京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P054-057   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦33日目]

た。短い謎のような手紙にざっと目を通して見たが、ぜひとも来てくれという依頼のほか、まるで説明がなかった。
「ああ、それはあなたとして、ほんとうに美しい立派なことよ」とふいに|Lise《リーズ》は活気づいてこう叫んだ。「だって、あたし、お母さんにそう言ってたのよ、あの人はどんなことがあっても行きゃしない、あの人はお寺で行《ぎょう》をしてるんですものって。まあ、本当に、あなたはなんて立派な人なんでしょう! あたしね、いつでもあなたを立派な人だと思ってたのよ。だから、今そのことを言っちまっていい気持だわ!」
「|Lise《リーズ》」と母夫人はたしなめるように言ったが、すぐにっこり笑った。
「あなたはわたしたちを忘れておしまいなすったのね、アレクセイさん、あなたは家へちっとも来ようとなさらないじゃありませんか。ところが、|Lise《リーズ》はもう二度もわたしに、あなたと一緒にいる時だけ気分がいいって申しましたよ。」
 アリョーシャは伏せていた目をちょっと上げたが、また急に真っ赤になって、それからまたとつぜん、自分でもなぜだかわからない微笑を浮べた。けれど、長老はもう彼を見まもっていなかった。彼は前に述べたとおり、リーズの椅子のそばで自分を待っていた遠来の僧と話を始めたのである。それは見たところ、きわめて普通な僧らしかった。つまり大して位の高くない、単純ではあるが確乎不抜の人生観と、一種独自の執拗な信仰を持っているような僧の一人である。その言葉によると、彼はずっと北によったオブドールスクにある、僅か九人しか僧侶の住んでいない、貧しい聖シリヴェストル寺院から来たとのことであった。長老はこの僧を祝福して、いつでも都合のいい時に庵室を訪ねてくれと言った。
「あなたはどうして、あんなことを思いきってなさるのですか?」とつぜん僧はたしなめるようなものものしい態度で、|Lise《リーズ》を指しつつこう訊いた。これは彼女の『治療』のことをほのめかしたのである。
「このことはもちろん、今語るべき時でありませんじゃ。少しくらい軽くなったのは、すっかり治ってしまったのと違うし、それにまたほかの原因から起ることもありますでな。しかし、もし何かあったとすれば、それは誰の力でもない、神様の思し召しじゃ。一切のことは神様から出ているのじゃ。ときに、どうか本当にお訪ね下されえ」と彼は、僧に向ってつけたした。「でないと、いつでもというわけにまいりませぬでな。病身のことゆえ、もう命数もかぞえ尽されておる、それはわしも承知しておりますじゃ。」
「いえ、いえ、いえ、神様は決してわたくしどもからあなたを奪いはなさりませぬ。あなたはまだ長く長くお暮しなさいますとも」と母夫人は叫んだ。「それにどこがお悪いのでございましょう? お見受けしたところ、大変お丈夫そうで、楽しそうな、仕合せらしいお顔つきをしていらっしゃるではございませんか。」
「わしは今日珍しく気分がよいが、しかしそれはほんのちょっとの間じゃ、それはわしにもようわかっておりますじゃ。今わしは自分の病気を間違いなしに見抜いておりますでな。あなたはわしが大へん楽しそうな様子をしておると言われたが、そのように言うて下さるほど、わしにとって嬉しいことはありませんわい。なぜといって、人は仕合せのために作られたものですからな、じゃによって、本当に仕合せな人は、『わしはこの世で神の掟をはたした』と言う資格がある。すべての正直な人、すべての聖徒、すべての殉教者は、みなことごとく幸福であったのですじゃ。」
「ああ、何というお言葉でしょう、何という勇ましい高遠なお言葉でございましょう!」と母夫人は叫んだ。「あなたのおっしゃることは、一々わたくしの心を突き通すようでございます。ですが、仕合せ……仕合せ……それは一たいどこにあるのでしょう? ああ、もし長老さま、今日わたくしどもに二度目の対面を許して下さるほど、ご親切なお方でございますなら、このまえ申し上げなかったことを、――思いきって申し上げられなかったことをお聞き下さいまし。わたくしの苦しみのいわれをお聞き下さいまし。これはもうずっとずっと前からでございます! わたくしの苦しみは、失礼でございますが、わたくしの苦しみは……」こう言いながら、夫人は熱した感情の発作に駆られて、長老の前に両手を合せた。
