京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P294-298   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦34日目]

い。ところが、こないだの木曜日に、とつぜん坊主のイリンスキイが手紙をよこして、ゴルストキンがやって来たと知らせてくれた。これもやはりちょっとした商人で、わしは前から知っとるのだ。ただ有難いのは、この男がよその人間だということなんだ。ポグレボフから来たのさ。つまり、マースロフを怖れないってことなんだ。なぜと言うて、この町のものでないからな。そこで、あの森を一万一千ルーブリで買うと言うのだ、いいか? 爺さんの手紙では、もう一週間しか逗留しないそうだから、一つお前出かけて、その男と話してみてくれんか……」
「じゃ、あなた坊さんに手紙をお出しなさい、あの男が談判してくれますよ。」
「やつにゃできん、そこが問題なんだ。あの爺さんは見るというすべを知らんからなあ。人はいいやつで、わしはあの男なら今でも二万ルーブリの金を、受取りなしに平気で預けてみせるがな。しかし、見るというすべをまるっきり知らないんだ。人間どころか、鴉にでも瞞されそうな男だよ。しかも、それで学者だから驚くじゃないか。そのゴルストキンは、見かけは青い袖無外套なんか着て、いかにも百姓よろしくだけれども、性根がまるで悪党なんだから、これがお互いの不仕合せさ。つまり、途方もない嘘つきなんだ、これが問題なのさ。どうかすると、何のために嘘をつくのかと、不思議になるほど嘘をつくんだ。一昨年なんかも女房が死んだので、いま二度目のをもらっておるなどと言ったが、そんなことは少しもないのだから呆れるじゃないか。女房は死ぬどころか、今でもぴんぴんしておって、三日に一ペんは必ずあいつを擲ってるんだ。こんなふうだから、今度も一万一千ルーブリ出して買うというのは、本当か嘘か突きとめることが必要なのさ。」
「じゃ、僕なんか何の役にもたちません、僕には目がないんだから。」
「いや、待て、そうでないて、お前でも役にたつよ。今わしがあの男の、つまりゴルストキンの癖を、すっかり教えてやる。わしはもうだいぶ前からあの男と取引きをしとるからな。いいか、あの男はまず鬚を見なくちゃいかんのだ。あいつの鬚は赤っ毛で、汚れてしょぼしょぼしとるが、その鬚を願わしながら、腹を立ててものを言う時は、つまり何も言うことはない、あいつの話は本当で、真面目に取引きをする気があるのだ。ところが、もし左の手で鬚を撫でながら笑ってたら、つまり瞞そうと思って悪企みをしてるのだ。あの男の目は決して見るもんじゃない。目では何もわかりゃせん、『淵は暗し』だ、悪党だからな、――つまり、鬚を見ればいいのさ。わしがあの男にあてだ手紙をことづけるから、お前そいつを見せてくれ。あの男はゴルストキンだが、本当はゴルストキンでなくて、猟犬なんだ。しかし、お前あいつに向ってレガーヴィなんて言っちゃいかんぞ。怒るからな。もしあいつと話して大丈夫だと思ったら、すぐわしに手紙をよこしてくれ。ただ『嘘ではない』と書きさえすりゃいいんだ。はじめ一万一千ルーブリで踏ん張ってみた上で、千ルーブリぐらいは負けてやってもいい。しかし、それより負けちゃいかんぞ。まあ、考えてみろ、八千ルーブリと一万一千ルーブリ、一三千ルーブリの違いじゃないか。この三千ルーブリは本当に見つけものなんだよ。それに、またといって容易に買い手はつきゃせんし、今さしずめ金に困っとるんだからなあ。もし真面目だという知らせがあったら、その時こそわしがここから飛んで行って片をつける。時間分ところは何とか都合するさ。しかし、今のところ、ただ坊さんの思い違いかもしれないのだから、今わしが行ってもしようがない。」
