京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP337-P360

よ。ところが、それがかえっていけないんです。読者は依然としておめでたいんですから、賢明なる人士は彼らに衝動を与えてやるべきじゃありませんか。それだのに、あなたは……いや、しかし、もうたくさんです、失礼しました。これを根に持って怒らないようにしてください。ぼくはちょいと用件を申し上げようと思って、それでお邪魔にあがったのですが、あなたはなんだか妙に……」
 レムブケーはその間に、自分の小説を取り上げて、楢の書戸棚へしまい込んだうえ、ぴんと鍵をかけてしまった。同時にブリュームに目交ぜをして、そっと部屋の外へ消えるようにいいつけた。こちらは間伸びのした浮かぬ顔をして、姿を消した。
「わたしがなんだか妙だって、なに、わたしはただ……しじゅう不快なことが起こるのでね」と彼は眉をひそめていたが、もう別に怒ったらしいふうもなく、テーブルに向かって腰をかけながらつぶやいた。
「まあ、腰でもかけてから、きみのいわゆるちょっとした用件を聞かしてくれたまえ。だいぶしばらく会わなかったね、ピョートル君、しかし、今後、きみ一流のやり口で、断わりなしに飛び込むのだけはやめにしてもらいたいね……時として仕事でもある場合には、その……」
「ぼくのやり口はいつも同じです……」
「知ってるよ。きみになんの成心[#「成心」はママ]もないのはわたしも信じてるが、しかし、どうかすると取り込んでることがあるので……まあ、坐りたまえな」
 ピョートルは長いすに広々と座を占めると、いきなり足を膝の下へ敷き込んでしまった。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

「いったいどんな取り込みなんです? まさかこんなくだらないことじゃないでしょうね?」と彼は檄文を顎でしゃくった。「こんな紙っ切れならいくらでも持って来てあげますよ。X州でもお目にかかりましたよ」
「というと、それはきみがあちらにいた時分のことだね?」
「むろん、ぼくのいなかった時のこっちゃありませんさ。おまけに、そいつはカットつきでしたよ。上のほうに斧が描いてあるんです。ちょっと失礼(と彼は檄文を取り上げた)。なるほど、ここにも斧がある。これです、これです、寸分相違なし」
「あっ、斧だ。ねえ、見たまえ、――斧だろう」
「どうしたんです、斧にびっくりしたんですか?」
「わたしは何も斧なんぞ……それに、何もびっくりしやしないよ。が、この事件はそのなんだ、いろんな事情があってね」
「どういう事情です? なんですか、あの工場から持って来たってことですか? へへ。ときに、ご承知ですか、あの工場では、近々労働者自身が檄文を書く、とかいう話ですね?」
「なんだってそんなことが?」とレムブケーは怖い顔をしながら、驚きの色を浮かべた。
「ええ、そうなんですよ。だから、あなたもあの連中に気をおつけなさい。あなたはあまり優し過ぎるんですよ、知事公。なにしろ、小説なんか書いていられるんですからね。こういう場合に当たっては、昔ふうにやる必要がありますよ」
「昔ふうとはなんだね、いったいそれはなんの忠告だね? あの工場は消毒したよ。わたしが命令して、消毒さしたんだよ」
「ところが、職工の間に一揆が企てられてますぜ。あいつらは一人のこらず、ぶん撲ってやらなくちゃ駄目ですよ、そうすれば、けりがつくのです」
一揆? ばかなことを。わたしが命令したから、あいつらはちゃんと消毒したじゃないか」
「ちょっ、知事公、あなたは本当に優し過ぎるんですよ」
「きみ、第一、わたしは全然そんな優しい人間じゃありゃしないよ。また第二に……」とレムブケーはまたしてもむっとした。この若造が何か耳新しいことをいいはせぬかと、好奇心にそそのかされて、いやいやながら我慢して、話しているのであった。
「ああ、もう一つ古い馴染みがある?」卦算の下になっているもう一枚のピラに狙いをつけながら、ピョートルは相手をさえぎった。それもやはり一種の檄文で、どうやら外国で印刷したものらしい。が、それはぜんぶ詩の形になっていた。「ああ、これならぼくはそらで知ってますよ。『光輝ある人格』でしょう! ちょっと見ようかな。いや、やっぱりそうだ、『光輝ある人格』だ。この人格は、まだ外国にいた時分からの知り合いだ。どこで掘り出しました?」
「外国で見たって?」レムブケーはぴくりとした。
「もちろんですとも、四か月か五か月ばかり前です」
「それにしても、きみは外国でいろんなものを見たんだね」レムブケーは皮肉な目つきをした。
 ピョートルはそんなことに耳もかさず、紙きれを広げ、声を出して読み始めた。

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   『光輝ある人格』

かれ名門の出《しゅつ》ならず
野《や》にありて人となりしが
ツァーの復讐《かえし》に虐げられつ
側臣の嫉みに迫われ
ありとあらゆる苦痛、刑罰、
はた拷問に身をゆだねつつ
四海同胞、自由平等の福音を
民に説かんと出で立ちぬ

かくして乱《らん》を惹き起し
牢獄、しもと、焼けたる火箸
首斬りの厄をのがれんと
ことなる国へ走りしが
反逆の覚悟なりたる人民は
きびしき運命《さだめ》を免れんと
スモレンスクタシケント
その隅々にいたるまで
大学生の帰来をば待ち佗びたりき

人みな彼を待ちこがれたり
――いかなることのあらんとも
貴族のやからに死を宣し
ツァーの族をも剿滅し
領地を民の有となし、教会、結婚
はた家族制、すべて往時の
あらゆる弊をとことわに
復讐の火に投げ入れんため
[#ここで字下げ終わり]

「きっとこれはあの将校から手に入れたんでしょう?」とピョートルはたずねた。
「きみはあの将校を知っているのかね?」
「当たり前ですよ。ぼくはあすこで二日間、いっしょに酒を飲んだんですもの。あの男がああした気ちがいになったのは、むしろ当然の結果なんですよ」
「しかも、ことによったら、気がちがったんじゃないかもしれんよ」
「それは、人に咬みつき出したからですか?」
「だが、ちょっと聞かしてもらおう。きみがこの詩を外国で見たというのに、その後、こちらであの将校が持っていたとすれば……」
「どうしたのです? 何か細工があるように思われるのですか! ねえ、知事公、見受けたところ、あなたはぼくをためしておられるようですね? いいですか」突然なみなみならぬ威を示しながら、彼はこういい出した。「ぼくが外国で見たことについては、帰国後もうだれかれの人に説明しておいたです。そして、ぼくの説明は、筋道の立ったものと認められました。そうでなかったら、ぼくはべんべんとここに滞在して、この町に光栄を与えるわけにいかないじゃありませんか。この意味において、ぼくのことはもう片がついたものと思っています。したがって、だれに対しても弁解の義務はもたないはずです。しかし、ぼくが密告者になりさがったために片づいたのじゃありません。ほかに仕方がなかったからにすぎません。奥さんに紹介状を書いてくれた人たちは、ちゃんと事情を知り抜いているから、ぼくのことを潔白な人間として認めてくれています。いや、しかし、そんなことはどうだってかまやしない。ぼくは真面目な話があって伺ったのです。ですから、あの煙突掃除にここを遠慮さしてくださったのは、ちょうどいい幸いでした。これはぼくにとって重大なことがらなんですよ。実は一つあなたに非常なお願いがあるのです」
「お願い? ふむ……さあ、ご遠慮なく、わたしも実のところ興味をもって聴きますよ。しかし、全体としていい添えとくが、きみはかなりわたしをびっくりさせるね、ピョートル君」
 レムブケーはいくらか胸を躍らしているようだった。ピョートルはやおら片足を膝の上へのせた。
「ペテルブルグでは」と彼は切り出した。「ぼくは多くの点で開放主義を持して来ました。しかし、何かその……つまり、こんなふうのことに関しては(彼は『光輝ある人格』を指でつっ突いた)。ぼくは沈黙を守っていました。それは第一、話すだけの価値がないからでもありますし、第二には、聞かれることよりほかしゃべらないようにしていますのでね。この意味で、お先っ走りは好まないですよ。ぼくはこういうところに卑劣漢と、単に周囲の状況で余儀なくされた潔白人と、この両者の区別を認めています……いや、まあ、そんなことはさておいてですね、つまり、目下……ああいう馬鹿者どもが……なに、ああいう事情が暴露されて、何もかもあなたの手中に握られた今日となっては、もう隠し立てしたって無駄だと思います――実際あなたは眼識のある人で、前もってあなたのはらを見透かすことは、とうていできませんからなあ。ところで、あの馬鹿者どもは今だに引き続いて……ぼくは……ぼくは……いや、まあ、手っとり早くいいますと、ぼくはある一人の男を助けていただこうと思って、こうしてお邪魔にあがったわけなのです。その男はやはり馬鹿なのです、いや、気ちがいかもしれません。しかし、その年の若さに免じて、不幸な境遇に免じて、またあなたの人道的なお心持ちに甘えて、しいてお願いにあがったのです……あなただってご自作の小説の中だけで、ああいう人道主義者を気取っておいでになるわけではないでしょう!」彼は露骨な皮肉の調子で、さもいらだたしげにとつぜん言葉を切った。
