京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P234-245   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦28日目]

「そりゃ、アレクセイさん、そのとおりですよ、その一年半の間に、あなたとリースは幾千度となく喧嘩したり、別れたりなさることでしょうよ。けれど、わたしは喩えようもないほど不仕合せでございます。それはみんなばかばかしいことには相違ありませんが、それにしても仰天してしまいました。今わたしはちょうど大詰の幕のファームソフ(グリボエードフ『知恵の悲しみ』の人物、ソフィヤの父親)のようでございます。そして、あなたがチャーツキイ、あの子がソフィヤの役割でございます。それに、まあどうでしょう、わたしはあなたをお待ち受けしようと思って、わざとこの階段のとこへ駆け込んだのですが、あの芝居でも大きな出来事はみんな階段の上で起るじゃありませんか。わたしはすっかり聞いてしまいましたが、本当にじっとその場に立っていられないくらいでした。なるほど、昨夜の恐ろしい熱病もさっきのヒステリイも、もとはみんなここにあるんですもの! 娘の恋は母親の死です。本当にもう棺にでも入ってしまいそうですよ。ああ、もう一つ用事がありました、これが一番大切なことなんですの。あの子がさし上げたとかいう手紙は、一たいどんなものですか、いま見せて下さい、いますぐ見せて下さい!」
「いいえ、そんな必要はありません、それよりカチェリーナさんの容体はどうです、僕それが聞きたくてたまらないのです。」
「やっぱりうなされながら寝てらっしゃいます。まだお気がつかないんですよ。伯母さんたちはここにいても、ただ吐息をついてばかりいるくせに、わたしに向って威張りちらしてるんですの。ヘルツェンシュトゥベも来るには来ましたけれど、もうすっかり仰天するばかりですから、わたしあの医者にどういう手当てをして上げたらいいのか、どうして助けて上げたらいいのかわからないんです。別な医者でも迎えにやらうかと思ったくらいですもの。とうとううちの馬車に乗せて帰しました。そんなことが重なり重なった上に、突然あの手紙の一件でしょう。もっとも、そんなことは、一年半たってからのことでしょうけれど、すべて偉大で神聖なもののみ名をもって誓いますから、今おかくれになろうとしている長老さまのお名をもって誓いますから、どうかその手紙をわたしに見せて下さい、母親に見せて下さい! もし何なら、指でしっかりつまんでて下さい、わたし自分の手に取らないで読みますから。」
「いいえ、見せません。あのひとが許しても僕は見せません。僕あすまた来ますから、もしお望みなら、そのときいろんなことをご相談しましょう。しかし、今日はこれで失礼します!」
 アリョーシャは階段から往来へ駆け出した。

   第二 ギタアを持てるスメルジャコフ

 実際かれは暇がなかったのである。それに、まだリーズに暇を告げているころから、彼の頭には一つの想念がひらめいた。それはほかでもない、どうか一つ工夫をこらして、明らかに自分を避けている兄ドミートリイを、ぜひ今すぐ捜し出したいという願いであった。もう時刻も早くない。午後の二時を過ぎている。アリョーシャは自分の全存在を傾けて、いま僧院でこの世を去ろうとしている『偉人』のもとへ駆けつけようとあせっていたが、しかし、兄ドミートリイに逢いたいという要求が、一切のものを征服したのである。なぜなら彼の心の中では、何かしら恐ろしいカタストロフが避けがたい力をもって、まさに突発せんとしているに相違ないという信念が、一刻ごとに大きくなって行くからであった。しかし、そのカタストロフとはどんなことか、またこれから兄を捜し出して何を言おうとするのか、おそらく自分でもはっきりわからなかったであろう。『よしや恩師が自分のいない開に死なれても、自分の力で救い得るものを救わないで、見て見ぬふりをして家へ帰ることを急いだ悔悟のために、一生自分を苦しめないですむだろう。こうするのは、つまりあのお方のお言葉に従うことになるのだ……」
 彼の計画は兄ドミートリイのふいを襲う、つまり昨日のように例の垣根を越して庭へ入り込み、昨日の四阿《あずまや》に落ちつこうというのであった。『もしあそこにもいなかったら、家主のお婆さんにもフォマーにも言わないで、じっと隠れたまま、晩まででも四阿で待っているのだ。兄さんが以前どおりグルーシェッカのやって来るのを見張ってるとしたら、おそかれ早かれあの四阿へ姿を現わすというのは、きわめてあり得べきことだ……』とはいえ、アリョーシャはあまり詳しく自分の計画を考慮しないで、さっそく実行に着手しようと決心した。たとえ今日じゅうに僧院へ帰れないようなことになってもかまわない……くらいの意気込みであった。
