京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『正直な泥棒』(『ドストエーフスキイ全集2 スチェパンチコヴォ村とその住人』P319―P336、1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

正直な泥棒
フョードル・ドストエーフスキイ
米川正夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)戸外《おもて》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)たまに|きゃべつ汁《シチイ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)[#「落ちつかせることではない」はママ]

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 ある朝、わたしが役所へ行こうと思って、すっかり支度をしてしまったところへ、アグラフェーナが部屋へ入って来た。これはわたしの台所女でもあり、洗濯女でもあり、家政婦でもあったが、驚いたことには、わたしと話をはじめたものである。
 今までのところ、アグラフェーナはひどく無口な田舎もので、今日の食事は何にしようかといったような、毎日きまりきったことをひと言ふた言いう以外、六年間にほとんどなに一つ口をきいたことがない。少なくとも、わたしはこの女からついぞなんにも聞いた例がないのだ。
「あの、旦那、ちょっとお邪魔にまいりましたが」と彼女は思いがけなくいい出した。「あの小っこい部屋を貸しなさったらどんなもので?」
「小っこい部屋ってどれだね?」
「ほれ、あれですよ、台所のわきにある。どれってきまっとりますよ」
「なんのために?」
「なんのためにですって? だって、みんな間借り人を入れてるじゃありませんか。なんのためって、きまりきった話でさあね」
「でも、だれがあんなものを借りるもんかね」
「だれが借りるかって! 間借り人が借りますよ。わかりきったことじゃありませんか」
「だって、あそこにゃ、お前、寝台を置くこともできないじゃないか。狭くってしようがありゃしない。だれがあんなとこに住めるもんか?」
「何もあすこに住むことなんかいりゃしませんよ! ただ寝るとこさえありゃよろしいんで。住むのは窓の上だって住めまさあね」
「窓ってどこの窓なんだね?」
「どの窓って、きまってるじゃありませんか、まるでごぞんじないみたいに! 入口の間にある窓でございますよ。あの上に坐って、針仕事なりなんなりすることができますよ。さもなくば、椅子に坐るかもしれません。その人は椅子も持っとりますからね。それにテーブルもございます。なんでもありますよ」
「その人ってのはいったいだれだい?」
「なに、いい人でございますよ、世馴れた人でね。わたしはその人に食べものの支度をしてやりますよ。部屋と食事と合わせて、月々銀貨三ルーブリもらうことにしました……」
 長いこと苦辛したあげく、やっとわたしは聞き出すことができた。ある中年の男がアグラフェーナを説きつけて、というより、うまく話を持って行って、間借り人兼居候として台所へ入れてもらうように、納得させたとのことである。ところで、いったんアグラフェーナの頭に浮かんだ考えは、必ず実現されなければすまなかった。さもない限り、彼女はわたしをじっと落ちつかせることではない[#「落ちつかせることではない」はママ]、それをわたしは経験で知っていた。もし何か気に添わないことがあると、彼女はすぐさま考え込んでしまって、すっかり気鬱症にかかってしまう、しかもそういう状態が二週間も、三週間もつづくのであった。そういう時には、食べ物は悪くなる、洗濯物は数が足りなくなる、床は掃除してくれない。ひと口にいえば、いろいろといやなことばかり持ちあがるのだ。わたしはずっと前から気がついていたが、この無口な女は何事にまれ[#「何事にまれ」はママ]物ごとをはっきり決めるとか、自分自身の考えを固定させるとかいうことができないのであった。けれども、この覚束ない頭にどうかした偶然で、何か観念というか、計画というか、それに類したものができあがったが最後、その実現を拒否するということは、この女を一とき精神的に殺すことであった。そういった次第で、何よりも自分の平穏を愛するわたしは、すぐさま賛意を表したものである。
「それにしても、その男は何か書きものを持っているのだろうな、身分証明書とかなんとかいったようなものを?」
「そりゃもう、持ってるにきまっておりますよ。いい人ですよ、世間馴れた。三ルーブリ払うといいました」
 さっそくその翌日、わたしのつつましい独り住居へ、新しい間借り人があらわれた。しかし、わたしはそれをいまいましいと思わなかったどころか、むしろ内心ひそかに喜んだほどである。概して、わたしは孤独な生活を送って、まるっきり隠者然としていた。知人といってはほとんどなく、外出することも稀であった。十年間というもの、ひきこもって暮らしてきたので、もちろん、孤独にはなれていた。とはいうものの、十年、十五年、あるいはそれ以上も、アグラフェーナと鼻を突き合わせて、同じような孤独生活をつづけるのかと考えると、――それはもちろん、あまりにも味気ない索漠たる生涯ではないか! だから、こういう状況にもう一人おとなしい人間が加わるのは、それこそ天恵といってもいいのだ!
 アグラフェーナのいったことは嘘ではなかった。わたしの間借り人はなかなか世間馴れた男であった。身分証明書を見ると、兵隊あがりということがわかったが、しかしわたしは証明書を見ないさきから、顔を見ただけで、一目でそれを見抜いてしまった。しかし、そんなことは容易なわざである。わたしの間借り人アスターフィ・イヴァーヌイチは、そういう仲間としては善良なほうであった。わたしたちは仲よく暮らしはじめた。しかし、何よりありがたかったのは、アスターフィ・イヴァーヌイチが時おり自分の過去の生活から、いろいろ変わった話をして聞かすことであった。わたしのように、いつも退屈な生活をしているものにとっては、こういう話し手はまさに宝といわなければならない。あるとき彼はそういったような話を一つ聞かしてくれた。それはわたしにちょっとした印象を与えたが、その物語のきっかけになったのは、次のような出来事である。
