京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP313-P336

あの女《ひと》は自分の姿を鏡に映して、つくづく見とれてたんですけど、着物なんて何ひとつないんですの、持ちものなんて何ひとつありゃしません、もう何年も前から! でもあの女《ひと》はこれまでついぞ一度も、人にものをねだったことはありませんでした。気位の高い人で、かえって自分のほうから、なけなしのものでも、やってしまう質《たち》なんですの。それが急にくれというのですから、よくよく気に入ったものに相違ありませんわ! ところが、わたしはあげるのが惜しかったんですの。『あなたにあげたって、しようがないじゃありませんか。カチェリーナ・イヴァーノヴナ?』ほんとうにそういったんですのよ。『しようがないじゃありませんか』って。まったくこれこそほんとによけいなことだったんですわね! すると、あの女《ひと》はじっとわたしを見つめました。わたしが断わったのが、つらくてつらくてたまらなくなったのでございます。ほんとに見ているのも気の毒なくらい……それは、えりのためにつらかったのじゃなくて、わたしが断わったそのためなんですの。わたしちゃんとわかりましたわ。ああ、今となると、何もかももう一度元へもどして、やり直しができたらと思いますわ。前にいったことをすっかり……まあ、わたしったら、……いったいどうしたってんでしょう!………だってこんなこと、あなたにはどうだっていいことなんですのに!」
「あの古着屋のリザヴェータを知っていますか?」
「ええ……では、あなたもごぞんじでしたの?」やや驚いたさまで、ソーニャは問い返した。
「カチェリーナ・イヴァーノヴナは肺病です、しかもたちの悪いほうです。あの女《ひと》はまもなく死にます」
 ラスコーリニコフはしばらく無言の後、彼女の質問には答えないでそういった。
「いいえ、違います、違います、違います!」
 こういって、ソーニャは無意識に彼の両手を握った。それは、どうかそんなことのないようにしてくれと、哀願でもするような風情《ふぜい》だった。
「だって、そのほうがいいじゃありませんか、なくなったほうが」
「いいえ、よかありません、よかありません、けっしてよかありませんわ!」と彼女はおびえたように、口をついて出るままくりかえした。
「だが、子供たちは? もしそうなったら、あなたは、どこへ子供らをやるつもりです、あなたのところでないとすると?」
「ああ、わたしもうわかりませんわ!」とほとんど絶望の調子でソーニャは叫ぶと、いきなり両手で頭をかかえた。察するところ、この考えはもう幾度も幾度も、彼女自身の頭にひらめいたもので、彼はただそれをまたつっつき出したのにすぎないらしかった。
「それでは、もしあなたが、今まだカチェリーナ・イヴァーノヴナの生きてるうちに、病気にかかって病院送りになったら、その時はどうします?」と彼は容赦なく問いつめた。
「ああ、あなたは何をおっしゃるんですの、何をおっしゃるんですの! そんなことこそあるはずがありませんわ!」
 こういったソーニャの顔は、恐ろしい驚愕《きょうがく》にゆがんだ。
「どうして、あるはずがないんです?」とラスコーリニコフは残酷なうす笑いを浮かべながら、言葉をついだ。「あなただって保証されてるわけじゃないでしょう? もしそうなったら、あの人たちはどうなるんです! 一家族ぞろぞろと往来へものごいに出かける。あの女《ひと》はごほんごほんせきをして、そでごいをする。そして今日のように、どこかの壁へ頭をぶっつけ始める、子供らは泣く……やがてあの女《ひと》は倒れて警察へはこぼれる。それから病院送りになって死んでしまう。ところで、子供らは……」
「ああ、違います……そんなことは神さまがおさせになりません!」しめつけられたソーニャの胸から、やっとこれだけの言葉がほとばしり出た。
 彼女は言葉に出さぬ哀願に両手を合わせ、まるでいっさいが彼の意志で左右されることであるかのごとく、祈るような目つきで彼の顔を見ながら、じっと聞いていた。
 ラスコーリニコフは立ちあがり、部屋の中を歩き始めた。一分ばかり過ぎた。ソーニャは恐ろしい悩みに、手と首とをぐったり垂れたまま、そこに立ちつくしていた。
「貯金することはできないですか? 万一の時の用意にのけておくことは?」ふいに彼女の前に立ち止まりながら、彼はこうたずねた。
「いいえ」とソーニャはささやいた。
「もちろん、だめでしょう! しかし、ためしてみたことがありますか?」と彼は心もちあざけるような調子でいいたした。
「やってみましたわ」
「そして、もちきれなかったんですね! いや、そりゃ知れきった話だ! 聞いてみることもありゃしない!」
 彼はまた部屋の中を歩きだした。また一分ばかり過ぎた。
「毎日もらうわけじゃないんでしょう?」
 ソーニャは前よりいっそうどぎまぎした。紅《くれない》がふたたびさっと顔を染めた。 「ええ」彼女はせつない努力をしながら、ささやくように答えた。
「ポーレチカもきっと同じ運命になるんだろうな」と彼は出しぬけにこういった。
「いいえ! いいえ、そんなことあるはずがありません、違います!」とソーニャは死にもの狂いの様子で、まるでだれかふいに、刀で切りつけでもしたかのように叫んだ。「神さまが、神さまがそんな恐ろしい目にはおあわせになりません!」
「だって、ほかの人にはあわせてるじゃありませんか」
「いいえ、いいえ! あの子は、神さまが守っていてくださいます、神さまが!………」と彼女はわれを忘れてくりかえした。
「だが、もしかすると、その神さまさえまるでないのかもしれませんよ」一種のいじわるい快感を覚えたラスコーリニコフは、そういって笑いながら、相手の顔を見やった。
 ふいにソーニャの顔には恐ろしい変化が生じ、その上をぴりぴりと痙攣《けいれん》が走った。言葉に現わせない非難の表情で、彼女はじっと彼を見つめた。何かものいいたげな様子だったけれど、ひと言も口をきくことができないで、ただ両手で顔を隠しながら、なんともいえぬ悲痛なすすり泣きを始めた。
「あなたは、カチェリーナ・イヴァーノヴナの頭がめちゃめちゃになりかかってるとおっしゃったが、あなたご自身の頭だって、めちゃめちゃになりかかってるんですよ」しばらく無言の後に、彼はこういった。
 五分ばかり過ぎた。彼は絶えず無言のまま、彼女のほうは見ないようにしながら、あちこち歩きまわっていた。やがてついに彼女のそばへ近づいた。彼の目はぎらぎらと光った。彼は両手で女の肩を押えて、ひたとその泣き顔に見入った。彼のまなざしはかさかさして、しかも燃えるように鋭く、くちびるはわなわなとはげしくふるえていた……とつぜん彼はすばやく全身をかがめて、床の上へからだをつけると、彼女の足に接吻《せっぷん》した。ソーニャは愕《がくぜん》然として、まるで相手が気ちがいかなんぞのように、彼から一歩身を引いた。じっさい、彼はまるっきり気ちがいのような目つきをしていた。
「あなたは何をなさるんです、何をなさるんです? わたしなんかの前に!」と彼女は真青になってつぶやいた。と、急に彼女の心臓は痛いほど強く強く締めつけられた。
 彼はすぐ立ちあがった。「ぼくはお前に頭をさげたのじゃない。ぼくは人類全体の苦痛の前に頭をさげたのだ」彼はなんとなく奇妙な声でいい、窓のほうへ離れた。「じつはね」一分ばかりたって、また彼女のそばへもどって来ながら、彼はつけたした。「ぼくさっき、ある無礼なやつにこういってやったよ。そいつなんかは、お前の小指一本の値うちもないって……それからまた、今日ぼくが妹をお前とならんですわらせたのは、妹に光栄を与えたわけだって」
「まあ、あなたは何をおっしゃいましたの! しかも、お妹さんの前で?」とソーニャはおびえたように叫んだ。「わたしとならんでかけるのが! 光栄ですって! だってわたしは……けがれた女じゃありませんか……ああ、あなたはまあ何をおっしゃったんでしょう!」
「ぼくはお前の不名誉や、罪悪にたいして、そういったのじゃない、お前の偉大なる苦痛にたいしていったのだ。ところで、お前が偉大なる罪人《つみびと》だってことは、そりゃそのとおりだ」と彼は感激にみちた調子でいいたした。「お前が罪人な訳は、何よりも第一に、役にも立たぬことに[#「役にも立たぬことに」に傍点]自分を殺したからだ、売ったからだ。これが恐ろしいことでなくてなんだろう! そうとも、それほど憎んでいるこのどろ沼の中に住んでいて、しかも同時に、ちょっと目を開きさえすれば、こんなことをしていたって、だれを助けることにもならないし、どんな不幸を救うことにもならないのを、自分でもちゃんと知っているんだもの、これが恐ろしいことでなくてなんだろう! それに、第一、ききたいことがある」と彼はほとんど狂憤に近い様子でいった。「どうして、そんなけがらわしい卑しいことと、それに正反対な神聖な感情が、ちゃんと両立していられるんだろう? いっそまっさかさまに水の中へ飛び込んで、ひと思いにかたづけてしまったほうがずっと正しい、千倍も正しい、利口なやりかたじゃないか!」
「じゃ、あの人たちはどうなりますの?」とソーニャは悩ましげに、けれど同時に、彼のこうした提議にべつだん驚いたさまもなく、相手をちらと見上げて、弱々しい声でこう問い返した。
 ラスコーリニコフはふしぎな顔をして彼女を見やった。
