京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P090-093   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦42日目]

へ地主のマクシーモフが現われた。彼は一行に遅れまいと、息を切らせながら駆けつけたのである。ラキーチンとアリョーシャは、彼が走って来る様子を目撃した。彼は恐ろしく気をいらって、まだイヴァンの左足がのっかっている踏段へ、もう我慢しきれないで片足かけた。そして、車台へ手をかけながら、馬車の中へ飛び込もうとした。
「わたくしも、わたくしもあなたとご一緒に!」小きざみに嬉しそうな笑い声をたて、恐悦らしい色を顔に浮べ、どんなことでも平気でやってのけそうな気色で、ひょいひょいと飛びあがりながら、彼は叫んだ。「わたくしもお連れなすって。」
「そら見ろ、わしの言わんこっちゃない」とフョードルは得々として叫んだ。「こいつはフォン・ゾンだよ! 墓場から生き返って来た正真正銘のフォン・ゾンだ! しかし、お前どうしてあそこを脱け出したい? どんなふうにフォン・ゾン式を発揮して、お食事をすっぽかして来たい? ずいぶん面の皮が厚くなくっちゃできん仕事だよ! わしの面の皮も厚いが、お前の面の皮にも驚いてしまうなあ! 飛べ、飛べ、早く飛べ! ヴァーニャ、入らしてやろうよ、賑やかでいいぞ。こいつはどこか足もとへ坐らしてやろう。いいだろう、フォン・ゾン? それとも、馭者と一緒に馭者台へおこうかな?……フォン・ゾン、馭者台へ飛びあがれ。」
 しかし、もう座に落ちついたイヴァンは、突然だまって力まかせに、マクシーモフの胸を突き飛ばした。こっちは一間ばかりうしろへけし飛んだ。彼が倒れなかったのは、ほんの偶然である。
「やれっ!」とイヴァンはにくにくしげに馭者に向って叫んだ。
「おい、お前、何だって? 何だってお前? どうしてあいつをあんな目に?」とフョードルは跳びあがったが、馬車はもう動きだした。イヴァンは答えなかった。
「本当にお前は何という男だ!」二分ばかり黙っていたが、やがてフョードルはわが子を尻目にかけながら、また言いだした。「お前は自分でこの僧院の会合をもくろんで、自分でおだてあげて賛成したくせに、何だって今そんなにぶりぶりしてるんだい?」
「もう馬鹿な真似をするのはたくさんです、もう少し休んだらいいでしょう。」イヴァンは厳しい声で断ち切るように言った。
 フョードルはまた二分ばかり無言でいた。
「今コニヤクでも飲んだらよかろうなあ」と彼はものものしい調子で言った。が、イヴァンは返事しなかった。
「家へ帰ったらお前も飲むだろう。」
 イヴァンは依然として押し黙っている。
 フョードルはまた二分ばかり待ったのち、
「アリョーシャは何といっても寺から引き戻すよ、お前さんにとってはさぞ不快だろうがね、尊敬すべきカルル・フォン・モール。」
 イヴァンは馬鹿にしたようにひょいと肩をすくめ、そっぽを向いて、街道を眺めにかかった。それから家へ着くまで言葉を交えなかった。



第三篇 淫蕩なる人々

第一 下男部屋にて

 フョードル・カラマーゾフの家は決して町の中心ではないが、さりとてまるきり町はずれというでもない。それはずいぶん古い家であったが、見てくれはなかなか気持よくできている。中二階のついた平屋建で、鼠色に塗り上げられ、赤い鉄板葺の屋根がついていた。まだ当分容易に倒れそうな様子もなかった。家は全体に手広で居心地よく作ってある。いろいろな物置部屋だの隠れ場所だの、それから思いがけないところに設けられた階段などがたくさんあった。鼠もかなりはびこっていたが、フョードルはそれをあまり苦に病まなかった。『まあ、何というても、夜一人の時にさびしくなくっていいわ。』実際、彼は夜になると召使を離れへ下げてやり、一晩じゅう母家にただ一人閉じこもる習慣があった。離れは庭に立っていて、広々したがんじょうな作りであった。フョードルはこの中に台所をおくことに決めていた。もっとも、台所は母家のほうにもあるのだが、彼は台所の臭いが嫌いなので、夏も冬も食物は庭を横切って運ばせていた。全体として、この家は大家族のために建てられているので、主人側の人も召他の者も、今の五倍くらい容れることができた。しかし、今のところ、この家の中にはフョードルと息子のイヴァン、そして離れのほうには僅か三人のグリゴーリイ、老婆マルファ(その妻)、それにスメルジャコフという若い下男であった。
 筆者《わたし》はどうしてもこの三人の召使のことを、少し詳しく説明せねばならぬ。老僕グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ・クトゥゾフのことは、もうだいぶ話しておいた。これは頑固一徹な人間で、もし一たん何かの原因で(それは大抵おそろしく非論理的なものだが)、間違いのない真理だと思い込むと、執拗に一直線に、ある一点を目ざして進んで行く。概して正直で、抱き込むことなどできない男である。妻のマルファは夫の意志の前に一生涯、否応なしに服従していたけれど、よくいろんなことを言ってうるさく夫を口説くことがあった。例えば農奴解放後まもなく、フョードルの許を去って、モスクワへ赴き、そこでちょっとした商売を始めようと勧めたことがある(二人の間には幾らか小金が溜っていたので)。しかし、グリゴーリイは即座に、きっぱりと、女は馬鹿ばかりこく、『女ちゅうものは誰でも、不正直なもんだからな。』なにしろ以前のご主人のところを出るという法はない、たとえその人がどんな人物であるとしても、『それが今日われわれの義務というもんだ』と言い渡した。
「お前、義務ちゅうが何だか知っとるか?」彼はマルファに向ってこう言った。「義務ちゅうことは、わたしも知ってますよ、あんた。だけんど、どういうわけでわたしらがここに残ってなきゃならんのやら、それがわたしにゃ皆目わかりませんよ」とマルファはきっぱりと答えた。