京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P003-015   (『ドストエーフスキイ全集』第13巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))

第八篇 ミーチャ

   第六 おれが来たんだ

 ドミートリイは街道を飛ばして行った。モークロエまでは二十露里と少しあったが、アンドレイのトロイカは、一時間と十五分くらいで間に合いそうな勢いで疾駆するのであった。飛ぶようなトロイカの進行は、急にミーチャの頭をすがすがしくした。空気は爽やかに冷たく、澄んだ空には大きな星が琿いていた。それは、アリョーシャが大地に身をひれ伏して、『永久にこの土を愛する』と、夢中になって誓ったのと同じ晩であった。おそらく同じ時かもしれぬ。しかし、ミーチャの心はぼうっとしていた、恐ろしくぼうっとしていた。さまざまなものが、いま彼の心をさいなんではいたが、それでも、この瞬間、彼の全存在はとどめがたい力をもって彼女のほうへ、自分の女王のほうへのみ飛んで行った。ミーチャは臨終《いまわ》のきわにたった一目彼女を見ようと、こうして馬を飛ばしているのであった。
 ちょっと一こと言っておくが、彼の心はただの一瞬も争闘を感じなかった。とつぜん地から湧いたように飛び出したあの新しい情人に対して、新しい競争者に対して、あの将校に対して、――嫉妬深いミーチャがいささかの嫉妬すら感じなかったと言っても、読者はおそらく本当にしないであろう。もしほかにそんな男が現われたら、よしんばそれが誰であろうと、彼はさっそく烈しい嫉妬を起して、あの恐ろしい手をふたたび血に染めたかもしれない。しかし、この『もとの恋人』に対しては、今こうしてトロイカを飛ばしている間にも、嫉妬がましい憎悪の念を感じなかったばかりか、軽い反感さえもいだかなかった、――もっとも、まだ会ったことはないけれど……『もうこの問題には議論の余地がない。これは二人の権利なんだからなあ。どうせ、あれが五年間、わすれることのできなかった初恋だ、してみると、あれはこの五年間その男一人を愛していたきりなんだ。おれは、おれはまあ、何のためにそんなところへ飛び出したんだろう? そんな場合、おれなぞに何の意味があるのだ? 何の関係があるのだ? どけてやれ、ミーチャ、道を譲ってやれ! それに、今おれはどういう体なんだ? 今はあの将校がいなくたって万事休してるのだ。あの将校がまるっきり姿を見せなかったにしても、やっぱり一切のけりがついてるのだ……』
 今もし彼に思考の力があったならば、ほぼこういう言葉で自分の感じを言い現わしたに相違ない。しかし、彼はもう何も考えることができなかった。今の決心も、何らの思考をもへないで生じたのである。もうさきほどフェーニャの説明をみなまで聞かぬうちに、この決心はすべてそれに伴う結果とともに、一瞬の間に感得し採用せられたのである。しかし、こういう決心を採ったにもかかわらず、彼の心は濁っていた。苦しいほど濁っていた。決心も平安を与えてくれなかった。あまりに多くのものがうしろに立ちふさがって、彼を悩ますのであった。ときおり、自分にもこれが不思議に感じられるほどであった。『われみずからを刑罰す』という宣告文は、すでに彼の手によって紙の上に書かれ、その紙はここに、かくしの中にちゃんと入っている、ピストルも装填してある。そして、明日は『金髪のアポロ』の最初の熱い光線を、どんなふうに迎えようかという決心もついている。それでいながら、うしろに立ちふさがって自分を悩ましている過去のものと、きれいに手を切ってしまうことができなかった。彼はこれを苦しいほど自覚した、そして、この自覚が絶望となって、彼の心に絡みつくのであった。
 どうかすると、ふいにアンドレイに馬を止めさせ、車の外へ飛び下りて、例の装填したピストルを取りいだし[#「取りいだし」はママ]、暁を待たずに一切の片をつけたい、という心持のきざす瞬間があった。しかし、この瞬間はすぐ火花のように飛び過ぎた。それに、馬車は『空間を食《は》みつつ』疾駆しているではないか。目的地が近づくにつれて、またしても彼女を思う心が、彼女ひとりを思う心が、次第に強く彼の胸をつかんで、その他の恐ろしい想念を心の外へ追いやるのであった。女の姿を遠くからちらとでも見たくてたまらなかった! 『あれは今あの男[#「あの男」に傍点]と一緒にいるのだ。あれがあの男と、もとの恋人と一緒にいるところを、ちょっと一目見てやろう。それだけでもうたくさんなのだ。』彼は今まで自分の運命に一転期を画したこの女に対して、この瞬間ほど強い愛を感じたことがない。それは、今までかつて経験したことのない新しい感情であった。自分自身にさえ思いがけのない感情であった。女の前に消えもはてたいような、祈りに近い優しい感情であった。『いや、ほんとうに消えてしまうのだ!』彼はあるヒステリックな歓喜の発作に打たれて、ふいに口へ出してこう言った。
 もうほとんど一時間ばかり走りつづけた。ミーチャはじっと押し黙っていた。アンドレイも話ずきな百姓だったが、やはり口をきくのが恐ろしいかなんぞのように、まだ一口もものを言わないで、ただ一心に栗毛の痩せた、とはいえ、活発らしい三頭立を追うばかりであった。突然ミーチャは烈しい不安におそわれて叫んだ。