 一度わたしはたった一人うちにいたことがある。アスターフィもアグラフェーナも、それぞれ用事で外出していた。ふとだれか入って来るような物音が、自分の部屋にいるわたしの耳に入った。それが見ず知らずの人のような感じなのであった。出て行って見ると、はたして入口の間に見知らぬ男が立っていた。背の低い小男で、寒い秋空に上衣一枚しか着ていなかった。
「何用だね?」
「官吏のアレクサンドロフに会いたいんだけど、ここにいますかね?」
「そんな人はいやしないよ、きみ、さよなら」
「じゃ、なぜ庭番はここだなんていったんだろう」と来訪者は用心ぶかく、戸口へじりじりとしさりながらいった。
「行きなさい、行きなさい、帰った、帰った」
 その明くる日、食後のことであった、アスターフィ・イヴァーヌイチが、かねて修繕を頼んでおいた上衣を、わたしの体に合わせているところへ、またもや、入口の間へだれやら入って来た。わたしは戸を細目に開けて見た。
 昨日やって来た男が、わたしの見ている目の前で、わたしの毛皮外套をいとも悠々と外套掛からはずして、小脇にかかえ込み、ぷいと戸外《おもて》へ飛び出した。アグラフェーナはあきれて口をぽかんと開けたまま、始終じっと男を眺めていたが、それ以上、外套を守るために何一つしようとしなかった。アスターフィ・イヴァーヌイチは泥棒のあとを追って飛び出したが、十分ばかりして、息をせいせい切らしながら、手を空しゅうして帰って来た。男はそのまま跡白波と影を消したのである。
「やあ、アスターフィ・イヴァーヌイチ、失敗だったかね。まあ、それでもきみの外套が無事だったのがまだしもだよ! さもなかったら、あの泥棒のお蔭で、にっちもさっちもいかなくなるとこだった!」
 しかし、アスターフィ・イヴァーヌイチは、この出来事にひどく度胆を抜かれてしまって、わたしなどその様子を見ていると自分の盗難など忘れてしまうくらいであった。彼は容易に正気に返ることができないで、のべつやりかけた仕事を投げ出しては、今の出来事を新しくお浚えするのであった。どうしてあんなことができたか、自分はどんなふうに立っていたか、人の目の前、それもふた足くらいしかないところで、どんなふうにして毛皮外套をはずしたか、どうして捕まえることもできないような始末になってしまったか、そういうようなことをかき口説くのだった。それから、また仕事に向かったが、間もなく何もかもほうり出してしまった。わたしが見ていると、とうとう彼は庭番のところへ行って様子を話し、自分の番をしている屋敷内にこんなことを仕出かしたのは怪しからんといって、ひと言文句をいったものである。やがて引っ返して来て、今度はアグラフェーナをやっつけにかかった。それから、もう一度仕事に向かいはしたものの、それでもまだ長い間、どうしてこんなことになったのだろう、おれはすぐそこに立っていたし、主人公も目と鼻の間にいたのに、人の見ている目の前で、ほんのふた足ばかりの所で、外套をはずして行くとはなんてことだ、云々、云々と口の中でぶつぶついっていた。要するに、アスターフィ・イヴァーヌイチは、仕事にかけてはなかなかの腕を持っていたが、しかしひどく世話焼きで、じっとしていられないたちなのであった。
「お互いにいい馬鹿にされたもんだねえ、アスターフィ・イヴァーヌイチ!」その晩、わたしは彼に茶を一杯すすめながら、退屈まぎれにまたもや外套盗難事件を持ち出しながら、こう口を切った。この事件はあまりたびたびお浚えされる上に、話し手があまり真剣なので、はなはだ滑稽味を帯びて来たのである。
「馬鹿を見ましたよ、旦那! わっしゃもう人ごとながらいまいましくって、癪にさわってたまりませんや、自分の衣類がなくなったんじゃありませんがね。わっしにいわせりゃ、この世の中に泥棒ほど悪いものはありませんね。中にゃ、ただで儲けるやつもありますが、何しろ泥棒は、人が汗水流して働いて、暇ざい[#「暇ざい」はママ]かけて手に入れたものを、いっぺんに失敬して行くんですからねえ……卑怯な話でさあね、ちぇっ! 話をするのもいやになって来る、胸がむかむかして。どうして旦那はご自身の品物が惜しくないんですね」
「いや、それはまったくだよ、アスターフィ・イヴァーヌイチ。いっそ火事で焼けたほうがまだしもで、泥棒なんかに進上するのはいやだね、いまいましい!」
「いやもう、いやのなんのと、そんな生やさしいもんじゃありませんよ! もっとも、泥棒にもいろいろありますが……実はね。旦那、わっしも一度そういったようなことがありましてね、正直な泥棒にぶつかりましたっけ」
「え、正直な泥棒だって? いったい正直な泥棒なんてあるものかね、アスターフィ・イヴァーヌイチ?」
「そりゃ、なるほど、ごもっともで? 泥棒で正直なやつなんてそんなもなありゃしませんや。わっしがいおうと思いましたのはね、正直そうだと思ってた男が、盗みをやったっていうことなんで。まったくかわいそうなやつでしたよ」
「そりゃどういういきさつだったんだね。アスターフィ・イヴァーヌイチ?」
「それはね、旦那、二年ばかり前のことでしたよ。その時分ちょっと一年足らずの間、勤め口なしに居ぐいをするような羽目になりましたが、前の家から暇を出されるちょっとまえに、すっかり身を持ち崩してしまった一人の男と知り合いになりました。その、居酒屋で知り合ったんで。ひどい飲んだくれで、のらくら者の宿なしで、もとはどこかで勤めていたそうですがね、もうずっと前に飲んべが祟って、勤め先を馘になってしまったんでございます。もうまったくしようのない男でして、なんともかともいえぬ恰好で歩いておりましたよ! どうかすると、いったいこの男の外套の下にはルバーシカがあるのだろうか、という気がするくらい、なんでもかんでも手に入り次第、飲んでしまうのでございます。ところが、それでいて暴れものじゃないので。おとなしいたちで、愛想がよくて、親切で、けっしてねだったりなんかしやしない、いつも遠慮ばかりしている、といったわけで、かえってこっちのほうが、かわいそうに、先生飲みたいんだなと見て取って、まあ一杯やれと、持ってってやるような始末で、まあ、そういったような具合で、わっしはその男と知り合いになりました、というより、やつのほうがわっしを慕って来るようになったので……わたしのほうは別にどうということもありませんでした。ところが、そいつが実に人懐っこい男でしてね! 犬っころみたいにつきまとって、あっちへ行きゃあっち、こっちへ行きゃこっちへついて来るという有様です。それも、たった一度会ったきりなんですからね。