京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP361-P384

かいに腹を立てるもんだから。きみは近頃、なんだか大変おこりっぽくなりましたね。だから、ぼくも訪問を避けるようにしてたんですよ。しかし、けっして違背はされまいと、信じきってはいましたがね」
「ぼくはきみが嫌いでたまらないんですよ。けれど、信じきっていてよろしい! もっとも、違背だの履行だのと、そんなものは少しも認めませんがね」
「だがね、きみ」とピョートルはまたぎくっとした。「ようく話しておかなきゃいけない、間違いのないようにね。ことは正確を要しますよ。なにしろ、きみはひどくぼくを仰天させたよ。話してもいいですか?」
「お話しなさい」キリーロフは片隅を凝視しながら、ずばりといった。
「きみはとうから自殺しようと決心してたでしょう……つまり、そういう観念をいだいておったでしょう。どうです、ぼくの言い方は正しいですか? 何か間違いはありませんか?」
「ぼくは今でも同じ観念をいだいています」
「けっこう。ところで、一つ注意してもらいたいのは、きみはだれにもこの決心を強いられたわけじゃありませんよ」
「当たり前ですよ、なんて馬鹿なことを」
「いいです、いいです。ぼくは恐ろしい馬鹿な言い方をしました。もちろん、そんなことを強制するなんて、馬鹿げきったことです。で、続けていうと、きみはまだ旧組織時代の会の一員だった。そして、きみはこのことをすぐ会員の一人に告白した……」
「ぼくは告白なんかしやしない。ただいっただけです」
「よろしい。まったくそんなことを『告白』するなんて、滑稽でさあね。懺悔式か何かじゃあるまいし。きみはただいったんです、いや、けっこう」
「いや、けっこうなことはありません。だって、きみの言い方はまったく煮えきらないからね。ぼくはきみに対してなんら説明の義務を持っていない。それに、ぼくの思想はきみなんぞにわかりゃしない。ぼくが自殺したいのは、そういう思想がぼくにあるからです。死の恐怖がいやだからです、そして……そして、きみなぞにわかることじゃないからです……きみ、なんです! 茶が飲みたいんですか? 冷たいですよ。まあ、ぼくは別のコップを持って来てあげましょう」
 ピョートルはなるほど急須に手を掛けて、からの容器《いれもの》をさがしていた。キリーロフは戸棚まで行って、きれいなコップを持って来た。
「ぼくは今カルマジーノフのところで朝飯を食ってきたんですよ」と客はいった。「それから、あの男の話を聞いて汗が出ちゃったが、ここへ走って来たもんだから、また汗をかいてしまった、どうもやたらに喉が渇いてたまらない」
「お飲みなさい。冷たい茶はいいですよ」
 キリーロフはまた椅子に腰を下ろして、またもや片隅を凝視し始めた。
「そこで、会ではこういう考えを起こしたんです」と彼は前と同じ声で語りつづけた。「もしぼくが自殺すれば、或いはそれが何かの役に立つかもしれない。きみらがここで何か仕出かして、犯人の捜索が始まった時、とつぜんぼくがピストル自殺をして、何もかも自分の仕業だという書置きを残せば、まあ、一年くらいきみたちに嫌疑がかからないだろう、とこういう注文なんでしょう」
「せめて二、三日でもいいですよ。一日の日も貴重なんだから」
「よろしい。この意味で、もしぼくにその気があれば少し待ってくれ、とこうきみがいった。で、ぼくは会からその時期をいって来るまで、待つことにしようと答えたのです。ぼくにとっては、どっちだって同じことだから」
「そう。しかし、忘れちゃいけませんよ、きみが書置きを書く時には、必ずぼくとの立会のうえにする。そして、ロシヤヘ帰って来てからは、ぼくの……まあ、つまり、ぼくの自由にまかせると、約束しましたよ。といって、もちろんこの件に関する範囲内で、その他の点に関しては、むろんきみは自由なんですがね」ほとんど愛嬌を交ぜるようにして、ピョートルはこうつけ足した。
「ぼくは約束しやしない、ただ同意しただけです。ぼくにとっては、どっちだっておなじことだから」
「ええ、それでけっこうです、けっこうです。ぼくはきみの自尊心を傷つけようという気なんて少しもないです、しかし……」
「何もこのことで自尊心なんか関係はありゃしない」
「しかし、おぼえておってください、きみの旅費として百二十ターレルを醵金しましたぜ。つまり、きみは金を受け取ったわけですよ」
「まるで違う」キリーロフはかっとなった。「金はそんなつもりじゃありません。そんなことのために金を取るものなんかありゃしない」
「時には取ることもありますよ」
「ばかをいうもんじゃありません。ぼくはペテルブルグから出した手紙で、断わっておきました。そして、ペテルブルグで百二十ターレル返したじゃありませんか、きみに手渡ししたんですよ……もしきみが自分で着服しなかったら、あっちへ送られたはずだ」
「いいです、いいです。ぼくは何も違ってると言やしません、送りましたよ。とにかく要点は、きみが以前と同じ考えでいるか、どうかということなんだから」
「同じ考えでいますよ。きみがやって来て、『よし』といえば、ぼくはすっかりそれを実行します、どうです、もうすぐですか?」
「そう日数はありませんよ……が、おぼえておってください、手紙はぼくと二人でこしらえるんですよ、その晩にね」
「その日だっていい。きみの話では、檄文の責任を引き受けるんでしたね」
「それから、ほかにもちょっと」
「ぼくはなんでもかでも引き受けやしないよ」
「どんなことを引き受けないというんです?」ピョートルはまたもやびくっとした。
「気の向かないことは。もうたくさん。ぼくはもうこの話はしたくない」
 ピョートルはやっとのことで自分を抑えて、話題を変えた。
「じゃ、別の話にしましょう」と彼はあらかじめ断わっておいて、「今夜、きみは会へ出席しますか? ヴィルギンスキイの命名日だから、それをだしに使って集まるんです」
「いやです」
「お願いだから出てください。人数と顔とで脅かさなきゃ……きみの顔は……まあ、手っとり早く言やあ、きみは宿命的な顔をしていますからね」
「そう思いますか?」とキリーロフは笑った。「よろしい、出席しましょう、ただし、顔のためじゃないがね。何時?」
「ああ、少し早目に、六時半、それでね、きみはそこへ行っても、じっと坐ったきり、幾人そこに人がいようと、だれとも話をしなくたってかまわない。ただね、紙と鉛筆を持って来るのを忘れないように」
「それはなんのため?」
「だって、きみはどっちだって同じことでしょう。これはぼくの特別なお願いなんだから。きみはもう本当にだれとも話をしないで、じっと坐って聴いてりゃいいんです。ただ時々なにか控えるような恰好をしてください。なに、何か絵でも描いてりゃいいんですよ」
「なんて馬鹿げたことを、いったいなんのために?」
「ちぇっ、どっちだって同じことなら……だって、きみはしじゅう、どっちだって同じことだといってるじゃありませんか」
「いや、なんのためか聞かしてもらいたい」
「実はこういうわけなんですよ。会員の一人で監督官をしてる男が、モスクワに当分とどまることになったんですが、ぼくは今夜ことによったら、監督官が来るかもしれないと、こう二、三の者に話したんです。だから、連中はきみを監督官と考える、といったようなわけでさあ。それに、きみがここへ来て、もう三週間になるから、連中はいつそう[#「いつそう」はママ]面食らうに相違ない」
「手品だ。モスクワのサークルに、監督官なんてものはありゃしない」
「まあ、なければないで、いいじゃありませんか。そんなものなぞ、どうだってかまやしない。ねえ、きみには関係のないことじゃありませんか。それがいったいどれだけきみの迷惑になるというんです? きみ自身、会の一員じゃありませんか」
「じゃ、皆にぼくを監督官だとおいいなさい。ぼくは黙って坐ってますよ。しかし、紙と鉛筆はお断わりします」
「なぜ?」
「いやだ」
 ピョートルはむっとして、顔まで真っ青にしたが、またしても、自分を抑えつけて、帽子を取りながら、立ちあがった。
「あいつ[#「あいつ」に傍点]はきみのところですか?」ふいに彼は小声でこういった。
「ぼくのところにいますよ」
「それはいい。ぼくがすぐ引き摺り出してやります。心配しないでいらっしゃい」
「ぼくは心配なんかしやしない。あの男はただ夜とまるだけなんです。婆さんは病院にいるので(嫁が死んだんです)、この二日ばかりぼく一人きりなんですよ。ぼくが垣根の板が一枚はずれる場所をあの男に教えてやったところ、あの男そこから這い込むようになった。しかし、だれにも見つかりゃしない」
「ぼくは今にあの男を抑えてやるから」
「でも、あの男は、寝場所くらいいくらでもあるようにいってる」
