京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP005-024

白痴

第一編

      1

 十一月下旬のこと、珍しく暖かい、とある朝の九時ごろ、ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車は、全速力を出してペテルブルグに近づきつつあった。空気は湿って霧深く、夜はかろうじて明けはなれたように思われた。汽車の窓からは、右も左も十歩の外は一物も見わけることができなかった。旅客の中には多少外国帰りの人もあったが、それよりもむしろあまり遠からぬ所から乗って来た小商人《こあきんど》連の多い三等車がいちばんこんでいた。こんな場合の常として、だれも彼も疲れきって、ひと晩のうちに重くなった目をどんよりさせ、からだのしんまで凍えきっていた。どの顔もどの顔も霧の色にまぎれて、青黄いろく見える。
 とある三等車の窓近く、夜明けごろからふたりの旅客がひざとひざを突きあわせて、腰かけていた。どちらも若い人で、どちらも身軽な、おごらぬ扮装《いでたち》、どちらもかなり特徴のある顔形をしていて、どちらもたがいに話でもはじめたいらしい様子であった。もしこのふたりが、なぜ自分たちの身の上がことにこの場合注目に価するかということを、両方からたがいに知りあったなら、彼らはかならずや自分たち両人をペテルブルグ・ワルシャワ線の三等車に向かいあってすわらせた運命の奇怪さに驚いたであろう。ひとりは背丈の高からぬ二十七歳ばかりの男で、渦を巻いた髪の毛はほとんど真っ黒といっていいくらい、灰色の目は小さいけれど火のように燃えている。鼻は低くて平ったく、顔は頬骨がとがって、薄手なくちびるは絶えずなんとなく高慢らしい、人を小ばかにしたような、毒々しくさえ思われるような薄笑いを含んでいた。けれど、その額は高く秀でて恰好よく整い、卑しげに発達した顔の下半分を補っているのであった。この顔の中で特に目立つのは死人のように青ざめた色つやで、それがこの若者に、がっしりした体格に似合わぬ、疲労|困憊《こんぱい》した人のような風貌を与えていたが、同時に、その思いあがったような粗暴な薄笑いや、自足したような鋭いまなざしとはまるで調和しない、悩ましいまでに熱情的なあるものがあった。彼は黒い布を表地にしたゆったりした毛皮外套にぬくぬくとくるまっているので、昨夜の夜寒もさほどに感じなかったが、向かいの席の相客は、思いもかけなかったらしい湿っぽいロシヤの十一月の夜のきびしさを、ふるえる背におしこたえねばならなかったのである。彼は大きな頭巾《ずきん》つきの、だぶだぶした、地の厚いマントを羽織っていたが、それはどこか遠い外国――スイスか北部イタリーあたりで、冬の旅行に使われるものにそっくりであった。ただし、それもオイドクーネン(ドイツの町、ロシヤとの国境)からペテルブルグまでというような、長道中を勘定に入れるわけには行かぬ。それに、いくらイタリーで役に立つ便利なものでも、ロシヤではあまりけっこうではなかった。頭巾つきマントの持ち主も同じく二十六か七かの青年で、中背というよりすこし高く、ふさふさとしてつやのある亜麻色の髪、こけた頬、ほとんど真っ白な楔形《くさびがた》をしたひとつまみほどのあご鬚を生やしている。大きな空色の目はじっとすわって、何かものを見るときは、静かではあるけれど重重しい奇怪な表情に充たされるのであった。ある種の人はこうした表情をひと目見ただけで、癲癇《てんかん》の兆候を発見するものである。青年の顔は、とはいえ、繊細で気持ちがよかった。けれども、なんとなくかわききって色がないうえに、今はちょうど寒さに凍えて紫色にさえ見える。彼は中身の貧しそうな、色のさめた、古い絹の風呂敷包みを手にぶらつかしていた。見たところ、その中には、仇の旅行中の手まわりがことごとく含まれているらしい。足には、踵の厚い靴の上にゲートルを付けていて、――何から何まで非ロシヤ式である。髪の黒い、布ばりの毛皮外套を着た隣りの男は、半分は退屈まぎれに、これらのものをすっかり見て取った。やがて、とうとう、他人の失敗を見て満足するときによく人が浮かべる無作法な嘲笑を浮かべながら、気のない無遠慮な調子で問いかけた。
「寒いかい?」
 と言って、ちょっと肩をすくめた。
「ええ、じつに」と相手は驚くばかり気さくに答えた。「どうでしょう、これでもまだ雪どけの日なんですからね。もしこれが凍《いて》の日だったらどうでしょう。ぼくはロシヤがこんなに寒いとは思わなかった。忘れちまってたんです」
「外国から来たんだね」
「ええ、スイスから」
「ふゅう!」と口を鳴らして、「ほんとにおまえさんはなんて!………」
 こういって、髪の黒いほうは、からからと笑いだした。
 話はこんな具合ではじまった。スイス式マントにくるまった亜麻色の髪をした青年が、頭の黒い相客の問いに答える態度は、奇異な感じのするほど気さくで、相手の質問がひどく無造作で、ぶしつけで、退屈半分なことなどには、いっこう気がつかないらしいふうであった。あれこれの問いに答えているうちに、彼はこんなことを話して聞かした。じっさい、彼は長く、四年あまりもロシヤにいなかった。病気のために外国へやられたのである。それはなんだか一種不思議な神経病で、からだがふるえて引っつる、いわば癲癇か、ウイット氏舞踏病のようなものであった。相手の物語を聞きながら、色の浅黒いほうは幾度かにやりと笑ったが、ことに彼が『どうだね、癒ったかね?』ときいたのに対して、亜麻色髪のほうが『いや、癒らなかったですよ』と答えたときなどは、手放しで笑いだした。
「へっ! おおかたつまらなく財布の底をはたいちまったんだろう。おれたちなんざあ、こっちで使ったほうがご利益《りえき》が多いと思ってらあ」と色の浅黒いほうは毒々しくいった。
「まったくほんとのこってすよ」年のころ四十ばかり、粗末ななりをしたひとりの男が隣りにすわっていたが、このとき不意に口を出した。書記どころで乾し固まったらしい小役人ともいうべき人相、頑丈な体格、赤鼻、にきび面をしている。「まったく、ほんとのこってすよ。ロシヤの力はみんなつまらなく、あいつらに取られてしまっているのでさあ!」
「いいえ、どういたしまして。わたしだけのことについていえば、あんたがたはとんだ感ちがいをしていらっしゃいますよ」とスイスの患者は、静かななだめるような声でさえぎった。「ぼくも事情を何かち何まで知ってるわけじゃありませんから、むろん、しいては争いませんが、ぼくの主治医はなけなしの金をさいて、こちらへ帰る旅費を出してくれました。それに、あちらにいるときも、二年間というもの自費でまかなってくれたのです」
「じゃあ、なにかね、だれも払ってくれ手がなかったとでもいうのかね?」と色の浅黒いほうがたずねた。
「ええ、もと仕送りしてくれたパヴリーシチェフさんが、二年前になくなったのです。それからぼくはここにいる人で遠縁にあたる、エパンチン将軍夫人に手紙を出しましたが、返事が貰えなかったのです。まあ、そういう事情で帰って来たようなわけです」
「いったいどこへ帰ってきなさったんですね?」
「つまり、どこへ泊まるつもりかとおっしゃるんでしょう?……さあ、まだわかりません、まったく……ただなんてことなしに……」
「まだ決まってないんですかい?」
 ふたりの聞き手はまたからからと笑いだした。
「そして、おおかたその風呂敷包みの中には、おまえさんの身上《しんしょう》ありったけ入ってるんだろうなあ」色の浅黒いほうがこうきいた。