 万事故障なしに都合よく運んだ。彼は昨日とほとんど同じ場所で垣根を越して、そっと四阿までたどりついた。彼が誰の目にもかかりたくないと思ったわけは、家主の老婆にしろフォマーにしろ(もしこの男が居合せたなら)、あるいは兄の味方をしてその言いつけをきくかもしれない。そうすれば自分を庭へ入れてくれないか、でなければ、自分が兄を訊ねて捜していることを、いち早く兄に知らせるおそれがあるからであった。四阿には誰もいなかった。アリョーシャは昨日と同じ席に腰をおろして待ち始めた。彼はあらためて四阿を見廻したが、なぜか昨日よりずっと古ぼけて、しようのないぼろ家のように思われた。もっとも、天気は昨日と同じくはればれしていた。緑いろのテーブルの上には、きのう杯の縁をあふれたコニヤクの跡らしいのが、丸く型をつけていた。いつも待ちくたびれた時に経験する、何の役にもたたぬつまらない考えが、もそろと彼の頭へ忍び込むのであった。例えば、ここへ入って来たとき、どういうわけでほかの場所へ坐らないで、昨日と一分一厘ちがわぬ席へ腰をおろしたか、などというようなたぐいであった。とうとう彼は佗しい気持になってきた。それは不安な未知ともいうべきものからくる佗しさである。
 しかし、十五分とたたないうちに、突然どこか近いところで、ギタアを弾く音が聞えてきた。前から坐っていたか、それともたったいま坐ったばかりか、とにかくどこか二十歩以上へだてていない、灌木の陰に誰か人がいるのだ。アリョーシャはふいと思い出した――きのう兄と別れて四阿を出るとき、左手の前方にあたって低い緑色の古ベンチが、灌木の間からちらりと目に入った。きっとそのベンチに坐ったものに相違ない。しかし、誰だろう? と、急に一人の男らしい声が、自分でギタアの伴奏をしながら、甘ったるい作り声で対句《クプレット》を歌い始めた。

  打ち克ちがたき力もて
  われはいとしき君が方《へ》に
  曳かれ来にけり、ああ神よ
  あわれみたまえ
  君とわれとを!
  君とわれとを!
  君とわれとを!

 声はやんだが、テノールも下卑たものなら、歌の節廻しも下卑ていた。と、急にいま一人女らしい声が、いくぶん気どってはいるけれど、何となく臆病な調子で甘えるようにこう言った。 「パーヴェルさん、どうしてあなたは長い間うちへ来てくれなかったの? 大方、わたしたちを馬鹿にしてらっしゃるんでしょう。」
「どういたしまして」と男の声は丁寧ではあるが、どこまでも自分の尊厳を保とうとするような調子で答えた。
 察するところ、男のほうが上手《うわて》を占めて、女のほうから機嫌をとっているらしい。
『男のほうはどうもスメルジャコフらしい』とアリョーシャは考えた。『少くとも声がよく似てる、ところで、女のほうはきっとこの家の娘に相違ない。例のモスクワから帰って来て、長い尻っぽのついた着物なんか引き摺ってるくせに、マルファのとこヘスープをもらいに来る娘らしい……』
「わたし詩ならどんなのでも大好きよ、もしうまく作ってあれば……」と女の声が言葉をつづけた。「どうしてあなたつづきを歌わないの?」 男の声がまた歌い始めた。

  王の冠《かむり》にたぐうべき
  わが恋人をすこやかに
  過させたまえ、ああ神よ
  あわれみたまえ
  君とわれとを!
  君とわれとを!
  君とわれとを!

「この前のほうがもっとよくできたわ」と女の声が言った。
「この前あなたは『王の冠』のところを『いとしき人を』と歌ったでしょう。あのほうが優しく聞えやしなくって。あなたはきっと今日忘れたんでしょう。」
「詩なんてばかばかしいもんでさあ」とスメルジャコフは吐き出すように言った。
「あら、そんなことないわ。わたし詩が大好きなのよ。」
「それはただ詩というまでの話で、実はまったく馬鹿げきったこってすよ。まあ、考えてもごらんなさい、一たい脚韻を押して話をする人が世の中にありますか? それにたとえ政府の言いつけであろうとも、われわれが脚韻を押して話をするようになったら、思う存分のことが言えるものですか。詩なんて大事なことじゃありませんよ。マリヤさん。」
「どうしてあなたは何事につけても、そんなに賢くていらっしゃるんでしょう? どうしてあなたは何でもそんなによく知ってらっしゃるのでしょう?」女の声はいよいよ甘ったれた調子になってきた。
