京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP074~P085

ベルヘ手を伸ばして、がらがらと鳴らした。三十秒ばかりたってまた鳴らした、こんどは少し強く。
 返事はなかった。むやみに鳴らしてもしかたがないし、彼には似合わしくないことだ。老婆はむろんうちにいたのだが、彼女は疑り深いうえに、今はひとりきりだ。彼も多少は彼女の習慣を知っていた……で、もう一度ぴったり耳をドアに押しあてた。彼の感覚が鋭くとぎすまされていたのか(そういうことは概して想像が困難だけれど)、あるいはじっさいによく聞こえたのか、とにかく彼は、錠前のハンドルに用心ぶかくふれる手のかさかさいう音と、ドアにあたるきぬずれの響きらしいものを聞き分けた。何者か錠前のすぐそばに立って、彼がこちらでしているように、中からも同様いきをひそめながら、様子をうかがっていたに相違ない。そして、やはりドアに耳をあてているらしい……
 彼はわざと身じろぎして、隠れているなどとは気《け》にも見せないように、なにやら大きな声でひとり言をいった。やがて彼は三度目にベルを鳴らしたが、静かに重みを持たせて、かりにもじれったそうな様子など見せなかった。後日このことを思い出すたびに、この瞬間がくっきりとあざやかに、永久に彼の心中に刻みつけられていた。あの、思考力がときどき瞬間的に曇って、自分の肉体さえ感じられなかったような場合に、そもそもどこからあれだけの狡知《こうち》を得てきたのか、彼はわれながら合点がいかなかった……とすぐに、戸締まりのせんをぬく音が聞こえた。

[#6字下げ]7

 ドアはいつかのように、ほんの糸すじほど開かれて、またしても鋭いうさんくさそうな二つの目がやみの中からじっと彼にそそがれた。そのときラスコーリニコフはまごついて、危うく重大なあやまちをしでかそうとした。
 ラスコーリニコフは、自分たちふたりきりなのに老婆がぎょっとするだろうとあやぶみもしたし、また自分の見かけが彼女を安心させるという自信も持てなかったので、老婆が二度と締めきる気にならないように、ドアに手をかけてぐいと手まえへ引いた。老婆はそれを見て、ドアを引きもどそうとはしなかったが、錠前のハンドルをはなさなかったので、彼はほとんどドアといっしょに老婆まで、階段口へ引き出しそうになった。それでも老婆が戸口に立ちはだかって、彼を通すまいとするのを見て、彼は老婆へのしかかるように、ぐんぐん進んで行った。彼女はおびえて飛びのきながら、何か言いたそうにしたが、どうしてか声が出ず、目をいっぱいに開いて彼を見つめた。
「こんばんは、アリョーナ・イヴァーノヴナ」と彼はできるだけくだけた調子で口をきったが、声はいうことを聞かないで、とぎれたりふるえたりした。「ぼくお宅へ……品物を持って来たんですが……どうです、あっちへ行きませんか……明るいほうへ……」
 こういって老婆を置き去りにしながら、案内も待たずに、つかつかと部屋の中へ通った。老婆はそのあとからかけだした。彼女の舌はやっとほぐれた。
「まあ、いったいあなた何ご用?……ぜんたいどなたですね? ご用はどういうことなんで?」
「冗談じゃありませんよ、アリョーナ・イヴァーノヴナ……もうごぞんじの人間ですよ……ラスコーリニコフ……ほら、いつかお約束した質を持って来たんですよ……」と、彼は老婆の前へ質ぐさをさし出した。
 老婆はちらと質ぐさを見やったが、すぐまたこの招かれざる客のひとみをひたと見すえた。彼女は注意ぶかい、毒々しげな、うさんくさそうな目つきでながめた。一分ばかり過ぎた。彼女はもう万事を見すかしてしまったように、何かしら嘲笑めいたものがその目の中に浮かんだような気持ちさえした。彼は自分がとほうにくれかかっているのを感じ、恐ろしくなってきた。もしこんなふうに、彼女がいま三十秒も口をきかないで、じっと見つめていたら、彼はおそらく自分のほうから逃げ出したろうと思われるほど、恐ろしくなったのである。 「なんだってそんなに見るんです、まるでぼくに見覚えがないように?」と彼も同じく毒々しい調子で、急にこういいだした。「よかったらとってください。もしいけなけりゃ――ほかへ持って行きます、急ぐんだから」
 こんなことをいおうなどとは、考えてもいなかったのに、ふいとひとりでに口から出てきたのである。
 老婆はわれにかえった。客のはっきりした調子が、どうやら彼女を安心させたらしい。
「なんですよ、お前さん、あんまりふいなもんなんだから……いったいなんですね?」と質ぐさを見ながら、彼女はたずねた。
「銀の巻きたばこ入れですよ。このまえ話しておいたじゃありませんか」
