京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集10 悪霊 下』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP193-217

 全体として、彼はしじゅう勝ち誇ったような状態になっていた。彼女は山上の垂訓を通読した。
「Assez, assez, mon enfant(たくさんだ、たくさんだ、わが子よ)たくさんです……いったいあなたはこれだけ[#「これだけ」に傍点]でも不十分だと思うんですか?」
 彼はがっかりと、力抜けがしたように目を閉じた。非常に衰弱していたが、まだ意識を失うにはいたらなかった。ソフィヤは、彼が寝入ったものと思って、そっと立ちあがろうとしたが、彼はいきなり呼び止めた。
「|わが《マ》友《アミ》よ、わたしは一生涯うそばかりついていた、――本当をいってる時でさえ、そうなんだ。わたしは今まで一度も、真理のためにものをいったことがない、いつも自分のためばかりです。わたしはいつでもそれを承知していた。しかし、本当にそれを感じたのは、今がはじめてです……おお、わたしが一生のあいだ、自分の友情をもって侮辱した親友たちは、今、どこにいることだろう? みんなそうだ、だれもかれもそうなのだ! |でもねえ《サヴェーヴー》、わたしは今でも嘘をついてるかもしれませんよ。いや、きっと今も嘘をついてるに相違ない。何よりいけないのは、嘘をつきながら、自分からさきに立って、それを本当にすることです。人生で何よりもむずかしいのは、嘘をつかないで生きることだ……ことに、自分自身の嘘を本当にしないことだ。ええ、ええ、まったくそのとおり。が、まあ待ってください、それは後にしましょう……わたしたちはいっしょにいましょう、ね、いっしょにいましょうね!」と彼はうちょうてんになっていい足した。
「スチェパン様」とソフィヤはおずおずたずねた。「町へお医者さまを呼びにやったらどうでしょう?」
 彼は仰天してしまった。
「なんのために? Est-ce que je suis si malade? Mais rien de se'rieux.(いったいわたしはそんなに悪いんですか? なに大したことはないんです)それに、縁もない他人を呼んで、どうするのです? もし人に知れたら、――その時はどうします? いや、いや、他人なぞだれもいらない。わたしたちは二人きりでいましょう、二人きりで!」
「ところで」しばらく無言ののち、彼はまたいい出した。「も一つ何か読んで聞かしてください。でたらめに、なんでも目に入ったところを」
 ソフィヤは本を開いて、読み始めた。
「どこでも偶然あいたところを、偶然あいたところを」と彼はくり返した。
「『なんじラオデキヤの教会の使者に書きおくるべし……』」
「それはなんです? なんです? いったいどういうところです?」
「これは黙示録でございます」
「O, je m'en souviens, oui, l'Apocalypse. Lisez, lisez.(ああそうだ、思い出した、黙示録です、読んでください、読んでください)わたしはその本で、二人の未来を占ってるんですよ。だから、どんな占いが出たか知りたい。早く使者のところから読んでください。使者のところから……」
「『なんじラオデキヤの教会の使者に書きおくるべし、アーメンたるもの、忠信なるまことの証者、神の造化の初めなるもの、かくのごとくいうと、曰く、われなんじの行ないを知れり。なんじすでにぬるくして、冷ややかにも非ず熱くも非ず。われはむしろ汝が冷ややかならんか熱からんかを願う。かく熱きにも非ず冷ややかにも非ず、ただぬるきがゆえに、われなんじをわが口より吐き出《いだ》さんとす。なんじみずからわれは富みかつ豊かになり、乏しきところなしといいて、実は悩めるもの、憐むべきもの、また貧しく、めしい、裸なるを知らず』」
「それも……あなたの本にあるんですか!」枕から頭を持ち上げて両眼を輝かせながら、彼はこう叫んだ。「わたしは今までこの偉大な章を、少しも知らずにいましたよ! まったくですね、なま温《ぬる》いよりはむしろ冷たいほうがいい。単に[#「単に」に傍点]なま温いよりは、むしろ冷たいほうがいいです! ああ、わたしはそれを証明します! ただ見捨てないでください、わたしを一人きりおいて行かないでください! わたしたちはそれを証明しなきゃなりません、証明しなきゃ!」
「わたしはこのとおり、あなたを見捨ててやしないじゃありませんか、スチェパン様、それに、けっして見捨てはいたしません!」涙の目で彼を見つめながら、その手を取って握りしめると、自分の胸へ持っていった(その時は、あの方がおかわいそうでたまらなかったものですから、と彼女は後でこう語った)。
 彼の唇は引っ吊ったように慄えた。
「けれど、スチェパン様、それはそれとしても、いったいどうしたものでございましょう? だれがあなたのお知り合いかご親戚に、お知らせしなくてよろしいでしょうか?」
 しかし、彼の驚きようがあまり烈しかったので、またもやこんなことをいい出さなければよかったと、彼女は後悔したほどである。彼は戦々兢々たる面もちで、どうかだれも呼ばないように、何事も企てないようにしてくれと、祈らないばかりに頼んだ。彼女の誓いを聞いてからも、まだしつこくくり返した。
「だれも、だれも呼ばないで! わたしたちは二人きりでいましょうね、本当に二人きりで、nous partirons ensemble(二人でいっしょに出発しましょう)」
 またもう一つ都合の悪いことには、主人夫婦が同様に心配を始めて、ぶつぶついいながらソフィヤを責め出した。彼女は夫婦に払いをして、なるべく金を見せるように努めた。これが一時事態を緩和したが、しかし、亭主はスチェパン氏の『免状』を見せろといい出した。病人は傲慢な微笑を浮かべながら、自分の小さなカバンを指さした。ソフィヤはその中から彼の退職辞令か何か、そんなふうのものをさがし出した。彼は一生これで押し通してきたのである。亭主はそれでもなかなか得心しないで、『どこでもいいから、あの方を早く引き取ってもらいたい。ここは病院じゃないのだから。もし亡くなるようなことでもあったら、どんな面倒が起こらないともかぎらぬ。それこそ迷惑な話だから』というのであった。ソフィヤは亭主にも医者のことを相談してみたが、もし「町の」医者を迎えにやったら、それこそたいへんな金がかかるということなので、医者の件はいっさい断念しなければならなかった。彼女は愁然として病人のところへ帰った。スチェパン氏はしだいに衰弱するのみであった。
「今度はもう一度あの……豚のところを読んで聞かしてください」とつぜん彼はこういった。
「なんですって?」とソフィヤは恐ろしく面くらった。
「豚のところです……それはあの……|あの《セ》豚《コション》ですよ……わたしも覚えています、悪鬼が豚の中に入ってみんな溺れてしまったという話。ぜひそれを読んで聞かせてください。なんのためかってことは、後で話しますよ。わたしは一字一字おもい出したいのです。一字一字……」
 ソフィヤは福音書をよく知っていたので、すぐルカ伝の中からその場所をさがし出した。それは、この物語の題銘としてかかげた章である。わたしはもう一度ここへ引用しよう。
『ここに多くの豚のむれ山に草をはみいたりしが、彼らその豚に入らんことを許せと願いければ、これを許せり。悪鬼その人より出て、豚に入りしかば、そのむれ激しく馳せくだり、崖より湖に落ちて溺る。牧者《かうもの》どもそのありしことを見て逃げ行き、これを町また村々に告げたり。ひとびとそのありしことを見んとて、出《いで》てイエスのもとに来れば、悪鬼の離れし人|衣《きもの》を着け、たしかなる心にてイエスの足下に坐せるを見て、おそれあえり。悪鬼に憑かれたりし人の救われしさまを見たる者、このことを彼らに告げければ』
「|わが《マ》友《アミ》よ」スチェパン氏はなみなみならぬ興奮の体でいった。「|ねえ《サヴェー》、|あなた《ヴー》、この驚嘆すべき……非凡な一章は、わたしにとって一生の間、dans ce livre(この本における)つまずきの石だった……だから、わたしはもう子供の時分から、ここのところをおぼえ込んでいましたよ。ところが、今ある一つの思想が une comparaison(一つの比喩)が浮かんできました。いまわたしの頭には恐ろしくたくさんな思想が浮かんで来るのです。ねえ、これはちょうどわがロシヤの国そのままです。この病める者から出て豚に入った悪鬼どもは、何百年の間、わが偉大にして愛すべき病人、すなわち、わがロシヤの国に積もり積もったありとあらゆる疫病です、黴菌です、不潔物です。ありとあらゆる悪鬼です、悪鬼の子です! Oui, cette Russie, que j'aimais toujours(そうです、これはわたしの常に愛していたロシヤです)しかし、偉大な思想、偉大なる意志はちょうどその憑かれた男と同じように、わがロシヤをも高みから照らすに相違ない。すると、この悪鬼や悪鬼の子や、上っ皮に膿を持ったあらゆる不潔物は、すっかり外へ追い出されてしまって……豚の中へ入らしてくれと、自分のほうから願うのです。いや、ことによったら、もう入ってしまったかもしれません! それはつまりわれわれです。われわれと、そしてあの連中です。ペトルーシャもそうです、et les autres avec lui.(彼に従うほかの連中もそうです)或いはわたしなぞその親玉かもしれない。わたしたちはみんな悪鬼に憑かれて、狂い廻りながら崖から海へ飛び込んで、溺れ死んでしまうのです。それがわれわれの運命なのです。われわれはそれくらいの役にしか立たない人間ですからね。しかし、病人は癒されて、『イエスの足もとに坐る』でしょう。そして、人々は驚きの目をもって、彼を眺めるに 相違ありません…… 〔che`re, vous comprendrez apre`s.〕(親愛なるものよ、あなたも後でわかるでしょう)が、今こういう話はあまりにわたしを興奮させる…… 〔vous comprendrez apre`s …… nous comprendrons ensemble〕(あなたは後でだんだんわかってきます……わたしたちもいっしょにわかって来るでしょう)」
