京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『いやな話』   (『ドストエーフスキイ全集5 地下生活者の手記』P298~P347、1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

いやな話
フョードル・ドストエーフスキイ
米川正夫

                                                                                                            • -

【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)男子《おのこ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)万事|式《しき》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)[#割り注]ロシヤ語では「星」は同時に「勲章」の意味をも有している[#割り注終わり]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Une existence manque'e〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
https://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html

                                                                                                            • -

 このいやな話は、ほかならぬわが愛すべき祖国がやむにやまれぬ力をもって、同時に涙ぐましいほどナイーヴな意気をもって、更生の途上にむかい、この国の勇ましき男子《おのこ》らが、新しき運命と希望を目ざして突進しはじめた時代のことである。その頃、ある冴え返った冬の一夜、すでに十一時も過ぎた時刻に、ペテルブルグ区にある立派な二階建の家の、居心地よさそうな、贅沢なくらい飾り立てられた一室に、きわめて人品のいい三人の男が坐り込んで、すこぶる興味の深い話題を捕えて、どっしりした内容のある優れた談話をかわしていた。この三人は三人ながら、閣下級の人物であった。彼らは小さなテーブルを囲んで、話の合い間合い間にしんみりと快く、シャンパンを汲みかわしているのであった。シャンパンのびんは、同じテーブルの上に置かれた氷入りの銀盤で冷やしてあった。事情はこうである。六十五歳になる独身者の老人で、この家の主人である、三等官のスチェパン・ニキーフォロヴィチ・ニキーフォロフが、つい最近もとめたばかりの家で、新宅披露の祝いをかねてちょうど廻り合わせた誕生日の祝宴を催したのである。それまで、彼は誕生日を祝ったことがなかった。もっとも、祝宴といっても格別なことはないので、前にも述べたとおり、客はただ二人きり、二人ながらニキーフォロフの古い同僚であり、以前の部下であった。名ざしていえば、五等官のセミョーン・イヴァーノヴィチ・シプレンコと、同じく五等官のイヴァン・イリッチ・プラリンスキイである。彼らは九時頃にやって来てお茶を飲み、それから酒にかかったが、正十一時半には帰らなくてはならないことを、ちゃんと承知していたのである。主人は一生規律を愛して来た。ここでこの人のことを一言しておこう。彼は何のひきもない下級官吏から身を起こし、四十五年間というもの、辛抱づよくこつこつと勤務をつづけて、自分の出世の限界をよく心得てい、天から星([#割り注]ロシヤ語では「星」は同時に「勲章」の意味をも有している[#割り注終わり])をつかみ取ろうなどという大望を起こすのは大の嫌いで(もっとも、二つはすでに持っていたが)、ことに何事につけても、自分の意見を述べることを好まなかった。彼は正直であった。といって、何にもあれ、とくに不正直なことをするような場合がなかったのである。利己主義であったために、独身を通して来た。なかなか頭がよかったけれども、自分の頭のよさをひけらかすのが嫌いであった。ことにだらしのないのが嫌いで、うちょうてんになるのをいやがった。精神的なだらしなさと見なしたからである。生涯の終わりに近くなってからは、何かしら甘い怠惰な安逸に沈み、一定の方針を有する孤独に浸りきったのである。自分のほうからは時とすると、相当な家へ客に行くこともあったが、自分のところへ客に来られるのは、若い時分から大嫌いであった。最近にいたっては、もしひとりカルタを並べていなければ、煖炉の上でガラスの中に納まっている置時計との差向いに満足して、毎晩毎晩肘掛けいすでうつらうつらしながら、ちくたくの音を泰然として聞いている始末である。きわめて上品な容貌をして、髭は綺麗に剃り上げているので、年よりは若く見える。いささかも老衰の兆がないので、まだまだ長生きしそうであり、態度も堂々たる紳士である。彼の位置は楽なもので、何かの会議の議長をし、何かの書類に署名するだけなのである。ひと口にいえば、この上もなく立派な人物ということになっている。彼はただ一つの熱情、というより、一つの熱烈な希望を持っていた。それは自分の家屋を持つことであった。それも成金ふうでなく、貴族ふうに建てられた家でなければならない。ついにその希望は実現された。彼はペテルブルグ区にある家を見つけて、それを買い取った。もっとも、遠いことは遠いが、庭がついており、おまけに優美な家なのである。新しい持主は、遠ければかえってそのほうがいいと考えた。自分の家へ客を迎えるのは好きでないし、だれかを訪問したり役所へかよったりするのには、チョコレート色をした二人乗りの洒落た馬車と、馭者のミヘイと、小柄だけれどしっかりした美しい二頭の馬がある。これらはすべて、四十年間の細心な節約生活によって得られたものであるから、彼は内心うれしくてたまらないのである。こういった次第で、新しい家を手に入れて引越しをすると、スチェパン・ニキーフォロヴィチは、その落ちつきのある心の中になんともいえぬ満足を感じて、以前はごく親しい知人にさえ、注意ぶかく隠していた誕生日に、客を呼ぼうという気まで起こしたのである。客の一人に対しては、彼は特別な思わくを持っていた。新しい家で彼自身は二階を占領していたが、同じ建て方と間取りをした階下《した》のほうには、間借人を入れる必要があった。スチェパン・ニキーフォロヴィチは、シプレンコに白羽の箭《や》を立てていたので、この晩も二度ばかり話をそのほうへ持っていった。が、シプレンコはこの点については沈黙戦術を取った。これも長の年月こつこつと勤めて、自分の道を開拓して来た男で、髪の毛も顎ひげも黒く、顔色はいつも胆汁の溢れたような感じである。彼は妻帯者であったが、気むずかしやの外出ぎらいで、家のものを戦々兢々とさしていた。勤務のほうには自信があって、官等のほうもご同様に、どこそこまでは行けるということをよく心得ていたが、どこそこまではこんりんざい行けぬということのほうが、いっそうよくわかっているのであった。うまい位置にありついて、どっしりと梃子でも動かぬように尻を据えている。そろそろ萌して来た新しい制度に対しては、多少いらいらした気持ちをいだいてはいたが、かくべつ不安を感じもしなかった。彼は非常な自信家だったので、新しい問題に対するプラリンスキイの長広舌なども、いくらか意地悪い冷笑の気持ちで聞いていた。とはいえ、三人ともみんな一杯機嫌になっていたので、主人のスチェパン・ニキーフォロヴィチでさえ、プラリンスキイ氏あたりと角逐する気になって、新しい制度について、二人で軽い争論をはじめたほどである。しかし、プラリンスキイ閣下について、数言を費しておく必要がある。まして、この人こそこれから始めようとする物語の、おもなる主人公であるにおいてをや、である。
 五等官イヴァン・イリッチ・プラリンスキイは、閣下と呼ばれるようになってから、まだやっと四か月にしかならない。要するに、若手の勅任級なのである。年からいっても少壮で、当年とって四十三歳、それ以上ではけっしてない。見かけは更に若く、当人も若く見られるのが好きである。上背のある美男子で、身なりに凝るほうであった。つまり、洒落た中にも貫録を見せるのが得意で、大きな勲章を頸にかける、そのかけ方が実に上手であった。まだ子供の時分から、何かと上流社会ふうの態度を身につけていたくらいで、独身であるところから、金持ちでしかも上流社交界の花嫁を手に入れようと空想していた。彼はけっして馬鹿ではなかったが、そのほかまだいろいろなことを空想していた。どうかすると、ひどく多弁になって、国会議員めいたポーズさえするのが好きなのであった。良家の出で、父は将官だったから、お坊ちゃん育ちで、頑是ない子供の時分からビロードと精麻《バチスト》にくるまり、貴族学校で教育されたので、そこから得た知識は大したものではなかったけれども、勤務のほうもとんとん拍子で、ついに将官の位まで漕ぎつけたのである。上官は彼を有能の才と認め、将来を嘱望していたほどである。彼が最初の振り出しから、最近勅任になるまで、ずっと部下として働いて来たスチェパン・ニキーフォロヴィチは、かつて一度も彼を敏腕家あつかいにしたことがなく、けっして有望視などしなかった。しかし、彼が良家の出であって、支配人つきの大きな家を持っており、相当な人たちと縁辺に当たり、しかも堂々たる押出しをしている、そういうことだけは気に入っていた。スチェパン・ニキーフォロヴィチは、彼があまり空想に走り過ぎて軽率なので、内心にがにがしく思っていた。当のイヴァン・イリッチはどうかすると、自分はあまり自尊心が強すぎて、むしろ神経質に過ぎるくらいだ、と感じていた。不思議なことに、時おり彼は何か病的な良心の呵責を感じ、軽い慚愧の発作におそわれることがあった。時としては、おれは自分で考えているほど出世したのじゃないぞ、という悲痛な自覚をいだき、心の底に秘やかな痛みを覚えることもあった。そういう時、彼は妙に悄げ込んでしまう。ことに、痔疾が起こったときなどはなおさらである。彼は自分の生涯を 〔Une existence manque'e〕(失敗の存在)と名づけ、内心ひそかに自分の国会議員的才能さえ信じなくなり、自分で自分を饒舌漢《パルリョール》、空論家《フラジョール》と罵るのであった。こういうことはもちろん、彼のために嘉《よみ》すべきことであるが、それにもかかわらず、また三十分もたつと昂然と頭《こうべ》を反らし、前よりもかえって押強く野心満々たる気持ちになり、おれはまだまだ頭角を現わして、ロシヤ全国民に長く記憶されるような政治家、いなそれどころか、国家的名士になるぞと、自分で自分にいい聞かすのである。どうかすると、自分のために建てられた記念碑さえ目先にちらつくことがある。これらすべての点からして、イヴァン・イリッチは、その漠然とした空想と希望を心の中ふかく、多少の恐怖さえ交えながら秘めてはいたものの、遠大なる野心を持っていたことは明瞭である。ひと口にいえば、彼は善良な人間で、内面的には詩人でさえあったのである。最近数年間、病的な幻滅の瞬間が、だんだん頻繁に彼を訪れるようになった。彼は妙に苛々しやすく、猜疑心がつよくなり、ちょっとでも抗弁されると、それを侮辱に取るようになった。ところが、しだいに改革されて行くロシヤの近状が、とつぜん彼に大きな希望をいだかせるにいたった。勅任に昇級したということは、その希望を完全なものにした。彼は奮然たって頭《こうべ》をそらした。急に滔々と雄弁をふるうようになり、ごく新しいテーマを論じはじめた。新しいテーマというと、彼は驚くほど早く、意想外なほど烈しい勢いで、わがものにしていった。彼は雄弁をふるう機会を求め、市中を歩き廻って、いたるところ猛烈な自由主義者ということで通ったが、それが彼には嬉しくてたまらないのであった。ちょうどこの晩、シャンパングラスに四杯ほど飲んだ時、彼は特別はり切った気分になって来た。何ごとにつけてもスチェパン・ニキーフォロヴィチの説をひるがえさせたくてたまらなかった。彼はその前だいぶ長いこと会わないでいたが、今までいつもこの人を尊敬して、その言に従うようにさえしていた。ところがどういうわけか、スチェパン・ニキーフォロヴィチを退歩主義者と見なして、度はずれに熱くなって攻撃を始めたのである。スチェパン・ニキーフォロヴィチはほとんど弁駁しないで、話題は彼として興味があったにもかかわらず、ただずるい顔つきで相手の言葉を聞いているだけであった。イヴァン・イリッチは熱中して、ひとり合点の論争に紛れては、余分に杯を呷っていた。すると、スチェパン・ニキーフォロヴィチは、びんを取り上げて、すぐにその杯をみたしてやったが、イヴァン・イリッチはどういうわけか、突然それに侮辱を感じた。ことに、不断かくべつ軽蔑しているくせに、皮肉で意地悪なのに恐れをいだいているシプレンコが、すぐわきで、さも狡猾らしく押し黙って、いやにしつこく、にたにた笑いをしていたからなおさらである。『この連中は、どうやら、俺《ひと》を小僧っ子あつかいにしているらしいぞ』という考えがイヴァン・イリッチの頭をかすめた。
「いやもうその時機です。もう疾くにその時機が来ているのです」と彼はやっきとなってつづけた。「あまりに立ち遅れ過ぎたくらいです。わたしの意見によると、人道主義が第一です。部下に対しては、彼らも同じく人間であることを銘記して、人道的態度を取ることです。人道主義こそいっさいを救い、いっさいを常道に復します……」
「ひひひひ!」という声が、セミョーン・イヴァーノヴィチのほうから聞こえた。
「だが、いったいなんだってきみはそんなにわれわれをやっつけるんです?」とうとうスチェパン・ニキーフォロヴィチは、愛想よくほほ笑みながら抗議を提出した。「正直なところ、イヴァン・イリッチ、きみが何を説明されたのか、いまだに合点がいかんですよ。きみは人道主義を真向《まっこ》うに振りかざされるが、それはつまり人間愛のことですかね?」
「そう、あるいは人間愛といってもいいでしょう。わたしは……」
「失礼! わたしの判断する限りでは、問題はそれだけじゃなさそうですて。人間愛はいつでも存在しておりましたよ。今回の改革はそれのみにとどまりません。農民問題、裁判問題、経済問題、専売問題、道徳問題、それから……それから……まあ、こうした問題が際限なく持ちあがって来るので、これがみんないっしょになったら、それこそいって見れば、非常な動揺を惹起する恐れがある。われわれが危惧したのはこの点であって、単に人道主義ばかりではないのです……」
「さよう、問題はもっと深刻ですよ」とシプレンコも口を入れた。
「よっくわかります、セミョーン・イヴァーノヴィチ、あえて申しますが、問題理解の深刻さでは、わたしもけっしてあなた方に劣るものではありません」とイヴァン・イリッチは毒を含んだ調子で、ずばりといい返した。「が、それにしても、断固としていいますが、スチェパン・ニキーフォロヴィチ、あなたにはいわせていただきますが、あなたもやはり、わたしの気持ちをぜんぜん理解なさらなかったのです……」
「理解しなかったって」
「ところが、わたしはほかならんこういう思想をいだいて、かついたるところそれを宣伝しているのです。つまり、人道主義、ほかならぬ目下のものに対する人道主義、判任官から書記、書記から小使、小使から百姓にいたるまで、目下のものに対する人道主義こそは、まさに行なわれんとしている改革の、いわば礎石となるものであって、わたしはあえていいますが、すべて万般の事物を一新する原動力であります。なぜかというと、こうなのです。早い話が、三段論法でいえば、自分は人道的である、したがって自分は人に愛される、自分は人に愛されるから、したがってまた信頼される。信頼されるから、したがって信任を受ける。信任を受けるから、したがって愛される……いや、いい間違えました、信任されるから、したがって改革そのものも、みんなに信用されるようになるのです。人は、いわば、ことの本質そのものを理解して、精神的にお互い同士抱擁し合い、すべての問題を友愛的に、根本的に解決するでしょう。何を笑っていられるのです、セミョーン・イヴァーノヴィチ? 合点がいきませんか?」
 スチェパン・ニキーフォロヴィチは、黙って眉を吊りあげた。あきれたのである。
「どうもわたしはいささか飲み過ぎたらしい」とシプレンコは毒のある調子でいった。「それで血のめぐりが悪くなったんでしょう。頭が少々ばかりぼうとしてね」
 イヴァン・イリッチは全身ぎくりとなった。
「持ち切れますまいよ」とスチェパン・ニキーフォロヴィチは、ちょっと考えた後で、出しぬけにこういった。
「というと、何が持ち切れないんですか?」思いがけないスチェパン・ニキーフォロヴィチの、ちぎって投げつけたような評語にびっくりして、イヴァン・イリッチはたずねた。
「べつに、ただ持ち切れないのさ」明らかにスチェパン・ニキーフォロヴィチは、それ以上敷衍したくないらしかった。
「それはきっと『新しき酒』と『新しき皮嚢』のことをおっしゃるのでしょう?」とイヴァン・イリッチはいくらか皮肉をこめて反駁した。「いや、大丈夫、自分のことなら自分で請け合いますよ」
 ちょうどその時、十一時半が鳴った。
「いくら居心地がよくっても、やはり行かなくちゃならん」席を立つ身がまえしながら、シプレンコはこういった。が、イヴァン・イリッチはその先を越して、さっそくテーブルから立つと、煖炉の上にのっている黒貂の帽子を取った。彼はなにか侮辱されたようなふうであった。
「ところで、セミョーン・イヴァーノヴィチ、どう思いますな?」とスチェパン・ニキーフォロヴィチは、客を見送りながらたずねた。
「住居のことですか? 考えてみましょう、考えてみましょう」
「じゃ、考えがきまったら、なるべく早く知らせてもらいましょう」
「相変わらず用談ですね?」とイヴァン・イリッチは、帽子を玩具にしながら、いくらか取り入るような調子で愛想よくこういった。なんだか自分が忘れられているような気がしたのである。
 スチェパン・ニキーフォロヴィチは眉を吊り上げて、もう客を引き留めはせぬというしるしに、じっと黙っていた。シプレンコはあわてて別れの会釈をした。
『ははあ……そうか……そういうことなら……通り一遍のお愛想さえ無視するのなら、なんとでもご随意に』とイヴァン・イリッチははらを決めて、なにかとくに超然とした態度で、スチェパン・ニキーフォロヴィチに手を差し伸べた。
 控え室でイヴァン・イリッチは、軽い上等の毛皮外套に身をくるみ、なんのためか知らないが、シプレンコの着ているくたびれた浣熊《あらいぐま》の外套を、わざと見ないようにしながら、二人づれで階段を降りはじめた。
「うちのおじいさん、どうやら怒ったらしいですね」とイヴァン・イリッチは、黙りこくっているシプレンコに話しかけた。
「そんなことはない、どうして?」と、こちらは落ちつきはらった冷ややかな調子で答えた。
下司!』とイヴァン・イリッチは心の中で思った。
 入口階段まで出た。灰色の貧弱な牡馬をつけたシプレンコの橇が廻された。
「畜生! トリーフォンのやつ、おれの馬車をどこへやりやがったのだ!」自分の乗り物が見当たらないので、イヴァン・イリッチはこうどなった。
 あちこちさがしてみたが、馬車はどこにもない。スチェパン・ニキーフォロヴィチの召使は、そういうもののあることすら知らないのだ。シプレンコの馭者のヴァルラームにきいてみたところ、今までずっとそこにいたので、馬車がそこにあったことも知っているが、今ひょいと見えなくなったのだ、という返事であった。
「いやな話だね!」とシプレンコ氏はいった。「なんなら、乗せて行きましょうか?」
「しようのない連中だ!」とプラリンスキイ氏は、憤然として叫んだ。「あの畜生め、婚礼のお祝いにやってくれ、このペテルブルグ区ですぐそこだ、懇意な女が嫁に行ったのだから、とぬかしやがる、いまいましい。わたしはけっしてここを離れちゃいかん、と固く申し渡しておいたのに、やっぱりそこへ行ったに相違ない!」
「本当のところ」とヴァルラームが口を入れた。「そこへ行ったのでございます。すぐ帰って来る、ちょうどお帰りの刻限に間に合わす、と約束して行ったんですが」
「ふん、やっぱりそうなんだ! どうも、虫が知らせたとおもった! 本当にあいつ、どうしてやろう!」
「いっそ警察へ突き出して、二度ばかりうんと引っぱたいておやんなさい。そうすれば、よく言いつけを聞くようになるでしょうよ」とセミョーン・イヴァーノヴィチはもう膝掛けにくるまりながらいった。
「どうかご心配なく、セミョーン・イヴァーノヴィチ!」
「どうです、おいやですか、お乗せしますが」
「さようなら、メルシイ」
 シプレンコは行ってしまった。イヴァン・イリッチは気持ちがかなり苛々しているのを感じながら、板張りの歩道づたいに、てくてく歩き出した。