 彼女は手をさし伸べた。
「まあ、お前さん、なんだか知らないが、たいそう顔色の悪いこと? そら、手もそんなにふるえて、風邪でも引いたの?」
「熱があるんですよ」と彼はひっちぎったように答えた。
「いやでも青くなりまさあ……食うものもなしでいりゃあね」彼はやっと一語一語を発音しながら、こういいたした。気力がまたしても彼を見捨てそうになってきた。けれど、この答えはまことしやかに思われた。老婆は質ぐさを取り上げた。
「いったいなんですね?」もう一度、じろりとラスコーリニコフを見まわして、手で質ぐさの目方をひきながら、彼女はたずねた。
「ちょっとしたもの……巻きたばこ入れですよ……銀の……まあ見てください」
「だって、どうやら銀らしくないがね……まあ、恐ろしく縛ったもんだねえ」
 ひもを解こうとつとめながら、彼女は明かりのさす窓のほうへふり向いた(このむし暑いのに、窓がみな締めきってあった)。彼女は幾分間か、まったく彼をうっちゃらかして、くるりと後ろ向きになった。彼は外套のボタンをはずし、おのを輪からはずしたが、まだすっかりは取り出さないで、服の下から右手でおさえていた。が、その手は恐ろしく力抜けがして、一瞬ごとにしびれていき、こわばっていくのが自分にもわかった! 彼はおのを取りはずして、落としはしないかと恐ろしかった……と、ふいに頭がぐらぐらっとしたような気がした。
「まあ、なんだってこんなにからみつけたもんだろう!」と、老婆はいまいましそうにいい、彼のほうへちょっと身を動かした。
 もう一瞬も猶予していられなかった。彼はおのをすっかり引き出すと、はっきりした意識もなく、両手で振り上げた。そして、ほとんど力を入れず機械的に、老婆の頭上へおののみね[#「みね」に傍点]を打ちおろした。そのとき力というものがまるでないようだったが、ひとたびおのを打ちおろすやいなや、たちまち彼の身内に力が生まれてきた。
 老婆はいつものように素頭だった。白髪まじりのまばらな薄色の髪は、例の癖で油をこてこてにつけて、ねずみのしっぽみたいに編み、つのぐしのかけらで止めてあるのが、後ろ頭に突っ立っていた。おのはちょうど脳天にあたった。それは彼女が小柄だからであった。彼女はきゃっと叫んだが、ごく弱々しい声だった。そして、両手を頭へあげるにはあげたものの、ふいに床の上へぐたぐたとくずおれた。片手には、まだ質ぐさを持ったままである。そのとき彼は力まかせに、もう一、二度みね[#「みね」に傍点]のほうばかりで、やはり脳天を打ちつづけた。血はコップをぶちまけたようにほとばしり出た。そして、からだはあおむけに倒れた。彼は一歩身をひいて、倒れさせた後、すぐ老婆の顔の上へかがみこんだ。彼女はもう死んでいた。目は今にも飛び出しそうにむき出され、額と顔ぜんたいはしわだらけになって、痙攣《けいれん》のためにひん曲がっている。
 彼はおのを死体のそばの床に置き、流れる血でよごれないように気をつけながら、いきなり彼女のポケットに手を突っ込んだ――彼女がこの前かぎを取り出した右ポケットである。彼の理性はいまは完全に働いて、もはや昏迷《こんめい》も、眩暈《めまい》も感じなかった。が、手はやはりふるえつづけていた。後になって思い出したが、このとき彼はきわめて注意ぶかく細心になってい、絶えず身をよごすまいと苦心していた。……かぎはすぐ取り出した。全部あの時のように鉄の輪に通して、ひとまとめになっていた。彼はそれを持って、すぐ寝室へかけこんだ。それはいたって小さな部屋で、聖像を安置した大きな厨子《ずし》があり、反対の壁ぎわには、絹の小ぎれをはぎ合わせてつくった綿入れ蒲団《ぶとん》のかかっている、大形なさっぱりしたべッドがすえてある。いま一方の壁ぎわにはたんすがあった。ふしぎなことには、かぎをたんすに合わせようとして、そのじゃらじゃらという音を聞くが早いか、痙攣《けいれん》が彼の身内を走るような思いがした。彼はふいにまたもや何もかもうっちゃって、そのまま逃げ出したくなった。しかし、それはほんの一瞬間だった。逃げ出すにはもう遅かった。で、とつぜんさらに一つ不安な想念が彼の頭を襲《おそ》ったときなど、彼は自分で自分をあざけるように、にたりと笑いさえもした。ほかでもない、ことによったら、まだ老婆が生きていて、ふたたび正気づくかもしれないという気が、ふいとしたのである。彼はかぎとたんすをうっちゃって、死骸のほうへかけもどると、おのをひっつかんで、もう一ど老婆の上に振りかざしたが、打ちおろしはしなかった。死んでいるのは、疑う余地がなかった。ちかぢかとかがみこんで、なおもしさいに老婆をあらためて見ると、頭蓋骨《ずがいこつ》が粉砕《ふんさい》されて、おまけに少しわきのほうへずっているのが、明瞭に見わけられた。