「もし僕が小さい時分からあんな貧乏籤をひかなかったら、まだまだいろんなことができたんです、まだまだいろんなことを知ってたはずなんですよ! 僕のことを、|悪臭ある女《スメルジャーシチャヤ》の腹から生れた父《てて》なし子だから根性のねじくれた悪党だ、なんていうやつに決闘を申し込んで、ピストルでずどん、とやっつけてやりたいですよ。僕はモスクワでも面と向ってあてこすられました。それはグリゴーリイさんのおかげで、この町から出て行った噂なんですよ。グリゴーリイさんは僕が自分の誕生を呪うと言って、『お前はあの婦人の胎《たい》を開いたのだ』などと叱るけれど、しかし胎なら胎でよろしい。ただ僕はこの世の中へ出て来ないために、まだ腹の中にいる時に自殺したかったくらいですよ。よく市場などで、あの女は頭を鳥の巣のようにして歩いていただの、背は二アルシンとすこうし[#「すこうし」に傍点]しきゃなかった、なんて噂をしていまさあね。あなたのおっ母さんなぞは不躾け千万にも、僕に面と向って話されるじゃありませんか。一たい何のためにすこうし[#「すこうし」に傍点]なんて言うのです? 普通に話すとおりすこし[#「すこし」に傍点]と言ったらよさそうなもんじゃありませんか。大方、哀れっぽく言いたいからでしょうが、それは、いわば百姓の涙です、百姓の感情です。ロシヤの百姓が教育のある人間に対して何か感情を持つことができますか。あんな無教育な連中に感情があってたまるもんですか。僕はまだほんの子供の時分から『すこうし』を聞くと、壁に頭でもぶっつけたいような気がしましたよ。僕は口シヤの全体を憎みますよ、マリヤさん。」
「でも、あなたが陸軍の見習士官か、若い軽騎兵ででもあってごらんなさい、そんな言い方をなさりゃしないから。きっとサーベルを抜いてロシヤをお守りなさるわ。」
「僕はね、マリヤさん、陸軍の軽騎兵になりたいどころじゃない、かえって兵隊なんてものが、みんななくなればいいと思ってますよ。」
「じゃ、敵がやって来たときに、誰が国を防ぐの?」
「そんな必要はてんでありゃしませんよ。十二年の年にブダンス皇帝ナポレオン一世が(今の陛下のお父さんですよ)、ロシヤヘ大軍を率いて侵入して来たが、あのときフランス人がすっかりこの国を征服してしまうとよかったんですよ。利口な国民が、この上ないのろまな国民を征服して合併してしまったら、国の様子がすっかり別になったでしょうがねえ。」
「じゃ、一たい外国の人はロシヤ人よりえらいんでしょうか? わたしはロシヤの若い人の中には、一番ハイカラなイギリス人を三人くらい束にして来ても、取っ替えたくないと思うような人があるわ」とマリヤは優しい声で言ったが。この時とろけるような目で男を眺めたに相違ない。
「そりゃめいめいの好きずきがありますよ。」
「それに、あなたご自身がまるで外国人みたいだわ、生れのいい外国人にそっくりよ。わたし恥しいのをこらえて白状しますわ。」
「お望みなら申しますがね。淫乱なところはロシヤ人も外国人も似たりよったりでさあ。みんなしようのない極道ですよ。ただ外国のやつはぴかぴか光る靴をはいてるのに、ロシヤの極道者は乞食のような境涯で、臭い匂いを立てながら、自分でそれを一向わるいと思わないところが違うだけです。ロシヤの人間はぶん殴ってやらなきや駄目だ、昨日フョードル・パーヴルイチのおっしゃったとおりですよ。もっとも、あの人も三人の息子たちもみんな気ちがいですがね。」
「だって、あなたイヴァン・フョードルイチは尊敬するっておっしゃったじゃないの。」
「けれど、あの人は僕を汚らしい下男同然に扱うのです。あの人は僕を謀叛でも起しかねない人間だと思っているが、それはあの人の考え違いです。僕は懐ろに相当の金さえあれば、もうとっくにこんなとこにいやしない。ドミートリイなんか、身持から言っても、知恵から言っても、貧乏なことから言っても、下男より劣った人間で、何一つしでかし得ないくせに、みなの者から敬われている。僕なんかよしんばただのコックにもせよ、運さえよければモスクワのペトローフカで立派なカフェー兼レストランを開業することができますよ。なぜって、僕は特別な料理法を心得ているけれど、モスクワじゃ外国人をのけたら、誰ひとりできないんだからね。ところが、ドミートリイは貧乏士族だけれど、もしあの男が立派な伯爵家の息子に決闘を申し込んだとなれば、その若殿さまはのこのこ出て行くに相違ない、一たいあの男のどこが僕よりえらいんでしょう? ほかじゃない、僕よりくらべものにならんほど馬鹿だからです。本当に何の役にも立だないことに、どれだけ金を使ったかわかりゃしない。」
「決闘てものは本当に面白そうだわね」と急にマリヤがこう言った。
「なぜですかね?」
「恐ろしくってそして勇ましいからよ。それに、若い将校がどこかの女のために、ピストルを手に持って射ち合うなんて、なおさらたまらないわ。まるで絵のようでしょう。ああ、もし娘でも入れてもらえるものだったら、わたしどんなに見たいでしょう。」
「そりゃ自分のほうが狙う時にはいいだろうが、もし自分の顔のまん中を狙われたら、それこそつまらない話でさあ。逃げ出したほうがいいですよ、マリヤさん。」
「じゃ、あなたも逃げるの?」
 しかし、スメルジャコフは、返事をする価値がないというように、しばらく黙っていたが、やがてまたギタアが響きだして、例の作り声が最後の一連を歌い始めた。

  いかに止めたもうとも
  われは遙けく去りゆかん
  いざや命《いのち》を楽しまん
  花の都に住みなさん!
