京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P003-013   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦24日目]

誠に実に爾曹に告げん、一粒の麦もし地に落ちて死なずば唯一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし  (ヨハネ伝第十二章二十四節)

著者より

 余は自分の主人公アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフの伝記に着手するに当って、一種の疑惑に陥っている。ほかでもない、余はアレクセイを自分の主人公と呼んでいるけれど、彼が決して偉大な人物でないことは、自分でよく承知している。したがって、『あなたがアレクセイを主人公に選んだのは、何か豪いところがあるからですか? 誰に何で知られているのですか? 一たい、この男はどんなことをしたのです? どういうわけでわれわれ読者はこの男の事蹟の研究に、暇をつぶさなければならないのです?』といったふうの質問の避くべからざることを予見している。
 なかでも、最後の質問は最も致命的なものである。何となれば、これに対してはただ『ご自分で小説を読んでご覧になったらわかるでしょう』と答えるほかないからである。ところで、もし小説を通読した後も、わがアレクセイの優れた点を認めることができない、断じて不同意だ、と言われたらどうしよう? 悲しいかな、これが今から見えすいているので、こんなことを言うのである。余にとっては確かに優れた人物であるが、はたしてこれを読者に証明することができるかどうか、それがきわめて怪しいのである。つまり彼は事業家であるけれど、曖昧ではっきりしない事業家なのである。もっとも今のような時代に明瞭を要求するのは、かえって奇怪な沙汰かもしれない。ただ一つ、ほぼ確実らしく思われるのは、彼が奇妙な、むしろ変人とも名づくべき男だということである。しかし、奇妙なことや偏屈なことは、注目の権利を与えるより、むしろ傷つける場合のほうが多い。ことに現代のごとくすべての人が、部分を統一して、世間全体の混沌の中に、普遍的意義を発見しようと努めている時代にはなおさらである。そうではないか? ところが、もし読者がこの最後の命題に同意しないで、『そうではない』とか、『いつもそうとかぎらない』と答えるならば、おそらく余も自分の主人公アレクセイの価値について、大いに心丈夫に感じることと思われる。何となれば、変人はいつも部分もしくは特殊にかぎらないのみか、かえって変人こそ全体の核心を包蔵して、その他の同時代の人間は何かの風の吹き廻しで、一時変人から離れたものにすぎない、というような場合がしばしばだからである…… もっとも、余はこんな面白くもない漠然とした説明を述べ立てないで、前置きぬきでいきなり本文に取りかかってもよかったのである。もし気に入ったら、みんな読んでくれるに相違ない。ところが困ったことに、伝記は一つなのに、小説は二つに分れるのである。しかも、重要な部分は、第二の小説に属している――これはわが主人公の現代における活動なのである。今われわれが経験しつつある時代における活動なのである。第一の小説は十三年も前の出来事で、小説というよりも、むしろわが主人公の生涯における一瞬間にすぎない。けれど、この小説を抜きにするわけにはゆかない、そうすると、第二の小説中でわからないところがたくさんできるからである。こういうわけで、余の最初の困難はますます度を強められる。もし伝記者たる余自身が、こんなつつましやかな、とりとめのない主人公のためには、一部の小説だけでも余計なくらいだと考えるならば、二部に仕立てたらどんなものになるだろう? そして、余のこうした生意気な試みを何と説明したらいいだろう? 余はこれらの問題を解決しようとして、なすところを知らなかったので、ついにあらゆる解決を避けてしまうこ。とに決心した。もちろん、慧眼なる読者は、『最初からこんなことを言いそうだった』ととっくに見抜いてしまって、何だってこんな役にも立たない文句を並べて、貴重なる時間を浪費するのだろう? といまいましく思われるに相違ない。しかし、これに対して余は正確にこう答えるであろう。余が役にも立たない言葉を並べて、貴重なる時間を浪費したのは、第一に礼儀のためであるしい第二には、『何といっても、あらかじめ読者に或る観念を注入することができる』というずるい考えなのである。
