京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P370-381   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦23日目]

よ」と彼女はまた薄笑いを浮べた。「でも、やはりあんたが腹を立てたろうと思って、心配でたまらないわ。」
「おや、本当だ、」突然、ラキーチンが心《しん》から驚いた様子で、こう口を入れた。「ねえ、アリョーシャ、本当にこの人は君を恐れてるぜ、君のような雛っ子を。」
「それはね、ラキートカ、あんたの目にはこの人が雛っ子に見えるでしょうよ、はい……そのわけはあんたに良心がないからですよ、はい! わたしはね、わたしはこの人を心底から愛していますよ、はい! アリョーシャ、わたしがあなたを心底から愛してるってことを、あんた本当にして?」
「ええ、なんて厚かましい女だろう! このひとはね、アリョーシャ、君に愛の打ち明けをしてるんだよ。」
「それがどうしたの、愛しているわ。」
「じゃ、その将校は? モークロエからのいい知らせは?」
「あれとこれとは別だわ。」
「なるほど、女らしい考え方だあね!」
「わたしに腹をたてさせないでちょうだい、ラキートカ」と、グルーシェンカは熱くなって抑えた。「あれとこれとは別だわ。アリョーシャは別な愛し方で愛してるのよ。もっともね、アリョーシャ、以前はあんこに浅はかな考えを持ってたわ。わたしはね、アリョーシャ、根性の汚い意地のわるい女だけれど、どうかすると、あんたを自分の良心のように眺めることがあるの。『いまごろあの人はわたしを穢れた女だと思って、軽蔑してるに相違ない』とそんなことばかり考えるのよ。一昨日も、あのお嬢さんの家から駆け出して帰る時、やっぱり心の中でそう思ったわ。わたし先《せん》からあんたをそんなふうに見てるのよ。ミーチャもそのことを知ってるわ、わたしが話したから。現にミーチャも同じようなことを考えてるのよ。あんた本当にするかどうか知らないけれど、わたしはあんたを見てると恥しくなるの、自分という人間が恥しくてたまらなくなるの……どうして、いつ頃からあんたのことをこんなふうに考えるようになったか、わたし自分でわからない、覚えていないわ……」
 フェーニャが入って来て、盆をテーブルの上へ置いた。その上には口を抜いた壜が一本と、なみなみついだ杯が三つのせてあった。
シャンパンが来た!」とラキーチンは叫んだ。「アグラフェーナさん、君は恐ろしく興奮して、夢中になってるようだが、こいつを一杯飲んだら、踊りでもやりだしたくなるよ。おやおや、これくらいのこともできないのかなあ。」彼はシャンパンを見すかしながら、こう言いたした。「あの婆さん、勝手ですっかり注いじまって、壜に栓もしないで持って来やがった、おまけに生ぬるいときてる。が、まあ、これでもいいとしとくさ。」
 彼はテーブルに近寄って、杯を取り上げ、一息にぐっと飲み干して、また自分でもう一杯ついだ。
シャンパンとなると、なかなか容易にありつけないやつさ」と彼は舌なめずりしながら、「どうだ、アリョーシャ、杯を取って元気のいいところを見せないか。ところで、何を祝って飲むとするかな? 天国の扉のためとでもするか? グルーシェンカ、君も一つとりたまえな。君も天国の扉のために飲まない?」
「天国の扉のためって、何のこと?」
 彼女は杯をとった。アリョーシャも、自分の杯を取り上げて、一口ぐっと飲んだが、そのまま杯をもとの場所へ戻してしまった。
「いや、やはり飲まないほうがいい!」と彼は静かにほお笑んだ。
「さっきのから元気はどうしたい!」とラキーチンが叫んだ。
「そういうことなら、わたしもおやめだ」とグルーシェンカが受けた。「それに、ほしくもないわ。ラキートカ、あんた一人ですっかり平らげておしまいなさい。もしアリョーシャが飲めば、その時はわたしも飲むけれど。」
「どうも甘ったるいところを見せつけられるぞ!」とラキーチンが茶々を入れた。「しかも、ご自分は男の膝の上に乗っかってさ! まあ、この人のほうは不幸があるから飲まないとしたところで、君のほうに一たい何があるというんだね! この人は自分の神様に謀叛を起して、腸詰を食べようとしているんだがなあ……」
「それはどういうわけ?」
「この人の長老が今日死んだのさ、神聖なるゾシマ長老さまがさ。」
「じゃ、ゾシマ長老がおなくなんなすったの?」とグルーシェンカは叫んだ。「まあ、どうしよう、わたしはそれさえ知らなかった!」彼女はうやうやしく十字を切った。「ああ、わたしはどうしたっていうんだろう。この人の膝の上に乗っかったりして!」と彼女は叫んで、びっくりしたように膝から飛びおり、長椅子の上に坐りなおした。
 アリョーシャは驚いて、じいっと彼女を見つめた。その顔が何だか明るくなったような工合であった。