「もう駄目だ、今度こそもう思い知らせてやるぞ、悪党め! 貴様の性根にしみるように、貴様をぎょっとさせるために、わざと歩いてやる! 今に引っ返して来て、旦那様がおひろいでお出かけになったとわかったら……さぞ仰天するだろうよ、畜生!」
 イヴァン・イリッチは、今までこんな悪態をついたことはないのだが、今度はむやみに腹を立ててしまった上、頭の中ががんがんいっているのであった。彼は酒飲みではなく、したがってちょっと五、六杯のシャンパンでも廻りが早かった。しかし、その晩は素晴らしい夜であった。凍《い》てはきびしかったが、並々ならず静かで、風もなかった。空は晴れ渡って一面の星、満月は大地を光沢けしの銀色でおおっていた。あまり気持ちがいいので、イヴァン・イリッチは五十歩ばかり過ぎると、自分の災難などはほとんど忘れてしまった。彼はなにかとくべつ愉快になった。のみならず、一杯機嫌の人間にあっては、どんどんと印象が変わっていく。淋しい通りの見すぼらしい木造の家までが気に入ってきた。
『いや、おれがてくてく歩き出したのは素敵だった』と彼ははらの中で考えた。『トリーフォンには見せしめになるし、それにおれはいい気持ちだ。まったく、できるだけしょっちゅうてくで歩くことだ。なあに! 大通りへ出たら、すぐ辻馬車が見つかるさ。素晴らしい夜だなあ! この辺はなんて貧弱な家ばかりだ。きっと雑魚《ざこ》どもが住んでいるのだろう、腰弁……小商人、そんなものだろう……あのスチェパン・ニキーフォロヴィチ! あの連中はみんななんという退歩主義者だろう、老いぼれた頭巾かつぎめ! まったく頭巾かつぎだ。C'est le mot(これは警句になるぞ)。ところで、あいつは利口な男だ。例の bon sens(良識)ってやつがある。物ごとに対する冷静な、実際的理解というものだ。その代わり、老人どもは、いやはや、老人どもは! あれがないんだ、……ええ、あれはなんだっけ! まあ、何かが足りないんだ……持ち切れまい、だって! あのじいさんはあれで何をいおうとしたのだろう? ああいった時、考え込んだほどだ。もっとも、あのじいさんはおれのいったことが、まるっきりわからなかったんだ。ところが、あれがわからないはずはないんだがなあ! わかるよりわからないほうがむずかしいくらいなのに。何より肝腎なのは、おれの確信は心からの確信だということだ。人道主義……人間愛。人間をおのれ自身に返すのだ……おのれ自身の品格を復活させるのだ、そうすると……レディメードの材料で仕事に取りかかればいいのだ。どうやら、これではっきりしてるようじゃないか。そうとも! これだけは、閣下、ごめんこうむりたいものですな。かりに、あの三段論法ですよ。たとえば官吏、貧乏ないじけた官吏に出会った、としましょう。さて……「きみはだれだ?」ときくと、「官吏です」と答える。よろしい、官吏と。それから、「きみはどんな官吏だね?」「これこれしかじかの官吏です」という答えだ。「いま勤務しているのかね?」「勤務しております!」「幸福になりたいかね?」「なりとうございます」「きみの幸福のためには何が必要だね?」「これこれこれこれでございます」「なぜ?」「なぜと申しますと……」こんなふうで、相手はただのひと言でおれの気持ちを理解する。この男はもうこっちのものだ。いわばこっちの網にひっかかったので、おれはその男を自分の思うとおりにする。といって、その男の幸福のためなのだ。あのセミョーン・イヴァーノヴィチは、いやな人間だ! それに、なんていやな面をしているのだろう……警察へ突き出して、ひっぱたけ、だとさ、――あれはわざといったのだ。だめだよ、自分でひっぱたくがいい。おれはひっぱたくのなんかいやなことだ。おれはトリーフォンを言葉で取っちめてやる、責めて責めぬいてやる。そうすれば、自分でも思い当たるだろう。笞《むち》ということになると、ふむ……これは未解決の問題だ、ふむ……ところで、エメランスのとこへ寄って見るかな? ええっ、くそ、畜生、いまいましい歩道だ!』と彼は足を踏みはずして叫んだ。『これでも首都なんだからなあ! これで文化といえるか! 足を折るかもしれないじゃないか。ふむ。おれはあのシプレンコが憎らしい。いやな面をしてやがる。おれがさっき、精神的に抱擁するだろうといった時、ひひひと笑ったのは、あいつだ。なあに、抱擁するとも、それが貴様になんの関係があるのだ? それこそ貴様なんか抱擁してやらないから、それより百姓を抱擁してやるよ……もし百姓に出会ったら、百姓と話をするんだ。もっとも、おれは酔ってたから、言い方が違ってたかもしれない。今でも言い方が違ってるかもしれないぞ……ふむ。もうこれからけっして飲まん。夜は散々しゃべって、朝になると後悔するんだ。なあに、おれは千鳥足なんかしてやしない……が、それにしても、やつらはみんな悪党だ!』
 歩道をあゆみつづけながら、イヴァン・イリッチはちぎれちぎれになんの連絡もなく、こんなふうに考えていた。すがすがしい風が作用して、いわば彼を揺すぶったのである。もう五分も経ったら、彼も落ちついて、眠くなったかもしれない。ところが、突然、大通りから二歩ばかりのところで、音楽が聞こえて来た。彼はあたりを見廻した。通りの反対側にある、ひどく古びた木造の、平屋ながら長細い小屋の中で、大盤振舞いの酒宴をやっていて、ひどく愉快そうなカドリールの節で、ヴァイオリンが鳴り、コントラバスが軋み、フルートがかんだかく響いているのであった。窓の下には大勢の人が立っていたが、多くは綿入の外套を着、頭にきれをかぶった女たちであった。彼らは鎧戸の隙間から何かを見分けようと、ありたけの力を緊張さしていた。どうやら愉快らしい様子である。ダンスの足音が、通りの反対側にまで聞こえた。イヴァン・イリッチはほど遠からぬところに巡査を見つけて、その傍へ寄った。
「きみ、これはだれの家だね?」自分の頸にかけた立派な勲章が、巡査の目に入る程度に、高価な毛皮外套の前をちょっと拡げながら、彼はこうきいた。
「十四等官のプセルドニーモフの家であります」瞬間に勲章を見分けた巡査は、そり返って答えた。
「プセルドニーモフ? へえ! プセルドニーモフ!………どうしたんだね、結婚したのかね?」
「結婚したのであります、閣下、七等官の娘と、七等官ムレコピターエフの……市役所に勤めております。この家はその娘の持参金で」
「じゃ、もう今ではこの家はプセルドニーモフのもので、ムレコピターエフのものじゃないんだね?」
「プセルドニーモフのものであります、閣下。ムレコピターエフのものでしたが、今ではプセルドニーモフのもので」
「ふむ! おれがきみにこんなことをきくのは、実はおれがあの男の上官だからだ。おれはプセルドニーモフの勤めている役所の閣下なんだよ」
「さようで、閣下」
 巡査はぴんと一杯に反り返った。イヴァン・イリッチは何か考え込む様子であった。彼はじっと立って、思い合わせていた………
 しかり、プセルドニーモフはまさに彼の管轄下にあって、彼の役所に勤めていたのである。彼はそのことを思い起こした。それは月給十ルーブリの小役人であった。イヴァン・イリッチは、比較的最近この役所の長官となったので、自分の部下を一々こまかく覚えていなかったかもしれないが、プセルドニーモフはその苗字が機縁となって、つい覚えたのである。この苗字が最初から目についたので、彼はすぐそのとき好奇心を起こして、この苗字の持主を注意ぶかく見た。で、いま思い起こしたのは、長い鉤鼻をした、白っぽいくしゃくしゃな髪の毛の、瘠せて栄養の悪い、あきれ返るような制服を着、ぶしつけなほどひどいズボンをはいた、ずぶ若い男であった。彼はまたこういうことも思い出した。このかわいそうな男をましにしてやるために、祭日のとき十ルーブリばかりの賞与をやろうか? という考えが閃いたものである。しかし、このかわいそうな男の顔があまり精がなく、目つきがやり切れないほど感じがわるく、嫌悪の念すら起こさせるほどだったので、優しい思いつきも自然と消えてしまって、プセルドニーモフは賞与をふいにしてしまった。それだけに、このプセルドニーモフがつい一週間まえ、結婚したいと願い出た時、彼の驚きはひとしおであった。イヴァン・イリッチの記憶しているところによると、彼は何かの都合で、この件を詳しく調べている暇がなかったため、結婚は簡単に手早く許可されたのである。が、なんといってもプセルドニーモフが花嫁の持参金として、木造の家と現金四百ルーブリもらうことは、彼も正確に記憶していた。こういう事情は、その時すぐ彼を驚かしたのである。彼はプセルドニーモフとムレコピターエフ([#割り注]プセルドニーモフはプセヴドニーム「仮名」の訛ってできた苗字、ムレコピターエフは「哺乳動物」という名詞から出ている[#割り注終わり])という苗字の組合わせについて、軽く洒落たことも記憶している。こういったいっさいのことを彼はまざまざと思い起こした。
 思い起こすにしたがって、彼はますます考え込んだ。周知のごとく、どうかするとわれわれの頭の中では、種々さまざまな考えが、人間の言葉、まして文学的な言葉に翻訳のしようもない何かの感触のような形で、閃き過ぎるものである。しかし、筆者はわが主人公のこうしたいっさいの感触を翻訳して、せめてこの感触の本質だけでも、いわばその中の最も重要な、本当らしいものだけでも、読者に紹介すべく努めてみよう。本当らしいというのは、われわれの感触の多くは、平凡な言葉に翻訳すると、まるで嘘っぱちのように思われるからである。この理由によって、それはけっして日の目を見ることがないけれども、だれにだってあるのだ。もちろん、イヴァン・イリッチの感触と思想は、いささか辻褄の合わぬものであった。が、諸君はその原因をごぞんじのはずである。
『どうだ!』という考えが彼の頭に閃いた。『われわれはだれでも口ではべらべらしゃべるけれど、いざ実行となると、なんの結果も得られやしない。現に早い話が、このプセルドニーモフだ。あの男はさっき式をすますと、かの瞬間を味わおうと待ち焦れて、わくわくしながら帰って来た……これこそあの男の生涯で、最も幸福な日の一つなんだ……今あの男はお客を相手にして、酒盛をやっている、――貧しく、つつましやかだが、樂しく、嬉しそうで、そして真剣だ……ところで、この瞬間おれが、あの男にとって最高の長官であるこのおれが、あの男の家の傍に立って、その婚礼の音楽を聞いているということを、もしあの男が知ったらどうだろう! まったく、その時あの男はどうなるだろう? いや、もしおれが今すぐ出しぬけに、ひょっこり入って行ったら、それこそあの男はどうするだろう? ふむ……もちろん、はじめはぎょっとして、うろたえて、棒立ちになるだろう……おれはあの先生の邪魔をして、あるいは何もかもめちゃめちゃにしてしまうかもしれない……そりゃだれにもせよ、ほかの閣下が入って行ったら、いかにもそのとおりになるだろうが、しかしおれは違う。つまり、そこが問題なのだ。ほかのものはいざ知らず、おれだけは別だ……
『そうですよ、スチェパン・ニキーフォロヴィチ! あなたはさっきわたしのいうことを理解してくださらなかったけれど、そら、このとおり、ちゃんと生きた実例がありますよ。
『さよう。われわれは人道主義を叫んでいるが、ヒロイズムとか功業とかとなると、それをやる力がないのだからなあ。
『いったいどんなヒロイズムなのだ? ほかでもない、こうなのだ。ひとつここのところを考えて見てもらいましょう。今の社交関係では、夜中の十二時過ぎに、おれが、このおれが、自分の部下になっている月給十ルーブリの十四等官の結婚式へ入って行ったら、それこそ騒動だ、――思想の歪曲だ、ポンペイの最後の日だ、てんやわんやだ! それはだれにもわかりっこない。スチェパン・ニキーフォロヴィチなんかは、死んだってわかりゃしない。だって、持ち切れないよ、っていったんだからな。さよう、しかし持ち切れないのは、あなた方のような旧弊人ですよ。中風やみの退歩主義者ですよ。わたしは立派に持ち切って見せます! わたしはポンペイの最後の日を、自分の部下にとって最も幸福な日に変えてみせます。突飛な行為を、ノーマルな、族長的に美しい、高尚な、道徳的なものに変えて見せます。それをどんなふうにするかって? こういうふうです。まあ、聞いてください……
『さて……仮りにわたしが入って行くとしましょう。みんなはびっくりして、ダンスをやめてしまい、頓狂な顔をして、じりじり後ずさりする。それはそのとおりですよ。しかし、わたしはすかさず口を切って、おびえきったプセルドニーモフのほうへ真直ぐに歩いて行き、この上もなく優しい微笑を浮かべながら、いきなりざっくばらんな言葉づかいで、こういってやる。「実はこれこれで、スチェパン・ニキーフォロヴィチ閣下のとこへ行ったのだ。きみもきっと知ってるだろうと思うが、すぐこの近所なんだよ……」まあ、ここのところでトリーフォンの一件を、面白おかしく話した後、トリーフォンのいきさつから、てくで歩き出した顛末に移る……「さて、不意に音楽の響きが聞こえて来たので、巡査にきいてみたところ、きみの結婚披露だということがわかったので、ひとつ自分の部下の家へ寄って、うちの役所の連中がどんなふうにお祝いをやっているか……その、結婚披露をやっているか見てやりましょう、という気を起こしたわけだ、え、まさかきみ、わたしを追い出しはしないだろうな、どうだ!」追い出す! 部下にとってはとんでもない言葉じゃないか。なんの、追い出すどころか! おれの思うのには、先生気がちがったようになって、いきなり飛んで来てわたしを肘掛けいすに坐らせ、うちょうてんになって慄えながら、最初はなんの分別もつかないくらい!………
『さあ、これ以上単純で、しかも優美な行為があり得るか! なんのために入って行くのかって? それは別問題だ! それはもう、いってみれば、事件の精神的方面だからね。つまり、そこが味噌なんだ!
『ふむ……ええと、何をおれは考えてたのかな? そうだ!
『そこで、みんなはもちろん、おれを一番の上客と並んで席につかせる。どこかの七等官か、それとも赤鼻の退職二等大尉と称する親戚か……そういったふう変わりな連中を、ゴーゴリは実にうまく描いてるなあ。そこで、もちろん、新婦にも紹介されて、その花嫁ぶりを褒め立て、ほかの客たちにも元気をつけてやる。どうか遠慮しないで、賑やかにやってくれたまえ、ダンスもつづけるようにといって、洒落を飛ばしたり、笑ったりする。要するに、おれは愛想がよくって、愛すべき好漢なのだ。おれは自分に満足している時は、いつでも愛想がよくて、愛すべき好漢なのだ……ふむ……どうもおれはやっぱりあれらしい。といって、酔っているわけではないが、ちょっと……
『もちろん、おれはジェントルマンとして、彼らと同等の立場に立ち、何にもせよ特別な差別待遇なんか要求しないけれども、……しかし、精神的には、精神的には、そりゃ別問題だ。彼らもそれを理解して、感服するだろう……おれの行為は、彼らの内部に潜んでいる高潔なものを目ざめさすだろう……そこで、三十分ばかり坐って……いや、一時間でもいい。それから出て行こう。もちろん、夜食の始まるすぐ前だ。彼らはいろいろあくせくして、しこたまご馳走をこしらえたあげく、七重の膝を八重に折って頼むに相違ないが、おれはシャンパンを一杯のみ干して、お祝いをいうだけで、夜食のほうは辞退する。用事があるといって断わるのだ。おれが「用事」とひと言いうが早いか、みんなは途端にうやうやしい厳粛な顔をするだろう。この一言でもって、おれと彼らの間には大きな違いがあることを、婉曲に匂わせることになるのだ。それこそ天と地との相違だからな。おれは何もそれを無理に感じさせようという気はないが、しかしなんといっても必要だ……だれがなんといおうと、道徳的な意味でも必要だ。もっとも、おれはすぐにっこり笑って見せる、あるいは声を立てて笑ってもいいだろう。それでみんなも元気づくわけだ……それから、もう一ど新婦に冗談口をきく、ふむ……それどころか、こんなふうのことを匂わせてもよかろう、かっきり九か月たったら、名づけ親の資格でもう一度やって来る、とな。へへ! その頃にはきっとお産があるだろうよ。なにしろあの連中は、兎みたいに殖えて行くんだからなあ。そこで、みんな大笑いに笑うと、花嫁は真っ赤になる。おれは情愛をこめてその額に接吻して、祝福さえしてやるだろう……そして、あくる日になると、おれのやったことは、早くも役所じゅうに知れ渡るだろうが、あくる日はおれはまた厳格になるのだ。あくる日はおれはまた秋霜のごとききびしさで、一歩も仮借しない。が、みんなはもうおれがどういう人間であるかを知っている。おれの魂を知っている。おれの本質を知り抜いている。「あの人は長官としては厳格だけれども、人間としては天使だ!」というわけでね。こうして、わたしは人心を征服するのです。あなた方なんか夢にも考えないような、ちょっとした些細な行為で、人心を捕えるんですよ。彼らはもうこっちのものです。わたしは父親で、彼らは子供なのです……さあ、どうです、閣下、スチェパン・ニキーフォロヴィチ、ひとつこんなふうにやってごらんなさい……
『……それに、まあ、考えてもごらんなさい、いいですか、プセルドニーモフは自分の子供たちにも、閣下が自分の結婚披露に列席されて、お酒まで召しあがった、と話して聞かせるだろうよ! またその子供らは自分の子供たちに、その子供たちは孫たちに、神聖この上ない逸話のようにして、話して聞かせることだろうよ。国家的大人物である高官が(その時分までには、おれもそういう人物になっているだろう)、これこれしかじかの光栄を授けてくだすった、というわけでね。なにしろ、おれは虐げられた人間を精神的に奮起させ、おのれ自身に返してやるのだからなあ……いや、こういうことを、何かそういったようなことを、五度か十度くり返してやったら、それこそだれ知らぬものもない名声を博するに相違ない……万人の心に刻みつけられるに相違ない。この名声というやつが後になって、どんな結果を生じるか、想像もつかんくらいだ!………』
 こんなふうに、あるいはほとんどこんなふうに、イヴァン・イリッチは考えた(諸君、人間というものは時として、心の中でどんなことをしゃべるかわからない。ましていくらか桁はずれの状態になっていたら、なおさらの話である)。こうした考えが彼の頭に閃いたのは、僅か三十秒くらいの間であって、もちろん、彼もこの空想だけにとどめ、心の中でスチェパン・ニキーフォロヴィチに赤恥をかかした後、悠々と家路に向かって、寝についたはずである。それならば天下泰平だったのである! が、不幸にもそれは桁はずれの瞬間だった。
 ちょうどその時、突然わざとのように、彼の高潮した想像裡に、スチェパン・ニキーフォロヴィチとシプレンコの、自足したような顔が描き出されたのである。
「持ち切れませんよ!」とスチェパン・ニキーフォロヴィチは、高慢ちきな微笑を浮かべながらくり返す。
「ひひひ……」たまらないほどいやな笑い方で、シプレンコが調子を合わす。
「よし、持ち切れるか持ち切れないか、ひとつ見てみよう!」とイヴァン・イリッチは断固たる声でこういった。血がさっと顔に昇ったほどである。
 彼は板敷の歩道を下りて、まっすぐに通りを突っ切り、自分の部下である十四等官プセルドニーモフの家をさして、しっかりした足取りで歩いて行った。