痩せっぽっちの貧相なやつでしたよ! はじめ一晩とめてやろうかな、ってんで、まあ泊めてやったところ、見れば身分証明書もちゃんとしてるし、別に怪しいやつでもなさそうなんですよ! それから、あくる日も泊めてやったところ、三日めには自分でやって来て、いちんち窓の上に腰かけていましたがね、やっぱりそのまま泊り込んでしまいました。そこで、わっしは考えました、いやあ、とんだものを背負い込んでしまったぞ、飲まして、食わして、おまけに宿までしてやるなんて、――貧乏人が居候に垂れ込まれちゃ、たまった話じゃない、とね。その前、先生わっしのところへ来たのと同じ伝である勤め人のとこへ出入りして、その男の腰巾着になって、しじゅういっしょに飲んでたもんですが、その男が何か気のむしゃくしゃすることがありましてね、やけ酒が過ぎて死んでしまったのです。さて、その先生は、エメーリャ、本式にいえばエメリヤン・イリッチと申しました。わたしはこいつをどうしたものだろうと、さんざん思案に思案をしましたが、追ん出してしまうのも気が咎めるし、それにかわいそうでもあります。まったくもってみじめな様子をして、自力で生きて行く力なんかありゃしない、沙汰の限りなんで! それに、無口なおとなしい質で、自分から物をねだるなんてことはけっしてありません、じっと坐ったまま、犬っころみたいに私《ひと》の目を見ているばかり。つまるところ、結局、酒が人間一匹だいなしにしちまったんで! わっしゃはらの中で考えましたね、――もしわっしがやつに向かって、おい、エメリヤーヌシカ、とっとと出て行きなさい、おれんとこにいたって何もすることはありゃしない、ここはお門違いだぜ、肝腎のおれがやがてそのうちに、食うものもなくなろうというのに、お前を口付きで置いとくわけに行かんじゃないか、とこういってみたらどうだろう? そうしたら、奴さんどうするだろう? わっしはじっと坐って、こんなことを考えていたものです。すると、わっしの目ん中に、こんな有様が見えて来るのでした、――わっしの言葉を聞くと、先生なに一つ合点がいかなかったような顔つきをして、長いこと、じいっとわっしを眺めているが、やがてようやくわっしのいったことが呑み込めると、窓からのこのこ下りて来て、自分の風呂敷包みを取り上げて(わっしゃそれを、今でも目の前に見るような気がしますよ、穴だらけの赤い格子縞で、中には何が包んであるやら知れたものじゃない、それをどこでも持って歩いているので)、着ているぼろ外套をちょいと直す。それは余りぶざまでないように、暖かくって、穴が見えないようにという心づかい、――そういう気の優しい男なんで! それから、戸を開けて、涙を一雫目に溜めて、階段へ出て行く。ああ、人間一匹だいなしにしてしまうわけにゃゆかん……こう思うと、わっしはかわいそうになってまいりました! しかし、すぐにその後で、おれ自身はどうなるのだ、という考えが出て来ました。そこで、わっしははらん中で思案しました、――なあ、エメリヤーヌシカ、お前がうちで呑気にしているのも、長いことじゃないぜ、おれは近いうちに引っ越してしまうから、その時はもう見つかりっこないんだ、そう考えました。実は旦那、お邸の旦那様がご領地へお引上げになりましたので。その時、亡くなった旦那のアレクサンドル・フィリモーノヴィチが(何とぞ天国に安らわせたまえ!)こうおっしゃったのでございます。『アスターフィ、お前の奉公にはわしも心から満足しておるよ、お前のことはけっして忘れやせん、また田舎からかえって来たら、お前を雇ってやるからな』わっしはそのお邸で下男頭を勤めておりましたんで、――いい旦那でございましたが、その年に亡くなってしまわれました。さて、旦那がたをお見送りすると、わっしは自分の荷物を掻き集めましてね、小金もあったもんですから、しばらくのんびり暮らそうと思って、あるお婆さんのところに一間借りて、そこへ引き移りました。そこはたった。一間だけ、小さい部屋が空いておりましたので。お婆さんもやっぱり、どこかのお邸で、ばあや奉公をしておったのですが、その頃は一本立ちの暮らしをしておりました、年金か何かもらいましてね。さあ、エメリヤーヌシカ、今度こそもうおさらばだぞ、まさかここをさがし当てることはできまいよ! とこんなふうに考えたものでございます。ところが、旦那、どうでしょう? ある晩わっしが家へ帰って見ますと(さる知り合いのところへ訪ねて行ったので)、真っ先に目に入ったのはエメーリャじゃありませんか。わっしの長持ちの上にぽつねんと腰かけている。傍には赤い格子縞の風呂敷包みを置いて、例のぼろ外套を着たままじっと腰かけて、わっしの帰りを待っている……しかも、退屈ざましに、お婆さんのとこからお祈りの本など借りて来たのはいいが、それを逆さに持っているのでございます。やっぱりさがし当てたというわけで! わっしはもうがっかりしちまいました。いや、どうにもしようがない、初め追っぱらわなかったのが悪かったのだ、とこう思いまして、いきなりたずねました。
『エメーリャ、身分証明書は持って来たかい?』
「そこで、旦那、わっしは坐って、いろいろ思案をめぐらしました。この宿なし男がどれだけわっしの邪魔になるものかと考えたあげく、結局たいしたことはないと胸算用しました。まず第一に食いものだが、なに、朝はパンが一きれ、それにちょっとうまい味つけを添えるとすれば、葱でも少し買ったらいい。それから、正午《おひる》にもまたパンと葱、さて晩めしだが、これもやっぱり葱とクワス、そしてパンがほしいといえばパンもやろう。もしたまに|きゃべつ汁《シチイ》でもあったら、それこそ二人で腹一杯やれるというものだ。おれは食が細いほうだし、酒飲みはだれでも知っているとおりなんにも食べやしない、ただウォートカさえありゃいいんだから。この飲み物のほうでおれはやつにいたぶられるわい、とわっしは考えたものですが、その時、旦那、また別の考えが頭に浮かんでまいりましてね、しかもそいつが執念ぶかく取りついて、離れないのでございます。もしエメーリャが行ってしまったら、おれも世の中が味気なくなるだろう……そこで、親とも恩人ともなってやろう、とはらを決めちまいました。こいつは一つあの男に杯と縁切りをさせて、哀れな末路にならないように守ってやろう! まあ、待っているがいい、とこう考えましたので、『ああ、よし、エメーリャ、うちに置いてやろう、しかしこれからはおれのいうことを聞いて、命令に背いちゃいかんぞ!』と申しました。