 彼はいっさいのことを、彼女のまなざし一つに読んだのである。してみると、この考えはじっさい彼女自身にも前からあったのだ。ことによったら、彼女はもう幾度も絶望のあまり、どうしたらひと思いにかたづけることができようかと真剣に考えたのかもしれない。いま彼の言葉を聞いても、かくべつ驚くこともないくらい、真剣に考えたのかもしれない。彼女は相手の言葉の残酷《ざんこく》なことにすら、気がつかなかったのである(彼の非難の意味にも、彼女の汚辱にたいする彼の特殊な見かたの意味にも、彼女はもちろん気づかなかった。そして、それは彼にもわかっていた)。けれど、このあさましい恥ずべき境遇を思う心が、もう以前から、悪夢のようにはげしく彼女を苦しめ、さいなんでいたことは、彼も十分に了解した。今日の日まで、ひと思いに死のうという、彼女の決心を控えさす力を持っているのは、はたしてなんであるか? それを彼は考えた。と、その時はじめて、あの哀れな幼いみなし子たちと、半気ちがいのようになって頭を壁へぶっつけたりする、あのみじめな肺病やみのカチェリーナが、彼女にとっていかなる意味をもっているかを悟ったのである。
 しかしそれにしても、これだけの気性をそなえ、曲がりなりにも教育を受けているソーニャが、どんなことがあろうとも、今のままでいられないのは彼も明瞭《めいりょう》にわかっていた。なぜ彼女があまりにも長い間、こうした境遇にあまんじていられたのか? 身投げすることができなかったとすれば、どうして発狂せずにいられたのか?――これはなんといっても彼には疑問だった。もちろん、ソーニャの位置は不幸にして、唯一の例外とはけっしていえないながらも、ともあれ社会における偶然の現象である。その点は彼も了解していた。けれどもつまりこの偶然性と、彼女の受けた多少の教育と、彼女のそれまで送ってきた生活などは、このいまわしい道へはいる第一歩において、ただちに彼女を殺す原因となりえたはずである。いったい何が彼女を引き止めているのか? まさか淫蕩《いんとう》の味ではなかろう! そんなことはない、この汚辱《おじょく》はただ機械的に彼女に触れたのみで、まだ真の淫蕩はひとしずくも彼女の心にしみ込んではいない。彼はそれを見てとった。彼女はまのあたり彼の前に立っているではないか……
『彼女の取るべき道は三つある』と彼は考えた。『掘り割へ身投げするか、気違い病院へはいるか、それとも……それとも最後の方法として、理知をくらまし心を化石にさせる、淫蕩《いんとう》のただ中へ飛び込むかだ』最後の想像は彼にとって、最もいまわしいものであった。けれど、彼はあまりに懐疑派であり、若年であり、抽象家であり、したがって残酷であったから、最後の解決すなわち淫蕩が、何よりも一ばんありうべきことと信じないわけにいかなかった。
『しかし、いったいそれが真実なのだろうか』と彼は心の中で叫んだ。『いまだに心の清浄を保ってきたこの少女も、はたして最後には、あのけがらわしい悪臭にみちた穴の中へ、意識しながら引き込まれて行くのだろうか! いったいその緩慢《かんまん》な堕落《だらく》はすでに始まっているのだろうか? そして彼女が今までそれをがまんしていられたのも、この悪行がそれほどいとわしいものに思われなくなったからだろうか? いや、いや、そんなことがあろうはずはない!』と彼はさきほどソーニャが叫んだとおりに、心の中でこう叫んだ。『いや、今まで身投げから彼女を引き止めていたのは、罪という観念だ。そしてあの人たち[#「人たちだ」に傍点]だ……もし彼女が今まで気が狂っていないのなら……しかし、彼女の気が狂っていないなんて、そもそもだれがいった? いったい彼女は健全な判断力を持っているだろうか? 健全な判断力を持っていて、さっきいったような、あんなことがいえるだろうか? いったい彼女の持っているあんな考えかたができるだろうか? 滅亡の深淵のふちに――もうそろそろ自分を引きずり込みかけている臭い穴の上に立って、危険を警告されているのを聞こうともせず、手を振り、耳をおおっているなんてことが、いったいまあ、できるものだろうか? ひょっとしたら、何か奇跡でも待っているのじゃなかろうか! いや、確かにそうだ。はたしてこうしたいろいろの事実は、発狂の徴候でないといわれるか?』
 彼は執拗《しつよう》にこの想念を守ろうとした。この結論は何よりも彼の気に入った。彼はいっそう目を凝らして彼女の顔に見入った。
「で、ソーニャ、お前は一心に神さまにお祈りをするのかい?」と彼は尋ねた。
 ソーニャは黙っていた。彼はそのそばに立って、返事を待っていた。
「もし、神さまがなかったら、わたしはどうなっていたでしょう?」と彼女は力をこめて早口にささやきながら、急にきらきら輝いてきた目をちらと男に投げ、その手をぎゅっとかたく握った。
『ああ、やっぱりそうだった!』と彼は考えた。
「で、神さまはその褒美《ほうび》に何をしてくださるんだい?」彼はどこまでも追及《ついきゅう》しながら、こう尋ねた。
 ソーニャは答えかねるように、長いあいだ黙っていた。その弱々しい胸は興奮のために波打った。
「どうか黙っててください! きかないでください! あなたにそんな資格はありません……」いかつい腹立たしげな目つきで彼を見すえながら、彼女は急に叫んだ。
『そうだったのだ! そうだったのだ!』と彼は執拗《しゅうね》く心の中でくりかえした。
「なんでもみんなしてくださいます!」また目を下へ伏せて、彼女は早口にささやいた。
『これが解決だ! これが解決の説明なんだ!』むさぼるような好奇心をいだいて、しげしげと彼女を見ながら、彼はひとりで心に決めてしまった。
 新しい不可思議な、ほとんど病的な感情をいだきながら、彼はその青白くやせて、輪郭の不ぞろいなこつこつした顔や、ああいうはげしい火に燃え立ったり、峻厳《しゅんげん》な力強い感情に輝きうる、つつましやかな青い目や、憤懣《ふんまん》と激昂《げっこう》に、なおもふるえているその小柄なからだに見入った。すると、それらすべてのものが、彼の目にいよいよふしぎな、ほとんどありうべからざるもののように思われてきた。『狂信者だ!狂信者だ!』と彼は心の中でくりかえした。
 たんすの上に何やら本が一冊のせてあった。彼はあちこち歩きながら、その前を通るたびに気づいていたが、とうとう手にとって見た。それは露訳の新約聖書であった。古い手ずれのした皮表紙の本である。
「これはどこで手に入れたの?」と彼は部屋の端から声をかけた。
 彼女はテーブルから三歩ばかり離れた同じ場所に、やはりじっと立っていた。
「人が持って来てくれましたの」彼女は気の進まぬ調子で、彼のほうを見ずに答えた。
「だれが持って来たの?」
「リザヴェータが持って来てくれましたの、わたしが頼んだものですから」
『リザヴェータ! 奇妙だなあ!』と彼は考えた。
 ソーニャの持っているすべてのものが、彼にとって一刻一刻、いよいよ奇怪に不可思議になっていく。彼は本をろうそくのそばへ持って来て、ページをめくり始めた。
「ラザロのことはどこにあるのだろう?」と彼は出しぬけに尋ねた。
 ソーニャは執拗《しゅうね》くうつむいたまま、返事をしなかった。彼女はテーブルへややはすかいに立っていた。
「ラザロの復活はどこ? ソーニャ、さがし出してくれないか」
 彼女は横目に彼を見やった。
「そんなところじゃありませんわ……第四福音書です!……」彼のほうへ寄ろうともしないで、彼女はきびしい声でつぶやいた。
「さがし出して、読んで聞かせてください」と彼はいって腰をおろし、テーブルにひじをついて、片手で頭をかかえ、聞こうという身構えをしながら、気むずかしげな顔をして、わきのほうへ目をすえた。
『三週間もたったら、別荘[#「別荘」に傍点]のほうへおいでを願いますよ。どうやらぼく自身もそちらへ行ってるらしいんだから――もしそれ以上悪いことさえなければ』と彼は腹の中でつぶやいた。
 ソーニャは会得《えとく》のいきかねるようなふうで、ラスコーリニコフのふしぎな望みを聞き終わると、思いきりわるそうにテーブルへ近づいたが、それでも、本を取り上げた。
「いったい、あなたはお読みにならなかったんですの?」彼女はテーブルの向こう側から、上目づかいに相手を見ながら、こう尋ねた。彼女の声はしだいしだいにいかつくなってきた。
「ずっと前……中学校の時分に。さあ読んで!」
「教会でお聞きにならなかったんですの?」
「ぼくは……行ったことがないんだ。お前はしょっちゅう行くの?」
「い、いいえ」とソーニャはささやくように答えた。
 ラスコーリニコフはにやりと笑った。
「そうだろう……じゃ、明日、お父さんの葬式にも行かないの?」
「行きますわ。わたし先週も行きました……ご法事に」
「だれの?」
「リザヴェータ。あの女《ひと》はおので殺されたんですの」
 彼の神経はしだいに強くいらだってきた。頭がぐらぐらしはじめた。
「リザヴェータとは仲がよかったの?」
「ええ……あのひとは心のまっすぐな人でした……ここへも来ましたわ……たまにね……たびたびは来られなかったんですもの……わたしはあの女《ひと》といっしょに読んだり、そして、……話したりしましたわ。あの女《ひと》は親しく神を見るでしょうよ」
 こうした書物めいた言葉が、彼の耳には異様にひびいた。のみならず、リザヴェータとの秘密な会合や、ふたりとも狂信者であるという事実も、やはり耳新しく感じられた。