 彼はやがて譫言をいうようになり、ついに意識を失ってしまった。こういう状態が翌日も続いた。ソフィヤはその傍に坐って、泣くばかりであった。彼女はもうこれで三晩寝なかった。亭主たちに顔を合わすのも、なるべく避けるようにしていた。彼らがとうとう何やら方法を講じ始めたらしいのは、彼女も直感的に気づいていた。三日目になってようやく救いの手が現われた。その朝、スチェパン氏はふと正気づいて、彼女の姿が目に入ると、そのほうへ手をさし伸べた。彼女は一縷の希望をいだきながら、十字を切った。彼は窓のほうが見たいといい出した。
「Tiens, un lac.(おや、湖だ)」と彼はいった。「ああ、どうしたんだろう。わたしは今まであれに気がつかなかった……」
 この瞬間、車寄せのほうでだれかの馬車の轍《わだち》が轟いた。そして、家の中に、一通りならぬ混雑がもちあがった。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 それは二人の侍僕にダーリヤを伴れて、四人乗り、四頭だての馬車で乗りつけた、ヴァルヴァーラ夫人その人であった。奇蹟はきわめて簡単に行なわれたのである。好奇心に燃え立ったかのアニーシムは、町へ着くとすぐ翌日、ヴァルヴァーラ夫人の家へ立ち寄った。そして、召使の者をつかまえて、たった一人っきりのスチェパン氏に村で出会ったこと、百姓たちが街道を一人とぼとぼかちで行く氏の姿を見受けたこと、ソフィヤといっしょにスパーソフをさして、湖尻《ウスチエヴォ》へ出立したこと、などをしゃべった。一方、ヴァルヴァーラ夫人は恐ろしく心配して、できるだけ手をつくして、出奔した友をさがしていたところなので、召使は即座にアニーシムのことを夫人に注進した。彼の物語を聞き終わると(彼がどこの馬の骨とも知れぬソフィヤとかいう女と一つ馬車に乗って湖尻《ウスチエヴォ》へ出立したくだりは、ことにくわしく根掘り葉掘りした)、彼女はすぐさま支度を整えて、まだ足跡の消えない湖尻《ウスチエヴォ》へ自身かけつけたのである。病気などとは、まだ夢にも知らなかった。
 いかめしい命令するような夫人の声が響きわたった。それは主人夫婦さえ慄えあがるような勢いだった。夫人は、スチェパン氏がもうとうにスパーソフに着いていると思い込んでいたので、ここに車を留めたのも、ただいろいろなことを聞くだけの目的にすぎなかったのである。彼が病気してここに寝ていると聞くと、夫人は興奮のさまで家へ入った。
「さあ、あの人はどこにいるんです? ああ、お前さんがそうだね!」ちょうどこの時、奥の間の閾の上に現われたソフィヤを見つけると、夫人はいきなりこう叫んだ。「そのいけしゃあしゃあした顔つきで、お前さんだということがわかったよ。出て行け、淫乱もの! 今からこの家《うち》の中に、あの女の匂いがしても承知しないから! 追ん出しておしまい。ぐずぐずしてるとね、お前さん、一生、牢の中へぶち込んでしまうよ。しばらくこの女をほかの家へ入れて番をしておいで。あの女は前にも町の牢に入っていたが、もう一ど入れてやるのだ。それから、お前が亭主かい? お前さんに頼んでおくがね、わたしがここにいる間は、だれひとり入れても承知しないよ。わたしはスタヴローギン将軍夫人です。わたしはこの家をすっかり借り切ります。ところでね、お前さんは何もかもすっかり白状するんだよ」
 聞き馴れた夫人の声音《こわね》は、スチェパン氏を顛倒さしてしまった。彼はがたがた慄え出した。しかし、夫人は早くも仕切り板の中へ入ってきた。目をぎらぎらと光らせながら、彼女は足で椅子を引き寄せて、ぐっとその上にそり返り、ダーリヤにどなりつけた。
「しばらくあっちへ行って、亭主のところにでも坐っておいで。なんて好奇心の強い子だろう! そして、出たら、戸をしっかりと閉めておおき」
 ややしばらく夫人は無言のまま、兇猛な目つきで彼のおびえたような顔を見まもっていた。
「え、ご機嫌はいかがでございます、スチェパン様? ご遊山はいかがでございました?」烈しい皮肉が、夫人の唇をおし破って出てきた。
「|あなた《シエール》」とスチェパン氏はわれを忘れていった、「わたしはロシヤの実際生活を知りました…… 〔et je pre^cherai l'Evangile〕(わたしは福音を宣伝するつもりです……)」
「おお、なんという恥知らずの、下劣な人でしょう!」とつぜん夫人は両手を鳴らしながら、金切り声を上げた。「あなたは、わたしの顔に泥を塗っただけで足りないで、あんな女と……おお、この老いぼれた、恥知らずの淫乱男!」
「|あなた《シエール》……」
 彼はもう声が切れて、それ以上なにもいうことができなかった。ただ恐怖のあまり、目を見張りながら、じっと相手の顔を見つめるばかりであった。
「いったいあの女[#「あの女」に傍点]は何者です ?」
「C'est un ange …… 〔c'e'tait plus qu'un ange pour moi〕(あれは天使です……わたしにとっては天使以上の人でした)あのひとは一晩じゅう……ああ、どうかどならないでください、あの女を脅かさないでください、|あなた《シエール》、|あなた《シエール》……」
 ヴァルヴァーラ夫人は、ふいに椅子をがたがたいわせながら、跳びあがった。そして、「水を、水を」という夫人のおびえたような声が響きわたった。彼はすぐ正気に返ったけれど、夫人は恐怖のあまり依然わなわな慄えていた。そして、真っ青な顔をしながら、彼のひん曲ったような顔を見つめていた。このとき初めて夫人は、彼の病気が容易ならぬことを悟ったのである。
「ダーリヤ」夫人は出しぬけにダーシャにささやいた。「すぐ、お医者を迎いにやってちょうだい、ザリツフィッシュをね。さっそくエゴールイッチをやっておくれ。馬はここで雇って、町へ行ったら、もう一台馬車を引っ張って来るといい。なにがなんでも、晩までに帰って来なきゃならないんだからね」
 ダーシャは命を行なうべく飛んで行った。スチェパン氏は相変わらず、おびえたように目を見はりながら、じっと夫人を見つめていた。あおざめた唇はわなわな慄えていた。
「待ってちょうだい、スチェパン・トロフィーモヴィチ、待ってちょうだいね、いいでしょう!」夫人はまるで子供でもあやすようにいった。「ね、待ってちょうだい、今にダーリヤが戻って来たら……ああ、どうしたらいいんだろう、おかみさん、おかみさん、まあ、ちょっと、あんたでもいいから来てちょうだい、ねえ!」
 夫人はじりじりしながら、主婦のほうへ駆け出した。
「すぐ、今すぐあの女[#「あの女」に傍点]をもう一ど呼び返して。あの女を引き戻すんですよう!」
 幸いソフィヤはまだ家を出きらないで、例の袋と風呂敷包みを持って、ちょうど門を出かかっているところだった。人人は彼女を呼び返した。彼女は極度の驚愕のために、手足さえわなわな慄わしていた。ヴァルヴァーラ夫人は、鳶が雛っ子でもつかんだように彼女の手を取って、しゃにむにスチェパン氏のところへ引っ張って来た。
「さあ、このひとをあなたにお返ししますよ。ね、わたしだって、このひとを取って食やしなかったでしょう? あなたは本当に、わたしが取って食ってしまったと、考えてらしったんでしょう?」
 スチェパン氏はヴァルヴァーラ夫人の手を取って、自分の目へ押し当てると、そのままさめざめと泣き出した。病的な調子で発作でも起こったようにすすり上げながら。
「さあ、お落ちつきなさい、お落ちつきなさい。ね、いい子だから、ね、スチェパン・トロフィーモヴィチ! ああ、どうしたらいいのだろう、本当に気を落ちつけてちょうだいよう!」と、夫人はやけに叫んだ。「ああ、あなたはどこまでわたしを苦しめるんです。永久にわたしを苦しめるつもりなんですね!」
「ソフィヤさん」ようやくスチェパン氏はこうつぶやいた。「あなたお願いですから、ちょっとあっちへ行ってくれませんか、少し話があるんですから……」
 ソフィヤはすぐに大急ぎで座をはずした。
「|親愛な人《シェリー》……|親愛な人《シェリー》……」と彼は喘ぎ喘ぎいった。
「まあ、しばらく話をしないでいらっしゃい、スチェパン・トロフィーモヴィチ。少し待って。しばらくお休みなさいよ。さあ、水をあげましょう。あら、お待ちなさいというのに!」