 もっとも、余は自分の小説が『本質的統一を保ちながら』自然と二つの物語に分たれたのを、かえって悦んでいる。第一の小説を読了した読者は、もう自分の考えで第二の小説に取りかかる価値があるかないかを、決定されるであろう。もちろん、誰とて何らの束縛を有しているわけでもないから、最初の物語の二ページあたりから、もう永久に開けて見ないつもりで本を投じてもかまわない。しかし、中には公平なる判断を誤らないために、ぜひ終りまで読んでしまいたいという優しい読者もある。例えば、すべてのロシヤの批評家のごときそれである。こういう人々に対しては、何といっても心が平らかになる。とはいえ、これらの人々の厳正かつ忠実なる態度にもかかわらず、余はこの小説の第一挿話の辺で、書物を投げ出すことのできるように、もっとも正当なる口実を提供しておく。序言はこれでおしまいだ。余はこれが全然余計なものだということに同意するけれど、もう書いたものであるからそのままにしておく。
 さてこれから本文に取りかからねばならぬ。



第一篇 ある一家族の歴史

   第一 フョードル・カラマーゾフ

 アレクセイ・カラマーゾフは、本郡の地主フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフの三番目の息子である。このフョードルは、今から十三年前に奇怪な悲劇的な死を遂げたため、一時(いや、今でもやはり町でときどき噂が出る)なかなか有名な男であった。しかし、この事件は順序を追ってあとで話すこととして、今は単にこの『地主』が(この地方では彼のことをこう呼んでいた。そのくせ、一生涯ほとんど自分の領地で暮したことはないのだ)、かなりちょいちょい見受けることもあるけれど、ずいぶん風変りなタイプの人間である、というだけにとどめておこう。つまり、ただやくざで放埒なばかりでなく、それと同時にわけのわからないタイプの人間なのである。とはいえ、同じわけのわからない人間の中でも、自分の領地に関するこまごました事務を、巧みに処理してゆく才能を持った仲間なのである。しかし、それよりほかに芸はないらしい。実例について言うと、フョードルはほとんど無一物で世間へ乗り出した一地主といってもごくごく小さなものなので、よその食事によばれたり、居候に転り込む折を狙ったりばかりしていたが、死んだ時には現金十万ルーブリから遺していた。それでも彼は依然として一生涯、全郡を通じてのわからずやの一人で押し通してしまった。繰り返していうが、決して馬鹿という意味ではない。かえって、こういうわからずやの大多数は、かなり利口で狡猾である。つまり『わけがわからない』のである。しかも、そこには何となく独得な国民的なところさえ窺われる。
 彼は二度結婚して三人の子を持った――長男のドミートリイは先妻、後の二人すなわちイヴァンとアレクセイとは後妻の腹にできた。フョードルの先妻はやはり本郡の地主でミウーソフという、ずいぶん富裕な門閥の家に生れた。持参金つきでしかも美人で、おまけにはきはきした利口な令嬢が(こんな種類の娘は現代のわが国では少しも珍しくないが、前世紀においてもそろそろ頭を持ちあげ始めていた)、どうしてあんなやくざな『のらくら者』――これが当時の定評だったので――と結婚するようなことができたか、この疑問はあまり深く説明しないこととする。筆者《わたし》は前世紀の『ロマン的な』時代に生れた、ある一人の娘を知っている。この娘は幾年かの間、一人の男に謎のような恋を捧げていたが、いつでも平穏無事に華燭の典を挙げることができるのに、結局自分で打ち勝ち難い障害を考え出して、ある嵐の夜、巖壁《きし》らしい感じのする高い岸から、かなり深い急流に身を投じて死んでしまった。