「それはそうに違いない、わたしが首でも賭けまさあ」とおそろしく得意な顔つきをして、赤鼻の役人が口をはさんだ。「そうして手荷物車の中にも、そのほかべつに預けものはなさそうですよ。貧乏は罪にならんといいますが、それにしても、やはり目につきますでな」
 じじつ、これまたそれに相違ないことが判明した。亜麻色の毛をした青年はすぐさま、なみなみならず性急な調子でこんなことを白状した。
「いや、それにしても、あんたの風呂敷包みにはだいぶ意味がありますなあ」足りるだけ笑いつくしたとき、役人は言葉をつづけた。(おもしろいことには、風呂敷包みの持ち主も、ふたりの様子を見てとうとう笑いだしたが、それがまた相手の浮き浮きした気持ちをあおったのである)「むろん、その中にナポレオン・ドルとか、フリードリッヒ・ドルとか、くだってはオランダのアラブとかいうような、外国金貨の棒が入ってないのは、まちがいないところです。それはもう、あんたの外国ふうの靴にかぶさっているゲートルを見ただけで、察しがつきますがね。しかし……その風呂敷包みにですな、たとえばエパンチン将軍夫人のごときご親戚を加えると、あんたの風呂敷包みは、だいぶ違った意味を帯びてきますて。が、それは申すまでもなく、エパンチン将軍がほんとにあんたの親戚で、あんたがうっかり思い違いをしておられん場合に限りますがな……そういうことはよく、じっさいよくあることでしてな、その……想像の過剰というような原因でも」
「おお、あなたはまたいい当てましたね」と亜麻色の青年は受けて、「まったく、ほとんど思い違いをしているのです。そのつまり、ほとんど親戚でないといっていいくらいなんです。ですから、あちらにいるとき返事が届かなかったけれど、じっさい、すこしも驚かなかったのです。はじめからそんなことだろうと覚悟していましたから」
「つまり、無駄な金を切手代に使いなすったわけだね。ふーむ……が、とにかく、かけひきのない正直なおかただ。それだけでも感心ですよ! ふむ! エパンチン将軍はわたしどもも知っておりますよ、つまり、将軍が世間に聞こえた人だからです。それから、あんたがスイスにおられたとき仕送りしたという、パヴリーシチェフさんもやはり承知しておりますよ。ただしニコライ・アンドレエヴィチのほうならですよ。パヴリーシチェフさんは従兄弟《いとこ》同士でふたりありましたからな。ひとりのほうは今でもクリミヤにおられるが、故人のニコライ・アンドレエヴィチは交際の広い、人から尊敬されたかたで、一時は四千人の百姓をかかえておられたそうです……」
「そうに違いありません、あの人はニコライ・アンドレエヴィチ・パヴリーシチェフといいました」
 こう答えて青年は、じっと探るようにこの物知り先生の顔をながめた。
 こうした物知り先生はときどき、いな、むしろしばしば、社会のある階級で目撃することができる。彼らはなんでも知っている。彼らの才知の寸時も休むことなき探究心は挙げてことごとく、現代の思索家にいわせたら、比較的重要な人生上の興味や観察に欠けた一つの方面にのみ集中されるのである。とはいえ、『なんでも知っている』という言葉の意味は、かなり制限されたものとみなければならぬ、――だれそれはどこに勤めていて、だれだれと知り合いであるとか、いくら財産があって、どこの県知事をしていたとか、だれと結婚して、いくら持参金を取ったとか、だれと従兄弟に当たって、だれと又従兄弟に当たるとか、すべてこうしたたぐいである。これらの物知り先生の大部分は、ひじのぬけた服を着て歩き、月十七ルーブリの俸給をもらっている。自分の秘密をかぎ出された当の人々は、どんな興味がこの連中を支配しているのか、しょせん考えつくことはできないが、彼らの多くは堂々たる科学にも比肩すべきこの知識によって、慰安を発見し、自尊心を鼓舞し、はなはだしきは高い意味の精神的満足にさえ到達している。それになかなか趣味のある仕事でもある。自分は学者、文士、詩人、政治家のなかにさえ、この仕事のなかに高い意味の妥協と目的を求めえたばかりか、ただそれのみによって名をなした人をすらたびたび見受ける。
 この会話のあいだじゅう、色の浅黒い若者はあくびをしたり、あてもなく窓の外をながめたりしながら、旅行の終わりをもどかしげに待っていた。彼はなんとなくそわそわしていた、なにかしら心配ごとでもあるらしくひどくそわそわしていて、なんとなく様子が変に思われるくらいであった。ときには聞くことも耳に入らず、見ることも目に入らなかった。どうかした拍子に笑っても、すぐに何がおかしくて笑ったのか忘れてしまって、どうしても思い出せなかった。
「ところで、失礼ですが、あんたはどなたでございますかな……」にきび面の男はふいに亜麻色の毛をした風呂敷包みの青年にたずねた。
「レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン公爵」とこちらはいささかも猶予なく、気さくに答えた。
ムイシュキン公爵? レフ・ニコラエヴィチ? 知りませんなあ。聞いたこともないくらいです」と役人は思案顔に答えた。「ただし、お名前のことじゃありません。お名前はなかなか由来つきのもんで、カラムジンの歴史にも載っておるかもしれません、いや、きっと載っておりましょうよ。わたしのいうのは人のことです、ムイシュキン公爵というのは、なんだか今どこにもおられんようですぜ。もう、うわささえ消えてしまいましたよ」
「ええ、そりゃそうですとも!」と公爵はさっそく答えた。「ムイシュキン公爵はぼくのほか今どこにもいません。ぼくが最後のひとりだろうと思われます。先祖は郷士出の地主でした。もっとも、ぼくの父は軍隊に入って少尉になっていました。ユンケル(貴族の子弟で、ただちに見習士官となるもの)出のね。ところで、一つわからないのは、どういうわけでエパンチン将軍夫人がムイシュキン家の血を引いて、しかも同様に、一門中の最後の者と祚っているかってことです」
「へ、へ、ヘ! 一門中で最後の者(この言葉はある意味において「最も劣ったもの」というふうにもとれる)! へ、へ! あんたはなんといういいかたをなさるんで」役人はひひと笑いだした。
 色の浅黒い若者もやはりにたりと笑った。亜麻色の毛は白分のいったことが地口、それもかなりまずい地口になっているのに、いささか面くらった。
「どうでしょう、ぼくちっとも気がつかないでいったんです」とうとう彼は驚いたようにこういいわけした。
「もうわかっとります、わかっとります」と役人は愉快そうにうち消した。
「どうだね、公爵、おまえさん向こうで学問を習って来だのかね、先生のところで?」ふいに色の浅黒いほうがこう問いかけた。
「ええ……習いましたよ……」
「ところが、おれは今まで何も習ったことがないんだ」
「なに、ぼくだってほんのぽっちりかじったばかりなんですよ」と公爵はほとんどあやまらんばかりに言いたした。「ぼくは病気のせいで、系統的に教育を受ける力のない者とされてしまったんです」
「ラゴージンをごぞんじかね?」と色の浅黒いほうは早口にたずねた。
「いや、知りません、まったく。ぼくはロシヤに知人といってはいくらもないんですからね。で、きみがそのラゴージンですか?」
「うん、おれなんだよ、パルフェン」
パルフェン? それじゃ、あんたはあの例のラゴージン家の人では……」と、急におそろしくもったいらしい調子で役人はこういいかけた。