 夫人はふたたび椅子に腰を下ろした。スチェパン氏はしっかりその手を握っていた。夫人は長いこと彼にものをいわせなかった。彼は夫人の手を唇へ押し当てて、続けさまに接吻を始めた。夫人はどこか隅のほうに目をそらしながら、じっと歯を食いしばっていた。
「Je vous aimais.(わたしはあなたを愛していた!)」という声が、ついに彼の唇を破って出た。夫人は今まで一度も彼の口から、こんな言葉が発しられたのを聞いたことがなかった。
「ふむ!」と夫人は返事の代わりに呻くような声を出した。
「Je vous aimais toute ma vie ……vingt ans!(わたしは一生涯あなたを愛していた……二十年間!)」
 夫人は依然として押し黙っていた――二分、三分。
「じゃ、どうしてダーシャと結婚する気になりました。香水なんかふりかけて……」とつぜん夫人はもの凄い声でこうささやいた。スチェパン氏はもうぼっとしてしまった。
「新しいネクタイまで締めて……」
 またもや二分ばかり沈黙がおそうた。
「シガーをおぼえてますか?」
「|あなた《シェル》」彼は恐怖のあまり、何やら口の中でいおうとした。
「シガーをあの晩、窓の傍でふかしたでしょう……月の照っている晩……あずまやで別れた後で……そら、スクヴァレーシニキイで……え、おぼえてますか、おぼえてますか?」彼の枕の両隅をつかんで、頭といっしょにゆすぶりながら、夫人は椅子から飛びあがった。「おぼえてますか、ああ、なんという内容《なかみ》のからっぽな、意気地のない、気の狭い人だろう! あなたは永久に、永久に空っぽな人なんです!」夫人はやっとのことで声を殺しながら、例の獰猛な調子でささやくのであった。やがてその手を放すと、ぐたりと椅子の上に倒れ、両手で顔をおおうた。「たくさん!」急にきっとなって、夫人は断ち切るようにいった。「二十年も過ぎてしまった。もう呼び返すわけにはいきゃしない。わたしも馬鹿なんです」
「|わたしはあなたを愛していた《ジュヴーゼーメー》」と彼はまた手を合わせた。
「まあ、なんだってあんたはわたしにのべつ|愛していた《エーメー》、|愛していた《エーメー》っていうんでしょう! たくさん!」と夫人はまたもや躍りあがった。「あんた、もし今すぐ寝てしまわなかったら、わたしはもう……あんたには休息が必要なんです。おすやみなさい[#「おすやみなさい」はママ]、今すぐおやすみなさい、目をつぶっておしまいなさいよ。ああ、どうしよう、この人は食事をしたいのかもしれない! あんた何をおあがりになるの? この人は何をあがるの? ああ、どうしよう、あの女はどこにいるんだろう? あの女はどこにいるの?」
 また一しきり混雑が始まった。けれど、スチェパン氏は弱弱しい声で、実際、自分はちょっと休んでから、その後で、〔un bouillon, un the' …… enfin il est si heureux〕(スープとお茶がほしい……要するに自分は実に幸福だ)と、つぶやくようにいった。彼は横になった。そして、本当に一寝入りしたように見えた(たぶん真似だけなのだろう)。ヴァルヴァーラ夫人はしばらくじっとしていたが、やがて爪立ちで仕切り板の外へ出た。
 夫人は亭主夫婦の部屋に陣取って、二人のものを追い出した後、ダーシャに向かって、あの女[#「あの女」に傍点]を連れて来るようにいいつけた。やがて、ものものしい訊問が始まった。
「さあ、お前、これから何もかも、すっかり詳しく話してお聞かせ。まあ、傍に坐るがいい、そう、そう。で?」
「わたくしがスチェパンさまにお目にかかったのは……」
「ちょっとお待ち、ちょっとおやめ、前もって断わっておくがね、もしお前が何か嘘をついたり、隠し立てをしたりすると、わたしは草を分けてもお前をさがし出して、きっとそれだけのことをするから。さあ、それから?」
「わたくしはスチェパンさまと……わたくしがハートヴォヘ着きますとすぐ……」ソフィヤは、はあはあ息を切らしていた。
「お待ち、ちょっとおやめ、黙っておいでというのに。何をぺちゃくちゃいい出すんだろう。まあ、第一に、お前はいったい何者だえ?」
 こちらはへどもどしながら(それでも要領よく、掻いつまんで)、例のセヴァストーポリを冒頭《まくら》にして、自分の身の上話を始めた。夫人は椅子の上に身をそらせて、いかつい目つきでじっと穴の明くほど相手の顔を見つめながら、無言のまま聞いていた。
「なんだってお前そんなにびくびくしてるの? なんだって下のほうばかり見てるの? わたしはね、わたしをまともに見つめて議論するような人間が好きなんだよ。さあ、つづけてお話し」
 彼女は二人の邂逅から聖書のこと、スチェパン氏が百姓の女房にウォートカを振る舞ったことまで、物語った。
「そうそう、どんなささいなことでも忘れないように」とヴァルヴァーラ夫人はその話し振りを賞した。ついに物語は、二人がハートヴォを立ったこと、スチェパン氏が『もうまるで病人のように』しゃべりつづけたこと、ここへ来て自分の一生をそもそもの初めから、数時間にわたって話したことに及んだ。
「その身の上話もいってごらん」
 ソフィヤは急に言葉につまって、すっかり窮してしまった。
「そのことにつきましては、何一つお話ができません」彼女はほとんど泣き出さないばかりで、こう答えた。「それに、なんにもわからなかったのでございます」
「馬鹿をおいいでない! なんだってわからないはずはないじゃないか」
「なんですか、ある一人の髪の黒い貴婦人のことを、長いあいだ話していらっしゃいました」ソフィヤは恐ろしく顔をあかくした。もっとも、ヴァルヴァーラ夫人が亜麻色の髪をしていることも、『あのブリュネット』と少しも似たところがないのにも、ちゃんと気がついたけれど……
「髪の黒い女? いったいなんのことだえ? まあ、話してごらん!」
「なんでもその貴婦人は一生、――まる二十年の間、あの方をたいへん恋していらっしったそうでございますが、自分があまり肥えているのを恥ずかしくお思いになって、あの方にうち明ける勇気がなかったとかいう……」
「馬鹿な人だ!」ヴァルヴァーラ夫人はもの思わしげな、とはいえ、きっぱりした調子で、断ち切るようにいった。
 ソフィヤはもう本当に泣いていた。
「わたくしもう何一つ、うまくお話することができません。だって、わたくしあの方のお身の上を、一生懸命に心配していましたので、それに、あの方はああいう賢い人でいらっしゃいますので、わたくしどうしても合点がまいりませんでした」
「あの人の知恵がどうこうということが、お前のような間抜けにわかってたまるものかね。お前にいい寄りはしなかったかえ」
 ソフィヤはがたがた慄え出した。
「お前に惚れ込みはしなかったかえ? 真っすぐにいっておしまい! お前にいい寄りはしなかった?」とヴァルヴァーラ夫人はどなりつけた。
「もう大方そのとおりと申して、よろしいくらいでございました」と彼女は泣き出した。「ですけれど、あの方はご病気なのでございますから、そんなことはなんの意味もないことだとぞんじました」きっと目を上げながら彼女はこうつけ足した。
「お前はなんというのだえ、名前と父称《ふしょう》は?」
「ソフィヤ・マトヴェーヴナでございます」
「なるほど、それでは教えてあげるがね、お前、ソフィヤ・マトヴェーヴナ、あの人は世界じゅうで一番やくざな、一番からっぽな人間なんだよ……ああ、どうしたらいいのだろう!……お前はわたしをやくざな女とお思いかえ?」
 こちらは目をまんまるくした。
「やくざな女だとお思いかえ? あの人の一生を台なしにした暴君だとお思いかえ?」
「まあ、あなたご自身泣いていらっしゃるのに、どうしてそんなことがございましょう!」
 ヴァルヴァーラ夫人の目には、実際、なみだが浮かんでいた。
「まあ、お坐り、お坐りってば。そうびくびくしなくってもいいよ。もう一度まともにわたしの目をごらん。なんだって真っ赤な顔をするの? ダーシャ、こっちへおいで。ちょっとこの女をごらん、お前どうお思いだえ、この女は心のきれいな人間だろう……」
 驚いたことには(たぶんソフィヤはなおさら無気味だったに相違ない)、夫人はとつぜん彼女の頬をやさしく叩いた。
「ただ惜しいことには馬鹿だよ、――年がいもない馬鹿だよ。いいよ、ご苦労さま。わたしお前の面倒を見てあげるよ。これでわかった。そんなことはみんなくだらない、馬鹿馬鹿しい話だよ。まあ、当分わたしの傍で暮らすがいい。家も借りてあげるし、食扶持も何も、みんなわたしがしてあげる……まあ、後で呼ぶから」
 ソフィヤはびっくりして、自分はさきを急ぐからといいかけた。
「お前どこも急いで行くところなんかありゃしない。お前の本はみんな買ってあげるから、お前はここに落ちついてるがいい。いいから黙っておいで、言いわけはいっさいぬきにするんです。だって、もしわたしが来なかったら、お前だってやはりあの人を捨てて行きゃしなかったろう?」
「どんなことがあっても、捨てはしなかったでしょう」ソフィヤは涙を拭いながら、静かなしっかりした声でこういった。