  思い悩まん心なし!
  さらさらに思い悩まん心なし、
  さらさらに思い悩まん心さえなし!

 このとき思いがけない出来事が生じた。アリョーシャが突然くさめをしたのである。ベンチのほうの人声はぴたりとやんでしまった。アリョーシャは立ちあがってそのほうへ歩み寄った。男ははたしてスメルジャコフであった。洒落たみなりをして、頭にはポマードをつけ、髪にはカールをかけないばかりの有様で、ぴかぴか光る靴をはいていた。ギタアはベンチの上に転がっている。女はやはりこの家の娘マリヤで、二アルシンばかりの尻っぽのついた、うすい水色の着物を着ていた。まだ若いかなり綺麗な娘であるが、惜しいことには顔があまり丸すぎる上に、恐ろしいそばかすであった。
「ドミートリイ兄さんはもう帰るの?」とアリョーシャはできるだけ落ちついてこう訊いた。
 スメルジャコフは静かにベンチから立ちあがっだ。つづいてマリヤも席を立った。
「私がドミートリイさまのことを知っているはずがないじゃありませんか。もし私があの方の番人でもしてるのなら、お話は別でございますがね!」静かな投げ出したような調子で、一こと一こと別々に発音しながら、スメルジャコフは答えた。
「いや、僕はただ知ってるかどうか、ちょっと訊いてみただけなんだよ」とアリョーシャは言いわけした。
「私はあの人のありかなんぞ一向に知りませんし、また知ろうとも思いません。」
「しかし、兄さんが僕に話したところでは、お前うちの中の出来事をすっかり兄さんに知らせている上に、アグラフェーナさんが来たら知らせるって、約束したそうじゃないか。」
 スメルジャコフは静かに目を上げて、ずうず弓しく相手を眺めた。
「しかし、あなたは今どうしてここへ入っておいでになりました。だって、門の戸は一時間ばかり前に、ちゃんと掛金をかけておいたんですものね。」穴のあくほどアリョーシャを見つめながら、彼はこう訊いた。
「僕は横町から編垣を越して、いきなり四阿《あずまや》のほうへ行ったのだ。たぶんあなたは僕をお咎めにならないでしょうね」と彼はマリヤのほうへふり向いた。「僕、少しも早く兄さんを捕まえたかったものですから。」
「あら、わたしなんぞが、あなたに腹を立てていいものですか。」アリョーシャの謝罪にすっかり嬉しくなって、マリヤは言葉じりを引きながら言っち「それに、ドミートリイさまもよく
そんなふうにして四阿へいらっしゃいますの。わたしたちがちっとも知らないでいますと、もうちゃんと四阿に坐ってらっしゃるんですもの。」
「僕はいま一生懸命に兄を捜してるんです。ぜひ自分で会いたいんですが、兄が今どこにいるのか教えていただけないでしょうか。まったく兄自身にとって、重大な用件があるんですよ。」
「あの方はわたしたちに何もおっしゃいませんの」とマリヤが舌たるい調子で言った。
「私はただほんの知合いとしてここへ遊びに来たんですが」とスメルジャコフが新たに口をきった。「あの方はいつでも旦那さまのことをしつこく訊ねて、なさけ容赦もなしに私をお虐めなさるのです。やれ、お父さんのところはどんな様子だとか、やれ誰が来たとか、やれ誰が帰ったとか、何かほかに知らしてもらうことはないかとか何とかおっしゃいましてね、二度ばかり、殺すと言って脅かしなすったこともあります。」
「どうして殺すなんて?」
「そりゃあ、あなた、あの方のご気性として、それしきのことが何でございましょう。あなたもご自分で昨日ごらんなすったじゃありませんか。もし私がアグラフェーナさんをお通しして、あのご婦人がここで泊ってゆかれるようなことがあったら、『第一に貴様を生かしちゃおかんぞ』とおっしゃるのです。私はあの方が恐ろしくてたまりません。もうこれより恐ろしい思いをしないためには、警察へでも訴えるよりほか仕方がないじゃありませんか。本当に何をしでかしなさるかもしれやしませんからね。」
「この間もパーヴェルさんに、『臼へ入れて搗き殺すぞ』っておっしゃいましたわ」とマリヤが言い添えた。
「もし臼へ入れてなどと言ったとしても、それはほんの口さきばかりかもしれませんよ」とアリョーシャが言った。「もし僕がいま兄さんに逢うことができたら、そのこともちょっと言っておくんですがねえ……」
