京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P014-025   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦25日目]

あなたにお礼をして下さりましょう』と仔細らしい調子で言った。『何といったってお前は阿呆だよ!』夫人は行きしなにこう叫んだ。フョードルは事件ぜんたいを照り合せて考えた後、なかなか結構なことだと思っだので、将軍夫人の手もとで子供を養育する件に関してその後正式の承諾を与えた際にも、一カ条として異議をとなえようとしなかった。そして例の平手打ちの一件は、自分から出かけて町じゅうへふれ廻ったものである。
 ところが、この将軍夫人もその後間もなく死んでしまった。しかし、遺言状に二人の子供の教育費として、一人前千ルーブリずつ与える旨を書き入れた。『ただし、二人が丁年に達するまで十分なように使うこと。なぜと申すにこんなわっぱどもには、これだけの贈物でも多過ぎるゆえ。ただし、どなた様でも篤志の人は、ご勝手に財布の紐をお解きなされてもさしつかえこれなきこと、云々』筆者《わたし》はこの遺言状を自分で読まなかったけれど、何でもこうしたふうに奇態な、一流変った書き方がしてあったとかいう話である。老夫人の主なる相続者はエフィーム・ペトローヴィッチ・ポレーノフといって、同県の貴族団長をしている清廉の士であった。フョードルと手紙で交渉した結果、とうていこの男からは、子供の養育費さえ引き出せないと見込みをつけたので(もっとも、彼は一度も明らさまに断わったことはないが、いつもこんな場合、だらだらに引っ張って、どうかするとくどくど泣き言まで並べることがある)、ポレーノフは親身になって孤児の面倒を見た。そして、二人の中でも、弟のアレクセイをことに可愛がり、長いこと自分の家において大きくした。筆者は最初からこの事実に注目することを読者にお願いしておく。もし二人の青年が養育と学問の点で誰か一生涯感謝すべき人があるとすれば、それはとりもなおさずポレーノフ、この世では珍しいほど高潔にして博愛無比な、エフィーム・ペトローヴィッチである。彼は将軍夫人から遺された千ルーブリの金を、子供らのために手つかずのまま保管しておいたため、二人が丁年に達するころには利が積って、おのおの二千ルーブリずつにまで上った。二人の養育費には自分の金を使ったのであるが、それはもちろん、一人について千ルーブリよりずっと多くなっている。
 彼らの少年期青年期のデテールに入ることはしばらく見合して、筆者は要点をつまむだけにとどめることとする。兄のイヴァンについてはこれだけ言っておこう。彼は成長するにつれて何となく気むずかしい、自分というものの中に閉じ籠ったような少年になったが、しかし、臆病なのでは決してない。ただもう十くらいの頃から『自分は何といっても他人の家で、他人のお慈悲で暮している、そして自分の父親は何かしら話すのも恥しいような人間だ』といったようなことを悟っていた。この少年は非常に早くから、ほとんど幼年期から(少なくもそういう言い伝えである)異常なはなばなしい才能を学術の方面に顕わし始めた。正確なことは知らないが、何でもまだ十三くらいの年にポレーノフの家庭を離れて、モスクワの中学に入学し、ポレーノフの幼な友達で、当時有名な経験ある教育家の寄宿舎へ入った。イヴァン自身あとで話したところによると、これは善事に対するポレーノフの熱情から起ったことだというのである。当時彼は、天才ある子供は天才ある教育者のもとで教育されねばならぬ、という思想に打ち込んでいたのである。
 しかしイヴァンが中学を卒えて大学へはいった時、ポレーノフも天才ある教育者も、もはやこの世の人でなかった。ところが、ポレーノフの処置が悪かったため、頑固屋の将軍夫人から譲られた自分の子供の時からの金――利子が積って千ルーブリから二千ルーブリに上った金の払い戻しが、ロシヤでは何とも仕方のないいろいろの形式や緩慢な手続きのおかげで、のびのびになった。で、彼は大学における初めの二年間、ずいぶん苦しい目にあった。彼はこのあいだ自分で自分を養いながら、同時に勉強しなければならなかったのである。ここで注意すべきは、彼が当時父と文通を試みようなどとは、考えてもみなかったことである。それは父に対する傲慢な軽蔑のためかもしれないが、あるいはまた冷静な常識判断が、父からはほんの少しでも真面目な扶助を得ることができない、と教えたからかもしれない。それはどうでもいいとして、イヴァンは少しもまごつかないで、とにかく無理に仕事を見つけた。はじめのうちは一回二十コペイカの出稽古をやっていたが、のちには各新聞の編集局を駆け廻って、『実見者』という署名のもとに、市井の出来事に関する一回十行の短文を供給した。この短文はいつもなかなか面白く辛辣に書けているので、まもなく広く読まれるようになった。彼はこれ一つだけでも、いつもいつもぴいぴいで悲惨な境遇にいる男女学生の大多数にくらべて、実際的にも知的にも一段頭角を抜いていることを示した。実際、両首都の学生たちはたいてい朝から晩まで、各新聞雑誌編集局の閾を靴ですりへらしながら、紋切り型の仏文翻訳とか筆耕とかさせてもらいたいという懇願を繰り返すほか、何のいい思案も絞り出せないのである。各編集部と近づきになってから、イヴァンは大学を終る頃まで関係を絶たないで、いろいろ専門書に関するきわめて才気のある批評を掲載し、ために文学者仲間にまで認められるようになった。
