『カラマーゾフの兄弟』P118-121   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦49日目]

の損失が生じたので、おれの手もとへ返したのは、みんなで二百六十ルーブリくらいのものだったらしい。よくは覚えていない。しかし、ほんの金だけで、手紙もなければ一言の説明もない。おれは包みの中に、何かちょっと鉛筆でしるしでもしてないか、と思って捜してみたが、――なあんにもない! 仕方がないから、おれは残った金で、当分耽溺してばかりいたので、とうとう新任の少佐も、余儀なくおれに譴責をくわしたくらいだ。まあ、こうして、中佐は無事に官金を引き渡したので、みんなびっくりしてしまったのさ。だって、その金が纒って中佐の手もとにあろうとは、誰ひとり想像しなかったからなあ。しかし、引き渡すと同時に病みついて、三週間ばかり床についていたが、とつぜん、脳血栓を起して、五日のうちに亡くなってしまった。まだ予備の辞令を受ける暇がなかったので、軍葬ということになった。カチェリーナは姉や伯母とともに、父の葬いをすますやいなや、十日ばかりだつと、モスクワへ向けて出発した。ところが、その出立の前(といっても、それと同じ日なんだ。おれはその後会いもしなければ、見送りにも行かなかった)、おれは小さな封筒を受け取った。青いすかし入りの紙に、鉛筆でたった一行、『そのうちに手紙をさしあげます、お待ち下さい。K』と、これだけ書いてあった。
 もうこれからは簡単に説明するよ。一切の事情が、モスクワで稲妻のような速度と、アラビヤ夜話のような意外さをもって、がらりと一変してしまったのだ。あのひとのおもな親戚にあたる将軍夫人が、突然一ばん近い相続者を一時に二人まで亡くしてしまった。その二人は将軍夫人の姪なんだが、両方とも同じ週に天然痘で死んだのだ。取り乱して前後を失った夫人は、親身の娘がなんぞのように、カーチャの上京を喜んで、まるで救いの星でも見つけたように、飛びかかったのさ。そして、さっそくあのひとのために遺言状を書き換えちゃった。が、それは先になってからの話で、当分の手当として八万ルーブリだけ手渡して、さあ、これがお前の持参金だから、どうとも好きなようにおしと言ったそうだ。実際、ヒステリイ質の婦人だよ、おれはその後モスクワへ行って、自分で観察したがね。で、おれはだしぬけに四千五百ルーブリの金を為替で受け取った。もちろん、不思議でたまらないから、びっくりして唖のようになっていたよ。三日たってから約束の手紙も着いた。その手紙は今でもおれのところにある。いつもおれの肌身についてるのだ、死ぬる時も一緒だ、――お望みなら見せてもいいよ。いや、ぜひ読んでくれ。結婚を申し込んだんだ、自分で自分の体を提供したんだ。
『わたしは気ちがいのように恋しています。あなたがわたしを愛して下さらなくてもかまいません。どうぞわたしの夫になって下さい。しかし、お恐れになることはありません。わたしはどんなことがあっても、あなたを束縛はいたしません。わたしはあなたの道具です、あなたの足に踏まれる絨毯でございます……わたしは永久にあなたを愛しとうございます、あなたをあなたご自身から救って上げたいのでございます……』
 アリョーシャ、おれはこの手紙を、自分の陋劣な言葉や、陋劣な調子で伝える資格がない。おれのもちまえの陋劣な調子はどうしても直すことができないのだ! この手紙は今日にいたるまでおれの胸を刺すのだ。一たいお前は、今おれが気楽だと思うかい、今日おれが気楽でいると思うかい? その時おれはすぐ返事を書いた(どうしても自分でモスクワへ出向くわけにいかなかったのだ)。おれは涙ながらにその返事を書いた。ただ一つ、いつまでも恥しいと思うことがある。ほかでもない、その手紙に、あなたはいま金持で持参金つきの花嫁さんなのに、私は一介の貧乏士官だと書いたのだ、金のことなんか言ったのだ。そんなことは胸一つにおさめておくべきだったのに。つい筆がすべっちゃったんだ。それと同時にモスクワにいるイヴァンヘ手紙を送って、できるだけ詳しく一切の事情を説明してやった。何でも書簡箋六枚からあったよ。こうしてイヴァンをあのひとのところへやったのだ。お前、何だってそんな目をして見てるんだい? そりゃイヴァンは本当にあのひとに惚れ込んじまったさ。そして今でもまだ惚れてるよ。なるほど世間の目から見て、おれのしたことが馬鹿げているのは、自分でも承知している。しかし、今となってはこの馬鹿げたこと一つだけが、われわれ一同を救ってくれるのかもしれないよ! あああ! 一たいお前はあのひとがどんなにイヴァンを崇拝し、尊敬しているかわからないのか? それに、あのひとがわれわれ二人をくらべてみて、おれのような人間を愛することができるものかね。おまけに、ここであんなことがあった挙句にさ。」