「ああ、あの例のだ、例のだ」色の浅黒い若者はぶっきらぼうな、いらだたしげな声で早口にさえぎった。彼は今まで一度もにきび面の役人のほうへ向いたことがなく、最初から公爵ひとりにだけ話しかけていたのである。
『へえ……こりゃいったいなんとしたこった?」と役人は棒立ちになって、目をむきださんばかりに驚いた。彼の顔は一瞬、卑屈なくらいうやうやしい、度胆を抜かれたような表情を帯びてきた。
「じゃ、あの、ひと月ばかり前に二百五十万ルーブリの遺産を残してなくなられた、世襲名誉市民セミョーン・パルフェノヴィチ・ラゴージンさんの?」
「おめえはそんなことをどこから聞きかじってきたんだい、おやじが二百五十万の財産を残したなんて」このたびも役人のほうには目もくれずに、色の浅黒い若者はさえぎった。「なあ、どうだい!(と彼は公爵に向かって、役人をあごでしゃくってみせた)ぜんたいこんなやつらはすぐにお世辞たらたらそばにやって来やがるが、それがやつらにどうだというんだろう? しかし、おやじが死んだってえのはほんとだよ、おれはプスコフから、ひと月もたった今時分、着のみ着のままで帰ってるところさ。弟の畜生もおふくろも、金もよこさなけりゃ知らせもしやあがらねえ! まるで、しと[#「しと」に傍点]を犬ころ扱いよ! おれはプスコフでまるひと月というもの熱病で寝とおしたんだ!」
「けれども、今にすぐ一時に百万ルーブリお手に入るじゃござんせんか。いくらすくなくともそれだけは確かです、おお、ま、なんという!」と役人は思わず両手をうった。
「いったいあいつ何がほしいんだろうなあ、おまえさんわかるかね!」ふたたびラゴージンはいらいらした様子で、毒々しく役人をあごでしゃくってみせた。「いくらてめえがおれの前でさかさになって歩いたって、一コペイカだってくれて、やるんじゃねえ」
「歩きます、さかさになって歩きますとも」
「ちょっ! よしんばまる一週間踊ってみせたって、おらあ。これっからさきもくれてやるんじゃねえから!」
「いりませんよ、それがわたしに相当していまさあ、いりませんよ! わたしはあんたの前で踊るんだ。女房や子供を棄てても、わたしはあんたの前で踊ったほうがいい。お世辞三昧といかなくちゃ」
「ちょっ、てめえは!」と色の浅黒いほうはぺっと唾を吐いた。
「五週間ばかり前」と彼はあらためて公爵に向かって話しだした。「おれもちょうどおまえさんと同じように風呂敷包み一つかかえて、プスコフの伯母をたよっておやじの家を飛び出したんだ。ところが、熱で床についたもんだから、そのあいだにおやじはとうとう死んじゃった、卒中にどかっとやられたのさ。なき人に後世安楽を授けたまえ――ところで、おやじはおれをあのとき半死半生の目にあわせやがったよ! 公爵、おまえさんはほんとうにゃしなさるまいが、まったくのこったよ! あのときおれが逃げ出さなかったら、きっと殺《や》られていたにちがいない」
「そりゃなにかでおとうさんを怒らしたのでしょう?」一種特別の好奇心をもって毛皮外套の百万長者をながめながら、公爵はこう答えた。
 それは百万ルーブリという金高にも、また遺産相続ということにも、特に興味をそそるようなものがあったかもしれないが、まだそのほかになにか公爵を驚かし、興味を感じさせるようなものがあった。それに当のラゴージンも、なぜか好んで公爵を話相手に選んだ。もっとも、話相手がほしくなったのも、精神的というよりむしろ機械的の要求にすぎないらしい。気さくなためというより、むしろそわそわした心持ちや、不安や興奮にたえきれなくなって、ただもうだれでもいいからながめていたい、なんでもかまわぬ、舌を動かしていたい、――そういう欲求のほうがかっていた。彼は今まで熱病、すくなくとも悪寒かなにかに苦しめられていたらしい。例の役人はどうかというと、彼はラゴージンのほうにかがみこんで、吐く息引く息すらはばかりながら、まるでダイヤモンドでも探すようにひとことひとこと拾い上げては、仔細にそれを点検するのであった。
「おやじのやつ怒るには怒ったよ、それは怒られるのもあたりまえだったかもしれない」とラゴージンは答えた。「ただ弟の野郎がだれよりいちばん、ひとをひでえ目にあわしやがった。おふくろのことあ、なにもいうことはねえ。あれはしようのない旧弊で、聖僧伝でも読みながら、婆さん連とぼんやりすわっているよりほか能のない人間で、弟のセンカ(セミョーンの愛称、やや軽蔑の気持ちを含む)のいいなりしだいになってるんだ。しかし、なんだってあいつ、しかるべき時におれに知らせてよこさねえんだ? わけはちゃんとわかってまさあ! そりゃあ、おれがそのとき熱に浮かされていたのはほんとうだ。電報も打ったって話だ。電報が伯母さんのとこへ着いたんだそうだが、伯母さんてえのはもう三十年も後家を通して、いつも朝から晩まで信心きちがいのようなやつとばかりいっしょにいる。別段に尼さんというわけじゃねえが、それよりもっと上手《うわて》なのよ。伯母さん電報に度胆を抜かれて、封も切らずに警察署へ届けたとかで、今までそこでごろごろしてたやつさ。ようやっとカニョフが――ヴァシーリイ・ヴァシーリチがなにもかも知らせてくれたんで、やっとまあ助かったって始末よ。聞きゃ、弟のやつめ、ある晩、おやじの棺に掛けてある金襴の打敷から、金糸の房を切り取って、『こんなことにどれだけ金がかかるかしれやしない』とぬかしやがったそうだ。これ一つだけでも、もしおれがその気になったら、あの野郎をシベリアにでも追いやることができるんだ。まったく涜神罪だからな。おい、やっこ、えんどう畑のかかし野郎!」と彼は役人のほうを向いた。「法律だとどうなるかい、涜神罪かい?」
「涜神罪ですとも! 涜神罪ですとも!」と役人はすぐ相づちを打った。
「それでシベリア行きかい?」
「シベリア行きですとも! シベリア行きですとも! さっそくシベリア行きです!」
「やつらはまだおれが病気だと思っている」とラゴージンは公爵に向かって言葉をつづけた。「ところが、おれは黙ってこっそり汽車に乗って、まだからだの具合は悪いんだけれど、こうしてやって来たのさ。『やい弟、セミョーン・セミョーヌイチ、戸をあけろ!』と出かけるんだあね。あいつがおやじにおれのことを讒訴《ざんそ》しやあがったなあ、ちゃんとわかってるんだから。もっとも、おれがナスターシヤ・フィリッポヴナのことで、おやじさんのご機嫌を損じたのは、うそも隠しもねえ、ほんとのこった。それはもうおれひとり悪いに相違なしだ」
「ナスターシヤ・フィリッポヴナのことで?」役人は何ごとか思い当たったように、さも卑屈らしい調子でこういった。
「てめえなんかの知ったこってねえ!」とラゴージンはたまりかねて一喝くらわした。
「ところが、どっこい、知っとりますよ!」と役人は勝ち誇ったように答えた。
「こいつはどうだ! しかし、ナスターシヤ・フィリッポヴナという名前は世間にいくらでもあらあな! ほんとにてめえはいけずうずうしい野郎だなあ! いずれこんな野郎がすぐにうるさく付きまとって来やがるに相違ねえと思ってたよ」と彼は公爵のほうに向いて言葉をついだ。
「ところが、ひょっとしたら、知ってるかもしれませんぜ」と役人はせわしげに口をはさんだ。「レーベジェフはなんでも知っとるですよ! 旦那、あんたはわたしを責めつけなさるが、もしわたしがちゃんと証明したらどうなりますね? わたしがいうのは、あんたがおやじさまに杖をもって追っかけられるもとになった、正真正銘のナスターシヤ・フィリッポヴナ、姓はバラシュコヴァ、ずいぶん身分のいい人で、やはり公爵令嬢といってもいいくらいのかたでしてな、トーツキイとかいう人の思いものでしょう、大地主で財産家で、いろいろな会社や商会の関係者で、この方面のことからエパンチン将軍とも非常に心安くしているアファナーシイ・イヴァーノヴィチの……」