 しかし、突然、彼がずっと範囲の広い読者の特殊な注意を惹起して、非常に多くの人々から一時に認められ記憶されるようになったのは、ごくごく最近のことである。それはかなり興味のある出来事であった。もう大学を出てから、例の二千ルーブリの金で外国旅行を企てているうちに、突然イヴァンは大新聞に一つの奇妙な論文を載せたが、そのために専門外の人の注意さえ惹いたのである。その原因は主として題材――彼にぜんぜん縁のないらしい題材にあった(断わっておくが、彼は理科を卒業したのである)。この論文は、当時随所にもちあがった教会裁判問題に対して書かれたものである。この問題に関してすでに公けにされた幾種かの意見を解剖したのち、彼は自己の見解をも示しているが、重要な点は全体の調子と、ぜんぜん人の意表に出たその結論である。ところで、教会派の多数は彼を目して自党としたが、それと同時に市民権論者ばかりでなく無神論者までが、負けず劣らず喝采し始めた。とどのつまり、慧眼の士はこの論文を、単にずうずうしい茶番じみた冷笑にすぎない、と断定したのである。筆者《わたし》がこの出来事をこうしてとくに断わっておくのは、当時勃興した教会裁判問題に興味を持っている当地郊外の有名な僧院でも、イヴァンのこの論文を読んで、深い怪訝の念を抱くものがあったからである。また論者の名前を見て、彼がこの町の出身者であり、しかも「あの例のフョードルの息子だ」ということにも興味を感じたのである。ちょうどこの時分、突然この町へ当の論者がやって来た。
 なぜイヴァンがそのとき帰って来たのか――筆者《わたし》は当時すでにほとんど不安ともいうべき心持をいだいて、この疑問を心の中で発したことを覚えている。その後さまざまな恐ろしい事件のいとぐちとなったこの運命的な帰郷は、それから長い間、いな、ほとんど今でも筆者にとって依然たる謎であった。全体として考えてみても、あれほど学問ができて、あれほど気位の高い、あれほど用心深い青年が、一生、自分をあるかなしに扱って、自分を知りもしなければ覚えてもいない父親の、乱脈な家庭へ突然やって来るというのは、まったく不可思議な話である。フョードルはもちろんわが子の願いであろうとも、どんなことがあったとて金なぞ出す心配はないが、しかしそれでも、イヴァンとアレクセイがいつか帰って来て、金をねだりはしないかと、一生涯それのみ恐れていたのである。ところが、イヴァンはとつぜん父親の家に入って、もはや二月ばかりも一緒に暮しているばかりでなく、この上ないほど折り合いがいいのである。これは筆者一人ばかりでなく、多くの人をとくに驚かした。
 ピョートル・ミウーソフ、――この人はもはや前に述べたとおり、先妻とのつながりでフョードルの遠い親戚にあたる人だが、すっかり永住の地と決めたパリから帰って来て、当時ふたたび町はずれの領地に居合せた。この人が誰より一番この事実に驚いていたように記憶する。彼は自分にとって非常に興味のあるこの青年と相識の仲になったが、どうかすると、いくぶん心ひそかに苦痛を感じながら、知識の張り合いをすることがあった。『あの男は傲慢だし』と彼は当時わたしたちをつかまえてイヴァンのことをこう言った。『いつでも自分の口すぎだけの儲けはできるし、それに今でも外国行きの金を持っているから、こんなところへ来る必要はなさそうなもんだがなあ! 金をもらうために親父のところへ来たのでないことは、誰の目にも明瞭な話だ。何にしても金なんか出す親父でないからね。それかといって、酒を飲んだり、いやらしい真似をしたりするのは、あの男大嫌いなんだしね。ところが、親父はあの男でなければ、夜も明けないほど折り合ってる!』これはまったく事実であった。イヴァンは父に対して明らかに一種の勢力を持っていた。父はときどき意地わるなわがままを言うこともあったが、それでも、どうかすると彼の言うことを聴くらしかった。そして時とすると、幾分品行がよくなったかと思われることすらあった。
 だいぶ後になってから、イヴァンが帰って来た一半の理由は、兄ドミートリイの依頼とその用向きのためだとわかった。彼はその頃はじめて兄のことを知ったので、顔を見たのもこの帰郷の時が初めてであるが、しかしある重大事件(といっても、おもにドミートリイに関したもので)のために、帰郷前から文通を始めていた。これがどんな事件であるかは、そのうち詳しく読者にわかってくる。とにかく、あとでこの事情を聞いた時でさえ、筆者にはイヴァンという人がやはり謎のように感じられ、帰郷の理由も依然として、曖昧に思われたのである。
 ついでに言っておくが、イヴァンはその当時、父と大喧嘩をして正式裁判さえ企てている長兄ドミートリイと父との間に挟まって、仲裁者といったような立場に立っていた。