「つまり何ですかな?」
「わたくしの苦しみは……不信でございます……」
「神様を信じなさらぬかな?」
「ああ、違います、違います、そんなことはわたくし考える勇気もございません。けれど、来世――これが謎なのでございます! この謎に対しては誰ひとり、本当に誰ひとり答えてくれるものがありません! どうぞお聞き下さいまし、あなたは人の心を癒すもの識りでいらっしゃいます。わたくしはもちろん、自分の申すことをすっかり信じていただこう、などという大それた望みは持っておりませんけれども、決して軽はずみな考えで、ただ今こんなことを申し上げるのでないということは、立派に誓ってもよろしゅうございます……まったく、この来世という考えが、苦しいほどわたくしの心を掻き乱すのでございます……ほんとうに恐ろしいほどでございます……それでも、わたくしは誰に相談したらいいかわかりません、どうしてもそんなことはできませんでした……ところがただ今、わたくしは思いきってあなたに申し上げるのでございます……ああ、どうしましょう、今あなたは、わたくしをどんな女だとお思いあそばすでしょう!」と夫人は思わず手を拍った。
「わしの思わくなぞ憚ることはありませんじゃ」と長老は答えた。「わしはあなたの悩みの真実なことをまったく信じきっておりますでな。」
「ああ、まことに有難うございます! ねえ、わたくしは目をつぶって、こんなことを考えるのでございます、もしすべての人が信仰を持っているとしたら、どこからそれを得たのでしょう? ある人の説によりますと、すべてこういうことは、はじめ自然界の恐ろしい現象に対する恐怖の念から起ったもので、神だの来世だのというものはないのだそうでございます。ところで、わたくしの考えますに、こうして一生涯信じ通しても、死んでしまえば急に何もなくなってしまって、ある文士の言っているように、『ただ墓の上に山牛蒡が生えるばかり』であったら、まあ、どうでございましょう。恐ろしいではありませんか! 一たいどうしたら信仰を呼び戻すことができましょうかしら? もっとも、わたくしが信じていましたのは、ほんの小さい子供のときばかりで、それも何の考えなしに機械的に信じていたのでございます……どうしたら、本当にどうしたらこのことが証明できましょうか、今日わたくしはあなたの前にひれ伏して、このことをお訊ねしようと存じまして、お邪魔にあがったのでございます。だって、もしこのおりをのがしましたら、もう一生わたくしの問いに答えてくれる人がございませんもの。どうしたら証明ができましょうか、どうしたら信念が得られましょうか? わたくしはまったく不仕合せなのでございます。じっと立ってまわりを眺めましても、みんな大抵どうでもいいような顔をしています、今の世の中に誰一人、そんなことを気にかける人はありません。それなのに、わたくし一人だけ、それがたまらないのでございます。本当に死ぬほど辛うございます!」
「それは疑いもなく死ぬほど辛いことですじゃ! しかし、このことについて証明ということはしょせんできぬが、信念を得ることはできますぞ。」
「どうして? どういう方法なのでございます?」
「それは実行の愛ですじゃ、努めて自分の同胞を実行的に怠りなく愛するようにしてごらんなされ。その愛の努力が成功するにつれて、神の存在も自分の霊魂の不死も確信されるようになりますじゃ。もし同胞に対する愛が完全な自己否定に到達したら、その時こそもはや疑いもなく信仰を獲得されたので、いかなる疑惑も、あなたの心に忍び入ることはできません。これはもう実験をへた正確な方法じゃでな。」
「実行の愛? それがまた問題でございます。しかも、恐ろしい問題なのでございます! ねえ長老さま、わたくしはときどき一切のものを抛って、――自分の持っている物をすっかり投げ出した上に、リーザまで見棄てて、看護婦にでもなろうかと空想するくらい、人類というものを愛しているのでございます。じっとこう目をつぶって空想しているとき、わたくしは自分の中に抑えつけることのできない力を感じます。どんな傷も、どんな膿も、わたくしを愕かすことができないような気がいたしまず。わたくしは自分の手で傷所を繃帯したり洗ったりして、苦しめる人たちの看護人になれそうな心持がいたします。膿だらけの傷口を接吻するほどの意気込みになります。」
「ほかならぬそういうことを空想されるとすれば、それだけでもたくさんですじゃ、結構なことじゃ。そのうちにひょっと何か本当によいことをされる時もありましょう。」