 運命の星が彼を牽いて行ったのである。彼は開け放された木戸へ勇敢に入ると、職務のためというより、お義理で彼の足もとへ飛びかかって、しゃがれた吠え声を立てる小っぽけな尨犬を、馬鹿にしたように片足で蹴とばした。庭に敷いた踏み板を伝って、交番みたいな恰好に突き出ている屋根つきの入口階段へ辿りつき、三段ばかりの古びた木の段を三つ昇って、狭くるしい廊下へ入った。そこにはどこか隅っこに燃えさしの脂蝋燭か、それとも何か火皿のようなものがともっていたが、それにもかかわらずイヴァン・イリッチは、早く冷ますためにそこへ出してあった煮こごりに、オーヴァシューズをはいたままの左足で、ぐしゃりと踏み込んでしまった。イヴァン・イリッチはかがみ込んで、もの好きに透して見ると、まだ何やら別の煮こごりのようなものの入った皿が二つと、たしかブラマンジェ([#割り注]牛乳やクリームでつくったゼリー[#割り注終わり])らしいものを入れた型が二つ置いてあった。煮こごりを踏みつぶしたことは彼を当惑させた。ほんの一瞬、今すぐそっと逃げ出したほうがよいではないか、という考えが彼の頭をかすめた。しかし、それはあまりに卑劣なことだと思い直した。だれも見ていたものはないのだから、大丈夫、自分のせいにされはしないと分別して、彼は犯跡を掻き消すために、大急ぎでオーヴァシューズを拭いて、毛氈をぐるりに打ちつけた扉を探り当て、さっと押し開くと、いともささやかな控え室に入った。その半分は外套、半外套、婦人外套、婦人用頭巾、ショール、オーヴァシューズで、文字どおりに、足の踏み場もなかった。あとの半分には楽隊が陣取っていた。ヴァイオリンが二梃に、フルート、コントラバスと、合計四人、もちろん、往来から引っぱって来たものである。彼らは脂蝋燭一本に照らされながら、素木《しらき》のテーブルに向かって腰をかけ、やけっぱちでカドリールの最後の一節をきいきいやっていた。開け放した戸口からは、埃と、煙草のけむりと、人いきれの中で、踊っている広間の人々を見分けることができた。何かしらもの凄く賑やかだった。高笑い、叫び、婦人たちの金切り声が聞こえた。男連は騎兵中隊の馬のように、どんどん足を踏み鳴らしていた。この乱脈の中に、ダンスの指揮者の号令が響いていた。どうやらひどく磊落らしい男で、服のボタンさえはずしている。
「カヴァレールは前へ、シェン・ド・ダーム、バランセ!」云々、云々。
 イヴァン・イリッチはいくらかわくわくしながら、毛皮外套とオーヴァシューズをぬぎすて、手に帽子を持って部屋へ入った。もっとも、もう前後の分別もなかった……
 最初はだれも彼に気がつかなかった。みんな終わりに近いところを踊っていたのである。イヴァン・イリッチは茫然とたたずんで、このてんやわんやの中に、何一つ詳しく見分けることができなかった。婦人連の着物や、煙草をくわえた男連の姿がちらちらしたと思うと……ある婦人の水色のショールが閃いて、彼の鼻を撫でた。それにつづいて、髪をぼうぼうに振り乱した医学生が、もの狂おしいまでうちょうてんになって突進しながら、その途中で、ひどくイヴァン・イリッチを突きとばした。医学生のさきには、里程標みたいにひょろ長い、どこかの隊の将校がちらりと見えた。だれやら不自然なほど甲高い声で叫びながら、ほかの連中といっしょに、軽く足を鳴らして飛び過ぎた。
『やあれやれ、プセルドニームシカ!』とイヴァン・イリッチは考えた。
 彼の足もとに、何やらねばねばしたものがあった。明らかに、床に蝋を引いたらしい。もっとも、さして狭くない部屋の中には、三十人からの客がいた。
 しかし、カドリールはすぐ終わって、ほとんどそれと同時に、イヴァン・イリッチが歩道の上で空想していたことが起こった。客人たちや、まだ息をつき額の汗を拭う暇もないダンス連の間に、何やらざわめきが起こり、何かしら並々ならぬささやきが聞こえた。すべての目、すべての顔は、いま入って来た客のほうへ素早く向きはじめた。つづいて、一同はたちまちじりじりと後ずさりを始めた。人々は、気のつかなかった連中の服を引っぱって、教えるのであった。その連中もうしろをふり返って、すぐほかの者といっしょに尻ごみした。イヴァン・イリッチは依然として身動きもせず、一歩も前へ踏み出さないで、戸口に立っていた。彼と客人たちの間には、しだいしだいに大きく場所が開けた。その床の上には菓子の包み紙や、切符や、煙草の吸い殼が一面にちらばっていた。突如、その開けた場所に、官吏の制服を着て、白っぽい髪をぼうぼうさせた、鉤鼻の青年が進み出た。彼は背をかがめて、思いがけない客を見つめながら、じりじりと前へ出た。それはちょうど、自分を蹴とばすために呼ぶ主人を見つめる、犬にそっくりであった。
「今晩は、プセルドニーモフ、おれがわかるかい……?」とイヴァン・イリッチはいったが、その途端に、その言い方がひどく拙かったと感じた。また同様に、おれはいま恐ろしく馬鹿なことをしているぞ、と感じた。
「か、か、閣下!………」とプセルドニーモフはつぶやいた。
「ああ、そうだよ。おれはね、きみ、まったく偶然にきみのとこへ寄ったんだよ。それはきみも察しるだろうと思うが……」
 しかし、プセルドニーモフは明らかに、何一つ察しることができないらしかった。たとえようもない怪訝の念に打たれながら、目を皿のようにして立っていた。
「ねえ、きみはおれを追っぱらやしないだろうな……さして嬉しくないかもしれないが、お客様は迎えるもんだからな!……」とつづけながらも、イヴァン・イリッチは、自分が不躾けなほど意気地なくどきどきしていて、スチェパン・ニキーフォロヴィチやトリーフォンのことを、面白おかしく話すことなどは、だんだん不可能になって来ると感じた。が、プセルドニーモフはわざとのように、棒立ちの状態からわれに返ることができず、相変わらず馬鹿げきった顔つきで長官を見つめていた。イヴァン・イリッチはぎっくりした。これがもう一分つづいたら、想像もできないほどのてんやわんやが始まるぞ、と感じた。
「おれは何か邪魔をしなかったかしら……もう帰るよ!」やっとのことでそういったが、その唇の右はじで、何かの筋がぴくりと慄えた。
 しかし、プセルドニーモフはもうわれに返っていた……
「閣下、とんでもありません……光栄のいたりで……」せかせかとお辞儀をしながら、彼はもぞもぞといった。「どうぞお坐りを……」それからいよいよわれに返りながら、ダンスのためにテーブルから離してあった長いすを、両手でさした……
 イヴァン・イリッチは心底からほっとして、長いすに腰をおろした。と、すぐさまだれかが飛んで行って、テーブルを押して来た。彼はざっとあたりを見廻して、自分ひとりだけ腰をかけ、ほかのものは婦人連まで、みんな立っているのに気がついた。よくない兆候である。しかし、まだ注意したり、励ましたりする時ではなかった。客たちは依然しりごみして、彼の前には相変わらずプセルドニーモフが、背中をかがめて立っているばかりであった。彼はいまだになんのことやらわからず、にこりともしなかった。具合がわるい。手っとり早くいえば、この瞬間わが主人公は無量の悩みを覚えた。で部下の家へハルン・アル・ラシッド的([#割り注]八世紀のペルシャ王、東ローマと戦って小アジアに侵入する[#割り注終わり])な侵入をしたのは、事実において、功業と見なされるかもしれないほどであった。が、突然プセルドニーモフ[#「プセルドニーモフ」は底本では「プルセドニーモフ」]の傍に、だれか小さな男が現われて、ぺこぺこお辞儀をしはじめた。それが自分の役所の課長をしているアキーム・ペトローヴィチ・ズブコフであると見分けた時、イヴァン・イリッチは名状しがたい満足どころか、むしろ幸福を覚えた。彼はもちろん、この男と個人的に知り合ってはいなかったが、仕事のできるおとなしい人間だということは知っていた。彼は猶予なく席を立って、アキーム・ペトローヴィチに片手を差し出した。片手を完全に出したので二本指([#割り注]目上のものが部下に握手させるときは、日本指だけ握らせるのが普通である[#割り注終わり])ではなかった。相手はいとも深甚なる敬意を表して、両の掌でその手を受けた。閣下は凱歌を奏した。何もかも救われたのである。
 まったくのところ、プセルドニーモフは、いわば、当の相手でなく、もはや第三者になった。今は必要に迫られて、課長を知人、むしろ親しい知人あつかいにして、いきなり話を持ちかけることができ、プセルドニーモフはその間ただ黙りこんで、敬虔の念に慄えていればいいわけである。それで作法は守られる。しかし、話はぜひとも必要であった。イヴァン・イリッチはそれを感じた。客はみんな何ごとかを期待し、両方の戸口には家の子どもが、閣下を見その声を聞くために、一人残らずひしめいて、ほとんど重なり合わないばかりであった。彼はそれを見て取った。ただ困ったことに、課長が悟りがにぶいために、やはり立ったままでいた。
「きみどうしたんです!」思わず自分と並んで長いすに掛けろという手つきをしながら、イヴァン・イリッチは口をきった。
「とんでもございません……わたくしはここでも……」といって、アキーム・ペトローヴィチは、強情に立ったままでいるプセルドニーモフが、ほとんど目にも留まらぬ早業で差し 出した椅子に腰をおろした。
「まあ、どうです、こういうことを想像できますか?」とイヴァン・イリッチはアキーム・ペトローヴィチだけを相手にしながら、いくらか慄えてはいるが、もうざっくばらんな声でいい出した。彼はシラブルごとに力を入れながら、言葉を引き伸したり区切ったり、a を e のように発音したりした。ひと口にいうと、自分でも芝居をしているのを感じ、かつ意識していたが、もう自己を抑制することができなかった。何かしら外部の力が働いていたのである。彼はこの瞬間、恐ろしく多くのことを悩ましいほど意識した。
「どうでしょう、わたしはたった今、スチェパン・ニキーフォロヴィチ・ニキーフォロフのところから出て来たばかりなんですよ。聞いたことがありますか、三等官の? そら…… あの委員会にいる……」
 アキーム・ペトローヴィチは、うやうやしげに全身を前へかがめた。『どういたしまして、聞いております』とでもいうように。「あの方はいまきみの隣人だよ」とイヴァン・イリッチは体裁のためと、うち解けた態度を取るために、ちょっとプセルドニーモフのほうへ向きながら、言葉をつづけた。が、相手にとってそんなことはいっこうどうでもいいということを、すぐにプセルドニーモフの目つきから見て取って、素早く顔をそむけた。「ご承知のとおり、あの老人は自分の家が買いたくって、一生うわごとにまでいったものだが……とうとう買えたのです。しかも、素晴らしい家をね。さよう……ところで、今日あの人の誕生日がやって来た。これまではけちなために、一度も誕生日を祝ったことがなく、むしろわれわれから隠すようにさえして、ごまかしていたくせに、今度は新しい家が嬉しくてたまらないので、わたしとセミョーン・イヴァーノヴィチを呼んだのです。知っていますか、シプレンコを?」
 アキーム・ペトローヴィチはまた体をかがめた。一生懸命なかがめ方であった。イヴァン・イリッチはいささか気持ちを慰められた。それまで彼の頭には、もしやこの課長は、このさい自分が閣下にとって必要欠くべからざる拠点になっていることを、ひそかに察しているのではあるまいか、という考えが浮かんで来たのである。もしそうだったら、これほどいやなことはない。「そこで、三人が集まったわけです。シャンパンが出て、いろんな話が始まった……まあ、あれやこれや……時事問題も出てね……議論さえしましたよ……へへ!」
 アキーム・ペトローヴィチはうやうやしく眉を吊り上げた。
「しかし、要点はそんなことじゃなくって、わたしは結局お別れの挨拶をした。ご承知のとおり、きちょうめんな老人で、早寝の習慣になっているので、なにぶん、年が年ですからね。外へ出てみると……わたしの馭者のトリーフォンがいない! 心配になっていろいろきいたわけです。『いったいトリーフォンはどこへ馬車をやったのか?』ところが、トリーフォンのやつは、わたしがもっと長坐するものときめこんで、自分の懇意にしている女か、それとも妹か……何か知らないが、婚礼のお祝いに行ったことがわかりました。やはりこの辺で、ペテルブルグ区のどこかなのです。その時、馬車もついでに持って行ったというわけで」
 閣下はまたもや体裁のために、プセルドニーモフのほうをちらと見やった。こちらはたちまちぎくっとしたが、それはけっして閣下の望むようなふうではなかった。『同感の能力がないんだ、心を持っていないんだ』という考えが彼の頭に閃いた。
「ヘーえ、どうでしょう!」とアキーム・ペトローヴィチは、深く感動した様子でつぶやいた。かすかな驚嘆のどよめきが一座を流れた。
「そこで、わたしの立場をお察し願います……(とイヴァン・イリッチは一同を見渡した)。なんとも仕方がないので、てくで歩き出しました。大通りまで行ったら、何か辻馬車でも見つかるだろう、と思いましてな……ヘヘ!」
「ひひひ!」とアキーム・ペトローヴィチは、うやうやしく応じた。またもやどよめきが一座を流れたが、今度はもう楽しそうな調子であった。この時、壁にかかっていたランプのほやが、みしりと音を立てて割れた。だれやらあわてて飛び出して、それを直しに行った。プセルドニーモフはぴくっとして、厳しい目つきでランプを見やった。が、閣下はそれには目を向けもしなかった。一座はまた落ちついて来た。
「そうして歩いてると……静かな夜で、いい気持ちだ。と、不意に音楽が響いて来て、人の足音が聞こえる。ダンスをやっているのだ。もの好きに巡査にきいてみると、プセルドニーモフが結婚したということだ。ねえ、きみはペテルブルグ区の人を残らず呼んで、舞踏会をやってるんだろう? はは!」と彼は突然またプセルドニーモフに話しかけた。
「ひひひ! さようで……」とアキーム・ペトローヴィチは応じた。客たちはまたもや軽く身動きしたが、何より馬鹿げているのは、プセルドニーモフが、今度も会釈こそしたけれど、まるででくの坊のように、にこりともしないことであった。
『いったいこいつは馬鹿なんだろうか!』とイヴァン・イリッチは考えた。『この驢馬め、ここでにっこり笑ってくれたら、何もかも円滑にいったんだがなあ』彼はじれったさで胸が湧き返るようであった。
「ひとつ部下のところへ入って見よう、と思ってね。まさかわたしを追い出しもしないだろう……嬉しいか嬉しくないか知らないけれども、お客様は迎えるものだから、というわけでね。きみ、どうか悪く思わないでくれたまえ。もし何か邪魔になるようだったら、わたしは帰るから……ただちょっと見たくてよったんだから……」
 しかし、もうしだいしだいに一座は動きはじめていた。アキーム・ペトローヴィチは、『閣下、あなたがお邪魔になるなんて、そんなことがあってよいものですか?』とでもいいたげな、甘ったるい顔つきをしていた。客一同はごそごそと身動きしながら、ややうち解けて来たらしい徴候をしめしはじめた。婦人連はもうほとんど坐っていた。たのもしい、いい徴候だ。その中でも、度胸のいいのは、ハンカチで顔を煽いでいた。一人、摺れたビロードの服を着たのが、わざと大きな声で何やらいい出した。話しかけられた相手の将校は、同様に大きな声で返事をしようとしたが、大声で話をするのはこの二人きりだったので、遠慮してしまった。男連は概して役人で、そのほか大学生が二、三人いたが、互いに元気づけようとして突っつき合いながら、目と目を見交したり、咳ばらいをしたりなどして、ひと足ふた足思い思いのほうへ歩き出した。もっとも、だれも取り立てて臆病風を吹かしてはいなかった。ただみんなぶっきら棒で、ふいに闖入して自分たちの楽しみをぶち毀した男を、内々敵意をいだきながら、眺めていた。将校はわれながら自分の小心が恥ずかしくなって、少しずつテーブルのそばへ近寄って来た。
「ああ、そうだ、きみ、ひとつ聞かしてくれないか、きみの名前と父称はなんというのだね?」とイヴァン・イリッチは、プセルドニーモフにたずねた。
ポルフィーリイ・ペトローヴィチでございます。閣下」まるで検閲にでも出たように、こちらは目を剥き出して答えた。
ポルフィーリイ・ペトローヴィチ、ひとつ花嫁を紹介してくれないか……案内してくれたまえ……わたしは……」
 こういって、彼は立ちあがりたそうな身振りをした。が、プセルドニーモフは、一目散に客間のほうへ駆け出した。新婦はすぐそこの戸口に立っていたが、自分のことを話しているのを聞きつけると、いきなり姿を隠してしまった。ややあって、プセルドニーモフは花嫁の手を取って連れ出した。一同は二人に道を譲るために、さっと左右へ別れた。イヴァン・イリッチはものものしく立ちあがって、この上もなく愛想のいい微笑を浮かべながら、花嫁に話しかけた。
「お近づきになれて、大いに大いに愉快です」上流社交界ふうの態度で軽く半身をかがめながら、彼はこういった。「しかも、こういう特別な日に……」
 彼は意味深長ににっこり笑った。婦人連の間に快い動揺が起こった。
「シャルメ」とビロード服の婦人は、ほとんどみなに聞こえるほどの声でいった。
 新婦もプセルドニーモフにひけを取らなかった。それはまだようやく十七歳くらいの、瘠せた、色の悪い娘で、小っぽけな顔に尖った鼻をしていた。ちらちらと素早く動くその小さな目は、いささかも照れた様子がないばかりか、かえって一種憎々しげな陰さえ帯びながら、じっと見つめているのであった。明らかにプセルドニーモフは、器量にほれてもらったらしい。彼女は下から薔薇色の透いている白い紗の服を着ていた。頸は細くて、体は鶏のように骨が飛び出している。閣下の挨拶に対しても、彼女はまるっきり何一つ受け答えができなかった。
「いや、実にかわいいじゃないか」プセルドニーモフだけに話しかけるようなふうに、彼は小声で言葉をつづけたが、わざと花嫁に聞こえるようにいった。
 しかし、プセルドニーモフはこの時も、何一つ返事ができなかった。それどころか、今度も身じろぎすらしなかったのである。むしろイヴァン・イリッチは、彼の目の中に何か冷ややかな、深く秘めたような、胸に一物ありげな、一種特別な、悪質のものがあるように感じた。とはいえ、何がなんでも感傷的な場面をつくり出さなければならない。ここへやって来たのも、つまりそのためではないか。
『それにしても、似合いの夫婦だわい!』と彼は思った。『もっとも……』
 自分と並んで長いすに腰を下ろした花嫁に向かって、彼はふたたび話を持ちかけたが、二つ、三つの質問に対して、ただ「ええ」とか「いいえ」とかいう答えをもらったばかりで、それさえ時にはまるで聞かれないことがあった。
『せめて照れた様子でも見せれば』と彼ははらの中で考えつづけた。『そうしたら、おれはからかってでもやるのに、これじゃおれの立場は絶体絶命だ』
 アキーム・ペトローヴィチまでが、まるでわざとのように押し黙っていた。間抜けのせいであるとはいい条、やっぱり怪しからんことに相違ない。
「皆さん! どうも皆さんのお楽しみの邪魔をしたようですな?」と彼は一同に声をかけてみた。
 彼は掌が汗ばんで来るような気持ちさえした。
「いいえ……どうぞご心配なく、閣下、ただ今はじめます。いま……ちょっと休んでおるばかりで」と将校が答えた。
 花嫁は満足そうにそのほうを眺めた。この将校はまださほど年配でなく、どこかの隊の制服をつけていた。プセルドニーモフもすぐ傍にいて、上半身を乗り出すようにしながら立っていた。前よりもっと鉤鼻を突き出しているような感じだった。彼はさながら毛皮外套を手にかかえて、ご主人たちの別れ際の話が終わるのを待っている従僕そっくりの様子で、人々の言葉に耳を傾けていた。この比較は、当のイヴァン・イリッチがしたものである。彼はとほうにくれた。どうもばつが悪くて、自分の立っている地面が、足もとから逃げて行くような感じがした。まるで暗闇にどこか妙なところへ入り込んで、どうしても出ることができないような思いであった。

