない目つきで彼を迎えたらしい(最近、クラブではどうしたものか彼を嫌い出して、前のように尊敬しなくなった)。しかし、それでも叱々《ヒス》の声がかからなかったのが、まだしもなのである。わたしの頭の中には昨日あたりから妙な考えがこびりついていた。ほかでもない、彼が壇に登るやいなや、いっせいに口笛が響き出すに相違ない、という気がしてならなかったのだ。ところが、先刻の混乱の名ごりで、聴衆もすぐには彼の登壇に気づかなかった。実際、カルマジーノフでさえあんな目に遭ったのに、いったいこの人は何を当てにしようというのだ? 彼はあお白い顔をしていた。なにしろ、もう十年も公衆の前に現われたことがないのだ。その興奮した態度といい、またわたしにとって馴染みの深いすべてのそぶりといい、彼自身この登壇をもって自己の運命の解決とか、またはそれに類した行為とみなしているのは、もはや明々白々のことであった。つまり、これをわたしは恐れていたのだ。この人はわたしにとって大切な人なのである。それゆえ、彼がまず口を開いたとき、彼の最初の一句を聞いた時、わたしの心持ちはそもそもどんなであったか!
「諸君!」もう何もかも決心したという調子で、とつぜん彼はこう口を切った。が、それでも声は大分かすれていた。
「諸君! つい今朝ほどわたしの前には、近頃この地に撒布された無法な刷りものが一枚おかれていました。わたしは幾度となく、自分で自分にこういう問いを発しました、この紙片の有する秘密ははたしてなんであるか?」
 大きな広間はたちまち闃《げき》として、一同の目は彼のほうへ向けられた。その中にはおびえたような目つきもまじっていた。けっこうなことだ、一語にして興味を惹きつける腕があるのだ。楽屋のほうからも、首を突き出すものがあった。リプーチンやリャームシンは、貪るように耳を澄ましていた。ユリヤ夫人はふたたびわたしを小手招きして、
「やめさしてください、どうしてもやめさしてください!」と不安げにささやいた。
 わたしはただ肩をすくめるのみであった。決心してしまった[#「決心してしまった」に傍点]男を留めるなんて、はたしてできることだろうか? 悲しいかな、わたしにはスチェパン氏の気性が、あまりにわかり過ぎていた。
「へえ、檄文のことだぞ!」とつぶやく声が聴衆の中で聞こえた。広間がざわざわし始めた。
「諸君、わたしは秘密の存するところをことごとく明らかにしました。彼らの奏しつつある効果の秘密は、要するに、彼らの愚という点に帰するのであります!(彼の目はぎらぎら輝き出した)それでですね、諸君、もしそれがわざと企らんだ偽の愚なら、それこそ実に、天才のわざといってもいいくらいです! ところが、彼らの長所をも十分に認めてやらなければなりません。彼らは別にいささかも企んだものではありません。それは思い切って剥き出しの、思い切って正直な、思い切って単純な愚であります―― 〔c'est la be^tise dans son essence la plus pure, quelque chose comme un simple chimique〕(それは最も純粋な愚のエッセンスであります、化学的元素のようなものであります)、これがもしほんの滴ほどでも利口な言い方がしてあったら、だれだってこの単純な愚のやくざ加減に、たちまち気がつくに相違ありません。ところが、いま人々はけげんに思いながら躊躇しているのです。つまり、それほどまで原始的に愚なものだとは、しょせん信じられないからです。『この中に、これ以上の意味が全然ないはずはない』とこう思って、だれでも秘密を探り出そうとする、言葉の裏を読もうとするのです、――こうして、効果は奏せられたのであります! ああ、これほどに愚昧が華々しい報酬を受けたことは、今までかつてないのであります。もっとも、ちょいちょいした報いはしばしば受けておりました……つまり 〔en parenthe`se〕(ついでに申しますが)、愚昧は大天才と同様、人類の運命にとって均しく有益なものだからであります」
「四十年代の地口だ!」というだれかの声が聞こえた。が、ごくおとなしい調子だった。
 しかし、それに続いて、すべてが堰を破ったようになった。烈しい喧囂と騒音が起こった。
「諸君、ウラー! わたしは愚のために祝杯を提議したいと思います!」もうすっかり激昂してしまって、ホール全体を呑んでかかりながら、スチェパン氏はこう絶叫した。
 わたしは水を注ぎ添えるのを口実に、彼の傍へ走り寄った。
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、うっちゃっておしまいなさい、ユリヤ夫人の頼みですから……」
「いや、きみこそわたしをうっちゃっといてくれたまえ、本当にこの軽薄才子が!」と彼は一ぱいに声を張り上げて、わたしに食ってかかった。
 わたしはそうそうに逃げ出した。
「|諸君《メッシゥ》」と彼は語をついだ。「その興奮はなんのためです? わたしの耳にする憤慨の叫びはなんのためです。わたしは橄欖の枝をもって来たのであります。わたしは最後の言葉をもたらしたのであります。実際わたしはこの問題については、最後の言葉を握っているのであります、――そうして、お互いに和睦しようではありませんか」
「そんなものはいらない!」と一方で叫ぶと、
「しっ、いわしてみろ、しまいまでいわしてみろ」と、また一方で金切り声を立てた。
 とりわけ興奮しているのは、すでに一ど口を切った若い教員だった。彼はもうじっとしていられないようなふうであった。
「諸君《メッシゥ》、この問題に対する最後の言葉は、――いっさいをゆるすことであります。わたしはすでに生活を終えた老人として、はばかるところなく堂々と断言しますが、生命の霊気は依然躍動しています。生の力は若き世代の中にも涸渇しておりません。現代の青年の感激は、わたしたちの時代と同様、清浄にして光明にみちています。変わったのはただ一つだけです。すなわち、目的の移動、美の転換であります! すべての疑惑は、ただ一つの問に含まれています。つまり、どちらがより多く美であるか、――シェイクスピアか靴か、ラファエルか石油か?」
「それは誣告だ!」ある一群がわめいた。
「そんな質問は、人に鎌をかけるというものだ!」
「その筋の回し者だ、煽動者だ!」
「ところで、わたしはこう断言する」もはや憤激の極に達して、スチェパン氏は癇走った声をふりしぼった。「わたしはこう断言する、シェイクスピアやラファエルは農奴の解放より尊い、国民性より尊い社会主義より尊い、若き世代より尊い、化学より尊い、ほとんど全人類より尊いのだ。なぜなれば、彼らはすでに全人類の得た果実、真実の果実だからである。いな、或いはこの世に存在し得る最高の果実かもしれないのだ! 彼らはすでに獲得されたる美の形体だ。この美の獲得をよそにしたら、わたしは生きることすら潔しとしないのだ……おお、なんということだ!」彼は両手をぱちりと鳴らした。「十年前ペテルブルグで、わたしはちょうど今と同様に演壇に立って、ちょうどこれと同じ言葉をもって叫んだことがある。が、ちょうどこれと同じように、彼らはわたしの言葉を解しないで、笑ったり叱声を発したりした。ああ、単純なる人々よ、諸君は何が不足しているために、この言葉の意味を解しないのか。しかし、記憶しておくがいい、記憶しておくがいい、イギリス人はなくても、なお人類は存在し得る、ドイツ人がなくとも、大丈夫だ、ロシヤ人がなくともなおさら大丈夫だ、科学がなくともかまいはせぬ、パンがなくともなお可なりだ。ただ一つ美がなくては、絶対に不可能だ。なぜなれば、人々はこの世でなんらなすべきことがなくなるからだ! いっさいの秘密はここにある、いっさいの歴史はここにあるのだ! 科学すらも美がなかったなら、一刻も存在することができないのだ、――笑うものよ、きみたちははたしてこれを知っているか、――美がなかったら、科学は一介の奴隷と化して、釘一本も発明することができないのだ! なんの譲るものか!」最後に彼は愚かしくこうわめきながら、拳を固めて力まかせにテーブルを叩いた。