「ちょっ、なんてやつだ!」と、とうとうラゴージンはほんとうに驚いた。「こんちくしょう、ほんとに知ってやあがる」
「なにもかも知っとりますよ。レーベジェフはなんでも知っとりますよ! わたしはね、あんた、まるふた月というものリハチョフ・アレクサーシカといっしょに、やはりおやじさんのなくなったあとですがね、所々方々を歩きまわったんで、今じゃ、その、どんな隅々|隈々《くまぐま》でも、のこらずそらで知ってるんで。だからもう、レーベジェフがいないと来た日にゃあ、何ごともひと足だって先へ出っこなしですよ。今でこそアレクサーシカも債務監獄にぶち込まれておりますが、その当時はアルマンスとか、カラーリヤとか、パーツカヤ公爵、夫人とか、あるいはナスターシヤ・フィリッポヴナとかいうような人たちを、見知るだけのおりがあったんです。まあ、そのほかいろいろのことを知るおりがありましたね」
「ナスターシヤを! まさかあれがリハチョフと……」ラゴージンは毒々しく相手をながめた。くちびるまでが青くなってふるえはじめた。
「いや、な、なに、なんでもありません! けっしてなんでもないんです!」役人は気がついて急にあわてだした。「ど、どうして、リハチョフがどんなに金を積んだって追っつきゃあしません! どうして、あの人はアルマンスなんかとはわけが違いまさあね。トーツキイひとりだけですよ。よく晩に「大劇場」か、フランス劇場でいつも買切りの桟敷にすわっておられると、若い士官たちがてんでんに自分勝手なご託《たく》を並べたもんでさあ。『おい、あれが例のナスターシヤ・フィリッポヴナだぜ』なんていってるけれど、ただそれっきりのことで、それからさきは、なんともできないんです。なぜといって、つまり、なんにもないからなんで」
「あれはみんなほんとのことなんだ」ラゴージンが眉をひそめながら、陰欝な調子でいいだした。「あのときザリョージェフがやっぱり同じようにいって聞かせたよ。おれはね、公爵、そのとき、おやじの着古した外套を着て、ネーフスキイ通りを突っきっていたのさ。すると彼女が店から出て来て馬車に乗っているじゃねえか。そんときおれはからだじゅう焼かれたような気がしたよ。ちょうどそこヘザリョージェフが来あわせたが、先生はなかなかどうしておれなんかのお仲間じゃねえ。まるで床屋の手代みてえな歩きっぷりで、片眼鏡なんかはめてるじゃねえか。ところが、おれなんか部屋住みで、くさい墨をぬりこくった靴をはいて、食べ物は精進汁というしつけかたなんだからな。先生のいうにゃ、ありゃおまえなんぞの相手じゃない、ありゃおまえ、公爵家の奥方だ、ナスターシヤ・フィリッポヴナってんで、苗字《みょうじ》はバラシュコヴァ、今トーツキイといっしょになっている。ところが、トーツキイはあの女から離れようとしてもがいてるんだ。そのわけは、やっこさんもういい年をしていながら(もう五十五になるそうだ)、ペテルブルグいちばんの美人を貰おうともくろんでやがるって、こういいやがるじゃねえか。先生おれをたきつけて、きょう「大劇場」へ行きゃあナスターシヤが見られる、いつも買切りの一等桟敷でバレエを見てるはずだと、こういうのだ。家なんかじゃ、バレエ見物などしようものなら、折檻されるだけのこと――殺されっちまわあ! だが、おれはそれでもこっそり一時間ばかり抜け出して、もう一度ナスターシヤを見て来たが、その晩はまんじりともしなかったよ。あくる朝、おやじは五分利つき五千ルーブリの債券を二枚わたしていうのには、ひとつ行ってこいつを売って来い、そして七千五百ルーブリをアンドレーエフさんの事務所へ持ってって、支払いをすませ、残りは、どこへも寄らずにわしのところへ持って帰れ、待ってるからって、こうだ。おれは債券を売って金を受け取ったが、アンドレーエフのところへなんか寄りゃしねえ、わき目も振らずイギリス屋へ行って、ありったけほうり出して耳飾りを選り出した。両方にダイヤが一つずつ付いてるんだ。ちょっとまあ、こんな胡桃《くるみ》くらいの大きさはあったよ。まだ四百ルーブリ足りなかったが、名前をいったら信用してくれた。耳飾りをもってザリョージェフんとこへかけつけて、こうこういうわけだ、いっしょにナスターシヤのところへ行ってくれといって、ふたりして出かけたわけなんさ。おれはそのとき、足の下に何があったやら、目の前や両側に何があったやら、ちっとも知らん、覚えがないんだ。向こうへ行くと、まっすぐに広間へ通った、すると、女は自分でふたりのとこへ出て来た。おれはそのとき自分が本人だてえことをうち明けないで、『パルフェン・ラゴージンからの使いだ』ってことにしておいたのさ。そこでザリョージェフがいったね、『きのうお目にかかったおしるしですから、どうぞお納めくださいまし』あけて中をのぞいてみると、にたりと笑って、『ご親切なお心づかい、まことにありがとうございますと、お友達のラゴージンさんにお伝え願います』こういって、お辞儀をしたなり行っちまった。ちぇっ、なぜおれはその時その場で死んじまわなかったんだ! こうして出かけて行ったのも、『ええ、ままよ、生きちゃ帰らねえんだ!』とこう思ったからなんだ。しかし、何よりしゃくにさわってたまらなかったのは、あのザリョージェフの畜生、なにもかも自分のことのようにしちまったことさ。おれは背が低いうえに、身なりときたら下司のようだし、ぼんやり突っ立ったまま、穴のあくほど女の顔を見てるってふうだから、恥ずかしくてたまらねえ。ところが、あん畜生、なにもかも流行ずくめで、頭はポマードをなすりつけるやら、こてをあてて縮らせるやら、それにほんのりいい血色をして、格子《こうし》のネクタイという恰好で、お世辞を振りまいたり、足をすったりしやあがるじゃねえか。あいつきっとあのとき、ザリョージェフをおれかと思ったに相違ない! おれは外へ出たときいってやった、『おい、おめえこれから妙なことを考えたら承知しねえぞ!』すると、やっこさん笑って、『だが、おまえはおやじさんになんといいわけするつもりだい?』とぬかしやがった。おれはまったくそのとき家へ帰らねえで、水ん中に飛びこんじまいたかった。が、また、『ええ、どうだって同じこった』と考えなおして、ふてくされた様子で家へ帰った」
「エーフ! ウーフ!」とうめくようにいって、役人は妙なしかめ面をし、思わずぶるぶるっと身震いしながら、「まったく故人《ほとけ》は一万ルーブリどころか十ルーブリのことでさえ、人間ひとりあの世へ送りかねない人でしたからな」と彼は公爵にうなずいてみせた。
 公爵は好奇の色を浮かべながらラゴージンをながめた。ラゴージンはその瞬間、ひとしお青くなったように思われた。