 医師のザルツフィッシュが連れられて来たのは、もうだいぶ夜が更けてからだった。この人はきわめて声望のある老人で、かなり経験に富んだ医師であった。最近、上官と大それた争論をした結果、勤務上の位置を失ったが、ヴァルヴァーラ夫人はその瞬間から、一生懸命に彼を『保護する』ようになった。彼は仔細に病人を診察して、いろいろ容体をたずねた後、ヴァルヴァーラ夫人に向かって、病人の状態は併発症などのために、『きわめて危険』な徴候を示しているから、『もっと症状が進む』ものと覚悟しなければならぬ由を慎重に告げた。もう二十年の間、スチェパン氏の身がらから生じたことで、何にもせよ重大だとか、非常だとかいうようなことを想像する習慣を、ぜんぜん失ってしまったヴァルヴァーラ夫人も、今は心の底まで震憾されたような気がして、顔色さえ急にあおざめた。
「もうまったく望みがないのでしょうか?」
「全然すこしも望みがないということは、あるべきはずがございません。けれども……」
 夫人は夜っぴて床に入らないで、夜の明けるのを今か今かと待ちかねた。ようやく病人が目を開けて、初めて意識を回復したとき(もっとも、彼はしだいに衰えていったが、意識はしじゅう失わなかったので)、夫人は決然たる面もちで彼のそばへ寄った。
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、どんな場合に対しても覚悟が必要ですよ。わたしは坊さんを呼びにやりました。あなたは人間の義務を果たさなけりゃなりませんよ……」
 彼の不断の主義を知っていたので、夫人は彼の拒絶を無性に気づかっていたのである。彼はびっくりしたように夫人を見つめた。
「馬鹿げたこってす、馬鹿げたこってす!」早くも彼が拒絶しようとしているのだと思って、夫人は癇高い声で叫んだ。「今は冗談なんかいってる時じゃありません。悪ふざけはもうたくさんです」
「しかし……わたしはもうそんなに悪いんでしょうか?」
 彼は考え深そうな様子で承諾した。概して、彼はいささかも死を恐れるふうがなかったとのことである。わたしは後日この話をヴァルヴァーラ夫人から聞いて、すっかり驚いてしまった。もしかしたら、彼は自分が重態だということを信じないで、やはりいつまでも、ちょっとしたつまらぬ患いのように思っていたのかもしれない。
 彼は懺悔もすれば、聖餐もよろこんで受けた。一同は、――ソフィヤや召使までが彼のところへやって来て、神秘の啓示を祝うのであった。彼のげっそり落ち込んで衰え果てた顔や、あおざめてぴくりぴくりと慄える唇を見て、人々はみんないい合わせたように、忍びやかに泣き出した。
「|ねえ《ウィ》、|皆さん《メザミ》、あなた方がそんなに……あわてていらっしゃるのが、なんだか不思議に思われますよ。もしかしたら、明日にも床上げして、みんなで……出発するかもしれないんですよ…… 〔toute cette ce're'monie〕(こういう儀式はみんな)……いや、もちろん、わたしもこういうものに対して、相当の敬意を払ってはいます……しかし……」
「長老さま、お願いでございますから、どうか病人の傍にいてやってくださいまし」もう法衣《ころも》を脱いでしまった僧侶を、ヴァルヴァーラ夫人は急いで押し止めた。「皆にお茶が廻りましたら、すぐ信仰のお話を始めてくださいまし。それはあの人の信仰を繋ぐのに、ぜひ必要なのですから」
 僧侶は説教を始めた。人々は病人のベッドのまわりに、或いは坐り、或いは立っていた。
「今の罪深い時世におきましては」と僧侶は茶碗を手にしたまま、滑らかな調子で語り出した。「全能のおん神に対する信仰のみが、正しきものに約束せられた永遠の幸福の希望の中にあっても、またこの生のありとあらゆる悲しみと試練の中にあっても、人間にとって唯一の避難所なのでございます……」
 スチェパン氏はとみに生き返ったようであった。微妙な薄笑いがその唇をすべった。
「〔Mon pe`re, je vous remercie, et vous e^tes bien bon, mais〕 ……(神父さま、ありがとうございます、あなたは実にいい人です、しかし……)」
「しかしなんて、まるでいらないことです、しかしなんていうことは、少しもありません!」思わず椅子から腰を浮かしながら、ヴァルヴァーラ夫人は叫んだ。「長老さま」と夫人は僧侶のほうへ向いた。「この人は、この人はこんな人間なんでございます……この人はいつもこうなんでございます……この人は一時間も経ったら、もう一ど懺悔をし直さなければなりません! 本当にこの人はそういう人間なのです!」
 スチェパン氏はつつましやかにほほ笑んだ。
「|皆さん《メザミ》」と彼はいい出した。「神は永久に愛し得る唯一の存在だというだけの理由でも、わたしにとってなくてかなわぬものです……」
 はたして彼は本当に信仰を得たのか、または荘厳な神秘啓示の儀式が、彼の芸術家的感受性を震憾し刺戟したのか、その辺の消息はわからないが、とにかく彼はしっかりした調子で、非常な感動を籠めながら、以前の主張とまったく相反する言葉を発したのである。
「神は不正をなすことを欲しない、一どわたしの胸に燃え立った神に対する愛を、ぜんぜん消してしまうようなことを欲しない。すでにそれだけの理由でも、わたしの不死は必要なのです。ああ、はたして愛より優れたものがあるでしょうか? 愛は生存より優れたものです、愛は生存の栄冠です。してみれば、生存が愛の前に跪伏しない、というようなことがあり得るでしょうか? もしわたしが神を愛し、かつ自分の愛によろこびを感じたら、神がわたしという人間も、またわたしの愛も消滅さして、無に帰せしめるというようなことが、あり得るでしょうか? もし神があるなら、わたしはすでに不死なのです! 〔Voila` ma profession de foi〕(これがわたしの信仰宣言です)」
「神はありますよ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、わたしが請け合っておきます、本当にあるんですよ」とヴァルヴァーラ夫人は祈らんばかりだった。「せめて一生に一度ぐらい、あんな馬鹿馬鹿しい考えを棄てておしまいなさい、否定しておしまいなさい!」(夫人は彼の信仰宣言《プロフェッシオンドフォア》が充分にわからなかったらしい)。
「あなた」と彼はしだいに活気づいてきた、もっとも、声は始終とぎれがちであったが。「あなた、わたしはあの左の頬を向けよという意味を悟った時、わたしは……すぐにまたほかのあるものを悟りました。J'ai menti toute ma vie(わたしは一生嘘をついてきた)まる一生涯の間! しかし、わたしはできることなら……明日……明日はみんなで出発しましょう」
 ヴァルヴァーラ夫人は泣き出した。彼はだれやらさがすような目つきをした。
「ああ、ここにいます。あのひとはここにいますよ!」と夫人はソフィヤの手を取って、彼の傍へ引っ張って来た。彼は感に迫ったようにほほ笑んだ。
「ああ、わたしはできることなら、もう一ど生活がしてみたい」と、彼は異常な精力の潮来を感じながら叫んだ。「この世における一分一秒といえども、すべて人間にとって法悦でなくてはならぬ……そうです、ぜひそうなくてはならないのです! そういうふうにするのが、人間の義務です。それは法則です。隠れてはいるけれど、厳として存在している法則です……おお、わたしは、ペトルーシャや……ほかの仲間の連中が見たい……そしてシャートフも!」
 ついでに断わっておくが、シャートフのことはダーリヤもヴァルヴァーラ夫人も、一番あとから町を出たザルツフィッシュさえ、まだ少しも知らないでいたのである。
 スチェパン氏はしだいに病的になり、彼の力に堪えられないほど興奮してきた。
「どこかこの宇宙に、自分よりも遙かに正しく、かつ幸福な何ものかが存在しているということを絶えず考えてみるだけでも、わたしの心は限りなき歓喜と、――そして光栄にみたされる。ああ、わたしがどんな人間であろうと、わたしがどんなことをしようと、そんなことはもう問題じゃない! 人間は自分一個の幸福よりも、どこかに完成された静かな幸福が万人万物のために存在する、とこう自覚するほうが遙かに必要なのです……人類存在の法則は、ことごとく一点に集中されています。ほかでもない、人間にとっては、常に何か無限に偉大なものの前にひざまずくことが必要なのです。人間から無限に偉大なものを奪ったなら、彼らは生きてゆくことができないで、絶望の中に死んでしまうに相違ない。無限にして永久なるものは、人間にとって、彼らが現に棲息しているこの微小な一個の遊星と同様に、必要かくべからざるものなのです……|皆さん《メザミ》、偉大なる思想の万歳を唱えようじゃありませんか! 永久にして無限な思想! どんな人間でも、人はすべて偉大な思想の表われにひざまずくことが必要なのです。きわめて愚昧な人間でさえ、何か偉大なものを必要とします。ペトルーシャ……ああ、わたしはあの連中にもう一ど会ってみたい。彼らは自分たちの中にもやはりこの永遠の、偉大な思想が蔵されていることを知らないのだ、ぜんぜん知らないのだ!」
 医師のザルツフィッシュは、儀式の席にいあわさなかったが、とつぜん外から入って来ると、思わず慄然とした。そして、病人を興奮させてはいけないといって、一座のものを追い散らしてしまった。
 スチェパン氏はそれから三日たって暝目したが、その時はもうすっかり意識を失っていた。彼は燃え尽きた蝋燭のように、静かに消えて行った。ヴァルヴァーラ夫人はその場で葬送の式をすますと、不幸なる友の亡骸《なきがら》をスクヴァレーシニキイヘ伴って帰った。墓は教会の墓地に設けられて、大理石の板でおおわれた。碑銘と格子とは、春まで延期することになった。