彼は指で触れてみようとしたが、大急ぎで手をひっこめた。そんなことをしなくとも、一見明瞭だった。その間に血は大きな水たまりのようになっている。ふと彼は老婆の首にひもがかかっているのに気づき、ぐっと引っぱって見たが、堅くてなかなかちぎれない。それに血でべとべとになっていた。で、そのままふところから引き出そうとしてみたが、何かじゃまをしてひっかかる。彼はじれったくなってふたたびおのを振り上げ、死骸の肌を台にひもをたたき切ろうとしたが、そうする勇気もなく、二分間ばかりごそごそしたのち、おのを死骸にふれないで、手とおのとを血だらけにしたあげく、ひもを切り放してはずした。はたして彼の想像は誤らなかった――財布だ。ひもには木製と銅製の十字架が二つと、ほかに七宝製の聖像がついていた。そして、それらのものといっしょに、鋼《はがね》の縁と小さな輪のついているかもしか皮の、あぶらじみた小さな財布が下げてあった。財布はぎっしりつまっていた。ラスコーリニコフは調べもしないで、それをポケットにねじ込み、十字架を老婆の胸へ投げつけると、こんどはおのを引っつかんで、寝室へかけもどった。
 彼はやたらにせかせかして、かぎをつかむといきなり、またもやいじくりまわしにかかったが、なぜかどうもうまくいかない――かぎが錠前の穴にはまらなかった。手がそれほどひどくふるえるわけでもないのに、のべつまちがえてばかりいた――たとえば、合いかぎでなくて、違っているのを見ながら、やはりそれを押し込んでいるというふうである。そのうちにふと気がついて考え合わせた――ほかの小さいかぎに交ってぶらぶらしている、ぎざぎざのついた大きなかぎは確かにたんすのではなく(これは前のときにも彼の頭に浮かんだことなのだ)、きっと長持類のかぎに相違ない。そしてその長持の中にこそ、すべてなんでもはいっているらしく想像される。彼はたんすを捨てて、すぐベッドの下へはい込んだ。年よりというものは、長持類をたいていベッドの下へ入れて置くのを知っていたからだ。はたせるかな、そこには長さ一アルシン(七一・一二センチ)以上もあって、そりぶたがつき、ふもしかの赤がわを張って、鋼鉄の鋲《びょう》を一面に打ってある、かなりりっぱなトランクが置いてあった。ぎざぎざのあるかぎはぴったり合って、すぐ開いた。上のほうには白いシーツの下に、赤い表のついたうさぎの毛皮外套がはいっていた。その下には絹の着物、そのまた下にはショール、それから底のほうはごみごみした衣類ばかりらしかった。彼はまず一ばんに、自分の血まみれの手を、外套の赤い表でふこうとしかけた『赤と……うん、赤の上なら血も目立つまい』と彼は考えたが、急にわれにかえった『――ああ、おれは気でもちがうんじゃないか?』彼は思わずぎょっとしてそう考えた。
 けれど、彼がごみごみした切れ類をほんのちょっと動かすと、ふいに毛皮の外套の下から金時計がすべり出た。彼はいきなり中をひっくり返しにかかった。案のじょう、切れ類の間には金《きん》の品が交互にはいっていた――たぶんみな質物の流れに出たのや、まだ期限前のものだろう――腕輪、鎖、耳輪、ピンなどが、あるものはケースに入れて、あるものはただ新聞紙に包まれていたが、しかしきちょうめんに綿密にしてあって、紙は二重になっており、くるくるひもがかけてあった。彼は一刻も猶予せず、包み紙やケースをあけても見ないで、それをズボンと外套のポケットヘつめ込み始めた。が、そうたくさんとりこむ暇はなかった……
 ふいに老婆の倒れている部屋で、人の歩く音が聞こえた。彼は手を止めて、死人のように息をひそめた。しかし、あたりはひっそりとした。してみると、そら耳だったのだ。ふいにかすかな叫び声、というよりも、だれかが低く引っちぎったようにうなって、すぐ黙ったらしいのが、まざまざと聞こえた。それからまた、死のような静寂が一、二分つづいた。彼はトランクのそばにうずくまり、ほとんど息もしないで待っていたが、急におどりあがって、おのをつかむと、寝室から走り出た。