「あの世へ送る!」とラゴージンはおうむがえしにいった。「てめえが何を知るもんかい」彼はさらに公爵に向かって話しつづけた。「すぐとなにもかも知れちまった。それに、ザリョージェフの野郎が会う人ごとにおしゃべりをはじめたのさ。おやじはおれをつかまえて二階に押し込め、まる一時間のべつお説教だ。『いいか、これはほんの小手調べだぞ。また今夜やって来て引導を渡してやるから』ところが、まあどうだ! このごま塩おやじがナスターシヤのところへ行って、地べたに頭をすりつけながら、泣き泣き頼んだってじゃねえか。とうとう女は箱を持ち出してたたきつけたもんだ。『さあ、ひげじいさん、これがおまえさんの耳飾りですよ。パルフェンさんがそんなこわい目をして手に入れたもんだと聞いたら、この耳飾りが十倍もありがたくなってきた。どうかパルフェンさんによろしくお礼をいってちょうだい』てなことをいったそうだ。さあ、ちょうどその間に、お袋の胆煎りでセリョージュカ・プロトゥーシンから二十ルーブリ借りて、鉄道でプスコフへ向けてたったが、着いたときはいやに寒気がした。お婆さん連がお経を読んでくれたもんだが、おれは酔っぱらってぐでんぐでんになっていたよ。それから、なけなしのお金を握って酒屋から酒屋を飲みまわり、その晩は正体なしに往来にぶっ倒れたまんまで明かしちゃったのよ。おかげで朝になってみると熱さ。おまけに夜中に犬が来て噛み散らしやがって、むりやり目をさまさせられたようなわけさ」
「なあに、なあに! 今度はナスターシヤ・フィリッポヴナも違った歌を唄いだしますぜ!」役人はもみ手をしながら、ひひひと気味の悪い笑いかたをした。「今じゃ、旦那、耳飾りくらいなんでもござんせん! 今じゃそれこそ、どえらい耳飾りをくれてやりまさあね……」
「いいか、もしもきさまがただの一度でも、ナスターシヤのことをなんとかいったら、それこそほんとに、見てるがいい、おれはてめえをぶんなぐるぞ。いくらてめえがリハチョフといっしょに歩きまわったからって、容赦しやあしねえから!」ラゴージンはむずと相手の手を握ってどなりつけた。
「ぶんなぐる、そんならつまり、追っ立てはなさらんのですね! ぶんなぐってください! そうすればそれだけとくになります!………ぶんなぐられれば、それだけ縁が結ばれようというものです……ときに、もう着きましたよ!」
 なるほど、汽車は停車場に入っていた。ラゴージンはこっそりたってきたようにいったが、それにもかかわらず、もういくたりかの人が彼を待ち受けて、わめいたり帽子を振ったりしていた。
「ちょっ、ザリョージェフのやつもいやがる!」とラゴージンは勝ち誇ったような、というよりむしろ毒々しい微笑を浮かべて、そのほうをながめながらつぶやいた。と、ふいに公爵のほうをふり向いて、「公爵、なぜかわからんが、おれはおまえにほれこんじゃった。もしかしたら、場合が場合だったからかもしれねえ。だがしかし、おれはこいつにも(といいながらレーベジェフをさして)出会ったけれど、こいつにはけっしてほれこまなかったからなあ。公爵、おれんところへやってきな、そのゲートルをぬがして、すてきな貂《てん》の外套を着せてやるぜ。燕尾服もとびきりなやつを縫わせようし、チョッキも白いのなりなんなり、気に入ったのをこさえさせ、どのかくしもみんないっぱい金を詰めてやらあ……そして……いっしょにナスターシヤ・フィリッポヴナのところへ行こう! 来る! 来ない?」
「さあ、ムイシュキン公爵」けしかけるような大ぎょうな調子で、レーベジェフが口を入れた。「いいですか、おりをのがしちゃいけませんぜ! いいですか、おりをのがしちゃいけませんぜ!………」
 公爵は腰を上げて、慇懃《いんぎん》に手をラゴージンにさし伸ばし、愛想よく答えた。
「そりゃもう喜んで行きますとも。そしてぼくを好きになってくださったことに対して、心からあなたに感謝します。間にさえ合ったら、きょうにも早速いくかもしれません。じつはうち明けていいますと、ぼくもあなたがたいへん気に入ったのです。とりわけダイヤモンドの耳飾りの話をなすったとき……いや、もう耳飾りの前から、陰気な顔をしておられるなと思いながらも、やはり気に入ったのです。それから、約束してくださった服や、外套も、ありがたく頂戴します、じっさい、服も外套もすぐにいるものなんですから。金はまた今のところ、ほとんど一コペイカの持ち合わせもありません」
「金はすぐできる、晩までにできる。やってきな!」
「できますよ、できますよ」と役人は口をはさんだ。「夕方、日の入る前にできますよ!」
「だが、公爵、おめえ女はよっぽど好きなのかね? さきにちょっと聞かせとくんな!」
「ぼく、い、いいえ! ぼくは、だって……きみはご存知ないかもしりませんが、ぼくはその、生まれつきの病気で、まったく女というものさえ知らないのです」
「へえ、そんならおまえは」とラゴージンは叫んだ。「おまえはまったく信心きちがいみてえなもんじゃねえか。公爵、神さまはおまえのような人をかわいがってくださるんだよ」
「まったくそんなふうの人を、神さまはかわいがってくださいますよ」と役人は引き取った。
「おい、てめえはおれのあとからついて来るんだ」とラゴージンはレーベジェフにいった。
 一同は車を出た。
 とどレーベジェフは自分の目的を達した。間もなく騒々しい一群は、ヴォズネセンスキイ通りのほうへと遠ざかった。公爵はリテイナヤ街へ曲がらなければならなかった。じめじめと湿っぽい朝であった。公爵は通行の人をつかまえてきいてみたが、めざすところまで三露里もあるとのことだった。彼は辻馬車を雇うことに決めた。

      2

 エパンチン将軍は、リテイナヤ街からすこし『変容救世主寺院』のほうへ寄った自分の持ち家に住んでいた。六分の五は人に貸しているこの(りっぱな)家のほかにエパンチン将軍はサドーヴァヤ街にも大きな家を持っていて、これがやはり非常な収入になった。この二軒の家のほか、ペテルブルグのすぐそばに、いたって収入の多いりっぱな領地があるし、また郡部にはなにかの工場もあった。むかしエパンチン将軍は、人も知るように、一手販売事業に関係していたが、今はいくつかの基礎強固な株式会社に関係して、なかなか勢力をもっている。彼はたくさん金のある人、たくさん仕事のある人、たくさん縁故のある人としてとおっていた。所によっては、――勤め向きのほうもむろんのこと、――どうしてもなくてかなわぬ人といわれるだけに仕上げたのであるが、同時に、イヴァン・フョードロヴィチ・エパンチンは無教育で、兵隊のせがれから成りあがったものだということも世間に知れわたっていた。兵隊のせがれの一件は、疑いもなく、将軍にとって名誉ともなるべきことであったが、エパンチン将軍は利口な人であったけれど、やはり、多少の(十分|寛恕《かんじょ》に価するものとはいい条)弱点を持っていて、ちょっとでもそんなことを匂わされるのがいやでたまらなかった。がとにかく、利口で敏腕家であることは、争うべからざる事実であった。たとえば、彼は自分の出る幕でないと思った場合には、けっしてでしゃばらないという原則を守っている。で、多くの人はほかでもない、その淡泊な点、すなわちおのれを知るという点に彼の価値を認めた。しかしこのおのれを知るエパンチン将軍の心中にときおりいかなる現象がおこるか、こんな批評をくだす人たちに見せてやりたいくらいなものである。じっさい、彼は世渡りの道にかけては修練もあれば経験もあり、またなにかにつけいちじるしい才能もあるが、彼は自分の頭の中に命令者を持った人としてよりも、他人の思想の実行者、『お世辞でなく信服しきった』ロシヤ式に正直な人物というふうに見せかけるのが好きであった。――時世の変化というものは恐ろしいものである! これについてはずいぶんこっけいな逸話さえ伝えられている。しかし、どんなにこっけいなしくじりをしても、彼はけっしてしょげなかったし、それにカルタをやっても運がよかった。彼はいつでも大ぎょうな、思わくさえありそうな賭けかたをしたが、この「ちょいとした」道楽――そのじつこれは切っても切れぬもので、しかも多くの場合、彼の役に立つのであった――を、ことさら隠そうとしないばかりか、むしろそれをひけらかすのであった。彼の交わる社会はいろいろな種類の人の混合であったが、むろんどんな場合にも『第一流』の人ばかりであった。しかし、今まではすべてが行手のほうにあった。いつも気長に待っていた、いつもいつも気長に待ってきた。だから、これからはおいおい万事につけて彼の番が回ってこなければならぬはずだ。じじつ、エパンチン将軍は年からいえば、いわゆるいちばんあぶらののった時代である。つまり、ことし五十六といえば、どうして男盛り、これから本式に真の[#「真の」に傍点]人生がはじまろうという年で、けっしてそれ以上ふけてはいない。健康、顔の色合い、黒いがしっかりした歯なみ、頑丈な肉付きのいい体格、朝つとめに出たときの心配そうな顔つき、夜カルタに向かったときか、さもなくば閣下のご前に伺候したときなどの愉快な表情――いっさいのものがなにもかも現在未来の成功を助け、この君の生涯をばらの花で飾っている。