「嘘です、あいつはお尋ね者だが、ここにいれば、当分目にかからないんですよ。いったいきみはあの男と話をしてるんですか?」
「ああ、一晩じゅう。きみのことをさんざん悪くいってますよ。ぼくがある晩、あの男に黙示録を読んで聞かして、お茶をご馳走してやると、あの男は一生懸命に聴いていたっけ。本当に一生懸命に、夜っぴて」
「へえ、馬鹿馬鹿しい。じゃ、きみはあの男をキリスト教に入れようというんですか!」
「あれはそんなことをしなくても、初めからキリスト信者ですよ。心配しなくてもいい、あの男は殺しますよ。いったいきみはだれを殺させたいんです?」
「いや、ぼくはそんなつもりで、あの男をなにしてるんじゃない。ほかに目的があるんでね……ところで、シャートフはあのフェージカのことを知ってますか?」
「ぼくシャートフとは何一つ話もしなければ、会いもしない」
「腹でも立ててるんですか?」
「いや、別に喧嘩をしてるわけじゃない、ただ背中を向け合ってるばかり。あまり長くアメリカでいっしょにごろごろしてたもんだから」
「ぼくは今すぐあの男のところへ寄るつもりです」
「ご勝手に」
「ぼくはまたスタヴローギンといっしょに、あすこの帰りにここへ寄るかもしれませんよ。まあ、十時頃に」
「おいでなさい」
「ぼくはあの男といっしょに、重大要件を相談しなくちゃ……ときに、きみの毬を譲ってくれませんか。今となって、きみになんの必要があるんです? ぼくも体操がしたいんですよ。なんなら、金を払いますよ」
「まあ、いいから持ってお行きなさい」
 ピョートルは毬をうしろのかくしにしまった。
「ぼく、スタヴローギンのためにならぬようなことは、何一つきみにさせやしませんよ」客を送り出しながら、キリーロフはこうつぶやいた。
 こちらはぎょっとして彼を眺めたが、別に返事をしなかった。
 キリーロフの最後の言葉は、なみなみならずピョートルをまごつかせた。が、彼がまだその意味をさとる暇もないうちに、早くもシャートフの部屋へ導く階段に立っていた。彼は自分の不満げな顔つきを、愛嬌のある表情に変えようと苦心した。シャートフは家にいたが、少し具合が悪かった。彼は寝床で横になっていたが、服はそのままだった。
「や、これはしまった!」とピョートルは閾の上から叫んだ。「ひどく悪いんですか?」
 彼の顔の愛嬌のある表情は、急に消えてしまった。何かしら毒々しいものがその目に閃いた。
「いや、ちっとも」シャートフは神経的に跳ね起きた。「ぼくはちっとも病気じゃない。少し頭が……」彼はうろたえたようにさえ見えた。こういう客人の思いがけない出現は、すっかり彼を面食らわしたらしい。
「ぼくが来たのも、まさに病気なぞしていられないような用件なんですよ」とピョートルは早口に、なんとなく威を帯びた調子できり出した。「まあ、坐らしてもらおう(彼は坐った)。ところで、きみもそのベッドに坐ってください。そうそう。今日はね、ヴィルギンスキイの誕生日というていで、仲間のものがあそこへ集まるんですよ。もっとも、別にどうという色彩を帯びるわけじゃけっしてない。そういう手配がしてあるんですよ。ぼくはニコライ・スタヴローギンといっしょに出かけます。ぼくも今のきみの思想を知ってるから、もちろん、そんなところへ引っ張って行くはずじゃなかったんだが…もっとも、それはきみにいやな思いをさせたくないという意味なんで、けっして、きみが密告するだろう、などと考えてのことじゃありませんよ。ところが、結局、きみに出席してもらわなけりゃならんことになったんです。あすこへ行ったら、きみは仲間のものに会って、どういうふうに脱会するか、だれにきみの預り物を渡すか、そういうことを綺麗に決めようじゃありませんか。それは目立たぬようにするんです。ぼくがきみをどこか隅のほうへ引っ張って行きますよ。なにしろ大勢いるんだから、皆が皆に知らす必要はない。実のところ、ぼくはきみのおかげで口を酸っぱくしましたよ。しかし、今じゃ皆も同意したようです。ただし、いうまでもなく、きみが印刷機械といっさいの書類を引き渡す、という条件つきでね。そうしたら、きみはもう勝手にどこへなと大手を振って行けるわけです」
 シャートフは眉をひそめて、腹立たしげに聞いていた。さきほどの神経的な驚愕は、もうすっかりどこへやらいっていた。
「ぼくはどこの何者か知れない奴に、弁白なんかする義務を少しも認めない」と彼はずばりといい切った。「だれにもせよ、ぼくを自由にする権利なんか持った者はないのだ」
「とばかりもいきませんよ。きみにはいろんな秘密をうち明けてあるんだからね。きみはそういきなり手を切ってしまうなんて、そんな権限を持ってなかった。それに、きみは今まで一度も、そのことを明白に申し出なかったから、みんな曖昧な位置に立たされるんでね」
「ぼくはここへ来るとすぐ、明瞭に書面で申し出たじゃありませんか」
「いや、明瞭じゃないです」とピョートルは駁した。「たとえば、ぼくがきみに『光輝ある人格』と、それから二種類の檄文を送って、ここで印刷に付したうえ、請求されるまでどこかきみのところへ隠しておくように頼んだ時、きみはなんの意味もなさない曖昧な手紙といっしょに、それを返送してきたじゃありませんか」
「ぼくは真正面から印刷を拒絶したのです」
「そう、しかし、真正面からじゃない。きみはただ『能わず』と書いたきりで、どういうわけか、原因を説明しなかったじゃありませんか。『能わず』は『欲せず』と違いますからね。きみは単に外部的原因のためにできなかったのだ、とこうも考えることができます。つまり、われわれはこういうふうに解釈したので、きみはやはり会との関係持続を同意したもの、と見做していたんです。だから、今後またきみに何かをうち明けて、したがって、みずから危うするおそれもあったわけです。ここの連中は、こんなことをいってるんですよ、――きみは何か重要な情報をえて、それを密告せんがために、われわれを欺こうとしてるのだ、とね。ぼくは極力きみを弁護しながら、きみにとって有利な証拠物件として、例の二行ばかりの書面の返事を見せた。しかし、いま読み返して見ると、この二行の文句は明瞭を欠いている、欺瞞に陥れるおそれがあることを、ぼく自身も認めざるをえなかったのです」
「きみはあの手紙を、そんなに大切に保存しといたんですか?」
「保存しといたって、そんなことはなんでもない。今でもぼくもってますよ」
「ちぇっ、勝手にするがいい、畜生………」とシャートフは凄まじい剣幕でどなった。「きみたち仲間の馬鹿者らは、ぼくが密告したとでもなんとでも勝手に考えるがいい。そんなことをぼくが知るものか! ただきみたちがぼくにどれだけのことをなしうるか、ぼくはそれが見たいと思うよ!」
「きみをちゃんとブラックリストにのせて、革命が成功するやいなや、一番に首を吊し上げてしまうさ」
「それはきみたちが最上権力を獲得して、全ロシヤを征服した場合のことかね?」
「きみ、わらうのはおよしなさい。くり返していうが、ぼくはきみを弁護したんですよ。なんにしても、とにかく、今日は出席するようにおすすめします。いかさまな自尊心のために、役にも立たない口をきいて何になるんです。それより、仲よく別れたほうがいいじゃありませんか。それに、なんといっても、例の印刷機と古い活字と、書類の引渡しをしなきゃならない。つまり、このことを話そうというんです」
「行きますよ」もの思わしげに首をたれながら、シャートフは唸るようにいった。
 ピョートルは自分の席からはすかいに、じろじろ彼を見つめていた。
「スタヴローギンも出ますか?」ふいに首を上げながら、シャートフは問いかけた。
「間違いなく来ます」
「へ、ヘ!」
 二人はまたちょっと黙り込んだ。シャートフは気むずかしげに、いらいらした様子で薄笑いを洩らした。
「あのぼくがここで印刷を断わったきみのけがらわしい『光輝ある人格』は、もう印刷になったんですか?」
「なりました」
「やはりあれは、ゲルツェンみずからきみのアルバムに書いたのだといって、中学生どもをだましてるんですか」
「ゲルツェンみずからですよ」
 またもや二人は、三分間ばかり押し黙っていた。とうとうシャートフは寝床から起きあがった。
「さあ、もうぼくの部屋を出てくれたまえ。ぼくはきみといっしょに坐っていたくない」
「行くよ」むしろなぜか愉快そうにこういって、ピョートルはさっそくたちあがった。「しかし、たったひと言たずねたいことがある。どうやらキリーロフは、あの離れにたった一人ぼっち、下女も置かずに暮らしているようだね?」
「一人ぼっちだ。さあ、行きたまえ。ぼくはきみと一つ部屋にいられない」
『ふん、貴様はいま本当にいい人間なんだよ!』ピョートルは往来へ出ると愉快そうに考えた。『そして、今夜もいい人間になるんだよ。おれはいま貴様に、ちょうどそういう人間でいてもらいたいんだ。実に申し分なしだ。まったく申し分なしだ。とりも直さず、ロシヤの神の加護によるのだ!』