「そこで、わっしは考えました。これからそろそろやつに何か仕事をするように仕向けなくちゃならんが、しかし急にというわけにゃいかん。まあ、初めのうちは少しぶらぶらさせておこう、そのうちにおれがよく見当をつけて、エメーリャに向きそうな仕事をさがしてやろう。なぜと申して、旦那、どんな仕事でもまず人によって、向き不向きがありますからね。で、わっしはそっとやつの様子を見ておりましたが、このエメリヤーヌシカというやつは、どうにも手のつけられない人間だってことがわかりました! わっしはね、旦那、はじめはああだこうだと、優しい言葉をかけてやったものです。
『おい、エメリヤン・イリッチ、お前一つ自分で自分の姿を見て、なんとか振りを直したらいいだろう』といってやりました。『のらくらしてるのはもういい加減でよせよ! まあ、見るがいい、そのぼろぼろのなりを。お前の外套は、こういっちゃ失礼だが、まるで篩《ふるい》だぜ、いけないねえ! そろそろ人並みのことをしていい時分らしいぜ』
「すると、エメリヤーヌシカは、首を垂れてじっと坐ったまま、わっしのいうことを聞いているのですが、まあ、旦那、どうでしょう! 病が嵩じて、もう自分の舌まで呑んじまったと見えましてね、ろくそっぽ[#「ろくそっぽ」はママ]辻褄の合ったこと一ついえないのでございますよ。こっちが胡瓜の話をはじめると、向こうは豆がどうのと返事をする始末でしてね! いつまでもいつまでもわたしの話を聞いて、それからしまいにほっと溜息をつくから、
『なんでお前は溜息なんかつくんだね、エメリヤン・イリッチ?』ってきくと、
『いや、ただちょっと、なんでもありませんよ、アスターフィ・イヴァーヌイチ、心配しないでくださいよ。ところでね、アスターフィ・イヴァーヌイチ、きょう往来でおかみさんが二人喧嘩しましたっけ。一人のほうが、相手の持っているつるこけ桃入りの籠をひっくり返したのでね』
『へえ、それがどうしたんだい?』
『すると、もう一人のほうはその返報に、わざと相手のつるこけ桃の籠をひっくり返して、おまけに足で踏んづけようとしたんだ』
『ふん、それがどうしたっていうんだい、エメリヤン・イリッチ?』
『どうもしませんよ、アスターフィ・イヴァーヌイチ、わたしはただちょっと』
『どうもしません、ただちょっとだって』とわっしは考えました。『おいおい、エメーリャ、エメーリュシカ! お前は自分の頭まで飲んじまったと見えるな!』
『それから、ある紳士がゴローホヴァヤ街の歩道の上で、いや、それともサドーヴァヤ街だったかな、一ルーブリ紙幣《さつ》を落っことしたんですよ。すると、一人の百姓が、さあ、運にいきあたった、おれのもんだというと、もう一人の百姓がそれを見つけて、いや、おれのもんだ! おれのほうがお前より先に見つけた、という……』
『それで、エメリヤン・イリッチ?』
『そこで、二人の百姓が喧嘩を始めたんですよ、アスターフィ・イヴァーヌイチ。ところが、巡査がやって来て、紙幣を拾い上げて紳士に渡してね、百姓どもには、留置場にほうり込むぞ、といっておどしましたよ』
『さあ、それがいったいどうしたっていうんだね? それに何かためんなることでもあるというのかね、エメリヤーヌシカ?』
『いや、わたしは何も別に。みんな笑いましたっけ、アスターフィ・イヴァーヌイチ』
『おいおい、エメリヤーヌシカ! みんな笑ったのがどうしたってんだい! お前はびた銭一枚で自分の魂を売ってしまったんだよ。なあ、エメリヤン・イリッチ、一つおれはお前にいって聞かせることがあるんだ』
『なんですね、アスターフィ・イヴァーヌイチ?』
『何か仕事をはじめなさい、本当に始めなさい。これはもう百ぺんもいったことだが、仕事をはじめなさい、ちったあ自分をかわいそうに思うがいい!』
『いったいどんな仕事を始めるんですね、アスターフィ・イヴァーヌイチ? わたしは何を始めたらいいのか、てんで見当がつかないんで。わたしなんかだれも雇ってくれやしませんよ、アスターフィ・イヴァーヌイチ』
『お前が勤め口から追ん出されたのは、つまりそのためだよ、飲んだくれだからよ!』
『ときに、食堂番のヴァシカが、きょう事務所へ呼ばれましたよ、アスターフィ・イヴァーヌイチ』
『なんのために呼ばれたんだね、エメリヤーヌシカ?』
『そりゃ、わたしも知らないんで、アスターフィ・イヴァーヌイチ、なんのためだか。つまり、あそこに用があって、そのために呼ばれたんでしょうよ……』
『やれやれ、これじゃ、エメリヤーヌシカ、おれたち二人は共倒れだ!』とわっしは考えました。『前世の罪のために神様の罰が当たったんだ!』ねえ、旦那、こんな人間を相手にどうしようがあるもんですか!
「ところが、奴さんなかなかずるいやつでしてね、あきれたもんですよ! じっとわっしのいうことを聞いているけれど、やがて倦きて来たと見えて、ちょっとでもわっしが腹を立てたと見て取ると、ぼろ外套を取って、するりと抜け出しちまって、――いつの間にやら影も形もありません! いちんち方々をぶらつき歩いて、晩方になると一杯機嫌で帰って来ます。だれに飲ましてもらったのやら、奴さんどこから銭を手にいれたのやら、神様のほか知るものはありません。それはわっしが悪いのじゃありませんからね!………
『駄目だよ』とわっしはいってやりました。『エメリヤン・イリッチ、お前ろくな死に様はしゃしないぞ! 酒はいい加減にしな、わかったか、いい加減にしなよ! もう一度この次に酔っぱらって帰ったら、お前は階段で夜明しだぞ、中へ入れやしないから!………』
「この申渡しを聞いて、エメーリャは一日二日うちにじっとしていましたが、三日目にまた抜け出してしまいました。いくら待っても、帰ってくるこっちゃありません! 正直なところを申しますと、わっしはもうぎょっとしてしまいました、それに奴さんがかわいそうになって来ましたので。いったいおれはやつになんということをしたのだ、とこう考えました。すっかりおどしつけてしまったじゃないか。さあ、今日はどこへ行ったんだろう、かわいそうに、ひょっとしたら、身を亡ぼすようなことになるかもしれない。桑原桑原! やがて夜になりましたが、帰って来ません。翌朝、入口のところへ出て見ますと奴さん入口の間でお休み遊ばしているじゃありませんか、段々の上に頭をのせてねているのですが、冷えて体がすっかりこちこちになっているのです。
『お前どうしたんだ、エメーリャ? とんでもない! なんというところにいるんだ?』
『実は、その、アスターフィ・イヴァーヌイチ、この間あんたが情けないといって腹を立てなすって、入口の間で寝さすとおっしゃったもんだから、それでわたしは、その、思い切って中へ入れなかったので、アスターフィ・イヴァーヌイチ、ここで横になったわけなんで……』
「わっしは腹が立つやら、かわいそうなやら!