 要するに、この男は真正直な人間だが、人道的な感情があり余って、しかもそのうえ尻擽ったい立場に立っているために、下手にまごついてばかりいて、恐ろしく外交が拙い、それに何より知恵が少し足りないようだ、とレムブケーはさっそくきわめて鋭敏に鑑定を下してしまった。もっとも、このことはもう前から推測していたのだ。ことに最近の一週間は、毎晩、書斎にただ一人閉じこもって、どうしてあの男がああうまくユリヤ夫人にとり入ったものだろう、実にわけがわからんと、はらの中で一生懸命に彼を罵っていた時など、なおさらそう思い込んでいた。
「いったいきみはだれのことを頼んでいるんだね。それに、全体として、きみの言葉はどういう意味なんだね?」自分の好奇心を隠そうとつとめながら、彼はもったいぶった調子でこうたずねた。
「それは……それは……ちょっ、困ったなあ……実際、ぼくがあなたを信じてうち明けるというのは、何も悪いことじゃありませんからねえ! ぼくがあなたを潔白な、しかも、もののわかった、つまり、その……困ったなあ……なにを理解する能力のある人と考えるのが、いったいどこが悪いんでしょう……」
 かわいそうに、彼は自分で自分の始末に困っているらしかった。
「ねえ、いい加減あなたも察してくだすっていいでしょう」と彼は語を次いだ。「ねえ、ぼくがその男の名をいったら、結局その男をあなたに売ることになる、そういうわけじゃありませんか。ね、売ることになるでしょう、そうでしょう、そうでしょう?」
「きみが思い切っていい出さないのに、どうしてわたしにそんな察しがつくもんかね」
「そ、そ、それなんだ、あなたはいつもその論法で、挙げ足を取るんですもの。ちょっ、困ったなあ……ああ、困った……その『光輝ある人格』は、その『大学生』というのは――ほかでもない、シャートフですよ。さあ、いよいよいってしまいました!」
「シャートフ? というと、つまり、だれがシャートフなんだね?」
「シャートフです、ここに書いてある大学生です。現にここに住んでるのです。もとの農奴出身で、そら、ね、このあいだ頬桁を食らわした……」
「わかった、わかった!」とレムブケーは目を細めた。「しかし、失敬だが、その男がいったいどういう点で罪があるのかね? 第一、きみは何を請願しているのだね?」
「あの男を救ってくださいと、お願いしてるんじゃありませんか! ぼくは八年も前からあの男を知ってて、あの男の親友といってもいいくらいだったんですよ」ピョートルはやっきとなった。「いや、ぼくは何も昔の生活を、あなたに報告する義務なんぞ持ってやしないんです」と彼は手を振った。
「そんなのはみんなつまらないことです、そんなことはみんな、三人半ばかりの人間がやってることです。外国でやってる仕事だって、十人とは集まってやしませんよ。とにかく、ぼくはあなたの人道的な感情と、聡明な頭脳に希望を繋いでるのです。あなたは理解してくださいます。あなたはことの真相をありのままに示してくださいます。けっして、とんでもない妄想など起こさないで、気ちがいじみた男の愚かな夢にすぎないってことを、ちゃんと了解してくださいます――まったくその男は不幸のために……長年の不幸のために、頭が変になったのです。けっして何かとんでもない、国事犯だの陰謀だのなんのと、そんな大それたことじゃありません……」
 彼はほとんど息を切らしていた。
「ふむ……では、その男はどうやら斧のついた檄文に関して、何か罪があるらしいね」ほとんど荘重ともいうべき調子で、レムブケーは結論を下した。「しかし、待ってくれたまえ、もしその男が一人きりだとすると、どうしてそんなに方方へ撒き散らせたんだろう。この町や地方ばかりでなく、X県のほうへまで……それに、第一、どこから手に入れたんだろう?」
「先刻からそういってるじゃありませんか、あの連中は全体で五人くらいのもんですよ。まあ、十人もいますかね、そんなことはぼくの知ったこっちゃない」
「きみ、知らないって?」
「どうしてぼくが知ってるもんですか、馬鹿馬鹿しい!」
「でも、シャートフが共謀者の一人だということを、現に知っとったじゃないか?」
「ええ?」とピョートルはさながら、詰問者の圧倒的な洞察力を払い除けるように、手を振った。「まあ、お聴きなさい。ぼくは本当のことをすっかりいってしまいます。檄文のことはなんにも知りません、まったく正真正銘なんにも知らないです。馬鹿馬鹿しい、あなた『なんにも』という言葉の意味をごぞんじでしょう?………いや、あの中尉はむろんそうです。それから、まだこの町にもだれか一人……いや、まあ、シャートフかもしれません。そのほかにもまだだれかいるでしょうよ。それくらいのもんです。まったくやくざな、惨めなもんですよ。しかし、ぼくはこのシャートフのことをお願いに来たのです。あの男を救ってやらなきゃなりません。なぜって、この詩はあの男の自作だし、印刷もあの男の手を経て外国でやったものです。これだけのことはぼくも確かに知っています。が、檄文のことはまったく少しも知りませんよ」
「もしこの詩が当人の自作だとすれば、檄文も確かにそうだろう。しかし、どういう事実を根拠にシャートフ君を疑うんだね?」
 ピョートルはいよいよ勘忍袋の緒を切らしたような表情をして、かくしから紙入れを取り出した。そして、中から一通の手紙を抜き出した。
「これがその根拠です!」テーブルの上へ手紙をほうり出しながら、彼はこうどなった。
 レムブケーは広げて見た。見ると、手紙は半年ばかり前にここから外国のどこかへ宛てて書いたもので、二行ばかりのごく短いものだった。
『光輝ある人格の印刷当地にては不能、かつ余は何一つなす能わず、外国にて印刷せられたし。イヴァン・シャートフ』
 レムブケーはじっとピョートルを見据えた。ヴァルヴァーラ夫人がこの人のことを、山羊のような目をしていると評したのは、真を穿っていた。時とすると、しみじみその感が深かった。
「つまり、それはこういうわけなんですよ」とピョートルは勢い込んでいった。「つまり、この男は半年ばかり前にこの詩を書いたのです。ところが、ここで印刷することができなくなって、――つまり、何かの秘密出版所なんですよ、――それで、外国で印刷してくれと頼んでるのです……明瞭にわかるようですね?」
「そう、明瞭です。しかし、だれに頼んでるんだろう? それがまだ不明瞭だね」きわめて老獪な皮肉を持たせながら、レムブケーはこういった。
「キリーロフじゃありませんか、本当にじれったい。この手紙は外国にいるキリーロフに宛てたものです……いったいごぞんじなかったんですか? 本当にあなたは何かぼくに癪にさわることでもあるんですか? だって、あなたはそんな白っぱくれた振りをして、その実、とうの昔からこの詩のことでもなんでも、すっかり知っておられたのでしょう? どうしてあなたのテーブルの上なんかに、ひょっくりのっかってたんです? まさかひとりでのっかったわけでもありますまい? もしそうとすれば、なんだってあなたはぼくをそういじめるんです?」
 彼は痙攣的に額の汗をハンカチで押し拭った。
「わたしにも多少は知れてることがあるかもわからんさ……」とレムブケーは巧みにごまかした。「しかし、そのキリーロフというのは何者だね?」
「ええ、それはよそからやって来た技師で、例のスタヴローギンの介添人をした男です。夢中になってものに凝る、気ちがいみたいな人間ですよ。あの中尉が、本当に熱に浮かされた一時的の精神錯乱とすれば、まあ、この男なぞは正真正銘の立派な気ちがいです、その点はぼく十分に保証します。ねえ、知事公、政府のほうでも、この連中が実際どんな人間かってことを確かめたら、まさか手を下す気にはならなかったでしょう。あんなやつはみんな残らず、そのまま癲狂院へでも送ってやったらいいですよ。ぼくはスイスにいる時もいろんな集会で、あんな連中を飽き飽きするくらい見ましたよ」