 ヴァルヴァーラ夫人が町を離れていたのは、八日間であった。夫人といっしょに馬車を並べて、ソフィヤも町へやって来た。おそらく永久に、夫人のもとへ落ちつくことになるのだろう。ただちょっと断わっておくが、スチェパン氏が意識を失うと同時に(それはあの朝の出来事だった)、ヴァルヴァーラ夫人はすぐにまたソフィヤを遠ざけて、今度はまるきり家の外へ追い出してしまった。そして、最後までひとりで病人の看護をしたが、スチェパン氏が息を引き取ると同時に、さっそく彼女を呼び寄せたのである。永久にスクヴァレーシニキイヘ越して来いという勧め(というよりむしろ命令)を聞いて、彼女は恐ろしくびっくりして、言葉を返そうとしたが、夫人はそんなことに耳をかそうともしなかった。
「何もかも馬鹿げている! わたしは自分でお前さんといっしょに、聖書でも売って歩くつもりだ。もう今となっては、わたしは、この世にだれひとり身寄りのものがないんだからね」
「けれど、あなたにはご子息がおありになるじゃありませんか」とザルツフィッシュが口を出した。
「わたしには息子もありません!」とヴァルヴァーラ夫人は断ち切るようにいった、――しかも、これが予言になったかのようであった。

[#3字下げ]第8章 終末[#「第8章 終末」は中見出し]

 こうしたすべての乱脈と犯罪とは、異常な速度をもって、――ピョートルが予想したよりも遙かに迅速に暴露されたのである。まずことの始まりは、かの不幸なるマリイが、夫の殺害された夜《よる》、明け方ちかく目をさまして手を延ばしてみたものの、傍に夫のいないのに気がつくと、いても立ってもいられないように騒ぎ出したというしだいであった。そのとき彼女のそばには、アリーナの雇った手伝い女が泊っていたが、どんなにしても産婦の気を静めることができないので、夜の明けるのを待ちかねて、アリーナのところへ駆けつけた。産婦には、アリーナが夫の居所も知っていれば、その帰宅の刻限も承知している、というふうに納得さしたのである。一方、アリーナも、その時ある程度まで不安を感じていた。彼女はもはや夫の口から、その夜スクヴァレーシニキイで行なわれた出来事を聞いていたのである。彼はその夜、十時過ぎに家へ帰って来たが、心身ともに恐ろしい状態に陥っていた。彼はわれとわが手を捻じ曲げながら、ベッドの上へ突っ伏しに身を投げて、引っ吊るような啜り泣きに、全身を慄わせ慄わせ、ひっきりなしにくり返すのであった。
「それは違う、それは違う、まるっきり違う!」
 もちろんとどのつまり、あくまでつきまとって離れない妻アリーナに、何もかもすっかりうち明けてしまった、――もっとも、それは家じゅうで彼女ひとりだった。彼女はいとおごそかに夫に向かって、『もし、めそつきたいのなら、人に聞かれないように、枕に顔を埋めて泣きなさい。あす何か妙なそぶりなんか見せたら、それこそあんたは本当に馬鹿ですよ』と諭した後、夫を床に就かせて出て行った。彼女はそれでもちょっと考え込んだが、やがてすぐ万一の用心に、片づけを始めた。余計な書類や、本や、檄文のようなものまで、すっかり隠すか焼くかしてしまった。こんなことをした後で、自分にしろ、姉にしろ、叔母にしろ、また義妹《いもうと》の女学生にしろ、進んでは耳の長い兄のシガリョフにしろ、何も大して恐れるには当たらない、と考えついた。翌朝、手伝い女が迎えに駆けつけたとき、彼女は躊躇することなしに、マリイのところへ出かけた。実は、ゆうべ夫がまるで譫言《うわごと》のような、もの狂おしい、おびえあがった調子でささやいて聞かせたピョートルの目算、――一同を保証するためにキリーロフを利用しようという目算が、本当かどうかを、一刻も早く突きとめたかったのである。
 けれど、彼女がマリイのところへ来たときは、もう遅かった。マリイは手伝い女を使いに出して、一人きりになると、このうえ我慢ができなくなって床から起きあがり、手当たりまかせの着物を引っかけて(それは季節に不似合いな、恐ろしく薄いものらしかった)、離れにいるキリーロフのところへ出かけた。多分この人なら、だれよりも一ばん正確に夫のことを知らせてくれるだろう、と考えたに相違ない。しかし、離れで目撃した光景が産婦にどういう影響を与えたかは、想像するに難くない。ここに注意すべきは、テーブルの上の目に立つ場所に置いてあったキリーロフの書置きを、彼女が読まなかったということである。もちろん、驚愕のあまり頭から見落としてしまったのだ。彼女は自分の部屋へ駆け戻ると、赤ん坊を引っかかえて、そのまま往来へ駆け出した。それは湿っぽい朝で、霧が立ちこめていた。このさびしい通りには、行き逢う往来の人とてもなかった。彼女は、冷たいぐじゃぐじゃしたぬかるみの中を、息を切らしながらひた走りに走った。やがて、彼女はよその戸をどんどん叩き始めた。一軒の家では、まるで開けようとしなかったし、いま一軒の家では開けるのに長いこと手間取った。彼女は待ち切れなくなって、それをうっちゃって、今度は三軒目の家を叩き始めた。それはチートフという商人の家だった。ここで彼女は恐ろしい混乱を惹き起こした。癇高い叫び声を上げながら、前後の連絡もなく、『夫が殺された』とくり返すのであった。チートフのところでも、シャートフとその経歴はいくらか承知していた。当人の言葉によってみると、産をしてからやっと一昼夜にしかならないのに、ろくろく着物も着せてない赤ん坊を抱いて、こんな寒さの中をこんななりで、町なかを駆け廻っているという事実は、人々をぞっとさせた。初めのうちは、熱に浮かされているのではないかと思った。しかも、いったいだれが殺されたのか、――キリーロフかシャートフか? この点がどうしても判然としないので、なおさら夢のように感じられた。
 人が自分の言葉を信じてくれないのに気づいて、彼女はまたもやさきへ駆け出そうとしたが、人々は無理やりに引き留めた。噂によると、このとき彼女は恐ろしい声で叫び、もがいたとのことである。人々はフィリッポフの持ち家へおもむいた。やがて二時間の後、キリーロフの自殺とその遺書とは、町じゅうに知れわたった。警官は、その時まだ正気でいた産婦の取調べにかかった。この際、彼女がキリーロフの遺書を読んでいないとわかったので、どうして夫が殺されたと決めてしまったのか、どうしても突きとめることができなかった。彼女はただこんなことを叫ぶのみであった。『あの人が殺された以上、うちの人も殺されたに相違ありません。二人はいつもいっしょにいたのです!』昼ごろ彼女は前後不覚に陥った。そして、ついに正気に復することなしに、三日ばかり経って死んでしまった。風邪を引き込んだ赤ん坊は、それよりさきに亡くなったのである。
 アリーナは、マリイも赤ん坊も部屋にいないのを見て、形勢面白からずと察して、わが家へ逃げて帰ろうとしたが、門口のところで立ちどまり、手伝いの女に向かって、『離れへ行って、旦那様にきいてごらん、マリヤさんはそちらにいらっしゃいませんか、そして、あの方のことを何かごぞんじありませんかって』といいつけた。やがて、手伝いの女は往来一ぱいに響くような、狂暴な声を立てながら帰って来た。アリーナは『疑いがかかるから』という便利な論法で、大きな声をしないように、だれにも知らさないように手伝いの女にいい含め、そのまま門外へすべり出てしまった。
 彼女がその朝さっそくマリイの産婆として、警察から呼び出されたのは、もちろんである。けれど、あまり多く引き出すことはできなかった。彼女は、シャートフのところで見聞きしたことを、落ちつき払った事務的な調子で、細大もらさず物語ったが、事件そのものについては、何も知らない、何もわからない、といい張った。
 市中に持ちあがった騒ぎは、想像するに困難でない。また新しい『事件』がもちあがったのだ、またしても人殺しが行なわれたのだ! しかし、今度はもはやまったく事情が違ってきた。つまり、暗殺者や放火者や、そういう革命党の謀反人の秘密結社が存在している、ということが明らかになったのである。恐ろしいリーザの最期、スタヴローギンの妻の殺害、当のスタヴローギン、放火、婦人家庭教師救済の舞踏会、ユリヤ夫人を中心とする放縦な一団、そればかりでなく、スチェパン氏の行方不明という事件の中にも、必ず何かの謎が隠されているに違いない、こう信じていた。ニコライ・スタヴローギンのことも人々はしきりにひそひそ噂した。その日の暮れ方になって、ピョートルの出発が市中へ知れわたったけれど、不思議にも彼のことはあまり噂にのぼらなかった。その日、何よりも人々の話題に上ったのは、『元老院議員』のことだった。フィリッポフの持ち家の前には、ほとんど朝じゅう人が黒山のように集まっていた。
 実際、警察はキリーロフの遺書のために、迷宮へ導かれてしまったのである。すべての人は、キリーロフのシャートフ殺害をも、『下手人』の自殺をも、信じ切っていた。もっとも、警察はとほうにくれたといい条、ぜんぜん手も足も出ないほどではなかった。たとえば、キリーロフの遺書に漠然と挿入されている『公園』という言葉は、ピョートルの期待したほど、その筋の人を迷わせはしなかった。警察はすぐスクヴァレーシニキイヘ飛んでいった。単にそこに公園があって、ほかには市中のどこにもないという理由のみでなく、ある一種の直感に導かれたのである。最近この町で起こったさまざまな戦慄すべき出来事は、直接間接スクヴァレーシニキイに関係しているからであった。少なくも、わたしはこう想像している(断わっておくが、ヴァルヴァーラ夫人は朝早くなんにも知らないで、スチェパン氏を取り抑えに出かけたので)。