アンドレイ、もし寝ていたらどうする?」
 このとき、ふいにこういう考えが彼の心に浮んだ。これまでそんなことは考えもしなかったのである。
「もう寝ているもんと思わにゃなりませんなあ、旦那。」
 ミーチャは病的に眉をしかめた。それが本当だったらどうだろう、自分が……こんな感情をいだきながら駈けつけてみると……もうみんな寝てしまっている……もしかしたら、あれもそこで一緒に寝ているかもしれぬ……毒々しい感情が彼の心に湧き立ってきた。
「追え、アンドレイ、飛ばせ、アンドレイ、もっと、しっかり!」と彼は夢中になって叫んだ。
「でも、ことによったら、まだ寝とらんかもしれませんよ。」アンドレイはしばらく無言の後、こう言った。「さっきチモフェイの話じゃ、あそこには大勢人が集っとるそうですからね。」
「駅遞に?」
「駅遞じゃありません、プラストゥノフの宿屋でがす。つまり私設の駅遞なんで。」
「知ってるよ。ところで、なぜ大勢なんて言うのだ? どうしてそんなに大勢いるのだ? 一たい誰々だい?」ミーチャはこの思いもよらぬ報知に、恐ろしい不安を感じながら叫んだ。
「へい、チモフェイの話では、みんな旦那がたばかりだそうでございます。そのうちお二人は町の人だそうでがすが、どなたかわかりません。ただお二人はここの旦那だって、チモフェイが申しておりました。それから別にお二人、よそから見えた方がいらっしゃるそうでがす。まだほかに誰かおられるかもしれませんが、くわしいことは訊きませんでしたよ。何でも、カルタを始めたとか申しておりました。」
「カルタを?」
「へえ、さようで。カルタを始めたとなりゃ、まだ寝とらんかもしれませんよ。今やっと十二時前くらいの見当でがしょう、それより遅いこたあごわせん。」
「飛ばせ、アンドレイ、飛ばせ!」とまたミーチャは神経的に叫んだ。
「一つお訊ねしたいことがあるんですが、あれは一たいどうしたわけでがしょう。」しばらく無言の後、アンドレイはふたたび言葉をきった。「だが、旦那、お怒りになっちゃいけませんよ、わっしゃそれが怖くって。」
「何だい?」
「さっきフェドーシャさんが旦那の足もとに倒れて、奥さんとも一人誰やらを……殺さないでくれって頼みましたなあ。それでね、旦那、旦那をあちらへお連れ申して、かえって……いや、ごめん下さいまし、旦那さま、わっしはただその、正直なところを申上げたんで、何か馬鹿げたことを言ったかもしれませんが……」
 ミーチャは突然うしろから彼の肩を抑えた。
「お前は馭者だろう? 馭者だろう?」と彼は激しい調子で言いだした。
「へえ、馭者で……」
「お前は、道を譲らなくちゃならん、ということを知ってるか? おれは馭者だから誰にも道を譲ることはいらん、おれさまのお通りだ、轢き殺してもかまわん、などというのは間違ってる。馭者は人を轢いちゃならん、人を轢いたり、人の命に傷をつけたりすることはできない。もし人の命に傷をつけたら、自分に罰を加えなきゃならん……もし人に傷をつけたり、命を取ったりしたら、――自分に罰を加えて、退《ひ》いてしまわなきゃならない。」
 これらの言葉は、純然たるヒステリイの状態に落ちたミーチャの口から、自然にほとばしり出たのである。アンドレイは彼の様子を変に思いながら、やはり話の相手になっていた。
「まったくそのとおりでがす、旦那のおっしゃるとおりでがすよ。人を轢いたり、いじめたりするのは、よくないことでがすよ。人にかぎらず、どんな生きものでも同じことでさあ。なぜって、生きものはみんな、神様のお創りになったものでがすからね。たとえば、馬を譬えに引いて申しましても、ほかの馭者は(よしんばロシヤの馭者でも)、やたらにひっぱたきますが……そんなやつらは、度合いってことを知らないから、やたらに追うんでがす、やたらに追いまくるんでがすよ。」
「地獄ゆきかい?」とミーチャはふいにこう口を入れたが、急にもちまえの思いがけない、ぶっきら棒な調子でからからと笑いだした。
アンドレイ、貴様は単純な男だなあ」とふたたび彼は強く相手の肩を抑えた。「おい、ドミートリイ・カラマーゾフは地獄へ落ちるか落ちないか、貴様どう考える?」
「わかりませんな、旦那、それはあなた次第でがすよ。なぜかって、あなたはこの町で……ねえ、旦那、キリストさまが十字架で磔刑《はりつけ》になっておかくれになった時、そのまま十字架からおりてまっすぐに地獄へおいでになりました。そうして、そこで苦しんでいる罪障の深い人たちを、みんな放しておやりになったのでがす。すると地獄は、もうこれから自分のところへ、誰も来てくれないだろうと思って、悲しんで呻き始めました。そのとき神様が地獄に向って、『地獄よ、そのように悲しむことはない。これから華族だとか、大臣だとか、えらい裁判官だとか、金持だとかいうものが、みんなお前のところへやって来て、またもう一度わしがやって来るその時までは、前と同じように永久に一ぱいになってしまうことであろう』と申されました。それはこのとおりでがす、このとおり言葉を使って申されたのでがす……」
