京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『人妻と寝台の下の夫』1  (『ドストエーフスキイ全集2 スチェパンチコヴォ村とその住人』P273―P289、1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

人妻と寝台の下の夫
フョードル・ドストエーフスキイ
米川正夫

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(例)彼女《あれ》

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(例)今夜|仮面舞踏会《マスカラード》

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(例)[#「コの字形」に傍点]

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(例)「〔Predestine'〕(これは前世の約束事だ)」

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[#6字下げ]1

「あなた恐れ入りますが、ちょっとおたずねします……」
 通行の人はぴくりとなって、いくらか慴えたように振り返った。見ると、晩の七時過ぎに往来の真ん中で、いきなりこんなふうに問いかけた男は、洗い熊の毛皮外套を着た紳士であった。すでに周知のごとく、もしペテルブルグの往来で、だれかがまるで見ず知らずの人に話しかけたら、その相手は必ずぴくりとなるにきまっているのだ。
 かような次第で、通行の人はぴくりとなり、いくらか慴えた様子であった。
「ごめんなさい、突然なにしまして」と洗い熊の紳士はいった。「しかし、わたしは……どうも、まったく、なんと申したらいいか……あなたはたぶん、わたしの失礼をゆるしてくださることと思いますが、ごらんのとおり、わたしはいくぶん取り乱しておりますので……」
 その時はじめて、裾長の毛皮外套を着た青年は気がついたのだが、洗い熊の紳士はまさに取り乱した様子であった。皺のよった顔はあおざめて、声は慄え、頭は明らかに混乱しているらしく、言葉が思うように口から出ないのであった。見うけたところ、おそらく階級なり身分なりからいって、自分より下だろうと想像される人に、辞を低うしてものを頼むということと、是が非でもだれかに頼まなければならぬ差し迫った必要とを、自分の気持ちの中でしっくり調和さすのが、彼にとっては非常な努力を要するらしかった。それに、第一、いずれにしてもこの頼みなるものが、こんな堂々たる外套をまとい、すばらしい暗緑色の燕尾服を着用に及び、その燕尾服のそこここにものものしげな飾りを一面につけた紳士としては、ぶしつけで軽々しく、いかにも奇妙な依頼なのであった。そういった事情が当の洗い熊の紳士を気まり悪く感じさせているのは、一見して明瞭だった。そういうわけで、取り乱した紳士はとうとうもち切れなくって、興奮した気持ちを抑えつけ、自分のほうから始めたこの不快な場面を、体裁よく揉み消してしまおうとはらをきめた。
「どうも失礼、わたしは気が顛倒しておりますので。しかし、まったくのところ、あなたはわたしという人間をごぞんじないでしょうが……いや、とんだお手間を取らせて申しわけありません、わたしは考えを変えましたから」
 こういって、彼は慇懃に帽子を持ちあげ、走るように向こうへ行ってしまった。
「でも、しかし、失礼ですが」
 にもかかわらず、小柄な紳士は闇の中に姿を隠し、裾長の毛皮外套を着た青年は呆気にとられて、その場に置き去りにされた。
「奇妙な男だな!」と毛皮外套の青年は思った。ややあって、いい加減あきれ返った後で、ついに棒立ちの状態から我に返ると、青年は自分の用事を想い起こし、幾階とも知れぬ高い建物の門をじっと見つめながら、あちこちと歩き廻りにかかった。そのうちに霧が降りて来はじめたので、青年は幾らかほっとした。というのは、彼のそぞろ歩きも霧の中ならさほど目に立たず、ただ気がつくのは、いちんち当てもなく辻待ちをしている馬車屋くらいなものだからである。
「ごめんなさい!」
 青年はまたもやぎくりとした。例の洗い熊の紳士が再び目の前に立っているではないか。
「ごめんなさい、またぞろわたしは……」と彼はいい出した。「でも、あなたは、あなたは、――たぶん高潔な人でしょう! どうかわたしのことを、何か社会的な意味を持った人物と見ないで、とくべつ注意を払わないようにしていただきたいので。もっとも、わたしはとりとめないことばかり……しかし、あなた察してください、人間的な気持ちでね……あなたの前に立っているのは、ぜひともあることで折り入ってお願いしなけりゃならん人間なので……」
「もしぼくにできることでしたら……いったいどういうご用なのです?」
「あなたはもしかしたら、金の無心でもしはせんかとお思いになったのじゃありませんか!」と謎の紳士は口を歪め、ヒステリックな笑い声を立て、さっとあおざめながらこういった。
「とんでもない」
「いや、ちゃんとわかっています。あなたはわたしが厄介なんでしょう! どうかごめん、わたしは自分で自分を持て余してるんです。今ごらんになっているわたしは頭が混乱してしまって、ほとんど発狂状態になっているということをお含みの上、何か変な結論を下さないでいただきたいので……」
「しかし、用談に移ってください、用談に!」と青年はじれったそうな様子で、励ますように頭を一つ振って答えた。