 しかし、彼が意味も順序もなくわめき立てているうちに、広間の秩序もしだいに乱れて来た。多くのものは席を飛びあがった。中には、演壇へじりじり押し寄せて来るものがあった。全体として、こういうふうの出来事は、わたしがここに描写しているよりも、ずっと迅速に進行していったので、対応策を講ずる暇がないくらいであった。いや、もしかしたら、だれもそんなことをしようとしなかったのかもしれない。
「ふん、何もかも据え膳で暮らしているきみたちは、それでけっこうだろうよ、呑気なものさ!」例の神学生が演壇のすぐ傍に立って、さも快げにスチェパン氏に歯を剥いて見せながら、こうどなった。
 こちらはそれに気がついて、一番はじのほうへ飛び出した。
「いったいあれはわたしじゃないのか? 若き世代の感激も以前と同じように清浄で光明にみちているが、ただ美の形式を誤ったために堕落してるといったのは、あれはわたしじゃないか? きみたちはあれでまだ不足なのか? それに、これを叫んだのが、打たれ辱められた一個の父親《てておや》であることを考えたら、これ以上公平冷静な意見を求めることはできないはずではないか!………ああ、なんという恩を知らない……非道なやつらだろう……どうして、まあ、どうしてきみらは和解がいやなのだ……」
 というやいなや、彼は出しぬけにヒステリックな声で泣き出した。彼はせぐり来る涙を指で払い払いした。肩と胸は歔欷に慄えた……彼はもう何もかも忘れてしまったのである。
 たとえようのない驚愕が広間をおそった。ほとんどみんな総立ちになった。ユリヤ夫人も、夫の手を取って、肘掛けいすから引き立てながら急に立ちあがった。容易ならぬ騒ぎが始まった。
「スチェパン氏!」と神学生がさもうれしそうにどなった。「今この町から近在へかけて脱獄囚のフェージカというやつがうろついています。こいつは方々で強盗を働いていますが、ついこの間も、また新しく殺人を遂行しました。ところが、一つおたずねしますが、もしあなたが十五年以前、カルタの負債を償却するために、あの男を兵隊にやってしまわれなかったら、いや、わかりよくいえば、もしあなたがカルタに負けなかったら、あの男が懲役にやられるようなことになったでしょうか? え、今のように生存のための争闘に、人を斬ったりするようなことが起こったでしょうか? え、ご返答はどうです、もし、耽美派先生?」
 わたしはもはや、次に起こった情景を描くことができない。まず第一に兇猛な拍手の音が響いた。もっとも、皆がみな拍手したわけではなく、せいぜい聴衆席の五分の一ぐらいにすぎなかったが、とにかく、その拍手は兇猛なものだった。その余の聴衆は、どっと出口のほうへ押し寄せたが、拍手をした一部の聴衆がしきりに演壇のほうへ押して来るので、ついに広間ぜんたいの大混乱となった。婦人連は金切り声を立てるし、娘たちの中には家へ帰ろうと泣き出すものもあった。レムブケーはけげんな目つきで、きょろきょろあたりを見廻しながら、自席の傍に立った。ユリヤ夫人は、もうすっかりとほうにくれてしまった。それは夫人が町の交際場裏に立ってから初めてであった。スチェパン氏はどうかというに、彼は初め文字どおりに、神学生の言葉に打ち挫がれたようなふうであった。が、とつぜん彼は聴衆の上にさしかざそうとでもするように、両手を高くさし上げながら叫び出した。
「わたしは足の砂を払って、呪ってやる……もう駄目だ……もう駄目だ……」
 こういって、くるりと向きを変えると、威嚇するように両手を振り廻しながら、そのまま楽屋へ駆け込んでしまった。
「あれは社会を侮辱した!………ヴェルホーヴェンスキイを捕まえろ!」と兇猛な声が咆哮し始めた。
 実際、楽屋へ追っかけても行きかねない勢いだった。少なくもその瞬間には、会場をとり鎮めるなどということは、てんで不可能だった。と、――ふいに最後のカタストロフが、まるで爆弾のように会衆の頭上に落ちかかって、そのただ中で破裂した。三番目の講演者――楽屋でしじゅう拳固を振り廻していた例のマニヤークが、とつぜん舞台へ駆け出したのである。
 彼の顔つきはまったく気ちがいじみていた。底知れぬ自信をたたえた勝ち誇ったような微笑を、顔一面に浮かべながら、湧き立つ広間を見廻していたが、自分でもその混乱をよろこんでいるようであった。彼は、こんな騒動の中で演説するようになったのに、毫も当惑したふうはなく、かえってこれ幸いと思っているらしかった。これがあまりにもありありと見え透いていたので、すぐに一同の注意を惹いた。
「あれはまた何者だ?」ときく声が聞こえた。「あれはまただれだい! しっ! いったい何をいおうというんだい?」
「諸君!」ほとんど演壇のとっぱなに立ちはだかりながら、カルマジーノフと同じ女のような黄いろい声で(ただし、貴族的なしゅっしゅっという音は出さなかった)、マニヤークは力の限りにこうどなった。「諸君! 二十年以前、ヨーロッパの半ばを敵とする戦いの前夜に当たって、ロシヤはすべての官僚派の目に、立派な理想的国家と映りました! 文学は検閲局のご奉公をし、大学では調練が教えられ、軍隊は舞踏団と化し、人民は農奴制度のしもとの下に、年貢を納めて無言の行をしていた。愛国主義は生きた者からも死んだ者からも、遠慮なく賄賂を取るということになってしまって、賄賂を取らないものは、かえって反逆者と見られていた。つまり、一般の調和を破るからであります。白樺の森は、秩序維持という名目のために倒された。かくして、ヨーロッパは慄然と恐れをなしていたのであります。しかし、ロシヤはわけのわからぬ過去一千年の存在の間にも、かかる恥ずべき状態に陥ったことはかつてなかった……」
 彼は拳を振り上げ、うちょうてんになって、もの凄い勢いで頭上《ずじょう》に一振りすると、まるで敵を粉砕しようとするかのように、いきなり猛然と打ちおろした。兇猛な叫喚が四方から起こって、耳を聾するような拍手の音が降りかかった。もうほとんど広間半分まで拍手したのである。まるで子供のように罪もなく、夢中になってしまったのだ。ロシヤが公衆の面前でおおっぴらに侮辱されたのだもの、うちょうてんになってどならずにいられるはずがない。
「ふん、そりゃ、そのとおりだ! まったく、そのとおりだ! 万歳! いや、これはもう美学や何かじゃない!」
 マニヤークはうちょうてんになって叫びつづけた。
「それ以来、二十年の星霜を経ました。大学は諸所に開設せられて、その数を増し、調練は変じて伝説と化し、将校の定員は幾千となく不足を生じ、鉄道はすべての資金をくらい尽して、ロシヤ全国に蜘蛛の巣とかかり、いま十五年も経ったら、まあ、どこへでも旅行できるようになろうか、と予想されています。橋はごく時たまにしか焼けることがないが、町は一定の順序によって、火事のシーズンに規則ただしく焼けていっています。また裁判所では、ソロモンも三舎を避けるような判決が下され、陪審員は自分が餓え死しそうな時でなければ、つまり、生存競争に余儀なくされた場合でなければ、けっして賄賂を取らぬ、と誇称しております。そして、農奴は自由になりながら、以前の地主に代わって、今はお互い同士を撲り合っている。ウォートカは政府の予算を不足させないために、大海の水もただならぬほど消費され、ノヴゴロドでは、古い役にも立たないソフィア寺院の向かいに、過去の動乱と混沌との一千年記念として、厖大な青銅の地球儀が据えられた。かくして、ヨーロッパは眉をひそめながら、ふたたび心配を始めたのであります……ああ、改革に着手して十五年! しかもロシヤは、完全に鳥羽絵めいた混沌の時代においてすら、いまだかつてかくのごとき……」
 最後の言葉は聴衆の咆哮で、聞き取ることができないくらいだった。ただ彼がふたたび手を振り上げていま一ど勝ち誇ったように、打ち下ろすのが見えたばかりである。聴衆の歓喜は、もう常軌を逸してしまった。人々はわめいたり拍手したりした。中には『もうたくさん! もうなんにもいわないでください!』と叫ぶ婦人もあった。みな酔心地であった。弁士は一同をじろり見廻したが、自分の大成功にとろけそうだった。レムブケーがいいようのない興奮のさまで、何かだれやらに指さしているのが、ちらとわたしの目に入った。ユリヤ夫人は真っ青になって、傍へ駆け寄った公爵に、何やら急《せわ》しげな口調でいった……けれど、この瞬間、一群の人が、――多少とも公職の意味を有する人々が、六人ばかり、楽屋からどやどやと演壇へなだれ込むと、いきなり弁士を引っつかんで、楽屋へ引き摺って行った。どうしてこの人たちを振り放したのか、わたしはいまだに合点がゆかないが、とにかく彼はうまくすべり抜けて、ふたたび演壇のとっぱなへ躍り出た。そして、例の拳を振り廻しながら、あらん限りの声をふりしぼって、やっとこれだけどなった。