「けれど、そういう生活に長く辛抱できるでございましょうか?」と夫人は熱心にほとんど激昂したような調子で言葉をつづけた。「これが一ばん大切な問題なのでございます。これがわたくしにとって一ばん苦しい、問題中の問題でございます。わたくしは目をつぶって、本当にこういう道を長く歩みつづけられるかしら、と自分で自分に訊いてみます。もしわたくしに傷口を洗ってもらっている病人が、即座に感謝の言葉をもって酬いないばかりか、かえってわたくしの博愛的な行為を認めも尊重もしないで、いろんな気まぐれで、人を苦しめたり、呶鳴りつけたり、わがままな要求をしたり、誰か上役の人に告げ口をしたりなんかしたら(これはひどく苦しんでいる人によくあることでございます)、――その時はまあどうでしょう? わたくしの愛はつづくでしょうか、つづかないでしょうか、ところで、何とお考えあそばすかわかりませんが、――わたくしは胸をわななかせながら、この疑問を解決したのでございます、――もしわたくしの人類に対する『実行的な』愛を、その場かぎり冷ましてしまうものが何かあるとすれば、それはつまり恩知らずの行為でございます。手短かに申しますと、わたくしは報酬を当てにする労働者でございます。わたくしは猫予なく報酬を、つまり愛に対する愛と賞讃を要求いたします。それでなくては、どんな人をも愛することができません!」彼女は誠実無比な自己呵責の発作に襲われているのであった。語り終えると、決然と挑むような態度で長老を眺めた。
「それは、ある一人の医者がわしに話したこととそっくりそのままじゃ、もっともだいぶ以前の話ですがな」と長老は言った。「それはもうかなりな年輩の、まぎれもなく賢い人であったが、その人があなたと同じようなことを、露骨に打ち明けたことがあります。もっとも、それは冗談半分ではあったが、痛ましい冗談でしたじゃ。その人が言うには、『私は人類を愛するけれども、自分で自分に驚くようなことがある。ほかでもない、一般人類を愛することが深ければ深いほど、個々の人間を愛することが少のうなる。空想の中では人類への奉仕ということについて、むしろ奇怪なくらいの想念に到達し、もし何かの機会で必要が生じたならば、まったく人類のため十宇架をも背負いかねないほどの勢いであるが、そのくせ誰とでも一つ部屋に二日と一緒に暮すことができぬ。それは経験で承知しておる。雎かちょっとでも自分のそばへ寄って来ると、すぐその個性が自分の自尊心や自由を圧迫する。それゆえ、私は僅か一昼夜のうちに、優れた人格者すら憎みおおせることができる。ある者は食事が長いからというて、またある者は鼻風邪を引いて、ひっきりなしに鼻をかむからというて憎らしがる。つまり、私は人がちょっとでも自分に接触すると、たちまちその人の敵となるのだ。その代り個々の人間に対する憎悪が探くなるにつれて、人類ぜんたいに対する愛はいよいよ熱烈になってくる』とこういう話ですじゃ。」
「けれど、どうしたらよろしいのでしょう? そんな場合どうしたらよろしいのでしょう? それでは絶望のほかないのでございましょうか?」
「そのようなことはありませんじゃ。なぜというて、あなたがこのことについてそのように苦しみなさる……それ一つだけでもたくさんじゃでな。できうるだけのことをされれば、それだけの酬いがあります。あなたがそれほど深う真剣に自分を知ることができた以上、あなたはもう、多くのことを行ったわけになりますじゃ! が、もし今あのように誠実に話されたのも、その誠実さをわしに褒めてもらいたいがためとすれば、もちろん、あなたは実行的愛の方面で、何ものにも到達される時はありませんぞ。すべては空想の中にとどまって、一生は幻のごとく閃き過ぎるばかりじゃ、そのうちには来世のことも忘れて、ついには自分で何とかして安閑として納まってしまわれる、それはわかりきっておりますわい。」
「あなたはわたくしを粉微塵にしておしまいなさいました! わたくしはたった今あなたに言われて、はじめて気がつきました。本当にわたくしは、恩知らずの行為を忍ぶことができないという自白をいたしました時、自分の誠実さを褒めていただぐことばかり当てにしておりました。あなたはわたくしの正体を取って押えて、わたくしに見せて下さいました、わたくしにわたくしを説明して下さいました!」
「あなたの言われるのは本当かな? そういう告白をされた以上、わしも今あなたが誠実な人で、善良な心を持っておいでの