「ラキーチン」彼は突然、断乎とした調子で声高に言いだした。「からかうのはよしてくれたまえ、僕が神様に謀叛を起したなんて……僕は君に対して悪感を持ちたくないから、君もも少し善良な気持になってくれたまえな。僕はね、君が今までかつて持ったことがないような宝を失ったのだから、君はいま僕のことを云々する資格はないんだよ。それよりか、まあ、このひとを見たまえ、このひとが僕を憫れんでくれたのは、君にもわかっだろう? 僕はここへ来る時、意地のわるい魂を発見する覚悟でいた、――第一、自分からそういうところへ行きたくなったのだ、なぜって、僕が卑劣でやくざだったからさ。ところが、意外にも、誠実な姉を発見した、愛する心を発見した、宝ものを発見したのだ……このひとは僕を憫れんでくれた……アグラフェーナさん、僕はあなたのことを言ってるんですよ。今あなたは僕の心を鼓舞してくれました。」
 彼の唇は顫え、息はつまってきた。彼は言葉を休めた。
「まるで、このひとが君の命を助けでもしたようだね。」ラキーチンは毒々しく笑いだした。「ところが、この女は君をとって食うつもりでいたんだよ、君はそれを知ってるかい?」
「お黙り、ラキートカ!」とグルーシェンカはいきなり飛びあがった。「二人ともお黙んなさい。今こそわたし何もかも言っちまうわ。アリョーシャ、あんたにお黙んなさいと言ったのはね、今あんたの言葉を聞いてると、恥しくてたまらなくなるからよ。だって、わたしはいい人間どころか、本当に意地わるなんですもの! わたしこんな人間なのよ。ところで、ラキートカ、あんたにお黙りと言ったのはね、あんたが嘘ばかりをつくからよ。まったく一時この人をとって食おうというような、いやしい考えがあったに相違ないけれど、今じゃあんたの言うことは嘘よ、今はもうまるっきり違うんだもの……それに、わたしもうあんたの声を聞くのもいやだわ、ラキートカ!」
 グルーシェンカはなみなみならぬ興奮の体で言い放った。
「どうだ、二人ともすっかりのぼせてしまってらあ!」とラキーチンは面くらって、二人を見くらべながら、口を尖らしてこう言った。「まるで気ちがいだ、瘋癲病院にでも行ったようだ。両方ともめそめそしちゃって、今にも泣きだしそうじゃないか!」
「本当に泣きだすわ! 本当に泣きだすわ!」とグルーシェンカは言った。「この人はわたしを姉と言ってくれたのよ。わたし決してこれを忘れやしないわ! だけど、ラキートカ、わたしは意地のわるい女だけど、それでも葱をやったことがあるのよ。」
「葱ってなに? ちぇっ、ばかばかしい、本当に気がちがったんだな!」
 ラキーチンは二人の歓喜のさまを見て、呆気にとられながら、侮辱されたような腹立たしさを感じた。もし静かに思いめぐらしたなら、この、人生にあまりたびたびない偶然によって、一切のものが、二人の魂を震撼させるようにうまく符合したのだ、ということを悟りえたはずであるが、しかし、すべて自分に関係したことにはきわめて微妙な直感力を持つラキーチンも、他人の情緒、感覚の理解にいたっては、非常に大ざっぱであった、――それはいくぶん年若で経験の少いためでもあるが、またいくぶんは過度なエゴイズムのせいでもあった。
「ねえ、アリョーシャ」グルーシェンカは彼のほうへ振り向いて、とつぜん神経的に笑いだした。「今わたしが葱をやったことがあるって言ったのは、ラキートカに向って自慢しただけで、決してあんたにしたんじゃないわ。あんこには別な当てがあって話すのよ。それはただの譬え話だけど、なかなかよくできてるわ。わたしまだ子供の時分にマトリョーナ、――今うちでお台所をしているばあやから聞いた話なの。よくって、こういうのよ。『昔々あるところに、意地のわるいお婆さんがいたんですとさ。それが死んだとき、跡に何一ついい行いが残らなかったので、サタンはお婆さんを捕まえて火の湖へ投げ込んじゃったの。ところが、お婆さんの守り神の天使は、何か神様に申し上げるようないい行いがあのお婆さんにないかしらんと、じっと立って考えているうちに、やっとあることを思い出したので、神様に向いて、あのお婆さんは畑から葱を抜いて来て、乞食女にやったことがあります、と言ったのよ。すると神様は、ではお前一つその葱を取って来て、湖の中にいるお婆さんのほうへさし伸ばして、それに掴まらしてたぐるがいい。もし首尾よく湖の外へ引き出せたら、お婆さんを天国へやってもよい。またもし葱がちぎれたら、お婆さんは今の場所へ、そのままおかれるのだぞ、とこういうご返事なんですとさ。天使はお婆さんのところへ走って行って、葱をさし伸べながら、そら、お婆さん、これに掴まっておたぐりと言って、そろっと気をつけて引き始めたのよ。そうして、もう大方ひき上げようとしたところへ、湖の中にいるほかの餓鬼どもが、お婆さんが引き上げられているのを見て、自分らも一緒に出してもらおうというので、みんなでその葱に掴まりだしたの。