京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P122-125   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦50日目]

らないが、そうする必要があったんだろうよ)、これから県庁所在地の町へ行って、モスクワにいる姉さんのアガーフィヤヘ、為替で三千ルーブリ送ってくれとの頼みだった。県庁所在地まで行ってくれというのは、ここの人に知られたくないからだ。この三千ルーブリを懐中して、おれはその時グルーシェンカのところへ出かけた。そして、この金でモークロエヘ押し出したのだ。その後おれはさっそく市へ飛んで行ったようなふりをしたけれど、為替の受取りを出しもしないで、金は送ったから受取りもすぐ持って来ると言いながら、いまだに持って行かないでいる。忘れましたってわけでね。そこでお前、何と思う、これからお前があのひとのところへ出かけて、『よろしくと申しました』と言ったら、あの人は『で、お金は?』と訊くだろう。そうしたら、お前はこんなに言ってもかまわないよ、『兄は陋劣な好色漢です、欲情を抑えることのできない卑しい動物です。兄はあのとき金を送らないで、下等動物の常として、衝動にひかれて、すっかり使ってしまったのです。』が、それにしても、こう言い添えてもさしつかえないよ。『その代り兄は泥棒じゃありませんから、そらこのとおり三千ルーブリ耳を揃えてお返しします。どうぞご自分でアガーフィヤさんにお送り下さい。それから当人の兄はよろしくと申しておりました。』するとあのひとは、『どこにお金があるんです?』と訊くだろうな。」
「ミーチャ、あなたは不仕合せな人ですね、本当に! しかしそれでも、兄さんが自分で考えてるほどではありませんよ、――あまり絶望して自分を苦しめないがいいです!」
「一たいお前は、三千ルーブリの金が手に入らなかったら、おれがピストル自殺でもすると思うのかい? そこなんだよ、おれは決して自殺なんかしない、今はとてもできない。そのうちにあるいはやるかもしれんが……しかし今はグルーシェンカのところへ行くんだ……おれの一生はどうなろうとかまわない!」
「あのひとのところへ行ってどうするんです?」
「あの女の亭主になるんだ、つれあいにしていただくんだ、もし色男が来たら次の間へはずしてやる。そして、女の知り人の上靴も磨いてやろうし、サモワールの火も吹こうし、使い走りもいとやしない……」
「カチェリーナさんは何もかも察してくれますよ。」ふいにアリョーシャは勝ち誇ったように言いだした。「この悲しい事件の深刻な点をすっかり察して、折れて出るに相違ありません。あのひとには優れた叡知があります。だって、兄さんより以上に不幸な人があり得ないってことは、あのひとにだってわかりますもの。」
「あのひとは決して折れてなんか出ないよ」とミーチャは作り笑いをした。「この事件のなかには、どんな女でも折れることのできないような、あるものがあるのだ。お前はどうしたら一番いいか知ってるかい?」
「何です?」
「あのひとに三千ルーブリ返しちゃうのだ。」
「でも、どこでその金を拵えるんです? ああ、そうだ、僕んとこに二千ルーブリあるでしょう、それからイヴァン兄さんもやはり千ルーブリくらい出してくれるから、それで三千ルーブリになるでしょう、それを持って行ってお返しなさい。」
「しかし、それがいつ手に入るだろう、お前の三千ルーブリがさ。おまけに、お前はまだ丁年になってないじゃないか。いや、どうしてもぜひ今日、あのひとのところへ行って、よろしくと言ってもらわなけりゃならん。金を持ってか、それとも持たずにか、とにかく、もうこのうえ延ばすことはできない、とまあ、こういうところまでさし追ってしまったのだ。明日ではもう遅い、実際遅いよ、おれはお前に親父のところへ行ってもらいたいんだ。」
「お父さんのところへ?」
「うむ、あのひとのところより先に親父のところへ行って、その三千ルーブリもらってくれないか。」
「でも兄さん、お父さんはくれやませんよ。」
「むろん、くれるはずはない、くれないのは承知だよ、しかし、アリョーシャ、絶望ってどんなものかわかるかい?」
「わかります。」
