京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P058-061   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦34日目]

ことと信じますじゃ。よしや幸福にまで至らぬとしても、いつでも自分はよい道に立っておるということを覚えておって、その道から踏みはずさぬようにされたがよい。何より大切なのは偽りを避けることじゃ、あらゆる種類の偽りを避けることじゃ、あらゆる種類の偽り、ことに自分自身に対する偽りを避けねばならぬ。自分の偽りを観察して、一時間ごと、いや一分間ごとにそれを見つめなされ。それから他人に対するものにせよ、自分に対するものにせよ、気むずかしさというものは慎しむべきことですぞ、あなたの心中にあって汚く思われるものは、あなたがそれに気づいたということ一つで、すでに浄化されておりますでな。恐怖もやはりそのとおり避けねばなりませんぞ、もっとも恐怖はすべて偽りの結果じゃが。また愛の獲得について、決して自分の狭量を恐れなさるな。それからまたその際に生じた自分のよからね行為をも、同様恐れることはありません。どうもこれ以上愉快なことを言うことができんで気の毒じゃが、なんにせ実行の愛は空想の愛にくらべると、恐ろしい気を起させるほど困難なものじゃでな。空想の愛はすみやかに功の成ることを渇望し、人に見られることを欲する。実際、中でも極端なのは、一刻の猶予もなくそれが成就して、舞台の上で行われることのように、皆に感心して見てもらいたい、それがためには命を投げ出しても惜しゅうない、というほどになってしまう。しかるに、実行の愛に至っては、何のことはない労働と忍耐じゃ。ある種の人にとっては一つの立派な学問かもしれぬ。しかし、あらかじめ言うておきますがな、どのように努力しても目的に達せぬばかりか、かえって遠のいて行くような気がしてぞっとする時、そういう時あなたは忽然と目的に到達せられる。そして絶えずひそかにあなたを導きあなたを曼された神様の奇蹟的な力を、自己の上にはっきりと認められますじゃ。ご免なされ、もうこれ以上あなたとお話はできませぬ、待っておる人がありますでな、さようなら。」
 夫人は泣いていた。
「|Lise《リーズ》を、|Lise《リーズ》を祝福して下さいまし、祝福して!」とふいに夫人は慌てだした。
「お嬢さんは愛を受ける値うちがありませんじゃ。お嬢さんが初めからしまいまでふざけておったのを、わしはちゃんと知っておりますぞ」と長老は冗談まじりに言った。「あんたはどういうわけで、さっきからアレクセイをからかいなさった?」
 まったく|Lise《リーズ》は初めからしまいまでこのいたずらに一生懸命だったのである。彼女はずっと前から、――この前の時から、アリョーシャが自分を見ると妙に鼻白んで、なるべく自分のほうを見まいとしているのに気がついた。これが彼女には面白くてたまらなかったのである。彼女は一心に待ちかまえながら、相手の視線を捕えようとした。と、こちらは執念《しゅうね》く自分のほうへ注がれた視線にたえきれないで、打ち勝ちがたい力に牽かれてふいと自分から娘を見やる、すると彼女はすぐさまひたと相手の顔を見つめながら、得々たる微笑を浮べる。アリョーシャは一そう鼻白んで口惜しがるのであった。ついに彼はすっかり顔をそむけて、長老のうしろへ隠れてしまった。幾分かの後、彼はまた同じ打ち勝ちがたい力に牽かれて、自分を見てるかどうかと、娘のほうを振り向いて見た。すると|Lise《リーズ》はほとんど安楽椅子から身を乗り出してしまって、横のほうから彼を見つめながら、自分のほうを振り向くのを一生懸命に待っていた。いよいよ彼の視線を捕らえると、長老さえ我慢できないような笑い声を立てたのである。
「どうしてあんたはこの人に、そう恥しい思いをさせなさるのじゃな、おはねさん?」
 |Lise《リーズ》は突然思いがけなく、真っ赤になって目を輝かした。その顔は恐ろしく真面目になった。彼女は熱した不平満々たる調子で、早口に神経的に言いだした。