 繰り返して言うが、この一家族は、生れて初めてこのとき一緒に落ち合ったので、ある者は生れてはじめて互いの顔を知ったのである。ただ末子のアレクセイばかりは、一年ばかり前からこの町で暮していた。つまり兄弟中で最も早く、わたしたちの中へ入って来たわけである。このアレクセイのことは、小説の本舞台へ出て来ないうちに、こうした序論的説話の中で説明するのが、筆者にとって何よりむずかしいのである。しかし彼のことをもやはり『序論』に書かなければならぬ。何となれば、筆者はどうしてもこの自分の主人公を、小説の第一幕からして聴法者の法衣姿で、読者に紹介しなければならぬから、少くとも、その奇妙な点をあらかじめ説明するために必要なのである。実際、彼はもうかれこれ一年ばかり当地の僧院に住み込んで、一生その中に閉じ籠る覚悟らしかった。

   第四 三男アリョーシャ

 彼はまだやっと二十一であった(中兄のイヴァンはそのとき二十四、長兄のドミートリイは二十八であった)。第一に言っておかねばならぬのは、この青年アリョーシャが決して狂信者でもなければ、また少なくとも筆者の考えでは、断じて神秘主義者でもなかった。あらかじめ筆者の忌憚なき意見を述べようなら、彼は単に若き博愛家にすぎない。彼が僧院生活に入ったのも、ただこれ一つのみが当時の彼の心に驚異の念を呼びさまし、世界悪の闇から愛の光明を目ざして驀進する彼の心に究極の理想として映じたからである。また僧院生活が彼に驚異の念を呼びさましたわけは、当時彼の目して稀世の人物とする有名な長老ゾシマを、その中に発見したからである。彼は渇ける心の初恋にも似た熱情を捧げて、この長老に傾倒したのである。
 もっとも、彼が揺籃時代から非常に変った人間であったことは、筆者《わたし》もあえて異議をさしはさまない。ついでだが、彼は僅か四つの年に母と別れながら、一生涯母の顔やその慈愛を『まるで自分の前に母が生きて立ってるように』覚えていた。このことは筆者も前に述べておいた。こうした記憶がまだ幼い頃、二つくらいの時から、よく子供の心に残るということは、すべての人の知るとおりである。こうした記憶は闇の中に浮び出た明るい点のように、――跡形もなく消え失せた大きな絵からちぎり取られた小さな一片のように、生涯こころに浮んでくるものであるが、アリョーシャのもまったくそのとおりであった。彼はある静かな夕方を覚えている。開け放した窓からは夕日が斜めにさし込んで(この斜めにさし込む夕日を彼は一番よく覚えていた)、部屋の片隅には、聖像がかかり、その前には燈明がついている。聖像の前には母親が跪いて、ヒステリックにしゃくり上げて泣きながら、たまぎるような悲鳴とともに彼を双の手に痛いほど固く抱きしめて、わが子の行末を聖母マリヤに祈ったり、また聖母の袂の陰に隠そうとするかのように、彼を両手に載せて御像の方へ差し伸べたりしている……そこへ乳母が駆け込んで、慌てたように彼をその手からもぎとってしまった。これが画面の全体である! アリョーシャはその瞬間の母の顔さえ覚えている。その記憶だけによって判ずると、母の顔は激昂していたけれど美しいものであった。しかし、彼はこの記憶を人に打ち明けることをあまり好まなかった。
 幼年時代にも少年時代にも、彼はあまり口数の多いのを好まなかったばかりか、むしろ無口なほうであった。しかしそれは決して気の小さいためとか、人づきの悪い気むずかしい性質のためとかいうわけではない。それどころか、まるで正反対なのである。原因は何かほかにある。つまり、他人には何の関係もない、自分一人の心内のこころづかいともいうべきものであるが、それは彼として非常に重大なものなので、これがために他人のことを忘れるともなく忘れるのであった。しかし彼は人間を愛した。そして、生涯人間を信じながら生活したらしいが、誰一人として、一度も彼を馬鹿というものもなければ、お人好しというものもなかった。『私は他人の裁判官になるのはいやです。また、他人を非難するのも好まないから、どんなことがあっても人を咎めません』とでもいうようなところが、彼の体の中にあった(それは一生を通じてそうであった)。実際、彼はいささかも咎め立てしないで、一さいのことを許しているようであった。もっとも、その際、深い悲哀を感ずることもよくあったけれど……この意味において何人も彼を驚かしたり、脅かしたりすることができないくらいになった。しかも初期の少年時代からこの傾向がみとめられた。
 はたちの年に、純然たる淫佚の洞穴ともいうべき父の家へ帰って来ても、童貞純潔な彼は見るに忍びなくなった時、黙ってその傍を去るばかりで、相手は誰にもあれ、軽蔑や非難の色は気にも見せなかった。かつて、よその居候であった父は、侮辱に対して敏感繊細な神経を持っていたから、初めのうち、うさんくさい気むずかしい態度で彼を迎えたが(『恐ろしく黙り込んでいるぞ、きっと腹の中でいろんなことを考えてるんだろう』といった心持で)、とどのつまりまだ二週間とたたないうちに、しょっちゅう彼を抱きしめて、涙とともに接吻するようになった。もっとも、それは一杯機嫌の安価な感傷の涙ではあったが、こんな男としてはとうてい他の何人にも感ずることのできないような探い真実の愛を、はじめて彼に経験したに相違ない……