それは全く自分の気まぐれから出たことで、ただただ沙翁のオフェリヤに似たいがためなのであった。もし彼女が久しい以前から目をつけて惚れ込んでいたこの巌壁が、それほど絵のように美しくなく、その代りに平凡な平ったい岸であったなら、自殺などはてんで起らなくてすんだかもしれない。これは正真正銘の事実である。そしてわがロシヤの国民生活において最近二三代の間にこれと同じような、もしくはこれと性質をひとしくした事実が、少からず生じたことと考えなければならない。これと同じく、アデライーダ・イヴァーノヴナ・ミウーソヴァの行動は、疑いもなく他人の影響の反映であり、疑われたる思想の□衝なのである。おそらく彼女は女子の独立を宣言して、社会の約束や親戚家族の圧制などに、反対して進みたかったのであろう。ところで忠義しごくな想像力のおかげで、フョードルは位こそ居候であるけれど、向上の機運に向える過渡期の特色たる、勇敢にして冷笑的な人間の一人であると、ほんの一瞬間だけでも確信してしまったのかもしれない。その実、彼は意地悪の道化以外の何ものでもなかったのである。なおその上ふるっているのは、駆落ちという手段を弄したことである。これがすっかりアデライーダのお気に召したのだ。またフョードルもその当時自分の社会上の位置から言って、こんなきわどい手段くらい、かえってこちらから用意して待っていたほどである。なぜといって、方法なんかにおかまいはない。ただ自分の出世の道を開きたくてたまらなかったからである。名門に取り入って持参金をせしめるのは、はなはだ悪くないことであった。互いの愛などというものはぜんぜんなかったらしい。女のほうにもなかったし、フョードルのほうでも、アデライーダの美貌にもかかわらず、こんな感情を持ち合せていなかった。そういうわけで、女のほうからちょっと色目を使えば、それが誰であろうと、すぐべたべたとくっつくような、淫乱無比の男で死ぬまで押し通したフョードルにとっては、これこそ一生涯たった一つの特殊な場合であった。このアデライーダばかりは情欲の点から言って、彼に格別の印象を与えなかったのである。
 アデライーダは駆落ちの後、自分が夫を軽蔑しているのみで、そのほかに何の感情もないということを、すぐさま悟ってしまった。こういう有様で、結婚の結果はみるみる暴露されていった。うちのほうではずいぶん早くこの事件に諦めをつけて、出奔した娘に持参金を分けてやったにもかかわらず、夫婦の間には恐ろしい乱脈な生活と、たえまのない喧嘩が始まった。人の話では、その際アデライーダのほうが夫よりも比較にならぬほど上品な、いさぎよい行動をとったとのことである。フョードルは妻が金を受け取るやいなや、その時さっそく二万五千ルしフリからの額《たか》をすっかりごまかしてしまった。これは今よく世間に知れ渡っている。だから女のほうではこれだけの金を、まるで、水の中へ抛ってしまったようなものである。それから、ちょっとした村とかなり立派な町の家屋が、同様アデライーダの持参金の中に入っていた。それをも彼は何か証書を作って自分の名義に書き換えようと、長いあいだ一生懸命にもがいたのである。実際、彼はたえまのない無恥な哀願や強請で、妻の心に軽蔑と嫌悪の念を呼びさましたので、彼女のほうが根負けして、ただもううるさくつきう纏う夫を振り放しさえすればという気になる、それ一つだけで、十分たしかに、彼は自分の目的を達するはずであった。しかし、いいあんばいに里方が干渉して、この強奪を抑えた。夫婦の間にしょっちゅう掴み合いがあっだのは確かな話であるが、言い伝えによると、ぶったのはフョードルでなくて、アデライーダのほうだということである。彼女は顔色の浅黒い、癇癖の強い、大胆な、気短かな婦人で、並みはずれた腕力を授っていた。ついに彼女は三つになるミーチャ(ドミートリイ)を夫の手に残して、貧苦のためすたれ者になろうとしている、ある神学校出の教員と駈落ちして、家を棄ててしまったのである。