「ははあ! 今度はもうそういうことになったのですか! あなたはお若いが大したものですな、まるでわたしが横着な小僧っ子ででもあるように、用談用談と催促されるんですからなあ! わたしはすっかりぼけてしまった!………わたしが今こんな情けない有様になっているところをごらんになったら、あなたどうお思いになります? 遠慮のないところを聞かせてください」
 青年はどぎまぎして、口をつぐんだ。
「では、ざっくばらんにおたずねしますが、あなたは一人の婦人をごらんになりませんでしたか、これがわたしのお頼みの全部なんで!」ついに洗い熊の紳士は断固として切り出した。
「婦人?」
「さよう、一人の婦人です」
「そりゃ見ましたが、しかし、正直なところ、ずいぶん大勢通りましたから……」
「まさにそのとおりです」と謎の紳士は悲痛なほほ笑みを浮かべながら答えた。「わたしはとりとめのないことばかりいっています。わたしのおたずねの仕方が少々的はずれだったんです、ごめんなさい。実はわたしのおたずねしたかったのは、――あなた、狐の毛皮外套を着た一人の婦人をお見かけになりませんでしたか、黒っぽいビロードの頭巾をかぶって、黒のヴェールを垂らした?」
「いや、そういうひとは見かけませんでした……いや、たしか気がつかなかったようです」
「ああ! そういうことでしたら、失礼しました!」
 青年は何やらきこうとしたが、洗い熊の紳士はまたもや姿をかくし、辛抱づよい聴き手は再び棒立ちになったまま取り残された。『なんだ、あん畜生、いまいましい!』と裾長の毛皮外套を着た青年は心に思ったが、明らかに気分を掻き乱されたふうであった。
 彼はいまいましげに、海狸の襟を立てて、またもや闇の中へ無限にそそり立つ建物の門前を、用心しいしいぶらつき始めた。
『どうして彼女《あれ》は出て来ないのだろう?』と彼は考えた。『もうすぐ八時になるのに!』
 塔の時計が八時を打った。
「あっ! こん畜生、もう我慢がならん」
「ごめんなさい!………」
「いや、失礼しました。どうもあなたをあんなふうに……でも、あなたがひどい勢いでぼくのそばへ駆けつけられたもんだから、すっかりびっくりしてしまいましたよ」と青年は顔をしかめながらあやまった。
「わたしはまたやって来ましたよ。もちろん、あなたの目から見たらわたしは落ちつきのない妙な男に見えるに相違ありますまいが」
「どうかお願いですから、つまらんことは抜きにして、早くいってください。ぼくはまだあなたのお望みが何なのか知らないんですからね……」
「あなたお急ぎですか? 実はですな、じゃ余計なことをいわないで、何もかもあけすけにお話ししましょう。こうなったら仕方がありません! その時々の事情というものは、どうかすると、まるでちがった性格の人間を結び合わすもんですなあ……しかし、お見うけしたところ、お若いの、あんたは気が短かそうですな……さて、その……だが、なんといって話したらいいか、それさえ見当がつきかねますよ。わたしはある婦人をさがしているんです(わたしはもう一切合財ぶちまけることにはらをきめましたからね)。つまり、わたしはその婦人がどこへ行ったか突き留めなきゃならんのです。その婦人がだれかってことは――なんという名かってことは、お若いの、あんたとして何も知る必要はあるまいと思いますが」
「いや、まあ、それから!」
「それから、ですって! それは、あんた、わたしに向かってなんという調子です! いや、失礼、もしかしたら、わたしがあなたを『お若いの』といったので、それで腹を立てておられるのかもしれませんな。しかし、わたしは何も心あって、要するに、もしあなたがわたしに一つ大きな恩をかけてやろうという思し召しがあったらですな、その、なんです、一人の婦人、といって、つまり、れっきとした、良家の婦人ですが、わたしの知人の奥さんで……わたしは、その知人から委任を受けてるんです……わたし自身は、おわかりでしょうが、家庭を持っておらん人間でして……」
「で?」
「まあ、わたしの立場になって見てくださいませんか、お若いの(やっ、また! 失礼しました、どうもわたしはあなたのことを始終『お若いの』という癖があって)、今は一刻一刻が貴重な時ですからな……まあ、考えても見てくださいよ、その婦人が……ところで、この建物にはだれが住んでいるか、教えていただけませんかね?」
「しかし……この中には大勢の人が住んでいるから」
「さよう、さよう、いや、なるほどごもっともです」と洗い熊の紳士は体面を保つために軽く笑って、こう答えた。「わたしはいささか辻褄の合わんことをいっている、それは自分でも感じますよ……が、それにしても、どうしてそんな調子で口をきかれるんです? ごらんのとおり、わたしは自分が辻褄の合わんことをいってるのを、いさぎよく自認しているじゃありませんか。よしんばあなたが高慢な人だとしても、わたしがいかに身を卑下してるかってことは、もう十分にその目でごらんになったはずです……そこで、わたしがいうのは、ある一人の婦人、それは品行方正な淑女ですが、その、内容がいささか軽い、――や、失礼、わたしは辻褄の合わんことばかりいって、まるで小説の話でもするような言葉使いをしてしまいましたな。そら、よくポール・ド・コックは内容が軽いというもんだから。しかし、そもそものことの起こりはみんなポール・ド・コックなんで……その……」
 青年は憐むように洗い熊の紳士をながめた。こちらはどうやら、すっかりまごついてしまったらしく、言葉をとめて、意味もなくにやにや笑いながら相手の顔を見つめ、なんの理由もないらしいのに、慄える手で裾長外套の襟をのべつつかむのであった。
「ここにだれが住んでいるかとおたずねになるんですね?」と青年はちょっと後ずさりしながらきいた。
「さよう、すると、あなたは大勢の人が住んでいるといわれた」
「ここには……ソフィヤ・オスターフィエヴナもやはり住んでいます、それはわたしも知っていますよ」と青年は何か同情らしいものさえ響かせながら、ささやくようにこういった。