『おい、エメリヤン、も少しほかの仕事をしたらよさそうなものじゃないか』といってやりました。
『なんだって階段の番人なんかやるんだ!………』
『ほかの仕事って何があります、アスターフィ・イヴァーヌイチ?』
『ええっ、この情ない死にそこない(わっしは腹が立って夢中だったのです!)、せめて仕立屋の職でも覚えたらいいに。まあ、そのお前の外套はなんだ! 篩みたいただけではまだ足りないで、階段を箒がわりに掃いてるじゃないか! 針でも持って、その穴を人並につくろったらどうだい。ええ、飲んだくれが!』
「すると、どうでしょう、旦那! やつは針を取り出すじゃありませんか。わたしは冷やかしのつもりでいったのに、奴は慄えあがって、すぐに針を持ち出すんですからね。ぼろ外套を脱いで、針に糸を通しにかかりました。わっしはじっと見ておりましたが、なあに、わかりきったこってさあ、目には目やにが溜って、白目は赤くなっている、手はぶるぶる慄えるというふうで、ざまァありませんや! いくら通しても通しても、糸はめどを潜りゃしません。一生懸命に目をぱちぱちやったり、指に唾をつけたり、袖をたくしたりしましたが、――やっぱり駄目なんで! とうとうおっぽり出して、わっしの顔を眺めています……
『いやあ、エメーリャ、ご苦労さんだった! これが人前だったら、首をちょん切られるとこだったんだよ! ちぇっ、――なんて馬鹿正直な男だ、おれはちょっと冗談に、懲らしめのためにいってみただけなのに……もういいよ、そんな恥さらしはやめときなさい! そうしておとなしく坐ってて、見っともない真似はしないでくれよ、階段に寝て、おれの顔に泥を塗るようなことはしないでくれよ!………』
『ああ、アスターフィ・イヴァーヌイチ、どうしたらいいんでしょう。そりゃわたしも自分で知っておりますよ、わたしはいつも酒ばかり飲んでて、なんの役にも立たない人間です!………ただあなたに、現在自分の恩人に、腹を立てさせるばかりで……』
「そういったと思うと、急にそのあおい唇かわなわなと慄え出しました。涙が一雫あお白い頬を伝って、それが無精ひげに引っかかって慄えたと思うと、エメリヤンはわっと泣き出すじゃありませんか、とたんに涙が堰を切ったように流れて……いやはや! わっしは刃物で心の臓をさっと斬られたような気がしました。
『ええ、まあ、お前はなんて涙もろい男なんだ、夢にも思いがけなかったよ! こんなこと、だれだってびっくりするだろうじゃないか、ほんとうに不意打ちだよ……』それからはらん中で考えました。『いや、エメーリャ、おれはすっかりお前から手を引いちまうよ、勝手にぼろっ屑みたいに、すたりものになるがいい!………』
「まあ、旦那、こんな始末でしてね、何もくどくどとお話するものはありゃしません! 何もかもつまらないみじめなお話で、言葉のついえみたいなもんでございます。つまりね、旦那、いってみれば、欠けたびた銭二枚だって払うものはありゃしません。ところが、わっしはね、あんなことにさえなってくれなきや、どんな大金だって惜しみゃしません、もしわっしにそんな大金があったら、ですがね。さて、旦那、わっしはズボンを一つ持っておりました。青地に格子縞入りの、滅法界もない、素敵な、いいズボンでございました。ここへやって来たさる地主がわっしに注文したものですが、仕立が窮屈だといって小便してしまった、それでわっしの手もとに残ったわけなんで。わっしははらの中で、こいつはなかなかの値打ちもんだ! 古着市へ持って行っても、五ルーブリで買い手があるかもしれんぞ。いや、それよりもペテルブルグの人に向きそうなズボンを二着分つくってやろう、そしたらおれのチョッキになるくらいのはしたきれが残るだろうと考えました。ねえ、わっしらみたいな貧乏人にゃ、それこそうまい話じゃありませんかね! ところで、その頃エメリヤーヌシカは沈んだ顔をして、行ないを慎んでおりました。今日も、禁酒、明日も禁酒、そのまた明日もしらふというふうで、すっかり腑抜けみたいになってしまい、浮かぬ顔でぼんやり坐っているところを見ると、なんだかかわいそうになって来るほどでした。ふん、とわっしは考えました、お鳥目がなくなってこの有様だな、それとも自分から一念発起して、神のお声に従ったのか。とにかく旦那、まあこういった有様でした。ところが、その時分大祭日がやって来ましてね、わっしは夜の祈祷式に出かけました。帰って見るとエメーリャ先生、窓に腰かけて、一杯機嫌で、体をふらふら揺すっておるじゃありませんか。ははあ、やっぱり駄目だな、奴さん! とわっしは心に思いました。それから、なんのためだったか長持ちのところへ行って、開けて見ますと! 例のズボンがないじゃありませんか……あっちこっち掻き廻して見たけれど、影も形もありません! さあ、何から何までひっくり返して見ましたが、どんなに見ても、やっぱりないのです。と、わっしは何か胸の中をちくりと刺されたような気がしました! わっしはまずお婆さんのところへ飛んで行って、責めはじめました。エメーリャのやつは酔っぱらってやがるから、証拠はれっきとしているくせに、こいつのことはまるで思いつかなかったので!
『まあ』とお婆さんは申します。『とんでもない、あんた、わたしがなんのためにズボンなんか取りましょうぞ、わたしがはきでもしますのかい? それどころか、現にわたしのところだって、スカート一枚なくなったくらいですよ……ねえ、そういうわけで、わたしゃ知りませんよ、ぞんじませんよ』
『ここにだれがいたんだね? だれか来たかね?』と、わたしがきくと、『いいえ、あんた、だれも来やしません、わたしゃ始終ここにいましたからね。ただ、エメリヤン・イリッチが出て行って、それから帰って来ただけですよ。ほら、あすこに坐っていまさあね、あれにきいてごらんなさいよ』
『おい、エメーリャ』とわたしは申しました。『お前なにか困ることがあって、おれの新しいズボンを取りゃしなかったかい、覚えてるだろう、こないだ田舎の地主の注文でこしらえてやったやつさ?』
『いいえ、アスターフィ・イヴァーヌイチ、わたしは、その、そんなもの取りゃしませんよ』
「はて、なんという奇妙なことだろう! と思って、またさがしはじめました。さがして、さがして、さがしぬきましたが、――ありません! ところが、エメーリャはそこに腰かけたまま、体をぐらりぐらりとさせています。わたしはね、旦那、長持ちの前にかがんだまま、じっとしていましたが、不意にやつの方をちらと横目で見ました……ええ、まあ、なんてことだ! と思うと、腸《はらわた》が煮え返るようで、顔さえ真っ赤になったくらいです。すると、急にエメーリャもわたしのほうを見て、