「いいかい、親父は法律から言ったら、ちっともおれに負債はない。おれがすっかり引き出してしまったんだからな。これはおれも自分で知ってる。しかし、精神的に見て、親父はおれに義務がある、なあ、そうじゃないか。親父は母の二万八千ルーブリをもとでにして、十万の財産を拵えたんだものなあ。もし親父がその二万八千ルーブリのうち、僅か三千ルーブリをおれによこしたら、おれの魂を地獄から引き出して、親父自身もたくさんな罪障の償いをするというものだ。おれはお前に誓っておくが、その三千ルーブリで綺麗さっぱりと片をつけて、今後おれの噂を親父の耳に入れるようなことは決してしない。つまりこれを最後に、もう一度父となるべき機会を、あの親父に提供するのだ。どうか親父にそう言ってくれ、この機会は神様ご自身が授けて下さるのだって。」
「ミーチャ、お父さんはどんなことがあっても出しゃしませんよ。」
「知ってる、決して出しゃせん、それはようく知ってるよ。しかも、今はなおさらなんだ。さっき話したほかに、おれはまだこんなことを知ってるのだ。この頃、やっと二三日前、いや、ことによったら、つい昨日のことかも知れない、親父はグルーシェンカが本当に冗談を抜きにして、おれと結婚するかも知れないってことを、初めて正確に(『正確に[#「正確に」に傍点]』というのに気をつけてくれ)嗅ぎつけたのさ。親父もあの牝猫の性質を承知してるからな。こういうわけだから、自分でもあの女にうつつを抜かしている親父が、この危機を助けるために、わざわざおれに金をくれるわけはないのだ。しかし、こればかりじゃない、まだ大変なことを聞かしてやることができるよ。ほかでもない、五日ばかり前に、親父は三千ルーブリの金を抜き出して百ルーブリ札にくずし、大きな封筒に包んで封印を五つも捺した上に、赤い紐で十字にからげたものだ。おい、実に詳しく知ってるだろう! 包みの上にはこういう文句が書いてある。『わが天使グルーシェンカヘ――もしわれに来らば。』これは夜中しんとした時、内証で自分で書いたのだ。こんな金が隠してあるってことは、下男のスメルジャコフのほか誰ひとり知ってるものはありゃしない。親父はこの男の正直なことを、自分自身と同じくらい、信じきっているからな。ところで、親父は今日でもう三日か四日ばかり、グルーシェンカが包みをもらいに来るのを頼みにして、待ち焦れているんだ。包みのことを知らせてやったら、あの女のほうからも、『もしかしたら行くかも知れない』と返事したそうだ。もしあの女が親父のところへやって来たら、おれはあの女と一緒になることはできやしない。どういうわけでおれがこんなところへ内証で坐ってるか、そして何を見張ってるか、これでお前にも合点がいったろう?」
「あのひとを見張ってるんでしょう?」
「そうだ。ところで、この家のお引き摺りのちっぽけな部屋を、フォマーという男が借りてるんだ。このフォマーは土地の人間で、もとおれの隊へ兵隊で入ってたのさ。こいつがここで夜番に使われてるけれど、昼間は山鳥など撃って口すぎをしている。おれはこの男のところへ入り込んでるんだが、この男もうちの母娘《おやこ》も、おれの秘密は知らないでいる。つまり、何を見張ってるか知りゃしないのさ。」
「スメルジャコフが一人知ってるだけなんですね?」
「あいつ一人きりだ。女が親父のところへ来たら、その時あいつが知らせることになってるんだ。」
「包みのことを兄さんに教えたのもあれですか?」
「あれなのだ。しかし、これは大秘密だよ。イヴァンでさえ金のことも何にも知らないんだから。ところで、親父はイヴァンを二三日の間、チェルマーシニャヘやりたがってるのさ。それは森の買い手がついたからなんだ、八千ルーブリで木を伐り出させるんだよ。で、親父は『助けると思って、二三日の予定で出かけてくれんか』と言って、イヴァンを口説いてるところだ。つまり、イヴァンの留守にグルーシェンカを来させたいからよ。」
「では、今日お父さんはあの人の来るのを待ってるわけですね?」
「いや、今日は来ないよ。ちゃんと徴候がみふんだ。きっと来やしない!」突然ミーチャは叫んだ。「スメルジャコフもそう思ってるよ。親父は今イヴァンと一緒にテーブルに向いて酒を飲みくらってるから、これから出かけてあの三千ルーブリを頼んでくれんか……」