「そら、ね、ごらんなさい、ごらんなさい! お若いの、あなたはやっぱり何か知っておいでなんだ」
「誓っていいますが、それは違います。ぼくなんにも知りゃしません……ただぼくはあなたの取り乱した顔つきから推して」
「わたしはね、その婦人がこの家へ出入りしてるってことを、女中から聞いたんです。しかし、あなたの推量は、外れましたよ。つまり、ソフィヤ・オスターフィエヴナのとこへ出入りしてるんじゃありません……その婦人はソフィヤ・オスターフィエヴナとは近づきじゃないから」
「お近づきじゃない? これは失礼……」
「お見うけしたところ、あなたはこんな話なんか面白くなさそうですな、お若いの」と不思議な紳士は苦い皮肉の調子でいった。
「ねえ」と青年は口ごもりながら切り出した。「ぼくは正直なところ、あなたがそんなふうになってらっしゃる原因を知りませんが、きっとあなたは奥さんを寝取られたんでしょう、ざっくばらんにおっしゃいよ」
 青年はわが意を得たりというように莞爾と笑った。
「少なくとも、われわれはおたがい同士、理解できそうですね」と彼はつけ加えたが、その体は軽い会釈をしたそうな動作を示した。
「あんたはとうとうとどめを刺しましたな! しかし、――正直に白状しますが、――まさにそのとおりです……しかし、それは、だれだって有りがちのことですからなあ!………ご同情しんから感謝に堪えません。ねえ、そうじゃありませんか、若いもの同士は、もっとも、わたしはもう若くはないけれど、おわかりでもありましょうが、習慣になってしまって。独身生活をしているものだから、独身もの仲間とつき合っていると、ご承知のとおり……」
「いや、そりゃもうわかっていますとも、わかっていますとも! ですが、どうしたらお役に立つのでしょう?」
「そこでですな、あなたもご異存ないことと思いますが、ソフィヤ・オスターフィエヴナを訪問するということは……もっとも、その婦人がどこへ行ったかってことは、わたしも確かには知らないんです。ただその婦人がこの家の中にいることだけはわかっています。ところで、あなたがぶらぶらしておられる姿を拝見して、――わたしも向こう側をぶらぶらしておりましたのでな、――考えたわけです……わたしは、その、ご承知のとおり、その婦人を待っているので……その婦人がここにいるのは確かに知っています、――わたしはその婦人に会って、いって聞かしてやりたいのです、そんなことをするのは体面に関する、いまわしいことだ、と……まあ、ひと口にいえば、あなたお察しがつくでしょう……」
「ふむ! で?」
「しかし、わたしは自分のためにこんなことをしてるんじゃありませんよ、どうか変なことをお考えにならんで、――それは人の細君なんですからね! 亭主はついそこに、ヴォズネセンスキイ橋の上に立っております。先生、自分で現場を押えたいんですが、はっきり決心がつかんので、――どこの亭主も同じことですが、まだ本当には信じておらんのです……(といって、洗い熊の紳士はにやっと笑いかけた)。わたしはその男の親友でしてな。お察しでもありましょうが、わたしは相当に人から尊敬されておる人間で、――あなたが考えておられるような人間であろうはずがないのです」
「もちろんですとも、それで、それで?」
「そこで、つまり、わたしはその婦人をさがしておるわけです、委任を受けたものですからな(亭主はかわいそうなもんですよ!)、しかし、わたしにはちゃんとわかっとりますが、その若い婦人はなかなかずるいから(なにしろ、年中ポール・ド・コックを、枕の下に忍ばせておるんですからな)、きっとどうにかうまく、つるりとすべり抜けるに相違ありません……実のところ、その婦人がここへ出入りしておるということは、女中から聞いたんでしてな。わたしは、その情報を手に入れるやいなや、気ちがいのように飛び出して来たんです。現場を押えてやろうと思いましてな。もう前から臭いと思っておったんだから。そこで、お願いなのですが、あなたはここを歩いていらっしゃるから……あなたは、――あなたは、――いや、どうもなんといっていいかわかりません……」
「ええ、もういい加減にいってもらいたいもんですね、いったいあなたはどうしてほしいんです?」
「さよう……わたしはあなたとお近づきの光栄を有しませんから、あなたがどなたで、なんのために……なんてことをおたずねするのははばかりますが、いずれにしても、お近づきにならしてください、ちょうどいい機会ですから!」
 紳士は身を慄わせながら、青年の手を固く握って振り立てた。
「これは一番はじめにしなけりゃならんことでしたな」と彼はつけ加えた。「しかし、わたしは礼儀も作法も忘れてしまって!」
 こういいながらも、洗い熊の紳士は一刻もじっと立っていることができず、不安げに四方を見廻し、足を小刻みに動かして、まるで溺れかかったもののように、絶えず青年の手をつかむのであった。
「実はですな」と彼はつづけた。「わたしはあなたに親友としてご相談したいんですが……勝手なことを申して失礼ですが……一つお願いと申しますのは、あなたに歩きながら見張っていただきたいので。通りの向こう側と、それから裏階段の口になっている横町のほうとを、コの字形[#「コの字形」に傍点]を描きながら歩いていただけませんか。わたしは表玄関のほうを歩いて見張ることにします。そうすれば、見のがすこともないでしょう。一人じゃどうも見のがしそうな気がして。ところが、見のがしたら大変なんです。あれが見つかり次第ひきとめて、大きな声でわたしを呼んでください……しかし、わたしはまるで気ちがいみたいだ! 今になって初めて気がつきましたが、わたしのお願いは実に馬鹿げていて、ぶしつけ千万でしたよ!」
「いや、べつに! とんでもないことですよ!………」