『こんなところにいると、自分も狂信者になってしまいそうだ! 感染力を持っている』と彼は考えた。
「さあ読んでくれ!」と彼はとつぜん強情らしい、腹立たしげな調子で叫んだ。
 ソーニャはいつまでもちゅうちょしていた。彼女の心臓はどきどき鼓動した。なんとなく彼に読んで聞かせるのがためらわれたのである。彼はこの『不幸な狂女』を、ほとんど苦しそうな表情で見つめていた。
「あなたに読んであげたってしようがないじゃありませんの? だって、あなたは信者じゃないんでしょう?………」と彼女は小さな声で、妙に息を切らせながらささやいた。
「読んでくれ! ぼくはそうしてもらいたいんだ!」と彼はいいはった。「リザヴェータにゃ読んでやったんじゃないか」
 ソーニャはページをめくって、その場所をさがし出した。彼女は手がふるえて声が出なかった。二度も読みかけたけれど、最初切一句がうまく発音できなかった。
「ここに病《や》める者あり、ラザロといいてベタニヤの人なり……」と彼女は一生けんめいにやっとこれだけ読んだ。が、とつぜん第三語あたりから声が割れて、張りすぎた絃《げん》のようにぶっつり切れた。息がつまって、胸が苦しくなったのである。
 ラスコーリニコフは、なぜソーニャが自分に読むのをちゅうちょするのか、そのわけが多少わかっていた。しかし、そのわけがわかればわかるほど、彼はますますいらだって、ますます無作法に朗読を迫った。彼女はいま自分の持っているもの[#「自分の持っているもの」に傍点]を、何もかもさらけ出してしまうのが、どんなにかつらかったのだろう。それは彼にわかりすぎるほどわかっていた。彼女のこうした感情は、じっさい昔から、ことによったらまだほんの子供の時分から、不幸な父と悲嘆のあまり気のふれた継母のそばで、飢餓《きが》に迫っている子供たちや、聞くにたえぬ叫びや叱責《しっせき》などにみちた家庭にいる時分から、彼女の真髄《しんずい》ともいうべき秘密[#「秘密」に傍点]をなしていたに相違ない。そのことも彼は了解した。が、それと同時に、こういうことにもはっきり気がついた――いま彼女は朗読にかかりながら、心を悩ましたり、何やらひどく恐れたりしているくせに、一面では、そうした悩みや危懼《きぐ》を裏切って、ほかならぬ彼[#「彼」に傍点]という人間にぜひとも今[#「今」に傍点]、あとで何事が起ころうとも!………読んで聞かせたい、聞いてもらいたいという願望が、苦しいまでに彼女の心を圧していたのである。彼はそれを彼女のひとみに読み、感激にみちた興奮によって会得《えとく》した……彼女は自分を制御して、第一節のはじめに声をとぎらせたのどの痙攣《けいれん》を押しつけながらヨハネ伝の第十一章を読みつづけた。こうして彼女は十九節まで読み進んだ。
「多くのユダヤ人《ひと》、マルタとマリヤをその兄弟のことによりて慰めんとて、すでに彼らのところに来たりおれり。マルタは、イエス来たまえりと聞きてこれを出迎え、マリヤはなお家に座せり、そのときマルタ、イエスにいいけるは、主よ、なんじもしここにいまししならば、わが兄弟は死なざりしものを。さりながらたとえ今にても、なんじが神に求むるところのものは、神なんじにたもうと知る」
 ここで彼はまた言葉を切った。またしても声がふるえてとぎれるだろうという恥ずかしさを、予感したからである……
「イエス彼女にいいけるは、なんじの兄弟は甦《よみがえ》るべし。マルタ、イエスにいいけるは、終わりの日の甦るべき時に、彼|甦《よみがえ》らんことを知るなり。イエス彼女にいいけるは、われ[#「われ」に傍点]は甦りなり[#「甦りなり」に傍点]、いのちなり[#「いのちなり」に傍点]、われを信ずるものは、死すとも生くべし。すべて生きてわれを信ずるものは、永遠に死することなし。なんじこれを信ずるや? 彼女イエスにいいけるは――」
(ソーニャはさも苦しげな息をつぎ、句読《くとう》ただしく力をこめて読んだ。それはさながら全世界に向かって説教でもしているようなふうであった。)
「主よ、しかり! われなんじは世に臨《きた》るべきキリスト、神の子なりと信ず」
 彼女はちょっと朗読をやめて、ちらとすばやく彼の[#「彼の」に傍点]顔へ目を上げたが、大急ぎで自己を制し、さらに先を読みつづけた。ラスコーリニコフは腰をかけたまま、そのほうをふり向こうともせず、テーブルにひじ突きしてそっぽを見ながら、身動きもしないで聞いていた。ついに第三十二節まで読み進んだ。
「マリヤ、イエスのところに来たり、彼を見て、その足もとに伏していいけるは、主よ、なんじもしここにいまししならば、わが兄弟は死なざりしものを、イエス彼女の哭《なげ》きと、彼女とともに来たりしユダヤ人《びと》の泣くのを見て、心を痛ましめ身ふるいていいけるは、なんじいずこに彼を置きしや? 彼らいいけるは、主よ来たりて見たまえ、イエス涙を流したまえり。ここにおいてユダヤ人《びと》いいけるは、見よ、いかばかりか彼を愛するものぞ。その中なるものいいけるは、盲者《めしい》の目を啓《ひら》きたるこの人にして、彼を死なざらしむるあたわざりしや?」
 ラスコーリニコフは彼女のほうをふり向いて、胸をおどらせながらその顔を見た。そうだ、はたしてそうだった! 彼女はすでにまぎれもなくほんとうの熱病にかかったように、全身をぶるぶるふるわせていた。彼はそれを期待していたのである。彼女は偉大な前後|未曾有《みぞう》の奇跡を語る言葉に近づいた。偉大な勝利感が彼女をつかんだ。彼女の声は金属のように、さえたひびきを帯びてきた。内部《うち》に満ちあふれる勝利と歓喜の情がその声に力をつけた。目の中が暗くなったので、行と行が入り交ってきたが、彼女はそらでちゃんと読むことができた。『盲目《めしい》の目を啓《ひら》きたるこの人にして……あたわざりしや?』という最後の一節では、彼女はちょっと声を落として、信ぜざる盲目のユダヤ人《びと》の疑惑と、非難と、中傷を伝え、また彼らが一分の後に、さながら雷にでも打たれたように大地に伏して号泣しながら信仰にはいった気持ちを、燃えるような熱情をこめて伝えたのである……『この人も[#「この人も」に傍点]、この人も[#「この人も」に傍点]――同じように盲目で不信心なこの人も、すぐにこの奇跡を聞いて、信ずるようになるだろう、そうだ、そうだ! すぐこの場で、たったいま』と彼女は空想した。彼女は喜ばしい期待に全身をふるわしていた。
「イエスまた心を痛ましめて墓に至る。墓は洞《ほら》にて、その口のところに石を置けり。イエスいいけるは、石を除けよ。死せし者の姉妹マルタ彼にいいけるは、主よ、彼ははや臭し、死してよりすでに四日をへたり」
 彼女はことさら、この四日[#「四日」に傍点]という言葉に力を入れた。
「イエス彼女にいいけるは、なんじもし信ぜば神の栄《さかえ》を見るべしと、われなんじにいいしにあらずや。ついに石を死せし者を置きたるところより取り除けたり。イエス天を仰ぎていいけるは、父よ、すでにわれに聴《き》けり、われこれをなんじに謝す。われなんじがつねに聴《き》くことを知る。しかるにわがかくいうは、傍《かたわら》に立てる人々をして、なんじのわれをつかねししことを信ぜしめんとてなり、かくいいて、大声に呼びいいけるは、ラザロよ、出でよ、死せし者[#「死せし者」に傍点]……」
(彼女はさながら自分が、まのあたり見たもののように、感動にふるえて、身内《みうち》をぞくぞくさせながら、声高く読み上げた。)
「……布にて手足をまかれ、顔は手巾にてつつまれて出《い》ず。イエス彼らにいいけるは、彼を解きて歩かしめよ」
「[#傍点]その時マリヤとともに来たりしユダヤ人イエスのなせしことを見て多く彼を信ぜり[#傍点終わり]」
 彼女はもうその先を読まなかった。また読めなかったのである。彼女は本を閉じて、つと、いすから身を起こした。
「ラザロの復活はこれだけです」と彼女はきれぎれに、きびしい調子でこういうと、彼のほうへ目を上げるのを恥じるかのように、わきのほうへくるりとからだを向けて、身動きもせずにじっと立っていた。彼女の熱病的な戦慄《せんりつ》はなおつづいていた。ゆがんだ燭台に立っているろうそくの燃えさしは、奇《き》しくもこの貧しい部屋のなかに落ち合って、永遠な書物をともに読んだ殺人者と淫売婦《いんばいふ》を、ぼんやり照らし出しながら、もうだいぶ前から消えそうになっていた。五分かそれ以上もたった。
「ぼくは用があって、その話に来たんだ」ラスコーリニコフは眉《まゆ》をしかめながら、とつぜん声高《こわだか》にこういって立ちあがり、ソーニャのそばへ近寄った。
 こちらは無言で彼のほうへ目を上げた。彼のまなざしはことに峻烈《しゅんれつ》で、その中には一種の荒々しい決意が現われていた。
「ぼくは今日、肉親を捨ててしまった」と彼はいった。「母と妹を。ぼくはもうあれたちのところへは行かないのだ。あっちですっかり縁を切って来た」
「なぜですの?」とソーニャは度肝《どぎも》を抜かれたようにたずねた。
 さきほど彼の母と妹に会見したことは、自身でこそはっきりしないけれど、彼女になみなみならぬ印象を残していた。彼女は親子兄弟絶縁の報告を、ほとんど恐怖に近い気持ちで聞いた。
「今のぼくにはお前という人間があるばかりだ」と彼はいいたした。「いっしょに行こうじゃないか。……ぼくはわざわざお前のところへ来たのだ。ぼくらはお互いにのろわれた人間なのだ。だからいっしょに行こうじゃないか!」