「ちょっ、暇がないんですよ、堪忍して下さい。」
「まあ、親を助けると思って行ってくれ、恩に着るよ! お前らはみんな人情のないやつらだなあ、本当に! 一たい一日や二日が何だというのだ? お前はこれからどこへ行くんだ、ヴェニスかい? 大丈夫だ、お前のヴェニスは二日の間に崩れやせんから。わしはアリョーシャをやってもいいのだが、こんなことにかけたら、アリョーシャはしようのない人間だからなあ。わしが頼むのは、つまりお前が賢い人間だからよ、それがわしにわからんと思うのか? 森の売り買いこそしまいが、目を持ってるからなあ。実際あの男が本当を言うとるかどうか、ただ見さえすりゃいいんだよ。いま言ったとおり鬚を見ろ、鬚が顫えてたら本当なんだ。」
「あなたは自分からいまいましいチェルマーシニャヘ、僕を追い立てるんですね? え?」とイヴァンはにくにくしげに薄笑いをふくみながら呶鳴った。
 フョードルは憎悪のほうは見分けないで(あるいは見分けようとしなかったのかもしれない)、ただ笑いのほうだけを取って抑えたのである。
「じゃ、行くんだな、行くんだな! 今すぐ一筆手紙を書くから。」
「わかりませんよ、行くかどうかわかりませんよ、途中で決めます。」
「途中とは何だ。今きめるがいい。いい子だから、決めてくれ! 話がついたら一筆手紙を書いて、爺さんに渡してくれ。あいつがすぐにまた自分で手紙をわしにくれるから。それからはもうお前の邪魔をせんから、ヴェニスへでもどこへでも行くがよい。爺さんが自分の馬をつけて、お前をヴォローヴィヤ駅まで送ってくれるよ……』
 老人はもう何のことはない夢中になって、手紙を書き、馬車を呼びにやり、肴やコニヤクをすすめるのであった。彼は嬉しい時には口数の多くなるのが常であったが、今度は何となく慎しんでいる様子で、ドミートリイのことなどおくびにも出さなかった。しかし、別れが惜しいといった様子は少しもなく、かえって、何と言っていいかわからないようにさえ見受けられた。イヴァンもこれに気がついた。
『親父も、しかしいい加減おれには飽きたろうよ。』彼は肚の中でそう思った。
 もう玄関までわが子を送り出した時、フョードルも少々騒ぎだして、接吻するつもりでそばへ寄って来た。しかし、イヴァンは接吻を避けるつもりらしく、急いで握手のために手をさし伸べた。老人もすぐにそれを悟って、たちまちおとなしくなった。
「じゃ、ご機嫌よう、ご機嫌よう!」と彼は玄関口から繰り返した。「いつかまたやって来るだろうな? 本当に来てくれよ、わしはいつでも歓迎する。じゃ、無事に行くがいい!」
 イヴァンは旅行馬車の中へ入った。「さよなら、あんまり悪く言わんでくれ!」父は最後にこう叫んだ。
 家内の者一同、――スメルジャコフに、マルファとグリゴーリイが見送りに出た。イヴァンはめいめいに十ルーブリずつやった。彼がすっかり馬車の中に落ちついた時、スメルジャコフが駆け寄って絨毯を直しにかかった。
「見ろ……とうとうチェルマーシニャヘ行くよ……」なぜかふいにイヴァンはこう口をすべらした。ちょうど昨日と同じように、自然と言葉が飛び出したのである。しかも、神経的に小刻みな笑いまでついて出た。
 彼は長い間このことを覚えていた。
「では、『賢い人とはちょっと話しても面白い』と申しますのは、本当のことでございますね。」じっとしみ入るようにイヴァンを見つめながら、スメルジャコフはしっかりした調子で答えた。