「国民伝説だな、素敵だ! おい、左の馬に一鞭やらんか、アンドレイ!」
「ですから、旦那、地獄はこういう人たちのためにできてるのでがす」とアンドレイは左の馬に一鞭あてだ。「ところが、旦那はまるで小さな赤ん坊と一つでがす……とまあ、こうわっしらは考えとりますよ……旦那は怒りっぽい方だ、それは本当でがす。けれど、その正直なところに対して、神様が赦して下さいますよ。」
「じゃあ、お前は、お前はおれを赦してくれるか。アンドレイ?」
「わっしが何で旦那を赦すんでがしょう。旦那はわっしに何もなさらねえじゃがせんか。」
「いや、みんなの代りにだ、みんなの代りにお前ひとりが今、たった今この街道でおれを赦してくれるかい? お前の素朴な頭で考えて聞かしてくれ!」
「おお、旦那! わっしはあなたを乗せて行くのが恐ろしくなりました。何だか気味の悪いお話で。」
 しかし、ミーチャはその言葉をろくろく聞かなかった。彼は奇怪な調子で、激越な祈りの言葉を、口の中で呟くのであった。
「神様、どうぞこのわたくしを、放埒なままでおそばへ行かして下さいまし。そして、わたくしを咎めないで下さいまし。あなたのお裁きなしに通り抜けさせて下さいまし、裁きをしないで下さいまし。わたくしは自分に罪を宣告いたしました。ああ、神様、わたくしはあなたを愛しております、もう咎めずにおいて下さいまし! わたくしは卑劣な男ではありますが、あなたを愛しているのでございます。たとえ地獄へお送りになりましょうとも、わたくしはそこでもあなたを愛します。地獄の中からでも、永久にあなたを愛していると叫びます……けれど、この世の愛を完うすることを、赦して下さいまし……今ここであなたの熱い光のさし昇るまで、たった五時間のあいだ、この世の愛を完うすることを、赦して下さいまし……なぜと言って、わたくしは自分の心の女王を愛しているからでございます、ええ、愛しております。そして、愛さないわけにゆきません。もう神様はご自身でわたくしという人間を、すっかり見通していらっしゃるでしょう。わたくしはこれからあそこへ駈けつけて、あれの前に身を投げ出し、お前がおれのそばを通り抜けたのはもっともだ……では、さようなら、お前はおれという犠牲のことを忘れてしまって、決して心を悩ますようなことをしてくれるな! とこう申します。」
「モークロエだ!」とアンドレイは鞭で前方をさしながら叫んだ。
 夜の青ざめた闇をすかして、ひろびろとした空間に撒き散らされた建物のどっしりとした集団が、ふいにくろぐろと見えてきた。モークロエは人口二千ばかりの村であったが、この時はもう村ぜんたいが寝しずまり、ただここかしこにまばらな灯影が闇を破って、ちらついているばかりであった。
「追え、追え、アンドレイ、おれが来たんだ!」とミーチャは熱にでもおそわれたように叫んだ。
「寝ちゃおりません!」村のすぐ入口に立っている、プラスゥノフの宿屋を鞭でさしながら、アンドレイはまたこう言った。往来に向いた六つの窓が赤々と輝いていた。
「寝ていない!」とミーチャは悦ばしげに引きとった。「アンドレイ、がらがらと乗り込め。うんと走らせろ。鈴を鳴らして、景気よくがらがらっと乗り込め。誰が来たかってことを、みんなに知らさなけりゃならん! おれが来たんだ! おれさまが来たんだ!」とミーチャは夢中になって喚いた。
 アンドレイは疲れきったトロイカを懸命に走らせて、本当にがらがらっと景気よく、高い階段の前へ乗りつけた、そして、体から湯気を立てながら、なかば死んだようになった馬の手綱をぐっと引き締めた。ミーチャは馬車から飛び下りた。と、ちょうどその時、もう寝室へ引っ込もうとしていた宿屋の亭主が、一たいこんなに大仰に馬車を乗りつけたのは誰だろうと、ちょっと好奇心を起して覗いてみた。
「トリーフォン・ボリースイッチじゃないか?」
 亭主は屈みかかって、じっと見入っていたが、やがてまっしぐらに階段を駈けおりて、卑屈らしい歓喜の色を浮べながら、客のほうへ飛びかかった。
「旦那さま、ドミートリイさま! また旦那さまにお目にかかれようとは!」
 このトリーフォンというのは、肉づきのいい、丈夫そうな、幾分ふとり気味の顔をした、中背の百姓であった。いかつい一こくらしい(モークロエの百姓に対してはことにそうである)様子をしていたが、少しでも得になりそうなことを嗅ぎつけると、すばやくその顔を卑屈なほど愛想のいい表情に変えるという、天賦の才能を持っていた。ふだんロシヤ風に襟をはすに切った襯衣《ルパーハ》の上に、袖無外套を着込んでいた。もういい加減に蓄めているくせに、まだ一生懸命もっといい位置を空想しているのであった。百姓の半数以上は彼の爪牙にかけられていた。つまり、みんな首の廻らぬほど彼に借金していたのである。彼は多くの地主から土地を借りたり買ったりして、生涯足を抜くことのできない借金の代償として、その土地を百姓どもに耕作させていた。
