京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集10 悪霊 下』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP121-144

びえたように男の顔を見つめながら、奇妙な調子でこうたずねた。
「といって、つまり、なんのことだね、マリイ?」シャートフは合点がゆかなかった。「お前なにをきいてるんだい? ああ、どうしよう、ぼくはまるでとほうにくれてしまった。マリイ、堪忍しておくれ、ぼくはなんにもわからないんだ」
「ええ、やめてちょうだい、あんたなぞの知ったことじゃないわ。それに、おかしいじゃないの……」と彼女は苦しそうに笑った。「何か話してちょうだい。部屋の中を歩き廻りながら、話をしてちょうだいな。そんなに傍に立って、わたしの顔を見ないでちょうだい。これはわたし特別に折り入ってお願いするわ!」
 シャートフは彼女のほうを見ないようにして、一生懸命に床を見つめながら、部屋の中を歩き始めた。
「実はね、――マリイ、後生だから怒らないでおくれ、――実はね、すぐ手近な所に犢肉と茶があるんだが……さっきお前の食べようがあんまり少なかったもんだから……」
 彼女は、ぞんざいな意地悪げな様子で手を振った。シャートフは絶望したように言葉を呑んだ。
「ねえ、わたしは合理的な協力主義を基礎として、ここで製本屋を始めようと思ってるんですの。あんたはここに住んでる人だからおわかりでしょうが、いったいどうお思いになって、うまく行くでしょうかねえ?」
「とんでもない、マリイ、この町の人は本なんか読みやしないよ。それに、本もまるでありゃしないさ。それに、あいつが製本なんかするものかね?」
「あいつとはだれ?」
「この町の読者や、この町の住民ぜんたいをさしたんだよ、マリイ」
「それならそれと、はっきりおっしゃいよ。あいつ[#「あいつ」に傍点]だなんて、だれがあいつかわかりゃしないわ。いったい文法をごぞんじないの?」
「それは言葉の調子だよ、マリイ」とシャートフはつぶやいた。
「ああ、そんな調子なんか、どこかへほうっちまってちょうだい、飽き飽きしちゃったわ。なぜここの住民とか読者とかは、製本ということをしないのでしょう」
「つまり、読書と製本は、人知発達の異なった二つの時代、しかも、大きな時代を表わしてるからさ。初めのうち、人間は少しずつ本を読むことを習うわけだ、むろん、それには何百年という時日を要する。けれど、要するにくだらないものとして、ばらばらに読み崩したままうっちゃってしまう。ところが、製本ということは、もう書物に対する尊敬を示している。単に読むのが好きになったばかりでなく、真面目な仕事と認めるようになったしるしなんだ。ロシヤ全体がまだこの時期までにいたってないのだね。ヨーロッパはもうだいぶ前から製本してるよ」
「それは少々ペダントくさいところがあるけれど、でもちょっと気の利いた言い廻しねえ。なんだか三年前が思い出されるわ。あんた三年前には、かなりウイットがあったのね」
 これだけのことをいうのにも、以前の気まぐれな言い草と同じように、やはり投げやりな調子だった。
「マリイ、マリイ」シャートフは感激の色をおもてに浮かべながら、妻に向かってこういった。「おお、マリイ! この三年間にどれだけの変化が起こったか、それをお前が知ってたらなあ! これは後で聞いたことだが、お前はぼくが変節したといって、ひどくぼくを軽蔑してたそうだね。しかし、ぼくが見棄てたのはいったいだれだろう? 生きた生命の敵だ、自分自身の独立独歩を恐れる時代おくれの自由主義者だ、思想の下男だ、個性と自由の敵だ、死屍と腐肉の老いぼれた宣伝者だ! 彼らの持っているのはなんだろう? 耄碌だ、黄金の中庸主義だ、思いきり下司で卑屈な凡庸主義だ、嫉妬にみちた平等主義だ、自己の尊厳を持たぬ平等主義だ……下男の意識するような平等主義だ、一七九三年代のフランス人が意識したような平和主義だ……が、何より癪にさわるのは、どこへ行っても陋劣漢の揃ってることだ、陋劣漢だ、陋劣漢だ!」
「ええ、陋劣漢の多いことだわ」マリヤは病的な調子で切れぎれにこういった。
 彼女は疲れたような、しかし燃えるような目で、天井を見つめながら、ちょっとはすかいに頭を枕の上に投げ出したまま、身動きするのも恐れるように、じっと長くなって横になっていた。その顔はあおざめ、唇はすっかり乾いてがさがさに荒れていた。
「お前もそう思うかね、マリイ、そう思うかね!」とシャートフは叫んだ。
 彼女は首を振って、否定のしるしをして見せようとしたが、とつぜん前と同じ痙攣が起こった。彼女はふたたび顔を枕に埋めて、まる一分ばかり一生懸命な力で、恐怖のあまり夢中に駆け寄ったシャートフの手を、痛いほど握りしめるのであった。