[#6字下げ]7[#「7」は小見出し

 どうやら彼はこの日方々駆け廻って、だいぶ骨を折ったものらしい。しかも、その骨折りが成功したに相違ない、――それは、彼が晩の正六時に、ニコライ・フセーヴォロドヴィチの家へ来た時の、得意らしい顔つきにも現われていた。しかし、彼はすぐ通してもらえなかった。ニコライはたった今、マヴリーキイといっしょに書斎へ閉じこもったばかりであった。この報らせはたちまち彼を不安に駆り入れた。彼は客の帰りを待つために、戸口のすぐ傍に坐りこんだ。話は聞こえるには聞こえたけれど、言葉はどうしてもつかめなかった。この訪問はあまり長くつづかなかった。間もなく騒々しい物音が聞こえて、恐ろしく鋭い声が高く響き渡ったと思うと、続いて戸がさっと開いて、マヴリーキイが真っ青な顔をして出て来た。彼はピョートルには気もつかず、急ぎ足に傍を通り過ぎてしまった。ピョートルはすぐに書斎へ駆け込んだ。
 二人の『競争者』の異常な短い会見、――今までの行きがかり上、とうてい成立しそうもなく思われながら、実際に実現されたこの会見に関しては、詳細な説明を避けるわけにいかない。
 それはこういう具合だったのである。食後ニコライが書斎の寝いすでうとうとしていると、突然アレクセイが入って来て、思いがけない客人の来訪を告げた。取り次がれた名前を聞くと、彼は座を躍りあがって、ほとんど信ずることができないほどであった。けれど、間もなく微笑が彼の唇に輝いた。――それは傲慢な勝利の微笑だったが、同時になんだか鈍い、合点のいかないような、驚異の微笑でもあった。入って来たマヴリーキイ・ニコラエヴィチは、この微笑にはっとしたようなふうであった。少なくも、とつぜん部屋の真ん中に立ちどまって、前へすすんだものか引っ返したものか、決しかねるようなふうだった。あるじはすぐに顔の表情を改めて、真面目な怪訝の色を浮かべながら、相手のほうヘ一歩すすみ寄った。こちらは差し伸べられた手を握ろうともせず、無器用らしい手つきで椅子を引き寄せると、坐れともいわないのに、主人よりさきに腰をかけてしまった。ニコライは寝いすへはすかいに座を占めて、マヴリーキイの顔を見つめながら、言葉を発しないで待ちかまえていた。
「もしできることなら、リザヴェータ・ニコラエヴナと結婚してください」とつぜん客は叩きつけるようにこう切り出した。それに、何よりおかしいことには、声の調子だけでは、頼んでいるのやら、推薦しているのやら、譲歩しようというのやら、もしくは命令しているのやら、かいもく見当がつかなかった。
 ニコライは依然として黙っていた。が、客はもう来訪の目的である要件をすっかりいってしまったらしく、返事を待つようにじっと相手を見つめていた。
「しかし、わたしの思い違いでないとすれば(もっとも、これは正確すぎるくらいの話ですが)、リザヴェータ・ニコラエヴナとあなたは、もう婚約ができてるのじゃありませんか」とついにスタヴローギンは口を切った。
「婚約して、固めまでしたのです」マヴリーキイはきっぱりした明瞭な調子で、相手の言葉を確かめた。
「あなた方はいさかいでもなすったのですか?……失礼なことをおたずねするようですが」
「いや、あのひとはわたしを『愛しもし尊敬もし』ています、これはあのひと自身のいったことなのです。あのひとの言葉は何より確かですからね」
「それはまったくそれに相違ありません」
「ところが、あのひとは、よしんば結婚の式上で聖壇の前に立っていても、もしあなたが声をかけたら、わたしを捨て、すべての人を捨てて、あなたのところへ走ってしまいます」
「結婚の式上で?」
「結婚式の後でも」
「お考え違いじゃありませんか?」
「いや、あなたに対するやみ難い憎悪の陰から、――強い真剣な憎悪の陰から、絶え間なく愛がひらめいています……気ちがいめいた……心底からの深い深い愛、――つまり、気ちがいめいた愛です! それと反対に、あのひとがわたしにいだいている愛、やはり愛の陰から、絶え間なしに憎悪がひらめき出ています、――限りなき憎悪です! 以前だったら、わたしはこんな……メタモルフォーズを理解するようなことはなかったのですが」
「が、それにしても、どうしてあなたは、リザヴェータ・ニコラエヴナの一身について、指図がましいことをいいに来られたのか、それがわたしは不思議ですね。そういう権利を持っておられるんですか? それとも、あのひとが委任されたのですか?」
 マヴリーキイは顔をしかめて、ちょっと首をたれた。
「それはあなたとして、ただの辞令にすぎないです」とふいに彼はいった。「うまくやっつけてやったという、勝ち誇った言葉です。あなたは言外の意味を汲み取ることのできる人だと、こうわたしは信じています。いったいこの場合、ちっぽけな虚栄心など入り込む余地があるでしょうか? いったいあなたはこれでも満足できないのですか? いったいまだこのうえに、恥の上塗りをしなくちゃならないのですか、屋上屋を架する必要があるのですか? よろしい、それほどわたしの屈辱が見たければ、わたしは恥の上塗りをしましょう、――権利なぞもっていません、委任などもあるべきはずがない。リザヴェータ・ニコラエヴナはなにもごぞんじないのです。ところが、許婚《いいなずけ》の夫はもうすっかり性根を失くしてしまって、癲狂院にでも送られそうな有様になっています。おまけに、それでもまだ足りないで、あなたのところへそれを報告に来ているのです。世界じゅうで、あのひとを幸福になしうるのは、あなたをおいてほかにありません。そしてまた、あのひとを不幸になしうるのは、わたし一人なんです。あなたはあのひとを争い取ろうと、しきりにつけ廻しておられます。しかし、なぜだが知れませんが、結婚しようとはなさらない。もしそれが外国で始まった恋人同士の喧嘩で、その片をつけるためにわたしを犠牲に供しようというのなら、どうかそうしてください。あのひとがあまり不幸な身の上だから、わたしはそれを見るに堪えないのです。わたしの言葉は許可でもなければ命令でもありません。だから、あなたの自尊心も傷つけられるわけはありますまい。まああなたがわたしに代わって聖壇の傍に席を占めたければ、あなたはわたしの許可なぞ受けないでも、そのとおりにされてかまわないのです。そうすれば、わたしは何もこんな気ちがいじみたことをいうために、ここへ来る必要はもちろんなかったのです。ことに、わたしの結婚は今のわたしの行為によって、ぜんぜん不可能になってしまったのですからね。わたしは卑劣漢となってまでも、あのひとを祭壇へ導くことはできません。わたしがここでしていることは、わたしがあなたにあのひとを売るということは、あのひとにとって不倶戴天の仇に売るということは、わたしの目から見ると、いうも愚かですが、とうていゆるすべからざる卑劣な振舞いですからね」
「あなたはわたしたちの結婚のとき自殺しますか?」
「いや、ずっと後です。わたしの血であのひとの晴れの衣裳を汚して何にしましょう。もしかしたら、まるで自殺しないかもしれません、今も、また今後も」
「あなたはたぶんそういって、わたしを安心させようと思ってるのでしょう」
「あなたを? 余計な血が一しぶき飛んだからって、それでびくともするあなたでしょうか?」
 彼は真っ青になった。その目はぎらぎら輝いた。つかの間の沈黙が続いた。
「失礼なことをおたずねしてすみませんでした」とさらにスタヴローギンは口を切った。「中でも二、三の事柄は、全然おききする権利を持っていなかったのです。しかし、ただ一つのことだけは、十分おたずねする権利があるように思われます。ほかじゃありませんが、あなたはどういう根拠があって、リザヴェータ・ニコラエヴナにたいするわたしの感情を、ああいうふうに結論なすったのですか。つまり、わたしがいうのは、その感情の程度なんです。それについて、あなたに確信があったからこそ、こうしてわたしのところへやって来て……そして、ああいう勧告の冒険をあえてなすったのでしょう」
「なんですって?」マヴリーキイは心持ちぴくりとした。「いったいあなたは、あの人を獲ようとしていたんじゃないのですか? 獲ようと努めてるんですか? 獲たいと思ってるんじゃないのですか?」
「全体として、わたしは婦人に対する自分の感情を、その当人以外だれであろうとも、第三者に口外するわけにいきません。失礼ですが、それが人間機能の不思議な性質なんですから。その代わりほかのことなら、何もかもすっかり本当のことを申します。わたしは妻帯の身です。だから結婚したり、女を『獲ようとしたり』することは、不可能なんです」
 マヴリーキイはもうすっかり仰天してしまって、肘掛けいすの背によろめきかかった。そして、しばらくのあいだ身じろぎもせず、スタヴローギンの顔を眺めていた。