 それに、この青年はどこへ行っても皆に好かれた。それはごく小さな子供の時分から変りなかった。自分の恩人で養親であるポレーノフの家へ入ったときも、彼は家庭内のすべての人をすっかりひきつけてしまい、まるで本当の子同様に思われるようになった。ところで、彼がこの家庭へ入ったのは、まだまったく幼い子供の頃だったから、勘定高い悪知恵や、機嫌をとって気に入られようとする意志や技巧や、自分を可愛がらせようとする工夫や、そういうものを当時の彼が持っていたと想像するわけにはいかない。それゆえ、自分に対する愛情を呼びさますちからは、なんの技巧を弄することなく、端的に自然から賦与された性情なのである。
 学校での彼もそれと同じであった。ちょっと考えると、彼は仲間の猜疑や嘲笑や、時としては憎悪すら喚び起すような性質の子供ではないかと思われる。なぜというに、彼はよくもの思いに耽って、人を避けるようなふうがあるし、ごく幼い頃から隅の方へ引っ込んで、読書するのも好きだったからである。しかし彼は学校にいる間じゅう、仲間全体の寵児といっていいほどみなに可愛がられた。彼はさして活溌でもなければ、あまりはしゃいだこともない。しかし誰でもちょっと彼を見ると、これは決して気むずかしい件質のためではない、かえって反対に、落ちついたはればれしい心持でいるということを、すぐに悟るのであった。同じ年頃の子供に交っても、彼は一度も頭角を現わそうなどと考えたことがない。つまり、それがためでもあろうか、彼は今まで何者をも恐れたことがない。そのくせ、仲間の生徒は、彼が自分の勇気をてらっているのではない、と
いうことをすぐに了解した。彼はかえって、自分がいかに大胆で勇敢なのか、知らないようなふうつきであった。侮辱を覚えていたことは一度もない。侮辱を受けてから一時間くらいの後、当の仇《かたき》に返事したり、自分の方からその仇に話しかけたりすることがよくあった。そんな時は、まるで二人の間に何事もなかったように、相手を信じきったようなはればれしい顔つぎをしている。それは偶然その侮辱を忘れたとか、またはわざと赦したとかいうような顔つきでなく、ただそんなことは侮辱などと思わないというふうなので、この点がすっかり子供たちの心を擒にし征服したのである。
 ただ一つ彼の性質に特別なところがあって、それが下級から上級に進む間じゅう、『一つあれをからかってやろう』という望みを友達に起させるのであった、もっとも、それは意地わるい嘲笑ではない、ただ皆にすれば面白いからであった。この特別な性質というのは、気ちがいじみるくらい極端な羞恥心と、潔癖とである。彼は、女に関するある種の言葉やある種の会話を、傍で聞いていることもできなかった。ところが不幸にも、こうした『ある種』の言葉や会話は、すべての学校において根絶できないものである。まだ、ほとんどねんねえといっていいくらいの、心も魂も清浄な少年たちが、兵隊でさえ時によっては口にするのをはばかるような事柄だの、場面だの、形態だのを、教室内で仲間同士大きな声で口にする。実際、兵隊などは、教育ある上流社会の年少子弟が、もはやとうに知っているようなこの方面の事物を、あまり知りもしなければ理解もしないのである。こうした少年には精神的堕落などというものは、まだおそらくないだろう。破廉恥はあっても、本当の意味で放縦な、内面的なものではなく、ただ外面的なものにすぎない。ところで、これかしばしば彼らの仲間ではは、何かデリケートで、微妙な、男らしい模倣に値するもののように考えられるのである。『アリョーシャ・カラマーゾフ』が「この話」の出るたぴに大急ぎで耳に栓をするのを見て、ときどき一同はわざとぐるりに集って、無理にその手を引き退けながら、両方の耳へ向けて大声で汚いことを喚くのであった。こちらはそれを振り払づて床の上に倒れ、両手ですっかり頭を隠してしまうが、その際一ことも口をきかなければ乱暴な言葉も吐かず、無言のまま侮辱を忍んでいた。しまいにはみんな彼をかまわなくなって『女の腐ったの』とからかうのもよしてしまったばかりでなく、この意味において彼を気の毒な者として見るようになった。ついでだが、教室における彼はいつも優等生の一人であったけれど、かつて首席になったことはない。
 ポレーノフが死んでからも、アリョーシャはまだ二年ばかり県立の中学にとどまった。ポレーノフの未亡人は悲嘆のあまり、良人の死後ただちに家族を纏めて(それは婦人ばかりであった)、長く逗留の予定でイタリアへ旅立った。で、アリョーシャはポレーノフの遠い親族にあたる、以前顔を見たこともない二人の婦人の家へ移ることとなった。けれど、どんな条件のもとに養われるのか、自分でも一向知らなかった。いま一つ彼の特異な(非常にと言ってもいいくらいの)性質は、一たい自分が誰の金で生活しているのか、それまで一度も詮索したことがないという点にあった。この点において兄イヴァンが大学で初めの二年間、自分で働いて口を糊しながら苦労をしたり、また子供の時分から、自分は恩人の家で厄介になっている、ということを痛感したりしたのにくらべると、まったく正反対であった。