 部屋のまん中には、大きな包みを手にしたリザヴェータが棒立ちになって、全身麻痺したように、殺された姉をながめていたが、布《ぬの》をあざむくばかり真白になり、叫ぶ力もないらしかった。走り出た彼の姿を見ると、彼女は木の葉のように小刻みにふるえはじめ、痙攣《けいれん》が顔一面に走った。彼女は片手を少し上げて、口を開こうとしたが、それでもやはり声は出なかった。ひたとまともに彼を見ながら、のろのろとあとずさりに、すみのほうへさがり出したが、叫ぼうにも空気がたりないように、声は少しも立てなかった。彼はおのを振るっておどりかかった――彼女のくちびるはさも情けなさそうにゆがんだ。あたかもごく小さな子供がものにおびえかかったとき、恐ろしいものをじっと見つめながら、今にも泣きだしそうにするのと、同じようなぐあいだった。そのうえ、この不幸なリザヴェータはあまりにもお人よしで、すっかりいじめつけられて、いじけきった女なので、手を上げて顔を防ごうともしなかった。しかも、おのは彼女の頭上へ振り上げられたのだから、そうすることは、この瞬間もっとも必要、かつ自然な動作だったのである。彼女はただあいている右手をほんの心もちさし上げたが、それも顔よりずっと下のほうであった。そして凶漢を押しのけようとでもするかっこうで、のろのろとその手を彼のほうへ突き出した。おのの刃はちょうど頭蓋骨へまっすぐに突っ立って、たちどころに額の上部を完全に、ほとんどこめかみまで打ち割った。彼女はそのままどうと倒れた。ラスコーリニコフはすっかりまごついてしまって、彼女の包みを引っつかんだが、またそれをほうり出して入口の控え室へかけだした。
 恐怖は刻々に強く彼をつかんだ。わけても、このまったく思いも設けなかった二回目の凶行の後は、もう堪えがたいまでになった。少しも早くここから出たかった。もし彼がこの瞬間、より正確に見、かつ判断することができたら――目下の状態の困難と、絶望と、醜悪さと、愚劣さを思い合わすことができたら――ここを逃れ出てから家へ着くまでには、まだこのうえさまざまな困難にうち勝ち、場合によっては、悪事さえ遂行せねばならぬということを想像できたら、彼は何もかもうっちゃらかして、すぐさま自首に出かけたにちがいない。それも自分を案ずる恐れのためではなく、ただおのれの行為にたいする恐怖と嫌悪のためばかりである。わけても嫌悪の念がこみあげてきて、彼の心中に一刻一刻成長するのであった。今はもはやどんなことがあっても、トランクのそばはおろか、奥の部屋へすら引っ返せそうもなかった。
 けれど、一種の放心状態というか、もの思いというか、そうしたものが、しだいに彼を領していった。ともすれば彼はわれを忘れて、というよりは、かんじんなことを忘れて、さまつなことにかかずらうのであった。しかし、ふと台所をのぞいて、半分水のはいったバケツを腰掛の上に見つけたとき、彼は手とおのを洗うことに気がついた。彼の手は血みどろになり、ねばねばしていた。彼はおのの刃のほうをいきなり水へ突っ込んで、小窓の上にのっている欠け皿から、石けんのかけらをつかみ出して、じかにバケツの中で手を洗いはじめた。手を洗い終わってから、彼はおのを引き出し、まず鉄の部分を洗い終わると、長いこと、ものの三分間もかかって、石けんで血痕の有無さえたしかめてみながら、血のこびりついた柄を洗いにかかった。それから、台所いっぱいに張り渡したなわに干してある洗たく物で、きれいにふき取ったうえ、長いあいだ窓ぎわで注意ぶかくおのを調べてみた。もう血のあとはのこっていなかった。ただ柄がまだ湿っているばかりだ。彼は綿密におのを外套の裏の輪にさした。それから、うす暗い台所の光の許すかぎり、外套や、ズボンや、くつを調べてみた。ちょっと外から見たくらいでは、どうやら何もなさそうである。ただ、くつにしみがついていた。彼はぼろをしめして、くつをふいた。しかし、彼は自分でよく見分けがつかないのを知っていたので、こちらでは気づかないけれど、人の目にはすぐはいるようなものがあるかもしれない、と考えた。彼はもの思いに沈みながら、部屋のまん中に突っ立った。悩ましく暗澹《あんたん》たる想念が彼の心中にわきあがった――自分は気が狂いかけているので、この瞬間、ものを判別することも、自分を守ることもできず、もしかすると、いま自分のしていることは、まるで見当ちがいかもしれない……『やっ、たいへんだ! 逃げなきゃならないのだ、逃げなきや!』と彼はつぶやいて控え室へ飛び出した。が、そこではまた、かつて経験したことのないような恐怖が、彼を待ち受けていた。
 彼は棒立ちになって、じっと見つめたが、われとわが目を信ずることができなかった。ドア――入口の間《ま》から階段へ通ずる外側のドア――さきほど彼がベルを鳴らしてはいったそのドアが、開いたままになっていて、てのひらがゆっくりはいるほどのすき間をつくっていた。錠もおろさず、せんもささずに、ずうっと、あの間ずうっと開いていたのだ! 老婆はもしかしたら、用心のためにかぎをかけなかったかもしれないが、しかし、なんということだ! 彼はそのあとでリザヴェータを見たではないか! それをどうして、彼女がどこからかはいって来たということに気づかずにいられたのだろう! まさか壁をくぐってはいったとも思わなかったろうに!