 将軍にはまた花の咲いたような家庭がある。じつをいえば、すべてがばらの花のようではなかったが、そのかわり、将軍の主なる希望や目的をよほど前から集中させているものもずいぶんある。まったくこの世に両親のいだく希望より重大神聖なものがほかにまたとあろうか? 家庭をほかにして、人間の結びつけられるべきところがどこにあろう? 将軍の家庭は夫人と年ごろの娘からなっていた。将軍の結婚したのはずっと以前で、まだ中尉時代であった。花嫁はほとんど同い年の娘で、かくべつ器量がいいというでもなければ、教育があるというでもなし、ただ持参金として、みんなで五十人の農奴が付いているきりであった。――もっとも、それが彼の未来の幸運の基礎となったのだ。けれど、将軍はのちのちまでも、けっして自分の早婚を悔いることもなく、またそれをば若気の過ちだなどとも考えず、夫人を尊敬し、また時としては恐れ、ついにはほれこんでしまったくらいである。夫人はムイシュキン公爵家の生まれであった。家柄はさしてはなばなしいほうではないがいたって旧家なので、その生まれのために夫人はなかなか自尊心が強かった。その時分の勢力家で、保護者ともいうべき大物のひとりが(保護するといっても、かくべつ身銭を切ったわけではない)若い公爵令嬢の結婚に面倒をみることを承知してくれた。この人が手引きして若い士官のために門を開き、うしろから押しこんでくれたような具合である。しかし、若い士官のほうからいえば、わざわざ押してもらうまでもなく、ただちょっと目くばせくらいしてもらえばたくさんなのであった、――けっして無駄になるようなことはないから! ごくわずかな例外を除いたら、夫妻は長い年月を平和に過ごした。まだずっと若かったときには、夫人は公爵家の令嬢としてまた一門ちゅうただひとり生き残った人として、――ことによったら、生まれつきの性情の徳かもしれないが、非常に名門の貴婦人をいくたりか保護者に持っていた。しかし、後年、財産もでき、夫の勤務上の地位も進んでからは、そうした高貴な人たちの中にまじっても、いくぶんなれなれしくふるまうようになった。
 この最近数年間に、三人の将軍令嬢もすっかり発育し、成熟してしまった、――アレクサンドラとアデライーダとアグラーヤである。じじつ、三人とも単に、――エパンチンの娘にすぎないが、母方の側からいえば公爵家の筋をひいており、持参金もたっぷりあるし、父親はやがて顕位高官にも昇ろうという勢いであるうえに、三人とも珍しい美人であった。これはかなり肝要なことであって、ことしもう二十五になる長女のアレタサンドラも、その数にもれなかった。次は二十三で、末娘のアグラーヤは、ようやく二十になったばかりである。このアグラーヤにいたっては、もう人なみすぐれた美人で、社交界でも非常に注目されはじめたほどである。が、これだけですべてを尽くしたとはいわれない。そのうえに三人が三人そろって教育、知識、才能の諸点において卓越していた。また彼らがたがいに愛しあいたすけあっていることも、よく人に知られていた。ふたりの姉が一家の偶像たる妹のために、なにかの事情で一種の犠牲になっている、――こうした話まで世間に伝わっているくらいだ。社交界へは三人ともあまり顔出しするのは好まないばかりか、少々つつしみぶかすぎるほどであった。もちろん、だれひとり傲慢不遜というかどで姉妹《きょうだい》をとがめるものはなかったが、それでも彼らが自分自身の価値をわきまえて、誇りの高いたちであることはあまねく知れわたっていた。長女は音楽家で、次はすぐれた画家であるが、そのことは長いあいだだれも知るものがなく、ごくごく最近に、それも偶然の機会であらわれたような始末である。ひと口にいえば、彼女らについては、賞賛すべきことが数かぎりなく喧伝されていた。しかし、また同時に反感をいだく者もあって、姉妹の読破した書物の量のおびただしさを、さも恐ろしいことのように語りあった。また彼女らは結婚を急ごうともしなかったし、社交界のあるサークルをばかにしていないまでも、たいしてありがたがってはいなかった。そんなこともうわさの種となった。それはだれもが姉妹の父親の趣味、性行、目的、希望などを熟知しているだけに、ひとしお目につくのであった。
 公爵が将軍の住居に着いてベルを鳴らしたのは、もう十一時ごろであった。将軍は遑物の二階に、できるだけつつましやかな、とはいえ自分の地位に釣合うような住居を区ぎっていた。公爵のために玄関を開いたのはおしきせを着た下男であったが、うさんくさい様子をして、客の姿やその手に持っている風呂敷包みをながめまわした。公爵はこの男との押し問答にかなり時間をつぶした。なんべんきいてもはっきりと、自分は正真正銘のムイシュキン公爵であって、のっぴきならぬ用のためどうしても将軍にお目にかがらなければならぬと返答するので、男は不承不承に応接室の手前、書斎のすぐそばにある控室へ公爵を案内し、毎朝この控室の当番をつとめ来客の取次を役目にしている男に、手から手へと引き渡した。それは燕尾服を着込んだ四十過ぎの男で、いつも仕事のことが気にかかるような顔つきをしており、閣下の私室専任の召使と取次を兼ねているので、なかなか気位が高い。
「どうか応接室のほうでお待ちを願います。包みはこれにお置きなすって」ゆうゆうともったいらしく自分の安楽いすに腰をおろしにかかった取次は、公爵が包みを手に持ったまま、すぐ自分の隣りに座をしめたのを見て、いかめしい驚きを顔に浮かべながら、こう注意した。
「もしかまわなかったら」と公爵はいった。「ぼく、きみといっしょにここで待ってるほうが勝手なんです。だって、あんなところにひとりいたって始まらないからね」
「でも、控室においでになるべきじゃありません。あなたは訪問の人、つまりお客さまですからね。あなたは将軍閣下にじきじきご用がおありになるんですか」
 召使はどう思っても、こんな客を通す考えにならぬらしく、もう一度思いきってきいてみた。
「ええ、ぼくはすこし用事が……」と公爵はいいだした。
「わたしはご用のことなんかきいてはいません、――わたしはただあなたをご案内するのが役目ですから。しかし、ただいまも申したとおり、秘書のかたがいらっしゃらないと、どうもお取り次ぎするわけにまいりませんが」