「ミーチャ、兄さん一たいどうしたのです!」アリョーシャは床几から飛びあかって、激昂したミーチャの顔を見つめながら、こう叫んだ。ちょっとの間、彼は兄の気が狂ったのではないかと思った。
「お前こそどうしたんだい? おれは気なんか狂ってやしないぞ。」妙に勝ち誇ったような色さえ浮べながら、弟の顔をじっと眺めつつ、ミーチャはこう言った。「なるほど、おれはお前を親父のところへ使いにやろうとしているが、自分の言ってることはちゃんとわかっている。おれは奇蹟を信じるのだ。」
「奇蹟を?」
「ああ、神の摂理の奇蹟を信じる。神様にはおれの心がおわかりだ。神様は絶望をすっかり見ていて下さる。この絵巻物をみんな見とおしていらっしゃるのだ。一たい神様が何か恐ろしい事件の爆発を、みすみすうっちゃっておおきになるだろうか?アリョーシャ、おれは奇蹟を信じる、さあ、行って来い!」
「では、行って来ます。それで、兄さんはここで待ってくれますか?」
「待つとも、そう早く運ばないのは承知してるよ。実際、入るといきなり切り出すなんてわけにいかないからなあ! それに、いま酔っ払ってもいるしさ。待つよ、三時間でも、四時間でも、五時間でも、六時間でも、七時間でも。ただし今日じゅうに。たとえ真夜中になろうとも、金を持ってか[#「金を持ってか」に傍点]、さもなくば金なしで[#「さもなくば金なしで」に傍点]、カチェリーナさんのところへ行って、『兄がよろしく申しました』と言ってくれ、いいか。おれはぜひこの『よろしく申しました』つて句を言ってほしいのだ。」
「ミーチャ! もし突然グルーシェンカが今日やって来たら……(コ日でなければ、明日か明後日か?)
「グルーシェンカが? 見つけしだい、踏み込んで邪魔をしてやる……」
「でも、ひょっと……」
「ひょっとなんてことがあったら、殺しちゃうさ。おめおめ見ていられるものか。」
「誰を殺すんです?」
「親父さ。あの女は殺さない。」
「兄さん、まあ何を言うのです!」
「いや、おれにもわからない、自分でもわからない……もしかしたら殺さないかもしれんし、またもしかしたら、殺すかもしれん。ただな、いざという瞬間に親父の顔が、急に憎らしくてたまらなくなりはしないか、と思って心配してるんだ。おれはあの喉団子や、あの鼻や、あの目や、あの厚かましい皮肉が憎らしくてたまらない。あの人物に対して、嫌悪の念を感じるのだ。おれはこいつを恐れている、こればかりは抑えることができないからなあ……」
「じゃ、僕、行って来ますよ。僕は神様がそんな恐ろしいことのないように、うまく納めて下さると信じています。」
「おれはここに坐って、奇蹟を待つとしよう。もし奇蹟が出現しなかったら、その時は……」
 アリョーシャはもの思いに沈みながら、父のもとへ赴いた。
 
 第六 スメルジャコフ

 彼が入った時、父は本当に食卓に向っていた。食卓はいつものしきたりで、広間に据えられてあった。そのくせ、家の中には本当の食堂があったのである。これは家じゅうで一番大きな部屋で、見せかけだけ古代ものの家具が飾ってあった。椅子類は思いきって古びたもので、白い骨に古くなった赤い半絹が張ってある。窓と窓の間の壁には鏡が嵌め込んであったが、その縁は同様に白い木に金をちりばめ、古めかしい彫刻を施したけばけばしいものである。もうところどころ壁紙の裂けた白い壁の上には、二つの大きな額がところえ顏にかかっている、――一つは、三十年ばかり前この地方の総督をしていたさる公爵で、いま一つは、同じくだいぶ前にこの世を去った僧正であった。部屋の手前の隅には幾つかの聖像が安置されて、夜になるとその前に燈明がつくことになっていたが、それは信心のためというよりも、夜、部屋の中を明るくするためであった。
 フョードルは毎晩非常に遅く、夜明けの三時か四時に就寝して、それまで部屋の中を歩き廻ったり、肘椅子に腰をかけて考えごとをする。これがもう癖になってしまったのである。彼はよく召使を離れへさげてしまって、まったくの一人きりで母家へ寝ることがあったけれども、大抵は下男のスメルジャコフが夜々彼のそばに居残って、控え室の台の上で寝るのであった。
 アリョーシャが入った時、食事はすでに終って、ジャムとコーヒーが出ているところであった。フョードルは食事のあと