 彼は戸口にかけよって、せんをさした。
『いや、そうじゃない、また見当ちがいをやってる! 逃げなくちゃならんのだ、逃げなくちゃ……』
 彼はせんをはずして、ドアをあけ、階段の様子をうかがい始めた。
 彼は長いあいだ耳をすましていた。どこか遠くずっと下のほうで、たぶん門の下あたりだろう、だれかふたりの声が高いきいきいした調子で、わめいたり、いい争ったり、ののしったりしている。『なにをやつらはいってるんだろう……』彼はしんぼうづよく待っていた。とうとう、まるでずばりと断ち切ったように、何もかも一時に静まった。ふたりは別れてしまったのだ。彼はいよいよ出かけようと思った。と、ふいに一階下あたりで、階段へ向かったドアが騒々しくあいて、だれやら何かの節を鼻歌ふうにうたいながら、下のほうへおりて行った。『なんだってこんなにのべつ騒いでやがるんだろう』こういう考えが、ちらと彼の頭をかすめた。彼はまたもや後ろ手にドアをしめて、じっと待っていた。ついにすべては静まりかえり、人のけはいもしなくなった。で、彼がもう階段ヘ一歩を踏み出そうとしたとたん、またもやふいに新しくだれかの足音が聞こえた。
 この足音はよほど遠く、また階段のとっつきあたりに聞こえたけれど、彼はすぐその時どうしたわけか、最初の響きを聞くと同時に、これはたしかにここ[#「ここ」に傍点]ヘ――四階の老婆の住まいへ来るに相違ない、という疑いをいだいた。彼はその後もこのことを非常にはっきりと、よく覚えていた。それはなぜだろう? 何かそれほど特殊な、意味ありげな足音ででもあったのか? それは重々しく、規則ただしい、ゆったりとした足音だった。ああ、もう男は一階を通り過ぎた、ああ、また上がって来る。しだいしだいにはっきりしてくる! 上がって来る男の重々しい息ぎれの声が聞こえだした。やがていよいよ三階へかかった……ここへ来るのだ! すると、彼はにわかに化石でもしたような思いであった。さながら夢で人が自分を殺そうと追っかけて来るのに、こちらは根がはえたようになって、手を動かすこともできない、そういったような感じだ。
 いよいよ客がもう四階へ上がり始めたとき、その時はじめて、彼はふいにぶるぶるっと全身をふるわし、つるりとすばしっこく控え室から奥の部屋へすべり込み、やっと後ろ手にドアをしめることができた。それからせんをつかんで、そっと音のしないように、枘《ほぞ》へさし込んだ。本能が手伝ったのだ。これだけすっかりすますと、彼は息を殺して、ドアのすぐそばに身をひそめた。知らない男もやはりすでに戸口に立っていた。彼らはいま互いに相対して立っているのだった。ちょうどさきほど、彼が老婆とドアをへだてて向き合いながら、耳をすましていたのと同じように。
 客は幾度か大きな息をふっとついた。『きっとふとった大きなやつに相違ない』手おのを握りしめながら、ラスコーリニコフは考えた。じっさい、いっさいがまるで夢のようだった。客はベルのひもをつかんで、激しく引き鳴らした。
 ベルのブリキめいた音が、がらがらと響くやいなや、彼はふいに、部屋の中でだれかが身じろぎしたような気がした。幾秒かの間、彼は真剣に耳をすました。だれともしれぬ男はもう一度ベルを鳴らして、しばらく待ってみたが、急にがまんしきれなくなったらしく、力まかせにドアのハンドルを引っぱり始めた。ラスコーリニコフは慄然《りつぜん》として、枘《ほぞ》の中でおどりまわるせんの鉤《かぎ》を見つめながら、今にもせんがはずれるかと、鈍い恐怖をいだいて待っていた。事実、それはありうべきことに思われた――それほど引っぱりかたが烈しかったのである。彼は手でせんをおさえようかと思ったが、それでは男にさとられるおそれがあった。彼はとほうにくれた。また目がまわりそうになった。『今にもぶっ倒れるぞ!』こんな考えがひらめいた。けれど、だれともしれぬ男がしゃべりだしたので、彼はたちまちわれにかえった。
「いったいどうしたってんだ、やつらぐうたら寝てやがるのか、それとも、だれかに絞め殺されでもしたのか? こん畜生!」と彼はたるの中から出るような声でどなりだした。「おおい、アリョーナ・イヴァーノヴナ、鬼ばばあ! リザヴェータ・イヴァーノヴナ、絶世の美人! あけてくれたまえ! ええ、いまいましい、やつら寝てやがるのかな?」