 彼はやもめで、もう大きな娘が四人もある。ひとりは亭主に死に別れて、彼の孫にあたる二人の小さな子供を連れて父の家で暮しながら、まるで日傭かせぎのように働いていた。二番目の百姓くさい娘は、もう年金というところまで勤め上げたさる官吏、――書記のところへ嫁入りしていたので、この宿屋の一室の壁にかかっている幾枚かのおそろしく小さな家族写真の中には、肩章つきの制服を着たこの官吏の写真も見受けられる。末の二人の娘は、お寺の祭りの日などには、裾に一尺あまりも尻尾のある、背中のきちんとしまった、流行風に仕立てた水色や緑色の着物をきて、どこかへお客に出かけて行くが、そのあくる日はもういつもと同じように、夜明けまえから起き出して、白樺の箒を手にして客室を掃除したり、汚れ水を運び出したり、泊り客のたった後の塵を片づけたりしている。もう何千という金を儲けたにもかかわらず、トリーフォンは遊興の客をぼる[#「ぼる」に傍点]のが大好きであった。で、まだひと月もたたない以前、ドミートリイがグルーシェンカと遊興の際、一昼夜のうちに三百ルーブリとまでゆかないまでも、少くも二百ルーブリ以上の儲けをしたことを覚えているので、今も轟々たる馬車の響きを聞いたばかりで、獲物の匂いを嗅ぎつけ、嬉しそうに、まっしぐらに出迎えたのである。
「旦那さま、ドミートリイさま、あなたがおいで下さろうとは、存じもよりませんでした。」
「待て、トリーフォン」とミーチャは口をきった。「まず最初、一ばん大切なことを訊こう、あれはどこにいる?」
「アグラフェーナさまでございますか?」亭主は鋭い目でミーチャの顔を見つめながら、すぐに合点してしまった。「へえ、ここに……おいででございます……」
「誰と、誰と一緒に?」
「よそからお見えになった方で……一人はお役人でございますが、お話しぶりから見ると、ポーランドの方らしゅうございます。この方がここから、アグラフェーナさまへ迎いの馬車をお出しになりましたので。ま一人は同僚の方でございましょうか、それともただのお道づれでございましょうか、そこのところはわかりかねます。お二人とも文官のようなお身なりで……」
「どうだ、豪遊をやってるか? 金持かい?」
「なんの豪遊どころでございますか! たかの知れたものでございますよ、旦那さま。」
「たかの知れたものだって? で、ほかの連中は?」
「ほかの方は、町からお見えになったのでございます。町の方がお二人なので……チョールニイのお帰りみちを、そのままここへお残りになったのでございます。一人はお若い方で、たぶんミウーソフさまのご親戚だと存じますが、ちょっとお名を忘れまして……ま一人[#「ま一人」はママ]は旦那さまもご存じと思われます地主のマクシーモフで、順礼[#「順礼」はママ]のために町のお寺へ寄ったところ、ふとあの若いミウーソフさまのご親戚と落ち合って、一緒に旅をしているのだとかいうことで……」
「それでみんなか?」
「へえ、それきりで。」
「もういい、喋るな、トリーフォン、今度は一ばん大事なことを訊くぞ、――どうだあれは、どんな様子だ?」
「さきほどお着きになって、みなさんとご一緒にいらっしゃいます。」
「おもしろそうなふうか? 笑ってるか?」
「いいえ、あまりお笑いにならない様子でございます……どっちかと申せば、大そうお退屈そうなくらいに見受けられます。何でもあの若いお方の髪をとかしていらっしゃいました。」
「そのポーランド人の? 将校の?」
「いえ、あの人は若いどころじゃございません。それに決して将校ではございませんよ。なに、旦那さま、あの方じゃございません。あのミウーソフさまの甥ごにあたる若いお方……どうもお名前を忘れてしまいまして。」
「カルガーノフか?」
「へえ、そのカルガーノフさまで。」
「よし、自分で見分ける。カルタをしてるか?」
「お始めになりましたが、もうおやめになりました。お茶もすんで、あのお役人がリキュールをご注文なさいました。」
「もうよし、トリーフォン、やめろ、おれが自分で見分ける。さあ、今度こそ一ばん大事なことについて返事が聞きたい、ジプシイはおらんか?」
「ジプシイは今まるで噂を聞きません。お上《かみ》で追っ払っておしまいになりましたので。その代り、ここにユダヤ人がおります。鐃鈸《にょうはち》を叩いたり、胡弓を弾いたりいたします。ロジェストヴェンスカヤにおりますから、これなら今すぐにでも呼びにやれば、さっそく出てまいります。」
「呼びにやるんだ、ぜひ呼びにやるんだ!」とミーチャは叫んだ。「ところで、娘たちもあの時のように総上げにすることができるか? 中でもマリヤが一ばん肝腎だぞ。それからスチェパニーダもアリーナもな。コーラスに二百ルーブリ出すぞ!」
「そんなお金が出るのでしたら、今みんな寝てしまいましたけれど、村じゅうを総上げにでもいたします。それに、旦那さま、ここの百姓や娘っ子らが、そんなお情けをいただく値うちがございますか? あんな卑しい、ぶしつけなやつらに、そのような大枚の金をくれてやるなんて! あんな百姓が葉巻なぞ喫む分際でございますか。それだのに、旦那さまはあいつらにくれておやんなさいました。あんな泥棒のようなやつら、ぷんぷん臭い匂いを立ててるじゃございませんか。また娘っ子らはどれもこれも、虱をわかしていないやつはございません。へえ、わたくしが旦那さまのために、ただで家の娘を起してまいります。そんな大枚のお金をいただこうとは申しません。ただ今やすんでおりますけれど、わたくしが足で蹴起してやります。そして、旦那さまのために歌を唄わせますでございましょう。あなたは先だって百姓どもに、シャンパンを飲ませたりなさいましたが、本当にまあ!」
