京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集10 悪霊 下』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP097-120

の思いに沈めるのであった。リプーチンはとうとう彼が憎くてたまらなくなって、どうしてもその顔から目が放せないほどだった。それは一種の神経的発作ともいうべきものであった。彼は相手の口ヘほうり込むビフテキのきれを、一つ一つ数えながら、その口がぱくっと開いて、脂ぎった肉のきれをさもうまそうにむしゃむしゃ噛んだり、汁を吸ったりするのが、憎くてならなかった。ビフテキその物までが憎らしかった。しまいには彼はなんだか目がちらちらするように思われてきた。頭が心持ちふらふらして、背中は急に熱くなったり、寒くなったりするのであった。
「きみは何もしていないんだから、一つこれを読んで見たまえ」出しぬけにピョートルが、一葉の紙きれを彼にむかってほうり投げた。
 リプーチンは蝋燭のほうへ近寄った。紙切れは拙い字で一杯に細かく書きつめられ、一行ごとに消しがあった。やっと彼が読み終えた時、ピョートルはもう勘定をすまして、出かけようとしているところだった。歩道へ出ると、リプーチンはその紙きれを彼に突き出した。
「まあ、きみ持っていたまえ、後で話すから。ところで、きみはどう思うね」
 リプーチンは全身をわなわなと震わした。
「ぼくにいわせれば……こんな檄文なんか……ただ馬鹿げたお笑い草に過ぎないですよ」
 憤怒は堰を破って出た。彼はだれかに体をわしづかみにされて、どこかへ連れて行かれるような気がした。
「もしわれわれが」彼は全身をびりびりと小刻みに震わせながら、「こんな檄文の撒布を決心したら、それこそ馬鹿な物事をわきまえない人間として、人の軽蔑を招くばかりですよ」
「ふむ! ぼくはそうは考えないね」ピョートルはしっかりした足どりで歩いた。
「ぼくこそそうは考えない。いったいこれはあなたが自分で作ったんですか?」
「それはきみの知ったことじゃないよ」
「ぼくは『光輝ある人格』、――あの想像することもできないほど愚劣きわまる詩も、やはりゲルツェンの作だとはどうしても思われませんよ」
「ばかいっちゃいけない。あれは立派な詩だよ」
「ぼくはまだまだ不思議なことがあるんです」リプーチンは勢いにかられながらどんどんまくし立てた。「どうして連中はわれわれに、いっさいの破壊を目的とする行動をとらせようとするんでしょう? ヨーロッパでこそプロレタリヤが存在してるから、いっさいの破壊を望むのは自然だけれど、ロシヤにはわれわれのようなアマチュアしかいないんだから、ただ埃を立てるばかりでさあね」
「ぼくはきみをフーリエ派かと思ってたよ」
フーリエ説は違います、まるで違います」
「まるでノンセンスだってことは、ぼくも承知してるさ」
「いや、フーリエ説はノンセンスじゃありません……失敬ですが、ぼくは五月に叛乱が起ころうとは、どうしても信じることができませんよ」
 リプーチンは上衣のボタンまではずした、それほど熱かったので。
「いや、たくさん。ところで、今ちょっと忘れないようにいっとくがね」とピョートルは恐ろしく冷静な調子で、いきなり話題を変えてしまった。「きみはこの檄文を自分の手で文選して、印刷しなくちゃならないんだよ。シャートフに預けた印刷機械を、あすぼくらが掘り出すから、きみはその日から保管を引き受けることになるんだ。そして、できるだけ急いで活字を拾って、一枚でも余計に刷ってくれたまえ。この冬じゅうかかって、それを撒き散らすんだからね。資金の出所については指令があるはずだ。とにかく、できるだけ余計に刷ってもらわなきゃ。ほかの地方からも注文があるんだから」
「いやです、それは真っぴらごめんこうむりますよ。ぼくはそんな……ことを引き受けるわけにゆきません……お断わりします」
「それでも、やはり引き受けるようになるよ。ぼくは中央委員会の命令で行動してるんだから、きみはそれに服従する義務があるんだよ」
「ところが、ぼくの考えでは、外国にあるロシヤの中央委員会は、現実のロシヤを忘れて、いっさいの連絡をこわしてしまったのです。彼らは夢を見てるにすぎない……いや、それどころか、ロシヤに何百という五人組があるというのは嘘で、ぼくらの組がたった一つしかないのじゃないか、連絡網なんてものはまるでないのじゃないか、と思われるくらいですよ」もうしまいには、リプーチンは息をつまらせてきた。
「事実の真偽さえ弁別しないで、軽率に雷同したきみたちこそ、かえって軽蔑に価するじゃないか……今だってまるで野良犬みたいに、ぼくの後から走って来るじゃないか」
「いや、走って行きゃしませんよ。ぼくらもあなたの傍を離れて、新しい結社を組織する権利を、十分にもってるんですからね」
「ばかッ!」突然ピョートルは目を輝かしながら、凄まじい勢いでどなりつけた。
 二人はしばらく相対して突っ立っていた。ピョートルはくるりとくびすを返して、たのむところありげな足どりで、元の方角へ進んで行った。
『このままくるりと向きを変えて、帰ってしまおうかしら。いま引っ返さなかったら、永久に後戻りはできないだろう』こういう考えがリプーチンの頭の中を、まるで稲妻のように閃めいた。
 彼はちょうど十歩だけ歩く間、こういうことを考えていたが、十一歩めにまた新しい自暴自棄的な想念が、彼の頭の中にぱっと燃えあがった。彼は引っ返しもしなければ、あとへ戻ろうともしなくなった。
 やがて、二人はフィリッポフの持ち家へ近づいたけれど、そこまで行き着かないうちに、横町、――というより、むしろ垣根に沿うた人目に立たない径へそれた。しばらくのあいだ、二人は溝っぷちの、急な傾斜を伝って行かねばならなかった。足がずるずる辷るので、垣根につかまって歩いた。曲りくねった垣根の一ばん暗い角のところで、ピョートルは板を一枚ぬき取った。そして、そこへ開いた穴の中へ、すぐさま潜り込んだ。リプーチンはちょっと面くらったが、やがて自分も後から這い込んだ。それから、板は元のように嵌められた。これは、フェージカがキリーロフのところへ忍び込む、例の秘密な通路《かよいじ》だった。
「ぼくらがここへ来たことを、シャートフに知らせちゃいけないんだよ」とピョートルはリプーチンに向かって、いかつい調子でささやいた。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 キリーロフはいつもこの時刻にするように、例の革張りの長いすに坐って、茶を飲んでいた。彼は腰をあげて、出迎えようとしなかったが、なんだか妙に全身をぴくりと躍らして、入り来る人々を不安げに見上げた。
「まさにご想像のとおり」とピョートルはいった。「ぼくは例の用事で来たんです」
「今日ですか?」
「いや、いや、明日ですよ……これくらいの時刻にね」
 彼は、急に落ちつかなくなったキリーロフの様子を、いくぶん不安げな表情で覗き込みながら、忙しげにテーブルの傍へ腰を下ろした。とはいえ、こちらはもうすっかり落ちついて、前と同じような顔つきをしていた。
「どうも仲間の連中が本当にしないのでね……ぼくがリプーチンを連れて来たからって、きみ、別に怒りゃしないでしょうね?」
「今夜は怒りゃしないが、明日は一人きりでいたいもんですなあ」
「しかし、ぼくが来る前にやっちゃいけませんよ。ぼくが立会いの上でね」
「きみの立会いは望ましくないんだがなあ」
「きみおぼえてるでしょう。ぼくが口授することをそっくり書いて、それに署名すると約束したじゃありませんか」
「ぼくはどっちだっていいのだ。ときに、今夜は長くいますか?」
「ぼくある男に会わなくちゃならないから、三十分ばかりお邪魔したいんですよ。その後はどうなとご勝手ですが、三十分だけは坐ってますよ」
 キリーロフは押し黙っていた。その間にリプーチンはわきのほうの、主教の肖像の下に陣取った。先ほどの自暴自棄な想念は、しだいしだいに彼の頭脳を領していった。キリーロフはほとんど彼に目もくれなかった。リプーチンは前から彼の人生観を知っていて、いつもただそれを冷笑していたが、今はむっつりと押し黙って、陰気らしい顔つきであたりを見廻していた。
「お茶をいただいても悪くないですな」とピョートルは椅子を摺り寄せた。「たった今ビフテキを食べたんですがね、お茶はたぶんあなたのところに出てるだろうと思って、当てにして来たんですよ」
「お飲みなさい、ほしかったら」
「もとは、きみのほうからもてなしてくれたじゃありませんか」ピョートルは酸っぱそうな顔をしてこういった。
「そんなことはどっちだって同じだ。リプーチン君にも飲ましたらいいでしょう」
「いや、ぼくは……飲めません」