それから、またもやかんしゃくまぎれに、たてつづけに十ぺんぱかり、力いっぱいベルの紐をひっぱった。もちろん男は、この家で勢力のある昵懇《じっこん》な人間に相違ない。
 ちょうどこの時、ふいに小刻みなせかせかした足音が、ほど近い階段の上に聞こえた。まただれかがやって来る。ラスコーリニコフは初めのうち、その音に気もつかないでいた。「いったいだれもいないんですか?」と近寄って来た男は、やはりベルを鳴らしつづけている先客に向かって、いきなり声高に快活な調子で話しかけた。「こんにちは、コッホ君」
『声でみたところ、きっと若い男にちがいない』とふいにラスコーリニコフは考えた。「いや、何がなんだかわけがわからん、危うく錠前をぶちこわさないばかりさ」とコッホは答えた。「ところで、きみはどうしてぼくをごぞんじです?」
「これはどうも! おとといハムブリヌースで球を突いて、つづけざまに三度もあなたを負かしたじゃありませんか!」
「ああ、なある……」
「で、ふたりともるすなんですか? 変ですね。だが、じつにばかげた話ですね。あのばあさんどこに行くところがあるんでしょう! ぼく用があるんだけど」
「いや、ぼくだって、きみ、用があるんですよ!」
「だが、どうしたもんでしょう? つまり、引っ返すんですかな? ええっ! ぼくは、金を手に入れるつもりで来たのに!」と若いほうは叫んだ。
「むろん引っ返さなくちゃ。だが、なんだって時間まで決めておくんだ! 鬼ばばめ、自分で時間を決めやがったんですよ。ぼくにゃまわり道になるんですぜ。いったいあいつどこをほっつきまわる所があるんだろう。合点がいかない。鬼ばばめ、年じゅううちにすわったきり、足が痛むとかってくすぶってやがるくせに、今ごろ急に遊びに出るなんて!」
「庭番にきいたらどうですかね?」
「何を?」
「どこへ行ったか、そしていつ帰って来るか?」
「ふん……いまいましい、きいてみるかな……だが、あのばあさんけっして出かけることなんかないんだがなあ……」と彼はもう一度ドアのハンドルを引っぱった。「畜生、しかたがない、行ってみよう!」
「ちょっと待ってください!」と若いほうが急に叫んだ。「ごらんなさい。引っぱるとドアが動くじゃありませんか?」
「で?」
「つまり、ドアにはかぎがかかってるのじゃなくて、せんか、掛け金がかかってるだけなんですよ! 聞いてごらんなさい、せんがことこといってるでしょう?」
「で?」
「いったいどうしておわかりにならないんです? つまり、ふたりのうちだれかが家にいるんですよ。もしみんな出て行ったのなら、外からかぎをかけるべきで、中からせんをさすわけがないじゃありませんか。ところがね――聞いてごらんなさい、せんがことこといってるでしょう? 中からせんをさすにゃ、家にいなくちゃならんはずじゃありませんか、そうでしょう? してみると、家にいるくせにして、あけやがらないんだ!」
「やっ、なるほど! そのとおりだ!」と驚いてコッホはいった。「じゃ、あいつらなかで何してやがるんだ!」
 こういって、彼は猛然とドアを引っぱり始めた。
「お待ちなさい!」とまた若いほうが叫んだ。「引っぱるのをおよしなさい! これには何か変なことがあるんですよ……だって、あなたがベルを鳴らしたり、引っぱったりなさるのに、あけようとしないんでしょう。してみると、ふたりとも気絶でもしてるか、でなければ……」
「なんですって?」
「ね、こうしましょう! 庭番を呼んで来ようじゃありませんか。あいつにふたりを起こさせましょう」
「名案だ!」
 ふたりはおりて行きかけた。
「待ってください! あなたはここに残っててくれませんか。ぼくはひとっ走り庭番を呼んで来ますから」
「なぜ残るんです?」
「だって、何が起こるかもしれませんものね……」
「それもそうだな……」
「じつはね、ぼく予審判事になる準備中なんですよ! これはたしかに、たあしかに何か変なことがあるんです!」と若いほうは熱くなって叫びながら、かけ足で階段をおりて行った。