 この従僕の疑念はしだいしだいにつのってゆくようであった。この公爵は、彼が日ごとに接する訪問客の種類に、あまりといえば似ているところが少なすぎた。もちろん、将軍とてもしばしば、いな、ほとんど毎日のように一定の時刻になると、ずいぶん思いきって毛色の変わった客を引見している。ことにこの用事[#「用事」に傍点]と称して来る連中にこれが多い。しかしそうした習慣や、かなり寛大な主《あるじ》の訓令にもかかわらず、従僕は大いに疑いをいだいた。彼はどうしてもあらかじめ、秘書に相談しなければならないと思った。
「ですが、あなたはまったく……外国からお帰りになったのですね?」とうとう彼は思わずひとりでにこうきいたが、いったあとでへどもどしてしまった。
 おそらく彼は『ですが、あなたはまったくムイシュキン公爵ですね?』ときこうとしたのであろう。
「ええ、たったいま汽車からおりたばかりです。しかし、なんだかきみは、ほんとにぼくがムイシュキン公爵かどうかきこうとしたのを、遠慮してやめたように思われますね」
「む!………」と従僕はびっくりしてうなった。
「大丈夫ですよ、ぼくはきみにうそなんかいいやしないから、きみがぼくのことで責任を負うようなことはありませんよ。ぼくがこんな服装《なり》をして、こんな包みなどをさげてるのも、べつに驚くことはないんです。目下、ぼくの財政はあまりかんばしくないんですからね」
「むむ! わたしはなにも、そんなことを心配してるんじゃありません。わたしは取り次ぎするのが役目なんだし、それに今に秘書のかたがここへ来られますから、それに、もしあなたが……ええ、まったく、その、なんですよ、それに……失礼ですが、あなたが閣下のところへおいでになったのは、もしやお金の無心じゃございませんか!」
「おお、どういたしまして、そのことなら心配は断じてご無用ですよ。ぼくはまるっきり別な用事でやって来たんだから」
「どうぞごめんなすって、わたしはあなたのご様子を見て、ついそう申したのです。まあ、秘書のかたがお見えになるまでお待ちを願います。閣下は今ちょっと大佐殿とご用談中ですから。やがて秘書のかたもおいでになりましょう……会社のほうの人なんで」
「ははあ、もし長く待たなければならないようなら、ひとつきみにお願いがあるんですがね。どうでしょう、ここにはどこか、たばこを吸うところがないでしょうか、ぼくはパイプもたばこもちゃんと持っているんですが」
「たーばーこ?」まるで自分の耳を信じかねるもののごとく、従僕はさげすむような不審な表情で、ちらと相手に視線を投げた。「たばこ? いいえ、ここでたばこをおあがりになることはできません。それにまあ、かりにもそんなことをお考えになるだけでも、あなたの恥じゃあございませんか。へっ……なんて珍しいこった!」
「おお! ぼくはなにもこの部崖でと頼んだわけじゃない。そりゃぼくだって知ってます。ぼくはただきみの教えてくれるところへ出るつもりだったのです。すっかり癖になっちゃって……もうかれこれ三時間すわないんですからね。しかし、まあ、どうともご都合に。ねえ、こんなたとえがあるじゃありませんか、郷に入れば……」
「まあ、あなたのような人、なんといって取り次ぎましょう!」と従僕は思わずつぶやいた。「だいいち、あなたがこんなところにおいでになるって法がないじゃありませんか。応接間にすわってらっしゃるのがほんとうです。だって、あなたは訪問の人、つまり、お客さまの身分じゃありませんか。それにわたしも責任を問われますからね……いったいあなたは当家へご逗留のつもりでいらしたのですか?」もう一度公爵の包みを尻目にかけて、彼はこうつけたした。この包みがよくよく気にかかるらしい。
「いや、考えもしませんよ。よし勧められても、ご厄介にならないつもりです。ぼくはただ、お近づきを願いにあがったのです、それっきりです」
「なんですって? お近づきを!」ますますうさんくさい様子をして、従僕はびっくりしたようにきいた。「じゃ、なんだってはじめに、用事があって来たとおっしゃったんですね?」
「いや、ほとんど用事といわれないくらいなんです! といって、もしなんなら、用事があるといってもいいです。ちょっとご相談を願いにね。しかし、まあ、おもな目的は挨拶にあがったんです。そのわけは、ぼくがムイシュキン公爵だし、エパンチン将軍夫人もやはりムイシュキン家の公女で、ぼくと夫人とのほかにはだれも一族の者がないからなんですよ」
「そんなら、あなたはおまけに親類のかたですか」すっかりおどしつけられた従僕は、ふるえあがらんばかりであった。
「なに、これとてもほとんどそうでないといっていいくらいです。もちろん、無理にこじつけると親類には相違ないが、ずいぶん遠い縁で、ほんとうのところは、突きとめるわけにも行きません。ぼくは一度外国から奥さんに手紙をさしあげたけれど、返事がなかった。が、それにしても、帰ったらぜひとも交際を願おうと思っていました。こんなことをきみにうち明けるのは、きみがいつまでも心配しているのが、ありありと見えすいているから、疑惑のないようにと思ってのことなんですよ。ね、ムイシュキン公爵が来たと通じてください。それだけでぼくの来訪の原因もおのずとわかるから。会ってもらえれば結構だし、会ってもらえなかったら、なお結構かもしれない。しかし、たぶん会わないなんていうわけには行かないでしょう。将軍夫人も自分の一門中たったひとりの代表者を、見てみたいと思いなさるに相違ない。ぼくがたしかに聞いたところによると、夫人は家柄のことをたいへん自慢していられるそうですからね」
 公爵の話はきわめて平々凡々たるものであったかもしれない。しかし、平凡であればあるだけ、この場合いよいよばかくさく思われた。下男同士のあいだならあたりまえだが、客と下男[#「下男」に傍点]とのあいだではきわめて不似合な何ものかがあるのを、世なれた従僕は感じないわけに行かなかった。召使[#「召使」に傍点]などというものは、概してその主人たちが考えているよりはるかに賢いものであるから、この従僕の頭にも、ふとこんな考えが浮かんできた。公爵なるものは金の無心に来た一種の浮浪人か、さもなくば、そんな野心なぞ蓄えていないただのばか者か、二つに一つである。なぜなら、賢いしかも野心のある公爵ならば、控室などにすわりこんで、下男風情を相手に用向きなど話しはすまい。してみると、どちらにしても自分に責任のかかりっこはない。
「ですが、なににいたせ、あなた、応接間のほうへおいでを願いたいもので」と彼はできるだけしつこい調子で注意した。
「だって、ぼくがあっちですわってたら、きみにこうしてすっかりうち明けるわけに行かなかったでしょう」と公爵はおもしろそうに笑った。「したがって、きみはいつまでもぼくのマントと包みを見て、心配しなくちゃならなかったでしょう。しかし、もう秘書の人を待ってなくてもいいでしょう、きみ自身で知らせに行ったらどうです」
「いいえ、わたしはあなたのようなお客さまを、秘書に相談なしでお通しするわけにはまいりません。それに、ついさきほども、大佐殿のおいでになるうちは、どなたがお見えになってもじゃまをしてはならぬと、閣下がご自分でおいいつけになりましたんですから。まあ、取り次ぎをしませんでも、ガヴリーラさまはもうじきお見えになりましょうし」
「官に勤めているかたですか?」
「ガヴリーラさまですか? いいえ、会社のほうへ出ていらっしゃいます。まあ、その包みをせめてここへお置きなさいませ」
「ぼくも前からそう思っていたんですよ。もしかまわなければね。それからどうでしょう、このマントも脱ぎましょうかね?」
「あたりまえじゃありませんか。マントを着たまんまで閣下のところへ行かれもしますまい」