「飲めないのか、それともほしくないのか、どっちだろう?」いきなりピョートルがくるりと振り向いた。
「ぼくはこの人のところでは飲まないです」思い入れたっぷりな調子で、リプーチンは断わった。
 ピョートルは眉をひそめた。
「神秘くさい匂いがするというわけかね。本当にきみらはわけのわからない人たちだ。なんという連中だろう!」
 だれも返事をする者がなかった。まる一分、沈黙がつづいた。
「しかし、ぼくはたった一つ知ってることがある」とつぜん彼は言葉するどくいい足した。「いかなる偏見といえども、人が自分の義務を果たすのを、妨げるわけにはいかないですよ」
「スタヴローギンは行ってしまったんですか?」とキリーロフはたずねた。
「行ってしまいましたよ」
「それはいいことをした」
 ピョートルはちょっと目を光らしたが、すぐに自制した。
「ぼくは、きみがなんと思おうと、平気ですよ。ただ、めいめいが約束を守りさえすればいいんです」
「ぼくは約束を守りますよ」
「もっとも、ぼくは不断から信じてましたよ。きみは独立不羈の進歩的な人だから、自分の義務は履行されるだろうとね」
「きみは滑稽な人だ」
「じゃ、そういうことにしときましょう。ぼくは人を笑わすのが愉快でたまらないんです。ぼくは、人様のお気に入れば、いつでもそれを愉快に思うのです」
「きみはぼくに自殺させたくてたまらないので、ひょっと急にいやだなんていい出しゃしないかと、びくびくしてるんじゃありませんかね?」
「しかし、考えてごらんなさい、きみは自分から進んで、われわれの行動と自分の計画を結び合わしたんじゃありませんか。ぼくらはもうきみの計画をあてにして、いろいろと方法を立てたんだから、きみはもう今さらいやだというわけにいかないはずですよ。きみのほうがぼくらをおびき出したんですからね」
「そんなことをしいる権利は少しもない」
「わかってます、わかってます。むろんそれは全然あなたの自由意志で、ぼくらはなんの意義もない人間です。ただ、そのきみの自由意志が、実行されさえすりゃいいんです」
「で、ぼくはきみらの醜行をすっかり引き受けなきゃならない?」
「ねえ、キリーロフ君、きみはおじけがついたんじゃありませんか? もし断わりたいなら、今すぐそういってください」
「ぼくはおじけなんかつきゃしない」
「実はきみがあまりいろんなことをきくから、それでちょっといってみたんですよ」
「きみはもうすぐ帰りますか?」
「またききますね?」
 キリーロフは卑しむように相手を眺めた。
「ねえ」しだいに腹を立てて落ちつきを失いながら、どういう語調をとったものかわからないで、ピョートルは言葉を続けた。「きみは一人になって、思想を集中するために、ぼくの去るのを望んでおられるが、しかしそれはきみにとって、――だれよりも一番にきみにとって、危険な兆候ですよ。きみはたくさん考えたがっておられるが、ぼくにいわせれば、考えたりなんかしないで、ただ簡単にやってしまったほうがいいですよ。きみはまったくぼくを心配させますぜ」
「ぼくがただ一ついやなのは、その瞬間に、きみみたいなけがらわしい虫けらが、ぼくの傍にいるということなんだ」
「ふん、そんなことはどうだって同じじゃありませんか。そんなら、ぼくそのとき外へ出て、玄関口に立っててもいい。きみが死を覚悟しながら、そんなに虚心坦懐でいられないのは……それは非常に危険なことですよ。ぼくは玄関口に立っていますよ。そして、ぼくはなんにもわからない男で、きみより無限に低い人間だと、こう仮定したらいいじゃありませんか」
「いや、きみは無限というわけじゃない。きみには才能があるんだが、非常に多くの事物に理解を欠いてるのだ。それは、きみが下劣な人間だから」
「けっこうです、実にけっこうです。ぼくは今もいったとおり、人に気ばらしをさせるのが、非常に愉快なんです……こんな瞬間にね」
「きみはなんにもわからないのだ」
「といっても、ぼくは……なんにしても、ぼくは敬意を表して謹聴しますよ」
「きみはなんにもできない。今でさえ、その浅はかな怒りを隠すことができないのだ。そんなものを顔に出すのは、きみにとって不利益なんだがなあ。もしきみがぼくに癇癪を起こさせたら、ぼくは急に半年くらいさきと、いい出すかも知れませんよ」
 ピョートルは時計を眺めた。
「ぼくは今まで一度も、きみの理論を理解しなかったが、しかし、きみがその理論を考え出したのは、われわれのためじゃないのだから、ぼくらがいなくっても、実行されるに相違ない、それだけはわかっています。それからまた、きみが思想を呑んだのでなく、思想がきみを呑んでしまったのだから、延期するわけにゆかない、ということもやはり承知していますよ」
「なんだって? 思想がぼくを呑んでしまったって?」
「そう」
「ぼくが思想を呑んだのじゃないって? それは面白い。きみにはちっぽけな知性があるんだね。ただきみがいくらからかっ[#「からかっ」に傍点]ても、ぼくは誇りを感ずるだけだ」
「けっこうですよ、けっこうですよ。まったくそうなくちゃならない。きみは誇りを感じなくちゃならないはずです」
「もうたくさん。きみも茶を飲んでしまったから、もう帰ってくれたまえ」
「畜生、本当に帰らなきゃなるまいて」とピョートルは腰を上げた。「しかし、それにしても、やはり早過ぎるなあ。ねえ、キリーロフ君、たぶんミャスニチーハ([#割り注]淫売婦の名[#割り注終わり])のところへ行ったら、あの男に会えるでしょうね、だれのことかわかるでしょう? それとも、あの女も嘘をついたかしらん」
「会えやしませんよ。あの男はここにいるので、あっちじゃないからね」
「え、ここだって、あん畜生、いったいどこにいるんです?」
「台所に坐り込んで、飲んだり食ったりしてる」
「なんて生意気なやつだ!」ピョートルは赤くなって怒り出した。「きゃつはあすこで待ってなきゃならないはずだったのに……いや、そんな馬鹿なことはない! あいつ、旅券もなければ、金もないんじゃないか!」
「どうだかね。あの男は暇乞いに来たんですよ。ちゃんと着替えをして、用意ができてたっけ。もう行きっきりで、帰って来ないんだそうだ。なんでも、きみは悪党だから、きみの金なんか待っていない、とかいってた」
「ははあ! あいつぼくがなに[#「なに」に傍点]するのが怖いんだな……もしそんなことがあったら、ぼくは今だってあいつを……どこにいるんです、台所?」
 キリーロフは、小さな暗い部屋へ通じる脇戸を開けた。この部屋から三つ段々を下りると、まっすぐに台所へ下りられるようになっていた。ここにはささやかな穴みたいな部屋が仕切ってあって、いつも下女の寝台が据えつけてあった。今この部屋の片隅にある聖像の下に、荒削りのままでクロースのかかっていないテーブルを控えて、フェージカが陣取っていた。テーブルの上にはウォートカの小びんが据えてあって、皿の中にはパン、素焼の器には一きれの冷肉と馬鈴薯が入っていた。彼は悠々と摘物《さかな》を平らげていた。もう半分酔っぱらっていたが、それでも毛皮の半外套を着込んで、もうすっかり旅支度ができているらしかった。仕切りの向こう側では湯沸《サモワール》が煮立っていたが、それはフェージカのためではない。フェージカはかえってその火を起こしたり加減を見たりして、もうこれで一週間ばかり、『アレクセイ・ニールイチ』のために、毎晩世話をやいているのだった。『どうも毎晩お茶を飲むのが、すっかり癖になってらっしゃるのでね』と彼はいった。冷肉と馬鈴薯は下女がいないところから見ると、あるじのキリーロフがフェージカのために、朝から炊いて待っていたものに相違ない、――こうわたしは固く信じている。
「いったい貴様は何を考え出したんだ?」とピョートルは下へ飛びおりた。「どうしていいつけた場所で待ってないんだ?」
 こういいながら、彼はいきおい込んで拳を固めながら、テーブルを撲りつけた。
 フェージカはぐっとそり身になった。
「お前さん、ちょっと待ちなせえ、ピョートルさん、ちょっと待っておくんなせえ」一語一語気取って刻み刻み発音しながら、彼はこういい出した。「お前さんはまず第一に、これだけのことをはらに入れなきゃならないんだ。お前さんは今キリーロフさんのところへ、お客に来てるんだよ。お前さんなぞは、始終あの人の靴を磨いてもいいくらいだ。なぜったって、あの人はお前さんなんぞに較べたら教育のある賢いお方だからな。ところが、お前さんなぞときたら、――ちょっ!」
 彼は気取った様子で、出もしない唾を、わきのほうへぺっと吐いた。彼の態度には傲慢な決然たる様子と、取ってつけたような落ちつき払った、理屈っぽいところがうかがわれた。もっとも、これは破裂の前の静けさで、きわめて危険な性質を帯びたものなのだ。けれど、ピョートルはそんな危険に気のつく余裕もなかったし、またそんなことは彼の人間観にふさわしくなかった。この日に生じたさまざまな出来事や失敗は、すっかり彼の頭脳を昏迷させてしまったのである……リプーチンは三段うえの薄暗い小部屋から、好奇の目を光らせながら、見おろしていた。