 コッホはあとに残って、もう一度そっとベルを動かしてみた。するとベルは一つがらんと鳴った。それから、頭をひねったり検査したりするようなぐあいに、そっとドアのハンドルを動かしはじめた。ドアがせんだけでしまっているのかどうか、も一度確かめるらしく、引いたり放したりするのであった。やがて、ふうふう息をはずませながら、かがみこんで、かぎ穴をのぞきにかかった。けれど、それには内側からかぎがさし込んであったので、何も見えなかったはずである。
 ラスコーリニコフはじっと立ったまま、おのを握りしめていた。彼はまるで熱にうかされているようだった。もし彼らがはいって来たら、ふたりと戦おう、とさえも覚悟したほどである。ふたりがドアをたたいたり、申し合わせたりしていたときなど、彼は一時にすべてを解決するため、ドアの中から彼らをどなりつけてやろうかという考えが、ふいに幾度となく頭に浮かんだほどである。ともすると、ふたりがドアをあけてしまうまで、彼らとののしり合ったり、からかってやったりしたくてたまらなかった。『もう早くなんとかなっちまえ!』こんな感じが彼の頭にひらめいた。
「それにしても、あの野郎いまいましいやつだ……」
 時は過ぎていった。一分、二分――だれも来なかった。コッホはもぞもぞし始めた。
「ちぇっ、ばかばかしい!………」ふいに彼はこう叫ぶと、がまんしきれないで見張り番をうっちゃらかし、いそがしげに、階段を長ぐつでことこと鳴らしながら、同じように下りて行った。やがて足音は聞こえなくなった。
『ああ、どうしたものだろう!』
 ラスコーリニコフはせんを抜いて、ドアを細目にあけた――何も聞こえない。とふいに、もうまったくなんにも考えないで外へ出ると、できるだけぴったりドアをしめて、下へおりて行った。
 彼がもう階段を三つ下りたとき、ふいに下のほうで騒々しい物音が聞こえた――どこへ身を隠そう! どこにも隠れる場所はない。彼はまた老婆の住まいへかけもどろうとした。
「やい、こん畜生、生意気な! 待ちやがれ!」
 この叫び声とともに、だれやらどこか下のほうの部屋からとび出して、かけおりるというよりも、階段をころげるようにおりて行きながら、のどいっぱいにわめくのであった。 
「ミーチカ! ミーチカ! ミーチカ! ミーチカ! ミーチカ! ふざけると承知しねえぞ!」
 やがて叫びは高い、かなきり声になってしまい、最後の響きはもう外で聞こえた。あたりはしんと静まりかえった。けれどその瞬間に、いくたりかの人が大声にがやがや話しながら、騒々しく階段をあがって来た。三人か四人らしかった。彼は例の若い男のよく響く声を聞きわけた。『あの連中だ!』と彼は思った。
 もうすっかりやけになって、彼はまっすぐに、彼らのほうへ向かって進んだ――どうにでもなるようになれ! 呼びとめられたら、万事休すだ。うまく通り過ぎたところで、やはり万事休すだ。顔を見覚えられる。すでに彼らはもう両方から近づいていた。彼らの間には、もう階段を一つあますばかりだった――と、思いがけない救いが現われた! 幾段かへだてて右のほうに、あけ放しになった、からの部屋があった。例のペンキ屋が仕事をしていた二階の住まいで、今しもあつらえたようにみんな出て行ったのである。たった今、わめきながらかけおりて行ったのは、きっと彼らにちがいない。床板はちょうど塗りあがったばかりのところで、部屋のまん中には小さなおけと、ペンキとブラシのはいった欠け皿が置いてあった。せつな、彼はあけ放たれたドアの中へすべり込んで、壁のかげに身をひそめた。それは真に危機一髪で――もうそのとき、彼らは踊り場に立っていた。それから一同は上へ曲がって、そばを通りぬけ、声高に話し合いながら、四階をさして行った。彼はそれをやり過ごして、つま立ちで外へ出ると、そのまま下へかけおりた。
 階段にはだれもいなかった! 門の下も同様だった。彼はすばやく門の円天井の下を抜けて、往来を左へまがった。
 彼はよく知りぬいていた。この瞬間、彼らがもう老婆の住まいにはいっていることも、たった今まで締まっていたドアが開いているのを見て、びっくり仰天していることも、彼らがもう死骸を見ていることも、一分とたたないうちに、たった今までそこにいた犯人がどこかへ隠れて、彼らのそばをすべりぬけ、まんまと逃げおおせたのだと、想像をめぐらして推定するに相違ないということも、彼らが階上へ登って行く間に、犯人が空き室にいたことも、彼らはおそらく気づくに相違ない――これらすべてのことを、彼はりっぱに承知していたのである。それにもかかわらず、彼はどうしてもあまり足を早めることができなかった。しかも、最初の曲がり角までは、ほんの百歩ばかりにすぎなかったのだ。『どこかの門下へしのび込むか、それともどこか知らない家の階段で待つとするかな? だめだ、弱ったぞ! ところで、どこかへおのを捨てたほうがいいかな! つじ馬車を雇うか? たいへんだ! たいへんだ!』