「あちらで? ここの運動を支配してる本場で?」
「え、いったいだれが支配するんです? 三人半ばかりの人間ですか。実際あの連中を見てると、しみじみ情けなくなりますよ。それに、ここの運動って、全体どんな運動があるんです? 檄文のことでもいわれるんですか? それに、どんな人間が加入してるんでしょう? 熱に浮かされた中尉殿に、二人か三人の大学生ですかね? あなたは聡明なかたですから、一つ質問を提出しましょう。どうしてあの連中の仲間には、勝れた人物が加入しないんでしょう。なんだってだれもかれも大学生だの、二十二かそこらの小僧っ子ばかりなんでしょう? それにそんなに多いんですかね? 何百万という犬がさがし廻っているにもかかわらず、あまり挙がってこないじゃありませんか。七人かそこいらのもんでしょう。まったく情けなくなってきますよ」
 レムブケーは注意ぶかく聴いていたが、『昔話じゃ鶯は飼えないぞ』というような表情をしていた。
「しかし、失敬だが、きみの確信するところによると、この手紙は外国へ宛てて出したというのだね。けれど、ここに宛名がないじゃないか。この手紙がキリーロフ氏に宛てたもので、しかも外国へ向けて出したということが、どうしてきみにわかったんだろう。それに……それに、はたして本当にシャートフ氏が書いたということが……」
「じゃさっそく、シャートフの筆蹟をさがして、ご覧になったらいいでしょう。何かシャートフの署名が一つくらい、きっとあなたの事務所にあるはずですからね。またキリーロフに当てたということは、本人のキリーロフが当時ぼくに見せてくれたのでわかります」
「じゃ、きみが自分で……」
「ええ、ええ、もちろんぼくが自分で見たのです。ぼくにはいろんなものを見せてくれましたよ。ところで、この詩ですな、これは亡くなったゲルツェンが、まだ外国を放浪している時分に、邂逅の記念のためだか賞讃のためだか、それとも紹介のつもりだか、まあ、そんなことは知りませんが、なんでもシャートフに書いてやったんだそうです。それで、シャートフはこいつを若い連中の間に吹聴して廻ってるんです。これがゲルツェン自身のぼくに関する意見だ、とかいってね」
「な、な、な」やっとのことで、レムブケーはすっかり腑に落ちた。「それでわたしも変に思ったんだよ。檄文、――それだけならわかってるが、詩なんか、いったいなんのために刷ったんだろうと思ってね」
「まあ、あなたはどうして合点がゆかないんでしょう。ちぇっ、馬鹿馬鹿しい、いったいぼくはなんのために今まであなたにしゃべり立てたんだろう! いいですか、どうかぼくにシャートフを渡してください。もうこうなったら、ほかの連中なんかどうなろうとかまやしない。キリーロフだってどうなと勝手になさい。あの男は、シャートフの住まっているフィリッポフの持ち家に閉じこもって、じっと隠れ込んでるのです。あの男はぼくを好かないんですよ。なぜって、ぼくがこちらへ帰って……とにかく、シャートフのことだけはぼくに約束してください。その代わり、ほかの連中は一皿に盛り上げて、あなたの膳にすすめますよ。ぼくだって役に立ちますぜ、知事公! ぼくの考えでは、あのみじめな連中はみなで九人か、――十人くらいのものだと思います。ぼくはあの連中の様子を探ってるんです。個人としてね。今のところ、三人だけわかっています。シャートフと、キリーロフと、それからあの中尉さんです。後の連中はまだやっと見当をつけている[#「見当をつけている」に傍点]ところで……ぼくもまんざらの近眼じゃありませんよ。まあ、ちょうどあのX県と同じようなもんですよ。あそこで檄文事件でつかまったのは、大学生が二人に中学生が一人、はたちばかりの貴族が一人に小学教師が一人、それから酒のために耄碌した六十ばかりの退職少佐、これだけなんです。まったくのところ、これっきりなんですからね。しかし、六日の日数がいりますね。ぼくはもう算盤をはじいて見たが、六日はかかります。それより早くというわけにいきません。もし何かまとまった結果が見たかったら、六日の間はあの連中をそっとしておいてください。ぼくは一《ひと》網にすっかり挙げてしまいます。もしそれより以前に手を出したら、せっかくの巣を散らしてしまいますよ。しかし、シャートフはぼくにください。ぼくはシャートフのためになら……一番いい方法としては、秘密にあの男を呼び寄せて、親友的な態度でこの書斎なり、どこなりへ通してですね、彼らの内幕をさらけ出して見せて、一つ試験してやるんですな……そうすれば先生、きっとあなたの足もとに身を投じて、声をあげて泣き出すに相違ありません! あれは神経質で不幸な男なんです。あの男の細君は、スタヴローギンと勝手な真似をしているんですからね。実際すこし優しくしてやったら、あの男はすっかり自分のほうからぶちまけてしまいますよ。しかし、六日の猶予はどうしても必要です……ところで、何よりも、その、何よりも奥さんに一言半句も洩らさないことが、もっとも肝腎な点なのですよ。秘密が守れますか?」
「なんだって?」とレムブケーは目を剥き出した。「きみはユリヤにもまだ何も……うち明けていないのかね?」
「奥さんにですか? とんでもない! ねえ、知事公! 一つまあ聞いてください。ぼくは奥さんの友情を非常にありがたく思って、心から奥さんを尊敬しておりますし……その、すべてなんですが……しかし、けっして迂濶なことはしゃべりません。ぼくは奥さんに反対するわけじゃありません。なぜって、奥さんに楯つくのは、あなたもご承知のとおり、きわめて危険ですからね。もっとも、ちょっと一言くらい匂わしたかもしれません。それが奥さんの好物ですから。けれど、今あなたに申し上げたように、名前を洩らすとかなんとか、そんなことは、あなた、どうしてどうして! 実際、いまぼくがこうしてあなたにうち明けるのは、どういうわけでしょう? ほかじゃありません、なんといっても、あなたが男だからです。昔からしっかりした勤務上の経験をもった、真面目なお方だと思うからです。あなたは酸いも甘いも噛み分けた人です。あなたは例のペテルブルグ一件の例もあるから、こういうことにかけたら、ぴんからきりまでわかっていらっしゃるはずです。ところが、奥さんに今の二人の名でもいおうものなら、あの方はさっそく方々へ触れ廻しておしまいになります……奥さんはここからペテルブルグをあっといわしたくて、たまらないんですからね。いやまったく、あまりご熱心な質でしてね、実際!」
「そう、あれはまったくそうした癖が少々あってね」このぶしつけ者が自分の妻のことをあまり無遠慮に批評するのを、心のうちで大いにいまいましく感じながら、同時にいくぶん小気味がよいといったような顔つきで、レムブケーはこうつぶやいた。
 ピョートルは、これだけではまだ不十分だ、もっともっと馬力をかけてご機嫌を取ったうえ、十分に『レムブケー』を手のうちにまるめ込まなければならぬ、とこんなふうに考えたらしい。
「いや、まったく癖ですね」と彼は相槌を打った。「実際あの方は天才的な、文学趣味のある婦人かもしれませんが、せっかく集まった雀を追い散らしておしまいになりますよ。六日はさておき、六時間と辛抱ができないんですからね。まったくですよ、知事公、婦人に六日などという期限を押しつけるもんじゃありませんよ! ねえ、ぼくが多少の経験を持ってることを、あなたも認めてくださるでしょう、つまり、こういう方面に関してね。ぼくもちょいちょい知ってることがあります。ぼくがちょいちょいいろんなことを知っているはずだとは、あなたご自身も認めておられるでしょう。ぼくが六日の期限をお願いするのは、けっして彼らを容赦するからじゃありません、実際、必要があるからです」
「わたしも少しくらい聞いている……」レムブケーは確たる意見をいい渋った。「きみが外国から帰った時、その筋に対して……その懺悔というような意味で、何か申立てをしたということは聞いているがね」
「ええ、そんなことぐらいありましたさ」
「それは、もちろん、わたしもあえて立ち入ろうとは望まない……しかし、わたしの目から見ると、きみはここでぜんぜん別な性質の意見を今まで吐いているように想像していたんだがね。たとえば、キリスト教の信仰だとか、社会的施設のことだとか、ないしは政府のことだとか……」
「ぼくだっていろんなことをいいましたさ。今だってやはりいっていますよ。ただそういうふうの思想を、あんな馬鹿者たちと同じような具合に実行するのじゃない、そこが肝腎な点なのですよ。人の肩に咬みついたって何になるのです? あなただって、ぼくの意見に同意してくだすったでしょう、ただ時期が早すぎるということで」