「マリイ、マリイ! これはことによったら、なかなか重態かもしれないよ、え、マリイ!」
「黙っててちょうだい……わたしいやです、いやです、いやです」ふたたび仰向けに向き変わりながら、彼女は恐ろしい勢いで叫んだ。「そんな同情めいた様子をして、わたしの顔を見ないでちょうだい! さあ、部屋を歩きながら、何か話をしてちょうだい、話を……」
 シャートフはまるでとほうにくれたように、また何やらいい出した。
「あんた、ここで何をしてらっしゃるの?」気むずかしげな焦躁のさまで相手をさえぎりながら、彼女は突然こうたずねた。
「ある商人の店へかよってるのだ。ぼくはね、マリイ、その気にさえなれば、ここでいい金儲けもできるんだがね」
「そりゃおめでとう……」
「ああ、マリイ、そんなふうなことを考えないでおくれ。ぼくがいったのはただ……」
「それから、まだ何かしてらして? 何を宣伝してらっしゃるの? だって、あんたは何か宣伝しずにいられない人なんですもの。そういう性質なんですものね!」
「神を宣伝してるよ、マリイ」
「自分でも信じてない神をね。わたし、その思想がどうしても合点がいかなかった」
「やめとこう、マリイ、それは後にしよう」
「じゃ、ここにいたあのマリヤ・チモフェーヴナというのは、いったい何者なんですの?」
「それもやはり後にしよう、マリイ」
「わたしにそんな忠告はやめにしてちょうだい! あの人殺しは……あの連中の兇行だということですが、いったい本当なんでしょうか?」
「間違いなくそうなんだ」シャートフは歯をきりきりと鳴らした。
 マリヤは急に頭を上げて、病的な声で叫び出した。
「もうそのことをわたしにいわないでちょうだい、けっしていっちゃいけません。二度といったら承知しませんよ!」
 こういいながら、彼女は以前と同じひっ吊るような痛みに、ふたたびベッドの上へ倒れてしまった。もうこれで三度目だった。しかも、今度は呻き声が前より高くなって、ほとんど叫び声に変わってしまった。
「おお、あんたはなんてたまらない人だろう! おお、なんてやり切れない人だろう!」彼女は上からかがみかかるシャートフを突きのけながら、自分をいたわることも忘れ、夢中になって身をもがくのであった。
「マリイ、ぼくはなんでもお前の好きなようにしてあげる……歩いて……話をしてもいい」
「まあ、いったいあんたは、何が始まったのか、わからないんですか!」
「何が始まったかって、マリイ?」
「ああ、わたしの知ったことですか? いったいこれがわたしの知ったことだろうか?……ああ、呪われた女! おお、初めっから、何もかも呪ってやる!」
「マリイ、本当に何が始まってるのか、お前がいってくれたらなあ……そうしたら、ぼくは……そんなふうでは、ぼくに何がわかるものかね」
「あんたは抽象的なおしゃべりばかりしてる役立たずだわ。おお、世の中のものを何もかも呪ってやる!」
「マリイ! マリイ!」
 この女は気がちがいかかっているのだと、真面目にそう考えた。
「いったいあんたもいい加減、わかりそうなもんじゃないの。お産の陣痛よ!」恐ろしい病的な憤怒に顔を歪めて、じっと男を見つめながら、彼女は半ば身を起こした。「もう今から呪われるがいい、こんな子供なんか!」
「マリイ」ようやくことの真相を悟って、シャートフはこう叫んだ。「マリイ……どうして初めからそういってくれなかったのだ?」彼は急にわれに返った。そして、断固たる決心を示しながら、帽子を取り上げた。
「ここへ入って来る時に、そんなこととは知らなかったんだわ。でなかったら、あんたのところへ来るはずがないじゃないの。まだ十日ぐらいあるということだったんですもの! どこへ、あんたどこへ行くの、そんなことだめよ!」
「産婆を呼びに! ぼくはピストルを売るのだ。今は何よりも一番に金だからね」
「なんにもしちゃいけない。産婆など呼んだら聞きませんよ。ほんの手伝い女でいい、どこかの婆さんでいいの、わたしの蟇口に八十コペイカあるから……田舎の女なんか、産婆なしでお産をするじゃないの……かたわになったら、結句そのほうがいいわ……」
「産婆も来る、婆さんも来るよ。だが、ぼくは、ぼくはお前を一人ぼっちでおいて行かれない、マリイ!」
 しかし、後でこの頼りのない女を一人ぽっち[#「一人ぽっち」はママ]にするよりは、今おいて行ったほうがまだましだと考えたので、彼はマリヤの烈しい憤怒にもかかわらず、その呻き声も、腹立たしげな叫びも聞かないで、自分の早い足に望みをかけながら、まっしぐらに梯子段を駆け下りた。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 まず一番にキリーロフのところへ駆けつけた。もう夜中の一時頃だった。キリーロフは部屋の真ん中に突っ立っていた。
「キリーロフ君、家内が産をしてるんだ!」
「といって、なんのこと?」
「産をしてるんだ、子供を生んでるんだ!」