 トリーフォンがこんなにミーチャをかばうのは、筋の通らぬ話であった。彼はそのときシャンパンを半ダースも自分のところへ隠したり、テーブルの下に落ちていた百ルーブリ札を拾って、拳の中へ握り込んでしまったりした。そして、札はそのまま彼の拳の中に残されたのである。
「トリーフォン、おれがあの時ここで撒き散らしたのは、千やそこいらの金ではなかったぞ。覚えているか?」
「さようでございますとも、旦那さま、どうして覚えずにいられましょう。大方、三千ルーブリくらいこの村へ残して下さいました。」
「ところが、今度もあのとおりだ、そのつもりでやって来たのだ、そら。」
 と、彼は例の紙幣《さつ》束を取り出して、亭主の鼻さきへ突きつけた。
「さあ、これからよく聞いて合点するんだぞ。もう一時間たったら酒が来る。ザクースカも饅頭《ピローク》も菓子も来る、――それはみんな、すぐにあっちへ持って来るんだぞ。それから、今アンドレイのところにある箱も、やっぱり上へ持ってあがって開けてくれ、そしてすぐシャンパンを出してくれ……何より肝腎なのは娘たちだ、そしてマリヤも必ずな……」
 彼は馬車のほうへ振り向いて、腰掛けの下からピストルの入った箱を引き出した。
「さあ、勘定だ、アンドレイ、受け取ってくれ! そら、これが十五ルーブリ、馬車賃だ、それからここに五十ルーブリある、これが酒手《さかて》だ……お前がよく言うことを聞いて、おれを愛してくれたお礼だ……カラマーゾフの旦那を覚えておってくれ!」
「わっしゃおっかないでがすよ、旦那!………」とアンドレイはもじもじしていた。「お茶代に五ルーブリだけやって下さいまし。それよりよけいにゃいただきません。ここの旦那が証人でがす。馬鹿なことを申しましたのは、どうか真っ平ごめん下さいまし……」
「何がおっかないんだ。」ミーチャはその姿を測るようにじろっと見まわした。「いや、そういうことなら勝手にしろ!」と叫んで、彼は五ルーブリの金を投げ出した。「ところで、トリーフォン、今度はそっとおれを連れてって、まず第一番にみなの者を一目見せてもらいたいのだ。ただし、みんなの方からおれの姿が見つからんようにな。みんなどこにいるのだ、空色の部屋かい?」
 トリーフォンはあやぶむようにミーチャを見やったが、すぐ、言われるままに実行した。彼をつれて用心ぶかく玄関を通り抜け、いま客の坐っている部屋と隣りあった、とっつきの大きな部屋へ自分一人だけ入って行き、そこから蝋燭を持って出た。それから、静かにミーチャを導き入れて、まっ暗な片隅へ彼を立たした。そこからは先方のものに見つけられないで、自由に一座の人々を観察することができた。しかし、ミーチャは長く見ていることができなかった。それに、観察などということはなおさらできなかった。彼は女の姿を見るやいなや、動悸が急に激しく打ちだして、目の中がぼうっと暗くなった。
 彼女はテーブルの横手にある肘椅子に坐っていた。それと並んで男まえのいい、まだ年の若いカルガーノフが、長椅子に腰をおろしている。グルーシェンカは彼の手を取って、笑ってでもいるようなふうであったが、彼はそのほうに目もくれないで、テーブルを隔てて、グルーシェンカと向かい合せに坐っているマクシーモフに、さもいまいましそうな様子で、何やら大きな声で話していた。マクシーモフは何かおかしいのかしきりに笑っていた。長椅子には彼が坐っている。そのかたわらの椅子には、もう一人別な見知らぬ男が、壁のそば近く腰かけている。からだを崩しながら長椅子に坐っているほうは、パイプをくわえていた。『この妙に肥った顔の大きな男は、きっとあまり背が高くないに相違ない。そして、何だか腹を立てているらしい。』これだけの考えが、ミーチャの頭にひらめいたばかりである。しかし、その友達らしいいま一人の見知らぬ男は、何だか図抜けて背が高いように思われた。もうそれ以上なにも見分けることができなかった。彼は息がつまってきた。そして、一分間もじっと立っていられなかった。彼はピストルの箱を箪笥の上において、からだじゅう冷たくなるような、心臓の痺れるような心持をいだきながら、いきなり空色の部屋で語りあっている人々を目ざして出て行った。
「あれ!」とグルーシェンカは第一番に彼の姿を見つけて、驚きのあまり甲高い声を上げて叫んだ。

   第七 争う余地なきもとの恋人

 ミーチャは例の大股で、急ぎ足にぴったりとテーブルのそばへ近づいた。
「みなさん」と彼は大きな声でほとんど叫ぶように、とはいえ、一こと一こと吃りながら口をきった。「僕は……僕は……何でもありません! 怖がらないで下さい!」と彼は叫んだ。「僕はまったく何でもないのです、何でもないのです。」彼は急にグルーシェンカのほうへ振り向いた。こちらは肘椅子に腰をかけたまま、カルガーノフのほうへかがみ込んで、一生懸命その手にしがみついていた。「僕……僕もやはり旅の者です。僕は朝までいるだけです。みなさん通りがかりの旅の者を……朝まで一緒においてくれませんか。本当に朝までです。どうかお名残りにこの部屋へおいてくれませんか?」