「どうかわたしに容赦しないでください、わたしは頭がめちゃめちゃになって、何がなんだかわけがわからんのだから。こんなことって、今までついぞなかったんですがなあ。まるで裁判でも受けてるような気がしますよ! わたしはあなたに告白さえしかねませんよ、お若いの、――わたしはいさぎよくあなたにうち明けてしまいますが、わたしはあなたを情夫かと思ったくらいですよ!」
「というと、つまり、ざっくばらんにいえば、あなたは、ぼくがここで何をしているか知りたいのでしょう?」
「いや、あなたは潔白な方です。今となってはわたしも、あなたがそう[#「そう」に傍点]だなんて考えはもうとうもっちゃおりません。そんな疑いであなたの顔に泥を塗ろうとは思いません。しかし、……しかし、あなたは、本当に情夫でないと立派に誓ってくれますか?………」
「なあに、いいですとも、誓っていいますが、ぼくは情夫です。が、あなたの奥さんのじゃありませんよ。さもなければ、ぼくは今頃こんな往来なんかに立ってないで、彼女のそばにいるはずですからね!」
「わたしの家内のだって? わたしの家内なんて、だれがそんなことをいいました? わたしは独身者なんです、いや、わたし自身が情夫なんですよ……」
「しかし、あなたはそういったでしょう、亭主がいるって……ヴォズネセンスキイ橋の上に……」
「もちろん、もちろん、わたしもいい間違いをしますよ。しかし、そのほかにも、男と女を結びつける絆はありますからな! いや、お若いの、あなたもわかってくださるでしょうが、中には軽はずみな性格の持主もあって、いや、つまり……」
「いや、まあ、いいですよ、いいですよ!」
「つまり、わたしは断じて亭主じゃないので……」
「そりゃ正真正銘、間違いないでしょう。しかし、歯に衣着せずにいいますと、ぼくはあなたの疑いを解くとともに、自分で自分を落ちつけようと思うので、それでつまり、あなたに対してうち明けた態度を取る次第です。あなたは、ぼくの気分をめちゃめちゃにしてしまって、おまけに、ひとの邪魔をしてるんです。ぼくあなたを呼ぶことを約束しますから、ただひとの邪魔をしないで、向こうへ離れてください、折り入ってお願いします。ぼくもやっぱり人を待ってるんですからね」
「よろしい、よろしい、離れますとも、あなたの燃え立つばかりの熱情に敬意を表してね。わたしだってそれくらいのことはわかりますよ、お若いの。今となったら、わかりすぎるくらいわかりますよ!」
「もういいです、いいです……」
「さようなら!………もっとも、失礼ですが、お若いの、またやって来ましたよ……なんといったらいいかわかりませんが……高潔な人間としてもう一度立派に誓ってください、あなたは情夫じゃないんですな!」
「あっ! まあ、いったいなんてこった!」
「そして、最後にもう一つだけ問いを許してくれませんか、あなたは自分は……つまり、なんですな、自分の熱情の対象となっている女の亭主の姓をごぞんじですか?」
「もちろん、知っていますとも、ただしあなたの姓じゃない。さあそれでもう話はおしまいでしょう!」
「どうしてわたしの姓をご承知です?」
「ねえ、いい加減にして行ってくれませんか。あなたも時間を無駄にしてしまいますよ、この間に女は悠々と行ってしまうじゃありませんか……ちぇっ、いったいあなたはどうしたというのです? ねえ、あなたの女は頭巾つきの狐の外套を着てるでしょう、ところがぼくのほうは格子縞のマントを着て、空色のビロードの帽子をかぶってるんですからね……さあ、この上あなたは何が必要なんです? どうしてほしいというんです?」
「空色のビロードの帽子ですって? あれも格子縞のマントをかぶっているんだ」としつこい紳士はたちまち引っ返して来てこう叫んだ。
「ええ、こん畜生! だが、なるほど、こういうことだってあるかもしれないんだな……もっとも、ぼくは何をいってるんだろう? あれはあんなとこへ出入りしやしないもの!」
「そのひとはどこにいるんです、――あなたの愛人は?」
「あなたはそんなことが知りたいんですか、それをきいて何になさる?」
「正直なところ、わたしはどうしてもその……」
「ちぇっ、くそ! あなたはまるで恥ずかしいってことを知らないんだ。いやね、ぼくの女はこの家の三階の知人のとこへ来てるんでさあ、窓が表のほうに向いてるアパルトマンにね。さあ、いったいあなたはその人たちの名をいちいちいってほしいんですかね、え?」
「おやおや! わたしはこの家の三階に知人を持ってるんですよ。やはり窓が表に向いたアパルトマンに……将軍でね……」
「将軍ですって※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」
「将軍です。なんなら、どういう将軍か申し上げてもいいですよ。その、ポロヴィーツイン将軍というので」
「へえ! いや、それは違います(ええ、いまいましい! いまいましい!)」
「違いますか?」
「違います」
 両人はしばらく黙って、けげんそうに互いの顔を見合っていた。
「ねえ、いったいあなたはなんだってひとの顔をじろじろ見るんです?」青年はさもいまいましげに、茫然自失の状態から醒め、もの思いを振り落とそうとするような身振りでこう叫んだ。
 紳士はあわて出した。
「わたしは、わたしは、正直なところ……」
「いや、ごめん、失礼ですが、もうこうなったら、も少し悧巧な話し方をしようじゃありませんか。共通の問題ですからね。一つ説明していただきましょう……いったいあすこにいるのはだれです?………」
「といって、わたしの知人のことですか?」
「そう、あなたの知人のことです……」
「そら、ごらんなさい、そら、ごらんなさい! てっきり図星でしょう、あなたの目つきでちゃんとわかっとりますよ!」