すると、そのお婆さんは意地のわるいわるい女だから、みんなを足で蹴散らしながら、引いてもらってるのはわたしだよ。お前さんたちじゃありゃしない、わたしの葱だよ、お前さんたちのじゃありゃしない、とそう言うが早いか、葱はぶつりと切れちゃったのよ。そして、お婆さんはまた湖へ落ちて、今までずっと燃え通しているんだって。天使は泣く泣く帰ってしまいましたとさ。』これがその譬え話なのよ、アリョーシャ、わたしもうそらで覚えてるわ。だって、わたしがその意地わる婆さんなんですもの。ラキートカには葱をやったと自慢したけれど、あんたには別な言い方をするわ。つまり、一生涯の間たった一度[#「たった一度」に傍点]、ちょいと葱を恵んでやったことがあるきりなの。やっとそれくらいの善根があるきりなの。だから、あんたね、アリョーシャ、これからわたしを褒めないでちょうだい。いい人間だなぞと思わないでもようだい。わたしは意地のわるいわるい女なんですもの、あんたに褒められると恥かしくなっちまうわ。ええ、まったくよ、本当に後悔しているのよ。実はね、アリョーシャ、わたしはあんたを家へおびき寄せたくてたまらなかったのでね、一生懸命ラキートカに頼んで、もしここへあんたを連れて来たら、二十五ルーブリやろうって約束したのよ。ちょっと、ラキートカ、お待ちよ!」彼女は急ぎ足にテーブルへ近寄り、抽斗を開けて金入れを取り出し、その中から二十五ルーブリ札を引き抜いた。
「何を馬鹿な、そんな馬鹿な!」とラキーチンは度胆を抜かれて叫んだ。
「お取りよ、ラキートカ、約束じゃないの。あんだだって辞退しやしないでしょう、自分のほうから頼んだんだもの」と彼に紙幣《さつ》を抛りつけた。
「むろん、辞退するわけがないさ。」ラキーチンは恐ろしく当惑したが、磊落をよそおって羞恥の情を隠しながら、太い低い声でこう言った。「これがちょうどお互いに相応した役廻りなんだ。馬鹿なやつらがいてくれるおかげで、利口な人間がうるおうのさ。」
「もうそれでお黙り、ラキートカ、これからわたしの言うことは、あんたに聞かせるためじゃないんだからね。その隅っこへ入って黙っておいで。あんたはわたしたちを愛していないんだから、黙ってたらいいのよ。」
「そうさ、君たちを愛する因縁がないじゃないか!」もう憤懣の念を隠そうともしないで、ラキーチンはくってかかった。彼は二十五ルーブリ札をかくしへ押し込んだが、アリョーシャに対して、きまりがわるくてたまらなかった。実のところ、アリョーシャに知られないように、あとでもらうつもりでいたのだが、今はきまりわるさに自分から腹を立てたのである。これまでは、いくらグルーシェンカに皮肉を言われても、あまり口返事をしないのが利口だと考えていた。なぜなら、彼女が自分に対して、一種の権力を持っているように思われたからである。けれど、今はすっかり腹を立ててしまった。
「人を愛するには、何か因縁がなくちゃならない。ところで、君たちは僕に何をしてくれたい!」
「因縁がなくたって、愛さなきや駄目だわ、ちょうどこのアリョーシャみたいにね。」
「一たいどうしてアリョーシャが君を愛してることになるんだろう? 一たいこの人がどんなそぶりを見せたので、君がそんなに大騒ぎをするんだろう?」
 グルーシェンカは部屋の真ん中に立って、燕をおびた調子で話しだした。その声の中にはヒステリヅクな響きがあった。
「お黙り、ラキートカ、あんたにゃわたしたちの心持はちっともわからないんだから! それに、これからわたしのことを、君呼ばわりなんかしないでちょうだい。あんたにそんなことを許すのはいや。一たいどこからそんな悪度胸をとって来たんだろう、本当に! うちの下男のように、隅っこへ引っ込んで、黙っておいで! さあ、アリョーシャ、今こそわたし、ありのままを包まず隠さず、あんた一人に話して聞かせるわ。わたしがどんな畜生だか、あんたに知ってもらいたいの! ラキートカじゃない、あんたに話すのよ。わたしあんたの身を破滅させたかったの、アリョーシャ、それは嘘も隠しもない本当のこと、もうすっかり肚をきめちゃったの。あんたを連れて来てもらうために、ラキートカを金で買ったくらい望みが強くなったの。何のためにわたしがそんな気になったかわかって? あんたはね、アリョーシャ、何も知らないから、わたしに顔をそむけて、伏目になって通り過ぎたもんだわね、――ところが、わたしは今まで百ぺんくらいあんたを見たし、あんたのことをみんなに訊ねて廻ったわ。あんたの顔が胸にこびりついて離れないの。『あの男はしと[#「しと」に傍点]を馬鹿にしてる。しと[#「しと」に傍点]の顔を見ようともしない』と思ってね、しまいには自分でも、『何だってあんな小僧っ子がおっかないんだろう?』と、呆れるほど、たまらない気持になってしまったの。今にみろ、一口にとって食って笑ってやるから、とやっきになって口惜しがったものだわ。