 不意に一同がさっと道を開けたと思うと、あまり背の高くない肥りじしの婦人が現われた。もう相当な年配で、多少は洒落たつもりらしいが、質素な身なりをし……大きな肩掛けをして、首のところをピンで留め、どうやらかぶり馴れないらしい室内帽を頭にのせていた。手には小ぶりな円い盆を持っていたが、その上には栓は抜いてあるが、まだ口をつけないシャンパンのびんと、盃がたった二つだけのっていた。シャンパンのびんは、ただ二人の客に当てられたものらしい。
 中年の婦人は閣下に近づいた。
「閣下、どうぞごめんくださいまし」とお辞儀をしながらいった。「こんなあばら屋もおいといなく、伜の婚礼においで くださいました以上、どうぞお願いですから、お酒でも召しあがって、若夫婦を祝ってやってくださいまし。どうぞいやだなどとおっしゃらないで、お慈悲でございます」
 イヴァン・イリッチは、救いの神とばかりこの女に取りすがった。彼女はまだまだ老婆などというところでなく、年も四十五、六、――それ以上ではなかった。けれど、その顔はいかにも善良そうで、開けっぱなしで、赤々と薔薇色をして、ロシヤ人らしいタイプだったし、彼女自身もお人好しらしくにこにこして、率直なお辞儀の仕方をするので、イヴァン・イリッチもほっとして、これならまだ脈があると考えはじめた。
「じゃ、あなたがこの人のお母さんですか?」と彼は長いすから腰をもち上げていった。
「母でございます、閣下」プセルドニーモフは口の中でもぐもぐいいながら、長い頸をぐっと伸ばして、またもや鼻を突き出した。
「ああ! 大いに愉快です、お近づきになって実に愉快です」
「それでは、お受けくださいますか、閣下」
「それどころか、心から喜んで受けますよ」
 盆がそこに置かれた。プセルドニーモフが飛んで来て、酒をついだ。イヴァン・イリッチは依然として立ったまま、杯を手に取った。
「わたしはこういうふうになったのが、とくに、とくに嬉しい。つまり、自分が……」と彼は切り出した。「自分がこの機会になに[#「なに」に傍点]することができるのが……ひと口にいうと、上官としてあなたにも(と彼は花嫁のほうへ向いた)、またポルフィーリイ君にも千代八千代かわらぬ幸福を祈るよ」
 こういって、彼は偽りならぬ感情さえもこめながら、今夜はこれで七杯めのシャンパンを飲み干した。プセルドニーモフは真面目くさった、むしろ気むずかしげな顔つきをしていた。イヴァン・イリッチは悩ましいほどの憎悪を、この男に対して感じはじめた。
『それに、例ののっぽまでが(彼は将校のほうをちらと見やった)、すぐ傍に突っ立っているのだ。ふん、せめてこの男でも万歳《ウラー》とどなってくれたらよさそうなもんだ! そうすれば、万事すらすらとうまくいくのに……』
「それから、アキーム・ペトローヴィチ、あなたも召しあがって、祝ってやってくださいまし」と母親は課長のほうへ向いてつけ足した。「あなたは上役で、これがあなたの部下でございますから、どうか伜を見てやってくださいますように、母親としてお願い申します。それに、さきざきもわたくしどもをお忘れになりませんよう、アキーム・ペトローヴィチ、あなたはご親切な方でいらっしゃいますから」
『いや、まったくロシヤの年とった女というものは、じつに素晴らしい!』とイヴァン・イリッチは考えた。『みんなを生き返らしたじゃないか。だから、おれはいつも古い国民性を愛していたのだ……』
 このときテーブルのそばへ、もう一つの盆が運ばれた。運んで来たのは、まだ洗濯しないごわごわ音のする更紗の着物をきて、クリノリンをはいた小娘であった。小娘はやっとかかえるようにして、盆を持っていた。それほど盆が大きかったのである。その上には、林檎、菓子、パスチラ([#割り注]果汁、蜜等でつくった甘い焼菓子[#割り注終わり])、マーマレード、胡桃、等々を入れた皿を、数えきれないほどのせていた。この盆は客一同、それも主として婦人客のご馳走として、今まで客間に置いてあったのが、今は閣下ひとりのところへ移転したのである。
「どうぞ、閣下、つまらないものでございますが、召しあがってくださいまし。わたくしどもはあり合わせのものでも、召しあがっていただければ嬉しいのでございまして」と母親は小腰をかがめながらくり返した。
「とんでもない……」とイヴァン・イリッチは答え、満足さえ感じながら、胡桃を一つ取って、指の間で押し潰した。いよいよ徹底的に人気ものになろうとはらを決めたのである。
 とかくするうち、花嫁がひひひと笑い出した。
「どうしたんです?」この女が生命のしるしを示したのが嬉しくて、イヴァン・イリッチは微笑を浮かべながら問いかけた。
「いえね、あのイヴァン・コスチェンキーヌイチが、笑わすものですから」と彼女は目を伏せて答えた。
 なるほど、なかなか男ぶりのいい、白っぽい髪をした、一人の青年を閣下は見分けた。長いすの反対側の椅子に隠れるように坐って、マダム・プセルドニーモフに何やら耳打ちしていた。青年は身を起こした。見たところ、非常なはにかみやで、年も非常に若いらしかった。
「わたしは夢判断の本のことを申しましたので、閣下」と彼は言いわけでもするようにつぶやいた。
「夢判断の本というと?」イヴァン・イリッチはお付き合いにたずねた。
「新しい夢判断でして、文学的な本でございます。もしパナーエフ氏を夢に見たら、それはつまりワイシャツの胸をコーヒーで汚す知らせだ、とこう申しますので」
『なんて罪のない話だ』とイヴァン・イリッチは、いまいましささえ感じながら、心の中で思った。
 青年はそれをいう時ひどく真っ赤になったが、それでもパナーエフ氏のことを話したのが、たとえようもなく嬉しかったのである。
「ああ、そう、そう、わたしも聞いたことがある……」と閣下も応じた。
「いや、それよりもっといい話がありますよ」イヴァン・イリッチのすぐ耳もとで、また別の声がそういった。「新しい百科辞典が出版されることになっていますが、それにクラーエフスキイ氏が幾つか論文を書くそうですよ、アルフェラーキと……ぼう[#「ぼう」に傍点](暴)露文学でしてね……」
 青年はこれだけのことをいい終わったが、いっこうにもじもじするふうもなく、むしろかなり砕けた調子であった。彼は手袋をはめて、白チョッキを着込み、手に帽子を持っていた。ダンスをしないで、高慢ちきに人を見おろしているのであった。というのは、諷刺雑誌『焼け棒っ杭』の記者の一人で、操觚《そうこ》者をもって任じていたからである。そういう次第で、この結婚披露に来たのも偶然なのであった。彼は上客の一人として、プセルドニーモフの家へ招かれたのである。プセルドニーモフとは君僕の間[#「君僕の間」に傍点]で、もう去年頃から二人いっしょに、あるドイツの女のやっている曖昧屋で暴れていた。それでも、この男はウォートカはちびちび飲んでいて、そのためにもう一再ならず、奥まった小部屋へ入り込んだものである。もっとも、ほかの客たちもみなこの部屋へ行く道は心得ていた。閣下はこの男が恐ろしく気に入らなかった。
「それはこういうわけで滑稽なのです」不意に、例のワイシャツの胸の話をした白っぽい髪の青年が、さも嬉しそうにさえぎった。で、白チョッキの記者は憎々しげにそのほうを睨んだ。
「こういうわけで、滑稽なのです、閣下。つまり、クラーエフスキイ氏は正字法を知らないで、『ばく露文学』は『ぼう露文学』と書くべきものだと考えている、とこんなふうにその本の著者は考えているのでして……」
 が、哀れな青年はほとんどしまいまでいい切れなかった。彼は閣下の目つきを見ただけで、閣下もそのことは疾くの昔に承知していて、自分でもどうやら照れているらしい、しかも明らかに、それを知っているために照れているらしい、ということを見て取ったのである。青年は言葉に尽くせぬほど気が咎めてきた。彼は早くもどこかへ姿を隠してしまい、それから後もずっとひどく悄げていた。それとはうって変わって、例のいやに砕けた『焼け棒っ杭』の記者は、更に近々とそばへ寄って来て、どこかその辺に腰を下ろすつもりらしく見えた。こうした馴れ馴れしさは、イヴァン・イリッチにして見ればいささか神経に触るような気がした。
「そうそう! ポルフィーリイ、ひとつそういってくれたまえ」と彼は何かいうためにこういった。「どういうわけで、――わたしはいつも個人的にこのことをきみにきこうと思っていたのだが、――どうしてきみの姓はプセヴドニーモフでなくて、プセルドニーモフなんだね? きみはきっとプセヴドニーモフなんだろう?」
「はっきりとはわかりかねます、閣下」とプセルドニーモフは答えた。
「それはきっと、まだこの男の父親が官職についた時、書類の上で書き間違えられたので、そのために今もってプセルドニーモフのままでいるのでございましょう」とアキーム・ペトローヴィチが答弁した。「よくあることでございますから」
「きーっとそうだ」と閣下は熱心に引き取った。「きーっとそうだ。だって考えてみたまえ、プセヴドニーモフなら、雅号《プセヴドニーム》という文学の言葉から来たわけだろうね。ところが、プセルドニーモフじゃなんの意味もないじゃないか」
「馬鹿なものですから」とアキーム・ペトローヴィチはつけ足した。
「というと、つまり、何が馬鹿なんだね?」
「ロシヤ人がでございます。馬鹿なものですから、時には文字を変えたり、時には自己流の発音をしたりいたします。たとえば、廃兵のことをネヴァリードと申しますが、本当はインヴァリードというべきなので」
「ははあ、なるほど………ネヴァリードか、へへへ……」
「ムーメルなどとも申しますよ、閣下」もう前からなんとかして目に立ちたくて、うずうずしている背の高い将校が、出しぬけに胴間声を出した。
「というと、なんのムーメルだね?」
「番号で、ヌーメルの代わりに、ムーメルというのです、閣下」
「ああ、なるほど、ムーメル……ヌーメルの代わりにね……ふん、なるほど、なるほど、へへへ……」イヴァン・イリッチは将校のためにも、お世辞笑いをしなければならなかった。
 将校はネクタイを直した。
「それから、まだこんなこともいいますよ、ニーモって」と『焼け棒っ杭』の記者が割り込もうとした。が、閣下ももうこれは努めて聞かない振りをした。一人一人にはお世辞わらいをするわけにもいかない。
「ミーモ[#「ミーモ」に傍点](傍)の代わりにニーモ[#「ニーモ」に傍点]なんです」いかにもいらいらした調子で『記者』はからんで来た。
 イヴァン・イリッチは厳しい目つきで、その顔を睨めつけた。[#「睨めつけた。」は底本では「睨めつけた」] 
「おい、何をそうしつこくするんだ?」とプセルドニーモフは『記者』にささやいた。
「いったいそりゃどうしたことだ、ぼくはただ話をしてるんじゃないか。いったい話をすることもできないのかい?」と、こちらはひそひそ声で理屈を捏ねはじめたが、それでもすぐ口をつぐんで、内心ぶりぶりしながら、部屋から出て行った。
 彼はまっすぐに、かの魅力ある奥まった小部屋へおもむいた。そこにはもう夜会の初まりから、ダンスをする男連のために、二色のウォートカと鰊、薄く切ったイクラとロシヤ出来のどぎついシェリー酒のびんが、ヤロスラーヴリ織の布を掛けた小机の上にのせてあった。記者が毒念を胸にいだきながら、ウォートカをつぎにかかった時、不意にプセルドニーモフ家の舞踏会の一番の踊り手であり、カンカンの名手である医学生が、頭をぽうぽうさせて駆け込んだ。彼はがつがつとあわてて、ウォートカのびんに飛びついた。
「今に始まるよ!」彼はすばやくお手盛りでやりながら、いった。「見に来たまえ、逆立ちのソロダンスをやって見せるから、夜食の後では思い切って『小魚』をやっつけてやろう、それは結婚披露には、うってつけなくらいだよ。いわば親友として、プセルドニーモフに匂わせることになるから……あのクレオパトラセミョーノヴナは素晴らしい。あの女となら、どんなことでも思い切ってやっつけられるよ」
「あいつは退歩主義者だ」と記者は杯を乾しながら、気むずかしげに答えた。
「だれが退歩主義者なんだい?」
「なに、あのおえらがたさ、パスチラを前へお供《そな》えしてもらった……退歩主義者さ! ぼくがちゃんといっておく」
「いやあ、どうもきみは!」カドリールの前奏が聞こえて来たので、医学生はもぐもぐと曖昧なことをいって、まっしぐらに小部屋を駆け出した。
 記者は一人きりになると、更に元気をつけて独立不羈の精神を養うために、もう一杯ついでぐっと飲み干し、肴を口に入れた。で、五等官イヴァン・イリッチはかつてこれまで、彼によって無視された『焼け棒っ杭』の記者以上に、獰猛な敵を向こうに廻したことがなく、これ以上に執念ぶかい復讐者を持ったことがない、というようなしだいに立ちいたったのである。ウォートカを二杯のみほしたあとではことにそうだった。ああ! イヴァン・イリッチは、こんなことを何一つ疑ってもみなかった。しかし、そのほかになお一つ、当夜の客人たちと閣下との相互関係に影響を及ぼした重大な事情をも彼は夢にも知らなかったのである。ほかでもない、彼は自分の立場からして部下の結婚披露宴に姿を現わした理由について、ちゃんとした詳細な説明を与えたのであるが、この説明は実のところだれひとり満足させず、客たちは依然として当惑していたのである。が、突如として、すべては魔法のように一変してしまった。だれも彼もが安心して、思いがけない客人はまるで部屋の中にいないかのように、浮かれたり、笑ったり、黄いろい声を立てたり、踊ったりしかねまじい気分になった。その原因は、どうして急に拡がったのかわからないが、「あのお客さんはどうやらその……一杯機嫌らしい」という噂であり、ささやきであった。それは一見したところ、実に無法な中傷の性質を帯びていたが、だんだんとその事実が証明されていくようなふうなので、ついに何もかも突然はっきりしてしまったのである。のみならず、急に並はずれて陽気になって来た。ちょうどそのところを狙って、カドリールが始まった。それは夜食の前の最後の踊りで、医学生はこれに遅れまいと、あんなに急いで飛び出したのである。
 イヴァン・イリッチが、今度こそ何か地口でもいって、新婦をこっちのものにしてやろうと、再び話しかけようとした途端に、突然、例のひょろ長い将校が、花嫁のそばへ駆け寄って、どうと勢いよくその前に片膝ついた。花嫁はすぐさま長いすから跳びあがって、カドリールの組に交じるために、将校といっしょに飛んで行ってしまった。将校はあやまりもせず、花嫁も向こうへ行きしなに、閣下のほうを見ようとさえしなかった。まるで厄のがれするのが嬉しいかのようであった。
『もっとも、まったく無理もない話だ』とイヴァン・イリッチは考えた。『それに、あの連中は作法を知らないのだからな』
「ふむ! きみ、ポルフィーリイ、遠慮することは要らないよ」と彼はプセルドニーモフに話しかけた。「きみも何か……指図をするとか……それとも何かほかのことで……用があるかもしれないだろう……どうか遠慮しないでくれたまえ」
『いったいこの男はおれを張り番でもしてるんだろうか?』と彼ははらの中でつけ足した。
 例の長い頸をして、じっと上官のほうへ目をそそいでいるプセルドニーモフが、彼はやり切れないほどいやになって来た。要するに、これは何もかも見当ちがいであった、まったく見当ちがいであった。しかし、イヴァン・イリッチはいっかなそれを自白しようと思わなかったのである。