「こん畜生! 違うったら違います、こん畜生! いったいあなたは盲目なんですか? だって、ぼくはあなたの前に立ってるんで、彼女といっしょにいるのと違うじゃありませんか。さあ! さあ、おっしゃいよ! しかし、あなたが話されようと話されまいと、ぼくにはおんなじことなんだから!」
 青年はかんかんになって、踵できりきりと二度ばかり廻って、勝手にしろというように片手を振った。
「なに、わたしは別に何も……とんでもない。わたしは潔白な人間として、何もかもお話ししますよ。はじめその婦人は一人でここへ来てたんです。その家族の親戚に当たるもんですからな。そこで、わたしも別段へんに思わなかった次第です。ところが、きのう閣下に出会ったところ、もう三週間も前にここを引き払って、ほかへ引っ越したといわれるじゃありませんか。ところが、さ……いや、妻《さい》じゃありません、他人の細君なんですが(ほら、ヴォズネセンスキイ橋の上にいる男の)、その婦人が、つい二、三日前にその家族を訪問したというのです。つまり、この家のアパルトマンにね……ところで、下女がわたしに教えてくれたんですが、その閣下の住居をボブイニーツインという青年が借りたそうで……」
「ええ、畜生、ええ、畜生!………」
「ねえ、きみ、わたしは心配で心配で!」
「ええ、畜生! あなたが心配で心配でたまらないからって、それがぼくの知ったことですか? あっ! そら、向こうに人影がちらっとした、ほら……」
「どこに? どこに? きみ、ただイヴァン・アンドレーイチとひと言よんでください、すぐに駆けつけますから……」
「よろしい、よろしい。ええっ、くそっ、いまいましい! イヴァン・アンドレーイチ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「ここにおりますよ」とイヴァン・アンドレーイチは、せいせい息を切らして引っ返しながら、こう叫んだ。「え、どうしました? 何事です? どこにいます?」
「いや、ただちょっと……その婦人は名前をなんというか、それが、ききたかったもんだから」
「グラフ……」
「グラフィーラですか?」
「いや、グラフィーラというわけでもありません……失礼ですが、あなたにその名をお教えするわけにいきません」
 こういった尊敬すべき紳士の顔は、麻布のようにあおざめていた。
「そう、もちろん、グラフィーラじゃありますまい。グラフィーラでないってことは、ぼく自分でも知っていました。それに、彼女もグラフィーラじゃないのです。が、それにしても、彼女はいったいだれといっしょにいるんだろう?」
「どこで?」
「あすこですよ! ええ、畜生、畜生!」(青年は憤怒のあまり、じっと立っていられなかった)
「そうら、ごらんなさい! その女の名がグラフィーラだってことを、どうしてきみはごぞんじでした?」
「ええっ、畜生、いよいよ我慢ができない! おまけにしち[#「おまけにしち」はママ]面倒くさい、あなたまで相手にしなきゃならないんですか! だって、あなたのほうはグラフィーラって名前じゃないと、自分でおっしゃったじゃありませんか!………」
「きみ、そりゃなんという調子です!」
「ええ、畜生、調子どころですかい! いったいその婦人はあなたの奥さんででもあるんですか?」
「いや、つまり、その、わたしは独身者なんですからね……しかし、それにしてもわたしだったら、不幸に陥っているれっきとした人物、あらゆる尊敬に値するとはいえないにしても、少なくとも教養ある紳士に対して、ひと口ごとに畜生を浴びせかけるような真似はしませんな。だって、きみはのべつ幕なしに、畜生! 畜生! を連発しておられるじゃありませんか」
「ふん、それなら、もう一つ畜生だ! さあ、どうです、これで得心がいきましたか?」
「きみは腹立ちまぎれに、目がくらんでおられるのだから、わたしは何もいわないことにしましょう。やっ、あれはだれだろう?」
「どこに?」
 騒々しい物音と高笑いの声が聞こえて、白粉を塗りたくった娘が二人、入口階段を下りて来た。二人の男はいっせいにそのほうへ飛んで行った。
「あらっ、なんて人たちだろう! あなた何用ですの?」
「なんだって人のそばへ寄ってらっしゃるの?」
「ちがった!」
「おや、お人違い! 馬車屋さん!」
「どちらへいらっしゃいます、お嬢さん?」
「ポクロフ。さあ、アンヌシカ、お乗んなさい、あたしが送ったげるわ」
「じゃ、あたしそっち側から乗るわね! よくて、馬車屋さん、速く走ってね……」
 辻待ち馬車は行ってしまった。
「あれはどこから出て来たんだろう?」
「ああ、大変だ! 一つあすこへ行って見るかな!」
「どこへ?」
「それ、あのボブイニーツインのところへ……」
「いや、だめです……」
「どうして?」
「そりゃ、もちろん、わたしだって行って見たいのはやまやまですが、その時には彼女《あれ》がまた別の文句をいうでしょう、あれは……うまくひらりと躱《かわ》すに相違ありません、わたしにはちゃんとわかっております! あれはきっとこういうでしょう、あなたがだれかといっしょにいるところを押えようと思って、それでわざわざ来たんですよ、とかなんとかね。そして、ひとに罪を塗りつけてしまうんだ!」
「でも、ひょっとしたら、あすこにいるかもしれませんよ! いったいあなたは、――ぼく合点がいかない、どうして、――さあ、いらっしゃいよ、その将軍のとこへ……」
「でも、将軍は移転してしまったんですよ!」
「おんなじこってすよ、そうじゃありませんか? だって、その婦人もやって来たんでしょう。ねえ、だから、あなたも同じようにさ、――わかったでしょう? こうしたらいいじゃありませんか、あなたは将軍が引っ越したのを知らないで、奥さんの迎えに来たような振りをする、そうすれば、後は自然に行きますよ」
「その後がですよ」
「なに、後はボブイニーツインのとこで、だれなりと、しかるべき男を取っちめるだけでさあね。ちぇっ、こん畜生、なんてわからず……」