しかしアリョーシャのこうした奇態な性格は、あまり深く咎めるわけにはいかないようである。なぜというに、少しでも知っている者は、誰でもこの問題に行き当ったとき、すぐになるほどと合点するからであった。つまりアリョーシャはどうし宗教的畸人《ユロージヴァイ》(放浪的生活を営み、奇矯な言行をもって世人を驚かす一種の精神病者、神の使いとして民間に尊敬せらる)か何かの一人に相違ない。だから、よし一時に巨額の金をもらったところで、最初に出会った無心者に施してしまうか、慈善事業に寄付するか、また単に巧者な詐欺師にちょっと頼まれて捲き上げられるかしてしまうだろう、とこんなふうに確信を得るのであった。概して、彼は金の価を知らなかった。とはいえ、これは文字通りの意味ではない。彼は決して自分のほうから頼んだことはないけれど、ときどき小遣銭をもらうことがある。ところが、時によると、幾週間も幾週間も使い道に困ってもてあますかと思えば、また時によると恐ろしくぞんざいに扱って、瞬く間になくしてしまう。ミウーソフは金や世間的名誉に関して神経過敏なほうであったが、ある時じっとアリョーシャの顔を見つめながら、一つの警句を吐いたことがある。「この子は世界中に類のないただ一人の人間かもしれないよ。この子はたとえ人口百万からある不案内な大都会の広小路へ、だしぬけに一人ぽつんとうっちゃられても、決して餓え死にすることもなければ、凍え死にすることもない。なぜって、すぐ人が来て、食べ物をくれたり、居どころを拵えてくれたりするからね。もし人がしてくれなければ、すぐに自分でどこかへ住み込むよ。しかも、それはこの子にとって、少しも骨の折れることでもなければ屈辱でもない。また世話する人もそれを少しも苦ににしないどころか、かえって満足に思うかもしれないて。』
 彼は中学を卒業しなかった。まだまる一年残っている時に、とつぜん恩人である二人の婦人にむかって、ふいとある用事が頭に浮んできたので、父のところへ赴くつもりだと告げた。婦人は非常に彼を惜しんで放そうとしなかった。旅費はあまり大した額でもなかったので、アリョーシャは恩人の遺族から、外国出発のみぎりに贈られた時計を質入れしようとしたが、二人の婦人はそれを止めて、十分に旅費を持だしたうえ、新しい服や肌衣類をあてがってやった。しかし、彼はぜひ三等の車に乗りたいからと言って、その金を半分婦人に返してしまった。この町へ着いた時、『どうして学校を卒業もしないで、やって来たのだ?』という父親の最初の質問に対して、彼は何一つ答えようとせず、ひと通りでなく黙り込んでいたという話である。その後まもなく、彼が母の墓を探していることが知れた。彼も帰って来たとき、それが自分の帰郷の唯一の目的だ、と言おうと思ったのであるが、これだけではどうも理由の全部がつくせないような気がした。とつぜん彼の心内に湧き起って、どこかよくわからないが、しかし避けがたい新しい道へ、否応なしにぐんぐん引っ張って行ったのは、一たい何ものであるか? この問いに対しては当時彼自身さえ何ら知るところがなく、何らの説明をも与えることができなかった、――こう解釈するのが最も妥当であろう。フョードルは、自分の第二の妻をどこに葬ったか、わが子に教えることができなかった。なぜというに、棺へ土をかぶせたきり一度も墓参したことがないので、長年たつうちに、その時どこへ葬ったか忘れてしまったからである。
 ついでにフョードルの話を少ししておこう。彼はその前ながい間この町に住んでいなかった。後妻の死後三四年だつと南ロシヤヘ赴いたが、その後、オデッサの町に現われて、そこで何年かつづけて居住した。最初は、彼自身の言葉を借りると『大小老若種々雑多のジュウと知り合いになったが、しまいにはただジュウばかりでなく、ヘヴライ(ユダヤ人を表すこの二つの称呼によって、社会上の位置の高低、尊敬の軽重を示している)の家にも出入りする』ようになったのである。彼が金儲けに特別の腕を拵え上げたのは、この時代のことと考えなければならぬ。彼がふたたびこの町へ帰ってすっかり落ちつくこととなったのは、アリョーシャの帰省より、僅か三年前である。町の昔馴染みは彼がひどく老けて帰ったように思ったが、そのくせ彼は決してまだそんなにいうほどの老人ではなかった。彼の態度は上品になったと言おうより、何だか妙に高慢になってきた。昔の道化は今度あらたに、他の者を道化に仕立てようという、高慢な要求を示すようになったのである。女を相手に見苦しい真似をするのは、以前どおりに好きだったというより、むしろやり方が一層いやらしくなった。まもなく、彼は郡内に多くの新しい酒場を建てた。想像したところ、彼の財産は十万ルーブリか、あるいは多少それに欠けるくらいあったらしい。市内および郡部の住民で、さっそく彼から金を借りた者がたくさんあった。ただし、確かな抵当を入れるのは言うまでもない話である。ごく最近に至って、彼も何だか箍《たが》が緩んだようなふうで、自分のことは自分で始末をつけるという平調なところがなくなって、軽薄の弊に陥りやすく、何か仕事をしても、初めと終りがすっかり別物になってしまう。全休にしまりがなくなって、ぐでんぐでんに酔い潰れることがますます頻繁になった。で、もしほとんどお側つきの格で彼を看守している、例のグリゴーリイという下男かなかったなら(彼もそのころ同様にかなりよぼよぼになっていた)、フョードルの生活には、しじゅう面倒なごたごたが絶えなかったに相違ない。アリョーシャの帰来は精神的方面からも、彼に何かの影響を与えたらしい。それは時ならずして老い込んだフョードルの魂に、ずっと以前から封じ込められていたあるものが、急に目をさましたような工合であった。