 死体はその日の夕方、ちょっとした証跡を頼りに池の中から発見された。それは下手人どもがうっかり置き忘れたシャートフの帽子が、犯罪の場所で見つけられたのである。死屍を一見した印象といい、検屍の結果といい、二、三の推論の示すところといい、どうしてもキリーロフには共犯者があったに相違ない、という疑いがまず第一に生じた。続いて檄文に関係のある、シャートフ、キリーロフの加わっている秘密結社の存在も、同じく明らかとなった。が、その会員はどういう連中なのか? 『仲間』のことなど、その日はまだ夢にも考えるものがなかった。ただキリーロフが世捨て人のような暮らしをしていたので、遺書にも書いてあるとおり、あれほど手を尽くして捜索したフェージカが、幾日もいっしょにいたにもかかわらず、いっこうに知れなかったということは、警察のほうへもわかったのである。しかし、この混沌たる事件の中から、何ひとつ一般的な、連絡を明らかにするような事実をつかみ出すことができないので、それが何よりも一同を悩ました。もしリャームシンのおかげで、翌日とつぜんいっさいが暴露されなかったら、ほとんど恐慌状態に陥るほど威嚇された町の人々が、どんな途方もない結論に到達するか、まるで想像もつかなかったに相違ない。
 リャームシンは、ついに持ちこたえることができなかった。そして、最近ピョートルでさえ心配し始めたことが、事実となって彼の身に現われたのである。初めトルカチェンコに、続いてエルケリに監督されることとなった彼は、翌日いちんち床の中にふせっていた。見受けたところ至極おとなしく、壁のほうへ顔をそむけたまま、ほかから話しかけられても返事もせず、ほとんど一こともものをいわない。こういうわけで、彼は市中に起こったことを、終日少しも知らないで過ごした。ところが、いっさいの出来事を嗅ぎつけたトルカチェンコは、夕方になって、ピョートルから授けられたリャームシン監視の任をおっぽり出し、町から郡部へ去ろうという気を起こした。つまり、なんのことはない、逃げ出したのである。エルケリが、みんな血迷ってしまったと予言したのは、実際だったのである。ついでにいっておくが、リプーチンもその日まだ昼まえに、同じく町から姿を消した。けれど、このほうはどういうものか、やっと翌日の夕方になって、主人の家出にびっくりして恐怖のあまり固く沈黙を守っている家族の訊問にかかったとき、初めて警察のほうへ知れたのである。
 が、リャームシンのほうを続けよう。彼は一人きりになるやいなや(エルケリはトルカチェンコを当てにして、一足さきに家へ帰ったので)、すぐに家を飛び出してしまった。そして、もちろん、幾らもたたぬうちに事件の成行きを知ったのである。彼は家へも寄らないで、そのまま足の向いたほうへ駆け出した。が、あたりはまったく真の闇で、しかも彼の計画はあまりにも恐ろしく、困難なことだったので、彼は街を二つか三つ通り抜けると、すごすごわが家へ引っ返して、夜っぴて自分の部屋に閉じこもっていた。朝ごろまでに彼は自殺を試みたらしい。だが、成功はしなかった。しかしながら、翌日の昼ごろまで閉じこもった後、――とつぜん警察へ駆けつけたのである。人の噂によると、彼は膝を突いて床の上を這い廻ったり、泣いたり、わめいたり、床を接吻したりしながら、自分などは前に立っている高官たちの、靴を接吻する値うちもない人間だと、叫んだとのことである。人々は彼をなだめすかして、いろいろやさしくいたわった。訊問は長いこと続いた。なんでも三時間ぐらいかかったとのことである。彼はすっかり何もかも白状した。事件を底の底までうち明けて、ありとあらゆる事実を微細な点まで物語った。さきのほうへ飛んでいったり、何もかも白状してしまおうとあせって、きかれもしないのに、いらぬことまでしゃべったりした。きいてみると、彼はかなりたくさんいろんなことを知ってい、かなり巧みに事件の真相を展開して見せた。シャートフとキリーロフの悲劇、火事、レビャードキン兄妹の死などは、第二義的の位置に追いやられてしまい、ピョートル、秘密結社、革命運動の組織、五人組の網目、こういうものが前面へ現われ出たのである。いったいなんのために、あんな数え切れないほどの殺人や、醜悪卑劣を極めた事件を行なったかという問いに対して、彼は熱したせかせかした調子で、こう答えた。『それは、組織的に社会の根底を震憾さすためです。社会組織を初めとして、あらゆるものの基礎を、系統的に腐敗させるためです。すべての人の荒胆をひしいで、いっさいを混乱状態に化してしまうためです。こうして、根底を揺るがされた社会が、酸化し病的になって、廉恥心を失い信仰を奪われながら、何かしら指導的思想や自己防衛の手段を、無限の欲望をもって求めている隙に乗じて、ふいに叛旗を翻し、一挙にしてわが掌中に収めてしまうのです。この際、力となるものは、全国に網を張っている五人組です。彼らはその間に絶えず行動して、同志をふやし、すべて乗じ得る隙のある社会の弱点病所を、実際的に探求しているのです』
 結論として彼は次のようにいった。この町でピョートルは、こういうふうなシステマチックな攪乱の、ほんの最初の試みを行なったので、これがいわば、将来すべての五人組の行動のプログラムとなるべきものだ。しかし、これは彼自身、すなわちリャームシンの考えで、彼一個の想像にすぎない。『ですから、どうか、ぜひともこのことをご記憶くだすってお含みの上、わたくしがどれくらいあからさまに潔く、何もかもうち明けたかを、お察し願います。こういうわけですから、この後とても、ずいぶんおかみの役に立つかもしれないので』五人組はたくさんあるか、という真正面からの問いに対して、ほとんど数え切れぬくらいたくさんある、ロシヤ全国こうした五人組の網目でおおわれている、と答えた。彼はべつに証拠を提出しなかったけれども、徹頭徹尾、真剣に答えたものと想像する。彼が提出したのは、外国で印刷した会のプログラムと、ほんの下書きではあるけれど、ピョートルが自分の手でしたためた将来の行動計画書と、ただそれだけであった。これで見ると、リャームシンのいわゆる『社会の基礎震撼』云々は、一字一句たがわずこの紙きれの中から引いてきたのであった。読点や句点まで忘れていなかった。もっとも、彼は、みんな自分自身の想像だと主張してはいるけれど。
 ユリヤ夫人のこととなると、彼は驚くほどあわてて、聞かれもしないのにさきっ走りをしながら、『あのひとに罪はないのです、あのひとは目をくらまされてしまったのです』と述べた。しかし、ここに注意すべきは、彼がニコライ・スタヴローギンを除外してしまって、秘密結社になんの関係もない、ピョートルとなんの協定も結んでいない、と断定したことである(ピョートルがスタヴローギンに対していだいていた滑稽きわまる、命がけの希望については、リャームシンも何一つ知らなかったのである)。レビャードキン兄妹の死は、彼の言葉によると、ニコライにはなんの関係もなく、ただピョートル一人で企んだことで、ニコライを犯罪の巻添えにして、自分の自由にしようという目的だったのである。しかし、ピョートルが軽率にも深く期待していた感謝の代わりに、彼はただ非常な憤懣と絶望の情を、『高潔なニコライ』の心に呼びさましたにすぎなかった。
 スタヴローギンに関する結論も、同様、彼は聞かれもしないのに、恐ろしくせき込んで発表した。ほかでもない、スタヴローギンは非常に重要な職務を帯びた人だが、それには一種の秘密が含まれていて、この町へ逗留していたのも、いわば微行で、特別な任務を持って来たのである。或いはまた近いうちに、ペテルブルグからやって来るかもしれないが(リャームシンは、彼がいまペテルブルグにいることと信じ切っていた)、今度はまるで様子も違えば、事情も異なって、町の人が聞いたらびっくりするような人たちを、伴に連れて来るだろう。こういう話はすべて『ニコライの秘密の敵』たるピョートルから聞いたのだ、――というようなことを、リャームシンは、わざわざほのめかそうとするふうであった。
 ここでちょっと|注意書き《ノタ・ベネ》をしておくが、二か月たってリャームシンの白状したところによると、彼はスタヴローギンの保護を目あてに、わざと彼を弁護したとのことである。おそらくペテルブルグで運動して、刑二等くらい減じてくれた上、流刑の際にも金や紹介状を恵んでくれるだろうと、頼みにしていたのである。この自白によってみても、実際、かれがスタヴローギンについて、並みはずれて誇大な考えをいだいていたことが察しられる。