「わたしはなにもそのことに同意したわけじゃない。その意味で、時期が早いといったんじゃないよ」
「しかし、あなたは一こと一こと穿鑿しながら、ものをいってらっしゃいますね、へ、へ! なかなか用心ぶかいかただ!」突然ピョートルが面白そうにいった。
「ねえ、あなた、とにかく、ぼくはあなたという人物を見極める必要があったのです。それだから、ぼくは自己一流の方法で話したんでさあ。これはあなた一人きりじゃない。いろんな人に対して、こんなふうの研究をするのです。ぼくは、まあ、あなたの性格を十分に知悉したかったのです」
「なんだってわたしの性格がきみに必要なんだね?」
「なんのために必要なのか、そんなことぼくが知るもんですか(と彼はまた大声で笑った)。ねえ、閣下、あなたはまったくずるいですよ、しかし、それ[#「それ」に傍点]までにはいたっていません、またきっとそういう時機は来ないでしょう、おわかりになりますか? たぶんおわかりになるでしょう? ぼくは外国から帰った時、その筋の人にある申立てはしましたが、しかし、ある信念をいだいている人間が、その誠実な信念のために行動するわけになぜいかないんでしょう、とんと合点がゆきませんねえ……とにかく、ぼくはあちら[#「あちら」に傍点]で、だれにもあなたの性格を注文されたこともなければ、またあちら[#「あちら」に傍点]からそんな注文を受け取った覚えも、かつてありません。一つとくと合点していただきたいのです。ぼくは今の二人の名前を、最初あなた一人にうち明けないで、いきなりあちら[#「あちら」に傍点]ヘ――つまり、ぼくが初めて申立てをしたところですな――あちら[#「あちら」に傍点]へ知らせてやることもできたのです。これがもし経済関係から、つまり利益を念頭において骨を折ってるとすれば、それはもちろん、ぼくの算用違いといわなきゃなりません。なぜって、今度は感謝を受けるのはあなたばかりで、けっしてぼくじゃないですからね。ぼくはただただシャートフのためにお願いするのです」とピョートルは潔くつけ足した。「ぼくは以前の友情を思って、シャートフのために、お願いするんです……ところでですな、あなたが筆をとって、あちら[#「あちら」に傍点]へ報告される場合、まあ、ぼくのことを賞めてくださるとする……そんな時にはぼくもけっして異存ありませんよ、へ、ヘ! ときに、もうさようならにしましょう、ずいぶん長座をしましたよ。それに、こんなおしゃべりをする必要はなかったのです!」と、いくぶん愛嬌を見せながらいい足して、彼は長いすから立ちあがった。
「それどころじゃない、わたしはかえって事件がだんだんはっきりして来るので、たいへん喜んでいたくらいだ」明らかに最後の一句が利いたらしく、レムブケーも愛想よげに立ちあがった。「わたしは感謝の意を表して、きみのお骨折りを受けるよ。きみの労に対するわたしの推薦という点に関しては、きみ、安心していてくれたまえ……」
「六日間ですよ、肝腎なのは六日間の期限ですよ。そのあいだ手を出さないようにしていただきたい、これがぼくにとって必要なんですよ」
「よかろう」
「もちろん、ぼくはあなたの手を縛ろうとするのじゃありません。あなただって探査せずにはいられないでしょうけれど、ただ期限以前にやつらの巣を脅かしちゃいけませんよ。この点に関して、ぼくはあなたの頭脳と経験に非常な期待をかけてるのです。ところで、あなたはずいぶんたくさん猟犬を飼っておいででしょうなあ、その、いろんな密偵をね、へ、へ!」とピョートルはうきうきした軽はずみな調子で(これは若い人の癖なのだ)、真正面からぶっつけた。
「まんざらそうでもないがね」とレムブケーは気持ちよさそうに相手の鉾先を避けた。「それは若い人の偏見だよ、そうたくさん飼っておくなんて……しかし、ついでにちょっと一つききたいことがあるんだがね。ほかじゃない、もしあのキリーロフが、スタヴローギンの介添人になったとすれば、スタヴローギン氏もやはり……」
「スタヴローギンがどうしたんですって?」
「つまり、二人がそんなに親しい仲だとすれば……」
「とんでもない、違います、違います、違います! あなたもなかなかずるい人だけれど、とうとうぼろを出しましたね。ぼく面くらっちまいましたよ。このことについては、あなたも相当事情に通じていられることと思ってましたよ……ふむ……スタヴローギン……あれはまったく正反対の位置に立ってるんですよ、つまり、全然…… avis au lecteur.(ちょっとご注意までに申し上げます)」
「どうだかね! まさか……」とレムブケーは疑わしげにいった。「わたしはユリヤから聴いたのだが、あれがペテルブルグから受け取った通知によると、あの男は一種の内命を授かってるとか……」
「ぼくはなにも知りません、すこしも知りません、まったく少しも。Adieu. Avis au lecteur.(さようなら、ちょっとご注意までに申し上げたのです)」ピョートルは急にありありと逃げを打ち始めた。
 彼は戸口のほうへ飛んで行った。
「ちょっと、きみ、ピョートル君。ちょっと!」レムブケーは叫んだ。「もう一つ、ちょっとした用事があるんだ。それでもうきみを引き留めはしないよ」
 彼はテーブルの抽斗から、一つの封筒をとり出した。
「やはり同じような種類に属するしろ物なんだ、これをきみに見せるんだから、わたしがどれくらいきみを信用しているか、察してくれたまえ。さあ、きみのご意見はどうだね?」
 封筒の中には一通の手紙が入っていた――それはレムブケーに宛てた怪しい無名の手紙で、つい、きのう受け取ったばかりなのである。ピョートルはいかにもいまいましそうな様子で、次のとおり読みくだした。

[#ここから1字下げ]
『閣下!
実際、官等からいえば、貴殿は閣下なのだから、こう呼んでおく。この手紙をもってぼくはすべての顕官ならびに祖国に対する陰謀を通報する。すでに事態は勢いそうなっていってるのだ。ぼくは自身で長年の間、絶えず檄文を撒き散らしてきた。同時にまた無神論も宣伝した。暴動の準備は着々進捗している。幾千という檄文が撒かれたが、もし政府が前もって没収しなければ、百人ばかりの人間が一枚一枚、舌を吐きだしながら追いかけている。つまり、彼らは莫大な報酬を約束されているからである。なにしろ一般人民は馬鹿なものだ。それにウォートカというやつもある。人民は罪人を尊敬して、罪人も官憲もどちらも搾っているのだ。ぼくはどっちを向いても恐ろしいので、おのれの関知しない事件に対して、慚愧の意を表している。なぜなら、ぼくの事情がそんなふうになってしまったからだ。もし祖国と教会と聖像を救うために、密告してほしいとならば、それをなしうるのはぼくを措いて他にだれもない。ただし、即刻第三課から電報で、ぼくをゆるすという命令を発することを条件にしてもらいたい。それはぼく一人だけでよろしい、ほかの連中は勝手に罪に問われるがいい。どうか毎晩七時になったら、玄関番の窓に合図の蝋燭を立ててもらいたい。それを見たら、ぼくも首都から差し伸べられた慈悲の手を信じて、それを接吻に来ることにする。しかし、年金下賜の条件付でなくてはならぬ。でなかったら、ぼくは生計の方法が立たないのだ。貴殿はけっして後悔などすることはない。貴殿は勲章を授かるに決まっている。が、とにかく機密を要する。でないと、首を捩じ取られる。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から4字上げ]閣下の足元に身を投じたる絶望の男
[#地から1字上げ]悔悟せる自由思想家(Incognito)』

 フォン・レムブケーの説明によると、手紙はきのう玄関番部屋へ、人のいない暇を見て投げ込まれたのである。
「で、あなたはどう思うんです?」ほとんど不作法といっていいくらいの調子で、ピョートルはこうたずねた。
「わたしの考えでは、これはからかい半分の落首にすぎないらしいよ」
「大方そんなところが落ちでしょう。あなたに一ぱいくわすわけにゃいきませんからなあ」
「なに、わたしはあんまり馬鹿げてるから、そう考えるんだ」
「あなたはここへ来てから、まだほかにこんな落首を受け取ったことがありますか?」
「二度ほど受け取ったよ、無名の手紙をね」
「そりゃ、もちろん、署名なんかしませんさ。みんな違った文体で? 手もまちまちで?」
「みんな違った文体で、手もまちまちだ」
「やはりこれと同じようなふざけたものですか?」
「そう、ふざけたものだ、そしてね、きみ……実に醜悪なんだよ」
「なるほど、もう今までもそういうことがあったとすれば、今度もやはり同じこってすよ」