『なあお前』と彼はよくアリョーシャの顔を見つめながら言った。『お前はあいつに似ておるぞ、|憑かれた女《クリクーシカ》に。』彼は自分の亡妻、アリョーシャの母をこう呼んでいた。
 とうとう『|憑かれた女《クリクーシカ》』の墓は、下男のグリゴーリイがアリョーシャに教えた。この下男は彼を町の共同墓地へつれて行って、そこのずっと奥にある鋳鉄製の、あまり高価なものではないが、小じんまりした墓標を指さした。その上には故人の名、身分、年齢、死去の年などとともに碑銘があって、下のほうにはよく中どころの人の墓に使われる詩の一節が、四行ばかり彫ってあった。驚いたことには、この墓標がグリゴーリイの業《わざ》だったのである。これは彼が自腹を切って、気の毒な『|憑かれた女《クリクーシカ》』の土饅頭の上に建てたものである。そのまえ彼は幾度となく、この墓のことをほのめかして、主人をうるさがらしたが、ついにフョードルはただ墓ばかりでなく、あらゆる自分の記憶を抛り出して、オデッサへ行ってしまったのである。アリョーシャは母の墓の前でなんら感傷的な態度を見せなかった。彼はただ墓標建立に関するグリゴーリイのものものしい、理屈っぽい話を聞いたばかりで、しばらく頭を垂れながら佇んでいたが、やがて一口も物を言わないで立ち去った。それきり彼は一年ばかり墓場へ来なかった。しかし、この小さなエピソードはフョードルに一種の作用、しかも非常に奇抜な作用を及ぼしたのである。彼は千ルーブリの金を取り出して町の僧院へ持ってゆき、妻の回向を頼んだ。が、それは第二の妻、すなわちアリョーシャの母の『|憑かれた女《クリクーシカ》』のためではなく、自分をぶった先妻アデライーダのためであった。そして、その晩酒を飲みくらって、アリョーシャを相手に坊主どもの悪口を叩いた。彼自身決して信心ぶかい人間ではなかった。おそらく、五コペイカの蝋燭を買って、聖像の前へ立てたことさえ一度もなかろう。こんなわけのわからぬ男には、よくこうした奇態な感情や思想の突発が生じるものである。
 彼がこの頃、非常に箍が緩んできたのは、前に述べたとおりである。そのうえ彼の容貌は最近に至って、過去の生活ぜんたいの特質をありありと証明するような相好を呈してきた。いつも高慢で疑り深く、しかも人を馬鹿にしたような小さい目の下に、長いだぶだぶした肉の袋が垂れて、小さいけれど脂ぎった顔にたくさんな皺が深く刻まれているばかりか、尖った順の下からまるで金入れのようにだぶだぶした、細長い大きな瘤かぶら下っている。それが彼の顔にいやらしい淫乱な相を与えるのであった。その上に貪婪らしい長い口、脹れぼったい唇、その陰からちらちらするほとんど腐ってしまった黒い歯の欠け残り、こんなものがおまけについているのだ。彼は話をするたびに唾をぺっぺっと飛ばす癖があった。よく好んで自分の顔を冷かすけれど、大してその顔を不満足だとも思っていなかった。ことに大きくはないが非常に細い、一きわいちじるしい段のついた鼻をさしながら、『正真正銘のローマ式の鼻だ』と言った。『こいつが窟と一緒になって、頽廃期の古代ローマ貴族そっくりの顔ができあがってるんだ』というのが彼の自慢らしかった。
 アリョーシャは母の墓を見つけてから間もなく、とつぜん父に向って、自分は僧院へ入りたい、僧たちも自分が聴法者になるのを許してくれたと言いだした。彼はまたそのとき、これは自分の一生の願いであるから父として正式の許しを与えてくれるよう、たってお頼みするのだと説明した。この僧院内の庵室に行いすましている長老ゾシマが、自分の『おとなしい子供』になみなみならぬ感銘を与えたことは、フョードルもよく承知していた。
「あの長老は、もちろん、あすこで一ばん心のきれいな坊さんだよ。」黙って何か考え込むようなふうつきで、アリョーシャの言葉を聞き終った時、彼はこう口を切った。しかしわが子の願いに驚いたふうはいささかもなかった。「ふむ……じゃ、うちのおとなしい坊っちゃんは、あんなところへ行くつもりなのか!」彼は一杯機嫌であったが、突然にたりと笑った。それは持ちまえの、引き伸ばしたような、一杯機嫌とはいえ酔っ払いに特有のずうずうしさと、狡猾さを失わない薄笑いであった。「ふむ……だが、わしも結局、お前が何かそんなふうなことをしでかすだろう、てな気がしておったよ、こう言ってもお前は本当にせんがね? お前はまったくあんなところを狙っておったんだからな。が、まあ仕方がない、お前も自分の金を二千ルーブリ持っておるんだから、あれがつまり持参金になるんだあな。