「いったい貴様は確かな旅券と、おれのいったところへ高飛びするたんまり[#「たんまり」に傍点]した旅費がほしくはないのか、いやか応か?」
「まあ、聞きなせえ、ピョートルさん、お前さんはそもそもの初めから、わっしをだましにかかったんだ。なぜって、お前さんは正真正銘の悪党だからね。わっしの目には見通しだよ。お前さんはまるで人間の体にくっつく、けがらわしい虱も同じこった、――まあ、こんなふうに、わっしゃお前さんのことを考えてるのさ。お前さんは罪もない人間の血に、大枚の金をわっしに約束した上、スタヴローギンさんに代わって誓いまで立てた。ところが、本当はお前さんのずうずうしい出たらめだったんだ、それっきりだ。わっしゃ一しずくだって、あの血に関係はないんだからね。千五百ルーブリどころの騒ぎじゃありゃしない。ところで、スタヴローギンさんは、この間お前さんの頬っぺたを食らわしたそうじゃないか。わっしはもうちゃんと知ってるからね。今度またお前さんはわっしを脅かして、金をやろうと約束しなさるが、どういう仕事かってきくと、お前さんも返事をしないじゃないか。わっしははらの中でこう疑ってるんだ――お前さんがわっしをペテルブルグヘやろうというのは、わっしの早呑込みをあてにして、手だてはどうだってかまわない、とにかくスタヴローギンさんに恨みをはらすためじゃないか。してみると、お前さんが一番の下手人だ、ということになるのさ。それにね、お前さんがその腐った心のために本当の神様を、――真の創造主《つくりぬし》を信じなくなったということだけで、どういうものになりさがったかわかってるかい? お前さんは偶像崇拝者《でくおがみ》だ、だから、ダッタン人やモルドヴァ人と同列なんだ。キリーロフさんは哲学者だから、お前さんに本当の神様、――つくりぬし様のことや、この世の始まりや、来世の運命や、黙示録に出て来る獣や、そのほかさまざまな生物《いきもの》の造り変えのことなどを、幾度となくお前さんにして聞かしなすったのだ。ところが、お前さんはわけのわからないでくの坊だから、唖聾みてえに頑張って、あの無神論者という極悪非道の誘惑者みてえに、少尉補のエルテレフ([#割り注]エルケリのこと、エルケリはドイツの姓だが、フェージカはそれをロシヤふうに作り変えたのである[#割り注終わり])を、同じ道へ引き込んでしまったのだ……」
「ええ、この酔っぱらいの畜生め! 自分で聖像を剥いで歩いてるくせに、まだ神様の説教なんかしてやがる!」
「そりゃね、ピョートルさん、なるほどお前さんのいうとおりわっしは剥いで廻ったよ。だが、ありゃただ真珠を剥がしただけなんだよ。それに、お前さんにゃわかるまいが、ひょっとしたら、わっしの涙がその瞬間に、神様の炉にかかって、真珠になったのかもしれないぜ。神様がわっしの受けた苦しみを憐れんでくだすってね。なぜって、わっしゃこれという決まった隠れ家のない三界に寄る辺のない身なしごだからね。お前さんは本を読んで知ってるだろうが、昔あるところに一人の商人《あきんど》が、やはりわっしと同じように、涙を流して溜め息をつきながら、お祈りを上げ上げ、聖母マリヤ様の後光についた、真珠を盗んだもんでさあ。それから後、大勢の目の前で膝を突いて、盗んだ金をすっかりマリヤ様の台の下へお返しした。ところが、マリヤ様は多くの人の目の前で、その商人《あきんど》を被衣《かつぎ》の下へお匿しなされた。こういう奇蹟《ふしぎ》がそのとき現われたので、お役人が政府《おかみ》の本へも、そのとおり書き込むようにと、お言いつけになったくらいだ。ところが、お前さんは二十日鼠を放すような真似をする。つまり、神様の思召しにたいして、悪口をついたことになるのだ。もしお前さんがわっしにとって、生まれながらのご主人でなかったら、――わっしが餓鬼のとき、この子に抱いて歩いた人でなかったら、わっしは今この場を去らずに、お前さんをばらして[#「ばらして」に傍点]しまうところなんだよ」
 ピョートルは名状し難い憤怒に襲われた。
「白状しろ、貴様は今日スタヴローギンに会ったな?」
「そんなことは、お前さんわっしにきく権利はないぜ。スタヴローギンさんはまるっきし、お前さんにあきれ返っていらっしゃる、あのかたは命令するの、金を出すのというどころか、あの事件についちゃあ、どうしたいという考えさえ、持っていらっしゃりゃしなかったんだ。あれは、お前さんがわっしを引っかけたのさ」
「金はやるよ、二千ルーブリのほうも、ペテルブルグへ着いたら、すぐにその場で、そっくり耳を揃えて渡してやる。まだその上にもっと出してやるよ」
「おいおい、大将、出たらめいうもんじゃないよ。わっしゃお前さんを見るのもおかしくってならねえ。ほんにお前さんは、なんてえ浅はかな考えを持った人だろう。スタヴローギンの旦那なぞは、お前さんから見ると、高い階段の上に立っていらっしゃるみたいなもんだ。お前さんが下のほうで、間の抜けた犬ころみてえに、心細い声できゃんきゃん吠えてるとな、あの人は上からお前さんを見おろして、唾をひっかけるのさえ、お情けのように思っていらっしゃらあね」
「やい、覚えてろ」とピョートルは形相《ぎょうそう》を変えながらどなった。「貴様のような畜生は、ここからひと足も外へ出さないで、いきなり警察へ突き出してくれるんだ」
 フェージカは、いきなり飛びあがって、もの凄く両眼を輝かした。ピョートルはピストルを取り出した。と、その瞬間、とっさのあいだに、いまわしい光景が演出された。ピョートルがピストルを向ける暇のないうちに、フェージカはたちまち身を翻して、力まかせに彼の横面を撲りつけた。と、同じ瞬間に、また一つ恐ろしい拳の音が聞こえた、続いてまた一つ、またまた一つ……みんな頬の上だった。ピョートルはぽかんとしてしまって、目を剥き出しながら、何やらぶつぶついったと思うと、突然ぱたりと枯木倒しに床の上へ倒れた。
「さあ、こいつを進上しまさあ、勝手に連れて行きなさい!」勝ち誇ったように身をかえして、フェージカはたちまち帽子を取った。そして、床几の下から包みを取り出すと、そのまま姿を消した。
 ピョートルは正気を失って、喉をごろごろ鳴らしていた。リプーチンは、本当に殺されてしまったのかと思った。キリーロフは一散に台所へ駆け下りた。
「水をかけろ!」と彼は叫んだ。
 バケツの中から、ブリキの柄杓で一杯くみ出して、頭へさっとかけた。ピョートルはびくりと身を動かして、頭を持ち上げると、やがて身を起こして坐りながら、無意味に前のほうを見つめるのであった。
「え、どんなだね?」とキリーロフはたずねた。
 こちらはまだやはり気がつかないで、じっと穴のあくほど、彼の顔を見入っていたが、ふと台所から顔を突き出しているリプーチンが目に入ると、例のいやらしい笑い方でにたりとして、とつぜん床からピストルを拾い上げながら、飛び起きた。
「きみがあのスタヴローギンの畜生のように、明日にもここを逃げ出そうなんて了簡を起こしたら」彼はふいに真っ青になって、言葉さえはっきり発音ができないで吃りながら、夢中になってキリーロフに食ってかかった。「ぼくは世界の果てまで追っかけて行って……蠅のように吊るし上げて……押し潰してしまってやるから……わかったか!」
 そういって、彼はキリーロフの額にぴたりとピストルを押しつけた。しかし、ほとんどそれと同じ瞬間に、やっとすっかりわれに返って、その手を引っ込め、ピストルをかくしへ突っ込んだ。そして、もうひと言もものをいわないで、そのまま外へ駆け出してしまった。リプーチンもそれに続いた。二人は以前の潜り穴を抜けて、またもや垣根につかまりながら、溝っぷちの傾斜を伝って行った。ピョートルはリプーチンがついて行くのに骨が折れるほど、足早に路地をどんどん歩いて行った。初めての四辻へ来たとき、彼はとつぜん立ちどまった。
「おい?」と彼は挑むように、リプーチンのほうへ振り向いた。
 リプーチンはまだピストルのことをおぼえていて、さっきの活劇を思い出しては、ぶるぶる慄えていたが、答えはなんだかこう自然《ひとりで》に、抵抗し難い力をもって、舌をすべり出てしまった。
「ぼくの考えでは……ぼくの考えでは、『スモレンスクからタシケントまで』それほど一生懸命に学生を待ち焦れてもいないようですな」
「きみはフェージカが台所で、何を飲んでたか見たろうね?」
「何を飲んでたって? ウォートカを飲んでたんでさあ」