「しかし、ロシヤはいまだかつてかくのごとき……」
 けれど、彼はまたもや引き摺られて行った。わたしは、十五人ばかりの者が彼を救うために、楽屋へ押しかけたのを見た。しかし、それは演壇を通らずに、ちょっとした仕切りのある横手へ抜けようとしたので、仕切りはめりめりと破れて倒れてしまった……続いて、ヴィルギンスキイの妹の女学生が、例の巻いた書類を小脇に抱え、あの時と同じ服装で、あの時と同じ赤い顔をして、あの時と同じむっちり肥った体で、二、三の男女に取り巻かれながら、ふいにどこからか演壇へ飛びあがった時には、わたしはほとんどわれとわが目を疑った。うしろからは、かの不倶戴天の仇なる中学生が随っている。わたしは次のような言葉さえ耳にしたほどである。
『皆さん、わたしは不幸なる大学生の苦痛を訴えて、いたるところ彼らに抗議を提出させるために、ここへ来たものであります』
 が、わたしはもうそのとき駆け出していた。リボンはポケットの中へ隠して、勝手を知った裏口から往来へ抜け出した。もちろんまず第一にスチェパン氏のところへ志した。

[#3字下げ]第2章 祭の終わり[#「第2章 祭の終わり」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 彼はわたしに会わなかった。彼は閉じこもって、何か書いていた。わたしが幾度も続けざまに戸を叩いたり、呼んだりすると、戸の向こうから、ただこう答えた。
「きみ、わたしはもう何もかも片づけてしまったのだ。もうだれだって、このうえわたしに用のあるはずはないじゃないか?」
「あなたは何も片づけやしません、ただ何もかもめちゃめちゃになるように、し向けただけですよ。スチェパン・トロフィーモヴィチ、後生だから地口は抜きにして、開けてください。なんとか方法を講じなきゃならないじゃありませんか。ひょっとしたら、またここへぞろぞろ押しかけて、あなたを侮辱するかもしれませんからね……」
 わたしはこの際、とくにやかましく、命令的に出る権利があると思った。彼が何かもっと気ちがいじみたことを仕出かしはしないか、と心配したのである。けれど、驚いたことに、わたしはなみなみならぬ断固とした返答にぶっ突かった。
「どうかきみからさきに立って、わたしを侮辱しないでくれたまえ。これまでのことに対しては、厚くきみにお礼をいう。しかし、くり返していうが、わたしはもう人間と縁を切ったのだ、善い人間とも、悪い人間とも。今ダーリヤさんに手紙を書いてるところだ。わたしは今まであのひとのことをすっかり忘れてしまって、実に申しわけのないことをしていた。もし好意があったら、明日にもこの手紙を届けてくれたまえ。が、今は『メルシイ』だ」
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、本当のところ、これはあなたの考えておられるより、ずっと重大なことですよ。あなたは、だれかをめちゃめちゃに粉砕したつもりでいるんでしょう? ところが、あなたはだれも粉砕しやしない、かえってあなたのほうが、からのガラスびんみたいに砕けてしまったんですよ(おお、わたしはなんという粗暴な、失礼なことをいったのだろう。思い出すたびに慚愧の念を禁じ得ない!)ダーリヤさんのところなぞへ、あなたが手紙を出すことは少しもありゃしません……それに、わたしというものがなかったら、あなたは二進《にっち》も三進《さっち》もいかないじゃありませんか? あなたに世間のことが何がわかります? あなたはきっと何か企んでいますね? 本当に、あなたがこのうえ何か企んだら、それこそ失敗をくり返すだけですよ……」
 彼は立ちあがって、戸のすぐ傍へ近づいた。
「きみはあの連中と付き合ってそう長くないが、言葉も調子もすっかりかぶれてしまったね。Dieu vous pardonne, mon ami, et Dieu vous garde(どうか神がきみを赦しきみを護りたまわんことを)。しかし、わたしは常にきみの中に、紳士的素質の萌芽を認めていたから、またそのうちに悟ることもあるだろう、――ただし、すべてわれわれロシヤ人の癖として、もちろん、〔apre`s le temps〕(遅れ馳せに)だね。ところで、わたしの非実際的性質に関するきみのご注意に対しては、わたしが前からいだいていた一つの思想をきみにご紹介しよう。ほかじゃない、わがロシヤの国では、ほとんど数え切れぬほどの人たちが、実にどうも恐ろしい剣幕で、しかも夏の蠅ほどうるさく執拗に、人の非実際的性質の攻撃を唯一の仕事にしている。そして、自分以外の人間をだれかれの差別なく、手当たり次第に『非実際的だ』といって非難するんだからねえ。きみ《シェル》、わたしはいま興奮してるんだから、そのことを頭において、わたしを苦しめないでくれたまえ。いろいろきみにはお世話になった。もう一度メルシイをいうよ。そして、カルマジーノフが公衆と別れたように、別れようじゃないか。つまり、できるだけ寛大な心をもって、お互いに忘れようじゃないか。もっとも、ああしつこく昔の読者に忘れてくれと頼んだのは、あれはあの男の細工なんだが 〔quant a` moi〕(わたしにいたっては)、あんなに見得坊じゃないから、何よりもまずきみの心の若さに、――まだ誘惑に毒されない心に、望みを嘱してるんだよ。実際、きみなぞが、こんな老人を永くおぼえてる必要がないものね。きみ、『永く永く生きてください』だ。これは前の命名日に、ナスターシヤがわたしにいってくれた言葉だ。Ces pauvres gens ont quelque fois des mots charmants et pleins de philosophie.(ああいう詰まらない人間が、どうかすると、哲理に富んだ美しい言葉を持っているものだね)。きみにはあまり多くの幸福を望むまい。飽き飽きして来るからね。しかし、不幸をも望みやしない。ただ平民哲学の真似をして『永く永くお生きなさい』とだけくり返しておこう。そして、どうかあまり退屈しないように努めたまえ。この空しい希望は、わたしのものとしてつけ足しておくのだよ。じゃ、さよなら、本当にさよなら。もう戸の傍に立つのをよしたまえ、わたしは開けやしないから」
 彼は向こうへ行ってしまった。で、わたしは結局なんら獲るところなしに終わった。彼のいわゆる興奮にもかかわらず、そのいうことは滑らかで、悠々として重味があり、明らかに人の肺腑を貫こうと努めているらしかった。もちろん、彼はわたしに少し憤るところがあって、間接に復讐したものに相違ない。もしかしたら、昨日の『囚人馬車』や、『ぱっと両方へ割れる床』に対する復讐かもしれない。ことにきょう公衆の前で流した涙は、ある勝利を獲得させたとはいいながら、やはりいくぶん滑稽な立場に彼を陥れたのである。彼もこれを承知していた。ところが、スチェパン氏のように、友人同士の関係で形式の美と厳正を気にかける人は、またとほかに類がなかった。ああ、わたしは彼を責めることができない! しかし、ああした惑乱にもかかわらず、あの細かい心づかいや皮肉が残っているという事実は、わたしをそのとき安心させてしまったのである。不断とあまり変わりのない人間が、その瞬間に何か悲劇的な、思い切ったことを仕出かすような気分になっていないのは、もちろんわかり切った話である。こうわたしはそのとき考えたのだが、ああ、なんという考え違いだろう! わたしはあまりに多くのものを見のがしていたのである……
 続いて起こった出来事をしるすに当たって、翌日ダーリヤが本当に受け取った手紙の最初の数行を、ここに引いておこうと思う。