「あのひとは兄さんのような人を愛します、決してイヴァンのような人じゃありません、それは僕、かたく信じていますよ。」
「あのひとは自分の善行を愛してるので、おれを愛してるんじやない。」突然ドミートリイはわれともなく、ほとんど毒々しい調子でこう口をすべらした。彼は声高に笑いだしたが、一瞬の後その目がぎらぎらと輝きだした。彼は真っ赤になり、拳を固めて力まかせにテーブルを打った。
「おれは誓って言うぞ、アリョーシャ」と彼は自分自身に対するもの凄い、真剣な憤怒を現わしながら叫んだ。「お前が本当にしようとしまいと勝手だが、神聖なる神にかけて、主キリストにかけて誓う、おれは今、あのひとの高潔な感情を冷笑したが、おれの魂があのひとのにくらべて百万倍もやくざだってことは、自分でもちゃんと承知してる。あのひとのそうした立派な感情は、天使の心と同じように真実なものだ! おれはそれをちゃんと知っている。そして、この中に悲劇がふくまれてるのだ。しかし、人間が少しばかり朗読めいた口のきき方をしたって、一たいどこが悪いのだ? 実際おれは朗読しただろう?しかし、おれは真剣なのだ、まったく真剣なのだ。ところで、イヴァンのことになると、あれが今、自然に対してあんな呪いをいだくのも無理はないと思う。それに、あれだけの頭があるんだからなおさらだ! 実際、選まれたのは應だと思う、何ものだと思う? 選まれたのはこのやくざ者なんだ、もう許婚の夫ときまっていながら、ここでみんなの見ている前で、もちまえの淫蕩を抑制することのできないやくざ者なんだ、――しかも、それを許嫁の目の前でやるんだからなあ! こういうやくざ者が選まれて、イヴァンが斥けられたんだ。ところで、それは一たい何のためだと思う? ほかでもない、立派な令嬢が感謝のあまりに、自分で自分の一生を手籠めにしようと思ってろからなんだ! 実に愚かな話だ! おれはこんな意味のことを一度もイヴァンに話したことがないし、イヴァンのほうだってもちろんおれに向って、一言半句も、そんなことを匂わしたことはない。しかし、そのうちに運命の摂理で、価値あるものは相当の席に直って、価値なきものは永久に人生の露地へ隠れるのだ、――自分の気に入った、自分に相当した汚い露地の中へ隠れて、泥濘と悪臭の中で、満足と悦びを感じながら亡びてゆくのだ。おれは何だかわけのわからないことを、考えもなしに喋ってしまった。おれの言葉はどれもこれも、みんな使い古されてしまってる。しかし、いま断言したことは必ず実現されるよ。おれは露地へ隠れてしまって、あのひとはイヴァンと結婚するんだ。」
「兄さん、ちょっと待って下さい」とアリョーシャは一方ならぬ不安の面もちで遮った。「兄さんが今まではっきり説明してくれなかったことが一つありますよ。ほかじゃありませんが、兄さんは婚約の夫でしょう、何と言ってもそれに違いないのでしょう? もしそうだとすると、相手の婦人が望んでもいないのに、縁を切ってしまうなんてことがどうしてできますか?」
「そうだ、おれは立派に祝福を受けた正式の許婚だ。これはおれがモスクワへ行ったとき、正式に堂々と聖像の前で行われたのだ。将軍夫人が祝福してくれたのさ、――そしてどうだろう、カーチャにお祝いまで言ったよ、お前はよい婿を選んだ、わたしにはこの人の腹の底まで見すかせるってね。そして、奇妙な話だが、イヴァンは夫人の気に入らないで、お祝いも言ってもらえなかったのだよ。おれはモスクワでいろいろカーチャと話し合って、公明正大に、自分の全人格を偽ることなく正確に説明してやった。あのひとはじっと聞いていたが、

  その顔に優しき惑い
  その口に愛しき言葉……

いや、言葉は厳かなものだったよ。あのひとは、その時おれに、ぜひ身持ちを改めるという大誓言を立てさせた。で、おれは誓ったのだ。ところが……」
「どうしました?」
「ところが、おれは今日お前を呼んで、ここへ引っ張り込んだ(今日という日を覚えていてくれ!)しかも、それは今日、やはり今日だぞ、お前をカーチャのところへやって、そして……」