 彼の目は輝いた。『まるで半分きちがいだ!』とソーニャは考えた。
「どこへ行くんですの?」と彼女は恐ろしそうにたずねて、思わず一歩あとへしさった。
「ぼくがどうして知るもんか? ただ同じ道づれだということが、わかっているだけだ。それだけは確かに知っている――ただそれだけなんだ。目あては一つだ!」
 ソーニャは彼をじっと見てはいたが、何ひとつわからなかった。彼女はただ彼がこの上なく、限りなく不幸だということだけ了解した。
「お前があいつらに話をしたって、だれひとりわかってくれるものはない」と彼は言葉をつづけた。「ところが、ぼくはわかった。お前はぼくにとって必要なんだ。だから、ぼくお前のところへやって来たんだよ」
「わかりませんわ……」とソーニャはささやいた。
「そのうちにわかるよ。お前だってぼくと同じことをしたじゃないか。お前もやっぱり、踏み越えたんだよ……踏み越えることができたんだよ。お前は自分で自分に手をくだした。お前は一つの生命を滅ぼしたんだ……自分の[#「自分の」に傍点]生命を、(それはどっちだって同じだからな!)お前は精神と理性で生きていける人間なんだよ、しかしけっきょくセンナヤ広場で終わる運命なのだ……けれど、お前には持ちきれない。もしひとりきり[#「ひとりきり」に傍点]になったら、ぼくと同じように気が狂うだろう。お前はもう今でも気ちがいじみている。してみると、ぼくらふたりはいっしょに同じ道を行くべきなんだ! 行こうよ!」
「なぜ? なぜそんなことばかりおっしゃるの!」彼の言葉に怪しくとどろく胸を騒がせながら、ソーニャはそういった。
「なぜだって? なぜといって、いつまでもこうしてはいられないからだ――これがそのわけなのさ。それに第一、子供みたいに泣いたり、神さまが許さないなどとわめいたりしないで、真剣に端的に分別《ふんべつ》しなくちゃならないんだよ! もし明日にでもお前がほんとに病院送りになったら、いったいどうなると思う? 半気ちがいの肺病やみは、やがて死んでしまうだろうが、子供はどうする? いったいポーレチカが身を滅ぼさずにすむと思う? お前は町の角々で、母親のために物ごいに出されている子供たちを、見たことはないのかい? そういう母親たちがどこで、どんなふうに暮らしているか、ぼくはちゃんと知っている。そこでは子供も、子供ではいられないんだ。そこには七つの子供も性的に堕落《だらく》したり、どろぼうになったりするんだ。ところが、子供はキリストの化身《けしん》なのじゃないか。『天国は彼らのものなり』だ。イエスは彼らを敬い愛せよと命じた。彼らは未来の人類なのだ……」
「どうしたら、いったいどうしたらいいんでしょう?」ソーニャはヒステリックな泣き声をあげ、両手をもみしだきながらくりかえした。
「どうしたらいいかって? 破壊すべきものをひと思いに破壊してしまう、それだけのことさ。そして苦痛を一身に負うのだ! え? わからないかい? あとでわかるよ……自由と権力、ことに権力だ! ふるえおののく有象無象《うぞうむぞう》にたいして、蟻塚《ありづか》のような群れにたいして権力を握るのだ! これが目的だ! これを覚えておくがいい! これがお前にたいするぼくのはなむけだ! ことによったら、お前と話をするのも、これが最後かもしれない。もしあした、ぼくが来なかったら、何もかもしぜんと耳にはいるだろう。そうしたら、いまの言葉を思い出しておくれ。そのうちにいつか、何年か後に、生活を重ねるにつれて、その言葉の意味がわかるかもしれない。が、もしあした来たら、その時には、だれがリザヴェータを殺したか、お前にいって聞かそう。じゃ、さようなら!」
 ソーニャは驚きのあまり、ぴくりと身をふるわした。
「まあ、いったいあなたはだれが殺したのか、知っていらっしゃるの?」恐怖のあまり氷のようになり、妙な目つきで相手を見つめながら、彼女はこう尋ねた。
「知ってる、だからいって聞かせるんだ……お前に、お前ひとりだけに! ぼくはお前を選んだのだ。ぼくはお前のところへ許しをこいに来るんじゃない、ただいいに来るだけなんだよ。ぼくはずっと前から、初めてお父さんがお前の話をしたときから、ぼくはこのことを聞かせる人にお前を選んでいたのだ。リザヴェータがまだ生きてる時から、それを考えていたのだ。さよなら。手を出さないでくれ。では明日!」
 彼は出て行った。ソーニャは気ちがいでも見るように、彼を見送っていた。けれど、彼女自身もまるで気ちがいのようであった。そして、自分でもそれを感じた。彼女はめまいがしていた。『ああ! あの人はどうしてリザヴェータを殺した下手心《げしゅにん》を知ってるのだろう? あの言葉はどういう意味なんだろう? 恐ろしい!』けれどこの瞬間、こうした想念[#「想念」に傍点]は彼女の頭に浮かばなかった。夢にも、夢にも浮かばなかった!………『ああ、あの人は恐ろしく不仕合わせなのにちがいない!………お母さんや妹さんを捨ててしまったって、なぜだろう? 何かあったんだろう? そしてあの人は何をもくろんでいるのだろう? いったいあの人はわたしに何をいったんだろう? あの人はわたしの足に接吻《せっぷん》して、そういった……そういった。(そうだ、あの人ははっきりそういった。)わたしを離れては、もう生きていられないって……おお、なんということだ!』
 ソーニャは一夜を熱と悪夢の中に過ごした。彼女はときおり、はね起きて、泣いたり、両手をもみしだいたりするかと思うと、また熱病やみのような眠りに前後を忘れた。そして夢にポーレチカや、カチェリーナや、リザヴェータや、福音書を読んだことや、それから彼……青ざめた顔をして、目を燃えるように輝かしているラスコーリニコフなどを見た。彼は彼女の足に接吻して、泣いている……おお、神よ!
 右手のドア、ソーニャの部屋をゲルトルーダ・カールロヴナ・レスリッヒの住まいと隔てているドアの向かい側には、同じくレスリッヒ夫人の住まいに属する中間の部屋があって、もう長いことあき間になっていた。それは、貸しに出されているので、その広告が門口や、掘り割に面した窓ガラスなどに貼りつけてあった。ソーニャはずっと前からこの部屋には人が住まっていないものと思いこんでいた。ところが、そのあき間のドアのそばには、スヴィドリガイロフ氏がその間ずっとたたずんで、息を凝らしながら、立ち聞きをしていたのである。ラスコーリニコフが出て行ったとき、彼はしばらく立って考えたのち、つま先立ちであき間の隣にある自分の部屋へもどり、一脚のいすを取って、ソーニャの部屋へ通ずるドアのそばへそっとはこんだ。ふたりの会話は、彼にとって興味のある意味深いものに思われて、すっかり気に入ってしまった――で、彼はこの先、たとえば明日にもさっそく、今のようにまる一時間もじっと立ち通すような不快な目を二度とまたくりかえさないために、そしてあらゆる点において十分満足をうるために、少しでもぐあいよく落ちつこう――とこういうわけでわざわざいすを運んで来たのである。

      5

 翌朝、きっかり十一時に、ラスコーリニコフが警察の予審部へはいって行って、ポルフィーリイに取次ぎを頼んだとき、彼はあまり長く通してくれないのに、むしろ驚いたくらいだった。彼が呼ばれるまでには、少なくとも十分はたった。彼の目算によると、いきなり向こうから飛びかかって来なければならぬはずだった。それにもかかわらず、彼が控え室に立っていると、見うけたところ、彼などになんのかかわりもなさそうな人々が、彼のそばをしきりにあちこちしていた。事務室らしい次の間には、幾人かの書記が控えて、書きものをしていたが、その中のだれひとりとして、ラスコーリニコフが何者でどういう人物なのか、そんなことは皆目《かいもく》知らないらしかった。落ちつきのない疑わしげな目つきで、彼は周囲を見まわしながら、その辺にだれか看守のような者がいはしないか、彼がどこかへ行ってしまわぬように監視を命ぜられた、何らかの秘密な目はないか、見つけ出そうとした。しかし、そんなものはいっこうなかった。彼はただこせこせと忙しげな事務の連中の顔と、ほかにいくたりかの人を見たばかりで、よしんば彼がいますぐ勝手にどこへ飛び出しても、だれひとりそれを問題にする者はなかった。で、もしあのなぞのような昨日の男が――あの地からわき出したような幻が――ほんとうにいっさいのことを見、いっさいのことを知っているとしたら――いま彼ラスコーリニコフにこうして立って、ゆうゆうと待っているようなことを、させておくはずがない――こういう想念が、だんだん彼の頭のなかに固まってきた。それに、彼が十一時ごろになって、自分の都合でやっと足を運んで来るまで、のんべんだらりと待っているはずがなかろうじゃないか? してみると、あるいはあの男がまだ何も密告していないのか……あるいはやっぱりなんにも知らないで、自分の目ではまるきり何も見なかったのか、二つに一つである(そうだ、どうしてやつに見ることができるものか?)としてみれば、昨日、彼ラスコーリニコフの身に起こったいっさいのことは、またぞろ例のいらいらした病的な想像に誇張された幻影にすぎなかったのだ。こうした推測はまだ昨日、もっとも激しい不安と絶望のただ中に、彼の心中に固まりかけていたのである。