「じゃ、あの人はどうして何もかも忘れてしまったの? あの人はあたしが小さな時分、あたしを抱いて歩いたり、一緒に遊んだりしたくせに。それから家へ通って、あたしに読み書きを教えてくれたのよ、あなたそれをご存じ? 二年前に別れる時も、あたしのことは決して忘れない、二人は永久に、永久に、永久に親友だって言ったのよ! それだのに、いまになって急にあたしを怖がりだしたんですもの。一たいあたしがあの人を、取って食うとでも思ってるのかしら? どうしてあの人はあたしのそばへ寄って、お話をしようとしないんでしょう! なぜあの人は家へ来ようとしないんでしょう? あなたがお出しなさらないの? だって、あの人がどこへでも行くってことは、あたしたちよく知っててよ。あたしのほうからあの人を呼ぶのはぶしつけだから、あの人から先に思い出してくれるのが本当だわ、もしあのことを忘れてないのなら……いいえ、駄目だわ、あの人は行《ぎょう》をしてるんですもの! だけど、何だってあなたはあの人にあんな裾の長い法衣を着せたの?……駈け出したら転ぶじゃないの……」
 彼女は急にこらえきれなくなって、片手で顔を蔽いながら、もちまえの神経的な、体じゅうを揺り動かすような声を立てぬ笑い方で、さもたまらないように、いつまでもいつまでも笑いつづげるのであった。長老は微笑を含みながら彼女の言屬を聞き終り、優しく祝福してやった。リーザは長老の手を接吻しながら、突然その手を自分の目に押し当てて泣きだした。
「あなた、あたしのことを怒らないで頂戴、あたしは馬鹿だから何をしていただく値うちもないのよ……アリョーシャがこんなおかしな娘のところへ来たがらないのも、もっともかもしれないわ、本当にもっともなんだわ。」
「いや、。わしがぜひとも行かせますじゃ」と長老は決めてしまった。

   第五 アーメン、アーメン

 長老が庵室を出ていたのは約二十五分間であった。もう十二時半過ぎているのに、この集りの主因であるドミートリイはまだ姿を見せなかった。しかし、一同はほとんど彼のことを忘れてしまった形で、長老がふたたび庵室へ入ったときは。客ぜんたいの間に恐ろしく活気づいた会話が交されていた。その会話の牛耳をとっていたのは、第一にイヴァン、それから二人の僧であった。見受けたところ、ミウーソフも熱心に口を入れようとしていたが、またこの時も彼は運が悪かった。どうやら彼は二流どころの位置に立っているらしく、あまり彼の言葉に答えるものさえなかった。この新しい状態は、次第に募ってゆく彼の癇癪を、さらに烈しくするばかりであった。ほかでもない、彼は以前からイヴァンと知識の張りあいをしていたが、相手の示す気のない態度を冷静に我慢することができなかったのである。『少くとも、今までわれわれはヨーロッパにおけろ一切の進歩の頂上に立っていたのに、この若き世代は思いきってわれわれを軽蔑してやがる』と彼は肚の中で考えた。
 さっき椅子にじっと腰をかけて、口を緘していると誓ったフョードルは、本当にしばらくのあいだ口をきかなかったが、しじゅう人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮べながら、隣りに坐っているミウーソフの動作に注意して、そのいらいらした顔色を見て悦んでいる様子であった。彼はずっと前から何か敵《かたき》を取ってやろうと心構えしていたが、今の機会を見のがす気になれなかった。とうとう我慢ができなくなって、ミウーソフの肩に屈みかかりながら、小さな声でもう一度からかった。
「あんたがさっき『いとしげに口づけしぬ』の後で帰らないで、こうした無作法な仲間へ踏みとどまる気になったのはどういうわけか、一つ教えて上げましょうかな? ほかじゃない、あんたは自分が卑下されて侮辱されたような気がするので、その意趣ばらしに一つ利口なところを見せてやろう、と思って踏みとどまったんですよ。もうこうなった以上、利口なところを見せないうちは、決して帰りっこなしでさあ。」
「あなたはまた? なんの、今すぐにも帰りますよ。」
「どうして、どうして、一ばん後からお帰りですよ!」フョードルはいま一度ちくりと剌した。それはちょうど長老の帰って来た瞬間である。
 論争はその瞬間ひたとやんだ。が、長老はもとの席に着いてから、さあつづけて下さい、と勧めるように愛想よく一同を見廻すのであった。この人の顔のありとあらゆる表情をほとんど研究しつくしたアリョーシャは、このとき彼が恐ろしく疲れはてて、しいてみずから支えているのを明らかに見てとった。近頃彼は力の消耗のため、ときどき卒倒することがあった。その卒倒の前と同じような蒼白い色が、いま彼の顔に拡がっている。唇も白けていた。しかし、明らかに彼はこの集りを解散させたくない様子であった。その上に何かまだ目的があるらしい――が、どんな目的であちう? アリョーシャは一心に彼に注目していた。