『|わが子よ《モナンファン》、わが手はおののきつつあり。されど余はいっさいを破棄せり。きみは世人を敵とする余の最後の白兵戦に、姿を示したまわざりき。きみはかの『朗読会』に出席したまわざりしが、まことによくぞせられたり。されど、剛直の士に乏しきわがロシヤの国に、ただ一人の勇士毅然として立ち、四方より起こる威嚇の声にも動ずることなく、これらの衆愚に向いて彼らの真相、即ち彼らの愚人なることを喝破せし次第を、きみは後に聞きたもうなるべし。おお、彼らは憫むべき小無頼漢、小愚人にすぎず ―― 〔voila` le mot!〕(ああいかにこの語の適切なることよ)かくして籖は抽かれたり。余は永久にこの町を去らんとす。しかも、そのいずくへ行くやを知らず。かつて余の愛したるものは、ことごとく余に背を向けたり。さわれ、きみよ、きみは清浄無垢の人なり、謙抑なる人なり。かつて心変わりやすく我意つよき女のこころによりて、ほとんど余と生涯を共にせんとしたる人なり。ついに成就せざりし二人の結婚の前に当たりて、余が心狭き涙を流したるとき、きみは侮蔑のまなこをもって余を見たまいしなるべし。きみはその美しき心根をもってしても、なおかつ笑うべき人物とよりほかには、余を眺め得ざりしことなるべし。されど、きみにこそ、余はわが心の最後の叫びを送らん。きみにこそわが最後の務めを果たさん。おお、そはただきみ一人のみ! 余は恩を知らざる痴呆漢《うつけもの》、下司なる利己主義者と、余をさげすみたまえるきみを後にして、永久に別れ去るに忍びざるなり。おもうに、かの忘恩のつれなき女《ひと》は、日ごとにこれらの言葉をきみの耳にささやけるなるべし。さわれ、悲しい哉、余はこのひとを忘るるを得ざるものなり……』云々、云々。
 こういうふうなことが、大判四ページも書き連ねてあるのだ。
 彼の『開けやしないから』の答えに、三ど拳で戸を叩いて、その後から、あなたは今日のうちに三度ぐらい、ナスターシヤを使いによこすだろうが、こっちからはけっしてもう来やしないから、とどなっておいて、わたしはそのまま彼を見棄てると、ユリヤ夫人のところへ駆けつけた。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 そこでわたしは一つの苦々しい場面の実見者となった。不幸な婦人はみすみす皆にだまされているのであった。しかも、わたしはなんとも手の出しようがなかったのだ。それに実際、わたしは夫人に向かって何がいえたろう? 落ちついてよく考えてみると、わたしの心にはただ一種の感覚、疑わしい予感のほか、なんにもありはしないのだ。わたしが入った時、夫人はほとんどヒステリイのようになって泣きながら、オーデコロンで額をしめしたり、コップの水を呑ましてもらったりしていた。彼女の前には、のべつしゃべりたてるピョートルと、まるで口に錠でも下ろされたように押し黙った公爵が立っていた。彼女は泣いたりわめいたりしながら、ピョートルの『裏切』を責めていた。夫人はこの日の失敗と恥辱とが、すべてピョートルの不在のみに起因したと考えている。それがすぐわたしの注意を惹いた。
 ピョートルについては、或る一つの重大な変化が目についた。ほかでもない、彼はなんだか恐ろしく心配そうな、ほとんど真面目くさった様子をしているのであった。ふだん彼が真面目な様子をしていることはけっしてない。いつでも笑っている、怒った時でさえ笑っているのだ。ところで、彼はよく怒った。実際、今も機嫌が悪く、乱暴で無作法な口をききながら、なんともいまいましくじれったそうだった。彼は今朝早く、偶然ガガーノフの家へ出かけたところ、そこで頭痛がして嘔気を催して来たのだと、一生懸命に弁解していた。ああ、不幸な婦人はまだこのうえだまされたかったのだ! わたしが入ったとき、一座を占めていたおもな問題は、舞踏会、――即ち、慈善会の第二部を開いたものか、どうかということだった。ユリヤ夫人は『さっきのような侮辱』を受けた後で、舞踏会に出席するのは、どうしても厭だといった。別の言葉でいえば、夫人は無理やり出席させられたかったのである。しかも、ぜひとも、ピョートルにそう仕向けてもらいたかったのだ。夫人はまるで予言者《オラクル》かなんぞのように彼を見上げていた。もし彼がすぐこの場を去ったら、夫人は病の床に就いてしまうだろう、と思われるくらいだった。しかし、彼は立ち去ろうなどと考えもしなかった。彼自身、是が非でも今日の舞踏会が成立して、どうしてもユリヤ夫人に出席してもらわなければならなかったのである。
「ちぇっ、なんだって泣くんです? あなたはどうあっても不体裁な場面を演じたいのですか? だれかに欝憤がはらしたいのですか? じゃ、ぼくにそれをはらしてください。ただお早く願いますよ。なにしろ時間はどんどん経って、なんとか決めなきゃならないんですからね。朗読会で味噌をつけたら、舞踏会で取り返すんですよ。そら、あの公爵もご同意です。ああ、公爵がおられなかったら、まあ、どんなことになったかわかりゃしない!」
 公爵は舞踏会に反対だったが(というより、ユリヤ夫人が舞踏会に出席するのに反対だった。なぜなら、舞踏会はいずれにしても開かなければならないからである)、しかし、二、三ど自分の意見なるものが引用されたとき、彼もだんだん同意のしるしに、ふんふんというようになった。それからまた、ピョートルの一通りならぬ無作法な調子にも、わたしは一驚を吃したのである。これは大分のちの話だが、ユリヤ夫人がピョートルと何か妙な関係があるなどという下劣な誹謗も行なわれたが、わたしは憤然としてこれをしりぞけた。そんなことはけっしてない、またあり得べきはずがないのだ。彼はただそもそもの初めから、社会と本省に対して勢力を得ようという夫人の空想に一生懸命で相槌を打ったり、夫人の計画に立ち入って世話をやいたり、自分から夫人のためにいろんな計画を立ててやったり、下劣なおべっかで取り入ったりして勢力を占め、ついには頭から足の爪先までまるめ込んで、夫人にとってまるで空気と同じくらいなくてはならぬものとなりおおせたのである。わたしの姿を見るとひとしく、夫人は目を輝かせながら叫んだ。
「ああ、あの方に聞いてごらんなさい。あの人もやはり公爵と同じように、始終わたしの傍を離れずにいてくだすったんですから。ねえ、あなた、これが企みだということは、ちゃんと見え透いてるじゃありませんか。ええ、わたしやアンドレイに、できるだけ悪いことを仕向けようという、いやしい狡猾な企みなんです。ええ、みんなが申し合わせたんです! ちゃんと計画が立っていたんです。みんなぐるなんです、立派にぐるなんです!」
「ああ、またいつもの癖で、仰山に考え過ぎてるんですよ。あなたの頭には、永久に詩がこびりついてるんですね。しかし……なに[#「なに」に傍点]のお見えになったのは好都合です……(彼はわたしの名を忘れたような振りをした)。この方に一つご意見を伺いましょう」
「わたしの意見は」とわたしは急き込みながら、「わたしは万事ユリヤ夫人と同意見です。企みだということは、見え透き過ぎるほどです。奥さん、わたしはこのリボンをお返しに来ました。舞踏会を開いたものかどうかという問題は、もちろんわたしの容嘴すべきことでありません。わたしにそんな権限がないのですからね。しかし、幹部としてのわたしの役目はもうすみました。短気な点はどうぞおゆるしを願いますが、どうも自分の常識と信念を傷つけるような行為をするわけにまいりません」
「お聞きになって、お聞きになって?」と夫人は両手を拍った。
「聞きましたよ。ついては、あなたに申し上げることがあります」と彼はわたしのほうへ振り向いた。「察するところ、あなた方はみんな何か変なものを食べたんですね。それで、みんなうわごとのようなことをいってるんでしょう。ぼくにいわせれば、何事も起こりゃしなかったんですよ。この町で今までになかったようなことは、またこの町で起こり得ないようなことは、けっして持ちあがりゃしなかったのです。企みとはなんです? もちろん見苦しい、いうに堪えない、馬鹿馬鹿しいことになってしまった。けれど、企みがどこにあります? それはいったいユリヤ夫人を苦しめようという企みですか? あの連中のいたずらを寛大にゆるして甘やかしておられた、彼らにとって大切な保護者を、苦しめようという企みですか? ねえ、奥さん! いったいわたしが一か月間、口を酸っぱくしていったのはなんでしょう。何をご注意したのでしょう? まあ、本当に、本当にあんな連中がなんのために必要だったのです? あんな有象無象にかかり合う必要がどこにあったのです? なぜです、なんのためです? 社会を結合するためですか? なんの、あんな連中が結合してたまるものですか、冗談じゃない!」