わしも決してお前をうっちゃっときゃせんから、これからも寺で出せと言うだけのものは、お前のために寄進するよ。だがな、もし出せと言わなかったら、何もこっちから差し出がましいことをするわけはないからな、そんなもんじゃないか? だって、お前の金の使い方はまるでカナリヤと同じことで、一週間に二粒ずつくらいのもんだろう……ふむ、時にな、あるお寺の傍にちょっとした一郭があって、その中には誰でも知ってることだが、いわゆる『梵妻《だいこく》』ばかり住んでおるやつさ。何でも三十匹ばかりいるらしい……わしもそこへ行ったことがあるが、いや、なかなか面白いわい。もちろん、一種とくべつな面白さで、風変りというだけのことなんだ。ただ困ったことには恐ろしい国粋主義で、フランス女が一人もおらんのだ。呼んで来てもいいんだがなあ、いい儲けになるんだに。そのうち嗅ぎつけたらやって来るだろうよ。しかし、ここには何もない。梵妻なんか少しもおらん。ただ坊主が二百匹ほどいるだけで、さっぱりしたもんだよ。つまり、お精進をやかましく言う連中ばかりなんだよ。それはわしも認める……ふむ。じゃ、何だな、お前は坊主の仲間に入りたいのだな? しかし、アリョーシャ、わしはまったくのところ、お前が可哀そうなんだ。本当にするかどうか知らんが、わしはお前に惚れちゃったよ……だがこれはちょうどいいおりだ、お前わしらのような罪の深い者のために、お祈りをしてくれんか、まったくわしらはここにじっとしとるうちに、ずいぶんたくさん罪を作ったものだからな。わしはいつもそう思うよ、――いつでもいいが、わしらのために祈ってくれる者がどこかにいるだろうか? 一たいそんな人間がこの世にいるかしらんて? 可愛い坊っちゃん、お前は本当にせんかもしれんが、このことにかけたら、わしは恐ろしい馬鹿になるんだよ。そりゃ非常なもんだよ。ところでな、わしもずいぶん馬鹿にはなるけれど、いつもいつもこのことを考えるんだよ。いや、「いつも」じゃない、むろんときどきだ。だが、わしが死んだときに、鬼どもがわしを鉤に掛けて地獄へ引っぱり込むのを、ちょっと忘れてくれるってなわけにはゆかんものだろうか? わしの気にかかるのはこの鉤なんだ。一たい鬼どもはどこからそんなものを取って来るんだろう? 何でこしらえてあるんだろう? 鉄かしらん? そうだとすれば、どこでそんなものを鍛えるんだろう? 何か、工場みたいなものが地獄にあるのかな? だって、お寺の坊さんは、地獄に天井があると考えてるだろう。ところが、わしは地獄というやつを信じてもいいけれど、ただ天井のないほうが好ましいのさ。そうすると、地獄が少し優美な文明的な、つまりルーテル式なものになってくるからな。まったくのところ、天井があったってなくたって同じことじゃないか。ところで、いまいましい問題はこの中にあるんだ! いいか、もし天井がないとすれば、鉤もないことになるだろう。ところが、鉤がなければ、すっかり見当が狂ってくらあな。つまり、またこれも嘘ということになる。そうすると、誰もわしを鉤で引っ張るものがないわけじゃないかね。ところが、もしわしを鉤で引っ張らんとしたらどうだろう、一たいこの世のどこに真理があるんだ? Il faudrait les inenter.(ぜひ鉤を作る必要がある)その鉤はわし一人のためなんだ、まったく、わし一人のためなんだ。なぜと言って、お前にはとてもわかるまいが、わしは実に何とも言えん恥知らずだからなあ?」
「しかし、地獄には鉤なんかありません。」真面目にじっと父を見つめながら、アリョーシャは答えた。
「そうだ、そうだ、ただ鉤の影ばかりなんだ、知ってる、知ってる。あるフランス人が地獄のことを書いてるがまったくそのとおりだよ。J'ai vu l'ombre d'un cocher qui avec l'ombre d'une brosse frottait l'ombre d'u e carrosse.(余は刷毛の影をもって馬車の影を拭く馭者の影を見たり)ってな。しかしお前はどうして鉤がないってことを知っとるんだい? 少し坊さんたちの中へ入っておったら、そんなことも言わなくなるだろうて。しかし、まあ行くがいい、そして真理に到達するがいい。その時わしのところへ来て話して聞かしてくれ。何といっても、あの世がどんなふうかってことを知っておったら、そこへ行くのもきっと楽だろうからなあ。それにお前も、のんだくれの親爺や娘っ子などの傍にいるより、坊さんたちのところにいたほうがためによかろう……せめてお前だけは天使のように、何にも触らせたくないよ。いや、まったくお前はあすこへ行ったら、何も触りゃせんだろう。お前に許しを与えたのも、つまりそれを当てにするからだ。お前の心は悪魔に食われとらんからな。ぱっと燃えて消えてしまって、それからすっかり生れ変ったようになって帰るがいい。わしはお前を待っとるぞ。実際、世界じゅうでわしを悪く言わんのは、ただお前一人だけだ、それはわしも感じとる、本当に感じとる、またそれを感じないわけにゆかんじゃないか!………」
 と言いながら、彼は啜り泣きさえし始めた。彼はセンチメンタルであった。意地わるだが、また同時にセンチメンタルでもあった。

   第五 長老