あんたは本当にするかどうかしれないけれど、アグラフェーナ・アレクサンドロヴナのとこへ、例のいやらしいことを当てにして出かけよう、などと生意気なことを言ったり考えたりするものは、この町に一人もいなくなったのよ。もっとも、あのお爺さんだけはわたしのそばについてるわ。あの人には悪魔の取りもちで結びつけられて、売物にされてしまったけれど、その代り、ほかには一人もありゃしない。ところが、あんたを見た時、あいつを一口に食ってやろうと肚をきめたの。一口に食っちまって、笑ってやろうと思ったの。ねえ、わたしはなんて意地わるの犬でしょう。それを、あんたは姉だなんて言ってくれたのねえ!ところが、今度あの悪性男が帰って来たので、わたしは今こうして知らせを待っているの。一たいあの悪性男がわたしにとって、どういう意味をもってたか、あんたにそれがわかって? 五年前サムソノフがわたしをここへ連れて来た時、わたしは人に姿も見られまい、声も聞かれまいと思って、よく家にばかり引き籠っていたものだわ。馬鹿だったわねえ。しょんぼりと坐ったまま、幾晩も幾晩も寝ないで泣き通したの。そして、『あの男はどこにいるんだろう? あの悪性男は? きっとほかの女と一緒に、わたしを笑ってるに相違ない。今にみろ、いつか見つけ次第うらみをはらしてやるから、きっとうらみをはらしてやるから!』なんて考えたのよ。夜、暗闇の中で枕に突っ伏して泣きながら、そのことばかり繰り返し巻き返し考えてね、わざわざ自分の心を掻きむしっては、意地わるい心持で渇きをいやしていたの。『今にみろ、今にうらみをはらしてやるから!』ってね。時には暗闇の中で呶鳴ることもあったわ。その時ふと、自分はあの男をどうする力もない、かえってあの男のほうでこそ、今わたしのことを笑ってるのだ、いや、もしかしたら、まるで覚えもないほど忘れてるかもしれない、こう思いつくと、いきなり寝台から床へ身を投げて、意気地のない涙を流しながら、夜の呪けるまで身もだえしでいたの。朝、起きる時には、犬よかもっと意地わるになって、世界じゅうを丸呑みにしてやりたいような気持になったものだわ。それから、どうなったと思って! わたしはお金を溜めにかかったの。人情というものはなくなる、ぶくぶく肥ってはくる、――それで少しは利口になったと思って、え? ところが、そうでないの。世界じゅうで誰ひとり見るものも、知るものもないけれど、ときどき夜の闇が落ちて来ると、五年前の小娘の時と同じように、寝ながら歯をぎりぎり食いしばって、夜っぴて泣き明かすことがあるわ。そして、『今にみろ、今にみていろ!』と考えるの。あんたすっかり聞いてくれて? じゃ、今のわたしをどんなふうに考えて? 一月ばかり前に、突然この手紙がわたしの手に届いたじゃないの。その中には、おれは女房に死なれたので、近いうちにそっちへ行く、お前に会ってみたくなったのだ、と書いてある、――わたしは息がつまるような気がしてね、ああ、どうしようと考えるうちに、ふいと思いがけなく、『もしあの男がやって来て、口笛をひゅうと吹いて呼んだら、わたしはぶたれた犬のようにしおしおと、あの男のそばへ這って行くのじゃないかしら!』と思うと、自分で自分が信用できないの。『わたしは卑屈な女か、そうでないか、あの男のそばへ駆け出して行くか、行かないか?』こう考えるもんだから、この一月の間というもの、自分で自分に腹が立って、五年前よりもっとひどいありさまになってしまったのよ。ねえ、アリョーシャ、わたしがどんな恐ろしい捨てばちな女かってことが、今こそあんたにもわかったでしょう。わたし嘘も隠しもない本当のことを言ったのよ! ミーチャをなぐさんだのも、ただあの男のとこへ走って行かない用心のためだったの。お黙り、ラキートカ、お前さんなぞにわたしの裁きができてたまるものかね。お前さんに言ったんじゃないよ。わたしはあんたたちの来るまで、ここにじっと臥て待ちながら考えたの、わたしの運命にきまりをつけてたの。わたしの心にどんなことがあったか、あんたたちにゃ決してわかりゃしないわ、ねえ、アリョーシャ、あのお嬢さんにそう言ってちょうだい、あの一昨日のことを怒らないようにってね! ああ、今わたしの思いがどんなだか、世界じゅうに誰ひとり知るものはありゃしない、また知れるはずがないんだもの……わたしは今日あそこヘナイフを持って行くかもしれないのよ。だけど、それさえまだ決心がつかなかったんですもの……」
 この『憫れな言葉』を発すると同時に、グルーシェンカはふいに意地も張りもなくなって、しまいまで言い終らないうちに、両手で顔をおおい、長椅子の上の枕に顔を埋めて、小さな子供のように、しゃくり上げて泣きだした。アリョーシャは席を立って、ラキーチンに近づいた。
「ミーシャ」と彼は言った、「腹を立てないでくれたまえ。君はこのひとに侮辱されたけれども、腹を立てないでくれたまえ。君も今このひとの話を聞いたろう? 人間の心からそうたくさんのことを要求できるものじゃない。寛大な態度をとらなくちゃ駄目だよ。」