「つまり、わたしはあまり馬鹿げてるもんだから……実際、あの連中は教育があるんだから、けっしてこんなことを書きゃしないものね」
「ええ、そりゃそうですとも」
「しかし、だれか本当に密告しようと思っているんだったらいったいどうしたもんだろう?」
「そんなことがあるもんですか」ピョートルはにべもなく打ち消した。「いったい第三課の電報とか、年金とかいうのは何事です! 見え透いた悪戯ですよ」
「そうだ、そうだ」とレムブケーは鼻白んだ。
「ねえ、知事公、この手紙をぼくに貸してください。ぼくきっとさがし出してあげます。例の連中よりさきにさがし出してあげますよ」
「持って行きたまえ」いくぶん躊躇の気味でレムブケーは承諾した。
「あなただれかにお見せになりましたか?」
「いや、どうしてそんなことを! だれにも見せやしない」
「というと、奥さんにも?」
「おお、とんでもない。きみもお願いだから、あれに見せないでくれたまえ?」とレムブケーはおびえあがって叫んだ。「そんなことをしたら、びっくりしてしまって……ひどくわたしにくってかかるに相違ない」
「そうですなあ、あなたは一番やっつけられますなあ。こんな手紙を受け取る以上、あなたはこんなことを書かれるだけの値打ちしかないのだ、てなことをいってね。婦人の論理は、ちゃんと先刻承知していますからね。じゃ、さようなら。ぼくはことによったら三日間位で、この手紙の筆者を突き出して見せるかもしれません。しかし、何よりも、例の約束を忘れないように願いますよ」

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 ピョートルは実際、目はしの利く男だったかもしれない。しかし懲役人のフェージカが、『あの人は自分で人のことをこうと決めてしまって、それで安心してるたちの人なんですよ』といったのは、真を穿っている。彼はレムブケーのもとを去る時に、少なくとも六日間は知事の心を落ちつけたと信じ切っていた。この六日という期限は、彼にとって是が非でも必要なのだった。しかし、その目算は間違っていた。何もかも、彼の独り合点がもとになっていたのである。彼はもうてんから、レムブケーを箸にも棒にもかからない間抜け者に、決めてかかっていた。
 レムブケーはすべて病的に疑り深い人の常として、何か未知の境から一歩ふみ出した瞬間には、いつも嬉しさのあまり、過度に信じやすくなる。何か局面が一転したような場合には、いろいろ面倒な事情が新たに持ちあがりはするものの、初めはちょいと具合よく運びそうに思われた。少なくも、以前の疑念は、跡形なく消え失せるのであった。そのうえこの数日間、彼ははなはだしく疲労を覚えてきた。まるでへとへとになって、気力も何も尽き果てたような心持ちがしはじめたので、彼の心は自然と安静を渇望するようになった。が、悲しいことに、彼はまたしてもその安静を失ったのである。長年のペテルブルグ生活は、彼の心に消え難い痕跡を残した。『新しき世代』の表面的な推移も、その秘密な運動も、彼にはかなりよくわかっておった。彼は好奇心のさかんな男だったから、檄文なぞもずいぶん蒐集した、――が、その運動の意味がどうしてもてん[#「てん」に傍点]からわからなかった。ところが、今度はまるで深い森に迷い込んだようなものである。彼はあらゆる直覚力を働かして、こういうことを感得した。ピョートルの言葉の中には、形式や約束を無視した、何かこう、ぜんぜん辻褄の合わないところがある。『もっとも、この新しき世の中からどんなものが飛び出すか、まるで見当がつかないんだからなあ。それに、どんなふうにそいつが生長してゆくのか、こんりんざいわかりっこありゃしない!』こう考えてるうちに、思想がめちゃめちゃにこぐらかってしまった。
 その時、ちょうど狙ったように、またもやブリュームが、彼の部屋へ顔を覗けた。ピョートルの来訪中、彼はほど遠からぬところで待っていたので。このブリュームは、レムブケーの遠い親戚に当たるのだが、それは一生涯、細心な注意をもって隠蔽されていた。わたしはこの取るに足らぬ人物のために、ここで、数言を費すのを読者に許してもらわねばならぬ。ブリュームは『不幸なドイツ人』という、奇妙な種族に属していた。が、けっして持ち前の極端な無能が原因ではなく、どういうわけか皆目わからないのであった。『不幸なドイツ人』は神話でもなんでもなく、現実界、いな、ロシヤにすら存在していて、自己独得の典型を有しているのだ。レムブケーは感心なほど彼に同情を寄せ、勤務上の成功を獲得するにしたがって、事情の許す限り、いたるところで部下の椅子に坐らすようにしていた。しかし、彼はどこへ行っても運が悪かった。時にはその椅子が定員外になったり、時には長官が変わったりした。一度なぞはほかの連中といっしょに、ほとんど裁判所へ突き出されないばかりの目に遭った。彼はきちょうめんだったが、しかし必要もないのにきちょうめんすぎるくらいだし、またあまり陰気な性分のために損ばかりしていた。髪の赤い、背の高い、猫背の沈んだ男で、非常に感傷的なたちだった。意気地のないくせに強情で、まるで牛のように頑固だったが、その力瘤の入れ方が、いつも見当ちがいなのである。彼は妻や大勢の子供らと同じように、長の年月レムブケーに対して敬虔な信服の情をいだいていた。彼を好く者は、レムブケーのほか一人もなかった。ユリヤ夫人はさっそく彼を排斥にかかったが、しかし、夫のかたくなな同情を征服することはできなかった。これが彼らの最初のいさかいだった。それは結婚後まもない蜜月の初め頃、突然ブリュームが夫人の前に現われた時に端を発したのだ。それまでは、夫人にとっていまわしい親戚関係とともに、小心翼々として夫人の目から隠されていたのである。レムブケーは、両手を合わせて拝みながら、感傷的な調子でブリュームの身の上と、ごく小さいときからの二人の友情を物語った。けれど、ユリヤ夫人は、自分が永久に穢されたもののように感じて、気絶という武器まで応用して見せた。が、それでもレムブケーは一歩も譲らなかった。そして、どんなことがあろうとも、ブリュームを見棄てたり、身辺から遠ざけたりしない、と宣言した。で、とうとう夫人もあきれ返って、ブリュームを置くことを許さざるをえなくなった。ただ親戚関係のあることは、今までよりも一段と気をつけて、できるだけ隠すことに決められた。ブリュームの名前と父称も変えることになった。どういうわけか、ブリュームも同じように、アンドレイ・アントーノヴィチと呼ばれていたからである。
 ブリュームはこの町へ来ても、あるドイツ人の薬剤師のほかには、だれひとり知己をこしらえようともしなければ、どこを訪問してみようともしなかった。ただこれまでの習慣で、けちけちと淋しい生活を送っていた。彼は久しい以前から、レムブケーの文学道楽を知っていた。彼はいつも決まって呼び出され、内証でさし向かいに、自作小説の朗読を聞かされるのであった。大抵ぶっ続けに六時間くらい、じっと棒のように坐りとおしていた。そして、居睡りをしないで微笑を浮かべるために、汗を滲ませながら渾身の力を緊張させた。家へ帰ると、足の長い痩せひょろけた細君とともに、ロシヤ文学に対する恩人の情けない弱点を、互いに嘆き合うのであった。
 レムブケーは苦痛の表情で、入り来るブリュームを見やった。
「プリューム、お願いだから、わたしにかまわんとおいてくれ」彼は不安げに早口でこういった。ピョートルの来訪によって妨げられたさきほどの会話を、ふたたび新たにするのを避けようと思っているらしい。
「けれども、それはまったく婉曲な方法で、少しも世間へ知れないように実行できるのです。あなたはあらゆる権能を授けられていらっしゃるのですから」背中をかがめて小刻みな足取りで、じりじりレムブケーのほうへ詰め寄りながら、うやうやしい調子ではあるが執拗な態度で、彼は何やらしきりに主張していた。
「ブリューム、きみはあくまでわたしに信服して、わたしのためにつくしてくれるので、わたしはいつもきみを見るたびに、恐ろしさに胆を冷やすじゃないか」
「あなたはいつも何か気の利いたことをおっしゃいます。そして、自分で自分の言葉に満足して、穏かな夢を結ばれるのです。ところが、それがあなたを毒しているのじゃありませんか」
「ブリューム、わたしはたったいま十分に確信をえた、そんなことはすっかり見当ちがいだよ、まるで見当ちがいだよ」
「それはあのいかさま者の、根性骨の曲った若造の言葉を本当にされたからでしょう。あなたご自身も、あの男を疑ぐっていられるじゃありませんか? やつはあなたの文学上の才能を、お世辞たらたら賞めちぎって、あなたを手のうちへまるめ込んだのです」