 カドリールがはじまった。
「失礼でございますが、閣下、いかがでございます?」うやうやしく両手にシャンパンのびんを持って、閣下の杯に注ごうと身がまえしながら、アキーム・ペトローヴィチがこうきいた。
「わたしは……わたしはまったくどうしたものか……もし……」
 しかし、アキーム・ペトローヴィチは満面に敬虔の念を輝かせながら、もうシャンパンを注いでいた。閣下の杯をみたすと、彼はこそこそと泥坊のような手つきで、体をすくめるようにしながら、自分の杯をもみたした。ただ違うところは、自分の杯は指一本の厚みほど、あきを残したことである、そのほうがなんとなく、上官にたいして礼儀にかなうような気がしたので。彼はまるでお産につき添う女のように、関係の深い長官の傍にじっと控えていた。まったくのところ、何を話すことがあろう? とはいうものの、どうも閣下のお相手をする光栄を有した以上、義務として閣下のお気を紛らすことは必要である。シャンパンは救いの神であった。それに閣下のほうでも注がれるのはいい気持ちなくらいである。ただし、それはシャンパンのためではない。シャンパンは生ぬるくて、この上もなくいやなしろ物であったが、なんとなく精神的に気持ちがよかったので。
『この老人、自分でも飲みたいのだが』とイヴァン・イリッチは考えた。『おれを差し置いて飲む勇気がないというわけだ。差し止めるべきじゃない。それに、びんがおれたち二人の間に、こうしてつくねんと立っていたら、それこそおかしなものだろうよ』
 彼はちょっぴりひと口飲んだ。なんといってもこのほうが、ぼんやり坐っているよりはいいように思われた。
「わたしがここにいるのは」と彼は言葉を引き伸ばすようにし、一語一語に力を入れながら始めた。「わたしがここにいるのは、いわば偶然なのだが、もちろん、中にはわたしが……こんな……集りに入っているのを、ぶーしーつけだと思う人が……あるかもしれないね」
 アキーム・ペトローヴィチは押し黙って、臆病げな好奇の表情で耳を傾けていた。
「しかし、きみはおそらく、なんのためにわたしがここにいるか、察してくださることと思う……なにしろまったくのところ、わたしは酒を飲みにここへ来たんじゃありませんからね……へへ!」
 アキーム・ペトローヴィチは、閣下の後からひひひ笑いをしようとしたが、どうしたものか腰が折れて、今度も何一つ気安めになるような返事をしなかった。
「わたしがここにいるのは……いわばみんなに元気をつけて……いわば精神的な、その、目的を示すためなんだ」アキーム・ペトローヴィチの頭の鈍さをいまいましく思いながら、イヴァン・イリッチはつづけたが、ふと自分でも口をつぐんでしまった。不幸なアキーム・ペトローヴィチが、何か悪いことでもしたように、目さえ伏せているのに気がついたのである。閣下はいくらかまごついて、もう一度いそいで杯からひと口がぶっと飲んだ。すると、アキーム・ペトローヴィチは、いっさいの救いはこれだとばかりに、びんを取って新しく注ぎ足した。
『お前さんの芸当もたんとはないな』とイヴァン・イリッチは、不幸なアキーム・ペトローヴィチを厳しい目つきで眺めながら、心の中で考えた。こちらは閣下のこの厳しい視線を予想して、もういよいよ黙りこくって、目を上げないことにきめてしまった。こうして、二人はものの二分間ばかり、じっと向き合って坐っていた、――アキーム・ペトローヴィチにとっては苦しい二分間であった。
 ついでに、アキーム・ペトローヴィチのことを、一こと述べておこう。これは牝鶏のようにおとなしい、卑屈な服従に養われた旧弊人であったが、しかも善良な、潔白とさえいえる人間であった。彼はペテルブルグ的ロシヤ人であった。つまり、父親も、父親の父親も、ペテルブルグに生まれて、ペテルブルグで育ち、ペテルブルグで勤務して、一度もそこから出たことがないのであった。それはまったく特種なロシヤ人のタイプである。彼らはロシヤについて、ほとんど芥子《けし》粒ほどの観念も持ち合わさないが、そんなことはいささかも苦に病まない。彼らの興味の全部はペテルブルグ、それも主として、自分の勤めている場所に局限されている。彼らの配慮は、すべて一コペイカ賭のカルタと、取りつけの店と、月月の俸給に集中している。彼らはロシヤの習慣を知らず、ロシヤの歌も『松明《ルチーヌシカ》』以外には、何一つ知らない。『松明』を知っているのも、流しの手廻しオルガンがやるからである。もっとも、厳然として変わりのない本質的な徴候が二つあって、真のロシヤ人とペテルブルグ的ロシヤ人とを、ただちに見分けることができる。その一つはほかでもない、ペテルブルグ的ロシヤ人は、みんな一人の例外もなく、『ペテルブルグ報知《ヴェドモスチ》』とはけっしていわず、必ず『アカデミック報知《ヴェドモスチ》』という。第二の、同じくらい根本的な徴候はこうである。ペテルブルグ的ロシヤ人は、けっして『昼飯《ザフトラック》』という言葉を使わないで、いつも『フルイシチック』といい、しかもフルイ[#「フルイ」に傍点]の音に特別力を入れる。この二つの根本的な、著しい徴候によって、彼らをかならず弁別できるのである。ひと口にいえば、それは三十五年間ちゃんと勤め上げた、おとなしいタイプなのである。とはいえ、アキーム・ペトローヴィチはさらさら馬鹿ではない。もし閣下が何か相手に相応したことをたずねたら、彼はまともな返事をして、話をつづけていったに相違ないのだが、ああいったような話題では、部下の身分として、受け答えをするのは不躾けにわたる。よしんばアキーム・ペトローヴィチが、死にそうなほど好奇心を燃え立たせているにもせよ、閣下の本当の考えをあまり立ち入って聞くわけにはいかない……
 その間イヴァン・イリッチは、しだいしだいにもの思いに沈み、考えが堂々めぐりし始めた。放心状態になっていたため、自分では気がつかないでいたが、のべつ杯を口につけて、ぐびりぐびりやっていた。アキーム・ペトローヴィチは、すかさずせっせと注ぎ足すのであった。二人とも押し黙っていた。イヴァン・イリッチはダンスを眺め始めたが、やがていくらかそのほうに注意を惹かれていった。突然、ある一つの出来事が、むしろ彼をびっくりさせたほどである……
 ダンスはまったく愉快であった。ここでは浮かれるために、というより暴れるために、単純な気持ちで踊ることができた。上手な踊り手というのは幾人もいなかった。が、下手な連中も景気よく足音を立てるので、上手とまちがえそうであった。第一に目立つのは例の将校で、これは一人きりになると、一種のソロダンスといったような、特別の型をやるのが得意であった。そのとき彼は驚くばかり体を曲げた。というのは、電信柱のように高い体を、今にも倒れはしないかと思われるほど、横に曲げる。が、次のステップとともに反対のほうへ、前と同じくらい急な角度で、急に体を傾けるのであった。顔の表情は恐ろしくまじめくさって、当人はみんなが驚嘆しているに違いない、という確信をもって踊っているのだ。もう一人の男は、もうカドリールの始まる前から、手廻しよく酒を呷っておいたので、第二節から相手の婦人のそばで寝入ってしまったので、その婦人はひとりで踊らなければならぬ仕儀となった。水色のショールをした婦人と踊っていた若い十四等官は、この晩みなで踊った五回のカドリールの全部を通じて、のべつ同じ芸当を演じた。ほかでもない、相手の婦人からわざと二、三歩おくれて、そのショールの端をふまえ、対舞者《ヴィザヴィ》たちが位置を変える時、さっと素早くそのショールに二十回ばかり接吻するのである。ところで、相手の婦人はなんにも気のつかないような振りをして、前のほうへふわふわと踊って行く。医学生は案のじょう、逆立ちのソロをやって、もの凄い感激と、満足を表明する足踏み、叫喚を呼び起こした。手っ取り早くいえば、ざっくばらんも極度に達したのである。酒も廻って来たイヴァン・イリッチは、にやにや笑いかけたが、しかし何かしらほろ苦い疑惑がしだいしだいに、彼の胸に忍び込み始めた。もちろん、彼はざっくばらんで自然なのが大好きであった。みんなが尻ごみしていた時には、心の中でこのざっくばらんをねがい、ひそかに呼び招いていたくらいであるが、今ではこのざっくばらんが、もう羽目をはずして来た。たとえば、もう三、四ど人手を潜って来たらしい、すれた青いビロードの服を着た一人の婦人などは、第六節の時、自分のスカートをピンで留めたので、まるでズボンでもはいているような具合になった。これがほかならぬクレオパトラセミョーノヴナ、その相手である医学生の表現によると、このひととならどんな冒険でもできる、という女であった。当の医学生にいたっては、もはや論外である。てもなくフォーキン([#割り注]当時のロシヤにおけるバレーの名優[#割り注終わり])である。いったいこれはどうしたことだろう? さっきまではあんなに尻ごみしていたのに、今度は急に自己解放をやってのけるとは! 別になんでもないようであるが、この急激な変化は何か不思議な感じがする。それは何かの前兆のようにも思われる。みんなはまるで、イヴァン・イリッチがこの世にいることを、忘れたかのようであった。いうまでもなく、彼は先に立ってからからと笑い、あやうく拍手さえしかねないほどであった。アキーム・ペトローヴィチはそれに調子を合わせて、うやうやしげにひひひ笑いをしていた。もっとも、自分もしんから面白そうで、閣下の腹の中に新しくふさぎの虫が首を持ち上げ出したなどとは、夢にも察しることができなかった。
「いや、きみは実に素晴らしい踊り手ですね」カドリールが終わるやいなや、イヴァン・イリッチは傍を通りかかった医学生に、こういわざるを得なかった。
 医学生くるりとそのほうへ体を向けて、何やら妙なしかめ面をしながら、その顔を閣下のほうへ不躾けなほど近々と寄せたかと思うと、ありったけの声で雄鶏の啼き真似をした。これはもうあんまりであった。イヴァン・イリッチは、テーブルから離れた。にもかかわらず、つづいてどっとばかり崩れるような笑い声が起こった。それは鶏の啼声が驚嘆に価するほど自然で、しかもあのしかめっ面が実に人の意表に出たからである。イヴァン・イリッチがまだはっきり決しかねてたたずんでいると、不意に当のプセルドニーモフが現われて、ぺこぺこお辞儀をしながら、夜食の席についてくれと頼みはじめた。それにつづいて、母親も姿を現わした。
「旦那様、閣下」と彼女は小腰をかがめながらいった。「しがないものでございますが、どうぞいやだなどとおっしゃらないで、どうぞお慈悲に……」
「わたしは……わたしは、まったく、どうしたものか……」とイヴァン・イリッチはいいかけた。「わたしは何もそんなつもりで……わたしは……もうお暇しようと思っていたところなんで……」
 いかにも、彼は手に帽子を持っていた。のみならず、彼はすぐこの瞬間に、是が非でも出て行こう、どんなことがあっても残るまいと、自分で自分に固い誓いを立てたのであるが……それでも、とうとう残ってしまった。一分の後、彼は食卓へ向かう行列の先頭を切った。プセルドニーモフとその母親が、その前に立って道を開いた。彼は一番の上席に据えられ、またもやまだ口をつけぬシャンパンのびんが、彼の食器の前に現われた。酒や肴もあった。鰊とウォートカである。彼は手を差し伸べて、自分で大きな盃にウォートカを一杯つぎ、ぐっと飲み干した。今まで彼は一度もウォートカを飲んだことがないのである。彼は坂からすべり落ちて行くような気がした。さっと飛ぶようにすべって行く。留らなくてはならない、何かにしがみつかなくてはならない、がそれはしょせん不可能なのである。

 事実、彼の立場はいよいよ突拍子もないものになっていった。かてて加えて、それは何かしら運命の嘲笑ともいうべきものであった。なんということが、しかもなんという時刻に起こったことだろう? 入って来た時には、彼はいわば自分の部下ぜんたいに、いな、全人類に抱擁の手を開いていたのだ。ところが、まだ一時間たつかたたないのに、彼は胸に痛みを覚えながら、自分はプセルドニーモフを憎んでいる、プセルドニーモフばかりか、その花嫁も、その結婚をも呪っている、ということを感じた、はっきりと意識した。そればかりか、彼は顔つきや目つきによって、プセルドニーモフ自身も自分を憎んでいる、ということを見て取った。『ええ、畜生、どこへなと失せやがれ! 厄介者が舞い込みやがって!……』といわんばかりの様子をしている。それは相手の眼ざしで、ありありと読み取られる。
 もちろん、イヴァン・イリッチは、いま現に食卓に向かっていながら、それがみな真実であるということを、他人に告白するのは愚か、自分自身が認めるなどとは思いも寄らぬことであった。それくらいなら、いっそ自分の片手を斬り落とされたほうがましである。まだその時がいたってないので、今はまだ何か精神的バランスのようなものがとれていたのである。しかし、心は――心はしくしく疼いている! 心は自由を欲し、大気を胸いっぱいに呼吸して、休息することを願っている。なにぶんにも、イヴァン・イリッチはあまりにも善良な人間だったのである。
 彼は知っていた、よっく承知していた、――もう疾くに出て行かなければならなかったのだ、いな、出て行くどころか、逃げ出さなくてはならなかったのだ。何もかもが急に、さっき歩道の上で空想したのとは、がらりと違ってしまった。まるで別なふうに展開したのだ。
『おれはいったいなんのためにやって来たのだ? ここで飲んだり食ったりするために来たのだろうか?』と彼は鰊を噛みながら自問した。彼はおのれを否定するような気持ちにさえなって来た。時おり彼の心には、自分自身の功業に対する皮肉さえうごめきはじめた。まったくのところ、なんのためにここへ入って来たのか、われながらわからなくなって来た。
 しかし、どんなにして出て行くのだ? 最後まで仕終せないで、このまま出て行くのは不可能である。人がなんというか? 不躾けな場所をうろつき廻る人間だというだろう。もし仕上げをしなかったら、まったくそういうことになってしまう。たとえば、明日にもさっそく(噂というものはすぐどこへでも拡がるものだから)、スチェパン・ニキーフォロヴィチやシプレンコが、シェムベリやシュービンの役所で、なんというか知れたものではない。いや、この連中が一人のこさず、おれの来た理由を理解するようにして、出て行かなくてはならない、精神的な目的を啓示しなくてはならない……にもかかわらず、感激的な瞬間はどうしてもやって来ない。この連中はおれを尊敬しようとさえしない(と彼は考えつづけた)。やつらは何を笑ってるんだろう? みんな恐ろしくざっくばらんになって、まるで感情というものを持っていないようだ……そうだ、おれはもう前から、若い世代の連中はみんな無感情ではないか、という気がしていたっけ! 何がなんでも踏みとどまらなくちゃならない!………今までみんな踊っていたが、これから食卓に集まるわけだから……いろんな問題を話そう、改革のことだとか、ロシヤの偉大さといったような話を持ち出そう……おまけに、みんなを夢中にならしてやろう! そうだ! ひょっとしたら、まだ何一つ取返しのつかないことはしておらんかもしれない……現実というものは、いつでもこうしたものかもしれないて。が、彼らを引きつけるには、何から切り出したものだろう? いったいどんなやり口を考え出したらいいかしらん? とほうにくれる、まったくとほうにくれる……いったい彼らには何が必要なんだろう、何を彼らは要求しているのだろう?……見たところ、みんな向こうで笑い合ってるようだが、ひょっとおれのことじゃあるまいか? ああ! いったいぜんたいおれは何が必要なんだろう……おれはなんだってこんなところにいるんだ、なぜ出て行かないのだ、何をおれは求めているのだ?……
 彼はこんなことを考えつづけていた。と、何かある羞恥の念が、深い堪え難い羞恥の念が、しだいしだいに彼の心を掻きむしるのであった。