「これはどうだ。まるでそんなことは思ってもいなかった」と彼はつぶやいた。「あなたはあの時、あの朝、結婚してないといわれたので、わたしはそのとおり信じていました、結婚してはいられないんだと……」
 後は恐ろしくあおくなった[#「12381」はママ]。とつぜん彼は拳を固めて、力まかせにテーブルを撲りつけた。
「もしきみがこんな告白をした後までも、やはりリザヴェータ・ニコラエヴナにつきまとって、あのひとを不幸に落とすようなことがあったら、ぼくはきみを塀の下の犬のように、棒で撲り殺してしまうから!」
 こういうなり、彼は躍りあがって、足早に部屋を出てしまった。いきなり駆け込んだピョートルは、あるじがまるで思いがけない機嫌でいるのを発見した。
「ああ、きみですか!」とスタヴローギンはからからと高笑いした。それは、矢も楯もたまらぬ好奇心にかられて駆け込んだピョートルの恰好が、おかしくて笑ったにすぎないらしい。
「きみは戸口で立ち聴きしてたんでしょう? ちょっと待ってください、きみはなんの用事で来たんでしたっけね? なんだかきみに約束したはずなんだが……ああそう、思い出した、『仲間』の所へ行くんだっけ! 行きましょう、たいへんけっこう。今のところ、これより好都合なことは、きみも考えつくわけにはいかなかったろうよ」
 彼は帽子を取った。二人はさっそく家を出た。
「あなたは『仲間』が見られるからって、もう今から笑ってるんですね」愉快そうにちょこちょこしながら、ピョートルはこういった。後は、時には狭い煉瓦の歩道を、つれと並んで歩こうと骨折ったり、時には車道のほうへ駆けおりて、ぬかるみの真ん中へ踏み込んだりした。それはつれのニコライが、自分ひとり歩道の真ん中を歩きながら、自分の体でいっぱい幅をしているのに、まるで気がつかなかったからである。
「ちっとも笑ってやしない」とスタヴローギンは大きな声で、愉快そうに答えた。「それどころか、あすこに集まってるきみの仲間は、だれよりも一番まじめな人たちだと、信じてるんですよ」
「『気むずかしい鈍物ども』でしょう。これはいつかあなたのいった評言ですよ」
「でも、人によっては、『気むずかしい鈍物』ほど愉快なものはないね」
「それは、あのマヴリーキイのことをいってるんでしょう! あの人は今あなたに婚約の女を譲りに来たんでしょう、それに相違ない、ね? 実は、ぼくが間接に、あの男をけしかけたんですよ、驚いたでしょう。しかし、あの男が譲ってくれなけりゃ、ぼくらは自分であの男の手から取るだけでさあ、――ね?」
 こういう小細工を弄するのが、危険だということは、むろん百も承知しながら、ピョートルはいつも興奮に駆られると、いっそ何もかも犠牲にしたってかまわない、未知の境に立たされるよりはましだ、という気になるのであった。ニコライはただからからと笑った。
「じゃ、きみは今でもやはり、ぼくの手伝いをするつもりなんですか?」と彼はたずねた。
「もしあなたのお声がかりがあったら。しかしねえ、ここに一つ何よりうまい方法があるんですがね」
「きみの方法なんかちゃんとわかってる」
「へえ、しかし、これは当分秘密です。ただね、おぼえておってください。この秘密は金がかかるんですよ」
「いくらかかるかということまでわかってらあ」とスタヴローギンは口の中でつぶやいたが、やっと押しこたえて、黙ってしまった。
「いくらかかるか? あなたはなんといったのです?」とピョートルは躍りあがった。
「ぼくはね、きみなんかその秘密とやらを持ってどこなと行くがいい、とこういったのさ! それよりか、きみ、あすこへどういう人が来るんです? むろん、命名日に呼ばれて行くってことは、ぼくもちゃんと知ってますがね、いったいだれだれがやって来るんです?」
「ああ、それはもう思いきって有象無象の集まりなんでさあ! キリーロフもやって来ますよ」
「みんな各支部の会員ばかり?」
「ちょっ、馬鹿馬鹿しい、あなたもずいぶんせっかちですねえ! まだ支部なんてものは、一つも成立してやしませんよ」
「へえ、だって、きみはずいぶん檄文を撒き散らしたじゃありませんか?」
「いまぼくらが出かけているところには、皆で四人だけ会員がいます。あとの連中はみんなあるものを待ちかまえながら、互いに競争で探偵し合っては、そいつをぼくに報告するんですよ。なかなか有望な連中です。とにかく、みんなまだ材料にすぎないんだから、こいつを組織立てて、整理しなきゃならないんです。もっとも、あなたは自分で規約を書いたんだから、あなたに説明なんかする必要はありませんね」
「どうです、なかなかうまく進行しませんか? 一頓挫きたしたんですか?」
「進行? たやすいことこのうえなしでさあ。一つあなたを笑わしてあげましょうか。まず何より彼らにききめがあるのは、――ほかでもない官僚式です。官僚式以上に、よく利くものはありませんね。ぼくはわざと官等や職務を考え出してるんです。秘書官もあれば、秘密監視もあり、会計係もあれば、議長もあり、記録係もあれば、その助手もありというふうだ、――それが大変お気に召して、恐ろしく歓迎されたんですよ。それに次ぐ力は、もちろん感傷主義です。ねえ、ロシヤに社会主義がひろまったのは、主として感傷主義のためですからね。ただ困ったことには、例の咬みつき少尉みたいな連中が出て来ます。ちょいと油断してると、すぐもう鎖を切ってしまうんですからね。その次は本当の詐欺師連です。これはなかなかいいです。時によっては、大いに役に立ちます。が、その代わりこの連中には、ずいぶん時間が潰れるんです。ちょっとも油断なしに、監督しなくちゃなりませんからね。ところで、最後に最も重要なる力は、――ほかじゃありません、自分自身の意見に対する羞恥です、――これはいっさいを結合させるセメントです。実に素晴らしい力ですぜ! 実際、だれ一人の脳中にも、自己の思想というものが一つも残らなくなったとは、いったいまあだれが努力した結果なんでしょう? いったいどこの『感心な男』の仕業なんでしょう? まるで恥辱のように思ってるんですからねえ」
「そういうわけなら、きみはなんだってそんなにやきもきしてるんです?」
「でも、何をするでもなく暢気に寝そべって、人のすることをぽかんと口を開けて見てるようなやつは、引っかけて来ずにいられないじゃありませんか? どうもあなたは成功の可能を、真面目に信じていないようなふうですね。なに、信念はあるんです。ただ欲望が必要なんですよ。つまり、ああいう連中が相手だから、成功が可能なんです。ぼくはあえていいますがね、あの連中なら火の中でも潜らしてみせますよ。ただお前の自由思想はまだ不十分だ、とこうどなりつけさえすりゃいいんでさあ。馬鹿者どもはぼくが中央本部だの、『数限りない支部』だのと出たらめをいって、この町の連中をだましたと非難しています。現在あなたも、いつかそのことでぼくを責めたでしょう。しかし、それにいったいどんな嘘があるのです。中央本部はぼくとあなたです。支部なんかはいくらでもできまさあね」
「それがどれもこれも、あんなやくざ者ばかりだ!」
「材料ですよ。あれだって役に立つこともあります」
「で、きみはやはりぼくを当てにしてるんですか?」
「あなたは領袖です、力です。ぼくはただあなたの傍についてる一介の秘書官にすぎません。ねえ、ぼくらはあの小舟に乗り込むんですよ。かえでの櫂に絹の帆張りで、艫《とも》には麗《くわ》し乙女子の、リザヴェータのきみぞ坐したもう……とかなんとかいうんだったね、あの歌は……ええ、どうだっていいや」
「つまっちゃった」とスタヴローギンは高笑いした。「いや、それよりももっといいお話をしよう。きみはいま指を折って、会を成立させる力を数えましたね。その官僚式とか感傷主義とかいうものも、むろん立派な糊に相違ないだろうが、まだ一つもっともいいものがある。ほかではない、四人の会員をそそのかして、もう一人の会員を、密告のおそれがあるてなことをいって、殺さすんですよ、そうすると、きみはすぐさま、その流された血によって、四人の者を固く一つ絆《きずな》に繋ぐことができる。彼らはもうすっかりきみの奴隷になりきって、叛旗を翻すこともできなければ説明を要求することもできなくなってしまいますよ。ははは!」
『だが、貴様は……だが、貴様はその言葉を、おれから買い戻さなくちゃならないぞ』とピョートルは心の中で考えた。『今夜すぐにもそうさしてみせるから。貴様はあまり無遠慮すぎるぞ』
 こういうふうに、もしくはほとんどこういうふうに、ピョートルはこころの中で、考え込まざるをえなかった。とはいえ、二人はもうヴィルギンスキイの家に近づいていた。
「きみはもちろん、あの連中にぼくのことを、外国か何かからやって来た、インターナショナルと関係のあるメンバーのように触れ込んだね、監督官かなんぞのように?」ふいにスタヴローギンはこうたずねた。