「ブリューム、きみは何もわからないのだ。きみの計画は愚の骨頂だと、そういってるじゃないか。そんなことをしたところで、何一つ見つけ出すことができないで、ただ恐ろしい騒ぎを持ち上げるばかりだ。それから続いて嘲笑、その後からユリヤ……」
「いえ、わたしたちが求めているものは、すっかり見つかるに相違ありません」右手を胸に当てながら、ブリュームは毅然たる足取りで、一歩知事のほうへ踏み出した。「家宅捜索はふいにやったほうがいいです、朝早く。そして、私人に対する礼儀も、法の厳格な形式も、十分に守るのはもちろんです。リャームシンとか、チェリャートニコフとかいう若い連中は、必ずわれわれの望むものをすべて発見できると、立派に断言しておりますよ。あの連中は、たびたびあすこへ出入りしていましたからね。ヴェルホーヴェンスキイ氏に同情をいだいてるのは、だれ一人ありゃしません。スタヴローギン将軍夫人も公然と、あの人の保護を断わってしまいました。潔白な心を持った人間は(この俗な町に、そんな人間があるとすればですよ)、不信と社会主義的伝道の源が、いつもあすこに隠れていたと信じます。あの人のところには、国禁の書物がすっかり保存されています。ルイレーエフ([#割り注]プーシキンの友、十二月党員、死刑に処せられる[#割り注終わり])の『想い』もゲルツェンの全集も……わたくしは万一の場合のために、概略の目録をこしらえておきました」
「おいおい、何をいってるんだ、そんな本はだれでも持ってるじゃないか、お前はどうも頭が単純だから困るよ、ブリューム!」
「それに檄文もたくさんあります」相手の言葉は耳にも入れず、ブリュームはつづけた。「そして最後に、この町の檄文の本当の出処を突き止めようじゃありませんか。あの小ヴェルホーヴェンスキイも、いたって怪しい人物ですからね」
「しかし、きみは、親父と息子をごっちゃにしているじゃないか。あの二人は折合いが悪いんだぜ。息子は公然と親父を笑い草にしてるじゃないか」
「それはただの仮面です」
「ブリューム、きみはわたしを苦しめようという誓いでも立てたのかい! 考えてもみたまえ、あの人はなんといってもここの名士だよ。もと大学の教授だったんだぜ。あれでなかなか世間に知られた人だから、あの人が公然と世論に訴えてみたまえ、すぐ町中の笑い草になって、ひどい味噌をつけてしまうじゃないか……それに、ユリヤがどんなにいうか、まあ、考えてみたまえ……」
 ブリュームはなおも前へ前へと乗り出して、ろくろく耳をかそうともしなかった。
「あの人はただの助教授だったのです。ほんの助教授に過ぎません。官等からいっても、退職の八等官です」彼は胸をとんと叩いた。「勲章一つ持ってるわけじゃありませんし、おまけに反政府的陰謀の嫌疑で免職されたんですよ。あの人は以前秘密監視を受けていました、今でもきっとそうに違いありません。それに、こんど暴露された不体裁な事件の関係からいっても、あなたはそれだけのことを実行する義務を持っておられます。それだのに、あなたはかえって真犯人に手ぬるい態度を取って、殊勲を現わす機会をわざわざ逸しておられるのです」
「ユリヤだ! 早く出て行きたまえ、ブリューム!」隣室で妻の声を聞きつけたレムブケーは、出しぬけにこう叫んだ。
 ブリュームはびくりとしたが、それでも容易に屈しなかった。
「さあ、許可を与えてください、許可を」いっそう強く両手を胸に当てながら、彼はまたもや前へ攻め寄せた。
「出て行かんか!」とレムブケーは歯咬みをした。「どうともしたいようにするがいい……あとで……ああ、なんということだ!」
 とばりがさっとあがって、ユリヤ夫人が姿を現わした。ブリュームの姿が目に入ると、彼女はものものしい様子で立ちあがりながら、まるでこの男がここにいるというだけのことが、彼女にとって侮辱ででもあるかのように、尊大な腹立たしげな目つきで、じろりと彼を見やった。ブリュームは無言のまま、うやうやしく腰を深くかがめて、夫人に一揖すると、尊敬の意を表するために体を二つに折りながら、ちょっと両手を左右に拡げ、爪立ちで戸口のほうへおもむいた。
 最後にレムブケーの発したヒステリックな叫び声を、本当にお前の請求どおりにしろという許可の意味に解したのか、それとも結果の成功を信じ過ぎたために、てもなく恩人の利益を図るつもりで、わざとこの言葉の意味を曲解したのか、とにかく後に説くとおり、この長官と部下の会話からして、多くの人に腹をかかえさせるような思いがけない出来事が始まったのである。この出来事は世間へぱっと知れ渡って、ユリヤ夫人の猛烈な憤怒を呼び起こしたばかりでなく、そうしたさまざまな結果を伴なったために、すっかりレムブケーをとほうにくれさせ、もっとも多事多端な時に、何より悲しむべき優柔不断な心持ちに陥れてしまったのである。

[#6字下げ]5[#「5」は小見出し

 それはピョートルにとって忙しい日であった。フォン・レムブケーのもとを辞すると、彼は大急ぎでボゴヤーヴレンスカヤ街さして駆け出した。しかし、牡牛街《ブイコーヴァヤ》を歩いているうちに、ふと、カルマジーノフの住んでいる家の前へさしかかった。彼はとつぜん足をとめて、にたりと笑うと、そのまま家の中へずかずか入って行った。『お待ちかねでございます』という取次の言葉は、彼になみなみならぬ好奇の情をいだかした。なぜなら、彼は自分の来訪を前もって知らせたことがなかったからである。
 しかし、大文豪は本当に彼を待ちかねていた。しかも、昨日、おとといあたりから待ち佗びていたのである。四日前、彼はピョートルに『感謝《メルシイ》』の原稿を渡した(それはユリヤ夫人の慰安会の文学の部で、朗読するつもりでいたものである)。自分の傑作を発表前に見せてやるということが、聞く人の自尊心に快い作用をもたらすに相違ないと信じ切って、特別の親切心からしたことなのである。ピョートルは前からこういうことを見抜いていた。ほかではない、この虚栄の塊ともいうべきわがままな駄々っ子、――『選ばれざる』階級の人に対しては、暴慢といってもいいくらい高くとまっている『国家的名士』が、正直なところ、まったくピョートルの鼻息をうかがっているのだ。しかも、一生懸命なのである。わたしの見るところでは、彼はこの青年を、全ロシヤにわたる秘密な革命運動の首魁と思っていないまでも、少なくとも、ロシヤ革命運動の秘密に最も密接な関係を持ち、新しき世代に絶対的勢力を有する人間の一人くらいに考えている。それをピョートルも悟ったに違いない。『ロシヤにおいて最も聡明なる名士』のこうした気分は、彼に非常な興味をいだかせたのである。しかし、彼はこれまである事情のために、ことの真相を明らかにするのを避けるようにしていた。
 文豪は自分の妹の家に逗留していた。これはさる侍従官の細君で、同時に女地主だった。夫婦とも天下の名士たるこの親戚を、崇拝しきっていたが、目下残念ながら、モスクワに滞在中なので、侍従官の遠縁に当たる貧しい老婦人が、接待役の光栄を担うこととなった。これは前から同家に暮らして、いっさいの家事を取りしきっていたので。カルマジーノフが到着してからこのかた、家じゅうの者は戦々兢々として、爪さき立ちで歩くようになった。老婦人はほとんど毎日のようにモスクワへ手紙を出し、どんなふうにやすまれて、何を召し上ったか、というようなことまで報らせてやった。一度なぞは電報で、客人が市長のもとへ食事に招待された後、一匙の健胃剤を用いるの余儀なきに立ちいたった旨を、報告したくらいである。老婦人に対する彼の応対は丁寧ではあったが、そっけないもので、何か用事がなければ口をきかなかったので、彼女はほんの時々しか文豪の部屋へ推参しえなかった。
 ピョートルが入って行ったとき、彼は赤葡萄酒をコップに半分ばかり注いで、朝飯のカツレツを食べていた。ピョートルは、もう前にもちょいちょい来たことがあるが、いつもこのカツレツに出くわすのであった。しかも、彼は客の面前でそいつを平らげて、一度も客にふるまったことがない。カツレツの後で、別にコーヒーを小さな茶碗に一杯もって来た。食事を持って来る侍僕は、燕尾服を着込んだうえに、柔かい音のしない靴をはいて、手袋をはめていた。
「ああ!」ナプキンで口を拭きながら、カルマジーノフは長いすから立ちあがり、心底から嬉しそうな表情を浮かべて、接吻を始めた、――これは特筆すべきロシヤ人の習慣であるが、ただし非常に有名な人に限るので。
 しかし、ピョートルは以前の経験から、この人は接吻するような振りをするだけで、その実ただ頬っぺたを差し出すにすぎないのをおぼえているので、今度はこちらからも同じことをした。この二つの頬かぴたりとぶっつかった。カルマジーノフは、それに気がついたようなふうを見せないで、やおら長いすに腰を下ろし、さも気持ちよさそうな顔つきで、ピョートルに向かいの肘掛けいすを示した。こちらはすぐその上にどさりと倒れ込んだ。