今これらすべてのことを思い返し、新しい闘争の心構えをしながら、彼はとつぜん自分のからだがふるえているのを感じた――あの憎んでもあまりあるポルフィーリイを恐れてふるえているのだと思うと、彼の心中には憤懣《ふんまん》の情さえわき立ってきた。彼にとって何より恐ろしいのは、またあの男と顔を合わせることだった。彼はこの男を底の知れぬほど、かぎりなく憎んでいた。憎悪のあまりに、つい何かの拍子で、自己を暴露するようなことがありはしないかと、それを恐れるくらいだった。その憤懣の情があまり強かったので、ふるえはすぐにとまってしまった。彼は落ちついた不敵な顔つきではいって行く準備をした。そしてできるだけ沈黙を守り、目を凝らし耳をすまして様子をうかがおう、せめてこんどだけは、どんなことがあろうとも、病的にいらいらした自分の性質にうち勝とうと心に誓った。ちょうどこの時、彼はポルフィーリイのもとへ呼ばれた。行ってみると、この時ポルフィーリイは自分の部屋にひとりでいた。彼の部屋は大きくもなければ小さくもなく、その中には大型の書き物机、その前に置かれた油布張りの長いす、事務机、片すみにある戸だな、それから数脚のいすなどで、すべてがみがきのかかった黄楊《つげ》製の官給品だった。正面の壁というよりむしろ仕切り板のすみに、締め切った戸口があった。その仕切り板の向こうには、確かまた何かの部屋がつづいているに相違ないらしかった。ラスコーリニコフがはいると、ポルフィーリイはすぐそのドアを締めてしまったので、彼らはふたりきりさし向かいになった。彼は見たところ、この上もなく愉快そうな、あいそのいい態度で客を迎えた。しかし、もう幾分かたったとき、ラスコーリニコフは二、三の徴候によって、彼がなんとなくまごついているらしいのに気がついた。それはふいに何かで面くらわされたか、あるいはひとりで何か秘密なことをしているところを、人に見つけられたようなふうであった。
「ああ、これは大人《たいじん》、ようこそ……こんな遠路をはるばると恐れ入りますな……」彼のほうへ両手をさし出しながら、ポルフィーリイは口をきった「さあ、先生、どうぞお掛けください! それともあなたは大人とか……先生とか呼ばれたりするのが、お好きじゃないのかもしれませんな――まあtout court?(つまり)どうかなれなれしいなどと、お考えにならないでください……さあ、どうぞこの長いすへ」
 ラスコーリニコフは相手から目を放さないで、腰をおろした。
『こんな遠路はるばると』だの、なれなれしさの謝罪だの、tout courtなどというフランス語だの――すべてこういったものは、特殊な徴候であった。『だが、この男はおれに両手をさし出しておきながら、片手も握らせないで、うまく引っ込めてしまいやがった』こういった想念が彼の頭にうさんくさくひらめいた。ふたりは互いに様子をうかがい合ったけれど、双方の目が出会うやいなや、ふたりはいなずまのような早さで、それをそらすのであった。
「ぼくは届《とどけ》を持って来たんです……例の時計のことで……これなんですが、書式はこれでいいでしょうか、それともまた書き直さなくちゃいけないでしょうか?」
「なんですって? 届ですか? いいです、いいです、ご心配なく、それでけっこうです」ポルフィーリイはまるでどこかへ急いででもいるように、せかせかとこういったが、いってしまってから届を手にとり、それに目を通した。「そうです、これでけっこうです。ほかに何もいりません」と彼は同じ早口でくりかえして、紙を机の上に置いた。
 それから、一分ばかりたったとき、何かほかのことを話しながら、またそれを机から取り上げて、自分のそばの事務机へ移した。
「あなたは確か、きのうぼくに……あの……殺された老婆との関係を……正式に……尋ねたいと、おっしゃったようですね?」とラスコーリニコフはまたいいだした。
『ちぇっ、なんだっておれは確か[#「確か」に傍点]なんて、よけいなことを入れたんだろう?』という考えが、電光のように彼の頭をかすめた。『ちぇっ、また、なんだって、おれはこの確か[#「確か」に傍点]を入れたことを気にしてるんだろう?』とすぐにほかの考えが電光のようにひらめいた。
 と、彼はふいに直覚した――彼の猜疑《さいぎ》心はポルフィーリイにたった一度接触しただけで、わずかひと言ふた言かわしただけで、一、二度目を見合わせただけで、一瞬の間にものすごいほどの大きさに成長してしまった……これはきわめて危険なことだ、と彼は感じた。神経がいらいらすると、興奮してくる。
『困ったことだ! 困ったことだ! またうっかり口をすべらすぞ!』
「そう、そう、そうです! ご心配にゃおよびません! 時間はたっぷりあります、時間はたっぷりあります」机のまわりをあちこち歩きながら、ポルフィーリイはつぶやいた。けれど、べつになんの目的があるという様子もなく、窓のほうへつかつかと行ったかと思うと、事務机のほうへ突進したり、また書き物机へもどったりした。そして、ラスコーリニコフのうさんくさそうな視線を避けているかと思えば、こんどは急に一つのところに立ち止まって、彼の顔をまともに、ぴったり見つめるのであった。
 そのとき、彼の太った小さな丸々した姿が、まりのようにあちこち飛んで行って、四方の壁やすみずみから、すぐはねかえって来るのが、なんともいえず奇怪に感じられた。
「間に合いますとも、間に合いますとも!………ときに、たばこをおやりになります? お持ち合わせですかな? さあ、お一つ」と彼は紙巻きたばこをすすめながら、言葉をつづけた……「じつは、今ここへお通ししておりますが、わたしの住まいはすぐそこの仕切り板の向こうにあるんです……官舎ですがね、今は私宅におります。当分の間だけ。ちょっと修繕をしなくちゃならないもんですから。もうほとんどできあがりましたよ……官舎ってものは、いやはや、ありがたいものですて――え? あなたはどうお考えですな?」
「さよう、ありがたいものですよ」ほとんどあざけるように彼を見ながら、ラスコーリニコフは答えた。
「ありがたいものです。ありがたいものです……」急に何かほかのことを考え出したような調子で、ポルフィーリイはこうくりかえした。「さよう、ありがたいものです!」彼はふいにラスコーリニコフに視線を投げて、彼から二歩ばかりのところに立ち止まりながら、とうとうほとんど叫ぶような声でいった。この官舎はありがたいものだというばかげた言葉の反復は、その俗悪な点からいって、彼がいま客のほうへそそいでいる、まじめな、意味ありげな、なぞめいたまなざしと、あまりに矛盾しているのであった。
 しかし、それがラスコーリニコフの憤怒《ふんぬ》を、いやが上にもわき立たせた。で、彼はかなり不用意な冷笑的な挑戦《ちょうせん》を、もうがまんすることができなかった。
「ときに、どうでしょう」彼はほとんど不敵な目つきで相手を見つめ、その不敵さに一種の喜びを感じながら、ふいに問いかけた。「こういう場合には――あらゆる種類の予審判事にとって――一種の司法的原則というか法律家的方法というか、そんなものがあるようですね。つまり最初は、遠まわしに、ごくくだらないことか、それとも、よしまじめな問題にもせよ、まるで関係のないことから始めて、それでもって被尋問者に元気をつけ、いや、むしろ注意をそらして、その警戒心を眠らせておき、そのあとでふいに、それこそとうとつ[#「とうとつ」に傍点]に、のるかそるかという危険な質問をまっこうから浴びせかけるんです。そうじゃありませんか? 察するところ、このことはあらゆる法規や訓戒の中に、今でも依然として説かれてるんでしょう?」
「すると、すると……あなたは、なんですか、わたしが官舎の話をしたのも、やはりその、なにだと……え?」
 こういって、ポルフィーリイは目を細め、ぱちりとまたたきをした。何やら愉快そうな狡猾《こうかつ》らしいものが、彼の顔面を走り過ぎた。額のしわが伸びて、目が細くなり、顔の輪郭が長くなったかと思うと、彼はラスコーリニコフの目をまともに見入りながら、ふいに全身を波のようにゆすぶり、神経的な長い笑いを立て始めた。こちらもいくぶん、みずからしいる気味で笑いだした。しかし、ポルフィーリイがそれと見て、顔がほとんど紫色になるほど腹をかかえて笑いだしたとき、ラスコーリニコフの嫌悪《けんお》の情は、とつじょいっさいの警戒心を圧倒してしまった。彼は笑いやめて眉《まゆ》をひそめ、ポルフィーリイが何か思惑ありげに、止め度なく、長々と笑いつづけている間じゅう、相手から目を放さず、いつまでも憎々しげにその顔を見つめていた。とはいえ、不注意は明らかに双方に認められた。ポルフィーリイも客を面と向かって嘲笑《ちょうしょう》しながら、客がその笑いを憎悪で受けとめているにもかかわらず、その状態を大して気にしている様子もなかった。この最後の事実はラスコーリニコフにとって、きわめて意味深いものであった。彼はさとった。ポルフィーリイはさっきも、いっこうまごつきなどしたのではなく、かえって、彼ラスコーリニコフのほうが、わなに落ちたのかもしれない。ここには明瞭《めいりょう》に、彼の知らない何かがある。何かの目的がある。もしかすると、もはやすべて準備が整っていて、今すぐにもそれが暴露し、頭上にくずれかかるのかもしれない……
 彼はさっそく、いきなり用件に取りかかろうと、席から立ちあがって、帽子をつかんだ。