「私があなたにお知らせのできるのは、まあ、これくらいなものでございますよ。」何やら考えついたように、スメルジャコフは突然こう言いだした。「私がここへ出入りするのは隣同士の心安だてからです。それに、出入りして悪いってことはありませんからね。ところで、私は今日夜の明けないうちにイヴァンさまのお使いで湖水街《オーゼルナヤ》にあるあの方のお住いへまいりましたが、手紙はなくて、ただ口上だけで、一緒に食事がしたいから、広場の料理屋までぜひ来てくれということでした。私がまいりましたのは八時頃でしたが、ドミートリイさまは家にいらっしゃいませんでした。『ええ、いらしったのですが、つい今しがたお出かけになりました』と宿の人たちがこのとおりの文句で教えてくれましたが、どうも何か打ち合せでもしてあるような口ぶりでした。ひょっとしたら、今頃その料理屋で、イヴァンさまとさし向いで話しておいでかもしれません。なぜって、イヴァンさまが昼飯にお帰りにならなかったもんですから、旦那さまは一時間ほど前ひとりで食事をすまして、いや横になって休んでいらっしゃいますものね。しかし、折り入ってのお願いは、私のことも私の話したことも、必ずあの方に言わないで下さいまし。でないと、もう私は殺されてしまいます。」
「イヴァン兄さんが、今日ドミートリイを料理屋へ呼んだって?」アリョーシャは早口に問い返した。
「そのとおりでございます。」
「広場の『都』かね?」
「そうなので。」
「それはまったくありそうなことだ!」とアリョーシャは恐ろしくわくわくしながら叫んだ。
「有難う、スメルジャコフ、それは重大な報知だ。今すぐ行ってみよう。」
「私のことをおっしゃらないで下さいまし」とスメルジャコフが後から喚いた。
「おお、決してそんなことはない。僕は偶然ゆき合したような顔をするから、安心しておいで。」
「あら、あなたどこへいらっしゃいますの? わたし今くぐりを開けてさし上げますわ」とマリヤが叫んだ。
「いや、このほうが近いですよ、僕また垣を越しましょう。」
 この報知はアリョーシャの心を烈しく震撼した。彼は一目散に料理屋をさして駆け出した。しかし、こんな服装《なり》をして料理屋へ入るのも異《い》なものであったが、廊下で訊き合して、呼び出してもらう分にはさしつかえなかった。しかし、彼が料理屋のそばへ近寄ったばかりの時、突然一つの窓が開いて、兄のイヴァンが顔を覗けながら、大きな声で呼ぶのであった。
「アリョーシャ、お前いますぐここへ入るわけにゆかないかい? そうしてくれると非常に有難いんだが。」
「ええ、いいですとも、しかし、こんな服装《なり》をしてるから、どうして入っていいやらわからないんです。」
「ところが、僕はちょうどいいあんばいに別室に陣取ってるから、かまわず玄関へ入っておいで。僕がいま駆け出して迎えに行くよ……」
 一分間の後、アリョーシャは兄と並んで坐っていた。イヴァンは一人きりで食事をしていたのである。

   第三 兄弟の接近

 しかし、イヴァンが陣取っているのは別室でなく、ただ窓のそばの一隅を衝立てで仕切ったばかりであるが、それでもやはり中に坐っていると、はたの人からは見えなかった。この部屋は入口から取っつきの部屋で、横のほうの壁ぎわには酒の壜などを並べた棚がしつらえてあった。給仕たちはあちこち動き廻っていたが、お客といっては、退職の軍人らしい老人がたった一人、隅っこのほうでお茶を飲んでいるきりであった。その代り、ほかの部屋部屋では普通の料理屋につきものの騒々しい音――給仕人を呼ぶ呶鳴り声、ビールの口を抜く音、玉突きの響き、オルガンの呻きなどが聞えていた。イヴァンがこの料理屋へほとんど一度も来たことがないということも、彼が全体として料理屋を好まないということも、アリョーシャはよく知っているので、彼がここにいるわけは、ただ約束によってドミートリイと逢うためだろうと、心の中で考えた。しかしドミートリイはいなかった。
「魚汁《ウハー》か何か誂えようかね。まさか茶ばかりで生きてるわけでもあるまいから」とイヴァンは弟を捕まえたので、大いに満足したらしい様子でこう言った。彼自身はもうとっくに食事をすまして、茶を飲んでいたのである。
「魚汁《ウハー》を下さいな、その後でお茶もちょうだいしましょう、僕、すっかり腹が空いちゃったのです」とアリョーシャは愉快そうに答えた。
「ところで、桜のジャムは? ここにあるんだよ。覚えてるかい、お前が小さな時分ポレーノフさんの家で、桜のジャムを悦んで食べてたじゃないか?」
「兄さんよくそんなことを覚えていますね? 桜のジャムをいただきましょう。僕は今でも好きなんです。」
 イヴァンは給仕を呼んで、魚汁《ウハー》と茶と桜のジャムを注文した。