「いつあなたがわたしに注意してくだすって? いいえ、あなたはかえって賛成なすったのです、いいえ、要求なすったのです……わたし正直なところ、すっかり面くらってしまいました……だって、あなたが自分で奇妙な人たちを、大勢つれて来たんじゃありませんか」
「とんでもない、ぼくはあなたと争ったのです。賛成などしやしません。ところで、連れて来たには、――なるほど連れて来たに相違ありませんが、しかし、あの連中が自分のほうから、一ダースぐらい押しかけて来たからですよ。それもごく近頃のことで、『文学カドリール』をするのに、ああいうがらくたがぜひ必要だったからです。けれど、ぼくうけ合っておきますが、今日はああいうふうながらくたを十人か二十人、切符なしで引っ張り込んだものがあるのです!」
「間違いなしです!」とわたしは相槌を打った。
「そら、ごらんなさい、あなたは、もうぼくに同意してるじゃありませんか。それに一つ思い出してごらんなさい、近頃のここの風儀はどんなものです、つまり、この町ぜんたいのことですよ。ねえ、何もかも鉄面皮と、破廉恥に化してしまったじゃありませんか。あれはまったく見苦しい馬鹿騒ぎを、のべつ楽隊で囃し立ててるようなものです。あれは、そもそもだれが奨励したのです? 自分のオーソリティで擁護したのはだれでしょう? 世間の者をまごつかせたのはだれでしょう? 町のわいわい連中を怒らしたのはだれでしょう? ねえ、あなたの家のアルバムには、この町のあらゆる家庭の秘密が詩や画になって載っているじゃありませんか。その詩人や画家の頭を撫でてやったのは、あれは、あなたじゃなかったでしょうか? リャームシンに手を接吻させておやりになったのは、あれはあなたじゃなかったでしょうか? 一介の神学生が堂々たる四等官を罵倒して、その令嬢の着物をタール塗りの靴で汚したのは、あなたの目の前で起こったことじゃありませんか。ですもの、町の人があなたに反抗的な気勢を示したからって、お驚きなさることは少しもありませんさ」
「だって、それはみんなあなたが自分でなすったことですよ? ああ、なんということだろう!」
「いいえ、ぼくはあなたに注意したのです。あなたと議論までしました。おぼえていらっしゃいますか、議論までしたのですよ!」
「まあ、あなたは面と向かって嘘をつくんですか?」
「ええ、まあ、なんとでもおっしゃい。あなたはそんなことをいっても平気なんですから。あなたはいま犠牲がいるんです。だれにでもいいから欝憤がはらしたいのです。さあ、ぼくにそれをはらしてください、さっきもそういったじゃありませんか。しかし、ぼくはきみにお話したほうがいいようだ、あの……(彼はいまだにわたしの名を思い出せないようなふうをした)一つ指を折って、勘定してみようじゃありませんか。ぼくは断言しておきますが、リプーチン以外には、企みなんてものは少しもありません、けっしてありません! それはぼくが証明してお目にかけますが、まずリプーチンを解剖してみましょう。あの男は、レビャードキンの馬鹿者の作った詩をひっさげて登壇しました、――ところで、どうでしょう、きみのご意見ではこれが企みなんですか? しかしねえ、リプーチンにしてみれば、あれが単に気の利いた洒落のように思われたのかもしれませんよ。真面目に、まったく真面目にそう思ったのかもしれません。あの男は、みんなを笑わせてやろうという目的で、登壇したばかりです。第一に、自分の保護者たるユリヤ夫人を、慰めて上げようと思ったのです。それっきりですよ。きみ、本当にしませんか? だって、この一月ばかりの間、ここでやっていたことを考えると、これなぞも同じ調子のものじゃありませんか? それに、なんなら、すっかりいってしまいますがね、まったくのところ、ほかの場合だったら、或いは問題にならずにすんだかもしれないくらいですよ! もちろん無作法な洒落です、いや、むしろ薬の利き過ぎた洒落です。が、まったく滑稽な洒落じゃありませんか?」
「え? じゃあなたはリプーチンの行為を、気の利いた洒落だと思ってるんですか?」恐ろしい憤懣のさまで、ユリヤ夫人はこう叫んだ。「まあ、あんな馬鹿な、あんなへまな、あんな下劣な、卑怯な、――あれはわざとしたことです、ええ、あなた方がわざと仕組んだことです、――そんなことをおっしゃる以上、あなたもやはりその仲間です!」
「そうでしょうとも、うしろのほうに隠れていて、あのからくりをすっかり操っていたのでしょうよ。しかし、もしぼくがその企みに加担していたとすれば、――ねえ、いいですか、――到底リプーチン一人ですみやしなかったはずですよ! こういえばあなたは、ぼくが親父としめし合わしてわざとあんな醜体を演じさした、とでもおっしゃるでしょう。ところが、親父に演説なんかさしたのは、いったいまあだれの責任なんでしょう? 昨日あなたを止めたのはだれでしょう、ついほんの昨日のことですよ!」
「Oh, hier il avait tant d'esprit.(ああ、昨日あの人はあれほどの才気をお見せになったのに)わたし、それを当てにしていたんですの。それに、あの人の態度も立派ですから、わたしもよもやあの人とカルマジーノフに限って……ところが、あのとおりの始末です!」
「ええ、あのとおりの始末です。しかし、その tant d'esprit(あれほどの才気)にもかかわらず、親父は会をめちゃめちゃにしてしまいました。ところで、もし親父が会をめちゃめちゃにするってことを、ぼくが初めから知っていたとすれば、ぼくはあなたのご意見によると、明らかにこの催しをぶっ毀す企みに加担してるんだから、山羊を畠へ放つようなことをしてはいけないなどと、昨日あなたを留めるはずがないに決まってるじゃありませんか、ね、そうでしょう? ところが、ぼくは昨日あなたを留めました、――つまり、虫が知らせたから留めたのです。もっとも、何もかも見抜くなんてことは、不可能でした。おそらく親父も一分まえまでは、何をいい出すか自分でもわからなかったのでしょう、全体あんな神経過敏な老人連に、人間らしいところでもありますか? しかし、まだ応急の方法があります。明日にも公衆の憤慨を満足させるために、法定の手続きを踏んで、あらゆる礼儀を失わないように、親父の所へ二名の医師をやって、健康診断をさせたらいいですよ。なんなら、今日でもかまいません。すぐに病院へやって、冷湿布でもさせるんですな。そうすれば、少なくとも、みんなお笑い草にしてしまって、何もむきになって怒ることはない、と悟りますよ。ぼくは今日さっそく舞踏会でこのことを披露しましょう。だって、ぼくは親父の子ですからね。しかし、カルマジーノフのほうは違います。あの男はまったく馬鹿げきった様子で登壇して、まる一時間あの文章を読みつづけたんですからなあ、――これなどはもう明白に、ぼくとぐるになったのです! さあ、一つユリヤ夫人をへこますために、一騒ぎ起こしてやろうかなというはらで!」
「おお、カルマジーノフ、Quelle honte! (なんて恥さらしだろう!)わたしは顔から火が出るようでした。聴き手の心を想像すると恥ずかしくって、まるで顔から火が出るようでした!」
「ふん、ぼくは顔から火を出すどころじゃない、自分であいつを烙き殺してやりたいくらいでしたよ。まったく聴き手のほうがもっともなんです。ところで、しつこいようですが、カルマジーノフの一件はだれの責任なんでしょう? ぼくがあの男をあなたに押しつけたのでしょうか? あの男の崇拝に、ぼくもお仲間入りをしたのでしょうか? いや、まあ、あんなやつなんかどうでもいい。さて、今度は三番目に出た変人、あの政治気ちがいですが、これはちょっと種が違います。あれは皆が揃って失敗したのです。何もぼくの企みばかりのせいじゃありません!」
「ああ、もういわないでください、恐ろしい、恐ろしい! それはもうわたし一人の責任です」