「いや、監督官じゃありません。監督官になるのはあなたじゃありません。あなたは外国から来た創立委員で、いろいろ重大な機密を知ってる、――これがあなたの役廻りなんです。あなたはもちろん何か話すでしょうね?」
「それはきみどういうところから決めたんです?」
「もうこうなった以上、話すべき義務がありますよ」
 スタヴローギンは驚きのあまり、街燈からほど遠からぬ往来の真ん中に立ちどまった。ピョートルは大胆にも、平然と相手の視線をじっと受け止めた。スタヴローギンはぺっと唾を吐いて、またさっさと歩き出した。
「で、きみは何を話すんですか?」とつぜん彼はピョートルに問いかけた。
「いや、ぼくはまあ、あなたの話でも聞いてましょうよ」
「こん畜生! きみは本当にぼくに暗示を与えたよ!」
「どんな?」とピョートルは飛び出した。
「いや、たぶんあちらで話すでしょうよ。しかし、その代わり後できみに仕返しをしますよ。しかも、うんと仕返しするんですよ」
「ああ、それで思い出したが、ぼくはさっきカルマジーノフにこういったんですよ、――つまり、あなたがカルマジーノフのことを、あの男はぶん撲ってやらなけりゃならん、それも形式的なものじゃなくって、百姓かなんぞ撲るように、本当に痛い目を見せてやらなきゃならん、とこんなことをいってたってね」
「だって、ぼくは一度もそんなことを言やしませんよ、は、は!」
「なに、かまやしませんよ。〔Se non e` vero〕(本当でないにしても)……」
「いや、ありがとう、心から感謝します」
「ところでねえ、まだカルマジーノフがこんなことをいうんですよ。われわれの教義は、本質上、廉恥心の否定だ、そして破廉恥に対する公然の権利ほど、ロシヤ人を釣るいい餌はない、とこういうのです」
「名言だ! 金言だ!」とスタヴローギンは叫んだ。「すっかり図星だ! 破廉恥に対する権利、――なるほど、これじゃみんなわれわれのほうへ帰順しちゃって、一人も残るものはなくなってしまうだろう! ときに、ヴェルホーヴェンスキイ君、きみは高等警察の廻し者なんですか、え?」
「そんな疑問を心にいだいている人は、けっしてそれを口ヘ出しゃしません」
「そりゃそうだ。しかし、ぼくらは内輪同士じゃありませんか」
「いや、今のところ高等警察の廻し者じゃありません。もうたくさん、来ましたぜ。さあ、スタヴローギンさん、一つあなたの顔の造作をこしらえてください。ぼくはあの連中のところへ出る時、いつもやるんです。なるべく陰気らしい様子をすればいいのです。ほかになんにもいりゃしません。ごく簡単な細工でさあ」

[#3字下げ]第7章 仲間[#「第7章 仲間」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 ヴィルギンスキイはムラヴィーナヤ街にある自分の家、といって、つまり、細君の持ち家に暮らしていた。木造の平屋建てで、別に同居人というものはなかった。主人の誕生日というふれ込みで、十五人からの客が集まったが、ありふれた地方の誕生日の集まりらしいところはいっこうなかった。ヴィルギンスキイ夫婦は共同生活を始めたそもそもから、命名日に客を集めるのは馬鹿げている、それに『何も嬉しがることは少しもないじゃないか』ということに、ぴしっと決めてしまったのである。この二、三年に二人の者は自分のほうで、もうすっかり社会から遠ざかってしまった。彼は相当才能もあって、『気の毒なやくざ者』などというような人物ではなかったが、なぜか世間では彼のことを、孤独を好んで、『高慢ちきな』ものの言い方をする男のようにいっていた。マダム・ヴィルギンスカヤにいたっては、産婆を商売にしているのだから、夫が将校相当の官位を持っているにもかかわらず、すでにそれ一つだけでも社会の一段ひくい階級に立って、坊主の家内より下に見られているわけだが、彼女の態度にはその使命に相当した、へりくだった心持ちはもうとう見受けられなかった。ところが、例のまやかし者のレビャードキン大尉と、馬鹿馬鹿しい関係を結んだうえ、それをば主義から出たことだとかなんとかいって、ずうずうしくも露骨な振舞いをして以来、町の婦人連の中で一ばん気位の低い人たちでも、一方ならぬ軽蔑の目をもって顔をそむけてしまった。けれど、マダム・ヴィルギンスカヤはそういうふうのことをも、これこそ自分の願うところだというような態度であしらっていた。
 しかし、ここに注意すべきは、この厳格な貴婦人たちもただならぬ体になると、この町にいるほかの三人の産婆をさし措いて、なるべくアリーナ・プローホロヴナ(つまり、マダム・ヴィルギンスカヤ)にかかりたがるのであった。郡部のほうからでさえ、地主あたりが迎えに来るという有様で、異常な場合における彼女の知識と技術と、そして運強いことが、すっかり信じ込まれたのである。で、彼女もしまいには、一ばん金持ちの家でなければ、出入りしないようになってしまった。もちろん、金は強欲といっていいほど好きなのだった。十分わが力量に自信ができると、彼女はもう少しの遠慮もなく、わがまま一杯に振舞った。ことによったら、わざとかもしれないが、上流の立派な家に出入りしながら、まあなんだか聞いたこともないような、ニヒリスト流の無作法な振舞いや、『すべての神聖なるもの』に対する冷笑などで、神経の弱い産婦の荒胆をひしぐのであった。しかも、『神聖なるもの』のことさら必要な瞬間を選んでやっつけるのだ。町の医者のローザノフ(これも産科医)の証言によると、あるとき産婦が苦痛に堪えかねてさけびながら、全能の神の御名を呼んでいるとき、ヴィルギンスカヤは思いがけなく、まるで鉄砲の火蓋でも切ったように、そうしたふうな冒涜の言葉を吐いた。ところが、これが産婦に強い驚愕をひき起こして、かえって分娩を早めたという話である。
 もっとも、ニヒリストとはいいながら、ヴィルギンスカヤも必要に応じては、単なる上流社会の風習のみか、きわめて古い迷信的な習慣すらも、けっしておろそかにするようなことはなかった。が、それはこういう習慣によって、利益をうる場合に限るのであった。たとえば、自分の取り上げた赤ん坊の洗礼式などは、どんなことがあっても、のがしっこなかった。そういう時、彼女は尻尾のついた緑色の絹の服を着て、入毛をうねらしたりちぢらしたりしてやって来た。そのくせ、ふだんは自分のお引摺りを痛快に感じるほどの女であった。聖なる儀式の行なわれる間じゅう、いつも坊さんがまごつくほど、『高慢ちきな顔つき』をしているが、式がすんでしまうと、必ず自分でシャンパンを注いでまわる(つまり、そのためにお洒落をして来るのだ)。そして、もし彼女にご祝儀をやらないで杯を取ろうものなら、それこそ大変な騒ぎである。
 今夜ヴィルギンスキイのところに集まった客は(大抵みんな男だった)、偶然どこからか寄せ集めたような、一種異様な風体をしていた。摘物《ザクースカ》もなければ、カルタもなかった。恐ろしく古い空色の壁紙を張った客間の真ん中には、二つのテーブルがくっつけ合って据えられ、その上から大きくてたっぷりはしているが、あまりきれいでないクロースを掛けてあった。テーブルの上には湯沸《サモワール》が二つたぎっていた。二十五のコップをのせた大きな盆と、男女学生を置いた厳格な寄宿舎にでもありそうな、ありふれたフランスパンを薄く切ったのを山ほど盛った籠が、テーブルの一方のはじを占領している。三十恰好の老嬢が茶を注いでいた。これは、女あるじの姉に当たる、眉のない、白っぽい毛をした、無口な、ひねくれた女で、新しい思想にも共鳴していた。主人のヴィルギンスキイさえ家庭内の生活では、いたくこの女を恐れている。
 部屋の中には、つごう三人の女がいた。女あるじと、眉なしの姉と、ペテルブルグからやって来たばかりの、主人ヴィルギンスキイの親身の妹、――という顔触れだった。アリーナ・プローホロヴナは、顔だちもさして悪くない、二十七ばかりの押出しの立派な婦人だったが、いくぶん頭をばさばささして、かくべつ晴着でもないらしい、青みがかった毛織の服を着込んでいた。大胆な目つきで客を見廻しながら、かまえ込んでいる様子は、『見てください、わたし何も恐ろしいものはないんですから』ということを、知らせたくてたまらないらしかった。きょう着いたばかりのヴィルギンスカヤ嬢、――例のニヒリストの女学生は、やはり相当に美しい顔だちだったが、脂が廻って肉づきがよく、まるで毬みたいにころころしていた。恐ろしく赤い頬っぺたをして、背はあまり高くなかった。何やら書類を巻いたものを手にしながら、まだ道中着のまま、アリーナの傍に陣取って、さもじれったそうな、躍りあがるような眼ざしで、きょろきょろ一座を見廻していた。あるじのヴィルギンスキイは、今夜すこし気分がすぐれなかったが、それでもやはり客間へ出て来て、ティー・テーブルの前なる肘掛けいすに腰を下ろした。客一同も同様に座に着いていた。こうして一つのテーブルを囲み、きちんと行儀よく椅子に腰かけた一座の様子には、いかにも何かの会議らしい気分が感じられた。見受けたところ、一同は何やら待ち設けているらしかった。そして、待っている間に、声高な調子ではあるが、なんとなくよそごとらしい会話を続けていた。スタヴローギンとヴェルホーヴェンスキイが姿を現わした時、一座は急にぴったりと鳴りを静めた。