 もちろん、その日のうちにすぐ、ヴィルギンスキイも逮捕された。しかも、勢いにまかせて、家内じゅう拘引したのである(もっとも、今はアリーナと、その姉と、叔母と、おまけに例の女学生までが、青天白日の身となっている。噂によると、シガリョフも、刑法のどの条文にも当てはまらないため、近々放免されるに相違ないとのことである。もっとも、これは今のところ噂だけである)。ヴィルギンスキイはすぐさま何もかも肯定してしまった。彼は就縛すると発熱して、病いの床にふせってしまったが、むしろ非常に嬉しそうな様子で、『ああ、これでやっと胸が軽くなった』といったとのことである。彼については、こういう噂もある。彼はいま何ごともあからさまに申立てているが、常に一種の威厳を持して、自分の『輝かしい希望』を一つとして捨てようとしない。それと同時に、『積もり積もった事情の渦』に巻き込まれて、軽率にもうかうかと社会的手段と正反対な政治的進路に踏み込んだのを、心から呪っているとのことである。殺人遂行の際における彼の振舞いは、いくぶん彼のために有利な解釈をほどこされるらしい。で、彼もやはり自分の運命について、ある程度までの軽減を嘱望し得るわけである。少なくも、町の人はそう断言している。
 しかし、エルケリの運命にいたっては、ほとんど酌量の望みがないといっていいくらいである。この男は逮捕されたそもそもの瞬間から沈黙を守って、たまに口を開けば、できるだけ事実を曲げようとした。裁判官は今日にいたるまで、一言も彼の口から、悔悟の言葉を絞り出すことができなかった。にもかかわらず、彼は最も厳酷な裁判官にさえも、一種の同情を呼び起こさずにいなかった、――それは年の若いことや、境遇の頼りないことや、一見して政治的煽動者のファナチックな犠牲にすぎないと思われることも原因であったが、何よりも一番、母に対する孝養が知れ渡ったためである。彼は今までわずかな俸給のほとんど半ばを母に仕送っていたのである。母親は今この町にいる。彼女は弱い病身な婦人で、年の割に恐ろしく老《ふ》け込んでいる。彼女は泣きながら、息子の命乞いに、形容ではなく本当に、人々の足もとへ身を投げ出しているのであった。どうなるにせよ、町でも多くの人はエルケリを憐んでいる。
 リプーチンはペテルブルグで、二週間も滞在しているうちに捕縛された。彼は説明するのもむずかしいくらい奇妙なことを仕出かしたのである。人の話によると、彼は他人名義の旅券を持っていたので、うまく外国へすべり抜けることもできたはずなのである。おまけに、かなりまとまった金も身につけていた。それだのに、彼はペテルブルグでぐずぐずして、どこへも出かけなかった。しばらくスタヴローギンとピョートルをさがしていたが、とつぜん飲酒に耽り出した。そして、まるで常識を失ってしまって、自分の境遇に対する理解をなくした人のように、とてつもない耽溺を始めたのである。彼はペテルブルグのとある妓楼で、酔っぱらっているところを捕縛された。噂によると、今でも彼は少しも意気沮喪しないで、申立ての際にもとかく嘘をつきたがり、目前に控えている公判に対しても相当の希望(?)をいだきながら、堂々とその日を迎えようと意気込んでいるとのことである。法廷で一しゃべりするつもりでさえいるのだ。
 トルカチェンコは逃亡後、十日ばかり経って、どこか郡部のほうで逮捕されたが、その振舞いは比較にならぬほど慇懃で、嘘もつかなければごまかしもせず、知っているかぎりのことを残らず白状して、あえて弁解がましいことをいわず、おとなしく罪に服しているが、しかし、同様に駄弁を弄したがる傾向がある。彼は自分から進んで、いろいろなことを話すばかりでなく、談ひとたび民衆とその革命的(?)分子に関する知識に及ぶや、たちまち妙なポーズを取って、聴き手を感嘆させようとあせるのであった。聞き及ぶところでは、彼もやはり法廷で何かしゃべるつもりだそうである。総じて、彼とリプーチンとは、あまりびくびくしている様子がない。それはむしろ不思議なくらいだった。
 くり返していうが、この事件は全部かたがついたわけではない。もう三か月も経った今となっては、この町の社会も一息ついて身づくろいした形で、だいぶ余裕ができてきたので、自分自身の意見も持つようになった。はなはだしきにいたっては、当のピョートルを目して、天才呼ばわりするものさえある、少なくも、『天才的な能力を持った男』と評している。『あの組織はどうです!』とクラブなどで指を上のほうへ向けながら、こんなことをいい合っている。もっとも、そんなことはごく罪のない話で、しかも少数の人しか口にしない。多数の者は、彼の鋭い才能を否定しないけれど、現実に対する恐るべき無知、恐るべき抽象癖、一方に偏した不具的な鈍い発達のために、非常な軽佻に陥ったものと評している。彼の精神的方面では、衆説がことごとく一致している。そこにはもはや議論の要がない。
 さて、万《ばん》遺漏なきを期するためには、このうえだれのことをいったらいいのか、わたしにはまったくわからない。マヴリーキイはどこかへ行ってしまった。ドロズドヴァ老婦人は、すっかり赤ん坊のようになってしまった……ところで、もう一つ思い切り陰惨な出来事が語り残されているが、ただ事実を伝えるだけに止めておこう。
 ヴァルヴァーラ夫人は旅行から帰ると、町のほうへ落ちついた。と、留守のうちに積もり積もったさまざまな報知が、一時に夫人をおそうて、烈しくその全幅を震撼した。彼女は一人で居間に閉じこもってしまった。それはもう夜のことだったので、人々は疲れて、早く床に就いた。
 翌朝、小間使がさも秘密らしい様子をしながら、ダーリヤに一通の手紙を渡した。彼女の言葉によると、この手紙はもう前日とどいていたのだが、夜おそくみんな休んだ後のことだったので、彼女は遠慮して起こさなかったとのことである。それは郵便ではなくて、一人の見知らぬ男が、スクヴァレーシニキイなるエゴールイチのところへ持って来たので、エゴールイチは昨晩、すぐさま自分でやって来て小間使へ手渡しすると、そのまますぐにスクヴァレーシニキイヘ帰って行った、ということである。
 ダーリヤは胸をときめかしながら、長い間その手紙を見つめていた。思い切って封が切れなかったのである。彼女は、だれから来たものか、よく承知していた。それはニコライの手紙だった。彼女は封筒の名宛を読んだ。『アレクセイ・エゴールイチヘ、秘密にダーリヤ・パーヴロヴナにお手渡しありたし』
 この手紙は、立派にヨーロッパふうの教育を受けながら、ロシヤ語の読み書きを十分に習得しなかった、ロシヤ貴族の子弟の文体に特有の誤謬を、些細の点までも朱を入れないで、そのまま一字一句たがわず再録したものである。

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『愛するダーリヤ・パーヴロヴナ。
『あなたはかつて私の「看護婦」を志望された。そして、必要の際には迎えをよこすようにと、言質を取ったことがある。わたしは二日後に出発する。もうここへ帰らない。わたしといっしょに行きませんか?
『去年、わたしはゲルツェンと同様に、スイス、ウリイ州の市民に帰化しておいた。それを知るものはだれもない。そこでわたしはすでに小さな家を買った。わたしにはまだ一万二千ルーブリの金がある。わたしといっしょに出かけて、そこで一生暮らそうではありませんか。わたしはもうけっしてどこへも出ようとは思わない。
『それは非常に淋しい場所だ。山の峡《はざま》なのだ。山が視野と思想をはばんでいる。恐ろしく陰気なところだ。それは小さな家が売り物に出たからだ。もしあなたの気に入らなかったら、わたしはそれを売って、また別な場所に別なのを買ってもいい。
『わたしは健康を害している。しかし、幻覚症は向こうの空気で癒るだろうと思う。それは肉体のほうだが、精神のほうはあなたもすっかり知っている。ただし、全部ではないかもしれない。
『わたしは自分の生涯について、ずいぶんいろいろとあなたに話して聞かせた。しかし、全部ではない。あなたにさえも全部は話さなかったのだ! ついでにいっておくが、わたしは妻の死について良心上の責任があるのだ。わたしはあの後あなたに会わないから、それでちょっと確かめておく。リザヴェータ・ニコラエヴナに対しても罪がある。しかし、このほうはあなた自身よくご承知だ。あなたはほとんどすっかり予言したのです。
『あなたはやって来ないほうがいいでしょう。わたしがあなたを呼ぶということは、恐ろしい卑劣な行為なのだ。それに、あなたはわたしなどといっしょに自分の一生を葬る必要は少しもないのです。わたしはあなたが懐かしい。気のふさぐ時、あなたの傍にいると楽だった。あなたにだけは自分のことを口に出していうことができた。しかし、そんなことはなんの理由にもならない。あなたは自分を「看護婦」に決めてしまった(これはあなたのいったことなんです)。いったいなんのためにそんな莫大な犠牲を払うのです? またこういうことも合点していただきたい、――わたしはあなたを招く以上、あなたを憐んでいないのだ。またあなたの承諾を期待する以上、あなたを尊敬していないわけだ。にもかかわらず、わたしは招きかつ期待する。いずれにもせよ、あなたの返事だけはぜひ必要だ、なぜといって、非常に出発を急ぐから。そういうふうになれば、わたしは一人で出発する。
『わたしはウリイの生活から何一つ当てにしていない。ただ行ってみるのだ。わたしは何もわざと陰気くさい場所を選んだわけではない。ロシヤではわたしは何ものにも束縛されていない。ほかのすべての場所と同じく、あらゆるものがわたしにとっては無縁なのだ、もっとも、ロシヤで暮らすのは、ほかのどこよりも一番きらいだったけれど。しかし、そのロシヤにおいてすら、わたしは何ものをも憎むことができなかった!