「僕すっかり覚えてるよ。僕はお前を、十一の年まで覚えてる。そのとき僕は十五だったね。十一と十五という年は、兄弟がどうしても友達になれない時分なんだね。僕はお前が好きだったかどうか、それさえ覚えがないくらいだよ。モスクワへ出てから初め何年かの間、お前のことはまるっきり思い出さなかったっけ。それから、お前が自分でモスクワへやって来た時だって、たった一度どこかで会っただけだね。またここへ来てからもう四月《よつき》になるけれど、今まで一度もしんみり話したことがないんだ。僕は明日発とうと思うんだが、今ここへ坐ってるうちにふいと、どうかしてあれ[#「あれ」に傍点]に会えないかしら、しんみり別れがしたいもんだなあ、と考えてるところへ、お前がそばを通りかかるじゃないか。」
「兄さんはそんなに僕に会いたかったのですか?」
「会いたかったよ。僕は一度しっかり、お前と近づきになって、お前に僕という人間を知らせたい、それを土産にして別れたいのだ。僕の考えでは、別れの前に近づきになるのが一番いいようだ。僕はこの三カ月の間お前がどんなふうに僕を眺めていたか、ちゃんと見てとったよ、お前の目の中には何かたえまなき期待、とでもいうようなものがあった。これがどうにも我慢できないので、そのために僕はお前に近寄らなかったのさ。しかし、終り頃になって、僕もお前を尊敬する気になった。つまり、『あの小僧しっかりした足つきで立ってるな』というような気持なんだ。いいかい、いま僕は笑ってるけれど、言うことは真面目なんだよ。だって、お前はしっかりした足つきで立ってるじゃないか、ね? 僕はそんなしっかりした人が好きなんだ。よしその立場が何であろうと、またその当人がお前のような小僧っ子であってもさ……で、しまい頃には何やら期待するようなお前の目つきも、そう厭でなくなった。それどころか、その期待するような目つきが好きになったのさ。お前もどういうわけか、僕を好いてくれるようだね、アリョーシャ?」
「好きですよ。ドミートリイ兄さんはあなたのことを、イヴァンは墓だって言いますが、僕はイヴァンは謎だと言うのです。兄さんは今でも依然として謎ですが、しかし、僕はいま何か兄さんのあるものを掴んだような気がします。それもつい今朝からの話ですよ。」
「それは一たい何だね?」とイヴァンは笑った。
「怒りゃしないでしょうね?」とアリョーシャも笑いだした。
「うん。」
「つまり、兄さんもやはりほかの二十四くらいの青年と同じような青年だ、ということなんです。つまり、同じように若々しく生き生きした、可愛い坊ちゃんなのです。もしかしたら、まだ嘴の黄いろい青二才かもしれませんよ! どうです、大して曳にさわりゃしないでしょう?」
「どうして、どうして、かえって暗合に驚かされたくらいだよ!」イヴァンは熱をおびた調子で愉快そうに叫んだ。「お前は本当にしないだろうが、今朝あのひとのとこで別れたあとで、僕はそのことばかり心の中で考えてたんだ。つまり、僕が二十四歳の嘴の黄いろい青二才だってことさ。ところが、今お前は僕の腹の中を見抜いたかなんぞのように、いきなりそのことから話の口をきるじゃないか。僕がここへ坐ってる間、どんなことを考えてたかお前にわかるかい、――よしんば僕が人生に信を失い、愛する女に失望し、ものの秩序というのを本当にすることができなくなった挙句、一切のものは混沌として呪われたる悪魔の世界だと確信して、人間の幻滅の恐ろしさをことごとく味わいつくしたとしても、――それでも、僕は生きてゆきたい。一たんこの杯に口をあてた以上、それを征服しつくしたあとでなければ、決して口を放しゃしない! しかし、三十くらいになったら、まだ飲み干してしまわなくっても、必ず杯を棄てて行ってしまう……しかし、どこへ行くかわからない。だが、三十までは僕の青春が、一切のものを征服しつくすに相違ない、生に対する嫌悪の念も一切の幻滅もね。僕はよく心の中で、自分の持っている狂暴な、ほとんど無作法といっていいくらいな生活欲を征服し得る絶望が世の中にあるかしらん、とこう自問自答するのだ。そしてとうとう、そんな絶望はなさそうだと決めてしまったが、しかしこれもやはり三十までで、それからあとは、もう自分でも生活が厭になるだろうと思われるよ。肺病やみのような生気のない道学先生は、この生活欲を目してよく下劣なもののように言うね。詩人なんて連中はことにそうだ。この生活欲はいくぶんカラマーゾフ的特質なんだね。それは事実だ。この性質はお前の体の中にもひそんでいるのだ。外観上どうあろうとも、必ずひそんでいるに相違ない。しかし、どうしてそれが下劣なんだろう? 求心力というやつは、わが遊星上にまだまだたくさんあるからなあ、アリョーシャ。僕は生活したい、だから、論理に逆っても生活するだけの話だ。たとえものの秩序を信じないとしても、僕にとっては春芽を出したばかりの、粘っこい若葉が尊いのだ。瑠璃色の空が尊いのだ。