 公爵は立ちあがり、いそがしげにマントを脱ぎにかかった。そして、相応にきちんとした、気のきいた仕立ての、しかし、もういいかげんにくたびれた背広姿になった。チョッキには鋼鉄の鎖がさがって、ジュネーブ製の銀時計がつけてあった。
 公爵はこんなばかの三太郎ではあるが――従僕はもうそれに決めてしまった――しかし、彼は召使の分際として、これ以上主人の客と話をつづけるわけにゆかぬと考えた。もっとも、彼はなぜか公爵が好きになったのである(むろん、それも一種特別の好きさなのであった)。そのくせ、別の側から観ると、ずいぶん思いきった、無作法な不平をいだかないわけにもゆかなかった。
「だが、夫人はいつ面会なさるんでしょう?」公爵はまた以前の席に腰をおろしながらこうたずねた。
「そんなこと、わたしの知ったこっちゃありませんよ。人によっていろいろでさあ。帽子屋の女はいつも十一時です。またガヴリーラさまもやはりだれよりさきにお通しなさいますよ。朝ご飯のとき、お通しになることもございます」
「ロシヤでは冬、部屋の中が外国よりかずっと暖かいですよ」と公爵がいいだした。「そのかわり、外はあちらのほうがだいぶ暖かい。しかし、冬のうちは、――ロシヤ人なんかなれたいから、とてもやりきれませんね」
「ストーブをたかないのですか?」
「そう、それにゃ家の建てかたが違うんでね、つまり、暖炉や窓の造りが」
「ふむ! ですが、あなたは長いことご旅行をなさいましたか?」
「ええ、四年ばかり。しかし、ぼくはおおかたひとつとこにばかりじっとしていたですよ、田舎に」
「こちらへお帰りになったら、さぞ勝手が違うでしょうね?」
「それもそのとおりです。まったく、ぼくはよくロシヤ語を忘れなかったと思って、われながらびっくりするくらいですよ。こうしてきみと話していても、『おれはなかなかうまく話すな』と心の中で思ってるんです。ぼくがこんなにしゃべるのも、そのせいかもしれませんよ。いや、まったく、きのうあたりからしきりにロシヤ語を使ってみたくってたまらなかった」
「ふむ! ヘえ! ペテルブルグには以前お住まいになったことがございますか!」(従僕はどんなにがまんしてみても、こうしたふうの上品で丁寧な会話をつづけないではいられなかった)
「ペテルブルグに? ほとんどないです。ほんの通りがかりに寄ったばかりですから。以前もまるっきりここの事情は知らなかったけど、聞けばこのごろやたらに新しいことができたので、前に知った人でも、もういっぺん勉強しなおしているというくらいじゃありませんか。このごろこちらでは裁判の問題がやかましいようですね」
「ふむ!………裁判。裁判といえば、さよう、まったく、その、裁判でございますね。いかがですね、あちらのほうが裁判はまっとうでございますかね?」
「知りませんなあ。しかし、こちらのほうのことでも、しょっちゅういい話を聞きますよ。それにだいいち、ロシヤには死刑ってものがないでしょう」
「あちらではございますかね?」
「あります。ぼくはフランスで見ましたよ。リヨンで。シュナイデルさんに連れてってもらったんです」
「首を絞めるのですかね?」
「いや、フランスではなんでもかでも首を斬るんですよ」
「どうです、わめきますかい?」
「どうして! ほんの一秒間のことですもの。罪人をすえると、こんな大きな庖丁が機械仕掛で落ちてくるんです。ギロチンといってますがね、重いどっしりしたものですよ……すると、目をぱちりとさせるすきもなく、首がけし飛んでしまうんですからね。しかし、それまでが辛いでしょうよ。宣告が読みあげられて、いろいろ支度があって、それからふん縛られて死刑台に上げられる、これが恐ろしいんですよ! 人が集まる、女までやって来るんですからね。もっとも、あちらでは、女が見物するのをいやがるけど」
「女なんかの知ったこっちゃありませんからね」
「もちろんです! もちろんです! あんなむごたらしいことを!………罪人は利口そうな、胆のすわった、力のありそうな中年の男でした。レグロというのが苗字です。ところがねえ、ほんとうにするともしないともきみの勝手だが、その男、死刑台にのぼると泣き出したですよ、紙のように白い顔をして。まあ、そんなことがあっていいもんですか、じつに恐ろしいじゃありませんか。ねえ、きみ、だれがこわいからって泣くやつがあるもんですか。子供じゃあるまいし、四十五にもなる大人が、今まで泣いたことのない大人が、恐ろしさに泣き出すなんて、ぼくはそれまで夢にも思いませんでしたよ。しかし、その瞬間、当人の魂はどんなだったでしょう。きっと恐ろしい痙攣をおこしたに相違ありません。魂の侮辱です、それっきりです! 『殺すべからず』とは聖書にもちゃんと書いてあります。それだのに、人が人を殺したからって、その人まで殺すって法はない。いいや、そういうことはなりません。現にぼくはひと月前にそれを見たんだけど、今でもありありと目の前に浮かんでくる。もう五度ばかり夢に見たくらいです」。
 こう話しているうちに、公爵は活気づいてきた。ほんのりと薄くれないが青白い顔にさしてきた。もっとも、言葉つきは前々どおりに静かであった。従僕は同情に満ちた興味をもって彼の言葉に聞きほれながら、いかにも離れたくなさそうな様子であった。どうかしたら、彼は想像力もあり、思想的なことにも要求を感じている男かもしれない。
「まあ、それでも」と彼は口をきいた。「首が飛ぶときに苦しみの少ないだけがまだしもですね」
「これはどうだ!」と公爵は熱のある調子で押えた。「きみもそれに気がつきましたね。まったくだれでもそう思ってるのです。つまり、それがために、ギロチンなんて機械を発明したんですからね。ところが、ぼくはふとそう思いました――もしかしたら、それがかえって悪いのじゃないかしら、とね。きみ、おかしいでしょう。きみには乱暴に思えるでしょう。しかし、よく考えてみると。こういう気もしてくるんですよ。まあ、考えてごらんなさい、たとえば拷問ってやつを。こいつを受けるものは、からだに傷をつけられたりなんかして、苦しいでしょう。けれど、それは肉体の苦しみだから、かえって心の苦しみをまぎらしてくれます。だから、死んでしまうまで、ただ傷で苦しむばかりです。ところが、いちばん強い痛みは、おそらく傷じゃありますまい。もう一時間たったら、十分たったら、三十秒したら、今すぐに魂がからだから飛び出して、もう人間ではなくなるんだということを、確実に知るその気持ちです。この確実に[#「確実に」に傍点]というのが大切な点です。ね、頭を刀のすぐ下にすえて、その刀が頭の上をするすると滑ってくるのを聞く、この四分の一秒問が何より恐ろしいのです。いや、これはぼくの空想じゃありません。じっさい、いろんな人からそういって聞かされたんです。ぼくはこの話をすっかり信じていたのだから、隠さずきみにぼくの意見をぶちまけてしまいますが、殺人の罪で人を殺すのは、当の犯罪に比べて釣合いのとれないほどの刑罰です。宣告を読み上げて人を殺すのは、強盗の人殺しなどとは比較にならぬほど恐ろしいことです。夜、森の中かどこかで強盗に斬り殺される人は、かならず最後の瞬間まで救いの望みをもっています。そういうためしがよくあるんですよ。もうのどを断ち切られていながら、当人はまだ希望をいだいて、逃げ走るか助けを呼ぶかします。この最後の希望があれば十層倍も気安く死ねるものを、そいつを確実に[#「確実に」に傍点]奪ってしまうのじゃありませんか。宣告を読み上げる、すると、金輪際のがれっこはないと思う、そこに恐ろしい苦痛があるんです。これ以