「へえ、わたしが取っちめようとどうしようと、それがきみになんの関係があるんです? そらごらんなさい、そらごらんなさい!………」
「え、なんですって、なんですって? あなた、なんのことです? また前のお浚えですか? ああ、やれやれ! 本当に恥じっさらしですよ、なんておかしなわからずやだろう!」
「でも、きみはいったいなんのために、そう興味を持ちなさるんです? きみはしきりに知りたがってるじゃありませんか、その……」
「何を知りたがっています? 何を? ええ、こん畜生、今はあなたどころじゃありませんや! ぼくひとりで行って見るから、あなたは向こうへいらっしゃい、離れてください、あっちのほうを走り廻りなさるがいい、さあ!」
「きみ、きみはほとんど前後を忘れていますな!」と洗い熊の紳士は絶望の叫びを上げた。
「え、それがどうしたんです? ぼくが前後を忘れたのがどうしたんです?」青年は歯を食いしばり、狂気のごとく洗い熊の紳士に詰めよりながらこう口走った。「え、それがどうしたんです? だれのまえで前後を忘れたんです※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」と彼は両の拳を握りしめながらどなりつけた。
「しかし、きみ、失礼ですが……」
「さあ、いったいあなたは何者です、だれの前でぼくが前後を忘れているというんです? あなたの苗字はなんというのです?」
「いや、お若いの、それはどういうことかわかりませんな、なんのために苗字なんか?……そんなこというわけにいきません……それより、わたしはきみといっしょに行きますよ。さあ、昇りましょう、わたしはあなたの傍を離れやしないから。もうどんなことでもやってのける覚悟ですよ……しかし、誓って申しますがね、わたしはもっと慇懃な言い方をしてもらってもいい人間なんですよ! どんなことがあっても、心の落ちつきというものを失くしちゃいけません。よしんば、きみが何かで逆上しておられるにもせよ、――その、何かってことは推察していますがね、――それにしても、心の落ちつきを失くしちゃいけませんて……きみはまだ非常に非常に、お若いのだから!………」
「へん、あなたが年寄りだからって、それがぼくにどうしたっていうんです! 珍しくもない! あっちへ行ってください、何をこんなところでちょこちょこしてるんです?………」
「どうしてわたしが年寄りなんです? いったいわたしがどんな年寄りだというのです? もちろん、社会上の地位からいえばそうですが、しかしわたしはちょこちょこなんかしてやしません……」
「そりゃもうちゃんと見えていますよ。さあ、あっちへ行ってくださいというに……」
「いや、わたしはきみといっしょにいます、きみはそれを差し留めるわけにいきません。わたしもやっぱりこの事件には関係があるんだから。わたしはきみといっしょに……」
「ちぇっ、それなら静かにしてくださいよ、静かに、黙って!………」
 二人はうちつれて入口を通り、三階さして階段を昇って行った。三階は真っ暗であった。
「ちょっと! マッチがありますか?」
「マッチ? マッチてなんです?」
「あなたは煙草を吸わないんですか?」
「あっ、そうだ! あります、あります。そら、ここに、ここに。ええと、待ってください……」洗い熊の紳士はごそごそし始めた。
「ちぇっ、なんてわからず……畜生! どうやらこの戸口らしい……」
「これ、これ、これ……」
「これ、これ、これ……なんだって、そうわめくんです? 静かに!………」
「きみ、わたしはじっと胸をさすっておるんですぞ……なんてきみは失敬なんだろう、ほんとうに!……」
 ぱっと火が燃えあがった。
「ああ、やっぱりそうだった、ここに標札がある! ほら、ボブイニーツイン、ごらんなさい、ボブイニーツインですよ!……」
「わかりましたよ、わかりましたよ!」
「しいっ! どうしました、消えたんですか?」
「消えたんです」
「戸を叩かなくちゃ駄目でしょう?」
「ええ、叩かなくちゃ!」と洗い熊の紳士が応じた。
「お叩きなさいよ!」
「いや、なんだってわたしが? きみからさきにお始めなさい、きみが叩いたらいいでしょう……」
「臆病者!」
「きみこそ臆病者ですよ!」
「ええ、あっちい行ってください!」
「わたしはあなたなんかに秘密をうち明けたのを、ほとんど後悔していますよ。あなたは……」
「ぼくが? いったいぼくがどうしたというんです?」
「きみはわたしが取り乱しているのを利用したんです、きみはわたしが取り乱しているのを見て……」
「ばかばかしい! ぼくはおかしいだけだ、――それっきりですよ!」
「じゃ、なぜきみはここにいるんです?………」
「あなたこそなぜです?………」
「立派な行状ですな!」と洗い熊の紳士は憤然としていった……
「おや、なんだって行状を云々なさるんです? あなたはいったいなんだというんです?」
「それがよくない行状なんですよ!」
「なんですって※[#疑問符一つ感嘆符二つ、ページ数-行数]……」
「なにね、きみの目から見たら、顔に泥を塗られた亭主はだれもかれも、みんなおめでたいやつなんでしょうよ!」
「おや、いったいあなたは亭主なんですか! だって、亭主はヴォズネセンスキイ橋の上にいるんでしょう? あなたはいったい何用があるんです? なんだってしつこくつきまとうんです?」
「実はね、どうもきみこそほかならん情夫のような気がするんですよ!………」
「ねえ、もしあなたがそんな調子でつづけるんだったら、ぼくも余儀なく正直なところをいわなくちゃなりませんね、あなたこそおめでたい奴さんだ、とね! つまり、それで何かごぞんじですかね?」
「つまり、わたしが亭主だといいたいのでしょう!」まるで煮え湯でも浴びせられたように、たじたじと後ずさりしながら、洗い熊の紳士はこういった。