「きみその……飯はどうですな?」今日は従来の習慣を破ってこうたずねた。しかし、もちろん、慇懃な否定の答えを暗示するような調子だった。
 ピョートルはさっそく朝飯を所望した。侮辱されたような驚きの影が、主人の顔を曇らした。が、それは一瞬のことだった。彼は神経質らしくベルを鳴らして、下男を呼び、人格にも似合わぬ怒りっぽい調子で、声を高めながら、もう一人前べつに朝飯の支度を命じた。
「きみ、何がお好みです、カツレツですか、コーヒーですか?」彼はもう一どたずねた。
「カツレツもコーヒーも両方とも、それから葡萄酒を添えるようにいってくださいな。ぼくすっかり腹がへっちゃった」落ち着き払って、注意ぶかく主人のみなりを見つめながら、ピョートルは答えた。
 カルマジーノフ氏は貝ボタンの付いた、ちょっとジャケツふうな綿入れの短衣《カツアウエイカ》を着ていたが、あまり極端に短か過ぎるので、かなり膨らんだ腹や丸まっちい腿などと、少しも調子が取れていなかった。しかし、人の趣味はさまざまである。部屋の中はずいぶん暖いのに、膝の上には格子縞の毛織の膝掛けを広げていた。
「お加減でも悪いんですか?」とピョートルはきいた。
「いや、加減が悪いのじゃない。気候がこんなだから、加減が悪くなるのを恐れてるんです」と文豪は持ち前の甲高い声で答えた。もっとも、一語一語に優しく力を入れたり、地主式にしゅっしゅっというような音を発しながら。「わたしは昨日からきみを待っていましたよ」
「なぜです? ぼくなにも約束しなかったはずですが」
「そう、しかし、きみのところへわたしの原稿が行ってるもんだから。きみ……読みましたか?」
「原稿? どんな?」
 カルマジーノフはひどく仰天した。
「いや、きみ、冗談は別として、あれを持って来てくれましたか?」
 彼は俄然あわて出した。とうとう食事もそっちのけに、おびえたような顔つきで、ピョートルを見つめた。
「ああ、それはあの “Bonjour”(お早う)のことですね……」
「“Merci”(ありがとう)です」
「まあ、どうでもいいです。まるで忘れてしまっていましたよ。まだ読みません、暇がないものですから。いったいどうしたんだろう、かくしにもない……きっと家のテーブルの上にでもあるんでしょう。ご心配にゃ及びません、出て来ますよ」
「いや、それより、わたしはいまきみの家へ取りにやりましょう。なくなるおそれがあります、いや、或いは盗まれるかもしれません」
「へっ、そんなものがだれにいるもんですか! それに、なんだってあなたそう泡を食うんです。ユリヤ夫人の話では、あなたはいつも原稿を幾通りかこしらえて、一部は外国の公証人のところへ、一部はペテルブルグ、一部はモスクワ、そしていま一部は銀行か何かへ、送っていられるそうじゃありませんか」
「しかし、それでも、モスクワだって焼けないとも限りません。そうすれば、わたしの原稿もいっしょに焼けてしまいます。いや、すぐ取りにやったほうがいい」
「ちょっと待ってください、ああ、あったあった!」ピョートルはうしろかくしから、一束の書簡箋を取り出した。「少し皺になりましたよ。どうでしょう、あの時、あなたから受け取ったなり、ずっと鼻かみハンカチといっしょに、うしろかくしにしまいっ放しになってたんですよ。すっかり忘れてた」
 カルマジーノフは飛びつくようにして原稿を手に取って、一生懸命に点検して枚数をかぞえると、うやうやしげに傍にある特別な小机へちょっとかりにのせた。が、いつまでもそれが目に入るように位置を加減した。
「きみはどうもあまり多読しないようですね?」彼は我慢しきれないで、歯の間から押し出すようにこういった。
「ええ、あまり多読しませんよ」
「じゃ、ロシヤの純文学のほうは、――かいもく読みませんか?」
「ロシヤの純文学方面? 待ってください、ぼくなんだか読みましたよ……『途中』……だったか『途へ』……だったか『分れ路』だったか、何かよくおぼえていません、ずっと前に読んだのです、五年ばかりになりますかなあ。暇がないんです」
 ちょっと沈黙がおそうた。
「わたしはここへ来ると、皆の者をつかまえて、きみがずば抜けて聡明な人だということを、極力吹聴したものだが、今この町の人は、実際、きみのことでほとんど夢中になっているようじゃありませんか」
「ありがとうございます」とピョートルは落ち着き払って答えた。
 やがて朝餐が運ばれた。ピョートルは恐ろしい食欲を示しながら、カツレツに飛びついた。みるみるうちにそいつを平らげて、酒を呷り、コーヒーを啜った。
『この不作法ものめ』最後の一片を噛みしめ、最後の一滴を飲み干しながら、カルマジーノフはもの思わしげに相手を横目に見やった。『この不作法者め、たぶんいまおれのいった言葉の皮肉な意味を、十分さとったに相違ない……それに、原稿だって、もちろん夢中で読んだくせに、何か思わくがあって、嘘をついてるに違いないのだ。しかし、ことによったら、嘘をついてるんじゃなくて、本当に馬鹿なのかもしれないぞ。おれは少々間の抜けた天才が好きだ。まったくのところ、あの男は仲間うちでも一種の天才かもしれんて。いや、まあ、あんなやつなんかどうだってかまうもんか』
 彼は長いすから立ちあがって、運動のため部屋の中を隅から隅へと歩き廻りにかかった。これは朝飯後に欠かさずやることなので。
「もうじきお立ちですか?」と、ピョートルは巻煙草を吹かしながら、肘掛けいすの中から問いかけた。
「わたしがここへ来たのは、ほかでもない、領地を売るためだから、今のところ支配人のやり方一つなんですよ」
「しかし、あなたがここへ見えたのは、あちらで戦争後に、伝染病流行のおそれがあるからじゃありませんか?」
「いいや、あえてそうばかりでもない」気取った調子で、一語一語アクセントをつけながら、カルマジーノフ氏は言葉を続けた。彼は隅から隅へ向けて回転するたびに、見えるか見えないかくらいに、右足を元気よく跳ねるのであった。
「わたしは実際」彼は幾分あてこすりめいた調子で薄笑いを浮かべた。「できるだけ長生きしようと思っています。ロシヤの貴族社会は、すべての点において、何かこう妙に早く疲弊する癖がありますね。ところが、わたしはできるだけ長く疲弊したくないと思っています。だから、今度はすっかり外国へ移ってしまうつもりです。あちらは気候もいいし、建物も石造だし、万事につけて手固いですからね。わたしの一代ぐらい、西欧も無事でいるだろうと思いますよ。きみのお考えはどうです?」
「それがぼくの知ったことですか」
「ふむ……もしあちらでバビロン塔が崩壊して、その崩壊の度が甚大だとすれば(この点ではわたしもきみたちにぜんぜん同意です。もっとも、わたしの一代は無事だろうと思いますがね)、わがロシヤでは崩れようにも崩れるものがない。ただし比較的の話ですよ。ロシヤでは石が崩れるのじゃなくて、何もかも泥の中へもぐり込んでしまうんだね。神聖なるロシヤは、何物かに対する抵抗力としては、世界じゅうで一ばん役に立たないしろ物でね。それでも、一般民衆はまだどうにかこうにか、ロシヤの神で踏ん張っています。が、しかし、最近の情報によると、ロシヤの神も大して当てにならんようだね。農奴解放の改革に対してすら、ほとんど抗しえなかったんだからなあ、少なくとも一大動揺を来たしたのです。それに、鉄道ができたり、きみたちのような人が現われたり……いや、もうわたしはてんでロシヤの神を信じませんよ」
「じゃ、ヨーロッパの神は?」
「わたしはいかなる神も信じません。世間のやつらはわたしのことをロシヤの青年に讒誣したけれど、わたしはいつも若い人たちの運動にことごとく同感しているんですよ。わたしはこの町の檄文を見せてもらいました。みんな外形に脅かされて、一種の疑念をもって眺めているようだが、しかし、みんな一様にその威力を信じていますよ。もっとも、自分でそれを自覚してはいないがね。もうずいぶん前から、だれもかれもばたばた倒れています。しかも、縋りつくものが何もないということも、とうからちゃんと承知している。ロシヤはどんなことでも思う存分に、なんの抵抗も受けずにやることができるという意味で、今は全世界に唯一無二の国です。わたしもこの事実を基礎として、ああした秘密運動の成功を信じているのです。なぜ資産のあるロシヤ人がどんどん外国へ流れ出るのか、またどういうわけでそういう人がますますふえて来るか、わたしはそれがわかり過ぎるほどわかります。それはつまり、本能ですな。船が沈む時には、第一番に鼠が逃げ出して巣を変えます。神聖なるロシヤは木造のみじめな、そして……けんのんな国です。上流の階級には虚栄心の強い乞食が跋扈し、大多数の人民はひょろひょろのぼろ小屋に住んでいる。で、どんなふうにでも、その状態を抜け出せれば嬉しいのだから、ちょっといって聞かしてさえやればいいのだ。ただ政府だけはまだ抵抗したがって、やみくもに棒ちぎりを振り廻すもんだから、かえって同士打ちなぞしてるんですよ。もうここではすべてのものが、運命を決定され、宣告されています。現在あるがままのロシヤはもう未来がない。わたしはドイツ人になりました。そして、自分でそれを光栄としています」