「もちろんです。が、ここでぼくはあなたの弁護をしましょう。まったくああいう無作法な連中の監督は、だれにだってし切れるものじゃありません! ペテルブルグの会だって、ああいう連中を防ぎきれやしませんよ。それに、あの男は紹介状を持って来たんでしょう、しかも立派な紹介状を! そこで、あなたも合点がいったでしょう。あなたはどうしても今夜の舞踏会に出席する義務があります。ね、ここが肝腎なとこなんですよ。だって、あなたが自分であの男を、演壇へ引き出したも同じわけなんですからね。だから、あなたは今夜、公衆に向かって、自分はあの男と共同で仕事をしてるわけじゃない、あの乱暴者はもう警察の手に渡されている、自分はいつともなしにだまされていたのだ、とこういっておく義務があります。あなたは自分が気ちがいの犠牲になったということを、憤慨の語気をもって告げなければなりません。だって、あの男は気ちがいじゃありませんか、それっきりですよ。あの男のことは、そんなふうにいっておく必要があります。ぼくはああいう咬みつき屋がいやでたまらないんだ。もっとも、ぼくのほうがより以上ひどいことをいってるかもしれません。しかし、演壇に立ってるのと違いますからね。それに、この頃ちょうど元老院議員の噂が喧しいおりですから……」
元老院議員てだれのこと? だれがそんなことをいってますの?」
「実は、ぼく自身なんにも知らないんですが、奥さん、あなたは元老院議員とかいうような噂を、少しもごぞんじないのですか?」
元老院議員?」
「まあ、お聞きなさい、世間ではね、ある元老院議員がここの知事に任命されることになった、つまり、本省のほうであなた方を更迭させようとしている、とこんなふうに信じきってるんですよ。ぼくはいろんな人から聞きましたよ」
「ぼくも聞きました」とわたしは裏書きした。
「だれがそんなことをいってました?」ユリヤ夫人は顔をかっとあかくした。
「つまり、だれが一番にいい出したか、とおっしゃるんですね?……そんなことぼくが知るはずはありませんさ。ただみんながそういってるんです。世間でそういってるんです。ことに、昨日などは盛んなものでした。どうもみんなが恐ろしく真面目なんです。そのくせ、ちっともとりとめたところはないんですがね。むろん、すこし考えのある、もののわかった人は黙っていますけれど、それでも中には、世間の話に耳を傾ける人もあります」
「なんという卑劣な! そして……なんという馬鹿馬鹿しいこったろう!」
「ね、だから、こういう馬鹿者どもに思い知らせてやるために、あなたは今夜どうしても出席しなくちゃなりません」
「わたしも実のところ、そうする義務があると感じてはいるのですけれど、でも……もしまた新しい恥をみるようなことがあったら、どうしましょう? もし人が集まらなかったら、どうしましょう? だって、だれも来やしません、だれ一人、だれ一人……」
「どうしてあなたはそう熱くなるんです! それは、あの連中が来ないということですか? じゃ、新しく縫った着物はどうするんです? 令嬢方の衣裳はどうなるんです? そんなことをおっしゃるようじゃ、ぼくは婦人としてのあなたの資格を否定しますよ。人情通というものは、そんなもんじゃありませんよ!」
「貴族団長の奥さんはお見えになりません、ええ、お見えになりません!」
「だが、いったい何事が起こったというんです! なぜ人が出て来ないんです?」とうとう意地悪げな、いら立たしい調子で、彼はこうどなった。
「不名誉です、恥辱です、――こういうことが起こったのです。わたしも何がなんだかはっきりはわかりませんが、とにかく、わたしとして出席できないようなことがあったのです」
「なぜです? まあ、いったいあなたがどうして悪いのです? なんだって自分ひとり悪者にしておしまいになるのです? むしろ聴衆のほうが悪いのじゃありませんか。あなたから見れば年長者であり、一家のあるじたる人たちは、ああしたやくざなごろつきどもを制止すべきじゃなかったのでしょうか。実際、あいつらはやくざなごろつきで、少しも真面目な分子はなかったのですからね。いかなる社会にあっても、単に警察の力ばかりでは、けっして制御しきれるものじゃありません。ところが、ロシヤではだれでもかれでも社会へ入って来ると、自分に巡査を一人特別に付けて保護してくれと要求しています。なにしろ、社会はみずから保護するものだということがわからないんですからね。今度のような場合、一家のあるじとか、高官とか、妻とか、娘とかいう人たちは、どういう態度をとるでしょう? 黙ってふくれるだけです。まったくいたずら者を取り締るというだけの範囲ですら、社会の自発的精神が欠けてるんです」
「まあ、なんといううがった言葉でしょう! 黙って脹れて……そして、あたりを見廻してるんですわ」
「それがうがった言葉だとすれば、あなたはこの際、それを口に出していわなきゃなりません、傲然と厳めしく……実際あなた、自分が敗北したのでないってことを、示してやる必要がありますよ。あの老人連や、主婦たちに示してやらねばなりません。ええ、あなたならできますとも。あなたは頭のはっきりしている時には、天賦の才能があるんですもの。ああいう連中をひとまとめにしといて、大きな声でやるんですよ、大きな声で。それから後で、『声《ゴーロス》』や『取引所報知』の通信欄へ寄稿するんですね。いや、お待ちなさい、ぼくが自分で仕事にかかりましょう。ぼくがすっかりうまくこしらえて上げましょう。もちろん、いっそうの注意を要しますがね。食堂の監督もしなけりゃなりません。それには、公爵もお願いしなきゃならないし、あの……なに[#「なに」に傍点]にもお願いしなきゃならないですねえ、|きみ《ムッシゥ》、こうして何もかも、初めからやり直さなければならないって時に、われわれを見棄てたりなんかできませんよ。ね、奥さん、こうして最後にあなたが、知事公に手をひかれて出るという段取りです。ときに、知事公のご容体はいかがですか?」
「ああ、あなたはいつでもあの天使のような人に、なんという不公平な間違った批判を加えていらしったでしょう!」とつぜん思いがけない発作に駆られて、ほとんど涙をこぼさないばかりに、ハンカチを目へ持ってゆきながら、ユリヤ夫人は叫んだ。
 ピョートルもちょっと毒気を抜かれた。
「とんでもない、ぼくは、――まあ、いったいどうしたというんです!………ぼくはいつも……」
「いいえ、あなたは一度も、一度もあの人を本当に認めなすったことがありません!」
「女というものは、とてもわかりっこありゃしない!」ひん曲ったような苦笑を浮かべつつ、ピョートルはこうつぶやいた。
「たくは類のないほど正直な、優しい、天使みたいな人です! 類のないほどいい人です!」
「とんでもない、知事公がいい人だってことは、ぼくらにも……知事公がいい人だってことは、ぼくも始終みとめて……」
「いいえ、一度だってそんなことはありゃしません! だけど、もうその話はやめましょう。わたしの口の出し方もずいぶんまずかったのですから。さっきあの貴族団長の細君がね、本当に憎らしい、昨日のことで二こと三こと皮肉をいったんですのよ」
「おお、あのひとは今きのうの皮肉どころじゃありません。あのひとには今日の心配が別にあるんです。それに、あのひとが舞踏会に来ないからって、どうしてそんなに気をお揉みになるんでしょう? むろん、あんな醜事件にかかりあった以上、けっして来られやしませんさ、或いはあのひとに罪はないかもしれない。けれど、世間が承知しませんよ。もう手が汚れてるんですからね」
「なんですって、わたしよくわかりません。なぜ手が汚れてるんですの?」とユリヤ夫人は不審げに相手を見つめた。
「いや、ぼくは何も保証するわけじゃありませんがね、しかし、町じゅうのものが、あのひとの手引きだといってはやし立てていますよ」
「なんですって? だれを手引きしたんですの?」
「へえ、いったいあなた方はまだごぞんじないのですか?」彼は巧みに驚愕の表情を示しながら叫んだ。
「スタヴローギンとリザヴェータさんをですよ!」
「えっ? なんですって?」とわたしたちは口を揃えて叫んだ。
「じゃ、本当にごぞんじないのですか? ふゅう!(と彼は口笛を吹いた)とんでもない悲劇小説が持ち上ったのですよ。リザヴェータさんがいきなり貴族団長夫人の馬車から飛び出して、スタヴローギンの馬車へ乗り移ると、そのまま『相手の男』といっしょに、スクヴァレーシニキイヘ突っ走ってしまったんです、しかも昼の日中にね。つい一時間ばかり前です。いや、一時間にもならぬくらいです」