 ことによったら、読者のある者はこんなことを考えるかもしれない。この青年は病的な、有頂天になるほど感じやすい、貧弱な発育の生れつきで、蒼白い顔をしてひょろひょろに痩せた空想家である、と。ところがその正反対に、アリョーシャは体格のしっかりした、薔薇色の頬をして、健康に燃えるような明るいまなざしをした、二十歳の青年であった。彼は当時、非常に美しい容貌を持っていたくらいである。中背のすらりとした体つき、黒みがかった薄色の髪、輪郭の正しい、が、心もち長めの卵なりをした顔、左右の距離の広い濃灰色の目、全体として考え深そうな、そしていかにも落ちつきすましたらしい青年であった。
 あるいは、薔薇色の頬もファナチズムやミスチシズムの邪魔にならない、という人があるかもしれない。しかし筆者《わたし》には、アリョーシャが誰よりももっとも正しい意味の現実派ではないかと思われる。それはもちろん、僧院に入ってからの彼は、すっかり奇蹟を信じたに相違ない。しかし筆者の考えでは、現実派は決して奇蹟のために困惑を感じるものではない。つまり奇蹟が現実派を信仰に導くのではないからである。真の現実派は、もし彼が不信者であるとすれば、常に自分は奇蹟を信じない力と心構えを持っていると思う。そして、もし奇蹟が否定すべからざる事実となって現われたなら、彼は奇蹟を許容するよりもむしろ自分の感覚を信じまいとする。けれど、いざ奇蹟を許容するとなれば、ごく自然な事実ではあるが、ただ、今まで知られないでいた事実として許容するのである。現実派においては信仰が奇蹟から生れるのでなくして、信仰から奇蹟が生ずるのである。もし一たん現実派が信仰をいだいたら、その現実主義そのものによって、必ず奇蹟をも許容せざるを得ないのである。使徒トマスも見ないうちは信じないと誓ったが、いよいよ見た時には、『わが主よ、わが神よ!』と言った。これは奇蹟が彼を信じさせたのであろうか? おそらくそうではなかろう。彼はただ信じたいと望んだがために信じ得たのであろう。たぶん彼が『見ないうちは信じない』と言った時、もはやすでに自己の存在の奥底で完全に信じていたのかもしれない。
 あるいはまた、アリョーシヤは中学も卒業しないから、発達の不十分な鈍い人間だったのだ、と言う人がないともかぎらない。中学を卒業しなかったのは本当である。しかし、彼を評して鈍いだの馬鹿だの言うのは、大変な間違いである。これに対して筆者《わたし》は前に述べたことを、いまいちど繰り返すまでである。――彼がこの道へ踏み込んだのは、当時これ一つだけが、闇の中から光明をさして驀進する彼の心に驚くべき究極の理想を掲げてくれたからにすぎない。それにいま一つ、彼がある点においてわが国の近代的青年であった、ということをつけだしたらいいのだ。つまり、天性潔白にして真理を要求し、ついにそれを信じることになったのであるが、一たんそれを信じた以上、自分の精神力を傾けて一刻の猶予もなく、真理に馳せ参じて一かどの功名を樹てなければやまぬ、そしてその功名のためには一切のものを、命さえも犠牲にしたいという、やみがたい希望に燃えていたのである。しかし、こうした青年たちには、生命の犠牲はかような場合その他のいかなる犠牲よりも、最も容易なものであることがわからない。例えば同じ真理、同じ功名に奉仕する力を増すために、血に燃える若々しい自分の生活から五年六年をさいて、困難な研究――科学研究などの犠牲にするということは、ほとんどすべての青年にとってぜんぜん不可能なことなのである。
 アリョーシャはただすべての者に正反対の道を取っただけで、一時も早く功名をと思う渇望に変りはない。真面目な思索の結果、不死と神とは存在す、という信念に打たれるやいなや、ただちに自然の順序としてこうひとりごちた。『不死のために生きたい。中途半端な妥協は採りたくない。』それと同様に、もし彼が不死も神もないと決したと仮定すれば、彼はただちに無神論者や社会主義の群へ投じたに相違ない(なぜというに、社会主義は決して単なる労働問題、すなわち、いわゆる第四階級の問題のみでなく、主として、無神論の問題である、無神論に現代的な肉をつけた問題である、地上から天に達するためでなく、天を地上へ引きおろすために、神なくして建てられたるバビロンの塔である)。アリョーシャには以前どおりの生活をするのが、奇怪で不可能にすら感じられた。聖書にも、『もし完《まった》からんと欲せば、すべての財宝《たから》を頒ちてわれの後より来れ』と言ってある。で、アリョーシャは心の中で考えた。『自分は「すべて」の代りに二ルーブリ出し、「われの後より来れ」の代りに、祈祷式へだけ顔を出すようなことはできない。』
 彼の幼い頃の記憶の中に、母がよく祈祷式へ抱いて行ってくれた郊外の僧院に関する何ものかが消え残っていたかもしれない。あるいはまた『|憑かれた女《クリクーシカ》』の母憑彼を両手に載せて差し出す聖像の前の斜陽が、彼の心に何かの作用を起したかもしれない。彼がもの思いに沈みながら、当時この町へ帰って来たのは、ここでは『すべて』であるか、それともただの『二ルーブリ』であるか、見きわめるためだったかもしれない、が――こ