 ここでわたしは叙述の正確を期するために、ちょっとした説明を加えようと思う。
 わたしの考えでは、これらの人々は、実際なにか特別耳新しいことを聞き込むつもりで、それを楽しみに集まったものらしい。しかも、前もって予告を受けて、集まったものに相違ない。彼らはこの古い町でもことに濃厚な赤色を呈した、自由主義の代表者なのであった。そして、ことさらこの『集会』のために、きわめて慎重な態度をもって、ヴィルギンスキイが取捨選択したのである。もう一つ断わっておくが、この連中のある者は(もっとも、ごく少数な人たちである)、今まで一度もこうした集会に出席したことがなかった。もちろん大多数のものは、なんのためにこんな通知があったのか、はっきり知らないくらいだった。もっとも、彼らはすべてその当時ピョートルを、臨時に密使としてロシヤヘ帰って来た海外全権委員のように考えていた。この想像はどういうわけか、間もなく正確無比なものとされ、かつ自然の結果として、人々の気に入ったのである。
 とはいえ、誕生日の祝いを口実に集まったこの社会人のむれの中には、はっきりとある任務を依頼された人も幾たりかあった。ピョートルはもうこの町へ来てから、モスクワや郡部の将校仲間で、すでにできあがっているような、『五人組』を組織してしまったのである。ついでながら、この『五人組』はX県にもできていたそうである。五人組は今も大テーブルに向かって座を占めていたが、きわめて巧妙に、平々凡凡たる顔つきをとりつくろっているので、だれ一人そんなことに気のつくものはなかった。もはや今では、秘密でもなんでもないからいってしまうが、それは第一にリプーチン、次にあるじのヴィルギンスキイ、ヴィルギンスカヤ夫人の弟にあたる耳の長いシガリョフ、リャームシン、それから最後に、トルカチェンコという奇妙な男だった。もう四十を越した年輩で、ロシヤ民衆――主として悪党や泥棒――の偉大な研究者として知られていた。ことさら居酒屋ばかり巡歴して(もっとも、これは民衆研究のためばかりでない)、汚い服や、タールを塗りこくった兵隊靴や、妙に目に皺を寄せたずるそうな顔つきや、気取った俗語などを自慢にして、仲間にひけらかしている男だった。以前リャームシンは一度か二度ほど、この男をスチェパン氏のところの集まりに連れて行ったことがあるが、別に大した印象も残さなかった。この男が町へ姿をあらわすのは、特に職がない時で、普通は鉄道などに勤めていた。
 この五人組は、自分らこそロシヤ全国に散在している何百何千という同じような五人組の一つだ、そして自分たち一同はある偉大な、とはいえ、秘密の中央団体の意志で動き、その中央機関はさらに欧州におけるインターナショナルと有機的に連絡を保ってるのだ、というおめでたい信念をいだいた第一の集団であった。しかし、残念ながら、彼らの間にも内輪もめが現われ始めたことを、認めざるをえない。それはこういうわけである。彼らはすでに春ごろから、初めトルカチェンコによって、次によそから来たシガリョフによって、あらかじめ予告されていたピョートルの到着を、待ちくたびれていたので、彼から何か異常な奇蹟のようなものを期待して、いささかの批判も反省もなしに、二つ返事で即座に結社へ入ったのである。けれど、五人組が成立するやいなや、さっそく彼らは腹を立てたらしい様子である。しかも、その原因は、わたしの想像するところ、自分たちがあまり速く承知してしまったからである。もちろん、彼らは後で『意気地がなくて入らなかったのだ』などといわれたくないために、寛大な羞恥心から入会したわけなのだが、それにしても、いま少し自分たちの立派な勲功を、ピョートルに尊重してもらいたかった。少なくもお礼として、何か非常に重大な意義を帯びた、逸話でも話すのが当然である。が、ピョートルは、彼らの道理至極な好奇心をけっして満足させようとせず、余計なことは何一つしゃべらなかった。そして、目に見えて厳格な、おまけに人を馬鹿にしたような態度で、彼らを遇するのであった。これがすっかり五人の者に癇癪を起こさせてしまった。シガリョフなどはほかの五人組を焚きつけて、『説明を要求しよう』といきまいた。しかし、それはもちろん、今ここで、――はたの者の大勢あつまっている、ヴィルギンスキイの家でいうのではない。
 はたのものといえば、もう一つわたしの感じたことがある。前に述べた五人組の仲間は、この晩ヴィルギンスキイの家に集まった客の中に、何か自分たちの知らぬほかの団体に属したものがいはしないか、とこんなことを疑っているのであった。しかも、この団体はやはり秘密な性質のもので、同じくヴェルホーヴェンスキイの手によってこの町に組織されたものと信じていた。で、結局、この席に集まったすべての者は、互いに相手のはらを探り合って、互いに妙な気取った態度を持し合っていた。こういう事情は、この集合の席になんとなくちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]な、いくぶん小説じみた気分を与えたのである。もっとも、中には全然そういう疑惑の圏外に立っている人もあった。たとえば、ヴィルギンスキイの近い親戚に当たる現役少佐などがそうであった。彼はごくごくナイーヴな人間で、今夜も別に招待されたわけではないが、自分から命名日の祝いと称してやって来たので、どうしても断わるわけにいかなかったのである。しかし、夜会のあるじは平気だった。『なに、大丈夫、密告などするものか』と多寡をくくっていたからである。生まれつきのろまな性質にもかかわらず、これまでしじゅう、極端な自由主義者の出入する場所をうろつき廻るのが好きなのであった。自分では別に同感しているわけではないが、人の話を聴くのが大好きなので。それに、幾分うしろ暗いところもあった。というのは、若い時分『警鐘《コロコル》』([#割り注]ゲルツェンが英国で発行した雑誌[#割り注終わり])と幾種類かの檄文を、倉に入れても余るほど取り次いだことがあった。もっとも、自分ではページをめくって見るのも恐れたくせに、その取次を断わるのはこの上もない卑怯なことと思い込んだのである、――ロシヤにはこういう人間が、今でもたまには見つかる。
 その他の客は、いらだたしいほど圧迫された高潔な自尊心の所有者といったタイプでなければ、熱しやすい青春期の最初の高潔な発作を感じているタイプであった。中には、二、三人の学校教師もあった。一人はもう四十五ばかりのびっこの中学教師で、恐ろしく皮肉な、人並みはずれて虚栄心の強い男だった。二、三の将校もいたが、中の一人はごく若い砲兵将校だった。これはつい近頃、ある陸軍の学校を出て、この町へ来たばかりではあり、恐ろしく無口な少年なので、まだだれとも知己を結ぶ暇もなかったのに、今夜とつぜんヴィルギンスキイのところに現われて、鉛筆を手にかまえ込んでいる。そして、ほとんど話にも口を出さず、絶え間なく手帳に何やら書き留めているのであった。一同はむろんそれを見ていたが、なぜか気がつかない振りをしようと努めていた。そこにはまたリャームシンとぐるになって、聖書売りの女の籠に猥雑な写真を押し込んだのらくら者の神学生もいた。大柄な若いもので、磊落らしいと同時にうさん臭そうな素振りのうえに、いつも人のあらでもさがしているような微笑を浮かべ、自分ほどえらいものはないぞというような、得々たる落ちつき払った顔つきをしていた。それからまた、なんのためか知らないけれども、この町の市長の息子も出席していた。例の年に似合わずすれからした不良少年である。この男のことは、可憐な中尉夫人のできごとを話す時、すでに説明しておいた。彼は一晩じゅうだまり込んでいた。それから、最後に一人中学生がいた。並みはずれて熱しやすい、髪をくしゃくしゃに掻き乱した、十八ばかりの少年で、自己の尊厳を傷つけられた若者といったようなふうで、沈んだ顔つきをしながら腰かけていたが、見受けたところ、自分の十八という年が苦になってたまらないらしい。この小わっぱが、中学の上級に組織されていた、ある陰謀団の団長になっていることが後でわかって、一同をあっといわしたものである。