 馬車は動きだして、やがて疾駆し始めた。旅人の心は濁っていたけれど、彼はあたりの光妲を――野や、丘や、木立や、晴れ渡った空を高く飛び過ぎる雁の群などを、貪るように眺めるのであった。と、急にひどくいい気持になってきたので、馭者に話をしかけてみた。すると、この百姓の答えが無性に面白いように思われたが、一二分たってから考えてみると、すべてはただ耳のそばを通り過ぎたばかりで、実際のところ、彼は百姓の答えをてんで聞いていなかったのである。彼は口をつぐんでしまったが、それでもなかなかいい気持であった。空気は清く爽やかにひんやりとして、空は美しく晴れ渡っていた。ふとアリョーシャとカチェリーナの姿が頭をかすめたが、彼はただ静かにほお笑んで、静かにその懐しい幻影を吹き消してしまった。
『あの人たちの時代はまたそのうちにやって来るだろうよ』と彼は考えた。
 駅はただ馬を換えるだけで素早く通り過ぎて、ひたすらヴォローヴィヤ駅へと急いだ。
『なぜ、賢い人とはちょっと話しても面白いのだ? やつ、何のつもりであんなことを言ったんだろう?』ふいにこんなことを考えた時、彼は息のつまるような思いがした。『しかも、おれはどういうわけでチェルマーシニャヘ行くなんて、わざわざやつに報告したんだろう?』
 やがてヴォローヴィヤ駅へついた。イヴァンは旅行馬車からおりると、たちまち馭者の群に包囲された。で、十二露里の村道を私設駅遞の馬車に乗って、チェルマーシニャヘ発つことに決めた。彼は馬をつけるように命じた。彼は駅舎へ入ったが、ちょっとあたりを見廻して、駅長の細君の顔を見ると、急にひっ返して玄関へ出た。
「もうチェルマーシニャ行きはやめだ。おい、七時の汽車に問に合うだろうか?」
「ちょうど間に合います。馬をつけましょうかね?」
「大急ぎでつけてくれ。ところで、お前たちのうち、誰かあす町へ行くものはないかな?」
「なんの、ないことがありますかね、現にこのミートリイが行きますよ。」
「おい、ミートリイ、一つお前に頼みがあるんだがなあ。お前、おれの親父のフョードル・カラマーゾフの家へ寄って、おれがチェルマーシニャヘ行かなかっ次ことを言ってくれないか。寄ってもらえるだろうか?」
「なんの、寄れないことがございましょう、お寄りいたしますよ。フョードルさまはずっと前から存じております。」
「じゃ、これが祝儀だ。たぶん親父はよこさないだろうからなあ……」とイヴァンは面白そうに笑いだした。
「へえ。決して下さりゃしませんよ」とミートリイも笑いだした。「どうも、旦那、有難うございます。ぜひお寄り申しますで……」
 午後七時、イヴァンは汽車に投じてモスクワへ向った。
『以前のことはすっかり忘れてしまうのだ、もちろん、以前の世界も永久に葬ってしまって、音も沙汰も聞えないようにしなければならん。新しい世界へ行くんだ、新しい土地へ行くんだ。後なんか振り返っても見るこっちゃない!』 にもかかわらず、彼の魂は歓喜の情の代りに、今までかつて経験し扛こともないような闇に封じられ、心は深い悲しみにうずき悩むのであった。彼は一晩じゅうもの思いに沈んでいたが、汽車は遠慮なく駛って行った。ようやく夜明けごろ、汽車がモスクワの市街へかかっ仁とき、彼は突然われに返った。
「おれは卑劣漢だ!」と彼は心に囁いた。
 フョードルはわが子を見送った後、非常な満足を感じた。まる二時間のあいだ、自分は仕合せ者だというような気がして、ちびりちびりコニヤクを傾けたほどである。ところが突然、すべての者にとってこの上もなくいまいましい、この上もなく不愉快な出来事が家内に生じて、たちまちフョードルの心をめちゃめちゃに混乱さしてしまった。ほかでもない、スメルジャコフが何のためか穴蔵へ出かけて、一番上の段から下まで転げ落ちたのである。それでもいいあんばいに、マルファが庭に居合して、手遅れにならないうちに聞きつけたので、まだしも仕合