『いいえ、アスターフィ・イヴァーヌイチ、違います、わたしはあのズボンを取りゃしませんよ……あなたは、ひょっとしたら、その、わたしが取ったと思ってらっしゃるのじゃありませんか』
『だって、いったいどこへ消えて失くなるんだね、エメリヤン・イリッチ?』
『いいえ、アスターフィ・イヴァーヌイチ、わたしはまるで見たこともありませんよ、アスターフィ・イヴァーヌイチ』
『じゃ、何かね、エメリヤン・イリッチ、ズボンが勝手にひょいと消えて失くなったのかね?』
『もしかしたら、勝手に消えて失くなったのかもしれませんね、アスターフィ・イヴァーヌイチ』
「わっしはそれを聞くと、いきなりぷいと立って、窓のそばへ行き、ランプをつけて、仕事にかかりました。わっし共の階下《した》にいる役人のチョッキの修繕です。けれど、腹の中は煮えくり返るようで、胸はしくしくうずくのです。それこそ、旦那、自分の衣裳戸棚で煖炉でも燃したほうが[#「自分の衣裳戸棚で煖炉でも燃したほうが」はママ]、まだ増しなくらいでした。それで、わっしが息のつまりそうなくらい腹を立てているのを、エメーリャも感づいたらしいのです。ところがね、旦那、人間なにか悪いことに関係があって、身の破滅がやって来るのをまだ遠くのほうから感づくと、まるで嵐の前の小鳥みたいになるもんでさあね。
『ときに、アスターフィ・イヴァーヌイチ』とエメーリュシカはまたはじめました(そのくせ、声は慄えているのです)――今日ね、お医者の助手のアンチーブ・プローホルイチが、こないだ死んだ馭者の後家と結婚しましたよ……』
「わっしはやつをじろりと見ましたが、きっと憎そうな目つきだったと思います……エメーリャも察したのです。立って寝台のほうへ行くと、その傍で何やらごそごそやり出しました。わたしは、どうするかと待っていますと、長いことごそごそ掻き廻しては、『ない、どうしてもない、あのズボンの畜生、いったいどこへ隠れやがったんだろう!』と、のべつぶつぶついっているのです。どうするだろうと待っているうち、見るとエメーリャは寝台の下へ、のこのこ這い込むじゃありませんか。わたしはたまりかねて、
『どうしたんだね、エメリヤン・イリッチ、なんだって四つん這いに這い廻るんだね?』
『なに、ズボンがないかと思いましてね、アスターフィ・イヴァーヌイチ。あの奥のどこかへ落ちてないか一つ見ようと思って』
『もしもし、旦那』とわたしはいいました(いまいましさに、わざと旦那よばわりしてやりましたんで)。『なんだって、旦那、わっしみたいなつまらん貧乏人に同情して、ズボンの膝を台なしになさるんですね!』
『いえ、なんでもありません、アスターフィ・イヴァーヌイチ、わたしはただ……ひょっとしたらさがしてるうちに、どうかして見つかるかと思いまして』
『ふむ!………』とわたしはいいました。『ときに、エメリヤン・イリッチ!』
『なんですね、アスターフィ・イヴァーヌイチ?』
『いったいお前じゃないのかい、おれのズボンを泥棒同然に盗んだ悪者は? 恩を仇で返したやつは?』
「つまりですね、旦那、やつが、私《ひと》の目の前で四つん這いになったのを見て、癇癪玉を破裂さしちまったんで。
『いいえ……アスターフィ・イヴァーヌイチ……』
「そういうご当人は、寝台の下で腹這いになったまんまなのです。長いことそうしていましたが、やがて這い出してまいりました。見れば、真っ青な顔をして、まるで経|帷衣《かたびら》みたいなんです。起きあがって、わっしの傍の窓に腰をかけると、ものの十分ばかりそうして坐っていました。
『いいえ、アスターフィ・イヴァーヌイチ』といい、急に立ち上って、わっしの傍へつめ寄りましたが、その様子といったら、今おもい出してもそっとするくらい恐ろしいもんでした。
『いいえ、アスターフィ・イヴァーヌイチ、わたしはあなたのズボンを盗みなんかしやしません……』
「そういいながら、体中ぶるぶる慄わして、ふるえる指でわれとわが胸をさしている。それに、声もひどく慄えているので、わたしのほうが、旦那、慴えてしまって、まるで吸いつけられたように、体を窓にもたせていました。
『いや、エメリヤン・イリッチ』とわたしはいいました。『じゃなんとでも、もし馬鹿なおれがお前さんに詰らん言いがかりをしたのなら、勘弁しておくんなさい。あのズボンは、ふいになったなら、ふいになったでいい。あれがなくなったからって、われわれまでふいになりゃしないさ。ありがたいことに、手があるから、泥棒をしたり……縁もゆかりもない貧しい人に合力を乞うたりしなくても、自分の食扶持くらいは稼げるからな……』
「エメーリャはわっしの言葉を聞いてから、長いことわっしの前に立っていましたが、やがて腰を下ろしました。こうして、一晩じゅうじっと坐ったまま、身動き一つしないのです。もうわっしが寝台に入っても、エメーリャはじっと一つ所に坐ったきりです。やっと翌朝、目がさめて見ると、奴さん例のぼろ外套にくるまって、床《ゆか》の上にじかべた[#「じかべた」はママ]に臥ているじゃありませんか。ひどく卑下してしまって、寝台へ寝に行くことさえしなかったので。いや、旦那、それからというもの、わっしゃこの男がいやになりました、というより、二、三日の間は憎くってたまらないほどでしたよ。それはつまり、いってみれば、生みのわが子に盗まれて、骨身に滲みるほどの恨みを持つようになった、それと同じことなんで。『ええ、くそ、あのエメーリャめ!』と思ったものです。ところが、旦那、エメーリャは二週間ばかりというもの、酒の気が絶えることがありませんでした。つまり、自暴《やけ》くそになって、酒浸りになったというわけです。朝から出て行ったきり、夜は遅く帰って来る。そして、二週間というもの、わっしゃこの男がひと言として口をきいたのを知りません。つまり、奴さん自身もふさぎの虫に心を蝕《く》われて、なんとかして自分で自分を亡いものにしようと思ったらしゅうございます。が、そのうちにそれもぴったりやんでしまいました、というのは、ありったけ飲みつくしたわけで。それからはまた窓に坐り込んだきりです。今だに忘れませんが、三日三晩というもの、じっと坐って黙りこくっていました。ところが、ふいと見ると、奴さん泣いてるじゃありませんか。その、じっと坐ったまま泣いているのですが、その泣きようといったら! まるで泉の湧くようで、自分でも涙をぽたぽた落としているのに、気がつかない様子なんで。いや、旦那、エメーリャみたいな大人、というよりもう年配の男が、困るから、つらいからって泣くのは、傍で見ててもやり切れないもんですよ。
『お前どうしたんだい、エメーリャ?』といいました。
「やつは体じゅうぶるぶる慄わしました。それこそ、がくんと揺れるばかりでした。わしはあれ以来、はじめてやつに話しかけたのです。
『なんでもありませんよ……アスターフィ・イヴァーヌイチ』