 アリョーシャは抑えがたい情緒の激発に駆られて、これだけのことを言ったのである。彼は自分の感じたことを言わずにいられなかったので、その対象としてラキーチンを選んだのである。もしラキーチンがいなかったら、一人きりで叫びだしたかもしれない。しかし、ラキーチンが冷笑的な視線をじろりと向けたので、アリョーシャは言葉を途切らした。
「それはさっき君が長老という弾丸《たま》を装填されたので、今度は僕に向けてそいつを発射したんだね、ようよう、神の使いアリョーシャ君。」ラキーチンは、にくにくしげな微笑をふくみながらこう言った。
「笑うのはよしたまえ、ラキーチン、冷やかすのはよしたまえ。故人のことは言わないでくれたまえ。あの方は地上の誰よりもえらい人だったのだ!」と、声に泣くような調子を響かせながら、アリョーシャは叫んだ。「僕は審判者として君にこんなことを言いだしたのじゃない。僕自身、審判されるものの中でも、一ばん劣等な人間なんだよ。一たい僕はこの人に対してどういう人間にあたるんだろう。僕がここへ来たのは、自分の身を破滅さして、『なに、かまうもんか!』というためだった。これっていうのも、僕の了見が狭いから起ったのだ。ところが、このひとは五年のあいだ、苦しみ通したにもかかわらず、誰かが初めてやって来て、まことの言葉を一こと言うが早いか、――もう一切のことを赦し、一切のことを忘れて、泣いているではないか! 自分を辱しめた男が帰って来て呼んだだけで、このひとは悦んでその男のとこへ急いでるじゃないか。決してナイフなんぞ持って行きゃしない、持って行くものか! ところが、僕にそんなことができるだろうか? ミーシャ、君はできるかどうか、僕にはわからないが、僕はどうしてもできない。僕は今日、たった今この教訓を会得した。このひとは愛の点では、僕らより数等上だよ……君は今の話を、以前このひとから聞いたことがあるかい? ないだろう、聞かないだろう。もし聞いたことがあれば、とくに理解してるはずだものね……それから、おととい侮辱を受けたもうひとりのひと、あのひとにもグルーシェンカを赦してもらいたいもんだねえ! いや、まったく赦してくれるだろう。もし事情を知ったら……その事情も必ず知れるに相違ない……このひとの霊魂はまだ本当の平和を得ていないのだから、いたわって上げなくちゃならん。この霊魂の中には確かに宝があるのだ……」
 アリョーシャは口をつぐんだ、息が切れたからである。ラキーチンは毒々しい気分に浸っていたにもかかわらず、あっけにとられて、じっと見つめていた。彼はもの静かなアリョーシャから、こうした雄弁を期待しなかったのである。
「大へんな弁護士ができちゃった! しかし、君はこのひとに惚れたんじゃないのか、え? アグラフェーナさん、わが苦行者は本当に君に惚れ込んじゃったよ。とうとう兜を脱いだのさ!」彼は高慢な笑いを浮べながら叫んだ。
 グルーシェンカは枕から頭を持ちあげて、アリョーシャのほうを見た。今の涙で急に腫れぼったくなった顔には、感激の微笑が輝いた。
「アリョーシャ、わたしの天使、あの人なんかうっちゃっときなさい。本当になんて男だろうねえ。人もあろうに、あんたに向ってあんなことを言うなんて。わたしはね、ミハイル・オシポヴィッチ」と彼女はラキーチンのほうへ向いた。「さっき、あんたをさんざん悪く言ったのを、謝ろうかと思ったけど、今また厭になったの。アリョーシャ、こっちい来てわたしのそばへお坐んなさい。」悦ばしげなほお笑みを浮べつつ、彼女は小手招きした。「そうよ、そこへお坐りなさい。わたしあんたに訊きたいことがあるの(彼女はアリョーシャの手を取って、ほお笑みながらその顔を覗き込んだ)――ほかじゃないけれど、わたしはあの男を愛しているかいないか、一たいどうなんでしょう? あの悪性男を愛しているかいないか? わたしはね、あんたたちの入って来るまで、ここの暗やみに寝ころんだまま、あの男を愛してるかどうか、自分の胸に訊いていたの。アリョーシャ、わたしの心を決めてちょうだい。もうそういう時が来たのだから、あんたの決めたとおりにするわ。あの男を赦したものかどうでしょう?」
「もう赦してるじゃありませんか」とアリョーシャは微笑しながら言った。
「そう、本当に赦してるわねえ」とグルーシェンカはもの思わしげに言った。「ええ、なんて汚い心だろう! わたしの汚い心のために!」と言うなり、彼女はテーブルから杯を取って、一息にぐっと飲み干すと、それを上へさし上げて、力まかせに床へ叩きつけた。杯はがらがらと音を立てて砕けた。一種残忍な影がその微笑の中にひらめいた。
「だけど、まだ赦してないかもしれないわ。」ちょうどひとりごとでも言うように、じっと下のほうを見つめながら、何となく凄い調子で彼女は言いだした。「もしかしたら、これから赦そうと思ってるだけかもしれないわ。わたしはまだ自分の心と戦ってみるわ。ねえ、アリョーシャ、わたしは五年間の自分の涙が、たまらないほど好きだったの……もしかしたら、わたしは自分の受けた侮辱を愛していただけで、あの男はまるで愛してなかったかもしれないわ!」