ポルフィーリイ・ペトローヴィチ」断固《だんこ》たる口調ではあったが、かなりかん[#「かん」に傍点]の強い声で、彼は口をきった。「昨日あなたは、何かの尋問のために、ぼくに来てほしいとおっしゃった(彼はとくに尋問[#「尋問」に傍点]という言葉に力を入れた)。で、ぼくはやって来ました。何かご用があれば、どうか尋ねてください。でなければ、もう失礼さしていただきたいのです。ぼく忙しいんですから、ぼく用があるんですから……あの、あなたも……ごぞんじの、馬に蹴《け》殺された官吏の葬式に行かなくちゃならないんです……」と彼はつけたしたが、すぐこのつけたしに、いらいらしてしまった。それから、またすぐに、いっそういらいらしながら、「ぼく、もうこのいきさつには、すっかりあきあきしてしまいました。おわかりですか、もうずっと前からです……一つはこれがもとで病気になったんです……ひと口にいえば」病気|云々《うんぬん》の一句がいっそうへま[#「へま」に傍点]だったと感じて、彼はほとんど叫ぶようにいった。「ひと口にいえば、尋問するか、つきまとうのをよすかしてください……だが、もし尋問するなら、ぜひかならず正式にやっていただきたい! それ以外には承知しません。だから、今日のところは失敬します。今われわれふたりきりでは、何もしようがありませんから」
「とんでもない! いったいあなたは何をおっしゃるんです! 何もあなたに尋問することなんかありましょう?」ポルフィーリイは急に笑うのをやめて、調子も顔つきも改めながら、まるで雌鶏《めんどり》が鳴くような声で、せかせかといいだした。「まあ、どうぞご心配なく」またしても四方八方へひょこひょこ歩きだしたかと思うと、こんどはふいに、ラスコーリニコフを席に着かせようと世話をやいたりしながら、彼はあたふたやりだした。「時間はたっぷりありますよ。時間はたっぷりありますよ。それに、こんなことはみな、なんでもありません! それどころか、あなたがとうとういらしってくだすったのを非常に喜んでいるくらいです……あなたをお客さまとして迎えているんですからね。もっとも、さっきのいまいましい無作法な笑いにたいしては、ロジオン・ロマーヌイチ、お許しをこわなくちゃなりません。ロジオン・ロマーヌイチ、確かそうでしたね。あなたの父称は……わたしは神経質なもんですから、あなたの恐ろしいうがった観察に笑わされてしまったんですよ。どうかすると、まったくゴム細工のように、からだじゅうぶるぶるふるえだすほど笑うことがあるんです。かれこれ半時間くらいぶっ通しに……笑いっぽいたちでしてな。わたしの体質ですから、卒中を恐れてるくらいなんですよ。が、まあお掛けになったら、あなたどうしたのです?………さ、どうぞ、あなた、でないと、すっかりご立腹になったのだと思いますよ……」
 ラスコーリニコフは依然として腹立たしげに、眉《まゆ》をひそめたまま、黙って相手の言葉を聞きながら、じっと観察していた。もっとも、彼は腰はおろしたけれど、まだ帽子は手から離さなかった。
「ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしは自分のことを、いわば性格の説明として申しあげておきましょう」部屋の中を気ぜわしなげに歩きながら、相変わらず客と視線を合わすのを避けるようなふうで、ポルフィーリイは言葉をつづけた。「じつは、わたしは独身者で、社交界というものを知らない、名もない一介《いっかい》の人間です。しかも、それでいて、もうできあがってしまった人間、固まってしまった人間で、もう種になりかかっているんです。で……で……で、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたはお気づきかどうか知りませんが、わがロシヤでは、とりわけ、このペテルブルグの社会では、お互いにかくべつ深い知り合いではないが、両方で尊敬し合っているふたりの聡明《そうめい》な人間が、まあたとえば、今のあなたとわたしのような人間が、いっしょに落ち合ったとすると、まる三十分くらい、どうにも話題を見つけることができず、お互いに固くなってしまって、腰かけたまま、てれ合っているんです。いったい話題というものは、だれでも持っているもので、たとえば女の人なんかそうです……上流の社交界の人たちでも、話題はいつだって持ち合わせています。C'est derigueur(それは必要欠くべがらざるものですからね)ところが、われわれみたいに中流の人間になると――皆はにかみやで、話べたです……つまり、思索人なんですな。いったい、これはどういうわけなのでしょう? われわれには社会的な興味が欠けているのか、あるいはまた、あまり正直すぎて、お互いにだまし合うのを望まないからか、どうもわからんです。え? あなた、なんとお考えですな? まあ、その帽子をお置きになりませんか、まるで今にも帰ろうとしていらっしゃるようで、まったく、見てても変ですよ……わたしはそれどころか、やたらにうれしくって……」
 ラスコーリニコフは帽子をおいたが、依然として無言のまま、まじめに眉《まゆ》をひそめながら、ポルフィーリイの空虚な、とりとめのない饒舌《じょうせつ》に耳を傾けていた。『いったいこの男はこんな愚にもつかないおしゃべりで、おれの注意をそらそうとでも思ってるんだろうか?』
「コーヒーはべつにさしあげません、場所が場所ですから。しかし、五分やそこいら友人と対談して、気ばらしをやるのがいけないというわけはありますまい」とポルフィーリイはのべつしゃべり立てた。「なにしろ、こうしたいろんな職務上の仕事というやつは……ですが、あなた、わたしがこう、しじゅうあちこちと歩きまわるのを、どうかお腹立ちにならんでください。失礼ですが、わたしはあなたの気を悪くしやしないかと、はらはらしてるんですが、運動というやつはわたしにとって、なんとしても必要なんでしてね。年じゅう腰をかけ通しなもんですから、五分間でも歩きまわれるのが、うれしくてたまらないんですよ……痔《じ》がありますんでね……いつも体操で治療しようと思ってるんですが。なんでもうわさで聞くと、五等官や四等官の連中、いや三等官あたりの役人までが、進んでなわ飛びをやってるそうですよ。まったくどうも、こんにちは科学万能の時代ですからな……さよう……ところで、ここの職務だとか、尋問だとか、そうしたいろんな形式的なことになると……げんにあなたも今ご自分で、尋問ということをおっしゃったが……そりゃじっさい、あなた、ロジオン・ロマーヌイチ、この尋問てやつは、どうかすると尋問されるものよりか、尋問者のほうをまごつかすものですよ……それはあなたが今じつに正鵠《せいこく》をうがった、皮肉な観察をお述べになったとおりです(ラスコーリニコフはそんなことなど何もいわなかったのである)。混乱してしまいますよ! じっさい、混乱してしまいますよ! いつもいつも同じことばかり、太鼓でもたたくようにいってるんですからな! このごろ改革が始まりかけていますから、われわれもせめて、名称だけでも変えてもらえるだろうと、嘱望《しょくぼう》しているしだいです、へ、へ、へ! ところが、法律家的方法となると(あなたの巧みな表現をかりるとですな)、もう完全にあなたのご意見に賛成です。ねえ、そうじゃありませんか、どんな被告だって、どんな頭の固い百姓出の被告だって、ちゃんと心得ていないものはありませんよ。たとえば、はじめは無関係な質問を浴びせかけて(あなたの的確《てきかく》な表現に従えばです)、そのあとでふいに、おのをふるってまっこうからみね打ちを食わせる、へ、へ、へ! そのまっこうからですな、あなたの巧みな比喩《ひゆ》にしたがえばね! へ! へ! それくらいのことはみんな心得ていますよ。じゃ、あなたはわたしがほんとうに、官舎の話であなたを……なにしようとしたなんて、そんなことをお考えになったんですか……へへ! あなたもなかなか皮肉な人ですな。いや、もういいません! あっ、そうだ、ついでに一つ。どうも言葉でも思想でも、一つがまた一つを誘い出すものでしてな――ほら、あなたはさきほど、正式にとおっしゃいましたね、つまり尋問の態度について……しかし、正式にって、いったいなんでしょう! 形式なんて、あなた、多くの場合くだらんものです。ときによると、友だちづき合いで話したほうが、案外有利なことがありますよ。形式はけっして逃げていきゃしません。その点はどうかご安心ください。それに、本質的に見て、形式とはいったい、なんでしょう、一つお尋ねしたいくらいですよ。形式なんて、いかなる場合でも、予審判事を拘束することはできません。予審判事の仕事は、いわば一種の自由芸術ですからな。一種というより、むしろ、そのなんですな……へ、へ、へ!………」
 ポルフィーリイはちょっと息をついだ、彼は少しも疲れる様子がなく、やたらにまくし立てた。無意味な空虚な文句をならべているかと思うと、急に何かなぞめいた言葉をもらしたり、かと思うと、すぐまた無意味な饒舌《じょうせつ》に落ちて行きながら、とうとうとしゃべりつづけた。彼は部屋の中をもうほとんどかけまわっていた。太った短い足をいよいよ早く動かしながら、絶えず足もとを見つめたまま、右の手を背中へまわし、左手をひっきりなしに振りまわしては、驚くほど言葉の意味に一致しない、さまざまなゼスチュアをするのであった。彼は部屋をかけまわるうちに、二度ばかりドアのそばに、ほんのちょっと立ち止まり、耳をすましたらしいのに、ラスコーリニコフはふと気がついた。