『エメーリャ、お前いい加減にしないか、あんなものなんか失くなったってかまやしないよ。なんだってそう腑抜けみたいにぽかんとしてるんだね?』わっしはかわいそうになって来たのです。
『いえ、なに、アスターフィ・イヴァーヌイチ、わたしがいうのはそのことじゃないので。何か、仕事を始めたいと思いましてね、アスターフィ・イヴァーヌイチ』
『いったいぜんたいどんな仕事だね、エメリヤン・イリッチ?』
『まあ、その、どんなのでもいいので。ことによったら、前みたいに、何か勤め口でも見つかるかもしれません。わたしはもうフェドセイ・イヴァーヌイチのとこへ行って見ましたよ……あなたにご迷惑をかけちゃ申しわけありませんからね、アスターフィ・イヴァーヌイチ。わたしはね、アスターフィ・イヴァーヌイチ、もし勤め口が見つかったら、それこそすっかりお返しします。口を預かっていただいたお礼もいたしますから』
『もういいよ、エメーリャ、もういいよ。まあ、いやなこともあったけれどさ、それもすんでしまった! そんなことは犬にでも食われちまえだ! 一つ前々どおりに暮らしていこうじゃないか』
『いいえ、アスターフィ・イヴァーヌイチ、あなたはどうやら、相変わらず、その……わたしはあなたのズボンを取りゃしなかったんで……』
『まあ、どうでもお前のいいように、本当にもうよそうじゃないか、エメリヤーヌシカ!』
『いいえ、アスターフィ・イヴァーヌイチ、わたしはどうやら、これ以上あなたのとこに住むべき人間じゃないようです。どうかもうわがままをゆるしていただきたいもので、アスターフィ・イヴァーヌイチ』
『本当にもうよそうじゃないか、エメリヤン・イリッチ、だれがお前さんに失礼なことをしたんだね、だれがお前さんに追っ立てを食わしたんだね、わっしだとでもいうのかい?』
『いいえ、アスターフィ・イヴァーヌイチ、わたしがここに暮らしてるのはぶしつけですよ……もういっそ出て行くことにしましょう……』
「要するに、すっかり憤慨しちまったので、同じことばかりいうのです。じっと見ていると、先生ほんとに立ち上って、例のぼろ外套を肩にかけるじゃありませんか。
『いったいお前さんどこへ行こうてんだね、エメリヤン・イリッチ? まあ、胸に手を置いて、とっくり考えて見るがいい、お前さん何をしようというのだ? どこへ行くのだ?』
『いいえ、アスターフィ・イヴァーヌイチ、ご機嫌よう、もう止めないでくださいよ(といいながら、またしくしく啜り上げてるのです)。いっそ間違いがないうちに出て行きましょう、アスターフィ・イヴァーヌイチ、それに、あなたも今じゃもう、以前のようじゃなくなられましたからね』
『以前のようでないとは、どういうふうなんだね? いや、お前さんは頑是ない子供みたいな人間だから、一人じゃ駄目になっちまうよ、エメリヤン・イリッチ』
『いいえ、アスターフィ・イヴァーヌイチ、今じゃあなたは外へ出る時に、長持ちに鍵をかけなさるでしょう。わたしはね、アスターフィ・イヴァーヌイチ、それを見ちゃ泣いていますよ……いいえ、もういっそ出て行かしてください、アスターフィ・イヴァーヌイチ、そしてね、もしあなたといっしょに暮らしている間に、何か失礼なことでもしたようなら、どうか堪忍しておくんなさい』
「それで、旦那、どうでしょう? 奴さん行ってしまったのでございます。その日いちんち待って見て、夕方には帰ってくるだろうと思いましたが、帰って来ない! あくる日もそう、そのあくる日もやっぱりそうなんです。わっしはぎょっとしてしまいましたね。気がふさいでふさいでしょうがない、食も喉を通らず、夜も寝られないという有様です。奴さん私《ひと》をすっかり骨抜きにしてしまいやがった! 四日目にわたしはさがしに出かけて、居酒屋という居酒屋を覗いて廻っては、いちいちたずねて見ましたが、おりません、エメリヤーヌシカは姿を消してしまったのです! 『ひょっとお前さん、あの立派な首をどこかに吊したんじゃないかね』とわたしは考えました。『どこかの垣根の下で、酔っぱらったままくたばって、今頃くさった丸太ん棒みたいに転がってるのじゃないかね?』わっしは心配で生きた心地もなく家へ帰って来ました。そのあくる日も、やっぱりさがしに出かけようとはらをきめました。なんだっておれは、あの子供みたいな知恵しかない男を手放して、自分勝手に暮らさせるようなことをしたんだろうと、自分で自分を呪った次第です。ところが、五日目の夜の引明けに(ちょうど祭日でしたが)、ふと気がつくと、戸のぎいという音がするじゃありませんか。見ると、エメーリャが入って来るのです! 真っ青な顔をして、往来にでも寝たのか、髪や髭は泥だらけ、体は木《こ》っ片《ぱ》みたいに痩せさらばえているのです。ぼろ外套を脱いで、わっしの傍の長持ちに腰を下ろし、じっとわっしの顔を見ています。わっしは嬉しくてたまらないくせに、ふさぎの虫は前にも増して頭を持ち上げて来るのです。ねえ、旦那、そんなもんじゃありませんか。つまりですね、わっしの心に罪ふかい人間の弱味が湧いて来たら、わっしは正直にそういったでしょうよ、――いっそ犬みたいに野垂れ死にしてくれたほうがいい、帰って来てくれるな、とね。ところが、エメーリャは帰って来ました。さあ、しぜん人情として、そんな有様になったのを見るとたまりませんやね。わっしゃいたわったり、そやしたり、慰めたりし始めました。
『やれやれ、エメリヤーヌシカ、お前が帰って来たので安心したよ。もうちょっと帰りが遅れたら、今日もおれは居酒屋から居酒屋へお前をさがしに出かけるところだったよ。めしはすんだかね?』
『すみました、アスターフィ・イヴァーヌイチ』
『本当かね、すんだのかね? そら、お前、昨日の|きゃべつ汁《シチイ》がほんのぽっちり残ってるよ。牛肉入りで、空汁じゃないんだぜ。そら、ここにパンと葱もある。食べなよ、こいつあ元気をつけるのに無駄にゃならないから』
「そういって出してやると、さあ、まる三日なんにも食べなかったように、がつがつとやり出すじゃありませんか。つまり、ひもじさにおれのところへ来たんだな、と合点がいきました。その哀れな風態を見ているうちに、わっしもすっかり気が折れちまって、『ひとつ酒屋ヘ一つ走り行って、びん詰でも取って来てやるかね。取って来て、気晴らしをさせ、いざこざにけりをつけよう、もうあんなことはたくさんだ!』と考えました。
『エメリヤーヌシカ、もうおれはなんにもお前に腹なんか立てちゃいないよ! さあ、酒を取って来たぜ。さあ、エメリヤン・イリッチ、祭日を祝って一杯やろうじゃないか。飲まないか? こいつは元気がつくぜ』