「おやおや、こいつはあやかりたくないものだね!」とラキーチンが頓狂な声を出した。
「あやかりゃしないよ、ラキートカ、決してあやかりっこなしよ。あんたはわたしの靴でも縫えばいいんだわ。わたしがあんたを使ってあげるとすれば、まあ、それくらいの仕事だあね。あんたなんか、わたしのような女を拝むこともできないのよ……それに、あの男だって拝めないかもしれない……」
「あの男も? じゃ、その衣裳は何のためだね?」とラキーチンが意地わるくからかった。
「衣裳なんかで、わたしを咎めだてしないでちょうだい、ラキートカ、あんこはまだわたしの心をすっかり知らないのだから! なに、その気にさえなったら、衣裳なんか引き裂いてしまうわ、今だって、今すぐだって引き裂いて見せるわ」と彼女は響きの高い声で叫んだ。「あんたはこの衣裳が何のためか知らないでしょう、ラキートカ。ことによったら、あの男のとこへ出かけて行って、『お前さん、わたしがこんなになったところを、見たことがあるかい?』と言ってやるためかもしれない。だって、あの人に捨てられた時、わたしはやっと十八で、肺病やみの痩せっぽちの泣き虫だったからね。え。わたしは、あの男のそばに坐って、夢中になるほどそそのかしておいて、『わたしが今どんなになったかわかったでしょう。だけど、お生憎さま、うまい汁は髯を流れるだけで、口の中へは入りませんよ!』と言ってやるかもしれない。ねえ、ラキートカ、わたしの衣裳は、こういう目算があってのことかもしれないのよ」とグルーシェンカは意地わるい小刻みな笑いで句を結んだ。
「ねえ、アリョーシャ、わたしはこういった向う見ずな乱暴ものなのよ。自分の衣裳を引き裂いて、自分で自分をて、自分の器量をめちゃめちゃにする加もしれないわ、――自分の顔を火で焼くか刀で斬るかして、袖乞いに出かけて行くかもしれないわ。もしその気にさえなったら、今だってどこへも、誰のところへも行きゃしない。明日にでも、サムソノフからもらったお金も何も、すっかりあの人に返しちまって、自分は一生その日稼ぎの日傭取りに出かけて見せるわ!………わたしにそれができないと思って、ラキートカ? それだけの元気がないと思って? できなくってさ、できなくってさ、今すぐにもして見せるわ。ただわたしの気をいらいらさせないでちょうだい……なに、あの男なぞ追っ払ってやる、あの男になぞ赤んべをしてやる、あの男なんかにわたしの心が見えてたまるものか!」
 最後の言葉は、もうヒステリックな調子で叫んだが、またしても我慢しきれないで、両手で顔をおおうたまま、枕の上に倒れ伏し、ふたたびすすり泣きに身を顫わすのであった。ラキーチンは立ちあがった。
「もう時刻だ」と彼は言った。「だいぶ遅くなった、ぐずぐずしていると、寺へ入れてもらえないかもしれないよ。」
 グルーシェンカはいきなり跳りあがって、
「アリョーシャ、あんたはもう行ってしまうつもりなの!」と悲痛な驚きの色を浮べながら、こう叫んだ。「一たいあんたは今わたしをどうしようっていうの? わたしをあんなに興奮さして苦しめておきながら、またこの一晩をひとりで明かせっていうの!」
「しかし、この男が君のとこで泊るわけにはゆかないじゃないか。だが、お望みならご勝手に! 僕は一人で帰るさ!」ラキーチンは毒々しく冷やかした。
「お黙り、意地わる!」とグルーシェンカは勢い猛《もう》に叫んだ。「この人が今日わたしに言ってくれたようなことを、お前さん一度だって言ったことがあるかえ。」「この男が君にどんなことを言ったい!」とラキーチンはいらいらした調子で呟いた。
「この人が何を言ったか、わたしにゃわからない、ちっともわからない、まるっきりわからない。ただ自分の心にそう感じられたんだわ。この人はわたしの心を底からひっくり返してしまったのよ……この人は、わたしを憐れんでくれた初めての人なの、たった一人しかない人なの! アリョーシャ、天使、なぜあんたはもっと前に来てくれなかったの?」彼女は前後を忘れたように男の前に跪いた。「わたしは今まであんたのような人を待ち受けていたのよ。誰か来て『赦してやる』と言ってくれそうな気がしてならなかったの。わたしみたいな穢れた女でも、いやらしい当てなしに愛してくれる人が、誰かあるに相違ないと信じていたわ!………」
「一たい僕が君に何をしたというんです、」アリョーシャは彼女のほうへこごみかかって、優しく両手をとりながら、感激の微笑を浮べつつ答えた。「僕は君に葱をあげただけです。ほんの小さな葱を一本あげただけです。それっきりです!」