「しっ! 黙って! 聞こえるでしょう……」
「彼女《あれ》だ」
「ちがいます!」
「ちょっ! なんて暗いんだろう!」
 あたりはひっそりとなった。ボブイニーツインの住居で物音がし始めた。
「ねえ、きみ、なんだってわれわれは喧嘩なんかしてるんでしょう?」と洗い熊の紳士はささやいた。
「だって、あなたのほうがさきに腹を立てたんじゃありませんか、いまいましい!」
「しかし、きみが堪忍袋の緒を切らすんですからなあ」
「お黙んなさい!」
「きみがまだ非常に若い人だってことには、自分でも異存ないでしょう……」
「お、だ、まん、なさい!」
「もちろん、こんな状態にある亭主がおめでたい奴さんだというきみのお考えには、わたしも異存ありません」
「いったいあなたはいつになったら黙るんです? ええっ……」
「しかし、不幸な夫をなんだってそう意地わるく、いじめるんでしょう?………」
「あっ、あれだ!」
 けれど、物音はその瞬間にぴたりとやんだ。
「あれですって?」
「あれだ! あれだ! あれだ! しかし、あなたはなんのためにばたばたするんです? あなたの問題じゃないじゃありませんか!」
「きみ、お若いの!」洗い熊の紳士は真っ青になって、啜り泣きしながら、つぶやくのであった。「わたしはもちろん、取り乱しています……きみもわたしの恥じっさらし振りを見られたわけです。しかし、今はもちろん、夜ですが、明日になったら……といっても、明日はきっとお目にかかることはないでしょうな、もっとも、わたしはきみにお会いするのを恐れはしませんがね、――しかし、そうはいっても、それはわたしのことじゃないので、ヴォズネセンスキイ橋の上で待っているわたしの友人なんですがね、――まったくそうなんです――それはこの友人の細君なんで、つまり、人妻なんです! 不仕合わせな男でしてなあ! まったくの話です。わたしはその男とごく親しくしておりますから、なんなら、すっかり詳しい事情をお話ししましょう。おわかりのように、わたしとその男とは親友同士なんです。さもなければ、他人のために今こうしてやきもきするはずがないじゃありませんか、――ご同感でしょう。わたしはもう幾度もその男にいってやったんですよ、なぜきみは結婚なんかするんだね。社会上の身分もあれば、財産もあり、人からも尊敬されているきみなのに、それをなんだって一婦人の気まぐれに見替えるんだね、って! そうでしょう! ところが先生、いや、結婚する、家庭の幸福がほしい、といったもんですが……その家庭の幸福がこれなんですからな! はじめ自分でよそのご亭主たちをだましたもんだから、今度は自分が苦い杯を飲まなくちゃならない……いや、ごめんなさい、こういううち明け話もつい必要に迫られたからで!………その男は不仕合わせなやつですよ、こんな苦杯を飲まされて、――そういったわけですよ!………」この時、洗い熊の紳士はひいと一声すすり上げたが、それは冗談でなく本当の慟哭らしかった。
「ええ、畜生、そんなやつ、みんな鬼に掠われちまえ! 世間にゃ馬鹿なやつなんか珍しかありゃしない! しかし、あなたはいったい何者なんです?」
 青年は憤怒のあまり歯をぎりぎりと鳴らした。
「いやはや、もうこうなっちゃ、どうも……わたしはきみに対して高潔な態度を取って、ざっくばらんにお話ししたのに……そんな調子でものをいうなんて!」
「いや、ちょっと、失礼ですが……あなたの苗字はなんというのです?」
「いやです、苗字なんてなんのために?」
「ああ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「わたしは苗字をいうわけにいきません……」
「シャーブリンをごぞんじですか?」と青年は早口にいった。
「シャーブリン※[#感嘆符三つ、ページ数-行数]」
「そうです、シャーブリンです、ああ※[#感嘆符三つ、ページ数-行数] (このとき裾長の毛皮外套を着た青年は、いくらか洗い熊の紳士をからかったのである。)これで事情がわかりましたかね?」
「いや、いったいシャーブリンてだれです!」おじ気づいた洗い熊の紳士はこう答えた。「けっしてシャーブリンや何かじゃありません、それは身分ある紳士ですからね! そういう失礼も、嫉妬の悩みから出たものとして、あえて咎めだてしますまい」
「あいつは悪党で、変節漢で、収賄官吏で、おまけに金庫の金をくすねやがったんです! 今に裁判所へ引っぱり出されるんだから!」
「失礼ながら」と洗い熊の紳士は顔色を変えながらいった。「きみはその人を知らないんだ。見うけたところ、まるっきりごぞんじないらしい」
「面識こそないけれど、別に確かな筋からちゃんと知っていますよ」
「きみ、確かな筋って、いったいどういうことです? ごらんのとおりわたしは取り乱しているので……」
「馬鹿野郎だ! やきもち焼きだ! 女房の監督もできないくせに! やつはそういう男ですよ、もしお望みなら申しますがね!」
「失礼だが、お若いの、きみはひどい思い違いをしていますぞ……」
「やっ!」
「やっ!」
 ボブイニーツインの住居で騒々しい物音が起こった。戸を開ける気配がし、人声が聞こえて来た。
「ああ、こりゃ違うぞ、あれじゃない! わたしはあれの声ならすぐわかるんだから。今こそすっかり合点がいった、あれじゃない!」と洗い熊の紳士は布のように真っ青になって口走った。
「黙って!」
 青年は壁にぴたり身を寄せた。
「きみ、わたしは逃げ出しますよ、あれは人違いです、やっと安心した」
「さあ、さあ、いらっしゃい、いらっしゃい!」
「だが、きみはなんだって突っ立ってるんです?」
「じゃ、あなたはなんのために?」
 戸が開いた。と、洗い熊の紳士はたまりかねて、一目散に階段を駆け下りた。