 彼はもうしまいのほうになると、パイプをくわえながら長椅子に坐っている肥った男に向いて頼んでいた。こちらはものものしく口からパイプを放して、いかつい調子でこう言った。
「パーネ(ポーランド語パン(紳士・貴君)の呼格である)、ここはわれわれが借り切ってるんです。部屋はほかにもありますよ。」
「やあ、ドミートリイさん、あなたですか、一たいどうしてこんなところへ?」とふいにカルガーノフが声をかけた。「まあ、一緒にお坐んなさい、よく来ましたね!」
「ご機嫌よう、君は僕にとって本当に大事な人だ……無限に貴い人だ! 僕はいつも君を尊敬していましたよ……」すぐさまテーブルこしに手をさし伸べながら、ミーチャはうれしそうに勢いこんでこう答えた。
「あ、痛い、ひどい握りようですね! まるで指が折れそうだ」とカルガーノフは笑った。
「あの人はいつでもあんな握り方をするのよ、いつでもそうよ」とグルーシェンカはまだ臆病そうな微笑をふくみながら、おもしろそうに口を挟んだ。彼女は突然ミーチャが乱暴などしないと確信はしたものの、依然として不安の念をいだきながら、恐ろしい好奇心をもって彼の様子を見まもるのであった。彼女に異常な驚愕を与えるようなあるものが、彼のどこかにあったのである。その上グルーシェンカは、彼がこんな時にこんな入り方をして、こんな口のきき方をしようとは、まるで思いもうけなかったのである。
「ご機嫌よろしゅう。」地主のマクシーモフも左手から、甘ったるい調子で声をかけた。ミーチャはそのほうへも飛びかかった。
「ご機嫌よう、あんたもここにいたんですね。あんたまでもここにいるとは、何という愉快なことだ! みなさん、みなさん、僕は……(彼はふたたびパイプをくわえた紳士《パン》のほうへ振り向いた、この一座の主人公と考えたらしい。)僕は飛んで来たのです……僕は自分の最後の日を、最後の時をこの部屋で……以前、僕も……自分の女王に敬意を表したことのあるこの部屋で、過したくてたまらなかったのです!………パーネ、許して下さい!」と彼は激しい調子で叫んだ。「僕はここへ飛んで来る途中ちかいを立てたのです……おお、恐れないで下さい、これが僕の最後の晩です! パーネ、仲よく飲もうじゃありませんか! 今に酒が出ます……僕はこれを持って来たのです……(彼は急に何のためか例の紙幣《さつ》束を取り出した。)パーネ、ごめん下さい! 僕は音楽が聞きたいのです、割れるような騒ぎがほしいのです。この前と同じものがみなほしいのです。……蛆虫が、何の役にも立たぬ蛆虫が、地べたをぞろぞろ這い廻るが、それもすぐにいなくなります! 僕は自分の悦びの日を、最後の夜に記念したいんです!………」
 彼はほとんど息を切らしていた。まだまだいろんなことが言いたかったのであるが、口を出るのはただ奇怪な絶叫ばかりであった。紳士はじっと身動きもしないで、彼の顔と、紙幣束と、グルーシェンカの顔を、かわるがわる見くらべていたが、いかにも合点のゆかないらしいふうであった。 
「もし、わたくしのクルレーヴァが許したら……」と彼は言いかけた。
「え、クルレーヴァって何のこと。コロレーヴァ(女王)のこと?」ふいにグルーシェンカはこう遮った。「あなた方の話を聞いてるとおかしくなっちまうわ。お坐んなさいよ、ミーチャ。一たいあんたは何を言ってるの? 後生だから、嚇かさないでちょうだい。嚇かさない? 嚇かさない? もし嚇かさなければ、わたしあんたを歓迎するわ……」
「僕が、僕が嚇かすって?」ミーチャは両手を高くさし上げながら、いきなりこう叫んだ。「おお、遠盧なくそばを通って下さい、かまわず通り抜けて下さい。僕は邪魔なんかしないから……」と彼はとつぜん、一同にとっても、またもちろん、彼自身にとっても思いがけなく、どうと椅子に身を投げると、反対の壁のほうへ顔を向けて、まるで抱きつくように椅子の背を両手で固く握りしめながら、さめざめと泣きだすのであった。
「あらあら、またこうなのよ、あんたはなんて人なんでしょう!」とグルーシェンカは、たしなめるような口調で言った。「うちへ来てた時も、ちょうどこのとおりだったわ。急にいろんなことを喋りだすけれど、わたしには何のことだかちっともわからないの。一度もう泣いたことがあるから、今日はこれで二度目だわ、――なんて恥しいことだろう! 一たいどういうわけがあって泣くの! まだほかにもっと気のきいたわけがありそうなもんだわ[#「まだほかにもっと気のきいたわけがありそうなもんだわ」に傍点]!」一種の焦躁をもってこれだけの言葉に力を入れながら、謎のような調子で、彼女は突然こうつけたした。
「僕……僕は泣きゃしない……いや、ご機嫌よろしゅう!」彼は咄嗟にくるりと椅子の上で向きを変え、だしぬけに笑いだした。しかし、それはもちまえのぶっきら棒な木のような笑いでなく、妙に聞き取りにくい、引き伸ばしたような、神経的な、顫えをおびた笑い方であった。
「そら、今度はまた……まあ、浮き浮きなさい、浮き浮きなさい!」とグルーシェンカは励ますように言った。「わたしあんたが来てくれたので本当に嬉しいわ。まったく嬉しいわ、あんたわかって、ミーチャ、わたし本当に嬉しいって言ってるのよ! わたしこの人に一緒にいてもらいたいの」と彼女は一同に向って命令するように言ったが、その実、この言葉は明らかに、長椅子に坐っている人にあてて発したものらしい。「ぜひそうしたいの、ぜひ! もしこの人が帰れば、わたしも帰ります、はい!」彼女はとつぜん目を輝かしながらこうつけたした。