「ところで、いいかね、あれはあの男のこの世における、ウォートカの飲み納めなんだよ。これからさきのご参考までに、ちょっと知らせとくよ。さあ、もうどこなと勝手に行きたまえ、明日まできみは用のない人間だ……だが、気をつけたまえ、馬鹿な真似をしちゃいけないぜ!」
 リプーチンは一目散に、わが家をさして駆け出した。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 彼はもうだいぶ前から、人の名義で旅券を用意していた。このきちょうめんな俗物で、家庭内の小さな暴君で、官吏で(フーリエ派の社会主義者とはいえ、やはり官吏に相違ない)、しかも資本家で、金貸しのリプーチンが、万一の場合[#「万一の場合」に傍点]いつでも外国へ逃げ出せるように、この旅券を用意しておこうなどというとっぴな考えを、ずっと前から起こしているとは、思ったばかりでも奇怪千万であった。けれど、彼はこの万一[#「万一」に傍点]の可能を認容していたのである! もっとも、この万一[#「万一」に傍点]が何を意味するか、もちろん彼自身もはっきりわからなかったのだ……
 ところが、いま突然、しかもきわめて意想外な形をとって、この万一[#「万一」に傍点]が実現されたではないか。さきほど、歩道でピョートルから、例の「馬鹿!」を聞かされた後、キリーロフのところへ入るまでいだきつづけていたかの自暴自棄的な想念は、ほかでもない、つまり明日にもさっそく夜の引き明けに、何もかもおっぽり出して、外国へ突っ走るということだった。そんなとっぴな話が、今のロシヤの日常生活にやたらに起こるはずがないと疑いをいだく人があったら、外国にいる本物のロシヤの亡命客の伝記を調べてみるがいい、一人として、これより以上に気の利いた実際的な逃げ方をしたものはないのだ。どれを見ても、とてつもない空想の世界である。それっきりなのである。
 うちへ駆けつけると、彼はまず第一番に部屋の戸を閉めて、カバンを取り出し、痙攣でも起こしたような手つきで、荷造りを始めた。彼のおもな心づかいは、金のことだった。どんなにして、どれくらい助け出せるだろう、ということだった。実際、助け出すのである。なぜなら、彼の考えでは、もはや一刻の猶予もできない。夜明けまでには、ぜひ街道へ出ていなければならないからである。それからまた、どうして汽車に乗ったものか、これもまだよくわかっていなかった。けれど、どこか町から二つ目か三つ目あたりの停車場で、乗らなければならぬ、そこまでは歩いてなりとも行き着けないことはない、――こうはらの中で漠然と決心していた。こういうふうに、本能的に、機械的に、まるで旋風のような想念を頭の中に感じながら、彼は一生懸命にカバンの始末をしていたが……急にふと手を止めた。そして、何もかもほうり出したまま、深い呻き声を立てながら、長いすの上にどうと倒れてしまった。
 彼は突然はっきりと感じた、――自分はおそらく逃げるに相違ない。しかし、シャートフを片づける前に[#「前に」に傍点]したものか、それとも後に[#「後に」に傍点]したものか、この問題を解決することは、もはや今の自分にはとうてい不可能だ、こう自覚したのである。今の彼はただ粗雑な、感覚のない体、惰力で動いている肉の塊りにすぎない。彼はいま恐ろしい外部の力に操られているのだ。たとえ外国行きの旅券があるにもせよ、またシャートフ事件から逃げ出す自由があるにもせよ(それでなかったら、こんなに急ぐ必要はないはずだ)、それでも彼が逃げ出すのは、シャートフの事件の前でもなければ、その中途でもなく、どうしてもシャートフ事件の後に[#「後に」に傍点]相違ない。それはすでに決定され、署名されて、ちゃんと判がしてあると同じことなのだ。堪え難い悒悶に、絶え間なく身を慄わせたり、自分で自分にあきれたり、呻き声を上げたり、麻痺したように静まり返ったりしながら、彼は戸を閉めきって、長いすの上に倒れたまま、翌朝の十一時まで、どうにかこうにか時を過ごした。と、ふいに、それとなく期待していた一つの事件が持ちあがって、それが彼の決心をかためさす動機となった。
 十一時に彼が部屋の戸を開けて、家族の居間へ出て行くやいなや、彼はとつぜん家の者の口から、意外な事実を聞き込んだ。ほかでもない、今まで人々におぞ毛を慄わせていた教会強盗、懲役人のフェージカ、――これまで警察が一生懸命に追跡していたけれど、どうしても捕まえることのできなかった、ついこの間の殺人放火事件の犯人が、けさ未明に、町から七露里ほど離れた県道から、ザハーリノヘ出る村道の分岐点で、何者かに殺されているのを発見されて、すでに町じゅうその噂で大騒ぎだ、というのである。彼はさっそくあとをも見ずに家を飛び出して、詳しい話を聞こうと努めた。第一にさぐり出したのは、フェージカは頭を割られて倒れていたが、あらゆる点から見て、金を剥がれたものらしいということと、それから、警察側ではこの犯人を、元シュピグーリン工場にいたフォームカらしい、という強い嫌疑をいだいているばかりか、そう断定するにたる確かな証拠さえ握っている、ということだった。フォームカというのは、レビャードキン兄弟を殺して、火を放った共犯者と推測される男で、きっとレビャードキンのところで盗み、フェージカが隠し持っていた大金のことで、途中二人の間に争論が起こったに相違ない……
 リプーチンはピョートルの住まいへも駆けつけてみた。そして、ピョートルは昨日かれこれ夜中の一時頃に帰宅したが、それからずっと朝の八時頃まで、穏かに自分の部屋でお休みになったということを、裏口から内証で聞きこんだ。もちろん、強盗フェージカの横死には、少しも不思議な点はない、こうした大団円は、ああいう場合ありがちのことだ、それは疑う余地もない。しかし、『フェージカは今夜がウォートカの飲み納めだ』という恐ろしい予言の言葉が、即座に事実となって適中したのが、いかにも意味ふかく思い合わされるので、リプーチンは急に迷うのを、やめてしまった。衝動はついに与えられた。それはちょうど大きな石が上から落ちかかって、永久に彼を圧しくじいたようなあんばいだった。家へ帰ると、彼は無言のままカバンを寝台の下に蹴込んでしまった。そして、晩に定めの時刻が来ると、第一番に約束の場所へ出かけて、シャートフを待ち合わした。もっとも、例の旅券[#「族券」は底本では「族券」]は相変わらずポケットに潜んでいたけれど。

[#3字下げ]第5章 旅の女[#「第5章 旅の女」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 リーザの横死とマリヤの惨殺は、シャートフに圧倒的な印象を与えた。わたしが前にもいったとおり、その朝ちょっと彼に会ったが、まるで正気を失っているように見えた。しかし、それでも、ゆうべ九時頃に(つまり火事の三時間まえに)、マリヤを訪問したことを話した。その朝、彼は死体を見に行ったが、わたしの知っている限りでは、その朝はどこでもなんの申立てもしなかったはずである。が、その日も暮れ方になって、彼の心に恐ろしい嵐が吹き起こった。そして……そして、わたしはきっぱりと断言することができる、――たそがれ時のある瞬間には、彼はすぐにも立ちあがって外へ出かけ、そして何もかも知らせてしまおう、と思ったほどである。何もかも[#「何もかも」に傍点]とは、いったいなんだろう、それは彼自身のみ知ったことである、しかし、もちろん、なんの結果をも得ることができないで、かえって、自分で自分を売ることになるに相違ない。なぜなら、今度の兇行を暴露しようにも、なんの証拠をも握っていないからである。ただ彼の心中には、この事件に関する漠とした推測があるばかりなのだ。もっとも、この推測は彼自身にとって、十分な確信にも均しいけれど……しかし、彼は自分の身の破滅など、あえて恐れはしなかった。ただどうかして、あの『悪党どもを踏み潰す』ことさえできればいいのだ(これは彼自身のいった言葉である)。
 ピョートルはこうした彼の心的発作を、ほぼ正確に見抜いていた。で、新たに立てた恐ろしい計画の実行を、明日まで延ばしたのは、彼として、はなはだしい冒険を試みたわけなのである。それにはいつもの自負心と、あの『けちな有象無象』に対する軽侮、――ことにシャートフに対する軽侮の念が原因となっていたのである。彼は前から、シャートフをば『泣き虫の馬鹿』といって軽蔑していた(これはずっと以前、外国にいる時分からの言い草である)。で、こんな単純な男を操縦するのは、易々たることだと固く信じ切っていた。つまり、きょう一日だけ彼の見張りをしていて、もし危険な様子が見えたら、さっそくそれを未然に防ごう、というのであった。ところが、実際ある一つの思いがけない、まるで想像もしていなかった出来事が、しばらくあの『悪党ども』を助けることになった……