 フョードルはたちまち自分の家を女郎屋のようにしてしまって、淫酒に沈湎した。そして、そのあいまあいまにはほとんど県下一帯を廻らないばかりの勢いで、手当り次第の人を掴まえては、自分を棄てたアデライーダのことを涙ながらに訴えるのであった。しかもその上、夫として口にするのも恥しいような、結婚生活の詳細を、平気で伝えていた。おもな原因は、こうして皆の前で辱しめられた夫という滑稽な役廻りを演じながら、いろんな色どりまでしておのれの恥をことこまかに描いて見せるのが、彼にとって愉快なばかりでなく、自慢なことかなんぞのように思われたらしい。
『ねえ、フョードル・パーヴロヴィッチ、あんたがそうした位を授ったことを思えば、辛いには辛いだろうけれど、ご満足でしょうね』と口の悪い連中が言った。そればかりか、おまけに多くの人の言うところでは、彼はときどき道化者の面目を新たにして人前へ出るのがさも嬉しそうで、その効果を強めるために、わざと自分の滑稽な立場に気のつかないようなふりをした。もっとも、それは彼の一面を現わしているナイーヴな行為だったかもしれない。
 とうとう彼は出奔した妻の行方をつきとめた。彼女はかの教員とともに流れ流れてペテルブルグに落ちついて、放埒至極な『|解  放《エマンシペーション》』に耽溺していた。フョードルは急に騒ぎだして、目分でペテルブルグへ出かける準備をした、――何のためかということは、むろん、自分でもわからなかったが、実際そのとき本当に出かけかねまじい勢いであった。しかし、この決心を採ったとき、彼は元気をつけるため旅行前に、一つ思い切って浮れるのが当然の権利だ、とすぐ比考えついた。ところがちょうどこの時、妻がペテルプルグで死んだという通知が、里の方へ届いたのである。彼女は何だか急にどこかの屋根裏の部屋で死んだらしい。一説にはチフスだというが、また一説には餓死だとも言っている。フョードルは酔っ払っている最中に妻の死を聞くと、いきなり往来へ駆け出して、両手を空へさし上げながら嬉しさのあまり、『今こそ放たれぬ』と叫んだという話もあるが、また一説には、小さな子供のようにしゃくり上げて泣く様子が、たまらない厭な奴ではあるけれど、見ているのも可哀そうなくらいであった、と伝えている。おそらく両方とも本当なのであろう。つまり解放を悦ぶと同時に、解放してくれた妻を傷んで泣く、この二つがごっちゃになったのであろう。多くの場合、人間というものは(悪人でさえ)、われわれが概括的に批評を下すよりも、ずっと無邪気で単純な心を持っている。われわれ自身だってそうなのである。

   第二 厄介ばらい

 もちろん、こんな男が父として養育者としてこんなふうであったかは、たやすく想像できよう。父としての彼は、彼が当然しそうなことをしたまでである。つまりアデライーダとの間に儲けた自分の子を、ぜんぜん放擲してしまったのである。しかし、それは子供に対する憎悪のためでもなければ、侮辱された夫としての感情から出たことでもない。ただ子供のことをすっかり忘れてしまったからにすぎない。彼が涙と訴えとで皆の者にうるさくつき纒ったり、自分の家を淫蕩の洞穴《ほらあな》にしたりしている間に、三つになるミーチャの世話を引き受けたのは、この家の忠僕グリゴーリイであった。もし当時この男が子供のことを心配しなかったら、肌衣をかえてやる者さえなかったかもしれない。その上、子供の母方の実家《さと》でも初めのうち彼のことを忘れたような工合になってしまった。祖父ミウーソフ氏、すなわちアデライーダの父は当時もうこの世にいなかったし、その未亡人つまりミーチャの祖母はモスクワへ越して行って、重い病気にかかったし、姉妹《きょうだい》はみんな嫁入りしてしまったので、ミーチャはまる一年グリゴーリイの手もとにあって、下男部屋で暮さねばならぬこととなった。もし父親が彼のことを思い出したとしても(また実際フョードルもこの子の存在を知らないわけにはいかない)、自分でまたもとの下男部屋へ追いやったに相違ない。何といっても、子供は自分の放埒の邪魔になるからであった。