「どうするんです?」
「あのひとにそう言ってもらうためなんだ、おれはもう決して行かないから、どうかよろしくって。」
「えっ、一たいそんなことがあっていいものですか?」
「あってよくないからこそ、お前を代りにやるのだ。どうしておれ自身あの人にそんなことが言えるものかね?」
「そして、兄さんはどこへ行くんです?」
「露地へさ。」
「それはグルーシェンカのことですか?」アリョーシャは手を拍ちながら、悲しげに叫んだ。「じゃ、ラキーチンの言ったことは本当なのかしら? 僕、兄さんはちょっと行ってみただけで、もうおしまいになったんだろう、と思っていました。」
「許嫁のある男が、あんな女のところへ行っていいものかい? そんなことができるかい、しかも、許嫁のいるところで? みんなの見ているところで? おれにだって廉恥心はあるからなあ。つまり、グルーシェンカのところへ行き始めるとすぐ、おればもう許嫁の夫でもなければ、潔白な人間でもなくなっちまったんだ。それは自分でもわかってるよ。何だってお前そんな目をするんだい? 全体おれは最初ただあの女をぶん殴りに行ったのだ。なぜって、親父の代理人をしているあの二等大尉のやつが、おれの名義になっている手形をグルーシェンカに渡して、おれが閉口して手を引くように告訴してくれと頼んだと、こういう噂がおれの耳に入ったからなんだ。これが確かな話だってことは、今でもわかってるのだ。みなでおれを脅かそうと思ったのさ。で、おれはグルーシェンカをぶん殴りに出かけた。その前におれはちらりとあの女を見たことがある。けれど、べつに心にもとまらなかった。例の老ぼれ商人のことも知っていた。こいつはいま病気のため弱り込んで寝ているが、とにかく大分の金をあの女に残してるそうだ。それからまた、あの女が金儲けが好きで、すごい利息で金を貸しては、どんどんふやしていることも、慈悲も情けもない悪党の詐欺師だって話も聞いていた。で、おれはぶん殴りに出かけたが、そのまま女の家にみ輿をおろしてしまった。つまり、雪に打たれたんだ。ペストにかかったんだ、そのとき一度感染したきり、もう落ちっこはありゃしない。で、おれも悟っちまった、このさき決してどうにも変りようはない、時の循環が成就したのだ。まあ、こういった事情さ。ところがちょうどその時、おれのような乞食のかくしに、誂えたように三千ルーブリの金があった。おれは女と一緒に、ここから二十五露里(わが七里)離れたモークロエ村に押し出して、ジプシイの連中を集めるやらシャンパンを取り寄せるやらして、村の百姓にも女房にも娘にも、みんなにシャンパンを振舞って、何千という金を撒いたのだ。三日たつと、もう丸裸になったが、しかし気分は鷹のようだったよ。ところで、お前はその鷹が、何か目的を達したと思うがい? どうしてどうして、遠方から拝ましてももらえないのだ。ただ曲線美とでも言うかな。グルーシェンカの悪党には、一つ何とも言えない肉体の曲線美があるんだ。それが足にも、左足の小指の先にも現われている。そいつが目について接吻した。それっきりだ、――本当の話だよ! あの女が言うには、『お望みならお嫁にも行きましょうが、だって、あんたは乞食同様の身分じゃなくって。もしあんたが決してわたしをぶちもしなければ、またわたしのしたいことを何でもさせてくれたら、そのときはお嫁に行くかも知れないわ』と言って笑ってるのさ。そして、今でもやはり笑ってるんだ!」
 ドミートリイは猛然として座を立った。彼は、とつぜん酔っ払いみたいになって、両眼は急に血走ってきた。
「兄さんは本当にそのひとと結婚する気なんですか?」
「向うでその気になれば、すぐにもするし、いやだと言えばそのまま居残っててやる。あの女の家の門番にでもなるさ。お前……お前……アリョーシャ」と、彼はとつぜん弟の前に立ちどまって、その肩に両手をかけ、力を籠めてゆすぶり始めた。「お前のような無垢の少年には、わからないかもしれんが、これは悪夢だ、意味のない悪夢だ。そして、この中に悲劇があるのだ。なあ、アリョーシャ、おれは卑しい人間かもしれないが、しかし、ドミートリイ・カラマーゾフは、決して泥棒や、掏摸や、掻っ払いになり下るはずがないだろう。ところが、今こそぶちまけてしまうけれど、おれは泥棒なんだ、掏摸なんだ、掻っ払いなんだ! ちょうどグルーシャをぶん殴りに出かける前、その日の朝カチェリーナがおれを呼んで、当分だれにも知らさないように秘密にしてくれ、と言って(何のためかし