ときどき何のためともわかなないで好きになる誰彼の人間が尊いのだ。そうして、今ではとうから意義を失っているけれど、古い習慣のため感情のみで尊重しているような、ある種の功名が尊いのだ。さあ、お前の魚汁《ウハー》が来た。しっかりやってくれ。なかなかいい魚汁《ウハー》だよ、うまく食べさせるよ。僕はね、アリョーシャ、ヨーロッパへ行きたいのだ、ここからすぐ出かけるつもりだ。しかし、僕の行くところが、ただの墓場にすぎないってことは、自分でもよく承知している。しかし、その墓場は何よりも、何よりも一ばん貴い墓場なんだ、いいかい! そこには貴い人たちが眠っている。その一人一人の上に立っている墓石は、過ぎし日の熱烈火のごとき生活を語っている。自己の功名、自己の真理、自己の戦い、自己の科学などに対する燃ゆるがごとき信仰を語っている。僕はきっといきなり地べたに倒れて、その墓石を接吻し、その上に涙を流すに相違ない。これは今からちゃんと承知している、が同時に、『これはずっと前からただの墓場に化している、それ以上のものでない』ということも心底から確信しているのだ。そして、僕が涙を流すのは、絶望のためじゃない、ただ自分の流した涙で幸福を感ずるためにすぎない。つまり、自分で自分の感動に酔おうと言うのだ。僕は粘っこい春の若葉や瑠璃色の空を愛するのだ、それだけのことなんだ! ここには、知識も論理もない、ただ内発的な愛があるばかりだ、自分の若々しい力に対する愛があるばかりだ……おい、アリョーシカ、今のわけのわからない話が少しは理解できたかい、え!」とイヴァンは急に笑いだした。
「できすぎるくらいですよ、兄さん。内発的な愛というのはいい言葉でしたね。僕は、兄さんが生活したいと言われるのを、非常に嬉しく思っています」とアリョーシャは叫んだ。「地上に住むすべての人は、まず第一に生を愛さなければならないと思いますよ。」
「生の意義以上に生そのものを愛するんだね?」
「むろん、そうなくちゃなりません。あなたのおっしゃるように論理以前にまず愛するんです。ぜひとも論理以前にですよ。そこでこそ初めて意義もわかってゆきます。こんなことがよく以前から頭に浮んでたのですよ。兄さん、あなたの事業の前半はもう成就し獲得されました。今度はその後半のために努力したらいいのです。そうすれば兄さんは救われます。」
「もうぉ前は救済にかかったんだね。――ところが、僕は案外滅亡に瀕していないかもしれないよ。ところで、それは一たい何だね、――お前のいわゆる後半は?」
「ほかではありません、あなたの死人たちを蘇生させる必要があるのです。実際、彼らは決して死にゃしなかったかもしれませんよ。さあ、お茶をいただきましょう。僕はこうして二人で話すのが、嬉しくてたまらないんですよ、イヴァン。」
「見たところ、お前は何か霊感でも感じてるようだね。僕はお前のような……聴法者から、そんなprofessions de foi(信条吐露)を聞くのが大好きさ。お前はしっかりした人間だね、アレクセイ、お前が僧院を出るってのは本当かい?」
「本当です。長老さまが僕を世の中へお送りになるのです。」
「じゃ、また世の中で会えるね。僕が三十前になって、そろそろ杯から口を放そうとする時分に、どこかで落ち合うことがあるだろう。ところで、親父は自分の杯から、七十になるまでも離れようとしないらしい、いや、あるいは八十までもと空想してるかもしれない。自分でもこれは非常に真面目なことだと言ってたっけ。もっとも、ただの道化にすぎないがね。親父は自分の肉欲の上に立って、大盤石でも踏まえたような気でいるんだ……しかし、三十以後になったら、それよりほかに何も足場がないだろうからね、まったく……それにしても、七十までは醜悪だ、三十までのほうがいい。なぜって、自分を欺きながらも『高潔の影』を保存することができるからね。今日ドミートリイに会わなかったか?」
「いいえ、会いません、しかし、スメルジャコフに遇いました。」
 と、アリョーシャは下男との邂逅を、早口にくわしく兄に話した。イヴァンは突然、非常に気がかりらしく耳を傾けはじめ、ときどき何やかや問い返すことさえあった。
「ただね、自分の話したことを、ドミートリイに言わないでくれと頼みました」とアリョーシャは言いたした。
 イヴァンは顔をしかめて考えこんだ。
「兄さんは、スメルジャコフのことで顔をしかめたんですか?」とアリョーシャは訊いた。
「ああ、そうだ。しかし、あんなやつのことはどうでもいい。僕ドミートリイには実際会いたかったが、今はもう必要がない……」とイヴァンは進支ぬ調子で言った。