 こう言い終ると、彼は自分から泣きだした。そのとき玄関のほうで、とつぜん騒々しい物音が響いて、誰やら控え室へ入って来た。グルーシェンカは恐ろしい驚愕におそわれた様子で、椅子から飛びあがった。と、フェーニャが騒々しい物音と叫び声を立てながら、部屋の中へ駆け込んだ。
「奥さま、ちょっと、奥さま、使いの者が馬車を飛ばせてまいりました!」彼女は息を切らせながら、はしゃいだ調子で叫んだ。「モークロエから迎えの馬車が三頭立てでまいりました。馭者のチモフェイが、ただいま新しい馬をつけかえると申しております……手紙を、手紙を、奧さま、この手紙をごらんなさいまし!」
 手紙は彼女の手にあった。彼女はこんなことを喚きちらしている間じゅう、その手紙を空に振り廻していたのである。グルーシェンカはそれをフェーニャの手からもぎとって、蝋燭のそばへ持って行った。それは、ただ二三行の短い書きつけだった。彼女はまたたくひまに読み終った。
「さあ、お声がかかった!」病的な微笑に顔をゆがめながら、真っ蒼な顔をして彼女は叫んだ。「口笛が鳴った! さあ、犬ころ、四ん這いになってお行き!」
 彼女は決しかねたように立ちすくんでいたが、それはただ一瞬にすぎなかった。急に血がどっと彼女の頭へ流れ込んで、双の頬を火のように赤くした。
「行こう!」ふいに彼女は叫んだ。「ああ、あの五年間の涙ともこれでお別れだ! さよなら、アリョーシヤ、わたしの運命はもうきまったのよ……さあ、帰ってちょうだい、帰ってちょうだい、もうみんなわたしのそばから離れてちょうだい、もうこれからはわたしの目に入らないようにね! グルーシェンカは新しい生活を目ざして飛んで行くのだから……ラキートカ、あんたもわたしのことを悪く言わないでもようだい、もしかしたら、死にに行くのかもしれないんだから! ああ! まるで酔っ払いのようだわねえ!」
 彼女はだしぬけに二人をうっちゃって、自分の寝室へ駆け込んだ。
「今あの女はわれわれどころの騒ぎじゃないんだ!」とラキーチンはぶつぶつ言いだした。「もう出かけようじゃないか、ぐずぐずしてると、またあのヒステリイじみた喚き声を聞かされるぜ。あの涙っぽい喚き声には、もうあきあきしちゃった……」
 アリョーシャは引かれるままに機械的に外へ出た。庭には一台の馬車が立って、いま馬を離そうとしているところであった。人々は提灯をさげて、忙しそうにあちこちしていた。開け放した門の中へ、新しい三頭の馬が引き込まれようとしている。ラキーチンとアリョーシャが正面の階段をおりる途端に、グルーシェンカの寝室の窓がさっと開いて、彼女は響きの高い声でアリョーシャのうしろから叫んだ。
「アリョーシャ、兄さんのミーチェンカによろしく言ってちょうだい、それから、わたしみたいな毒婦でも、悪く言わないようにってね。まだその上に、『グルーシェンカはあんたのような正直な人の手には入らないで、卑怯者の自由になりました!」ってね、このとおりな言い方で伝えてちょうだい。それから、まだあるのよ、――グルーシェンカは一とき、たった一ときあの人を愛したことがあるの、だからこの――ときを今後一生わすれないように、とこう言い添えてちょうだい。一生涯と言って、グルーシェンカが念を押したってね!………」
 彼女は、涙に充ちた声で、言葉を結んだ。窓はぱたりと閉った。
「ふむ! ふむ!」とラキーチンは笑いながら呟いた。「とうとうミーチャにとどめを刺しちゃった。おまけに一生涯おぼえていろなんて、本当になんてえ残酷なやり口だろう!」
 アリョーシャはその言葉が耳に入らないように、何も答えなかった、彼は恐ろしい急ぎの用事でもあるようなふうで、ラキーチンと並んで足ばやに歩いた。その歩きぶりは、自己忘却におちいった人のように機械的であった。突然、ラキーチンは何かにちくりと刺されたような気がした。それはまだなまなましい傷を、指で触られた時の心持であった。なぜなら、さいぜん彼がアリョーシャをグルーシェンカの家へ連れて行く時、ぜんぜん別なことを期待していたからである。しかるに、実際は予期に反した、しかも、彼にとってすこぶる望ましからぬ結果であった。
「あいつは、――あの将校ってのはポーランド人なんだよ。」彼は自分を抑えたような調子で、またこう口をきった。「おまけに今は将校でも何でもないのさ。シベリヤもどこかシナの国境あたりで、税関の役人をしていたというから、いずれひょろひょろした吹けば飛ぶようなやつだろう。話によると、こんど職を失ったため、グルーシェンカが小金を貯めたという噂を聞きつけて、舞い戻って来たんだそうだ、――それが奇蹟の正体なのさ。」
 アリョーシャは今度もまるで聞いていないらしかった。ラキーチンは我慢しきれなくなって、
「一たい君は、堕落した女を真人間に戻した気でいるのかい?」と彼はアリョーシャに向って、毒々しい笑いをあびせた。「堕落した女を真理の道へ向けたつもりで、自惚れているのかい? 七つの悪魔を追い出した気でいるのかい、え? けさわれわれの期待した奇蹟が、ここで実現されたと思っているのかい!」