せだったのである。彼女は落ちるところこそ見なかったが、その代り叫び声を聞きつけた。それは一種とくべつ奇妙な、しかしずっと前から聞き覚えのある叫び声、発作を起して卒倒する癲癇持ちの叫び声であった。彼は階段をおりている途中、発作を起したのだろうか?(そうだとすれば、もちろんそのまま気を失って、下まで転げ落ちるのがあたりまえである。)またその反対に、墜落と震盪の結果として、生来癲癇持ちであるスメルジャコフに発作が起ったのか、それは知る由もなかったけれど、とにかく彼が穴蔵の底で全身をびくびく痙攣させながら、口の端に泡を吹いて身もがきしているところを発見したのである。はじめ一同はきっと手か足かを挫いて、体じゅう打身だらけになっているだろうと思ったが、『神様のおかげで』(これはマルファの言ったことなので)、そのようなことは少しもなくてすんだ。ただ彼を穴蔵から『娑婆の世界』へかつぎ出すのがむずかしかったので、近所の人に手伝いを頼んで、やっと運び出した。この騒ぎのときフョードルも現場に居合せ、恐ろしくびっくりして途方にくれた様子で、自分で手まで添えたのである。
 しかし、病人はなかなか意識を回復しなかった。発作はときどきやひこともあったけれど、すぐにまた盛り返してきた。で、去年やはり誤って屋根部屋から落ちた時と、同じようなことが、また繰り返されるのだろうということに衆議一決した。去年、氷で頭を冷やしたことを思い出して、まだ穴蔵に氷が残っていたのを幸い、マルファがその世話をみることになった。フョードルは夕方、医者のヘルツェンシュトゥベを迎いにやった。彼は早速やって来て、丁寧に病人を診察した後(この人は県内でも一ばん丁寧な注意ぶかい医者てかなり年輩の上品な老人であった)、これはなかなか激烈な発作だから、『心配な結果にならないともかぎらぬ』、しかし、今のところ、まだはっきりしたことはわからないが、もし今日の薬がきかなかったら、明日また別なのを盛ってみると述べた。病人はグリゴーリイ夫婦の部屋と並んだ離れの一室に寝かされた。
 フョードルはその後ひきつづいて、いちんちいろんな災難にあい通した。第一、食事はマルファの手で整えられたが、スープなどはスメルジャコフの料理にくらべると、『まるでどぶ汁のよう』だし、鶏肉はあまりからからになりすぎて、とても噛みこなせるものでなかった。マルファは主人の手きびしい、とはいえ道理のある小言に対して、鷄はそれでなくても、もともと非常に年とっていたのだし、またわたしだって料理の稽古をしたことがないから、と抗議をとなえた。それから夕方になって、また一つ心配がもちあがった。もう一昨日あたりからぶらぶらしていたグリゴーリイが、折も折、とうとう腰が立たなくなって、寝込んでしまったという知らせを受け取ったのである。
 フョードルはできるだけ早く茶をすまして、ただひとり母家へ閉し籠った。彼は恐ろしい不安な期待の念に胸を躍らしていた。そのわけは、ちょうどこの夜グルーシェンカの来訪を、ほとんど確実に待ちもうけていたからである。今朝ほどスメルジャコフから、『あの方が今日ぜひ来ると約束なさいました』と言う、ほとんど言づけといってもいいくらいの情報を受け取ったのである。強情我慢な老人の心臓は早鐘のごとく打ちつづけた。彼はがらんとした部屋部屋を歩き廻って、ときおり耳を傾けるのであった。どこかでドミートリイが彼女を見張っているかもしれないから、耳をさとくすましていなければならぬ。そして、彼女が戸を叩いたら(スメルジャコフは例の合図を彼女に教えたと、一昨日、フョードルに報告した)、できるだけ早く戸を開けてやって、一秒間も無駄に入口で待ださないようにするのが肝要である。彼女が何かに驚いて逃げ出すようなことがあったら大変だ。フョードルはずいぶん気がもめはしたものの、彼の心がこんな甘い希望に浸ったことも、今までついぞなかった。今度こそ彼女が間違いなしにやって来る、と確実に言うことができるのではないか!