 青年のそばを男と女が通り過ぎた。彼は心臓が凍るような気がした……聞き馴れた女の声が聞こえ、つづいて渋味のある男の声がした。が、まるで耳に覚えのない声であった。
「大丈夫ですよ、わたしが橇をいいつけますから」と渋味のある声がいった。
「じゃ、いいわ、いいわ、異存なしよ。じゃ、いいつけてちょうだい……」
「橇はすぐそこにいるから、ちょっと待って」
 婦人は一人とり残された。
「グラフィーラ! いったいきみの誓いはどこへ置き忘れたの?」裾長の毛皮外套を着た青年は、婦人の手をつかまえながら叫んだ。
「あれ、いったいだあれ? まあ、トヴォローゴフさん、あなたなの? まあ! あなた何をしてらっしゃるの?」
「今ここにあなたといっしょにいたのはだれです?」
「あれはうちの主人ですわ、行ってちょうだい、行ってちょうだい、今にあそこから出て来るから……あの、ポロヴィーツインさんのとこから。行ってちょうだい、後生だから、行ってちょうだい」
「ポロヴィーツインはもう三週間まえに、引っ越してしまいました! ぼくはすっかり知っていますよ!」
「あらっ!」婦人は入口をさして駆け出した。青年はそれに追いついた。
「あなただれからお聞きになったの?」と婦人はたずねた。
「あなたのご主人ですよ、イヴァン・アンドレーイチですよ。ご主人はここにおられますよ、奥さん、あなたの目の前に……」
 はたしてイヴァン・アンドレーイチは入口階段のそばに立っていた。
「やっ、お前なのか?」と洗い熊の紳士は叫んだ。
「あっ! C'est vous?(あなたでしたの?)」とグラフィーラ・ベトローヴナは、偽りならぬ喜びの色を浮かべて、夫に身を投じながら叫んだ。「まあ! どうでしょう? わたしポロヴィーツインさんのお宅をお訪ねしたところ、なんてことでしょう……あの方は今度イズマイロフスキイ橋の傍へお引っ越しになったんですの。わたしいつかお話ししたでしょう、覚えてらして? わたしそこから橇を雇ったところ、馬が荒れ出して、めちゃめちゃに駆け出してね、橇を毀してしまったんですの。わたし、ここから百歩ばかりのところでほうり出されましてね、気が遠くなったところを、馭者に助け起こされたんですのよ。ちょうどいいあんばいに、ムシュウ・トヴォローゴフが……」
「なんだって?」
 ムシュウ・トヴォローゴフはムシュウ・トヴォローゴフといおうより[#「いおうより」はママ]、むしろ化石に似ていた。
「ムシュウ・トヴォローゴフがここでわたしをお見つけになって、送ってやろうとおっしゃるものですから。でも、今はあなたがいらっしゃるから……イヴァン・イリッチ、本当に心からお礼申しますわ……」
 婦人は、棒立ちになったイヴァン・イリッチに手を差し伸べて、握手するというより、むしろ男の手をぎゅっとつねった。
「ムシュウ・トヴォローゴフはわたしのお知り合いの方ですの! スコルルポフさんとこの舞踏会でお近づきになりましてね。たしかあなたにお話ししたでしょう、ココ、覚えてらしって?」
「ああ、もちろん、もちろん! ああ、覚えているとも!」ココと呼ばれた洗い熊の紳士はこういった。
「知己の栄を得まして大いに愉快です、大いに」
 そういって、彼はトヴォローゴフ氏の手を固く握りしめた。
「いったい、だれと話してるの? これはどうしたってことです? わたしは待ってるんじゃありませんか……」という渋味のある声が聞こえた。
 三人の前にとほうもなく背の高い男がぬっと現われた。男は柄付き眼鏡を取り出して、洗い熊の紳士を仔細に眺めはじめた。
「まあ! ムシュウ・ボブイニーツイン!」と婦人はさえずり出た。「どちらから? 本当に思いがけない! まあ、どうでしょう、わたしいま馬に振り落とされましてねえ……でも、これがわたしの主人ですの! Jean! こちらはムシュウ・ボブイニーツインですの、カルポフさんとこの舞踏会で……」
「ああ、それは、それは、大いに愉快です!………しかし、お前、わたしはこれからすぐ馬車を呼んでくるよ」
「呼んでらっしゃい、Jean, 呼んでらっしゃい。わたしもうびっくりしてしまって、体がぶるぶる慄えていますの、なんだか気分が悪くって……今夜|仮面舞踏会《マスカラード》でね……」と彼女はトヴォローゴフにささやいた。
「さよなら、ムシュウ・ボブイニーツイン、さよなら! 明晩はきっと、カルポフさんとこの舞踏会でお目にかかれますわね……」
「いや、失礼ですが、明晩はまいりますまい。今、その、なんでしたら、明晩はもう……」ボブイニーツイン氏はまだ何やら口の中でぶつぶついって、大きな靴で足摺りの会釈をすると、自分の橇に乗って行ってしまった。
 馬車がやって来た。婦人はそれに乗りこんだ。洗い熊の紳士はちょっと足をとめた。彼は体を動かす力がないらしく、意味のない目つきで裾長の毛皮外套を着た青年を見つめていた。毛皮外套の青年はかなり芸のないにたにた笑いをしていた。
「なんと申したらいいか……」
「ごめんなさい、お近づきになれて、たいへん愉快でした」好奇心を帯びた、が、いささかおじ気づいたらしい表情で会釈しながら、青年はこう答えた。
「わたしも大いに、大いに愉快で……」
「あなた、どうやらオーヴァシューズが片足ぬげたようですよ……」
「そうですか、あっ、そうだ! ありがとう、ありがとう。ゴム製のを買おう買おうと思いながら……」
「ゴムのだと、どうも足が汗ばむような具合ですが」と青年はいかにも世話やきらしくいった。
「Jean! まだなの?」
「まったく汗ばみます。すぐ、今すぐだよ、お前、お話が面白いものだから! まったく、お説のとおり、足が汗ばみますて……しかし、失礼ですが、わたしは……」
「とんでもありません」
「知己の栄を得て、大いに、大いに愉快でした……」
 洗い熊の紳士は馬車に乗った。馬車はやおら動きはじめた。青年はあきれてそれを目送しながら、いつまでもじっと立ちつづけていた。