 晩の七時頃(それはちょうど仲間[#「仲間」に傍点]の者がエルケリのところへ集まって、ピョートルが来るのを待ちかねながら憤慨したり、興奮したりしていた時であった)、シャートフは頭痛の上に、軽い悪寒《おかん》を感じながら、暗闇の中を蝋燭もなく、寝台の上に長くなって倒れていた。彼は疑惑に悩まされつつ幾度か憤然と決心しかけたが、どうしてもいよいよという腹が据わらなかった。結局、なんの結果も見ずに終わるだろうと感じると、われとわが身が呪わしくなるのであった。しだいに彼は、うつらうつらと忘我の境に落ちて行った。と、何かしら悪夢のようなものにおそわれた。全身を細引で寝台にぐるぐる縛りつけられて身動きもできないでいると、垣根を、門を、戸を、キリーロフの住まっている離れを叩く恐ろしい音が、家も震えるばかり響き渡るのであった。それとともに、どこか遠くのほうで耳に覚えのある、彼にとって悩ましい人声が、さもあわれげに彼の名を呼ぶのであった。彼はふと目をさまして、ベッドの上に起き直った。驚いたことには、門を叩く音は依然として続いていたが、それは夢に聞こえたような烈しい音ではなかったけれど、しゅうねく頻繁に響いて来る。そして、奇妙な『悩ましい』声は、けっしてあわれっぽいどころでなく、かえってじれったい、いらだたしげな調子で、絶えず下の門の辺で聞こえていた。そして、いま一人いくぶん控え目な、普通の人声もまじっていた。彼は飛びあがって、窓の通風口を開き、そこから首を突き出した。
「そこにいるのはだれだ?」驚愕のあまり全身を石のようにしながら、彼はこう声をかけた。
「もしあなたがシャートフさんでしたら」鋭いしっかりした声で、下から答えた。「どうか男らしく、きっぱりといってください、――わたしを家へ入れてくださいますか、どうです?」
 はたしてそうである。彼はその声を聞きわけた。
「マリイ!………お前なんだね?」
「わたしです、マリヤ・シャートヴァです。まったくのところ、わたしはもう、このうえ一分間も、馬車を待たしとくわけにはまいりませんの」
「今すぐ……ぼくちょっと蝋燭を……」とシャートフは弱々しく叫んだ。それから、マッチをさがしに飛んで行った。こういう場合の常として、マッチは容易に見つからなかった。蝋燭をばたりと床へ取り落とした拍子に、下のほうでまたじれったそうな声が聞こえたので、彼は何もかもうっちゃらかして、急な階段をまっしぐらに駆け下り、木戸を開けに行った。
「すみませんが、ちょっとこのカバンを持っててくださいな、わたしこの間抜け野郎の片をつけっちまいますから」とマリヤ・シャートヴァは、いきなり下から声をかけて、青銅の鋲を打ったドレスデン製の、かなり軽い安物のズックの手提カバンを彼に押しつけると、自分はさもいらいらした様子で、馭者に食ってかかった。
「ねえ、重ねて申しますが、あんたはちと欲張ってるんですよ。あんたがここの泥だらけの町を、まる一時間あちこち引っ張り廻したからって、それはあんた、自分が悪いんじゃありませんか。だって、この馬鹿げた通りと、この間の抜けた家がどこにあるか、あんたが知らなかったんだものね。さあ、どうか約束の三十コペイカをお取りください。そして、もうこれ以上もらえないってことを、ご承知ねがいます」
「なんですね、奥さん、あんたが自分で、ヴォズネセンスキイといったんじゃありませんか。ここはボゴヤーヴレンスカヤですぜ。ヴォズネセンスキイ横町は、ここからずっとあっちのほうでさあ。かわいそうに、この去勢馬《きんぬき》を汗だらけにしちゃってさ」
「ヴォズネセンスカヤだってボゴヤーヴレンスカヤだって、そんな馬鹿馬鹿しい名前は、みんなお前さんのほうが、わたしよりよく知ってるはずじゃないか。お前さんはここに住まってる人だものね。それにお前さんのいうことは間違ってるよ。わたしがまず一番にフィリッポフの持ち家だといったら、お前さんは知ってるといったじゃないか。とにかく、お前さんは明日にも治安裁判所へ行って、わたしを訴えてもかまやしないが、今夜はお願いだから、ここで放免しておくれな」
「さ、さ、もう五コペイカあげるよ」シャートフは大急ぎで、かくしから五コペイカ玉をつかみ出し、それを馭者に突き出した。
「後生だから、そんなさし出たことをしないでちょうだい!」とマダム・シャートヴァは猛り出したが、馭者はもう「去勢馬《きんぬき》」を叱《しっ》して、行ってしまった。シャートフは女の手を取って、門の中へ連れ込んだ。
「早く、マリヤ、早く……そんなことはくだらない話だ、――そして、――まあ、お前はずぶ濡れじゃないか。静かに、ここから上らなきゃならないんだよ。どうもあかりがないのが残念だ、――急な梯子段だから、しっかりつかまっておいでよ、しっかり。さあ、これがぼくの巣だ。ごめんよ、あかりもつけないで……今すぐ!」
 彼は蝋燭を拾い上げたが、マッチは長いこと見つからなかった。シャートヴァは無言のまま身動きもしないで、部屋の真ん中に立って待っていた。
「ありがたい、やっとのことで!」部屋を灯で照らし出しながら、彼は嬉しそうにこう叫んだ。
 マリヤはちらっと室内を見廻した。
「ひどい暮らしをしてるとは聞いていたけれど、でもこれほどとは思わなかった」と彼女は気むずかしげにつぶやいて、寝室のほうへ歩き出した。「ああ疲れちゃった」彼女は力なげな様子で、ごつごつしたベッドに腰を下ろした。「どうかカバンを下に置いて、あなたも椅子におかけなさいな。もっとも、どうなとご勝手に。なんだか、あなたが目ざわりになって仕方がないんですの。わたしがあなたのところへ来たのは、何か仕事を見つける間、ほんのちょっとのつもりなんですの。だって、ここの様子ったら少しも知らないし、それにお金も持ってないんですからね。けれど、もしご迷惑のようでしたら、やはりお願いですから、今すぐこの場でそういってください。それは潔白な人間として、ぜひしなければならないことだわ。それでも、明日になったら何か売って、宿を取ることもできますが、しかし、その宿屋へは、あなたにご案内ねがわなけりゃなりませんわ……ああ、だけどわたし疲れちゃった!」
 シャートフは全身をがたがた慄わした。
「そんなことはいらないよ、マリイ、宿屋なんぞいりゃしない! 宿屋なんかどうするのだ? いったいなんのためだ?」
 彼は祈るように手を合わした。
「まあ、かりに宿屋へ行かずにすむとしても、やはり事情を明らかにしておかなきゃなりませんわ。ねえ、シャートフさん、おぼえてらっしゃるでしょう。わたしとあなたとは二週間と幾日かの間、ジュネーブで結婚生活をしました。ところが、別にこうといういさかいもなく、夫婦別れをしてしまってから、もうこれで三年ばかりになります。けど、わたしが帰って来たのは、以前の馬鹿馬鹿しい関係を復活させるためだろう、なんかって考えを起こさないでください。わたしはただ仕事をさがしに帰って来たのです。この町へ真っすぐにやって来たのも、なんだって同じことだからですの、わたしは何も後悔して、あやまりに来たわけじゃありません。後生だから、どうかそんな馬鹿馬鹿しいことを考えないでください」
「何をマリイ! そんなこと、けっしてそんなこと!」とシャートフはわけのわからぬことをつぶやいた。
「もしそうなら、もしそういうことさえわかるほど開けていらっしゃるなら、もう一つつけ足さしていただきます。今わたしがいきなりあなたのところへ来て、あなたの住まいへ入って来たのは、ほかにもわけがありますけれど、わたしいつもあなたのことを、『あの人はけっして人非人じゃない。もしかしたら、ほかの悪党どもより、ずっと立派な人かもしれない』とこう信じていたからですの」
 彼女の目はぎらぎらと光った。察するところ、彼女はどこかの『悪党』どものために、いろいろつらい目にあったに相違ない。
「どうかお願いですから、わたしのいうことを信じてください。今わたしがあなたをいい人だといったのは、けっして冷やかしたのじゃありません。わたしはいっさい飾りけなしに、ざっくばらんにいったんですの。それに、飾りけなんて大嫌いですからね。だけど、こんなことばかばかしい。わたしね、あなただけは人をうるさがらせないだけの知恵があるだろう、とこういつも思ってましたの……ああ、ずいぶん疲れた!」