『やつ、何か待ってでもいるんだろうか?』
「いや、じっさい、あなたのおっしゃったことは、まったく真理です」とまたもやポルフィーリイはさも愉快げに、並みはずれて気さくな様子でラスコーリニコフを見ながら(そのため、こちらはぶるっと身ぶるいして、一瞬間に心構えをした)、こう言葉をついだ。「じっさい、あなたが法律上の形式にたいして、あの鋭い嘲笑《ちょうしょう》を加えられたのは、ぜんぜん正鵠《せいこく》をうがっております。へ、へ! どうもあの(もちろん、全部ではないが)意味深長な心理的方法というやつは、いやはや滑稽《こっけい》なもので、あまり形式に拘泥《こうでい》すると、むしろ有害無益なくらいです。さよう……おや、わたしはまた形式のことをいいだしてしまった。ところで、もしかりにわたしが委任された何かの事件で、甲にしろ乙にしろ丙にしろ、いわば犯人として認める、いや、もっと適切にいえば、嫌疑《けんぎ》をかけるとする……ときに、あなたは法律家になるつもりで勉強しておられたのでしょう、ロジオン・ロマーヌイチ?」
「ええ、そのつもりでしたが……」
「でしょう、だから一つあなたに、いわば将来のご参考として――しかし、わたしは生意気にあなたをつかまえて、講義をするなんて思ってくだすっちゃ困ります。とんでもない、あなたはああいう堂々とした犯罪論を発表していらっしゃるんですからなあ! とんでもない、わたしはただ一つの事実として、ちょっとした例をご参考に供するだけなんです――そこで、かりにわたしが、たとえば甲なり乙なり丙なりを犯人と考えたとしましょう。で、ひとつ伺いますが、その場合、よしんば多少の証拠を手に入れたにせよ、時機の熟さぬうちに当人を騒がせる必要がどこにあります? もっとも、中には一刻も早く捕縛しなければならん相手もある。ところが、また中には別な性質の人間もありますよ、まったく。そんなのにたいしては、しばらくのあいだ町を歩きまわらしたっていいじゃありませんか、へ、へ! しかし、どうやら、あなたはよくおわかりにならんらしいですね。じゃ、もう少しはっきり説明しましょう。たとえばですね、もしわたしがその男をあまり早くから未決へぶち込むと、それによって、わたしはその男に、いわば精神的支点を与えることになるかもしれませんから、へ、へ! あなたは笑っておいでですな? (ラスコーリニコフは笑おうなどとは考えてもいなかった。彼はくちびるを固く結んで、燃えるような視線をポルフィーリイから放さず、じっと腰をかけていた。)しかし、じっさい、ある種の連中にたいしては、ことにそうなんですよ。人間は多種多様ですが、実地応用の方法はだれにたいしても一つしかありません。たった今あなたは証拠といわれました。そりゃまあ、かりに証拠は必要だとしてもいいですが、しかし、証拠というやつは、あなた、大部分両方にしっぽを持っているのでしてな。われわれ予審判事なんて弱い人間ですから、懺悔《ざんげ》しますが、予審というものは、数学的に明瞭《めいりょう》にやりたい、二二が四といったような証拠を握りたくてたまらない! 抜きさしのならない、まともの証拠を手に入れたくてたまらないんですよ! もしわたしがその男を、時期|尚早《しょうそう》なのに収監してごらんなさい――たとえ、これこそそうだという確信[#「確信」に傍点]を持っていたにせよ――その時わたしはその男にたいして、それ以上の証拠を握る方法を、われとわが手で奪うようなものじゃありませんか。なぜとおっしゃる? ほかでもありません、わたしはその男に、いわば一定の地位を与える、いわば心理的に一定の方向を与えて、その男を落ちつかせてしまうからです。すると、その男はわたしから離れて、自分のからの中へもぐり込んでしまいます。つまり、いよいよ自分は囚人《しゅうじん》だとさとるわけなのです。なんでもあのセヴァストーボリでは、アリマの戦い(アリマはセヴァストーポリの郊外にある川)の直後、今にも敵が正面攻撃で一挙にセヴァストーポリを陥落《かんらく》させるだろうと、識者連が恐れおののいたものです。ところが、敵が正攻法による包囲を選んで、最初の平行|壕《ごう》を開鑿《かいさく》するのを見ると、その識者連が大喜びに喜んで、安心したという話です。つまり正攻法による包囲では、いつらち[#「らち」に傍点]があくかわからないから、少なくともふた月は先へ延びることになるからです!またあなたは笑っておいでですな、またほんとうになさらないんですな? そりゃなんです、もちろん、あなたが正しいともいえます。正しいですとも、正しいですとも!今のよ[#「とも!今の」はママ]うな話はみな特殊な場合です、あなたのおっしゃるとおりです。こんなことはみんな特殊の場合です! しかし、ロジオン・ロマーヌイチ、このさい次の事実も注意して見なけりゃなりません――つまり、あらゆる法律上の形式や規則が適用され、それらのものの対象となり、書物にまでちゃんと書き込まれている、普遍的な場合なんてものは、ぜんぜん存在していないんですよ。というのは、すべての事件、たとえば犯罪などでもみな、それが現実に発生するやいなや、ただちにぜんぜん特殊な一個の場合になってしまうからです。ときによると、まるっきり前例のないようなものになってしまいます。したがって、そんな意味で滑稽《こっけい》きわまる事件が生ずることも、おうおうありますよ。まあかりに、わたしがある男を勝手にひとりでうっちゃっておくとしましょう――逮捕もしなければ、いっさい迷惑をかけるようなこともしない。ただこっちがいっさいの秘密を知りつくしていて、夜も昼もその行動に注目し、ゆだんなく監視していることを、当人に四六時中たえまなく感じさせる。少なくとも、疑うように仕向けるのです。こうして、その男が絶えずわたしから嫌疑を受け、脅威《きょうい》を与えられているものと意識してごらんなさい。それこそまったく頭がぐらぐらしてきて、あげくのはてには自首するようになります。しかもその上に二二が四といったような、いわゆる数学的に正確な証拠となるようなことをしでかすに決まっています――なかなか愉快なもんですて。こういうことは熊《くま》みたいな百姓にもありうる例なんですから、ましてわれわれ仲間の現代的頭脳を持った、おまけにある方向に発達をとげた人間はなおさらです! だから、その男がいかなる方向に発達をとげた人物か、それを知るのが一ばんかんじんです。それから神経ですな、神経というやつ、あなたはこいつを忘れていらっしゃる! 現今この種の連中の神経はみな病的で、栄養不良で、おまけにいらいらしているんですからな!………つまり胆汁の作用ですな。彼らにはこの胆汁がどれくらいあるか底がしれないほどですよ! これはじっさい、いってみれば一種の鉱脈みたいなものでしてな! だから、その男がなわをつけられないで、町を歩きまわっていても、わたしにはべつだん、なんの懸念もありゃしません! なに、勝手にしばらくのあいだ散歩さしとけばいいのです、勝手に。わたしは何をしなくたって、その男が要するにこっちの獲物《えもの》で、わたしの手からどこへも逃げられないのが、ちゃんとわかっているんですから! それに、どこへ逃げて行く先があります。へ、へ! 外国ですかね? 外国へ逃げるのはポーランド人くらいなもので、その男[#「その男」に傍点]じゃありません。ことにわたしはしじゅう監視して、相当の手段を講じているんだからなおのことです。では、内地の奥深くへでも逃げ込みますかな? しかし、そこには百姓どもが住んでいるんですぜ。正真正銘のむくつけきロシヤの百姓ですよ。教養のある現代人だったら、わが国の百姓みたいな外国人といっしょに暮らすよりは、むしろ監獄のほうを選ぶでしょうよ、へ、へ! しかし、こんなことはみんなくだらない、外面的な問題です。いったい逃亡とはなんのことでしょう?そんな[#「ょう?そん」はママ]ことは形式的なものにすぎません。かんじんなことはそれと違います。その男はどこへも逃げる先がないというだけの理由で、わたしの手から逃げないのじゃありません。心理的[#「心理的」に傍点]にわたしのそばを逃げ出せないのです、へ、へ! どうです、この表現は! つまり、その男は自然の法則によって、よしんば逃げる先はあっても、逃げられないのです。あなたはろうそくの火を慕って来る蛾《が》をごらんになったでしょう? ねえ、ちょうどあれと同じように、その男はわたしのまわりをしじゅうぐるぐるまわるでしょう。ちょうど娥《が》がろうそくのまわりをまわるようにね。自由もうれしくなくなり、考えこんだり、うろたえたりしだす。そして、くもの巣へ巻き込まれたように、自分で自分をすっかり縛りあげてしまい、死ぬほどひとりで苦しい目をするに決まっております!………そればかりか、二二が四といったような数学的に正確な証拠を、自分でこしらえてこっちへ提供してくれます――ただ、少しばかり幕間を長くしてやりさえすればね……そして、絶えずひっきりなしにわたしのまわりで円を描きながら、その直径をだんだん狭くして、最後に、ぱたっとひっかかる! まっすぐにわたしの口へ飛び込むんです。すると、わたしがそれをがぶりと飲む込むという寸法です。ねえ、これはじつに愉快なもんですよ。へ、へ、へ! あなたほんとうになさいませんか?」