「エメリヤンは手を伸ばしかけました。がつがつとした様子で手を伸ばして、杯を今にも取ろうとしましたが、急にその手を引っ込めました。見ていると、しばらく待ってから、また杯を取って、口ヘ持って行こうとする拍子に、酒を袖の上へこぼしました。が、それでも口のはたへ持って行った、と思うとすぐにテーブルの上へ戻しました。
『どうしたんだね、エメリヤーヌシカ?』
『いや、なに、わたしは、その……アスターフィ・イヴァーヌイチ』
『飲まないとでもいうのかね?』
『ええ、わたしはね、アスターフィ・イヴァーヌイチ、もうその……これからは酒を断とうと思ってね、アスターフィ・イヴァーヌイチ』
『何かね、エメーリュシカ、もうすっかりやめる決心をしたのか、それとも今日だけ飲まないというのか?』
「返事がない。見ていると、しばらくして頭を肘突きした手の上に落としました。
『どうしたんだね、ひょっと病気にでもなったのじゃないかね、エメーリャ?』
『ええ、ちょっと、気分がすぐれなくなって、アスターフィ・イヴァーヌイチ』
「わっしはやつを抱いて、寝床にねかせました。見ると、本当にわるいんです。額はかっかとして、体はおこりにでもかかったようにがたがた慄えている。わたしは一日その傍についてやりましたが、夜になるとますますいけない。わっしはクワスにバターと葱をまぜて、それにパンを砕いたのを入れて、『さあ、重湯ができたから飲みなさい、気分がよくなるかもしれないよ!』というと、首をふって、『いいえ、今日はなんにも食べますまい、アスターフィ・イヴァーヌイチ』という。わっしは先生にお茶を入れてやるやら何やらで、お婆さんまでへとへとにさせてしまいましたが、――いっこうに験《ききめ》がない。いや、こいつはいけないぞ! と思って、三日目の朝、お医者を呼びに出かけました。近所にコストプラーヴォフという馴染みのお医者がおりましたので。それは以前、わっしがボソミャーギンというお邸にいた時分、わたしを治療してくれて馴染みになったわけでございます。お医者はやって来て、ちょっと見るなり、『こりゃいけない、だいぶ悪いぞ。何もわざわざわたしを呼びに来るがものはなかったのだ。まあ、散薬でもやっとくんだな』という挨拶です。が、わっしは散薬などやりはしませんでしたよ、医者がいい加減なことをいってるんだ、と思いましてね。とかくするうちに、五日目の日がやって来ました。
「エメーリャはずっとねたっきりでね、旦那、わっしの見てる目の前で、息を引き取ったのでございます。わっしは窓に腰かけて、手には仕事を持っておりました。お婆さんは、煖炉を焚いていましたっけ。みんな黙って口をききません。わっしは、旦那、この極道者がかわいそうで、胸が張り裂けそうなのです。まるで生みの息子でも埋葬するような気持ちなので。今エメーリャがわっしの顔をじっと見ているのはわかっておりました。一生懸命に気力をふるって、何かいおうとしながらも、どうやらその勇気がないらしい、それはもう朝からちゃんと見えていました。とうとう、わっしも思い切って先生の顔を見ました。すると、その日にはなんともいえぬつらそうな気持ちが一杯で、わっしから一刻も目を離さずにいるのです。ところが、わっしと目が合うと、すぐ瞼を伏せてしまいました。
アスターフィ・イヴァーヌイチ!』
『なんだね、エメーリュシカ?』
『どうでしょうねえ、たとえば、わたしのぼろ外套を古着市場へ持って行ったら、どれくらいに買ってくれるでしょうねえ。アスターフィ・イヴァーヌイチ?」
『そうさね、どれくらいに買ってくれるか知らないが、もしかしたら三ルーブリもよこすか知れないよ、エメリヤン・イリッチ』
「もし本当にあれを持って行ったら、びた一文出そうとしないで、こんなやくざものを売りに来るとは図々しいなどと、面と向かって笑いぐさにされるくらいが落ちでさあね。ただわっしはこの神様のように正直な人間の性分を知っているものですから、気休めにそういったまでなのです。
『わたしもね、アスターフィ・イヴァーヌイチ、銀貨で三ルーブリには買ってくれるだろうと思ってましたよ。なんといってもラシャものですからね、アスターフィ・イヴァーヌイチ。でも、ラシャものを三ルーブリでどうですかねえ?』
『わからないね、エメリヤン・イリッチ、もし持って行くとしたら、そりゃもちろん、のっけに三ルーブリと切り出すんだな』
「エメーリャはしばらく黙っていましたが、やがてまたわっしを呼びます。
アスターフィ・イヴァーヌイチ?』
『なんだね、エメリヤーヌシカ?』
『わたしが死んだら、あの外套を売ってくださいよ、わたしに着せて葬らないでね。わたしはこのまま埋めてもらいますよ。あれは金目のものだから、ひょっとしたらあなたの役に立つかも』
「その時わっしは心の臓でもちくりと刺されたような、なんともいえない気がしました。見ると、断末魔の苦しみが始まりかかっている様子です。二人はまた黙りこんでしまいました。こんなふうにして、かれこれ一時間ばかりも経つたでしょうか。わっしはまた先生のほうへ目を向けると、やはり相変わらずわっしを見つめていましたが、目と目が合うと、また瞼を伏せました。
『水でも飲みたくはないのかね、エメリヤン・イリッチ?』というと、
『もらいましょう、アスターフィ・イヴァーヌイチ、あなたのお心まかせに』
「わっしは水をやりました。ひと口飲むと、
『ありがとう、アスターフィ・イヴァーヌイチ』
『まだ何かほしいものはないかね、エメリヤーヌシカ?』
『いいえ、アスターフィ・イヴァーヌイチ、もうなんにも要りません、ただわたしはあの……』
『なんだね?』
『例の……』
『いったいなんだね、エメーリュシカ?』
『ズボン……例の……あれはあのときわたしが取ったので……アスターフィ・イヴァーヌイチ……』
『なあに、神様がゆるしてくださるよ、エメリヤーヌシカ、本当にお前はなんて不仕合わせな人間だろう! 迷わずにあの世へ行ってくれ……』というわっしも、旦那、喉がつまって、目からは涙がぽろぽろ出て来るじゃありませんか。わっしはちょっと顔を横に向けようとすると、
アスターフィ・イヴァーヌイチ……』
「見ると、エメーリャはまだ何かいいたそうにして、自分で体を持ち上げながら、一生懸命に唇をもぐもぐさせていましたが、急に顏を真っ赤にして、わっしを見つめるのです……と、不意にまたさっと血の気がひいて、あっという間にぐたりとなりましてね、首をうしろへがっくりさせて、一つ息をついたと思うと、そのまま魂を神様にお返ししましたよ」………………………………………………………………………………………………………………………………



底本:「ドストエーフスキイ全集2」河出書房新社
   1970(昭和45)年8月25日初版
入力:いとうおちゃ
校正:
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