 わたしたちは化石のようになってしまった。が、もちろん、すぐに先を争って、くわしい様子をたずねた。けれど、驚いたことには、自分で偶然その場にい合わせたといってるくせに、彼は何一つ順序だった話ができなかった。とにかく、事件は次のようにして起こったらしい。貴族団長夫人が『朗読会』から、リーザとマヴリーキイを連れて、馬車でリーザの母(彼女は依然として足を病んでいた)の家へ着いたとき、車寄せから二十五歩ばかり隔てた小わきのほうに、だれかの馬車が待ちかまえていた。リーザは車寄せへ飛び下りるやいなや、いきなりこの馬車のほうへかけ寄った。馬車の戸は開いて、またばたりと閉まった。リーザがマヴリーキイに向かって、『勘忍してちょうだい!』といったかと思うと、――馬車はまっしぐらにスクヴァレーシニキイヘ馳せ去った。いったいそれには前もって打ち合わせがあったのか? 馬車の中にはだれがいたか? というようなわたしたちの性急な問いに対して、ピョートルは何も知らないと答えた。ただむろん前から打ち合わせはあったものに相違ない、また馬車の中には当のスタヴローギンの姿は見分けられなかったが、たぶん老僕のアレクセイでもいたのだろう、というくらいのことだった。『どうしてあなたはその場にい合わせたのです? また、確かにスクヴァレーシニキイヘ行ったということを、どうしてご承知なのです?』という問いに対して、彼はただ偶然そばを通りかかったために、い合わしたのだと答えた。彼はその時リーザの姿を見つけたので、馬車の傍へ駆け寄りさえした、とのことである。(それだのに、あの好奇心のさかんな男が、馬車の中にだれがいるのか、見きわめなかったというのだ!)マヴリーキイは、跡を追おうとしなかったばかりか、リーザを引き止めようとさえ試みなかった。そして、一ぱいの声を張り上げて、『あの子はスタヴローギンの所へ行くんです! スタヴローギンの所へ!』と叫ぶ貴族団長夫人を、自分の手で押し止めたほどである。この時、わたしは我慢しきれなくなって、憤然とピョートルをどなりつけた。
「このやくざ者め、それはみんな貴様の仕組んだことだ! 貴様はそのために今朝一ぱいつぶしてしまったのだ。貴様がスタヴローギンの手伝いをしたんだ、貴様がその馬車に乗って来て、貴様が自分で乗せたんだ……貴様だ、貴様だ、貴様だ! 奥さん、こいつはあなたの敵ですよ、こいつはあなたの一生も台なしにしてしまいます! 気をおつけなさい」
 こういうと、わたしは一さんに家を駆け出した。
 どうしてあの時あんなことをどなったのか、今にいたるまで合点がいかない。自分でも驚いているくらいである。しかし、わたしの想像はことごとく的中した。ほとんどわたしのいったとおりであったことが後日判明した。何よりも、彼がこの出来事を語った時のうさん臭い態度が、あまりにもまざまざと見え透いていたからである。彼はこの家へ来たとき、非常な出来事として第一番にこれを報告すべきはずなのに、お前たちはもう自分の来ないさきに知ってるだろう、というような顔つきをしていた、――そんなことがあれだけの短時間のうちにできるはずがないではないか。よしんば知っていたとしても、彼が口を切るまで黙っているわけがないのだ。また、町で貴族団長夫人のことを『囃し立ててる』ことなど、やはりあの短時間のうちに聞き込めるものでない。そればかりか、彼はあの話をしているうちに二度までも、なんだか妙に卑しげな軽はずみな笑いをにたりと洩らした。おそらくわたしたち馬鹿者をすっかりだましおおせた、とでも思ったのだろう。しかし、わたしはこんな男にかまっている暇がなかった。大体の事実だけは信じたので、われを忘れてユリヤ夫人の家を駆け出したのである。
 このカタストロフはわたしの心臓を刺し貫いた。わたしは涙の出るほど苦しかった。いや、或いは本当に泣いたかもしれない。もう、どうしたらいいかまるでわからなかった。まずスチェパン氏のところへ飛んで行ってみたが、なんといういまいましい人間だろう、また開けてくれなかった。ナスターシヤはうやうやしげな声で、いま横になって休んでおられますとささやいたが、わたしは本当にしなかった。リーザの家では、召使のものにいろいろと聞くことができた。彼らも家出のことは肯定したが、それ以外のことは、自分たちでもまるで知らなかった。家の中はごたごた混雑していた。病める老夫人が気絶したのである。マヴリーキイはその傍に付き添っていたので、彼を呼び出すことはできないと感じられた。ピョートルのことについては、召使もわたしの執拗な問いに対して、あの人はこの二、三日しきりに出入りして、ときによると日に二度も来たことがあると答えた。召使たちは沈み勝ちな様子をしていて、リーザのことは特別うやうやしげな調子で語った。みんな彼女を好いていたのである。彼女が自滅したことは、――すっかり自滅してしまったということは、もはやわたしにとって疑う余地がなかった。けれど、この事件の心理的方面にいたっては、わたしにはかいもく見当が立たなかった。ことに、きのう彼女とスタヴローギンの間にああいう場面があったばかりだから、なおさらである。町じゅう駆けずり廻りながら、もう疾くにこの噂を聞き込んで、意地悪いよろこびを感じてるに相違ない知己の家々で様子をただすのは不快であったし、第一リーザにとって恥辱になることだった。しかし、不思議なことに、わたしはダーリヤのもとへ立ち寄ったのである。もっとも会ってはくれなかった(スタヴローギン家では昨日のことがあって以来、だれにも面会しないのだ)。わたしはなんのためにここへ寄ったのか、何を彼女に話そうと思ったのか、今だにわれながら合点がいかない。彼女のもとを辞すると、わたしはその兄の家へおもむいた。シャートフは気難かしそうな様子をして、無言のまま聞き終わった。ついでにいっておくが、彼はこれまでにない沈んだ心持ちでいるらしかった。なんだかひどく考え込みながら、わたしのいうことなども、やっと努力して聞いている様子だった。彼はほとんど一言も発しないで、いつもより余計に大きく靴音を立てながら、部屋の中を隅から隅へ絶え間なく歩き廻った。もうわたしが階段を下りかけていると、彼はうしろから声をかけて、リプーチンのところへ寄ってみろとどなった。
「あすこへ行ったらみんなわかるよ」
 が、わたしはリプーチンのところへ寄らないで、もうだいぶ離れていたのに、途中からまたもやシャートフのところへ引っ返した。そして、戸を半分開けたまま中へは入らず、少しの説明もなく言葉少なに、
「きみ、今日マリヤさんのところへ行ってみませんか?」と命令するようにいった。
 この返答に、シャートフはさんざんわたしを罵倒した。が、わたしはそのまま立ち去った。忘れないように、ちょっとここへ書いておくが、彼はその晩わざわざ町はずれまで出かけて、だいぶしばらく会わなかったマリヤを訪れたのである。行ってみると、マリヤはこの上なく丈夫で機嫌がよかったが、レビャードキンは取っ付きの部屋の長いすの上で、死人のように酔っぱらって寝ていた。それは正九時だったとのことである。翌日、往来でわたしに出会った時、彼は自分の口から忙しげにこのことを報告した。