「女王のおっしゃることは取りも直さず法律です!」と紳士《パン》はにやけた態度で、グルーシェンカの手を接吻しながら言った。「どうぞ貴君《パン》のご同席を願います!」と彼はミーチャに向って愛想よく言った。ミーチャはまたもや何やら長々と喋るつもりらしく飛びあがったが、実際はまるで別な結果が生じた。「みなさん、飲みましょう!」長い演説の代りに、彼は突然、たち切るように言った。一同は笑いだした。
「あら、まあ! わたしはまたこの人が何か喋りだすのかと思ったわ」とグルーシェンカは神経的な声で叫んだ。「よくって、ミーチャ」と彼女は押しつけるような調子でつけたした。「もうこれからそんなに飛びあがっちゃいやよ。それはそうと、シャンパンを持って来たってのは大出来だわ。わたしも飲んでよ。リキュールなんか厭なこった。だけど、あんたが自分で飛んで来たのは何よりだったわね。でなかったら、退屈で仕方がありゃしない……一たいあんたはまた散財に来たの? まあ、そのお金をかくしにでもしまったらどう! 一たいどこからそんなに手に入れたの?」
 ミーチャの手に依然として鷲掴みにされている紙幣は、非常に一同の、――とくに二人の紳士《パン》の注目をひいた。ミーチャは急にあわててそれをかくしへ押し込んで、さっと顔を赧くした。この瞬間、亭主が、口を抜いたシャンパンの罎とコップを、盆の上にのせて入って来た。ミーチャは罎に手をかけようとしたが、すっかり動顛しているので、それをどうしたらいいか忘れてしまった。で、カルガーノフがその手から罎をとり、彼に代って酒を注いだ。
「おい、もう一本、もう一本!」とミーチャは亭主に叫んだ。そして、さっきあれほどものものしい調子で近づきの乾杯をしようと言っておいた紳士《パン》と、杯を合すのも忘れてしまい、ほかの人を待とうともしないで、そのまま一人で、ぐっと飲みほした。すると、とつぜん彼の顔つきがすっかり変ってしまった。入って来た時の荘重な悲劇的な表情が消えて、妙に子供らしい色が現われた。彼は急にすっかり気が折れて、卑下しきったような工合であった。悪いことをした小犬がまた内へ入れられて、可愛がってもらった時のような感謝の表情をうかべて、ひっきりなしに神経的な小刻みの笑い声を立てながら、臆病なしかも嬉しそうな様子で一同を眺めていた。彼は何もかも忘れたようなふうつきで、子供らしい笑みをふくみ、歓喜の色をうかべて一同を見廻すのであった。
 グルーシェンカを見るときの目はいつも笑っていた。彼は自分の椅子をぴたりと彼女の肘椅子のそばへ寄せてしまった。だんだんと二人の紳士《パン》も見分けがついてきた。もっとも、その値うちはまだあまりはっきり頭にうつらなかった。長椅子に坐っている紳士《パン》がミーチャを感服さしたのは、そのものものしい様子とポーランド風のアクセントと、それからとくにパイプであった。『一たいどういうわけだろう? いや、しかし、あの人がパイプをくわえてるところはなかなか立派だ』とミーチャは考えた。いくぶん気むずかしそうな、もう四十恰好に見える紳士《パン》の顔も、恐ろしく小さな鼻も、その下に見える色上げをした思いきって短いぴんと尖った高慢そうな髭も、やはり今のところ、ミーチャの心に何の問題をも呼び起さなかった。ばかばかしい恰好に髪を前のほうへ盛り上げた、思いきってやくざなシベリヤ出来の紳士《パン》の鬘も、さしてミーチャを驚かさなかった。『鬘を被ってるところを見ると、やはりああしなくちゃならないのだろう』とミーチャは幸福な心もちで考えつづけた。
 いま一人の、壁ぎわ近く坐っている紳士《パン》は、長椅子に坐っている紳士《パン》よりずっと年が若かったが、不遜な挑戦的な態度で一座を見廻しながら、無言の軽蔑をもって一同の会話を聞いていた。この男も同様にミーチャを感服さしたが、それは長椅子に坐っている紳士《パン》と釣合いのとれないくらい、やたらに図抜けて背が高いという点ばかりであった。『あれで立ったら十一ヴェルショークからあるだろうなあ』という考えがミーチャの頭をかすめた。それから、こんな考えもひらめいた、――この背の高い紳士は、長椅子に坐っている紳士の親友でもあれば、護衛者でもあるので、したがってパイプをくわえた小柄な紳士《パン》は、この背の高い紳士《パン》を頤で動かしてるに相違ない。しかし、これらの事柄も、ミーチャの目には、争う余地のないとても立派なことのように映じた。小犬の胸には一切の競争心が萎縮してしまったのである。グルーシェンカの態度にも、彼女が発した二三の言葉の謎めいた調子にも、彼はまだ一向気がつかなかった。ただ彼女が自分に優しくしてくれる、自分を『許して』そばへ坐らしてくれたということを、胸を顫わせながら感じたばかりである。グルーシェンカがコップの酒を傾けるのを見て、彼は嬉しさのあまりわれを忘れてしまった。とはいえ、一座の沈黙はふいに彼を驚かした。彼は何やら期待するような目で、一同を見廻し始めた。『ときに、われわれはどうしてこうぼんやり坐ってるんでしょう? どうしてあなた方は何も始めないんです、みなさん?』愛想笑いをうかべた彼の目が、こういうように思われた。