 彼女は疲れ果てた悩ましげな目つきで、じいっと男を見つめるのであった。シャートフは、五歩ばかり離れた部屋のこちら側に立って、何やらなみなみならぬ輝きを顔にみなぎらせながら、臆病そうではあるけれど、何となく生まれ変わった人のような様子で、彼女の言葉に耳を傾けていた。この頑固な、がさがさした、いつも逆毛を立てているような男が、急にすっかり柔らいでしまって、晴ればれしくなってきたのである。彼の心の中には、何かしら容易ならぬ、まるで思いがけないあるものの戦慄が感じられた。別離の三年、ふみにじられた結婚生活の三年も、彼の心から何一つ追い出すことができなかった。彼はこの三年間、毎日のように彼女のことを、――かつて自分に『愛する』という一語をささやいた貴い存在のことを、空想しつづけていたかもしれないのだ。わたしはシャートフの人物を知っていたから、正確にこう断言できる、――彼は、だれにもせよほかの女が、自分に愛するといってくれるようなことがあろうとは、夢にも考えられなかった。彼は滑稽なほど童貞心、羞恥心が強く、自分を恐ろしく醜い片輪もののように思っていた。そして、自分の容貌や性質を心から憎悪して、自分は市場から市場へ引き廻して、見世物にしてもいいような怪物だと、心ひそかに思い込んでいた。こういうわけで、彼は潔白ということを何よりも重く考え、ファナチズムに近いほど自分の信念に没頭し、常に陰欝で傲慢で、腹立ちやすく無口だった。
 ところが、二週間のあいだ自分を愛してくれた(彼は常に、常にこれを信じていた)この唯一の女性が、――その過失をはっきり冷静に理解しているくせに、それでも彼自身より遙かに勝れたものと信じている女性が、――彼として何事も[#「何事も」に傍点]綺麗にゆるすことのできる女性が(それはもう問題にならぬくらい明瞭なことだった。いや、それよりむしろ反対に、自分のほうこそすべての点で、彼女に罪を犯しているとさえ、彼は考えていたのである)、この女性が、このマリヤ・シャートヴァが、突然ふたたび自分の家に坐っている、自分の前に坐っているではないか……これはほとんど理解することさえ不可能である! 彼はすっかり仰天してしまった。この出来事には、はかり知れぬ恐ろしさと、同時にはかり知れぬ幸福が含まれていた。彼はどうしても正気に返れなかった。いな、返りたくなかった、むしろ、それを恐れたくらいである。それはまるで夢だった。
 しかし、彼女があの悩ましげな目つきで彼を見つめた時、自分の限りなく愛しているこの女性が、苦しみ悶えているばかりか、もしかしたら、辱しめられているかもしれないということを、とっさの間に悟ったのである。彼の胸は萎えしびれた。彼は痛々しげに女の顔に見入った。この疲れたような顔はもうとっくに、若々しい青春の輝きを失っていた。もっとも、彼女は今でも相変わらず美しかった。彼の目から見ると、前と少しも変わりのない美人だった(実際、彼女は今年まだ二十五で、かなりしっかりした体格の上に、背も中背以上で、――シャートフより高かった、――髪は暗色《あんしょく》で豊かに波打ち、顔は卵なりをしてあお白く、大きな目は黒みがかって、熱病やみのような光を放っていた)。けれど、以前かれの見馴れた、軽はずみで、無邪気な、率直で、エネルギッシュなところは失くなって、気むずかしそうな癇性らしいところと、幻滅的な心持ちと、無恥とでもいいたいような感情が、それに代わっていた。けれども、彼女はまだこの新しい心持ちに馴れないで、自分でもそれを重荷のように感じているらしかった。が、何より気がかりなのは、彼女が病んでいることである。それは彼も明らかに見て取った。彼は、彼女に烈しい恐怖を感じているにもかかわらず、ふいにずかずかと傍へ寄って、その両手を取った。
「マリイ……あのね……お前はたいへん疲れているようだね、後生だから、怒らないでおくれ……せめてまあ、茶でも飲むのを承知してくれるといいんだけれど、え? 茶はたいへん元気をつけるものだがね、え? 本当に承知してくれるといいんだがなあ!………」
「そんなこと、承知してくれるも何もありゃしないわ、むろん承知してよ。まあ、あんたはやっぱりもとと同じような坊っちゃんね。あるのなら出してちょうだい。本当にあんたのところはなんて狭いんでしょう! なんてまあ寒いんでしょう!」
「ああ、ぼくが今すぐ薪を、薪を……薪はぼくのところにあるんだよ!」彼はあわてて、そわそわし始めた。「薪は……いや、しかし……なに、お茶も今すぐできる」自暴自棄的な決心の色を浮かべて、片手を振りながら、彼は帽子を取った。
「まあ、あんたどこへ行くの? じゃ、うちにお茶がないんですね?」
「できる、できる、今にすっかりできる……ぼくは……」と彼は棚からピストルを下ろした。「ぼくいまこのピストルを、売るかそれとも質におくかするんだ」
「なんて馬鹿馬鹿しい、それに、長くかかってたまりゃしないわ! さあ、あんたのとこに何もないのなら、わたしのお金を持ってらっしゃい。ここに十コペイカ玉が八つあるらしいわ。それでみんなよ。あんたのとこは、まるで癲狂院みたいね」
「いらない、お前の金なんぞはいらない。ぼくいますぐ、ほんの一分間で……ピストルなんかなくてもできるよ……」
 彼はいきなりキリーロフのところへ飛んで行った。それはおそらく、ピョートルとリプーチンがキリーロフを訪問する、二時間ばかり前のことらしい。シャートフとキリーロフとは、同じ地内に暮らしながらほとんど互いに顔を合わすことがなかった。途中で出あっても、会釈一つしなければ、口を一つきこうともしなかった。彼らは『アメリカであまりに長いこといっしょにごろごろしていた』のである。
「キリーロフ君、きみのところにはいつもお茶があるね。今お茶と湯沸《サモワール》があるかしら?」
 キリーロフは、部屋の中をことこと歩き廻っていたが(たいてい一晩じゅう、隅から隅へと歩きつづけるのが常であった)、ふいに立ちどまってじっと穴の明くほど、――もっとも、大して驚いた様子もなく、――駆け込んで来るシャートフを打ちまもった。
「茶はある、砂糖もある、サモワールもある。しかし、サモワールはいらないよ、お茶が熱いから。まあ、腰を下ろして飲んだらいいじゃないか」
「キリーロフ君、ぼくらはアメリカでいっしょに長いことごろごろしてたもんだっけねえ……ぼくのとこへ家内がやって来たんだ……ぼくは……お茶をくれたまえ……サモワールもいるんだ」
「細君が来たとすれば、そりゃサモワールもいるね。しかし、湯沸《サモワール》は後だ。ぼくのとこには二つあるから。まあ、いまテーブルの上から急須を取って行きたまえ。熱いんだ、思い切り熱いんだ。みんな持って行きたまえ。砂糖も持って行きたまえ、そっくりみんな。パン………パンはたくさんある。そっくり、みんな持って行きたまえ。犢肉《こうしにく》もあるよ。金も一ルーブリ」
「貸してくれたまえ、きみ、明日は返すから! ああ、キリーロフ君!」
「それは、あのスイスでなにした細君かね? それはいい、それから、きみがあんなに駆け込んだのも、あれもやはりいいよ」
「キリーロフ」とシャートフは叫んだ、急須を肘で抑えて、両手に砂糖とパンをつかみながら。「キリーロフ! もし……もしきみがあの恐ろしい空想をなげうつことができたら……あの無神論の悪夢を捨てることができたら……ああ、それこそきみはどんなに美しい人間になるか、わからないんだがなあ、キリーロフ君!」
「きみはスイス事件の後でも、やはり細君を愛してるようだね。スイス事件の後までとすれば、それは本当にいいことだよ。茶が入り用になったらまた来たまえ。夜っぴて来たってかまわないよ、ぼくはまるで寝ないんだから。サモワールは用意しとくよ。この一ルーブリを持って行きたまえ、さあ。もう細君のところへ行ってやるがいいよ。ぼくはここにいて、きみと細君のことを考えてるから」
 マリヤ・シャートヴァは、ことが迅速に運んだのに満足らしく、まるで貪るように茶を飲みにかかったが、しかし、サモワールなど取りに行く必要はなかった。彼女は茶碗に半分ほど飲んだばかり、パンも小さなきれを一つ食べただけである。犢肉などは気むずかしい、いらだたしげな様子でしりぞけてしまった。
「お前は病気なんだね、マリイ。お前の様子はいかにも病的だものね……」臆病げに、傍でかれこれ世話を焼きながら、シャートフはおずおずとこういった。
「むろん病気ですよ。どうか坐ってちょうだいな。いったいあんたはどこからお茶を取って来たの、もしあんたのところになかったとすれば?」
 シャートフはキリーロフのことを、ちょっと掻い摘んで話した。彼女もこの男のことは、何かと耳に挾んでいた。
「知ってますわ。気ちがいだってんでしょう。ありがとう、もうたくさん。馬鹿な人間なら、世間に珍しくもないわ。で、あんたはアメリカヘいらしったの? なんでも、わたしに手紙を下すったそうね」
「ああ、ぼくは………パリーヘ向けて出したのだ」
「もうたくさん、どうか、ほかの話をしてちょうだいな。あんたは心からのスラブ主義者?」
「ぼくは……ぼくは別にそういうわけじゃない……ロシヤ人になることができないから、それでスラヴ主義になったのさ」場所がらにはまらない無理な警句をいった人のように、苦しそうにひん曲った薄笑いを浮かべた。
「じゃ、あんたはロシヤ人でないの?」
「ああ、ロシヤ人じゃない」