『わたしはいたるところで自分の力をためした。それは、あなたが「自分自身を知る」ようにといって、わたしにそうすすめたのだ。こうして以前、これまでの生涯では、自分自身のために、また人に見せるために試験する時、この力は限りなきものに見えた。わたしはあなたの目の前で、あなたの兄さんから頬打ちの侮辱を忍んだ。公然とあの結婚を自白した。が、いったい何にこの力を用いたらいいのだろう。これがついにわからなかった。あなたがスイスで是認してくれた言葉にもかかわらず、――またそれをわたしが本当にしたにもかかわらず、いまだに少しもわからないでいるのだ。わたしは今でも昔と同じように、善をしたいという希望をいだくことができ、またそれによって快感を味わうこともできる。それと同時に悪をも希望して、それからも同様快感を味わうことができる。しかし、その感じは両方とも依然として浅薄で、かつて非常であったためしがない。わたしの希望はあまりに強味が欠けていて、指導するだけの力がないのだ。丸太に乗って河を横切ることはできるが、木っぱでは駄目だ。これは万一あなたが、わたしのウリイ行きに何か希望があるのじゃないか、というような考えを起こさないために書くのだ。
『わたしは依然として、何人をも咎めようとしない。わたしは思い切った放蕩を試みた。そして、そのために力を消耗してしまった。けれど、わたしは放蕩をも好みはしないし、またあの当時も望んではいなかったのだ。あなたは最近、わたしに注意をそそいでいられたが、こういうことがわかりましたか、――わたしはいっさいを否定するあの仲間をも意地悪い目で眺めていた。あの連中の希望にみちているのが、うらやましかったのだ。しかし、あなたの心配は無用だった。わたしはあの連中の仲間入りもできなかった。なんら共通の点がなかったからだ。単に冷やかし半分にも、面あてのためにも、やはりできなかった、それも、自分が滑稽に見えるのを恐れたからじゃない、――わたしはそんなことをびくびくするはずがない、――ただなんといっても、わたしはジェントルマンの習慣を持っているので、そんなことがいまわしかったのだ。もしあの連中にもっと憎悪や羨望を感じたら、或いは彼らとともに進んだかもしれない。実際そうするほうが、わたしにとってどれだけ容易だったか、そして、どれくらいわたしが迷ったかは、よろしくお察しを乞う。
『いとしき友よ、わが発見したるやさしき寛大なる人よ! もしかしたら、あなたはわたしに豊かな愛を恵み、その美しい胸から無量の美をわたしに注ぎかけ、それによって最後にわたしの目の前に人生の目的を啓示しようと、空想しておられるかもしれぬ。それはいけない、あなたはもっと慎重な態度を取らなければならない。わたしの愛はわたし自身と同様に浅いものでしょう。そうすれば、あなたは不幸な身になるばかりだ。あなたの兄さんはわたしにこんなことをいった、――自分の郷土との連繋を失った者は、自分の神すなわち自分の目的をも失うと。とにかく、そんなことは議論すればきりがないけれど、ただわたしという人間からは、いっさい宏量も力もないただの否定だけが鋳出されたのだ。いや、否定すらも鋳あがってはいない。すべてがつねに浅薄で、だらけているのだ。宏量なキリーロフは、観念が持ち切れないで自殺してしまった。しかし、わたしの見るところでは、キリーロフは健全な判断力を失ったので、それがために宏量であり得たのだ。わたしはどうしても判断力を失うことができない。したがって、あの男のように、あれほどまで観念を信ずることが絶対にできない。あれほど観念に没頭することができないのだ。決して、けっしてわたしには自殺なぞできはしない!
『わたしはよく知っている。わたしのようなものは自殺しなければならない、けがらわしい虫けらのように、地球の表面から掃き捨ててしまわなければならないのだ。しかし、わたしは自殺を恐れる、宏量を示すのが恐ろしいからだ。わたしはよくわかっている、それはもう一つの虚偽なのだ、――無限な虚偽の連続における最後の虚偽なのだ。単に宏量の真似事をするためにみずから欺いて、どれだけの益がある? 憤懣とか羞恥とかいうものはけっしてわたしの内部に存在し得ない。したがって、絶望というものもあり得ない。
『こんなにたくさん書いたのを許してもらいたい。今ふと気がついた、これは知らずしらずしたことなんだ。こんなふうに書いたら、百ページでも足りないだろうし、十行だけでもたくさんだ。「看護婦」に来てほしいというのは、十行でたくさんなのだ。
『わたしはここを出発してから、六つ目の駅の駅長のところにいる。これは五年前、ペテルブルグで暴れたとき知り合いになった男だ。わたしがここに住んでることはだれも知らない。この男の宛名で返事をもらいたい。所書《ところがき》は別に封入してある。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]ニコライ・スタヴローギン』

 ダーリヤはすぐヴァルヴァーラ夫人のところへ行って、この手紙を出して見せた。夫人は一読した後、もう一どひとりで読み返してみたいから、しばらくあちらへ行ってくれと、ダーシャに頼んだ。が、なんだか妙に早く彼女を呼び寄せた。
「行くかい?」と夫人は、ほとんど臆病といっていいくらいな調子でたずねた。
「まいります」とダーシャは答えた。
「用意をおし! いっしょに行こう!」
 ダーシャはいぶかしげに、じっと夫人を見やった。
「わたしが今ここにいたって、何をすることがあります? 同じことじゃないの。わたしもやはりウリイ州へ転籍して、山の峡《はざま》で暮らしますよ………心配おしでない、邪魔をしやしないよ」
 二人は正午《ひる》の汽車に間に合うように、大急ぎで支度を始めた。けれど、三十分も経たないうちに、スクヴァレーシニキイからエゴールイチがやって来た。彼の報告するところによると、今朝『突然』ニコライが一番の汽車でやって来て、今スクヴァレーシニキイにいるが、しかし『その御様子がどうも変で、何かおききしてもお返事がなく、家《う》[#ルビの「う」はママ]じゅうの部屋をすっかり歩いてごらんになった後、お居間へ閉じこもっておしまいになりました……』というのである。
「わたしは旦那様のお指図に逆らって、こちらへお知らせにまいることに決めましたのでござります」とエゴールイチは恐ろしく注意ぶかい様子でつけ足した。
 ヴァルヴァーラ夫人は刺すような目で、じっと彼を見つめたが、うるさく根掘り葉掘りしなかった。すぐに馬車の用意ができた。夫人はダーシャといっしょに出かけた。途中、馬車の中で、幾度も十字を切ったとのことである。
『お居間』のほうの戸はすっかり開けっ放しで、ニコライの姿はどこにも見えなかった。
「もしや中二階ではござりますまいか?」とフォムシカが恐る恐るいった。
 ここに注意すべきは、幾たりかの召使がヴァルヴァーラ夫人の後から、『お居間』の中へ入って来たことである(もっとも、ほかの下男たちは広間のほうに残っていた)。彼らがこんなに邸の規律を破るようなことは、今までけっしてなかったのである。ヴァルヴァーラ夫人はこれに気がついたけれど、何もいわなかった。
 中二階へもあがって見た。そこには部屋が三つあったけれど、だれひとり見つからなかった。
「もしや、あすこへおあがりになったのではござりますまいか?」とだれかが屋根裏の戸を指さした。
 なるほど、いつも閉まっている屋根裏の戸が、今は開けっ放しのままになっていた。そこはほとんど屋根のすぐ下になっていて、非常に幅の狭い、恐ろしく急な、長い木の梯子段を登らなければならなかった。そこにもやはり、ちょっとした小部屋があったので。
「わたしはあんなところへ行きゃしない。なんの用があって、あれがあんなところへ登るものかね?」ヴァルヴァーラ夫人は召使を見廻しながら、さっと顔をあおくした。こちらは夫人を見つめながら、押し黙っていた。ダーシャはぶるぶる慄えていた。
 ヴァルヴァーラ夫人は飛ぶように梯子段を昇って行った。ダーシャもその後から続いた。けれど、夫人は屋根裏へあがるかあがらないかに、一声高く叫んで、そのまま悶絶してしまった。
 ウリイ州の市民は、すぐ戸の向こう側にぶらさがっていた。テーブルの上には、小さな紙きれがのっていて、
『何人をも罪するなかれ、余みずからのわざなり』と鉛筆で書いてあった。同じテーブルの上には、一梃の金鎚と、石鹸のかけと、あらかじめ予備として用意したらしい、大きな釘が置いてあった。ニコライが自殺に使った丈夫な絹の紐は、まえから選択して用意したものらしく、一面にべっとりと石鹸が塗ってあった。すべてが前々からの覚悟と、最後の瞬間まで保たれた明確な意識とを語っていた。
 町の医師たちは死体解剖の後、精神錯乱の疑いを絶対に否定した。



底本:「ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上」河出書房新社
   1970(昭和45)年3月30日初版第1刷発行
   「ドストエーフスキイ全集10 悪霊 下 永遠の夫」河出書房新社
   1970(昭和45)年8月30日初版第1刷発行
   1977(昭和52)年7月20日第12刷発行
入力:いとうおちゃ
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