「ラキーチン、もうましてくれたまえ。」胸に苦しみをいだきながら、アリョーシャは答えた。
「それは君さっきの二十五ルーブリのために、僕を『軽蔑』しているんだね? こいつ親友を売ったという肚なんだね。しかし、君がキリストでもなければ、僕がユダでもないからね。」
「とんでもない、ラキーチン、僕はまったくそんなこと覚えてもいなかったよ」とアリョーシャは叫んだ。「かえって、いま君のほうから思い出さしたんじゃないか……」
 しかし、ラキーチンはもうすっかり、業をにやしてしまった。
「ええ、君たちのような人はもうみんな勝手にするがいい!」と彼は、だしぬけに声を振り絞って叫んだ。「ばかばかしい、何だって僕は君なんかとかかり合ったんだろう! 今後もう君の顔を見るのもいやだ。さあ、一人で行くがいい、そっちが君の行く道だ!」 暗闇の中にただ一人アリョーシャを置き去りにしたまま、彼はくるりと向きを変えて、別な通りへ曲って行った。アリョーシャは町を出はずれると、野中の道をたどって僧院へ赴いた。

第四 ガリラヤのカナ

 アリョーシャが庵室の入口までたどりついたのは、僧院の慣わしから言えば、もはや非常に遅かった。門番は特別な通路から彼を入れてくれた。もう九時が打った、――それは、すべての人にとって煩い多かりし一日の後に訪れた、一般の休息と安静の時である。アリョーシャは、おずおずと戸を開けて、長老の庵室へ足を入れた。ここにいま棺が据えられてある。部屋の中には、棺に向って淋しく福音書を読んでいるパイーシイ主教と、若い聴法者のポルフィーリイのほか、誰もいなかった。ポルフィーリイは昨夜の談話と今日の混雑に疲れはてて、淞の上で若々しい深い眠りを貪っていた。パイーシイ主教は、アリョーシャの入った物音を聞いたけれども、そのほうを振り向こうともしなかった。アリョーシャは戸口から右手の隅のほうへ曲って行き、跪いて祈禱を始めた。
 彼の胸は一ぱいになっていたが、妙に茫として、これというまとまった感じは、一つとして浮んで来なかった。それどころか、さまざまな感じが緩やかに平調な廻転をしながら、互いに消し合おうとしていた。しかし、心は不思議な甘い感じに浸っていた。アリョーシャはこの事実に驚いた。彼はふたたび目の前にある棺を見た、――四方からことごとく蔽いつくされた、いとも貴い亡骸《なきがら》を見た。しかし、今朝ほどの泣きたいような、疼くような悩ましい哀憐の情は、もはや彼の心になかった。彼は神聖なものに対するように、入口のすぐそばにある棺の前へ身を投げ出した。けれど、歓喜の情、――歓喜の情が、彼の理性と感情をぱっと照らしだした。庵室の窓が一つ開け放たれて、爽やかなすがすがしい空気はしんと静まりかえっていた。『とうとう窓を開けたところを見ると、匂いがいよいよひどくなったんだな』とアリョーシャは考えた。しかし、ついさきごろまで不名誉と思われた腐屍の匂いに関する想念も、今はあの時のような憂悶も憤懣も呼び起さなかった。
 彼は静かに祈り始めたが、間もなくその祈りが機械的なものにすぎない、ということを自分でも感じた。思想の断片は彼の心をかすめて、小さな星のように閃いたが、すぐほかのものと代って消えて行くのであった。けれど、その代り、何か心の渇きをいやすような、完全な、しっかりしたあるものが彼の魂を領していた。彼は自分でもそれを自覚した。ときおり彼は熱誠をこめて祈り始めた。何か妙に感謝したいような、愛したいような欲望がこみ上げてくる……けれど、祈りを始めても、すぐふいとほかのことに心が移ったり、妙に考え込んだりして、祈りも、祈りの妨げをするものも、ことごとく忘れてしまうのであった。パイーシイ主教の読誦の声に耳を傾け始めたが、疲労しきった体は、次第次第にまどろみに落ちて行く……「三日めにガリラヤのカナにて婚筵ありしが」とパイーシイ主教は読んだ。「イエスの母もここにおれり。イエスとその弟子も婚筵にまねかる。」
『婚鑓? 何だろう……婚筵なんて……』という考えが、旋風のようにアリョーシャの頭脳を疾駆した。『あの女もやはり幸福を得て……饗宴に出かけて行った……なんの、あの女はナイフなぞ持って行きゃしない、決して持って行くものか……あれはただ『哀れな』泣き言にすぎないのだ……そうとも……哀れな泣き言は、ぜひ赦してやらなけりゃならない。哀れな泣き言は心を慰めてくれる……これがなかったら、悲哀は人間にとって、ずいぶん苦しいものとなったに相違ない。ラキーチンは露地へ入ってしまった。ラキーチンが自分の侮辱を考えている間は、いつでも露地へ入って行くだろう……ところが、本当の道はどうだ……本当の道は広々として、まっすぐで、明るくて、水晶のように澄み渡って、向うの果てには太陽が輝いている……おや?……何を読んでいるのかしら?』
「葡萄酒つきければ母イエスに言いけるは、彼らに葡萄酒なし」という声がアリョーシャに聞えた。