「ふん、そんなことみんな馬鹿げてるわ。さ、お坐んなさいな。わたし頼んでるじゃないの。なんだってあんたは始終あっちへ行ったり、こっちへ行ったりするの? わたしが譫言《うわごと》をいってると思って? だけど、本当に譫言をいい出すかもしれないわ。あんたは、二人きりでこの家に住んでるといったわね?」
「二人きり……下に……」
「しかも、こんな賢い人ばかり。下になんですって? あんた下にといいましたね?」
「いや、なんでもない」
「何がなんでもないの? わたし知りたいわ」
「ぼくがいおうと思ったのはね、いまぼくらはこの家に二人きりしかいないが、もとは下にレビャードキンとその妹が住んでた……ということなんだ」
「それはゆうべ殺されたあの女?」彼女は突然おどりあがった。「わたし聞いたわ。着くとすぐ聞いたわ。この町で火事があったんですってね?」
「ああ、マリイ、そうだよ。ことによったら、ぼくは今この瞬間に、あの悪党どもをゆるすということによって、恐ろしい卑劣な真似をしてるかもしれないのだ……」彼は出しぬけに立ちあがって、前後を忘れたように両手を振り上げながら、部屋の中を歩き廻り始めた。
 けれど、マリヤは彼の言葉がはっきりわからなかった。彼女はうっかり彼の返事を聞いていた。自分のほうからいろんなことをたずねながら、ろくろく耳をかしていなかったのである。
「あんた方は、いろいろけっこうなことをしてらっしゃるのね。ああ、何もかも卑劣なことばかりだ! だれもかれも卑劣なやつらばかりだ! さあ、いい加減にしてお坐んなさいよう、お願いしてるんじゃありませんか。ああ、本当にあんたにはじりじりさせられちゃうわ!」
 こういって彼女はぐったりと、枕に頭を埋めるのであった。
「マリイ、もうしないよ……お前ちょっと横になったらどうだね、マリイ?」
 彼女は返事をしないで、力なげに目を閉じた。そのあお白い顔は、まるで死人のようになった。彼女は、ほとんど見てる間に寝入ってしまった。シャートフはあたりを見廻して、蝋燭の火を直し、もう一ど女の顔を心配そうに見やると、両手をかたく胸の上に組みながら、そっと爪立ちで廊下へ出た。梯子段の上で、顔を隅っこの壁に押し当てたまま、十分ばかりじっと身動きもせず立ちつくしていた。彼はもっと長く、そうしていたかもしれなかったが、ふいに下のほうから、静かな用心ぶかい跫足が聞こえた。だれか登って来る様子である。シャートフは木戸を閉め忘れたのを思い出した。
「そこにいるのはだれだ?」と彼は小声でたずねた。
 未知の客は悠々と急がずに、返事もしないで上って来た。すっかり昇り切った時、彼は立ちどまった。まっ暗闇なので、何者とも見分けがつかなかった。とつぜん用心ぶかい質問が聞こえた。
「イヴァン・シャートフですか?」
 シャートフは名を名のったが、すぐに相手を押し止めるように、手をさし伸べた。と、男はいきなり彼の両手をつかんだ。シャートフは、まるで恐ろしい毒虫にでもさわったように、思わず身を慄わせた。
「ここに立っていたまえ」と彼は早口にささやいた。「入っちゃいけない。ぼくはいまきみを通すわけにいかないんだ。家内が帰って来たんだから。ぼくすぐに蝋燭を持って来るよ」
 彼が蝋燭を持って引っ返してみると、だれやらまだ生若い将校が立っていた。名前は知らないけれど、どこかで見たことがあるような気がする。
「エルケリ」とこちらは名のりを上げた。「ヴィルギンスキイのところで会ったはずです」
「おぼえてる。きみはじっと腰をかけて、何か書いてたっけ。ねえ」ふいに前後を忘れたように、相手のほうへつめ寄ったが、声は依然としてささやくような調子で、シャートフは熱くなってこういった。「きみはいまぼくの手をつかみながら、手で合図をしたね。しかし、覚えていてくれたまえ、ぼくはそんな合図なんか、弊履のごとく棄てることもできるんだからね! ぼくはそんなものを認めやしない……ぼくはいやだ……ぼくは今すぐに、きみをこの梯子段から突きおとすこともできるんだよ。きみはそれを承知しているかね?………」
「いや、ぼくはそんなこと、少しも知りません。それに、どうしてあなたがそんなに腹を立てられるのか、いっさいわけがわからないです」少しも毒けのないほとんど子供らしい調子で客は答えた。「ぼくはちょっとお伝えしたいことがあるので、一刻も時間を無駄にしまいと思って、そのためにわざわざやって来たのです。ほかじゃありませんが、あなたはご自分の所有に属していない印刷機械をもっておられるはずです。そして、ご自分でご承知のとおり、それについて報告の義務を帯びていられるのです。ぼくは、明日の午後正七時に、その機械をリプーチンに引き渡してしまうよう、あなたに要求しろと命ぜられたのです。なおそのほかに、今後あなたはもうなんらの要求をも受けられない、とこう伝えるように命じられました」
「もう何一つ?」
「ええ、けっして。あなたの請求は会のほうで容れられて、あなたは永久に除名されたのです。このことは間違いなく、あなたに伝えるようにとの命令でした」
「だれが命令したのです?」
「それはぼくに合図を教えてくれた人たちです」
「きみは外国から来た人ですか?」
「それは……それはあなたにとって、なんの関係もないことだろうと、ぼくは考えますがね」
「ええ、ばかばかしい! ときに、きみはそんな命令を受けながら、どうして早くやって来なかったんだね?」
「ぼくはある訓令に従って行動していたし、それに、一人きりでなかったものですから」
「わかってます。きみが一人きりでないことは、わかっています。ええ、ばかばかしい! いったいどういうわけで、リプーチン自身来なかったんだろう?」
「そういうわけで、ぼくは明晩、正六時に迎えに来ますから、いっしょにあすこへ歩いて行きましょう。われわれ三人のほかにはだれも来やしません」
「ヴェルホーヴェンスキイは来るかね?」
「いや、あの人は来ません。ヴェルホーヴェンスキイは明日の朝十一時に、この町を出発することになっています」
「そうだろうと思った」とシャートフは気ちがいのように叫びながら、拳を固めてわれとわが股を打った。「逃げやがった、悪党め!」
 彼は興奮のていで考え込んだ。エルケリはじっとその様子を見つめながら、無言のまま控えていた。
「きみたちはどうして受け取るつもりなんだね? あんなものを一ペんに、手で提げて持ってくわけにいかないじゃないか」
「そんなことをする必要はないです。ぼくらはあなたに場所を教えてもらって、本当にそこへ埋めてあるかどうか、確かめさえすればいいんですから。ぼくらはその場所がどの方面にあるか知ってるだけで、場所そのものは知らないのです。あなたはその場所をだれかに教えたことがありますか?」
 シャートフはじっと彼を見つめていた。
「きみは、きみはそんな小僧っ子のくせに、――やはり羊かなんぞのように、あんな仕事に頭を突っ込んでしまったのかね! ああ、やつらはつまり、こういうふうな甘い汁が吸いたいんだ! さあ、行きたまえ! ああ、あの悪党め、きみらをみんなだましておいて、そのままどろんを決めやがったんだ」
 エルケリは明るい落ちついた目で、相手を眺めていたが、なんのことかわからないらしかった。
「ヴェルホーヴェンスキイが逃げた、ヴェルホーヴェンスキイが!」シャートフはもの凄く歯を鳴らした。
「いや、あの人はまだここにいます、どこへも行きゃしませんよ。あの人は明日たつのです」ものやわらかな諭すような調子で、エルケリは口を挟んだ。「ぼくはとくにあの人に立会いを頼んだのです。ぼくの受け取った訓令は、全部あの人から出たもんですからね(と彼は、無経験な青年の常として何もかもぺらぺらいってしまった)。けれど、残念ながら、あの人は出発を口実として、承知してくれませんでした。それに、まったく何やら馬鹿に急いでるのです」
 シャートフはもう一ど憫むように、この正直者に視線を投げたが、急に『ふん、憫んでやる価値があるかい』とでも考えたように、片手を振った。
「よろしい行きましょう」とつぜん彼は断ち切るようにこういった。「だから、もう行ってくれたまえ、さあ、早く!」
「じゃ、ぼくは正六時に来ますよ」とエルケリは丁寧に会釈して、悠々と梯子段を下りて行った。
「ばか!」こらえ切れないで、シャートフは梯子段の上からどなった。
「なんですか?」こちらは下からきき返した。
「なんでもない、行きたまえ」
「ぼくは何かいわれたのかと思いましたよ」