 わたしはもう夜九時すぎになって、舞踏会へ出かけようと決心した。しかし、それは『幹事たる青年』という資格ではなく(それに、リボンもユリヤ夫人のところに残して来た)、ただ制し難い好奇心のためである。つまり、ああした出来事を町の人はどう噂してるか、それを自分の口からきかないで、黙って観察したかったからである。それに、遠くのほうからでもいいから、一目ユリヤ夫人の顔が見たくもあったのだ。さきほどあんなふうに夫人のもとを駆け出したのが、恐ろしく心に咎めてならなかったのである。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 ほとんど馬鹿馬鹿しいくらいの出来事にみちたこの晩と、恐ろしい『大団円』をもたらしたその明け方とは、いまだにまるで醜い悪夢かなんぞのようにわたしの脳裡にちらついて、この記録の最も苦しい部分、――少なくもわたしにとっては、――を成しているのだ。わたしは舞踏会にそれほど遅れたわけでもなかったが、それでも行きついた時には、すでに終わりに近かった(実際この舞踏会は、そんなにも早く終わるべき運命を担っていたのである)。わたしが貴族団長夫人の家の車寄せに駆けつけた時は、もはや十時すぎていた。今朝ほど朗読会の行なわれた例の白い広間は、僅かの間にもうすっかり飾りつけができて、町じゅうの人の(という予想だったので)おもな舞踏場として準備が整っていた。わたしは今朝ほどずいぶんこの舞踏会の成功を危んではいたものの、それでも事実に現われたようなことは予期していなかった。上流の家庭からだれひとり姿を見せなかったのはもちろん、官吏仲間でもちょっと地位のある者はみな背を向けた、――これなどはきわめて重大な徴候である。夫人令嬢などはどうかというに、さきほどのピョートルの予想は、まるで間違いだということがわかった(今になってみれば、それも狡猾なごまかしだったに相違ない)。集まって来たのはごく小人数で、男四人あたりに婦人が一人あるかなしの有様だった。しかも、その婦人というのが大変なしろ物なのだ!『どこの馬の骨か知れないような』連隊つき尉官の細君や、郵便局員や小役人の家内といったようなごみごみした連中のほかに、娘をつれた三人の医者の細君、二、三人の貧乏地主の妻、前にもちょっと紹介しておいた書記の姪と七人の娘、商家の内儀連、――これがまあ、ユリヤ夫人の期待していたものだろうか? 商人連でさえ半分もやって来なかった。
 男のほうはどうかというに、町の名士は揃って顔を見せなかったが、それでも人数だけは、うようよするほど集まっていた。しかし、全体の印象は、なんだか妙なうさん臭いものだった。もちろん、幾人かのもの静かな将校たちも、細君同道で来ていたし、例の七人の娘をつれた書記のように、相当身分のある一家のあるじといったような人もだいぶ見えていたが、こうしたおとなしいごみごみした連中でさえ、いわば『やむを得ず』顔を出したにすぎない。現にこの連中の一人がそういったのである。ところが、いま一方から見ると、わいわいの弥次馬連や、今朝わたしやピョートルが切符なしに入れてもらったのではないかと疑ったような連中は、今朝よりずっと増えていた。彼らはまずしばらく食堂に坐り込んでいた。それどころか、やって来るといきなり、まるで前からしめし合わせた場所かなんぞのように、ずっと食堂へ通って行くのだ。少なくもわたしにはそう思われた。食堂は一番はじの広い室に設けてあった。そこではプローホルイチが、クラブの庖厨のありとあらゆる誘惑を移して、摘物《ザクースカ》や飲物をこれ見よがしに並べ立てながら、陣取っていた。
 わたしはここでただ穴が開いてないというだけのフロックや、思い切って舞踏会らしくない怪しげな服を着た連中が幾人かいるのに気がついた。彼らは幹事の恐ろしい骨折りで、ほんのちょっとの間だけ酔っぱらい騒ぎを我慢しているに相違ない。中にはどこからやって来たのか、よその町の人間も少し交っていた。もちろん、ユリヤ夫人の発議で、舞踏会は思いきり民主的なものにする予定だったのは、わたしも承知していた。『もしただの平民でも、切符代を払いさえすれば、入場を拒絶しないことにしよう』夫人は委員会の席上で、こういう言葉を大胆にいい放った。しかし、それはこの貧しい町の平民がただの一人だって、切符を買おうという気を起こすはずがないのを、十分信じ切っているからである。が、いかに委員会が民主的傾向を持っているにもせよ、こんな破れフロックを着た怪しげな連中を入れようとは、思いも寄らなかった。いったいだれがどんな目的で入れたのだろう? リプーチンとリャームシンは、もう幹事のリボンを剥がれてしまった(もっとも『文学カドリール』に加わっているので、広間の中にい合わせたけれど)。しかし、リプーチンの跡をおそったのは、意外千万にもスチェパン氏との争いによってだれよりも一ばん朗読会をけがした例の神学生だし、リャームシンの後任は当のピョートルだった。こういう有様だもの、万事はおよそ想像がつくではないか!
 わたしは努めて、人々の会話に耳を澄ましたが、中には奇怪さにあきれ返るような意見もあった。たとえばある一団では、スタヴローギンとリーザの一件を仕組んだのはユリヤ夫人で、夫人はその礼として、スタヴローギンから金を取ったと断言したばかりか、その金額さえ明らかに名指すのであった。彼らの話によると、この会もその目的で開かれたので、町の人もことの真相を悟ったために、半分以上顔を出さないのだ、ところで亭主のレムブケーは、あんまり小っぴどくやられたので、『頭の調子を変にしてしまった』、そこでユリヤ夫人は気のちがった亭主を自由に操っているのだ、――この言葉と共に粗野な、しゃがれた、はらに一物ありげな笑声が、どっと起こった。舞踏会のことも同様おそろしくこき下ろしていたが、ユリヤ夫人にいたっては、もう頭から無遠慮に罵倒するのであった。全体として、これらの会話はだらしのない、途切れ勝ちな、ざわざわした、一杯機嫌の饒舌なので、よく咀嚼して何かの意味をつかもうなどということは不可能だった。
 この食堂には、ただなんという意味もなく陽気にはしゃいでいるような連中も陣取っていた。その間には幾たりかの婦人すら交っていたが、それはどんなことがあってもびくともしないしたたか者らしかった。おもに夫君同道の将校夫人で、恐ろしく愛嬌がよくて、陽気そうにしている。彼らは組を作って別のテーブルに向かいながら、ひどく愉快そうに茶を飲んでいた。こうして食堂は、集まって来た人々の半数のための暖い避難所という形になってしまった。けれど、いま少し経ったらこの群衆が、どやどやと広間へ押しかけて行くに相違ない、こう思ったばかりでも恐ろしい気がした。
 その間に、白い広間では例の公爵も加わって、三度ばかり貧弱なカドリールがあった。娘たちが踊ると親はそれを見てよろこんでいた。しかし、ここでもちょっと身分のある人々の中には、いいかげん娘をよろこばせたら、『おっ始まらないうちに』うまく逃げ出したいものだ、と考えている連中が大分あった。だれでもかれでも差別なしに、必ず『おっ始まる』に相違ないと固く信じていた。当のユリヤ夫人の心持ちを描き出すことは、わたしにとってほとんど不可能である。わたしはかなり間近く夫人の傍を通り過ぎたが、別に話はしなかった。入りしなに会釈をしたが、夫人はわたしに気がつかないで、それに答えようとしなかった(実際、気がつかなかったのだ)。その顔は病的な表情を呈して、目には嘲るような傲慢な色が浮かんでいたけれど、きょときょとと落ちつきがなく不安そうであった。見受けたところ、夫人は自分で自分を抑制しようと苦しんでいるらしい。いったいそれはなんのため、だれのためだろう? 彼女はぜひこの場を去って、夫を(これが最も大切なことである)連れて行かなければならなかったのだ。けれども、彼女は踏みとどまった! もはや顔を見ただけでも、夫人の『目はすっかりあいて』しまって、このうえ何物をも期待できないと覚悟しているのは、ちゃんと見えているのであった。夫人はもうピョートルを傍へ呼び寄せようともしなかった。こちらでもみずから夫人を避けているらしい(わたしは食堂で彼を見かけたが、恐ろしく陽気らしいふうであった)。が、それでも夫人は舞踏会に踏みとどまって、レムブケーをちょっとの間も放さないようにした。ああ、彼女は最後の瞬間までも、偽りならぬ心からの憤激をもって、夫の健康を云々する当てこすりをしりぞけたかったのである、今朝ほどでさえそうだったのだ。しかし、いま彼女の目は、この点に関しても、開かれなくてはならなかったのである。
 わたしはどうかというに、一目見るなりレムブケーの様子が、今朝よりずっと悪くなっているように思われた。まるで茫としてしまって、自分が今どこにいるかということすら、はっきりわかっていないらしかった。ときどき彼は思いがけない厳めしい顔をして、傍らを振り返ってみるのであった。わたしなども二度ばかり睨まれた。一度は何やら話そうとして、大きな声で口を切ったが、しまいまでいわずにやめたので、ちょうど傍にい合わせた一人のおとなしい老官吏などは、ほとんどおびえあがらないばかりだった。しかし、白い広間にい合わした公衆の中でも、このおとなしい部類に属する人たちでさえ、沈んだ様子でこそこそと、ユリヤ夫人をよけて通ったが、それと同時に、ひどく奇妙な視線を知事公のほう