 彼の頭の中は、ごちゃごちゃになっていた。やがて、ついに横町まで来た。彼は、なかば死んだ人のように、そこへ曲がった。ここまで来れば、もう半分助かったようなものである。彼にもそれがわかっていた。嫌疑《けんお》も少ないし、それにここは往来がはげしかったから、彼は砂粒のように人ごみへまぎれ込んでいった。けれど、こうしたさまざまな苦しみが、心身の力を奪いつくしたので、彼はやっとの思いでからだを運んでいた。玉の汗がぽたぽた流れて、首筋はぐっしょりぬれていた。『どうだ、あの酔っぱらってるざまは!』彼が掘り割へ出たとき、だれかがこうどなりつけた。
 彼は今もうはっきりした意識がなかった。先へ進めば進むほど、ますますいけなかった。とはいえ、思いがけなく掘り割通りへ出たとき、彼は人通りの少ないのに愕然《がくぜん》として、ここは人目につきやすい、横町へ引っ返そう、と思ったのを覚えている。ほとんど倒れそうだったにもかかわらず、それでもやはりまわり道をして、まったく反対の方角から家へ帰った。
 彼はやはり完全な意識を持たないままで、自分の家の門をくぐった。やっと階段口までさしかかったとき、初めておののことを思い出した。考えてみると、なかなか大問題が前に控えているのだった。ほかでもない、できるだけ目につかぬように、おのをもとへもどしておくことである。もちろん、そのおのをもとへもどさないで、いつかあとでもいいから、どこかよその裏庭へでもほうり込むほうが、はるかにいいのかもしれないということを、考え合わすだけの力もなかったのである。
 しかし、万事は好都合にすんだ。庭番小屋の戸はしまっていたが、錠はかかっていなかった。してみると、門番が家にいることは確からしかったが、彼はぜんぜん思考の能力を失っていたので、いきなり庭番小屋へ近づいて、さっと戸をあけた。もし庭番が『なんの用か?』とたずねたら、彼はいきなりおのをわたしたかもしれない。が、庭番はまたぞろいなかった。で、彼はまんまとおのを元どおり、腰掛の下へ置くことができたのみか、前と同様に、まきで端を隠しさえもした。彼はそこから自分の部屋まで、だれにも、それこそ猫の子一ぴきにも出会わなかった。主婦の戸口もしまっていた。自分の部屋へはいると、彼は着のみ着のままで、長いすの上へ身を投げ出した。眠りこそしなかったが、自己忘却の状態におちいっていた。もしそのときだれか部屋へはいって来たら、彼はすぐさまはね起きて叫び声をあげたに相違ない。何かわけのわからぬ想念の断片や破片が、やたらに頭の中をうようよしていたが、彼はいかに努力しても、その一つさえつかむこともできなかったし、その中のどれにも頭を集中させることができなかった……


第二編

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 こうして、彼はずいぶん長いあいだ横になっていた。ときおりふっと目がさめるらしく、もうとっくに深夜が訪れているのに気づくこともあったが、起きようなぞという考えは頭に浮かばなかった。とうとう彼は、もう昼間の明かりになっているのに気がついた。さきほどからの忘却状態で、硬直《こうちょく》したようになったまま、長いすの上であおむけに寝ていた。通りのほうからは恐ろしい、やけ半分みたいなわめき声が、鋭く彼の耳にまで伝わってきた。もっとも、それは毎晩二時過ぎに、窓の下あたりでよく聞いたものである。つまり、この音が今も彼の目をさましたのである。『ああ、もう酔っぱらいどもが酒場から出て来たな』と彼は心に思った。『二時過ぎだ』こう思うと彼はいきなり、まるでだれかにもぎはなされでもしたように、長いすからがばとはね起きた。『やっ! もう二時過ぎだ!』彼は長いすの上にすわった――と、その時はじめていっさいを思い出した! とつじょとして一瞬の