 わたしはシャートフのことをいわなかった。彼はテーブルのうしろのほうの隅に陣取り、椅子を人より少し前へ引き出して、じっと足もとを見つめながら、陰気くさく黙り込んでいた。茶もパンも辞退して、しじゅう手に帽子をつかんだまま控えている様子は、おれは客じゃなくて、用事で来ただけだから、気さえ向けばすぐ立って出てしまうぞ、ということを知らせるつもりらしかった。彼の傍からほど遠からぬところに、キリーロフも座を占めていた。同様に押し黙っていたが、足もとなど見つめてはいず、それどころか、例の光のない据わって動かぬ目で、話し手の顔を一人一人穴のあくほど見つめながら、いささかの興奮も驚異の色もなく傾聴していた。初めて彼を見る客の二、三は、もの案じ顔に盗むように、まじまじと彼をうち守っていた。
 ヴィルギンスカヤ夫人が五人組の存在を知ってるかどうか、確かなことはわからなかったが、わたしの想像では、何もかも知っているらしかった。つまり、夫の口から洩れたのである。女学生はもちろん、なんにも関係していなかった。彼女にはまた自分の心配があった。彼女はほんの二、三日ここに逗留して、それから、大学所在地を一つ一つ歴訪しながら、先へ先へと進んで行く計画だった。それは、『貧しい大学生の苦しみに参与して、彼らに抗議を提出させよう』というのである。彼女は石版刷の宣伝書を幾百枚か持っていたが、それはどうやら彼女自身の起草に係るものらしい。ここに注意すべきは、例の中学生が、一目この女学生を見るやいなや、さながら不倶戴天の仇のように憎み出した一事である。そのくせ、中学生が彼女を見るのは生まれて初めてだし、彼女とてもご同様なのであった。少佐は彼女の親身の叔父に当たっていた。きょう会ったのは十年振りなのである。スタヴローギンとヴェルホーヴェンスキイが入って来たとき、彼女の頬は苺のように真っ赤になっていた。たったいま叔父を相手に、婦人問題に関する主張の相違で一議論やったばかりなのである。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 ヴェルホーヴェンスキイはほとんどだれにも挨拶せず、目立って無作法な恰好で、上席の椅子にどかりと身を投げた。その顔つきは気むずかしげといおう[#「といおう」はママ]より、むしろ傲慢なくらいだった。スタヴローギンは丁寧に会釈したが、一同は二人が来るのばかり待ちかねていたくせに、みんな号令でもかかったように、二人の姿にほとんど気のつかない振りをしていた。スタヴローギンが席に着くやいなや、主婦は厳めしい態度でそのほうへ振り向いた。
「スタヴローギンさん、お茶をあがりますか?」
「いただきましょう」とこちらは答えた。
「スタヴローギンさんにお茶」と彼女は注ぎ手に号令をかけた。「あなた、あがりますか?」(これはヴェルホーヴェンスキイにいったので)
「むろんもらいますとも、そんなことをお客にきく人がありますか? それから、クリームもお出しなさい。いったいあなたのところではいつもお茶と称して、なんだかえたいの知れないものを出すんですからね。しかも、今日は命名日の祝いじゃありませんか」
「え、じゃ、あなたも命名日をお認めになるんですか?」と出しぬけに女学生が笑い出した。「たった今その話をしたばかりですのに」
「古くさい」と中学生がテーブルの向こうの端からつぶやいた。
「古くさいとはなんですか? どんなに無邪気なものであろうとも、偏見を忘れるってことは、けっして古くさかありません。それどころか、恥ずかしいことには、今日まで新しい意義のあることになってるのです」女学生は、しゃくるように椅子から乗り出しながら、さっそくこうやり返した。「それに無邪気な偏見なんてありゃしません」と彼女はやっきとなっていい足した。
「ぼくはただ、こういうことがいいたかったのです」中学生は恐ろしく興奮し出した。「偏見なるものは、もちろん古いしろもので、撲滅すべきものに相違ありません。しかし、命名日が馬鹿馬鹿しい黴の生えたしろものだってことは、もうだれでも承知しています。そんなもののために、貴重な時間をつぶす価値はありません。そうでなくってさえ、世界じゅうの人が空しく逸してしまった貴重な時間じゃありませんか。そんなことより、もっと必要の切迫した事柄に、あなたの機知を利用したほうがよかないでしょうか……」
「あんまり長ったらしくって、なんのこったかわかりゃしない」と女学生は叫んだ。
「ぼくは、どんな人でもほかの者と同じように、発言権を有していると思います。だから、ぼくがほかの人と同じように、自分の意見を発表しようと望んでいる以上……」
「だれもあなたの発言権を取りゃしませんよ」と今度はもう主婦が自分で口を出して、言葉するどくさえぎった。「ただね、口の中でむにゃむにゃいわないでくれと頼んでるのです。だって、あなたのいうことは、だれにもわからないじゃありませんか」
「しかし、もうひと言いわしてください。あなた方はぼくを尊敬してないんですね。ぼくが、かりに自分の考えをじゅうぶん表白しえなかったとしても、それはけっしてぼくに思想が欠乏しているからじゃない、むしろ思想があり余ってるからです……」と中学生はほとんど夢中になってつぶやいたが、すっかりまごついてしまった。
「話すことができなきゃ、黙ってらっしゃい」と女学生は、叩きつけるようにいった。
 中学生はもう椅子から躍りあがった。
「ぼくはただこういうことをいいたかっただけです」羞恥の念に体じゅう燃え立たせながら、あたりを見廻す勇気もなく、彼はこう叫んだ。「あなたがその利口さを見せびらかしに出しゃばったのは、ただスタヴローギン氏が入って来たからです、――それっきりです!」
「あなたの思想はけがれています。背徳の思想です。そして、あなたの発達の劣等さを暴露しています。もうわたしに話しかけてもらいますまい」と女学生はぷりぷりしながらいった。
「スタヴローギンさん」と主婦は口を切った。「あなたのいらっしゃる前、つい今までここで家庭の権利ということを、やかましく論じていましたの、――その将校なんですよ(と彼女は親戚に当たる少佐を顎でしゃくった)。むろんわたしは、とうの昔に解決されている古臭い無意味な問題で、あなたを煩わそうとは思いませんが、しかし、いったいどこからそんな家庭の権利だの、義務だのというものが生じたのでしょう? つまり、いま一般に考えられているような、偏見の意味を帯びた権利や義務のこと、それが問題なんですの。あなたのご意見は?」
「どこから生じたとは、なんのこってす?」とスタヴローギンは問い返した。
「それはこうですの。たとえば、神に関する偏見が雷鳴や電光から生じたのは、われわれ一般に知れきったことでしょう」まるでスタヴローギンに躍りかかるような目つきで、またもや女学生が出しぬけに口を開いた。「原始の人類が雷鳴や電光に驚いて、そういうものに対する自己の弱小を感じたために、この目に見えぬ敵を神化したということは、わかり過ぎるくらいわかっています。しかし、家庭に関する偏見はどこから生じたのでしょう? また家庭そのものはどうしてできたのでしょう?」
「それとこれとは、ちょっと違いますよ……」と主婦は押し止めようとした。
「そういう質問に答えるのは、少々ぶしつけじゃないかと思います」とスタヴローギンはいった。
「どうしてなんですの?」と女学生はしゃくるように前へ乗り出した。
 けれど教師仲間のサークルで、押し潰したような盗み笑いが聞こえた。すると、いま一方の隅から、リャームシンと中学生がすぐそれに声を合わせた。続いて、親戚の少佐のしゃがれた高い笑いが起こった。
「あなたは、ヴォードビルでもお作りになったらいいでしょうよ」主婦はスタヴローギンに向かってこういった。
「それはあなたの……お名前を知りませんが、あなたのお答えはあまりご名誉になることじゃありませんよ」と憤懣に堪えぬといった様子で、女学生は叩き切るようにいった。
「ところで、お前は出しゃばらんようにしなさい!」と少佐がどなりつけた。「お前は娘の身分だから、しとやかにしなけりゃならんはずだのに、まるで針の莚にでも坐っとるように、ちっともじっと落ち着いとらんじゃないか」
「お黙りなさい。そして、そんな馬鹿げた比喩なんか引っ張り出して、わたしになれなれしい口のきき方をしないでください。わたしは今度はじめてあなたに会ったきりです。わたしあなたなんかの親属[#「親属」はママ]関係は、認めやしませんから」
「これ、わしはお前の叔父さんだぞ。お前がまだ乳呑み児の時分に、この手に抱いて歩いたもんだぞ!」
「あなたが、何を抱いて歩こうと、わたしの知ったことですか。わたしは何もその時分だいてくださいって、頼んだことはありませんよ。してみると、あなた自身の楽しみにしたことじゃありませんか、本当に無作法な将校さんだわ。それに、ご注意しておきますがね、もし万民平等の主意から出たことでなければ、わたしのことをお前[#「お前」に傍点]なんかっていっていただきますまい。わたし断然おことわりしておきます」