 しかし、すべてはそのままに否応なく進んでいった。
 彼がテーブルに向かってから、かっきり二分たった時、ある恐ろしい想念が彼の全存在を捕えた。彼は突如として、恐ろしく酔っぱらっているのを感じた。それは、今までのような酔い方でなく、へべれけに酔ってしまったのである。その原因はシャンパンの後に飲み干したウォートカで、これがたちまち利き目を現わしたのである。彼は自分の全存在で、ぐでんぐでんになってしまったのを感じた、直覚した。もちろん、空元気も相当に出て来たが、意識はしばらくもまどろまず、わめきつづけるのであった。『いけない、実にいけない、全然ぶしつけなくらいだ!』いうまでもなく、酔余の想念は持久性がなく、一つの点にとどまってはいない。彼の内部に忽然として何かしら二つの面が生じて、それが彼自身にもまざまざと感じられるのであった。一つの面は空元気で、征服しよう、障碍を撥ね除けようという気持ちと、おれは必ず目的を貫徹するという無鉄砲な自信で一杯であった。もう一つの面は悩ましい胸の痛みと、心臓を吸われるような感触によって、それと気づかれるようなものであった。『人はなんというだろう? これはどういう結末になるかしらん? 明日はどうだろう、明日は、明日は……』
 以前、彼はただなんとなく漠然と、客人たちの間にもう自分の敵がいる、と予感していた。『それというのも、おれがさっき間違いなく酔っていたからだろう』と彼は悩ましい疑惑をいだきながら、そう考えた。ところが、食卓を囲んだ人人の中には、まさしく自分の敵がいる、それはもはや疑う余地がない、それをいま正確無比な徴候によって確信した時、彼の恐怖はいかばかりであったか。
『なんのために! なんのために!』と彼は考えた。
 この食卓には、三十人ほどの客がぜんぶ坐っていたが、その中には、もうすっかりまいったものも幾たりかいた。また中にはたちのよくない、無雑作な態度で独立不羈を装って、どなったり、大声にしゃべったり、先廻りして祝杯を提唱したり、パンで作った玉を婦人連と投げ合ったりしていた。一人、脂じみた服を着た見すぼらしい男が、食卓に向かうやいなや、椅子から転げ落ちて、そのまま夜食が終わるまでね通していた。ある一人の男は、是が非でもテーブルの上へあがって、祝杯を提唱するといって聞かなかった。やっと将校が上着の裾をつかまえて、あまりせっかち過ぎる感激をなだめたものである。夜食のためには、ある将軍家の農奴である料理人を、特別に雇って来たのであるが、完全に雑階級的なものであった。そこには煮こごりがあり、馬鈴薯をあしらったタンがあり、グリンピースつきのカツレツがあり、最後に鵞鳥が出、デザートにはブラマンジェが出た。酒は、ビールと、ウォートカと、シェリー酒であった。シャンパンのびんはただ閣下の前だけに置かれたので、彼は自分でアキーム・ペトローヴィチにも注いでやらなければならなかった。この男は夜食の席になると、自分の考えで何一つ処置することができなかったのである。ほかの客人たちには、祝杯のとき、葡萄酒なりなんなり、手当たり次第のものを注いだ。食卓そのものは、たくさんのテーブルをつぎ合わせて作ったので、その中にはカルタ机まで交じっていた。テーブル・クロースもたくさんつなぎ合わせてあって、その中の一つはヤロスラーヴリの華美な色物であった。客は男と女と一人ずつ、入り交じりに坐っていた。プセルドニーモフの母親は食卓につくのを承知せず、まめに食事の斡旋をしていた。その代わり、今まで姿を見せなかった、性わるらしい女が一人現われた。何かしら赤みがかった絹の服を着て、歯が痛むらしく頬を縛って、むやみに高い室内帽をかぶっていた。聞いて見ると、これは花嫁の母親で、やっとのことで奥の間からお神輿を上げ、夜食に出ることを承知したのだそうである。これまで出て来なかったのは、プセルドニーモフの母親と不倶戴天の敵同士だったからである。が、その話は後ですることにしよう。この婦人は毒々しい、嘲笑するような目つきで、閣下を一瞥した。明らかに、紹介などしてもらいたくない様子であった。イヴァン・イリッチの目には、この老婆がひどくうさんくさいものに見えた。しかし、そのほかにも、なお二、三の人物がうさんくさく思われ、われともなく危惧と不安の念をいだかされるのであった。彼らは何か陰謀でも企てて、イヴァン・イリッチを陥れようとしている、とさえ思われた。少なくとも、彼自身はそういう気がしてならないので、宴席に列している間に、だんだんつよくそれを確信するにいたったのである。はっきりいうと、悪質のものと見られるのは、小さな顎ひげを生やした一人の男で、何か自由な芸術家といったような感じである。幾度もイヴァン・イリッチを見やって、それから隣りの男のほうへくるりと振り向いては、何やらひそひそ話をするのであった。それから、もう一人の学生、もっともこれはすっかり酔い潰れてはいたものの、それでも二、三の徴候から見て、うさんくさかった。医学生も同様に怪しいほうの仲間であった。あの将校でさえ、大して頼もしいほうではなかった。しかし、目に見えて一種特別の憎悪に燃え立っているのは、『焼け棒っ杭』の記者であった。この男は不作法に椅子の上にふんぞり返って、高慢に厚かましい顔つきをして、傍若無人に鼻を鳴らしているのだ!『焼け棒っ杭』にわずか四つの詩をのせただけで、自由主義者ということになったこの記者は、ほかの客人たちからいっこうに注意を払われなかったどころか、目に見えて嫌われている様子であった。突然イヴァン・イリッチの傍に、あきらかに彼を狙って投げたらしいパン玉が落ちた時、このパン玉の主はほかならぬ『焼け棒っ杭』の記者に相違ない、もしそれが違ったら、首をやってもいい、と彼は心に思った。
 こうしたすべての事情は、いうまでもなく、彼を情けない気持ちにさせたのである。
 それからもう一つの事情は、ことに不快なものであった。イヴァン・イリッチはものの言い方が妙に不明瞭になり、発音が困難になって、自分ではうんとたくさんしゃべるつもりでも、舌が動かない、彼は自分でもそれをはっきり確かめた。それから、ときどき急に前後がわからなくなったが、なによりいけないのは、何もいっこうおかしいことがないのに、突然ぷっと噴き出して、げらげら笑うことであった。しかし、その気分も、イヴァン・イリッチがシャンパンを一杯飲み干すとともに、どこかへ消えてしまった。彼はシャンパンを自分の杯に注いだことはついだけれど、別に飲むつもりはなかったのである。それをどうしたものか、まったくふとした拍子に、ぐっと飲み干してしまった。この一杯のシャンパンのために、彼は急に泣き出したくなった。彼は、自分が極端な感傷癖に落ちて行くのを感じた。彼は再びすべての人を愛するようになった。プセルドニーモフも、『焼け棒っ杭』の記者さえも愛するようになったのである。急にみんなと抱き合っていっさいを忘れ、和睦したくなった。それどころか、みんなにいっさいを明けすけに話して聞かせたかった。何もかも、何もかも、――つまり、自分がどんなに素晴らしい才能を持った、親切な、いい人間であるかということを、聞かせてやりたかった。自分は将来国家にとって、有益な材となるということ、婦人たちを笑わす鮮やかな腕を持っているということ、そして何よりもまず、立派な進歩主義者であって、人道主義的な気持ちで万人を抱擁し、どんなに身分の低い者をもきらうことなく、両手を差しのべるつもりだということ、それから最後に結論として、自分が突然プセルドニーモフのところへ姿を現わして、シャンパンを二本たいらげた上、おのれの同席によって彼を幸福にしてやろうという気になった、その動機を残らずうち明けて聞かせたかった。
『真実だ、神聖なる真実こそ何より一番だ、それからうち明けた態度と! おれはうち明けた態度で彼らをまいらせてやる、彼らもおれを信頼するだろう。今のところ、敵意さえいだいておれを眺めている。それはありありと見えているが、おれがいっさいをうち明けた時、もう否応なしに彼らを征服してしまうだろう。彼らは杯をみたして、歓喜の叫びを上げながら、おれの健康のために乾杯するだろう。将校などは、自分の杯を拍車にぶっ突けて、粉々にするだろう、おれはそれを確信する。万歳《ウラー》とどなるかもしれないほどだ! それどころか、もし軽騎兵式に胴上げにしようといい出しても、おれはあえて逆らうまい、大いにけっこうなくらいだ。花嫁は額に接吻してやろう。なかなかかわいい女だ、アキーム・ペトローヴィチも実にいい男だ。プセルドニーモフも、もちろん、しまいにはよくなるだろう。あの男は、いわば、社交的な磨きがかかっていないのだから……もちろん、今の若い世代の連中は、概して心情のデリカシイが足りないけれど、しかし……しかし、おれは他のヨーロッパ諸国の間におけるロシヤの現代的意義を、彼らに話してやろう。それから、農民問題についても一言する、そうすると……みんなおれを愛するようになって、おれは光栄に包まれながら出て行くのだ!………』
 こうした空想は、もちろん、大いに愉快なものであったが、一つ愉快でないことがあった。というのは、こうした薔薇色の希望に酔っている最中、イヴァン・イリッチは突然、自分が思いがけない才能を持っているのを発見した。ほかでもない、唾を吐くことである。少なくとも、唾が突如として、彼の意志にかかわりなく、口から飛び出し始めたのである。彼は初めアキーム・ペトローヴィチによって、それに気がついた。頬っぺたに唾がかかったのだが、課長は上官に対する礼儀のため、すぐさま拭き取るのをはばかって、そのままじっと坐っていた。イヴァン・イリッチはナプキンを取って、いきなり自分で拭いてやった。しかし、それと同時に、自分ながらそれがいかにも馬鹿げきっていて、あらゆる健全なものから逸脱しているように思われたので、彼は口をつぐんで、つくづくあきれるばかりであった。アキーム・ペトローヴィチは、相当飲んでいたにもかかわらず、おとなしく坐っていた。今イヴァン・イリッチが考え合わして見ると、彼は課長相手に、ものの十五分ばかりも、何かひどく面白いテーマについて、滔々と弁じ立てていたのだが、アキーム・ペトローヴィチはそれに耳を傾けながら、当惑どころか、なにやら恐れてさえいるようなふうであった。一人へだてて腰かけていたプセルドニーモフも、同様に彼のほうへ頸を伸ばし、頭を横に傾けながら、恐ろしくいやな表情で耳を澄ましていた。まさしく彼は長官を張り番している様であった。イヴァン・イリッチは、ふと客人たちに視線を投げた時、多くのものがまともに自分を眺めて、げらげら笑っているのに気がついた。しかし、何よりも不思議なのは、そのとき彼がいささかも照れなかったことである。それどころか、またもや杯を取ってぐっとひと口飲むと、突然みんなに聞こえるようにしゃべり出した。
「わたしはもういったことですが」できるだけ大きな声を出そうと努めながら、彼はいい出した。「諸君、わたしは今もうアキーム・ペトローヴィチにいったことですが、ロシヤは……まさにほかならぬロシヤは……ひと口にいうと、わたしが何をいわんとするか、諸君もわかってくださると思いますが……ロシヤは、わたしの深く確信するところによりますと、ヒュ、ヒューマニズムの時期を経験しているのであります……」
ヒューマニズム!」という声が食卓の向こう端で起こった。
「ヒュー、ヒュー!」
「ちゅう、ちゅう!」
 イヴァン・イリッチは話をやめようと思った。プセルドニーモフは椅子から立ちあがって、だれがどなったのかと見透かし始めた。アキーム・ペトローヴィチは、客人たちを諭そうとでもするように、そっと頭を振っていた。イヴァン・イリッチは、それにはっきりと気がついたが、苦しいのを辛抱して黙っていた。
ヒューマニズム!」と彼は強情につづけた。「さっきも……ついさっきも、わたしはスチェパン・ニキーフォロヴィチにいったのですが……その、つまり……つまり事物の革新は……」
「閣下!」とわめく声が食卓の向こう端で聞こえた。
「何ご用です?」と腰を折られたイヴァン・イリッチは、だれがどなったのか見透かそうと努めながら答えた。
「いや、なんでもありません、閣下、つい夢中になったので、どうぞおつづけください! おつーづーけください!」という声がまた響いた。
 イヴァン・イリッチはぎくっとした。
「その、いわば、事物の革新は……」
「閣下!」とまた例の声が叫んだ。
「何ご用なんです」
「ご機嫌よう!」
 今度はもうイヴァン・イリッチも我慢できなかった。彼は演説をやめて、秩序を破壊する無礼者のほうへ、きっと振り向いた。それはへべれけに酔っぱらって、ひどくうさんくさく思われたずぶ若い学生であった。もう前からわめき立てて、あまつさえコップ一つと皿二枚こわしながら、婚礼ではぜひそうしなければならぬのだと主張していた。イヴァン・イリッチが彼のほうへ振り向いた瞬間、将校が厳めしい調子でこの乱暴者をたしなめにかかった。
「どうしたんだね、きみ、何をそうどなるんだね? もうつまみ出さなきゃならん、まったく!」
「あれはあなたのことじゃありませんよ、閣下、あなたのことじゃありませんよ、おつづけなさい!」と羽目をはずした若造は、椅子にふんぞり返りながらどなった。「おつづけなさい! ぼく聞いていますから。ぼくは大いに、おーいにあなたの説に賛成です! けっこう、けっーこうです!」
「若造の酔っぱらいでございます!」とプセルドニーモフが傍から小さい声でいった。
「酔っぱらいはわかっているが、しかし……」
「あれはわたしがたった今あの男に、一つ面白い話をして聞かせたからですよ、閣下!」と将校がいい出した。「わたしどもの隊のさる中尉のことですが、その男は上官に対して、ちょうどあんなふうな口のきき方をしたのです。そこで、先生、今その真似をしたわけです。上官が何かひと口いうたびにのべつ、『けっこう、けっこう!』というのです。そのために、もう十年も前のことですが、隊から除名されてしまいました」
「ど、どんな中尉です?」
「わたしどもの隊の中尉なので、閣下! この『けっこう』で気が狂ったのです。初めの間は、穏便な手段でたしなめていましたが、最後に懲治監へ入れてしまいました……長官が父親のような態度で説諭して聞かせるのに、その男は、『けっこう、けっこう!』をやるんですからなあ。しかし、奇妙なことに、男らしい将校でして、六尺ゆたかな巨漢だったのです。裁判にかけようとしたところ、気ちがいと気がついたわけです」
「つまり……悪戯小僧ですな。子供らしい悪戯は、そうやかましくいわんでも……わたしも自分として、大目に見る雅量があります……」
「医学によって証明したのです、閣下」
「えっ! 解剖したんですって?」
「とんでもない、だって、その男は完全に生きた人間だったんですよ!」
 はじめの間は行儀よくしていた客たちの間に、烈しい高笑いがほとんどいっせいに、どっとばかり起こった。イヴァン・イリッチは烈火のごとく腹を立てた。
「諸君、諸君!」と彼は叫んだが、初めの間はほとんど吃らなかった。「そりゃわたしは、生きた人間を解剖するものでないということは、よっくわかります。ただわたしは、その男が発狂した時には、もう生きていなかったのだ……つまり、死んだのだと思って……要するに、わたしがいいたいのは……諸君がわたしを愛しておられないということです。にもかかわらず、わたしは諸君を一人のこらず愛しています……さよう、ポル……ポルフィーリイをも愛しています……こんなことをいうのはみずから卑しゅうすることですが……」
 その瞬間、おびただしい唾がイヴァン・イリッチの口から飛び出して、テーブル・クロースの一ばん目に立つところへ、ぱっと散った。プセルドニーモフはあわててナプキンで拭いた。最後に起こったこの災難は、完全に閣下を圧倒しつくした。
「諸君、これはもうあんまりです!」と彼は絶望したように叫んだ。
「酔っぱらいでございますよ、閣下」とプセルドニーモフがまた傍からいった。
ポルフィーリイ、わたしの見たところでは、きみたちは……みんな……そうだ! わたしはあえていうが、わたしは望みを持っているのだ……そうだ! わたしは諸君にだんぜん答えを要求します、いったいわたしはどういうところでみずから卑しゅうしたのだろう?」
 イヴァン・イリッチは泣かないばかりであった。
「閣下、とんでもございません!」
ポルフィーリイ、わたしはきみにたずねる……どうかいってくれ……わたしがここへ……しかも……婚礼の席へやって来たのは、目的があったからだ。わたしはみんなを精神的に向上させようと思ったのだ……わたしはそれを感じてもらいたかったのだ……わたしは諸君一同にたずねるが、わたしは諸君の目から見て、ひどく自分を卑しめたかどうか?」
 墓場のごとき沈黙がおそった。墓場のごとき沈黙ということが問題なのである。しかも、あれほど断固たる質問に対してこれなのだ。『ああ、せめてこの瞬間にでもわめいてくれたらいいのに、それくらいのことが、やつらにとってなんだろう!』という考えが閣下の頭に閃いた。が、客はただ互いに顔を見合わせるばかりであった。アキーム・ペトローヴィチ[#「アキーム・ペトローヴィチ」は底本では「アキーム ペトローヴィチ」]は生きた心地もなく、プセルドニーモフは恐怖のあまり声も出なくなり、心の中で恐ろしい問いをくり返していた。それはもう前から彼の頭に浮かんでいたもので『こんなことができてしまって、いったいあすおれはどんな目に合うだろう?』というのであった。
 突然、もうへべれけになってはいたが、今まで気むずかしげに黙りこくって坐っていた『焼け棒っ杭』の記者が、まともにイヴァン・イリッチのほうを向いて、目をぎらぎらさせながら、一座を代表して答えた。
「そうです!」と彼は大声にどなった。「そうです、あなたは自分を卑しめたのです、そうです、あなたは退歩主義者です……たーいほー主義者ですとも!」
「きみ、気をつけたまえ! きみはいったいだれにものをいっているのだ!」またもや席から跳りあがって、イヴァン・イリッチは叫んだ。
「あなたにですよ。第二に、ぼくはあなたに『きみ』といわれる覚えがありませんよ。あなたはここへ芝居をやりに来たのです、人気取りに来たのです」
「プセルドニーモフ、これはなんということだ!」とイヴァン・イリッチは叫んだ。
 しかし、プセルドニーモフは恐ろしさのあまり跳びあがって、ただ棒立ちになったまま、どうしたらいいか、まるでわからなかった。ほかの客たちも、めいめいの席で化石のようになっていた。芸術家と学生は拍手して、『ブラーヴォ、ブラーヴォ!』とどなった。
 記者はもの凄い勢いで、遮二無二わめきつづけるのであった。
「そうです、あなたは人道主義をひけらかしに来たのです! あなたはみんなの楽しみを邪魔したのです。あなたはシャンパンを飲まれましたが、それが月給十ルーブリの腰弁にとっては、あまりにも高価なものだということを、考えても見なかったのです。そこで、ぼくはこういうことを疑っています。よく自分の部下の若い細君に涎を流す上官がいますが、あなたはその一人じゃありませんか! それどころか、ぼくは確信します、あなたは専売法の維持者なのです……そうです、そうです、そうです!」
「プセルドニーモフ、プセルドニーモフ!」とイヴァン・イリッチは部下のほうへ両手を差し伸べながら叫んだ。記者の一語一語が自分の胸に刺される新たな匕首《あいくち》のように思われたのである。
「ただ今、閣下、ご心配あそばしますな!」とプセルドニーモフは奮然と叫んで、記者のほうへ駆け寄り、その襟首を引っつかんで、テーブルの傍から引きずり出した。瘠せひょろけたプセルドニーモフが、こんな腕力を持っていようとは、思いも寄らぬほどであった。が、記者はへべれけに酔っていたし、プセルドニーモフは全然しらふだったのである。それから、記者の背中に幾つか拳固をくらわせて、彼は戸の外へ突き出してしまった。
「貴様らはみんな悪党だ!」と記者はわめいた。「明日にもさっそく『焼け棒っ杭』で貴様らをみんなポンチ絵にしてやるぞ!………」
 一同は席を蹴って立ちあがった。
「閣下、閣下!」プセルドニーモフとその母親、それから客の幾たりかが、閣下のまわりに塊まってこう叫んだ。「閣下どうか気をお落ちつけくださいまし!」
「いや、いや!」と閣下は叫んだ。「わたしは面目を潰してしまった……わたしがここへ来たのは……わたしは、いわば、きみたちを洗礼しようと思ったのだ。ところが、その代わりに、その代わりにこの有様だ!………」
 彼は失神したかのように、ぐたりと椅子に体を落とし、両手をテーブルにのせて、その上に突っ伏したので、ブラマンジェの皿に髪の毛が入った。一座の恐怖はくだくだしく書き立てるまでもあるまい。やがて間もなく、彼は出て行くつもりらしく立ちあがったが、ぐらっとよろけて、椅子の脚につまずくと、棒倒しに床の上に倒れて、鼾を立てはじめた……
 それは下戸がたまたま大酒した時に、よくあることである。これがぎりぎりという最後の瞬間まで、彼らは意識を保っているが、その後で急に薙ぎ払われたように、ぶっ倒れるのだ。プセルドニーモフはわれとわが髪をつかんで、そのまま身動きもしなくなった。客はめいめい思い思いにこの出来事を説明しながら、そわそわと散じ始めた。それはもう夜中の三時頃であった。