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 エルケリは、肝腎な統治者としての分別こそなかったけれど、こせこせした被統治者としての分別は、狡猾といっていいくらい、かなり多分に持ち合わした『馬鹿者』だった。ファナティックか赤ん坊のように、『共同の事業』、といっても、その実ピョートルに信服し切った彼は、今もピョートルの命令にしたがって行動したのである。この命令はさっき仲間[#「仲間」に傍点]のものが集まって、いろいろあすの手はずや役割を決めた時、ピョートルが彼に授けたのである。ピョートルはあの間に彼を小わきへ呼んで、十分ばかり話をしたのち、彼に使者の役目を授けてしまったのだ。こういう分別の欠けた、他人の意志に隷属することばかり望んでいる浅薄な人間にとっては、実行方面の仕事が本性の要求だった、――むろん『共同の事業』のためとか、『偉大な事業』のためとかいう口実が、いつでも付き物ではあるけれど……しかし、それさえどうでもかまわないのだ。というのは、エルケリのような年若のファナティックは、理想に対する奉仕ということを、自分が心から信じきって理想の代弁者とする人物に結びつけなければ、どうしても了解できないからである。
 感じやすくて、善良で、優しいエルケリは、ことによったら、シャートフ目がけて飛びかかった仲間の中で、最も冷酷な下手人だったかもしれない。自分ではなんの私怨もないくせに、目一つぱちりともさせないで、惨殺の場所に立会ったに相違ない。たとえていおうなら、彼は使命を実行するに当たって、目下のシャートフの事情をよく見て来るように、という命令をも授けられていたが、シャートフが階段の上で彼に応対しながら、つい夢中になって自分でもそれと気がつかず、妻が帰って来たと口をすべらした時も、エルケリは、この、妻が帰って来たという事実は、自分の計画遂行に重大な意味をもってるな、という考えが、電光のように脳裡にひらめいたにもかかわらず[#「かかわらず」は底本では「かかわからず」]、少しもさきを聞きたそうな様子を見せないだけの、本能的な狡知を持っていたのである。
 まったくそのとおりであった。この出来事一つが『悪党ども』を、シャートフの決心から救ったと同時に、彼を『片づける』助けとなったのである。第一に、この出来事はシャートフを興奮させ、心の軌道から叩き出してしまって、いつもの明敏な透察力と、慎重な態度を奪い取ったのである。自己の安全などという考えは、ぜんぜん別なことがらにみたされている彼の頭に、浮かんで来ようはずがなかった。それどころか、明日ヴェルホーヴェンスキイが逃げ出すということを、彼は一も二もなく本当にしてしまった。この話はあまりにぴったりと、彼の想像に符合するからである。自分の部屋へ帰って来ると、彼はふたたび隅っこに腰を下ろして、膝に両肘を突きながら、手で顔をおおった。苦しい想念が彼を悩ますのであった……
 やがて彼はまた首を上げて、そっと爪さきで立ちあがると、静かに妻の顔を覗きに行った。
『ああ、どうしよう! 明日の朝は熱を起こすに相違ない、いや、ひょっとしたら、もう起こってるかもしれん! むろん風邪を引いたのだ。こんな恐ろしい気候に馴れてないし、それに三等の汽車旅、あらし、雨……おまけに、こんな冷たい外套一つで、別に暖い着物一枚ないんだ……こんな場合にうっちゃらかすなんて、たよりのない境遇に捨てておくなんて……そして、このカバンはどうだろう、なんだか小っぽけな軽そうなしわの寄ったカバンで、十斤ばかりしか重みがなさそうだ! かわいそうに、なんというやつれ方だろう。ずいぶん苦労したんだろうなあ! あれは誇りの強い女だから、それで口に出して訴えないのだ。しかし、あの癇の強いことは! なにしろこの病気だからなあ。どんな天使だって、病気にかかれば癇が強くなるさ。あの額はきっと乾き切って、火のように熱いことだろう。そして、あの目の下の暗いこと……しかし、あの卵なりの顔の美しいことはどうだ。そして、あの髪の房々としていること、実に……』
 彼は急いで目を転じた。彼はこの女性の中に、他人の扶助を要する疲れ悩む不幸な人間というよりほかに、何か別なものを見出しはしないか、とそう考えただけでも、ぎょっとしたかのように、あわてて目をそらした。
『いったいこんな場合にどんな希望[#「希望」に傍点]があるものか! ああ、おれはなんという下司な、なんという陋劣な人間だろう!』
 彼はふたたび元の片隅へ引っ込んで、腰をおろすと、両手で顔を隠してしまった。そして、ふたたび空想に耽りながら、さまざまなことを思い起こすのであった……すると、またしても同じ希望が頭をかすめた。
『ああ、疲れちゃった、ああ、疲れちゃった!』という妻の呻きが思いおこされた。それは弱々しい、ひっちぎれたような声であった。『ああ! 今あれをうっちゃってしまったらどうだろう。あれは八十コペイカしか持っていないのだ。古いちっぽけな金入れを突き出したっけ! 仕事をさがしにやって来たって、ふん、あれに仕事のほうなんかわかってたまるものか。あの連中にロシヤのことなんか何がわかるものか。あんな連中は、まるで罪のない子供みたいなものだ。あの連中のすることは、みんな自分で考え出した空想なんだ。かわいそうに、あれもここへ来てみて、どうして本当のロシヤは、外国で空想したのと違うのだろうと思って、腹を立ててるのだ! なんという不幸な人たちだろう、なんという罪のない人たちだろう!……しかし、本当にここは寒いなあ……』
 彼は妻が寒さを訴えたことや、自分が暖炉を焚くと約束したことを、思い出した。
『薪はあすこにあるから、持って来ることはできるが、ただ起こさないようにしなければ……だが、大丈夫だ。ところで、犢肉のことはどうしたもんだろう? 目をさましたら、食べたいというかもしれないからなあ……が、まあ、それは後でいい、キリーロフは一晩じゅう寝ないんだから……何か掛けてやるといいなあ。ぐっすり寝入ってるけれど、きっと寒いに違いない。ああ、寒そうだなあ!』
 彼はもう一ど妻の様子を見に行った。と、着物が少しまくれて、右の足が半分ばかり、膝の辺まであらわになっていた。彼はほとんどおびえたように、つと顔をそむけた。そして、自分の厚い外套を脱いで、古いフロック一枚になると、なるべくそのほうへ目を向けないようにしながら、剥き出しになったところを隠してしまった。
 薪を焚きつけたり、爪立ちで歩き廻ったり、寝ている妻の様子を見たり、部屋の隅で空想にふけったり、また寝ている妻の様子を見たりするのに、だいぶ時間が潰れた。こうして、二、三時間たってしまった。この間にキリーロフのところへ、ヴェルホーヴェンスキイとリプーチンがやって来たのである。やがて彼も隅のほうで、うとうと眠りに落ちてしまった。ふいに、女の呻き声が聞こえた。マリヤは目をさまして彼を呼んだ。彼はまるで罪人《つみびと》のように躍りあがった。
「マリイ! ぼくはついうとうとしかけたよ……ああ、マリイ、ぼくはなんて陋劣な人間だろう!」
 彼女は自分がどこにいるかわからないように、びっくりしてあたりを見廻しながら、起きあがった。と、急に憤怒のあまり躍りあがった。
「わたしあんたの寝床を占領してたのね。わたしは疲れちゃって、つい夢中で寝てしまったんだ。まあ、どうしてあんたは起こしてくれなかったんです! わたしがあんたの厄介になるつもりだなどと、よくもそんな失礼なことが考えられたわね!」
「どうしてぼくが起こせるものか、マリイ?」
「起こせますとも、起こさなきゃならなかったんですよ! もうほかにあんたの寝るところもないのに、わたし、あんたの寝床を占領してたんじゃありませんか。あんたとしては、わたしをうしろめたい立場に落としちゃならなかったはずなんです。それとも、わたしがあんたのお情けにあずかりに来た、とでも思ってるんですか? さあ、今すぐご自分の寝床に入ってください。わたしは隅っこのほうへ椅子を並べて寝ますから……」
「マリイ、そんなに椅子はありゃしないよ。それに敷くものもないんだよ」
「じゃ、床の上へじかに寝るわ。だって、あんたが床へ寝るようになるじゃないの。わたし床の上に寝たいんですの、すぐ、今すぐよ!」
 彼女は立ちあがって、一あし踏み出そうとしたが、ふいに烈しい引っ吊るような痛みが、一どきに力と決断を奪いつくしたように、彼女は高い呻き声とともに、ふたたび寝床の上に倒れてしまった。シャートフは思わず傍へ駆け寄った。けれど、マリヤは顔を枕の中に埋めながら、いきなり彼の手を取って、力まかせに握りしめたり、捩じ廻したりし始めた。これが一分間ばかり続いた。
「マリイ、お前、もしなんだったら、ここにフレンツェルという医者があるんだがね。ぼくの知人で、大変……ぼく一走り行って来ようか」
「ばかなことを!」
「何がばかなことだ? ねえ、マリイ、いったいどこが痛むんだい? なんなら湿布をして……腹か何かに……そんなことなら、医者はいなくっても、ぼくにできるが……でなければ、芥子泥《からしでい》でも……」
「それはいったいなんですの?」彼女は頭を持ち上げて、お