「しかし、あなたはいま檄文の話を始められましたが、あれについてどういう意見を持っておいでです、ひとつすっかり聞かしてくださいませんか」
「みんなが恐れているところを見ると、檄文というやつは偉大な力を持ってるに相違ない。実際、すべての檄文は公然と偽の衣を剥いでくれます。ロシヤには何一つ縋りつくものもなければ、よりかかるものもない、ということを証明してくれます。一同が沈黙を守っている時に、檄文は声を高めて呼号してくれる。とりわけ何より力強いところは(もっとも、形式には感心しませんがね)、あの前代未聞の勇気です、真実のおもてを見つめうる勇気です。この真実の顔を見つめうる勇気は、ただただロシヤ人にのみ属している性質です。どうしてどうして、ヨーロッパではまだそれほど大胆でないですよ。あちらは石の王国だからまだ倚りかかるところがありますよ。わたしの見かつ判断しうる限りでは、ロシヤの革命思想の本質は、すべて名誉の否定ということに含まれている。わたしはこの点を大胆に、恐れげもなく表白しているのが気に入りましたよ。どうしてどうして、ヨーロッパじゃまだこれは理解できません。ところが、ここはほかならぬこの点に向かって突進してるんですからね。ロシヤの人間にとっては、名誉はよけいな重荷にすぎない。さよう、常に、歴史ぜんたいを通じて重荷だったのです。『不名誉に対する公然の権利』を餌《えさ》にロシヤ人を釣ることなぞは、易々《いい》たるものですよ。わたしは旧時代の人間だから、白状しますと、まだ名誉のほうに味方しますが、それはほんの習慣にすぎない。わたしが古い形式を愛するのは、まあ、いわば、了簡が狭いからですよ。とにかく、どんなにでもして余生を送らなきゃなりませんからな」
 彼はとつぜん口をつぐんだ。
『だが、おれがこうしてしゃべって、しゃべって、しゃべり抜いてるのに』と彼は考えた。『先生だまりこくって、様子を見てやがる。先生がやって来たのは、おれに真正面から質問をさせようという目算なんだな。よし、そんならしてやろう』
「実はユリヤ夫人から、ぼくに依頼があったんですがね、――あさっての舞踏会に、あなたがどんな surprise(思いがけない贈物)を用意していらっしゃるか、それをなんとかして策略で探り出して来い、とおっしゃるのでね」突然ピョートルがこうたずねた。
「そう、それは実際 surprise でしょうな。わたしは、実際、皆を駭目させるつもりなんでね……」とカルマジーノフはちょっとそり身になった。「しかし、秘密の存するところをいうわけにはいかんですよ」
 ピョートルも強いてとはいわなかった。
「ここにシャートフとかいう人物がいるでしょう」と文豪はたずねた。「どうでしょう、わたしはその男に会ったことがないのですよ」
「なかなか立派な人物ですよ。で、どうしました?」
「なに、その男が何やらいってるんです。それ、スタヴローギンの頬っぺたを撲ったとかね?」
「そうです」
「きみはスタヴローギンのことをなんと考えますね?」
「知りません。なんだか色魔とでもいいたいような人物ですなあ」
 カルマジーノフはスタヴローギンを憎んでいた。それは、彼がいつでもこの文豪を、まるで目にも入らないように振舞うからであった。
「あの色魔なんか」彼はひひひと笑いながらいった。「もしあの檄文に宣言してあるようなことがいつか実現されたら、あの男なんぞはおそらく真っさきに木の枝に突き刺されるね」
「或いはもっと早いかもしれませんよ」とふいにピョートルはいった。
「それが当然なんだ」もう笑おうともせずに、恐ろしく真面目な調子で、カルマジーノフは相槌を打った。
「あなたは一度そのことをいったことがありますよ。それでね、ぼくはあの男に聞かせてやりましたぜ」
「え、本当に聞かせたんですか?」カルマジーノフはまた笑った。
「すると、あの男のいうのにはね、もしぼくが木の枝に刺されるのなら、カルマジーノフ氏など笞刑くらいでたくさんだ。しかし、それは敬意を表しての処置ではない、ちょうど百姓を撲るようにやっつけるんだって」
 ピョートルは帽子を取って、席を立った。カルマジーノフは別れの挨拶に、両手を差し伸べた。
「どうでしょう」彼はふいに黄いろい甘ったるい声で、何か一種特別な抑揚をつけながらいい出した、相変わらず相手の両手を握ったまま。「どうでしょう、もしいま企てるような……陰謀が、すっかり実現するものとしたら、それはいつ突発するでしょうなあ?」
「ぼくがなんで知るもんですか」とピョートルはいけぞんざいにいった。
 両方ともじっと互いに睨み合っていた。
「でも、およそ、大体」今度はいっそうあまったるい声で、カルマジーノフがいった。
「あなたが領地を売って、逃げ出す暇はありますよ」とピョートルはいっそういけぞんざいにいった。
 両方ともさらに鋭く睨み合った。
 沈黙の一分が過ぎた。
「今年の五月はじめに起こって、聖母祭([#割り注]十月一日[#割り注終わり])までに片がつきます」出しぬけにピョートルがこういった。
「いや、どうもまことにありがとう」相手の両手を握りしめながら、カルマジーノフはしみじみといった。
『鼠野郎、大丈夫、船から逃げ出すひまはあるよ!』通りへ出ながら、ピョートルは考えた。『ふん、あの「ほとんど国家的名士」が、ああして一生懸命に、日にちや時間まできいたうえ、ああ丁寧に答えをもらった礼をいうところを見ると、もういよいよぼくらも自分の実力を疑うわけにはいかないわい(彼はにやりと笑った)。ふむ……しかし、あの男はああいう仲間としては利口だよ。が……要するに、火事の前に船を逃げ出す鼠にすぎない。あんなやつに密告なんかできるものか』
 彼はボゴヤーヴレンスカヤ街なるフィリッポフの持ち家[#「ボゴヤーヴレンスカヤ街なるフィリッポフの持ち家」はママ]さして駆け出した。

[#6字下げ]6[#「6」は小見出し

 ピョートルはまずキリーロフの部屋へ入って行った。こちらはいつものとおり独りだったが、今日は部屋の真ん中で体操をしていた。つまり、足を広げたまま、両手を一種特別の方法で頭上たかく振り廻しているのであった。床には毬が転がっていた。朝からの茶がまだ片づけられないで、テーブルの上に冷たくなっていた。ピョートルはちょっと閾の上に立ちどまった。
「しかし、きみは恐ろしく健康を気にしますね」彼は部屋の中へ入りながら、大きな声で愉快そうにいった。「だが、なんという見事な毬だろう。ほう、恐ろしくはずむなあ。これもやはり体操のためですか?」
 キリーロフはフロックを着た。
「ええ、やはり健康のため」と彼はそっけなくいった。「お坐んなさい」
「ぼくはちょっと寄っただけなんですよ。が、まあ、坐ろうかな。健康は健康として、とにかくぼくはあの約束のことで、注意に来たんですよ。『ある意味において』われわれの期限も近寄って来るのでね」と拙い逃げを張りながら、彼は言葉を結んだ。
「約束とは?」
「約束とは? とはなんのことです?」ピョートルは思わずぴくりとした。彼はもう度胆を抜かれてしまった。
「あれは約束でも義務でもない。ぼくは何一つ自分を縛るようなことを言やあしない。それはきみの思い違いです」
「でも、まあ、きみ、それでどうしようというんです?」ピョートルはとうとう跳びあがった。
「自分の意志どおりに」
「もともとどおり」
「というと、どんな意味に解したらいいんでしょう? つまり、きみが以前どおりの考えでいる、というわけですか!」
「つまり、そうです。しかし、約束などはいっさいありません、以前だってなかったです。ぼくは何一つ自分を縛るようなことを言やしなかった。ただぼく自身の意志があったきりです。そして、今でもやはりぼく自身の意志があるきりです」
 キリーロフはずばずばと、気むずかしそうな調子で応対した。
「いや、承知です、承知です、きみの意志けっこう、ただその意志が変わってさえくれなけりゃ」得心のいったような調子で、ピョートルはふたたび腰を下ろした。「きみは言葉づ