「兄さんは本当にそう急に発つんですか?」
「ああ。」
「じゃ、ドミートリイやお父さんはどうなるんです? あの騒ぎは、どう片がつくんでしょう?」アリョーシャは不安げに言いだした。
「またお前のきまり文句だ! あのことについて僕がどうしたというのだ? 一たい僕がドミートリイの番人だとでも言うのかい?」とイヴァンはいらいらした声で断ち切るように言ったが、急に何となく苦味をおびた笑みを浮べた。「弟殺しについてカインが神様に答えた言葉を、今お前は考えてるんじゃないか? しかし、どうとも勝手にしろだ、僕はまったくあの人たちの番人をしてるわけにゆかないよ。仕事が片づいたから出かけようというのさ。ところで、僕がドミートリイを妬いてるだの、三カ月のあいだ兄貴の美しい許嫁を横取りしようと思っでたなどと、まさかお前は考えやしなかったろうなあ。ええ、真っ平ごめんだよ、僕には僕の仕事があったんだ。その仕事が片づいたから出かけるのさ。さっき僕が仕事を片づけたのは、お前も現に見て知ってるだろう。」
「それは、あのカチェリーナさんとの……」
「そうだ、あのことだ。一ぺんで綺麗に身をひいてしまったよ。それが一たいどうしたというんだろう? 僕はドミートリイなんかと何の関係もありゃしない。ドミートリイはぜんぜん無関係なんだ! 僕はただ自分でカチェリーナさんに用事があっただけなんだよ。お前も知ってるとおり、ドミートリイが自分勝手に、何か僕と申し合せでもしたような行動をとったのさ。僕から兄貴に頼んだことは少しもないのだけれど、兄貴のほうで勝手にあのひとを大威張りで僕に渡して、祝福したまでの話じゃないか、まるでお笑い草だあね。ああ、アリョーシャ、まったくだよ。お前にはわかるまいが、僕はいま本当にかるがるした気持なんだよ! 今こうしてここへ坐っているうちに、自由の第一時間を祝うため、すんでのことでシャンパンを注文しようかと思ったくらいだよ。やれやれ、ほとんど半年もずるずる引き摺られていたが、急にIペんで、本当に一ペんですっかり叩き落してやった。いやまったく、その気にさえなれば、こうもやすやすと片づけられようとは、自分でさえ昨日まで夢にも考えなかったからね!」
「それは、兄さんご自分の恋を話してらっしゃるんですか?」
「そう、お望みなら恋と言ってもいいよ。まったく僕はあのお嬢さんに、あの女学生に惚れ込んでたのさ。あのひとと二人でずいぶん苦しんだものだ、そしてあのひともずいぶん僕を苦しめたよ。もうすっかりあのひとにかまけて夢中になっていたが……急に何もかもけし飛んでしまった。さっき僕は感激してしゃべったが、外へ出るとからからと笑っちゃったよ、――こう言ってもお前は本当にすまいね。本当だよ。僕は字義どおりに言ってるんだよ。」
「今でも何だか愉快そうに話していますね。」実際、急に愉快そうになってきた兄の顔に見入りながら、アリョーシャは口を挟んだ。
「それに、僕があの人をもうとう愛していないなんてことが僕にわかるはずはないじゃないか、へへ! ところが、はたしてそうでないってことがわかったよ。それにしても、あのひとは恐ろしく僕の気に入ってたもんさ! さっき僕が演説めいたことをしゃべってた時でも、やはり非常に気に入ってたんだ。そして、実はね、今でも恐ろしく気に入ってるのさ。しかし、あのひとのそばを去るのが、かるがるとしていい気持なんだよ。お前は僕がから威張りを言うと思ってるだろう?」
「いいえ。だけど、もしかしたら、それは恋でないかもしれませんよ。」
「アリョーシャ」とイヴァンは笑いだした。「恋の講釈なんか、しないほうがいいぜ! お前としては不似合いだよ、さっきも、さっきも飛びだして口を入れたね、恐れ入るよ! ああ、忘れてた……あのお礼にお前を接吻しようと思ってたんだ。しかし、あのひとはずいぶん僕をひどい目にあわしたよ! 本当にひねこじれた発作のお守をしてたようなもんだ。おお、僕があのひとを愛してるってことは、あのひとも自分で承知しているのさ! そして、自分でも僕を愛していたので、決してドミートリイじゃない」とイヴァンは愉快そうに言い張るのであった。「ドミートリイはひねこじれた発作で愛していたのだ。僕がさっきあのひとに言ったことは、みんな正真正銘の真理なんだ。しかし、あのひとがドミートリイを少しも愛していないで、むしろ自分であんなに苦しめた僕を愛している、ということを自身で悟るためには、十五年二十年の歳月を要する、それが肝心な点なんだよ。しかし、ことによったら、あのひとは今日のような経験を嘗めても、永久にこれを悟らないかもしれないよ。が、まあ、そのほうがいい。立ちあがって、そのまま永久に去