「この人の至極めずらしい論文の話をしておるところでございます。」図書がかりの僧ヨシフがイヴァンを指しながら、長老に向ってこう言った。「いろいろ新しい説が述べてありますが、根本の思想は曖昧なものでございます。この人は教会的社会裁判とその権利範囲の問題について、一冊の書物を著わしたある桑門の人に答えて、論文を雑誌に発表されたので……」
「残念ながら、わしはその論文を読んでおりませんじゃ。しかし、話はかねがね聞いておりましたよ」と長老は鋭い目つきでじっとイヴァンを見つめながら答えた。
「この人の立脚地はなかなか面白いのでございます」と図書がかりの僧は語をついだ。「つまり、教会的社会裁判の問題について、教会と国家の区別をぜんぜん否定しておられるらしゅうございます。」
「それはめずらしい、しかしどのような意味ですかな?」と長老はイヴァンに訊ねた。
 イヴァンはとうとうそれに返事をした。が、その調子は前夜アリョーシャの心配したように、上から見下したような悪丁寧さではなく、つつましく控え目な用心ぶかいところがあった。底意らしいものは少しもなかった。
「僕はこの二つの分子の混同、すなわち教会と国家という別々な二つのものの混同は、むろん、永久につづくだろうという仮定から出発したのです。もっともこれはあり得べからざることで、ノーマルな状態どころじゃない、幾分たりとも調和した状態に導くことすらできないのであります。何となれば、その根本に虚偽が横たわっているからです。裁判のような問題における国家と教会との妥協は、純粋な本質から言って不可能なのであります。僕が論駁を試みた僧侶の方の断定によれば、教会は、国家の中に正確な、一定した地歩を占めているというのですが、僕は反対に、教会こそ自己の中に国家全体を含むべきであって、国家の中に僅かな一隅を占めるべきではない。たとえ現代において、それが何かの理由によって不可能であろうとも、将来、キリスト教社会の発達の直接かつ重大な目的とならねばならぬ、とこう論駁したのです。」
「それはまったくそのとおりです」と無口で博学な僧パイーシイは、しっかりした神経的な声で言った。
「純粋の法王集権論《ウルトラモンタニズム》(ラテン語、山の彼方の意、けだしイタリアは中央ヨーロッパに対して山の彼方に当るからである)です。」じれったそうに、かわるがわる両方の足を組み変えながら、ミウーソフはこう叫んだ。
「なんの! それにロシヤには、山なぞないではありませんか!」と図書がかりの僧ヨシフは叫んで、さらに長老の方を向きながら語をつづけた。「この人はいろいろな議論の中に、論敵たる僧侶の(これは注目すべき事実でございます)『根本的かつ本質的命題』を弁駁していられます。その命題は第一に、『いかなる社会的団体といえども、自己の団体員の民法的、ならびに政治的権利を支配するの権力を所有する能わず、かつまた所有すべからず。』第二に、『刑法的および民法的権力は教会に属すべからず。教会は神の制定したるものとして、また宗教的目的を有する人々の団体として、性質上かかる権利と両立することを得ずぶい最後の第三は、『教会はこの世の王国にあらず』というの。でございます……」
「桑門の人にあるまじき言語の遊戯でございます!」とパイーシイは我慢しきれないでまた口を出した。「わたくしはあなたの論駁されたあの本を読んで」とイヴァンの方を向いた。「あの『教会はこの世の王国にあらず』という言葉に一驚を喫しました。もしこの世のものでないとすれば、この地上にぜんぜん存在するはずがないではありませんか。聖書の中にある『この世のものならず』という言葉は、そのような意味で用いられてはおりません。このような言葉をもてあそぶのはあるまじきこ老です。主イエス・キリストはとりもなおさず、この地上に教会を立てるためにおいでなされたのです。天の王国はむろんこの世のものでなく、天上にあるに相違ありませんが、それに入って行くには、地上に立てちれた教会を通るよりほかに道がありません。それゆえこの意味における俗世間的|地口《じぐち》は不可能で、かつあるまじきことです。教会は真に王国であります、君臨すべき使命を有しているのであります。それゆえ、最後は独立せる王国として、地上全体に出現しなければなりません――これはもう神の誓約のあることです……」
 彼は急におのれを制したかのように口をつぐんだ。イヴァンは経緯と注意を表しながら、その言葉を聞き終ると、さらに長老のほうへ向いて、少しも大儀そうなところのない、人のいい調子で、落ちつきすまして言いだした。
「つまり、僕の論文の要旨はこうなのです。古代、すなわちキ