「この頃の女はみんなもうあのとおりだ!」自分の正面に坐っているスタヴローギンに向かって、少佐は拳固でテーブルを叩きながらこういった。「いや、ごめんなさい、わしは自由主義や現代主義は、大いに好きです。賢明な人たちの談話を聞くのも大好きです。しかし、断わっておきますが、これは男のことをいっているんですぞ。女となったら、――ことに、こんな現代式なお転婆どもときたら、いや、もう真っ平だ。これはわしにとってなんともいえない苦痛です! お前そうばたばたするんじゃない!」椅子から跳ねあがろうとする女学生にむかって、彼はこうどなった。「ふん、わしだって発言権を要求する、わしは腹が立つ」
「あなたはほかの人の邪魔をするばかりじゃありませんか。ご自分では何一つ意見が吐けないくせに」と主婦は不平そうにつぶやいた。
「いや、こうなれば、わしもすっかりいってしまう」と少佐は熱くなって、スタヴローギンにいった。「スタヴローギンさん、わしはあなたを新来の客として、あなたに望みを嘱しておるです。もっとも、知己の光栄を有しませんがね。女なんてものは、男がなかったら、蠅かなんぞのようにくたばってしまう、――これがわしの意見なのです。あいつらのいう婦人問題なるものは、単に創意の欠乏にすぎん。わしはあえて断言します、――あんな婦人問題なんてものは、みんな男が考え出したものです。馬鹿な、自分から藪をつついて蛇を出したんです。まあ、仕合わせと、わしは女房がありませんがね! まるっきり変化というものがないんですからなあ。きわめて単純なあやさえ、考え出すことができないんですよ。婦人問題のあやは、みんな男が代わって考え出したものです! たとえば、この娘にしろ、わしが小さい時分だいても歩いたし、十くらいの頃には、いっしょにマズルカを踊ったこともある。ところで、きょう久し振りにやって来たものだから、自然の情として跳びついて、抱きしめてやろうとすると、この娘はいきなり二こと目から、神はないなどといい出すじゃありませんか。まあ、二こと目からでなくて、三こと目からだとしても、とにかくあまり急ぎ過ぎるじゃありませんか? そりゃ賢明な人たちは、信仰を持ってないかもしれないが、それは自分の頭のせいです。ところが、お前なんぞはあぶくだ。いったいお前なぞに神様のことが何がわかる? お前なんか大学生から教わったんだろう。もしお燈明を上げろと教わったら、本当にお燈明を上げるに相違ない」
「あなたは嘘をついてます、あなたは恐ろしい意地悪です。わたしはさっきあれほど論理的に、あなたの無資格を論証してあげたじゃありませんか」こんな男と長く議論するのは馬鹿馬鹿しいといいたげに、女学生はほうり出すような調子で答えた。「わたしさっき、あなたにいったばかりじゃありませんか、――わたしたちはみんなキリスト教初等講義によって、『おのれの祖先と両親を敬うものは、息災長命、富を授かるべし』と教えられたものです。これが十戒に載ってるんです。もし、神様が、愛に報酬を与える必要を認めたとすれば、それは取りも直さず、不道徳な神様です。こんなふうな言葉を使って、わたしはさっきあなたに論証して聞かせたのです。けっして二こと目じゃありません。だって、あなたがご自分の権利を声明なすったんですもの。いったいあなたが鈍感で、今までそれがわからないからって、そんなことだれが知るもんですか。あなたはそれが癪にさわるもんだから、勝手に腹を立ててるんですよ、――これがあなた方の世代の正体なんですよ」
「おたんちんめ!」と少佐はいった。
「あなたが馬鹿なのよ」
「そんな悪口をつくか!」
「しかし、カピトン・マクシームイチ、失礼ですが、さっきあなた自身そういわれたじゃありませんか、おれは神を信じていないって」テーブルの向こうの端から、リプーチンが黄いろい声でこう叫んだ。
「わしが何をいおうとかまやしません、――わしのことは別問題ですよ! 或いは、実際、わしは信仰を持っとるかもしれません。が、信じきっとるわけじゃありませんぞ。たとえ、ぜんぜん信仰を持っとらんにしても、それでも、神は銃刑にしてしまわねばならんなどと、そんなことはけっしていわんです。わしはまだ軽騎兵隊に勤めておる時分、よく神の問題で考え込んだものですて。大抵の詩では、軽騎兵というものを、酒を呑んだり、騒いだりしてばかりおるように書くのが、定式になっておりますなあ。そりゃわしも、酒ぐらい飲んだかもしれません。しかし、本当になさらんでしょうが、よく夜中に靴下ひとつで寝床から跳ね起きて、神が信仰を恵んでくださるようにと、十字を切ったりなぞしたものですぞ。その当時から、神はありやなしやという問題で、平然としておれんかったものでな。それほどわしはこのことについて、苦しい思いをしてきたものですよ! もっとも、朝になると、もちろん、また気が紛れて、信仰がなくなるような気味あいでしたがな。全体として、わしの観察によると、だれでも昼間はいくぶん信仰が薄らぐもんですな」
「あなたのところにカルタはありませんか?」無遠慮に大あくびをしながら、ヴェルホーヴェンスキイは主婦にたずねた。
「わたしはまったく、まったくあなたの質問に同感しますわ!」少佐の言葉に対する憤慨のあまり、真っ赤になって、女学生は吐き出すようにいった。「馬鹿な話を聞いてて、貴重な時間を無駄にするばかりですわ」と主婦は断ち切るようにいい、命令するように夫を見やった。
 女学生はきっとなった。
「わたしはこの集まりの皆さんに、大学生の苦痛と抗議に関して、一言したいと思っていました。ところが、不道徳な会話で時間が浪費されますから……」
「道徳的なものも不道徳なものも、そんなものは一つもありゃしません」女学生が話を始めるが早いか、さっそく中学生はこらえきれないでこういった。
「そんなことはね、中学生さん、あんたが習ったよりか、ずっとさきに知ってましたよ」
「じゃ、ぼくはこう確信します」とこちらは猛然と奮い立った。「あんたはね、こっちがもうちゃんと知ってることを、ぼくらに教えようと思って、はるばるペテルブルグからやって来た赤ん坊です。あなたがろくそっぽしまいまで読めなかった『汝の父母を崇めよ』の聖訓だって、あれが不道徳なものだということは、――もうベリンスキイ以来、ロシヤ全国に知れ渡っていますよ」
「まあ、これがいつかおしまいになるんでしょうか?」ヴィルギンスカヤ夫人は断固として、夫にこういった。
 彼女は主婦として、会話の馬鹿馬鹿しい調子に赤面してしまった。ことに幾たりかの笑顔や、新しく招いた人々の怪訝の表情を見ると、もう恥ずかしくてたまらなくなった。
「諸君」ヴィルギンスキイはとつぜん声を高めた。「もしだれでも、より以上この会合にふさわしい話を始めたいとか、或いは何か発表したいと望んでおられるかたは、どうか時を逸することなしに、始めていただきたいものです」
「では、失礼ながら、一つ質問を提出さしてもらいましょう」今までことに行儀よくきちんと坐って、しゅうねく押し黙っていたびっこの教師が、もの柔かな調子で口を切った。
「いったいぼくたちは今ここで、何かの会議に列してるのでしょうか、それともまた単に客として招待された、普通のつまらん人間の寄り合いでしょうか、それが一つ知りたいものですね。これはただより多く秩序的にやりたい、五里霧中でいたくない、という精神からおたずねするので」
 この『狡妙』な質問は一種の印象を与えた。一同は互いに答えを求めるように、目くばせした。と、ふいに号令でもかけられたように、ヴェルホーヴェンスキイとスタヴローギンに視線を向けた。
「わたしはいっそ、『われわれは会議の席にありやいなや』という質問に対する答えを、みんなで投票したらと思います」とヴィルギンスカヤ夫人がいい出した。
「わたしはまったくその動議に賛成します」とリプーチンが応じた。「もっとも、やや漠然とした動議ではありますが」
「ぼくも賛成します――わたしも」という人々の声が聞こえた。
「わたしも、そのほうが秩序が立ってよさそうに思われます」とヴィルギンスキイが断案をくだした。
「では、投票を始めます!」と、主婦が宣言した。「リャームシンさん、あなたピアノに向かってください。あなたも投票が始まったら、そこから声をかけられますよ」
「また!」とリャームシンは叫んだ。「ぼくはもういい加減あなた方のために、ばらんばらんやりましたね」
「でも、わたしはたってお願いするのです。さあ、あっちへ行って弾いてください。それとも、あなたは共同の事業に仕えるのがいやなのですか?」
「だって、アリーナさん、大丈夫だれも立ち聴きするものはありゃしません。それはあなたの杞憂ですよ。それに、窓もこんなに高いんですもの、よしんばだれか立ち聴きしたっ