 ところが、突然つぎのような事件が起った。アデライーダの従兄でピョートル・アレクサンドロヴィッチ・ミウーソフという人がパリから帰って来たのである。この人はその後、長年ぶっ通しに外国で暮しつづけたくらいで、当時まだ非常に若かったけれど、ミウーソフー族の中でも一風変って、非常に開けた都会的な、外国的な人で、後には一生を終るまでヨーロッパ人になりすましたのふか、晩年には四五十年代(一八四〇年および五〇年を言う)の自由主義者の仲間に入った。自分の活動の全時期を通じて、彼は同時代における内外の最も過激な自由主義者と交遊を結び、プルードンバクーニンも個人的に知っていた。もはや漂泊生活も終りに近づいた頃、彼は四十八年のパリ二月革命の三日間を好んで話すようになった。そして自分も市街防塞の実戦者であったと言わないばかりほのめかした。これが、彼の青年時代におけるもっとも楽しい追憶の一つである。彼は以前の標準で言えば、千人近くの農奴に相当する独立した財産を持っていた。その立派な領地はこの町のすぐ出口にあって、土地の有名な僧院の地所と境を接している。まだずっと若い時、遺産を相続するが早いか、よくは知らないが、なにか川の漁猟権とか森の伐木権とかのために、この僧院を相手にはてしのない訴訟を起した。彼は『坊主ども』を相手どって訴訟を起すのを、公民としてまた文明人としての義務だと思っていたのである。
 自分がよく覚えているばかりでなく、かつて心に留めたことのあるアデライーダの顛末を聞き、またミーチャという子の残っていることを知って、彼はフョードルに対して青年らしい憤怒と侮辱とを感じたにもかかわらず、この事件にかかり合うことにしたのである。この際、彼ははじめてフョードルを識った。そしていきなり、子供の養育を引き受けたいと切り出したのである。彼がフョードルにミーチャのことを言い出した時、こちらはしばらくの間、一体ぜんたいどんな子供のことを話しているのか、一向合点がいかないようなふうをしたが、やがて自分の家のどこかに小さな子供がいたっけ、と驚いたような顔つきをして見せた、-これはミウーソフがフョードルの特質を示す好資料と言わんばかりに、その後長いあいだ人に話して聞かせたことである。よし彼の話に誇張があるとしても、それでもやはり真に近い何ものかがあるに相違ない。実際フョードルは自分の一生涯、何か人をびっくりさせるような芝居が打ちたくてたまらなかったので、べつにさしたる必要がないどころか、この場合のように、みすみす自分のふためになることさえいとわないのであった。もっとも、こうした傾向はただにフョードルのみならず多くの人、時には利口な人にさえありがちなものである。
 ミウーソフは熱心に事件を運んで、フョードルとともに子供の後見人にまでなってやった。何といっても、母の残した小さな領地や家作などがあったからである。こうして、ミーチャはこの従兄《いとこ》ちがいのところへ移ったが、この人には、家族というものがなくって、領地から入る金の受け取り方を安全に処理すると、すぐまた長い逗留にパリヘ急いだので、子供はこの人の従姉ちがい、モスクワに住むある夫人に託された。ところが、パリに住み馴れているうち、ミウーソフはこの子のことを忘れてしまった。その間に彼の想像に強烈な印象を与えて、それこそ一生忘れることのできなくなった、例の二月革命が起ったのである。モスクワの夫人もそのうちに亡くなって、ミーチャはよそへ縁づいた夫人の娘のところへ移った。その後彼は、もう一度、四度目に自分の巣を変えたように覚えているが、筆者は今そのことをくどくど述べ立てるのをよそう。さなくとも、このフョードルの長男については、まだまだたくさん話さなくてはならないのだから、今は、この小説を始めるのになくてかなわぬ、ごく重要な事実を挙げるにとどめておこう。