 ラスコーリニコフは返事をしなかった。彼はしじゅう同じ緊張した表情で、ポルフィーリイの顔を見つめながら、真青な顔をして、身動きもせず腰をかけていた。
『けっこうなお説教だ!』彼は全身に寒さを覚えながら考えた。『こうなると、昨日のように、猫《ねこ》が鼠《ねずみ》をおもちゃにしてるどころの話じゃない。まさかこの男は、おれに意味もなく自分の力を示して……助言してくれてるわけじゃあるまい。そんなへま[#「へま」に傍点]をするには、この男すこし利口すぎるて……これには何かほかに目当てがあるんだが、いったいそれはなんだろう? ちぇっ、ばかばかしい、きさまはおれをおどかして、裏をかこうとしてるんだろう! ところが、きさまにはなんの証拠もないんだし、昨日の男だってこの世にいやしない!ただきさまはおれをまごつかせたうえ、早まっていらいらさせておき、そのすきにばっさり行こうという魂胆だろう。ご冗談でしょうよ、しくじるに決まってる、しくじるに決まってるとも! だがなぜ、いったいなぜ、これほどに入れ知恵をするんだろう?………おれの病的な神経をねらってでもいるんだろうか!………なあに、だめなこった、きさまがどんな小細工をしたって、しくじるに決まってるんだ……まあひとつ見てやろうよ、きさまがどんな小細工をしているか』
 こう考えた彼は、恐ろしい測り知れぬ大詰めにたいして心構えをしながら、全身の力をこめて心を強く持とうとした。どうかすると、ポルフィーリイにおどりかかって、その場で締め殺してしまおうか、と思うことがあった。彼はここへ来る途中から、この憎悪が起こるのを恐れていたのである。彼はくちびるがからからにかわいて、心臓がどきんどきんと鼓動し、くちびるにつばが干からびつくのを感じた。が、それでも彼は沈黙をまもって、時機の来るまで一言ももらすまいと覚悟した。彼は自分の立場として、これが最善の戦術なのをさとったのである。なぜなら、そうすれば自分のほうでうっかり口をすべらす心配がないのみか、かえって、その沈黙によって敵自身をいらいらさせ、あまつさえ、また何かうっかりしゃべらすことさえできるかもしれない。少なくとも、彼はこれを当てにしていた。
「いや、お見受けするところ、あなたはほんとうになさらんらしい。そして、まだわたしが何か罪のない冗談でも並べているように、思っていらっしゃるらしい」ポルフィーリイはますます愉快そうな様子になり、満足のあまり絶えずひひひと笑いながら、こうわれとわが言葉を引き取って、またもや部屋の中をぐるぐるまわりだした。「そりゃもちろん、ごもっともなしだいです。わたしはもうこの体つきからして人に滑稽《こっけい》な感じしか起こさせないように、神さまからつくられてるんですからな。ずんぐり男ですよ。しかし、わたしはこう申しあげたいのです。もう一度くりかえして申しますが、ロジオン・ロマーヌイチ、どうか老人の差し出口をお許しください。あなたはまだお若くて、いわば青春の花ともいうべき時期にある人です。だから一般に若い人の例にもれず、人知というものを何より尊重しておいでになる。遊戯的な機知の発露や理知の抽象的な演繹《えんえき》などが、あなたを誘惑しているようです。それはちょうど、わたしが軍事にかんして判断しうるかぎりでは、オーストリヤのホフ・クリーグスラート(軍事会議)にそっくりそのままですな。彼らは紙の上ではナポレオンを粉砕して、捕虜《ほりょ》にまでしてしまいました。とにかく自分たちの書斎では、縦横の機知を弄《ろう》していっさいを計画し、敵を術中におとしいれました。ところが、事実の上ではどうでしょう、あにはからんやマック将軍、全軍を率いて降伏してしまった。へ、へ、へ! いや、わかっていますよ、わかっていますよ、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしが文官の身でありながら、軍事上の例ばかりを引くのを、あなたはおかしく思っておいでになるのでしょう。だが、どうもいたしかたがありませんよ、これがわたしの弱点なんですから。軍事上のことが好きでしてな、戦争報告類を読むのが大好きなんですよ……まったくわたしは自分の進路を誤りましたよ。わたしなどは軍隊に勤めるとよかったんです、まったく。ナポレオンにはなれなかったにしても、まあ少佐くらいにはなれたでしょうね、へ、へ、へ! さて、ここでわたしはあなたにその、なんですな、特殊な場合[#「特殊な場合」に傍点]ということについて、ほんとうのことをくわしくお話しましょう。ねえあなた、現実とか自然とかいうものは、じつに重要なものですよ。ときとすると、それは周到《しゅうとう》をきわめた計画を瓦解《がかい》さしてしまいますからね! ま、ま、老人のいうことをお聞きなさい。わたしはまじめにいってるんですから、ロジオン・ロマーヌイチ(こういった時、三十五になったばかりのポルフィーリイがまったく急にすっかり年をとったように見えた。声まで変わって、腰もかがんだように思われた)。それに、わたしはあけっ放し男でしてな……わたしはあけっ放しでしょう、違いますかな? どうです、あなたのお考えは? もう完全にそうだろうと思われますがね。なにしろ、こんなことまであなたにただでお教えして、おまけになんのお礼も請求しないんですからな、へ、へ! さて、そこで先をつづけますが、機知というものはすばらしいもので、いわば自然の美であり、人生の慰めであって、いかなる細工でもみごとにやってのけられそうに思われます。どうかすると、自分の妄想《もうそう》に夢中になっている、どこかのみじめな予審判事などには、とてもそいつを見破ることなんかできそうもない、という気がするくらいです。これはよくあるやつで、なにしろ、予審判事もやはり人間ですからな! ところが、人間の本性というやつが、そのみじめな判事を救ってくれるんで、これが困りものなんですよ! それだのに、機知に深入りして『あらゆる障害を踏み越えて行く』(これは昨日あなたがいわれた、賢明かつ巧妙無比な表現なんですが)青年は、この点をまるで考えようともしないのです。で、そりゃかりに、うまくうそをつくとしましょう、ある男がですよ。つまり特殊な場合[#「特殊な場合」に傍点]のことですよ。incognito(人知れず)ですな、手ぎわよく、巧妙無比なうそをつきおおせるとしましょう。もうこれで大成功、いよいよ自分の機知の成果を楽しむことができる、とこう思っていると、あにはからんや、先生、ぱったり行ってしまう! 最もたいせつな、最も騒動を起こしやすい場所で卒倒なんかしてしまう。そりゃまあ病気だとか、あるいは部屋の中が息ぐるしかったとか、いうようなことはありましょうが、それにしてもねえ! やはりある暗示を与えたことになります! 先生、うそだけは無類につきおおせたが、人間の本性を勘定に入れることを忘れたんです! ここにその、天の配剤があるんですな! またどうかすると、その男は自分の機知の遊戯性につりこまれて、自分に嫌疑《けんぎ》をかけている相手を愚弄《ぐろう》しはじめるんです。さもわざとらしく、さもお芝居らしく青くなって見せるが、しかし、あまり自然らしすぎる[#「あまり自然らしすぎる」に傍点]くらいに、あまりまことしやかに青くなって見せる。で、けっきょく、やはり暗示を与えるわけになってしまう!よし初[#「まう!よし」はママ]め一度はあざむきおおせても、相手がまぬけでないかぎり、ひと晩のうちに、こっちだってさとってしまいます。なにしろまあ、一歩ごとにこの調子なんです! いや、何もいちいちいうほどのこともありませんよ。自分のほうからお先まわりをしたり、問われもしないことに口を出したり、またその反対に、黙ってなければならんことを、やたらにぺらぺらしゃべったり、いろんななぞをかけたりするようになるんですよ、へ、へ! しまいには自分からのこのこやって来て、なぜわたしをこんなに長く捕まえないんです? なんてたずね始める。へ、へ、へ! しかも、これはきわめて機知の発達した心理学者や、文学者などにも生じうる現象なんですからね! 自然は鏡です、この上もなく澄みきった鏡です! まあ、せいぜい自分を映して、よく見とれるんですな、まったくの話! おや、ロジオン・ロマーヌイチ、なんだってあなたはそう青くなってしまったんです、息ぐるしいんじゃないんですか、窓でもあけましょうか?」
「いや、どうかご心配なく」ラスコーリニコフはこう叫ぶと、出しぬけに、からからと笑いだした。「どうかご心配なく!」
 ポルフィーリイは彼に向かい合って立ち止まり、しばらく待っていたが、やがてつづいて自分でも急にからからと笑いだした。ラスコーリニコフは、その純発作的な笑いを急にぷつりと切り、長いすから立ちあがった。
ポルフィーリイ・ペトローヴィチ!」彼はわなわなとふるえる足で、ようやく立っていたにもかかわらず声高にきっぱりといった。「ぼくはとうとうはっきりわかりました。あなたはあの老婆と妹リザヴェータの殺害者として、まちがいなく、ぼくに嫌疑をかけておられるのです。ぼくは自分のほうとして声明しますが、ぼくはもうずっと前から、そういうことにはあきあきしてしまいました。もしあなたが法律によってぼくを調べる権利があると考えておられるのなら、どうか調べてください。捕まえるなら、捕まえなさい。しかし、ぼくを面と向かって嘲弄《ちょうろう》したり、苦しめたりするのを許すわけにいきません」
 ふいに彼のくちびるはふるえだして、双の目は狂憤に燃