 なによりも肝腎なことは、プセルドニーモフの現在の状況が、いともみじめであるにもかかわらず、彼の立場は想像以上はるかに情けないものであった。イヴァン・イリッチが床に倒れ、プセルドニーモフが絶望のていで髪の毛を掻きむしりながら、そのそばに立っている間に、しばらくこの物語を中絶さして、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ・プセルドニーモフについて、いささか説明の言葉を述べるとしよう。
 この結婚のわずか一か月前まで、彼は完全に破滅するところだった。彼はある県で生まれた。彼の父親はかつてそこで何かの勤めをしていたが、起訴されて、裁判中に死んでしまった。プセルドニーモフはもうまる一年、ペテルブルグで餓えに瀕していたが、結婚の五か月まえ、やっと月十ルーブリの位置にありついて、肉体的にも、精神的にも復活した。けれど、間もなくある事情のため、再び落ち目になったのである。プセルドニーモフ一家は、広い世界にたった二人しか残っていなかった。彼とその母親である。母は夫の死後、その県を見棄てたのであった。母と子は二人でほとんど凍え死にしそうな有様で、怪しげなものを食べながら露命をつないでいた。時おり、プセルドニーモフは自分でコップを持ってフォンタンカヘ行き、そこで水をがぶがぶ飲む、そういう日もあった。職にありつくと、彼は母親とともに、かろうじてどこかの片隅に世帯を持った。母は人の洗濯物をし、息子はなんとかして靴と外套をこしらえようと、四か月もみみっちく貯金をつづけた。彼は役所でどんなつらい目にあったかしれない。よく上官が傍へ寄って来て、きみはもうだいぶ風呂へ入らないんだろう? とたずねた。あいつの制服の襟の下には、南京虫が巣をつくっている、という評判も立った。しかし、プセルドニーモフは、しっかりした性格の持主であった。見かけはおとなしくて、静かだった。教育はほんの僅かしか受けていず、彼がしゃべるのは、ほとんど一度も聞いたことがないくらいである。彼が何か思索したか、プランなりシステムなりを立てたか、何かの空想をしたか、筆者《わたし》ははっきり知らない。が、そのかわり、彼の内部にはこのひどい境遇から抜け出そうという、本能的な、てこでも動かぬ、無意識な決心ができあがっていた。彼には蟻のような根気づよさがあった。蟻が巣を毀されると、すぐにまた創りはじめる。もう一度こわされると、もう一度はじめる。こうして、いくらでも疲れるということがない。彼は建設的な、家中心の人間であった。彼が自分の道を開いて、巣をつくり、ことによったら、まさかの場合のために、小金さえ貯めかねないということは、ちゃんとその顔に書いてあった。広い世の中に彼を愛するのは母親だけで、しかもそのかわいがりようといったら、目がなかった。彼女はしっかりした女で、疲れを知らぬ稼ぎ人であったが、同時に優しい気立てであった。彼らは事情が変わっていくまで、まだ五年でも六年でもこんなふうにして、しがない片隅の生活をつづけていたかもしれないが、ふとしたことで、退職七等官のムレコピターエフと遭遇したのである。この男はもと会計官をやっていて、どこかの県庁に勤務していたが、近頃になってペテルブルグに居をかまえ、家族と共にこの地に落ちついたのである。彼はプセルドニーモフと相識の間柄で、死んだ父親には何かで恩になったことがある。もちろん、大したものではないが、金もちょっと持っていた。本当のところどれくらいあったか、それは家内も、長女も、親戚も、だれひとりとして知るものはなかった。この男には娘が二人あったが、ご当人おそろしいわからずやで、呑み助で、家庭内の専制君主だったので、突然、娘の一人をプセルドニーモフに娶《めあわ》せようという了見を起こした。『わしはあの男を知っておるし、あれの父親もいい人間だったから、息子もいい人間になるだろうよ』というわけである。ムレコピターエフは、なんでも思ったことはやってのけるたちなので、いい出したからには、やめはしなかった。それは実に奇妙な分からずやなのであった。何かの病気で足がきかなくなったため、大ていいつも肘掛けいすにかけたまま、時を過ごしていたが、それでもウォートカを飲むのに差障りはなかった。彼は日がな一日ウォートカを飲んで、悪態をついていた。もともと意地悪な人間なので、ぜひともだれかを始終いじめていなければ、承知できなかった。そのために、彼は遠縁のものを二、三人、手もとに置いていた。一人は病身で口やかましい自分の妹であり、もう二人は細君の妹で、同様に意地の悪い、口数の多い女であった。そのほかになお、何かの拍子に肋骨を一本折った年寄りの伯母がいたし、それから、すっかりロシヤふうになったドイツ女が居候していた。これは『千夜一夜』を上手に話すというので、かかえられているのであった。ムレコピターエフの楽しみといったら、これらの不仕合わせな居候の女どもをからかったり、のべつ頭ごなしに罵倒することであったが、相手はそれに対して、ぐうの音も出せないのであった。歯痛《はいた》が持って生まれた病の細君さえも、その例外ではなかった。彼はこの女どもを喧嘩させ、おたがい同士の間に蔭口の種を蒔き、不和を引き起こさせ、あとで女どもがつかみ合いしているのを見ては、あはあはと笑って喜ぶのであった。長女はある将校と結婚して、十年ばかりも夫婦で貧乏世帯の苦労をしていたが、とうとう後家になって、小さな病身の子供を三人つれて、父のもとへ移って来た。そのとき彼は大喜びであった。子供は大嫌いであったが、彼らの出現とともに、毎日実験を試みる材料がふえたので、老人は大満悦だったのである。こうして、意地悪な女どもや、病身の子供たちが、その迫害者の老人とともにごちゃごちゃと、ペテルブルグ区の木造の家に目白押をし、すき腹をかかえていた。というのは、老人は吝嗇で、自分の飲むウォートカの代は惜しくないくせに、家計のほうへはちびちびと小銭ばかり出していたからである。その上、みんなは夜も十分ねられなかった。老人が不眠症に苦しんで、お伽を要求するからで。手っ取り早くいえば、だれも彼もが苦しい思いをして、自分の運命を呪っていたのである。ちょうどその時ムレコピターエフは、プセルドニーモフに白羽の箭《や》を立てたのであった。青年の長い鼻と、つつましやかな様子が、彼に深い印象を与えたのである。瘠せこけて見すぼらしい末娘は、そのとき満十七であった。彼女はいつかドイツ人の学校《シューレ》にかよったこともあるけれど、アルファベットのほかはほとんど何一つ身につけなかった。その後は、足なえで呑み助の父親の杖のもとで、家族同士の蔭口、スパイ、告げ口という乱脈の中に、瘠せた腺病質の娘として生長した。彼女には友だちというものがついぞなかった。智恵もご同様である。彼女はもう大分まえから結婚したかった。人中へ出ると無口なくせに、家で母親や居候たちの傍にいると、老嬢のように意地が悪くて、口やかましかった。彼女がとくに好きなのは、姉の子供たちを抓ったり、叩いたり、砂糖やパンを盗み出したといって告げ口することであった。そのために姉妹の間には、手のつけられぬ諍《いさか》いの絶え間がなかった。老人は自分のほうから、プセルドニーモフに娘を提供したのである。相手はひどい貧乏暮らしではあったものの、それでもしばらく考えさしてくれといった。彼は母親と二人で、長いこと思案した。が、花嫁の名義に家が一軒書き換えられることになっていた。木造の平家で、やくざなものではあったけれども、やっぱりいくらかの値打はある。その上に、現金四百ルーブリつけようというのだ――これだけの金を自分で貯めようと思ったら、いつまでかかるか知れはしない!
「いったいわしがなんのために、他人を家の中へ入れようとするのだと思う?」と酔っぱらいの分からずやはどなるのであった。「第一、お前たちはみんな女ばかりで、女にはわしゃもう飽き飽きした。わしはな、プセルドニーモフをわしの笛で踊らしたいのだ。だって、わしはあれの恩人だからな。第二には、お前たちがみんな反対で、蔭でぶうぶういっとるから、それで入れるのだ。まあ、つまり、お前たちへ面当てにするのだ。いい出した以上、きっとやって見せるわい! ところで、ポルフィールカ、あれがお前の嫁になったら、ぴしぴしぶん殴るがいい。あいつの中には生まれた時からこの方、悪魔が七匹いるんだから、そいつをみんな追い出してくれ。わしが杖をこしらえてやるでな」
 プセルドニーモフは黙りこくっていたが、もうとくに腹はきまっていた。母子は結婚まえに家へ引き取られ、洗い清めて、着物をきせてもらい、靴もはかしてもらった上、結婚式の費用まで頂戴したのである。老人は母子に対して保護者の態度をとったが、それはほかでもない、家族一同がこの二人を憎んでいるからに相違ない。プセルドニーモフの母親はむしろ彼の気に入ったくらいで、彼女に対しては、遠慮して小言や悪口をいわなかった。もっとも、当のプセルドニーモフには、結婚式の一週間まえ、早くも自分のまえで、コサックダンスを踊らした。「いや、もうたくさん、わしはただな、お前が自分の分際を忘れやせんかと、それを見たかっただけなんだから」踊りがすんでから、彼はそういった。彼は結婚費用をぎりぎりに当てがって、自分の親戚や知人をありったけ招待した。プセルドニーモフの側からは、ただ『焼け棒っ杭』の記者と、上客としてアキーム・ペトローヴィチを呼んだばかりであった。プセルドニーモフは、花嫁が内心自分を嫌って、むしろ将校と結婚したくてたまらないのを、よく知り抜いていた。が、彼は何もかも我慢した。そういうことに、母親と相談がきまっていたからである。結婚式の当日も当夜も、老人は始めからしまいまで口汚く罵っては、酒をがぶがぶ飲んでいた。家族のものは結婚式のため、ぜんぶ奥の間に引っ込んでしまって、悪ぐさい臭いがこもるまで押し合いへし合いしていた。表のほうの間は舞踏と夜食に当てられたのである。やっと晩の十一時頃、老人がへべれけに酔い潰れて寝入った時、この日とくべつプセルドニーモフの母親に腹を立てていた花嫁の母親は、機嫌を直して、舞踏会と夜食に顔を出そうとはらを決めた。イヴァン・イリッチの出現は、何もかもひっくり返してしまった。ムレコピターエヴァは当惑するやら、憤慨するやらで、閣下まで招待してあることをなぜ知らせなかったかと、悪口をつきはじめる始末であった。招待もしないのに勝手に来たのだといって聞かせても、彼女は血のめぐりが悪いので、本当にしようとしなかった。シャンパンが要るということになった。プセルドニーモフの母親は、たった一ルーブリしか持ち合わせがなかったし、当のプセルドニーモフは一コペイカの金もなかった。で、余儀なく、意地悪のムレコピターエヴァに頭を下げて、初め一本、それからまた二本目の金を借りなければならなかった。将来の勤務関係にも影響するし、出世のもとになるからと並べ立てて、やっと納得させたのである。とうとう老婆は自分の臍くりを出したが、その代わりプセルドニーモフは思い切り苦い杯を嘗めさせられて、新婚の床の用意されてある部屋へ幾度となく駆け込んでは、無言のままわれとわが髪を掻きむしりながら、天国のような快楽に予定されたべッドに頭を突っ込んで、力なく憤懣に全身を慄わしたものである。しかり、イヴァン・イリッチは、この晩飲んだジャクソンのびん二本に、どれだけの値が払われたか、知らなかったのである。ところで、イヴァン・イリッチの一件が、ああいう思いがけない結末を告げた時、プセルドニーモフの恐怖、煩悶、というより、むしろ絶望はどうであったろう? またもや厄介なことになって来た。おそらく一晩じゅうつづくかもしれない気まぐれな花嫁の金切り声、涙、そしてわけのわからない花嫁側の親戚縁者の非難。彼はそれでなくても頭ががんがんして、あたりを領している混乱に、目がくらんで来そうであった。そこへ持って来て、イヴァン・イリッチには応急手当をしなければならず、朝の三時というのに、医者をさがしたり、家まで送り届ける箱馬車を呼んだりしなければならぬ。ぜひとも箱馬車が必要だ。なぜなら、こんな有様になっている、しかもこんなえらいお方を、辻馬車などで宅へ送られたものではないから。けれど、箱馬車を雇う金をどこから手に入れよう? ムレコピターエヴァは、閣下が自分にひと言も挨拶をせず、夜食の時に自分のほうを見ようとしなかったといって、かんかんになって腹を立てていたので、わたしは一コペイカも持っていませんよ、といい切った。どこで金をこしらえよう? どうしたものだろう? まったく、プセルドニーモフが髪の毛を掻きむしるのも、無理からぬ話である。

 その間にイヴァン・イリッチは、すぐそこの食堂にあった革張りの長いすへ運ばれた。食卓を片づけたり、別々に離したりしている間に、プセルドニーモフは、家じゅうありとあらゆる隅々を駆け廻って、金を借りに歩いた。召使にまで無心して見たが、だれもまるっきり持っていなかった。彼はあえてアキーム・ペトローヴィチさえ煩わして見た。この人はだれより一番あとまで残っていたのである。ところが、アキーム・ペトローヴィチは、優しい人間であったにもかかわらず、金と聞くとひどく当惑して、ぎょっとしたような様子さえ見せ、思いがけなくめちゃめちゃなことをいい出した。
「ほかの時なら、そりゃ喜んでなに[#「なに」に傍点]するけど」と彼はしどろもどろにいった。「今は……どうかごめんこうむらしてもらいましょう……」
 といい棄てて、帽子を取るなり、あたふたと家を駆け出して行った。ただ例の夢判断のことをいった気立てのやさしい青年だけは、まだ何かの役に立ったが、それもちぐはぐのことばかりであった。これもだれより一ばん長く居残って、プセルドニーモフの災難にしんから同情して働いた。とどのつまり、プセルドニーモフと、その母親と、それからこの青年は、共同協議の結果、医者は迎えに行かないことにし、それより馬車を呼んで来て、病人を自宅《うち》へ送り届け、その間に二、三家庭的な方法を講じることに決めた。というのは、つめたい水でこめかみや頭を冷やし、脳天に氷を当てる、といったようなことであった。それはプセルドニーモフの母親がさっそくひきうけた。青年は馬車をさがしに飛び出した。ところが、ペテルブルグ区はこの時刻になると、辻馬車でさえない始末なので、彼はどこか遠い旅籠へ行って、馭者たちを叩き起こした。そこで値段の談判になったが、こんな時間には箱馬車は五ルーブリでも安いくらいだといったが、結局三ルーブリで折合がついた。しかし、もう四時近くなって、青年が雇った箱馬車に乗って帰って来た時には、家ではとうの昔に相談が変わっていた。聞いてみると、イヴァン・イリッチは相変わらず前後不覚で、ひどく苦しがり、めちゃめちゃに呻ったり、暴れたりするので、そんな容体のまま家へ連れて行くのは、ぜんぜん不可能なばかりでなく、危険なわざでさえあった。「この上まだどんなことになるかわかりゃしない」とプセルドニーモフは、悄げかえっていうのであった。
 どうしようもなかった。そこで持ちあがった新しい問題というのは、もし病人をこの家に残すとしたら、どこへ移し、何にねかせるかということであった。家じゅうに寝台は二つしかなかった。一つはムレコピターエフ老夫婦が寝る大きなダブルベッドであり、も一つは新しく買った胡桃材のもので、同じくダブルベッド、新婚夫婦のために当てられていた。そのほかの連中、より正確にいえば、女連中は、みんな床の上で羽根蒲団に重なり合って寝ていた。どれもこれも蒸れて痛んでいて、ぶしつけ千万な有様になっていた上、それさえ人数きちきち、ということもできないほどの有様であった。いったい病人をどこへねかしたものだろう? 羽根蒲団はまだどこからか見つかるにしても、よくせきの場合は、だれか寝ているのを引んめくるとしても、それをどこで何の上に敷くかが問題である。詮索の結果、広間に敷かなければならぬということになった。この部屋が、家族の大勢いるところからも一ばん遠く、特別の出口がついているからである。が、何の上に敷いたものか? 椅子を並べたものか? しかし、周知のごとく、椅子を並べてねかせるのは、中学生が土曜から日曜へかけて帰った時だけで、イヴァン・イリッチのようなおえら方に対しては、それではあまり失礼すぎる。夜が明けて、椅子の上にねかされているところを見たら、なんというかしれはしない。プセルドニーモフは、そんな意見には耳もかそうとしなかった。ただ一つ残っているのは、彼を新婚の床へ移すことだけであった。この新婚の床は、もう前にいったとおり、食堂のすぐ傍の小部屋に設けてあった。寝台の上には、買ったばかりで一度も使わない二人寝の藁蒲団がのせられて、雪のようなシーツにおおわれ、薔薇色のキャラコの上から、縁飾りのある紗のカヴァーを掛けた枕が四つ重ねてあった。掛蒲団は模様ふうにかがられた薔薇色の繻子で、天井の金めっきした鐶《かん》からは、紗のカーテンが垂らしてあった。ひと口にいえば、万事|式《かた》のごとくできていて、この寝室へ入って見た客も、ほとんど全部その飾りつけを褒めたくらいである。新婦はプセルドニーモフが大嫌いではあったけれども、その晩のうちに幾度も、特別そうっと盗み足で、ここへ見に来たものである。で、自分の新婚の床へ、何かしら擬似コレラみたいなものにかかった病人を移そうとしているのを聞いた時、彼女の憤慨は想像にあまりがあった! 新婚の母親は娘の味方をして、口汚く罵りながら、明日はさっそくお父様に告げてやると威嚇したが、プセルドニーモフは男を見せて、意見を通した。イヴァン・イリッチはここへ移され、新郎新婦のためには、広間で椅子の上に床が設けられた。花嫁はしくしく泣き出して、引っ掻きかねまじい様子を見せたが、結局いいつけに背く勇気はなかった。父親の手もとには、もう馴染みの深い杖が置かれてあり、明日になったら、父親が自分を呼びつけて、詳しい弁解を要求するに違いないということを、ちゃんと承知しているのであった。彼女のための気休めとして、薔薇色の掛蒲団と、紗のカヴァーのついた枕が、広間のほうへ移された。この瞬間、例の青年が箱馬車に乗って帰って来た。馬車はもう不要になったと聞いて、彼はびっくり仰天してしまった。自分で払わなければならぬ羽目になったのだが、彼はいまだかつて、二十コペイカ銀貨一枚もったことがないのである。プセルドニーモフは完全な破産状態を声明した。そこで、馭者を納得させようと試みたが、馭者は騒ぎをおっぱじめ、窓の鎧戸まで叩き出した。それが結局どう納まったか、詳しいことは筆者《わたし》も知らない。たしか青年が囚人よろしく、この箱馬車に乗って、ペスキーのロジェジェーストヴェンスカヤ街四丁目へ出かけて行ったらしい。そこには大学生が知人の家に泊っているので、それを叩き起こして、その男が金を持っているかどうか、運だめしをしようと、一縷の望みをいだいたわけである。新郎新婦が二人きりになって、広間へ閉じこめられたのは、もう朝の四時すぎた頃であった。病人の枕もとには、夜っぴてプセルドニーモフの母親がつき添うことになった。彼女は床の上に小さな絨毯を敷いて、その上に納まり、毛皮外套をかぶったが、寝るわけにはいかなかった。一分ごとに起きなければならなかったからである。イヴァン・イリッチは、胃腸をひどくこわしてしまったので、男まさりで心の寛いプセルドニーモフの母は、手ずからボタンをはずしてやって、服をすっかり脱がせ、まるで親身の息子のように看護《みとり》をして、夜っぴて寝室から廊下づたいに、便器を運び出したり、また持って帰ったりした。とはいえ、この夜の災難は、まだまだこれだけでは終わらなかったのである。