 第一に、このドミートリイは三人息子の中でたった一人だけ、自分は何といってもそくばくの財産を持っているから、丁年に達したら独立できるという信念を抱いて成長したのである。少年期青年期はてんやわんやのうちに流れ去った。中学校を卒業しないである陸軍の学校へ入り、後にコーカサスへ行って任官したが、決闘したために奪官され、その後また復官した。したたか放蕩して此較的多額の金を浪費した。金をフョードルから仕送ってもらうようになったのは、丁年に達してからであるが、それまでにうんと借財をしていた。フョードルを、自分の父を初めて見知ったのは、すでに丁年に達した後で、自分の財産のことを相談するために、わざわざ当地へやって来たときのことである。その時、彼は自分の父が気にくわなかったらしく、あまり長く滞在しないで、大急ぎで発ってしまった。ただいくらかの金をもらって、このさき領地から入る金を受け取る方法について、ちょっと父に交渉しただけである。そのとき彼は、自分の領地の収入額も価格も、父から聞かないじまいだった(これは注意を要する事実である)。
 フョードルはそのとき一度会ったきりで、ミーチャが自分の財産について、誇張した不正確な考えを抱いているのを見てとった(これも記憶すべきことである)。彼は特殊な目算を持っているので、この事実にすこぶる満足した。彼の断定に従えば、この青年はただ軽率で、乱暴で、情欲の強い、気短かな放蕩者にすぎないのであった。だからちょっと一時少しばかり握ったら、むろんしばらくの間ではあるが、すぐおとなしぐなってしまう。この観察を応用して、彼はときどきほんの申しわけばかりの送金で一時を糊塗していた。が、ついに四年の後ミーチャは堪忍袋の緒を切らして、綺麗さっぱりと父親との交渉を片づけるために、ふたたびこの町へ帰って来た。ところが、驚いたことには、自分は少しの財産も持っていない、今では勘定するのもむずかしいけれど、自分の財産の全価格を金に換えて、もうフョードルからすっかり引き出してしまったので、かえって父に負債があるくらいだということがわかったのである。これこれの時に、彼自身の希望で取り結んだこれこれの約束によって、彼はもはや何にも要求する権利がない、云々とのことであった。
 青年は呆れはてて、嘘ではないか、ぺてんではないかという疑いを起した。そしてほとんど夢中になって、気でも違ったようなふうになってしまった。この事情こそ筆者《わたし》の第一部作――序詞的小説の主題、というより、その外的方面を形成すべきカタストロフの導火線となったのである。しかし、この小説に取りかかる前にまだフョードルの次の子――ミーチャの二人の弟について、少し話しておかねばならぬ。そして彼らが、どこから出て来たか、ということも説明する必要がある。

   第三 第二の妻とその子

 フョードルは四つになるミーチャを片づけてから、間もなく二度目の結婚をした。この再婚生活は八年つづいた。彼がこの二度目の妻(やはり非常に若いソフィヤ・イヴァーノヴナという婦人である)を得たのは、彼が何とかいうジュウと同道で、あるやくざな請負仕事のために他県へ赴いたときである。フョードルは放蕩者で淫乱者ではあったものの、自分の資本の運用は決して怠らなかった。そしていつも少々やり方は汚いけれど、巧みにこまごました事務を処理するのであった。ソフィヤはさる貧しい助祭の娘であったが、幼い時から身寄りのない孤児の境遇に落ちて、恩人であり養育者でありながら、同時に迫害者でもある、有名なヴォロホフ将軍の老未亡人の富裕な家で成長した。くわしいことは知らないが、何でもある時このつつましい悪気のない無口な娘が、自分で物置きの釘に繩をかけて、首を吊ろうとしたところを助けおろされた、とかいう話を聞いた。それほど彼女は、老夫人のたえまのない小言や気まぐれにたえてゆくのが辛かったのである。しかも、老夫人は見かけこそ意地わるそうであるが、実際はただ無為な生活のために気短かになった、頑固屋にすぎなかったのである。
 フョードルがこの少女に求婚したとき、家でいろいろ取り調べをした結果、彼を追っ払ってしまった。すると、彼は初婚の時と同じように、またしてもこの少女に駆落ちをすすめた。もし彼女が前からフョードルのことをもっと詳しく聞き込んだなら、この男と結婚する気にはならなかったに相違ない。ところが、何といっても話が他県のことである上に、恩人の家にいるより川にでも飛び込んだほうがましだと思いつめている十七の少女に、世間のことのわかろうはずがない。哀れな少女は、ただ恩人を女から男に換えただけである。しかし今度こそフョードルは一文も取れなかった。将軍夫人がひどく怒って何一つくれなかったばかりか、二人の者を呪ったくらいである。もっとも、今度は彼もそんなことは畿にしなかった。ただ無垢な少女の水際だった美貌に迷ったのである。つまり大事なのは、今までみだらな女の色のみをもてあそんでいた淫奔な好色漢が、彼女の無邪気な容貌に魅せられたという点である。『わしはその時あの罪のない目つきを見ると、ちょうど剃刀で胸をぶすりとやられたような気がしたよ』と彼は後で持ちまえのいやらしい、思い出し笑いをしながら話すのであった。もっとも好色漢にとっては、これもやはり単なる色情の迷いっ乙ったかもしれない。