「この人がでたらめばかり言うものだから、僕たちさっきから笑い通してたんですよ。」突然カルガーノフは、ミーチャの胸の中を察したかのように、マクシーモフを指さしながら口を切った。
 ミーチャは大急ぎでカルガーノフを見据えたが、すぐに視線をマクシーモフヘ転じた。
「でたらめを言うんですって?」とさっそくミーチャは何が嬉しいのか、例のぶっきら棒な、木のような笑い声を立てた。「はは!」
「ええ、まあ、考えてもごらんなさい。この人は、二十年代のロシヤ騎兵が、みんなポーランドの女と再婚した、なんて言い張るじゃありませんか、そんなことは馬鹿げきったでたらめでさあね。え、そうじゃありませんか?」
ポーランドの女に?」とミーチャはまたしても鸚鵡がえしに言って、今度はもうすっかり有頂天になってしまった。
 カルガーノフはミーチャ対グルーシェンカの関係をよく知っていたし、紳士《パン》のこともおおよそ察していたが、そんなことはあまり彼の興味をひかなかった。いや、あるいはぜんぜん興味をひかなかったかもしれない。何より彼の興味をひいたのは、マクシーモフである。彼とマクシーモフの二人が、ここに落ち合ったのは偶然である。二人のポーランド紳士にこの宿屋で邂逅したのも、生れて始めてなのである。しかし、グルーシェンカは前から知っていたし、一ど誰かと一緒に彼女の家へ行ったこともある。そのとき彼はグルーシェンカの気に入らなかったが、ここでは彼女は非常に優しい目つきをして、彼を見まもっていた。ミーチャが来るまでは、ほとんど撫でさすらないばかりであったが、当人はそれに対して妙に無感覚なふうであった。
 彼はまだ二十歳を越すまいと思われる、洒落た身なりをした青年で、非常に可愛い色白の顔に、房々とした美しい亜麻色の髪を持っていた。この色白の顔には、賢そうな、時としては年に似合わぬ深い表情の浮ぶ、明るく美しい空色の目があった。そのくせ、この青年はときどき、まるで子供のような口をきいたり、顔つきを見せたりするが、自分でもそれを自覚していながら、毫も恥じる色がなかった。全体として、彼はいつも優しい青年であったけれども、非常に偏屈で気まぐれであった。どうかすると、その顔の表情に何かしら執拗な、じっと据って動かぬあるものがひらめくことがある。つまり、相手の顔を見たり話を聞いたりしているうちにも、自分は自分で何か勝手なことを一心に空想している、といったようなふうつきである。だらけきってもの臭そうな様子でいるかと思えば、一見きわめて些々たる原因のために急に興奮しはじめる。
「まあ、どうでしょう、僕はもう四日もこの人を連れて歩いていますが」と彼は語をついだ。彼は大儀そうに言葉じりを引き伸ばしていたが、少しも気どったようなところはなく、どこまでも自然な調子であった。「覚えていらっしゃいますか、あなたの弟さんが、この人を馬車から突き飛ばした時からのことです。あのとき僕はそのために、非常にこの人に興味を感じて、田舎のほうへ連れて行ったのです。ところが、この人があまりでたらめばかり言うもんだから、僕は一緒にいるのが恥しくなってしまいました。今この人をつれて帰るところです……」
「貴君《パン》はポーランドの婦人《パーニ》を見たことがないのです。したがって、それはあり得べからざるでたらめです。」パイプをくわえた紳士《パン》は、マクシーモフに向ってこう言った。
 パイプをくわえた紳士《パン》は、かなり巧みにロシヤ語を操った。少くとも、一見して感じられるよりはるかに巧みであった。ただロシヤ語を使うときに、それをポーランド風に訛らせるのであった。
「けれど、わたくし自身も、ポーランドの婦人《パーニ》と結婚しましたよ」と答えて、マクシーモフはひひひと笑った。
「へえ、じゃ、君は騎兵隊に勤めてたんですか? なぜって、君は騎兵の話をしたでしょう。だから、君は騎兵なんですね?」とカルガーノフはすぐに口を入れた。
「なるほど、そうだ。一たいこの人が騎兵なんですかね? はは!」とミーチャは叫んだ。彼は貪るように耳を傾けながら、口をきき始めるたびに、もの問いたげな目をすばやく転じていたが、その様子は一人一人の話し手からどんな珍しい話が聞けるかと、一生懸命に待ちもうけているかのようであった。
「いや、まあ、聞いて下さいまし。」マクシーモフは彼のほうへ振り向いて、「わたくしが申しますのは、こうなので。その、あちらの娘たち《パーニ》は……可愛い娘たち《パーニ》はロシヤの槍騎兵とマズルカを踊りましてな……マズルカの一曲がすむと、さっそく白猫のように男の膝へ飛びあがるのでございます……すると、お父さんもお母さんもそれを見て、許してやるのでございます……許してやるのでございますよ……で、槍騎兵はあくる日出かけて行って、結婚を申し込みます……こういう工合に、結婚を申し込むのでございます、ひひ!」とマクシーモフは卑しい笑い方をした。
「Pan laidak!(やくざな男だ!)」とつぜん、椅子に坐っていた背の高い紳士が呟いて、膝の上にのっけていた足を反対に組み直した。ミーチャの目には、分厚な汚い裏皮のついた、靴墨を塗り