 新郎新婦がただ二人、広間に閉じこめられてから十分とたたぬうちに、たまげるような叫び声がひびき渡った。それは喜びの叫びでなく、最も悪質のものであった。叫び声につづいて、椅子でも倒れるような、がたがためきめきという音が聞こえたと思うと、その途端、まだ暗い部屋の中へ思いがけなく、ありとあらゆる姿をした一群の女が、驚きの叫びを立てながら乱入した。その女たちというのは、新婦の母親、その姉(これはその時、自分の病児たちをうっちゃって来たのである)、三人の伯母、それに、あばら骨の折れたのまでが、とぼとぼついて来たのである。そればかりか、台所女もその中にまじっていたし、おまけに、昔噺をする居候のドイツ女までが、家じゅうで一番いい、彼女の全財産である羽根蒲団を、新郎新婦のために力ずくで引っぺがされたので、ほかの連中といっしょにやって来た。これらの目ざとい尊敬すべき婦人たちは、魔訶不思議な好奇心に狩り立てられて、もう十五分も前から台所を抜け出し、爪立ちで廊下を通りぬけ、控え室で立聞きしていたのである。とかくするうちに、だれかが手早く蝋燭をつけた。と、一同の目に思いもかけぬ光景が映った。幅の広い羽根入の敷蒲団の端だけやっと支えていた椅子は、二人の重みを支えかねて、両方へさっと分かれ、敷蒲団はその間から床へ落ちてしまった。花嫁は腹立たしさのあまり、しくしく泣いていた。今度こそ、心の底から憤慨してしまったのである。精神的に打ちのめされたプセルドニーモフは、さながら犯行の現場を見つけられた罪人のように立っていた。彼は言いわけしようともしなかった。八方から、「ああ」とか「おお」とかいう金切り声が聞こえた。その騒ぎを聞きつけて、プセルドニーモフの母親もかけつけたが、花嫁の母親は今度こそ完全に勝利を博した。まず初めプセルドニーモフに、「お前さん、こんなざまをして、それでお聟さんといえますか? こんな恥さらしをしたあとで、いったいなんの役に立つんです?」云々といったような題目で、奇妙な、大部分は無理な非難を浴びせかけたあげく、娘の手を取って、花聟の傍から引き離し、自分のところへ連れて行ってしまった。明日になって、父親が弁明を要求した時の責任を、あらかじめ自分ひとりに引き受けたのである。その後から、女どもはみんな溜息をつきながら、頭を振り振り引き上げた。プセルドニーモフの傍には母親だけが残って、息子を慰めにかかった。が、彼はいきなり母親を追っぱらってしまった。
 彼は慰めどころではなかったのである。やっと長いすまで辿りつくと、跣足でズボン下一つのまま、いとも気むずかしげなもの思いに沈みながら腰をおろした。さまざまな想念が彼の頭の中で入り交り、ごっちゃになった。時おり、彼は機械的に部屋をぐるりと見迴した。ここではついさきほどまで、ダンスの人々が踊り狂って、空中には煙草のけむりが濛々としていたのだ。吸殻や菓子の包み紙は、酒がこぼれなどしてだらしなく汚れた床の上に、今でもまだごろごろしている。新婚の床の廃墟は、ひっくり返った椅子とともに、この地上における最も楽しい、しかも最も正確な希望と空想の果敢さを、雄弁に証明している。こんなふうにして、彼は、かれこれ小一時間、じっと坐り込んでいた。彼の頭には、始終いやな考えばかり浮かんで来た。たとえば、こんど役所のほうで、どんな運命が自分を待ち設けているだろう? といったようなものである。何がなんでも勤め口を変えねばならぬ、まったく今夜のようなことがあった以上、これまでの役所に居残るのは不可能だ、それを彼は苦しいほどに意識した。ムレコピターエフのことも頭に浮かんだ。明日はまた必ず聟にコサック踊りをやらせて、そのおとなしさをためして見ることだろう。ムレコピターエフは、結婚当日の費用として、五十ルーブリよこしたが(これは一コペイカ余さず使ってしまった)、持参金の四百ルーブリは、まだ渡そうと考えていないらしく、まるでその話は出なかった。このこともプセルドニーモフは考えて見た。そればかりか、この家さえも正式の登記はできていないのだ。彼は更に、生涯の危機に際して自分を棄てて行った妻のこと、妻の前に片膝ついた背の高い将校のことを考え込んだ(彼はもうちゃんとそれに気がついたのである)。それから、舅の証言によると、妻の内部に潜んでいるという七匹の悪魔のこと、それを追いだすために用意されてある杖のこと……などを考えた。もちろん、彼は多くのものを堪え忍ぶ力があると信じていたけれども、運命は最後にあまりといえばあまりな不意打を食わしたので、彼はいよいよ自分の力を疑わざるを得なくなった。
 こんなふうにプセルドニーモフは懊悩をつづけた。とかくするうちに、燃え残りの蝋燭はしだいに消えて行った。プセルドニーモフの横顔をまともに照らしている瞬きがちのおぼつかない光は、その影を大きく拡大して、壁に映した。長く突き出した頸、鉤っ鼻、額と後頭部と二ところに押っ立った髪の毛。ようやく朝の冷気が流れはじめた時、彼は全身ひえ込んでしまい、精神的に化石したような状態で、椅子の間に落ち込んでいる羽根蒲団まで辿りつくと、何一つ直しもしなければ、燃え残りの蝋燭を消そうともせず、頭に枕さえ当てがわないで、寝床へ四つん這いに這いあがると、おそらく明日は笞刑という宣告を受けた人間ならこうもあろうかと思われる、鉛のように重い死のごとき眠りに落ちてしまった。

 一方、イヴァン・イリッチ・プラリンスキイが、不仕合わせなプセルドニーモフの新婚の床で過ごしたかの悩ましい一夜も、たとえるにものがなかった! しばらくの間、頭痛、嘔吐、その他いろいろ不快な発作は、一刻のやみ間もなくつづいた。それは地獄の苦しみであった。かろうじて彼の頭脳に明滅していた意識は、数限りない恐怖を照らし出し、なんともいえぬ陰鬱ないまわしい場景をよみがえらせたので、いっそ意識など取り戻さなければよかった、と思われるほどであった。とはいえ、まだいっさいのものが彼の頭の中でごっちゃ交ぜになっていた。たとえば、彼はプセルドニーモフの母親を見分けたし、「辛抱なさいまし、おかわいそうに、辛抱なさいまし、だんな様、辛抱すれば我慢ができますよ」といったような優しいなだめの言葉も聞こえた。それはわかったが、彼女が自分の傍にいるのはどういうことか、論理的には何一つわからなかった。いまわしい幻がのべつ浮かんで来た。最も頻繁に現われたのはシプレンコである。しかし、よくよく見定めると、それはシプレンコなどとはまるで違って、プセルドニーモフの鼻であることに気がついた。それから、彼の目の前には、独立不羈の芸術家や、将校や、頬を縛った老婆などがちらついた。何よりも気になったのは、彼の頭の上にかかって、カーテンを通してある金めっきの鐶だった。部屋を照らしている薄暗い燃えさしの蝋燭の光で、彼はそれをはっきり見分けながら、この鐶は何にするものか、なんのためにここにあるのか、これはどういう意味なのか、と絶えず心の中で考えていた。彼は幾たびかこのことを老婆にたずねたが、どうやらいおうと思ったのとは別のことを口走ったらしく、どんなに説明しようと苦心しても、相手はなんのことかわからない様子であった。ついに夜明け頃、発作がやんで、彼は眠りに落ちた。ぐっすりと夢もなく寝入ってしまった。一時間ばかり眠って、目がさめた時には、もうほとんど完全に意識を回復していたが、たまらないほどの頭の痛みを覚え、なにかラシャのきれみたいになった舌の上には、いやな味を感じた。彼はべッドの上に身を起こして、あたりを見まわし、考え込んだ。夜明け方の淡い光が、鎧戸の隙間から細い縞になって射し込みながら、壁の上で慄えている。かれこれ朝の七時頃であった。しかし、イヴァン・イリッチが考え合わせて、昨夜から自分の身に起こったことを想起した時、――夜食の時のさまざまな出来事や、失敗に終わった功業や、自分のテーブル・スピーチを想い起こした時、――今やその結果がどうなるか、これからみんなが自分のことをなんというか、どう思うかということが、恐ろしいほどはっきりと頭に浮かんだ時、――また最後にあたりを見廻して、自分の部下の平和な新婚の床をどんなにまでみじめな、見苦しい有様にしてしまったかを見定めた時、――おお、その時、たえ難い羞恥の念と、なんともいえぬ苦悶が心をおそったので、彼はあっと叫んで、両手で顔をおおい、絶望のあまり枕に身を伏せてしまった。と、たちまちベッドから跳ね起きて、すぐそこの椅子の上に、きれいに掃除してきちんとたたんである自分の服を見つけると、いきなりそれを引っつかんで、ひどく何かを恐れてあたりを見廻しながら、あたふたと身につけ始めた。やはりすぐ傍にある別な椅子の上には、毛皮外套と、帽子と、その帽子に入れた黄いろい手袋がのせてあった。彼はそっと抜け出そうと思った。が、突然ドアが開いて、プセルドニーモフの母親が、素焼の洗面器と水さしを持って入って来た。肩にはタオルが掛けてあった。水さしを置くと、余計なことは少しもいわず、顔はぜひとも洗わなくてはならぬと宣言した。
「そりゃそうですとも、だんな様、お洗いなさいまし、顔を洗わずにお出かけになるわけにはいきません……」
 その瞬間、イヴァン・イリッチは悟った。もしこの世にたった一人でも、今さら恥じたり恐れたりしないで、すむものがいるとすれば、それはほかならぬこの老婆である。彼は顔を洗った。その後も長い間、生涯の苦しい時に遭遇すると、さまざまな良心の呵責の中にあって、この朝の目ざめの状況が残らず思い出された。この素焼の洗面器、まだ小さな氷の浮いている冷たい水を充たした陶器《せともの》の水さし、薔薇色の紙に包んだ楕円形の石鹸(それには何かの文字が押してあって、値段なら十五コペイカばかりのしろ物、明らかに新郎新婦のために買っておいたものらしいが、結局イヴァン・イリッチが初めて使うことになったのである)、左の肩に麻緞子の夕オルをのせた老婆。――冷たい水はやっと気分を爽やかにした。彼は体を拭くと、ひと言もものをいわず、自分の看護婦に礼も述べないで、帽子を引っつかみ、プセルドニーモフの差し出す毛皮外套を肩に担ぐなり、廊下を抜け、台所を抜けて(そこではもう猫がにゃあにゃあ啼いているし、女中は敷蒲団の上に身を起こして、貪るような好奇心をおもてに現わしながら、彼の跡を見送った)、内庭に駆け出し、通りへ出て、折ふし通りかかった辻馬車に飛び乗った。寒い朝で、まだ黄いろがかった冷たい霧が家々をはじめ、万物をつつんでいた。イヴァン・イリッチは外套の襟を立てた。みんなが自分を見、みんなが自分を知っており、みんなが自分を見分けるような気がしたので……

 八日間というもの、彼は家を一歩も出ず、役所へも顔を出さなかった。彼は病気だった。悩ましいまでに病んでいた。が、それは肉体よりも、むしろ精神の苦しみであった。この八日間、彼は完全に地獄を体験した。それは必ずや、あの世での計算に入ったに違いない。時によると、彼は僧籍に入ろうかと思うこともあった。まったくあったのである。それどころか、そういうときの彼の空想は、とくに活溌に働き出した。彼の空想には、静かな地下の歌、開かれた棺、人里はなれた庵室の生活、森、洞窟、などが浮かんで来た。しかし、ふとわれに返ると、ほとんど同時に、これは世にも馬鹿げたナンセンスであり、誇張であると気がついて、その馬鹿らしさを恥じた。その後で、精神的な発作がおそって来た。それは自分の 〔existence manquee'〕(棒に振った存在)を予想するものであった。それから、またもや羞恥の念がぱっと心に燃え立って、たちまち彼の全幅を領し、いっさいを焼き尽くそうとするのであった。彼はさまざまな場面を想像して、慄然とした。人は自分のことをなんというだろう、どう考えるだろう、自分はどんなふうにして役所へ入って行くつもりだろう、どんなにいやなひそひそ声がまる一年、いや十年、いな、一生つきまとうだろう。この失敗は後世にまで伝わるに相違ない。時おり彼はすっかり意気地なくなって、今にもすぐシプレンコのところへ行って、ゆるしを乞い友情を求めかねまじいほどであった。彼は自己弁護さえしようとしなかった。彼は徹底的におのれを非難した。もはや弁護の言葉を見いだすことができず、むしろそれを恥とした。
 彼はまたさっそく辞表を提出して、孤独な生活の中で、単純におのれを人類の幸福に捧げようとも思った。いずれにしても、必ずすべての知人を一変しなければならぬ。それどころか、自分に関する記憶を根こそぎなくする必要がある。が、またその後で、これもやっぱり馬鹿げた考えで、部下に対して前より厳格な態度を取ったら、何もかも償えるかもしれない、という考えが起こった。その時やっと希望をいだき、元気を回復しはじめるのであった。ついに、疑惑と苦悩の八日が過ぎた時、彼はこれ以上未知の不安を忍び切れないと感じて、un beau matin(ある朝)役所へ出ようと決心した。
 以前、まだわが家にこもってくよくよしていた時には、自分はどんなふうにして役所へ入ったものだろうかと、千遍も万遍も想像して見たが、必ずうしろに当てつけがましいささやきが聞こえ、皮肉な顔が見え、たちのわるいにたにた笑いを見せつけられるに相違ない、そう思い込んでぎょっとしたものである。ところが、実際そんなことは何一つないのを見た時、彼の驚きはどんなであったろう? みんなうやうやしく彼を迎えた。みんなが頭を下げて、だれも彼も真面目であった。みんな忙しそうにしていた。自分の部屋まで辿りついた時、彼の胸はよろこびにふくらんだ。
 彼はさっそく真面目くさって仕事を始め、幾つかの報告や説明を聞き、それに決を与えた。この朝ほど頭のいいちゃんとした判断を下し、決を与えたことは、今までかつてないような気がした。みんなが彼に満足し、彼を尊敬し、うやうやしい態度を取るのを、彼は見て取った。どんなに邪推ぶかくっても、何一つ認めることはできない、と思われるほどであった。事務は素晴らしくすらすらと運んだ。
 最後に、アキーム・ペトローヴィチが、何かの書類を持って姿を現わした。その出現と同時に、イヴァン・イリッチは、心臓のただ中を何かにちくりと刺されたような気がしたが、それはほんの一瞬であった。彼はアキーム・ペトローヴィチと事務にかかり、ものものしい態度で説明して聞かせ、処分法を指示した。ただ自分でも、一つ気がついたことは、あまり長くアキーム・ペトローヴィチを見るのを、妙に避けようとしていることであった。というより、アキーム・ペトローヴィチのほうが、彼を見るのを恐れているようであった。が、そのうちにアキーム・ペトローヴィチは用をすまして、書類を集めはじめた。
「あ、それからちょっとお願いがございますが」と彼はできるだけ素っけない調子で切り出した。「十四等官プセルドニーモフの**局転任の件で……セミョーン・イヴァーノヴィチ・シプレンコ閣下が、仕事をやると約束なさいましたので、閣下のご助力をお願いしたいと申しておられます」
「ああ、それじゃあの男はかわるのか」とイヴァン・イリッチはいったが、千鈞の重荷が心臓から取りのけられたような気がした。彼はちらとアキーム・ペトローヴィチを見やった。と、その瞬間、二人の視線がぴったり出会った。
「なに、わたしとしては……わたしはできるだけ……」とイヴァン・イリッチは答えた。「わたしは異存ありません」
 アキーム・ペトローヴィチは、少しも早く逃げ出したい様子であった。しかし、イヴァン・イリッチは突如、高潔心の発作にかられて、何もかも胸中を吐露してしまうことに決心した。明らかに感興がおそって来たものらしい。
「どうかあの男にそういってくれたまえ」深い意味にみちた、澄んだまなざしをアキーム・ペトローヴィチにそそぎながら彼は口を切った。「プセルドニーモフにそういってくれたまえ、わたしはあの男のため悪しかれとは望んでいない、そうとも、望んでいないよ!………それどころか、わたしは過去のいっさいを忘れる覚悟だ、何もかも忘れる……」
 けれども、アキーム・ペトローヴィチの不思議な振舞いを見て、イヴァン・イリッチは不意にあきれて、ぷつりと言葉を切った。この分別のある男が、どういうわけか、突然あきれ返った馬鹿になってしまったのである。じっと耳を傾けて、最後まで聞くべきはずのところ、急にこの上もないほど馬鹿げきった赤面ぶりをして、ぶしつけなくらいぺこぺこと、小刻みに忙しくお辞儀をしながら、同時にじりじりと戸口へ後ずさりし始めた。全体の様子が、穴があれば入りたいような、というより、少しも早く自分のテーブルへ帰りたいような気持ちを現わしていた。イヴァン・イリッチは一人きりになると、当惑したように椅子から立ちあがった。鏡を覗いて見ると、われながら自分の顔とは思われなかった。
「いや、厳格だ、ただ厳格のこと、厳格のこと!」ほとんど無意識にこうつぶやいたと思うと、不意に顔じゅうがぱっと真っ赤に染まった。彼は八日間の病中、世にも堪え難い瞬間でさえ経験しないほど、急に恥ずかしく、苦しくなって来た。『やっぱり持ち切れなかった!』とひとりごちて、彼は力なく椅子に身を投げた。



底本:「ドストエーフスキイ全集 5」河出書房新社
   1970(昭和45)年1月20日初版発行
入力:いとうおちゃ
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