 しかし何の儲けにもならなかった二度目の妻に対して、フョードルは一さい遠慮会釈をしなかった。そればかりか、彼女が何か夫に対して、『悪いことでもしたような』気持でいるのにつけこんで、――まるで夫が自分を首吊り繩からおろしてくれたかなんぞのように、口もろくろくきけず、不思議なほど小さくなっているのにつけこんで、彼はごくごく世間並みな夫婦間の礼儀さえも、土足にかけて踏みにじった。よく妻の控えている家の中へ性わるな女どもが集って、飲めや唄えの大乱痴気が始まった。ここに特殊な点として、一つ紹介すべきことがある。ほかでもない、かのグリゴーリイという陰気で愚直な、しかも頑固な理屈屋の下男である。彼は前妻のアデライーダを憎んでいたけれど、今度は妙に新奥様の肩を持って、下男としてあるまじき言葉を使って、フョードルと喧嘩までしながら彼女をかばうのであった。一度なぞは、家へ集って騒いでいる売女《ばいた》どもを、腕ずくで追い散らしたことさえある。
 その後、幼い頃からいじめられてばかりいた、この不仕合せな若い婦人は、一種の婦人神経病ともいうべきものにかかった。それは田舎の農婦などにもっとも多く見受けろ病気で、こうした病人を|憑れた女《クリクーシカ》と呼んでいる。恐ろしいヒステリイの発作を伴なうこの病気のために、彼女は理性すら失うことがままあった。とはいえ、彼女はフョードルとの中に、イヴァンとアレクセイの二人の子を儲けた。上の方は結婚の当年、下の方は三年たってからである。彼女が亡くなったとき、アレクセイは四つの子供であったが、一生涯母を憶えていた。奇妙なことではあるが、筆者《わたし》は確かに知っている。もっとも、それはもちろん、夢のような工合だったのである。母の死後二人の子供は、長男のミーチャとほとんど一分一厘の相違もない運命に陥った。すなわち二人はまったく父に忘れられ捨てられて、またもや同じグリゴーリやの手にかかり、同じ下男小屋に移されたのである。二人の母の恩人であり養育者である頑固屋の将軍夫人が、彼らを初めて見たのもこの下男小屋であった。夫人はまだ生きていたが、八年のあいだ始終自分の受けた侮蔑を忘れることができなかった。『自分のソフィヤ』の平生について、夫人は人知れず正確この上ない情報を手に入れて、二度も三度も口に出して居候の女たちにこう言ったものである。『これがあれに相当している。神様があれの恩知らずの仕打ちに罰をお当てなされたのだ。』
 ソフィヤの死後ちょうど三月たったとき、将軍夫人は突然みずからこの町に姿を現わして、まっすぐにフョードルの家へ赴いた。夫人がこの町にいたのは僅か三十分であったが、その仕事は大したものである。それは、夕景のことであった。八年間会わずにいたフョードルが、ぐでんぐでんの姿で夫人の前へ出たとき、夫人は何一つ口をきかないで、その顔を見るやいなや、いきなり大分ききめのある音のいいやつを頬っぺたにくらわしたうえ、髪の毛を掴まえて、上から下へ三度ばかり引きむしった。それから一口もものを言わないで、二人の子供のいる下男小屋へ赴いた。彼らが湯も使っていない上に、汚れ腐ったシャツを着ているのを一目で見てとると、夫人はまたいきなりグリゴーリイの頬げたにも一つくらわして、子供は二人とも自分の家へ連れてゆくと宣告した。そして二人を着のみ着のままで膝かけにくるみ、馬車に乗せて自分の町へ連れて帰った。グリゴーリイは信服しきった奴隷のように、この暴虐を忍んで、乱暴な言葉一つ吐かなかった。そして老夫人を馬車まで見送ったとき、腰を屈めながら、『みなしごたちに代って神様が