「きみ……思い違いじゃない?」
「いや、そうじゃない、いま陣痛が始まってるんだ……産婆がいるんだ、何か婆さんのようなものが、――ぜひ今すぐいるんだ……いま呼んで来られるかしらん? きみのところには婆さんが大勢いたがなあ……」
「どうもたいへん気の毒だが、ぼくは産をすることが下手でね」とキリーロフは考え深そうに答えた。「いや、つまり、ぼくが産が下手なのじゃなくって、産の上手なようにすることができない……いや……駄目だ、ぼくにはうまくいえない」
「つまり、きみが自分でお産の手伝いができない、ということなんだろう。しかし、ぼくのいうのはそのことじゃない。婆さんがいるんだ、婆さんが。ぼくは女を頼んでるんだ。看護婦だ、女中だ!」
「婆さんは呼べるが、しかし、今すぐというわけにはいかない。もしなんなら、ぼくが代わりに……」
「ああ、それは駄目だ。ぼくはこれからヴィルギンスカヤのとこへ、あの産婆のところへ行くんだから」
「あの毒婦か!」
「ああ、そうだよ、キリーロフ。しかし、あの女が一番うまいんだからね! ああ、それにああいう偉大な神秘、――新しい生命の出現が、敬虔の念もなければ歓喜もなく、嫌悪と嘲罵と冒涜をもって行なわれるんだからね……きみ、あれはもう今から赤ん坊を呪ってるんだよ……」
「もしなんならぼくが……」
「いけない、いけない。ぼくが駆け廻ってるうちに(大丈夫、ぼくはヴィルギンスカヤを引っ張って来る)、きみはときどきぼくの梯子段のところへ行って、そっと中の様子に耳を澄ましてくれたまえ。ただ、けっして中へ入っちゃいけないよ、あれがびっくりするから。どんなことがあっても、入っちゃいけない。ただ聞いてるだけなんだよ……万一、どんな恐ろしいことがないとも限らないからね。で、もし何か非常のことが起こったら、その時はかまわず入ってくれたまえ」
「わかった。金はまだ一ルーブリある。さあ、ぼくはあす鶏《とり》を買おうと思ったんだが、今はもうほしくなくなった。早く走って行きたまえ。一生懸命に走って行きたまえ。サモワールは一晩じゅうあるよ」
 キリーロフは、シャートフに関する仲間[#「仲間」に傍点]の計画を、少しも知らなかった。それに、前からシャートフの身に迫る危険の程度を、まるで知らずにいたのである。ただシャートフと『あの連中』の間に、古くから何やら義務関係がある、ということだけしか知らなかった。もっとも、彼自身も外国にいる時分、ある命令を授けられたため、いくぶんこの仕事に関係していたが(彼は何ごとも、あまり深く立ち入って仕事をしたことがないので、この命令というのもごく表面的なものだった)、しかし、最近なにもかもいっさいの委託を投げうって、あらゆる仕事(ことに『共同の事業』)からすっかり身をひいて、瞑想生活に没頭してしまったのである。
 ピョートル・ヴェルホーヴェンスキイは会議の席で、キリーロフが与えられた時機に、『シャートフの事件』を引き受けるかどうかを確かめるため、リプーチンを同道して行ったけれど、キリーロフとの問答中シャートフのことは、一言もほのめかそうとしなかった。多分、そんなことをいうのは拙いと考えたのでもあろうし、キリーロフを当てにならぬ人間とも思ったので、あす何もかもすんでしまって、キリーロフが『どうだって同じだ』と考えるまで待とう、――少なくも、ピョートルはキリーロフのことを、こんなふうに判断したに相違ない。リプーチンもやはり同じように、ああした約束があったにもかかわらず、シャートフの話が少しも出なかったのに、十分気がついていたけれど、抗議を提出するには、あまり興奮しすぎていたのである。
 シャートフはまるでつむじ風のように、蟻街《ムラウィーヤナ》をさして駆け出した、果てしもないように思われるわずかな道のりを呪いながら。
 ヴィルギンスキイのところでは、長いあいだ戸を叩かねばならなかった。もうだいぶ前に寝てしまったのである。しかし、シャートフはなんの遠慮もなく、力まかせに鎧戸を叩きつづけた。庭に鎖で繋いである犬が飛びかかろうともがきながら、意地悪そうな声で吠え立てると、町内の犬がその声に応じて、恐ろしい犬のコーラスが始まった。
「なんだってそんなに叩くのです、いったいなんの用です?」とうとう窓の中から、主人のヴィルギンスキイの声、――こうした『侮辱』にふさわしからぬ、もの柔かな声が響いた。
 と、鎧戸が開かれ、続いて通風口もあいた。
「そこにいるのはだれ、どこのやくざ者なの?」今度はもうすっかり『侮辱』に相応した声、――ヴィルギンスキイの親戚に当たるオールドミスの、意地悪そうなきいきい声が響いた。
「ぼくはシャートフです。家内がぼくのところへ帰って来て、いま産をするところなんですよ……」
「ええ、勝手に産でもなんでもするがいい、早く行っておしまいなさい!」
「ぼくはアリーナさんを迎えに来たんです。アリーナさんを連れないでは帰りませんよ!」
「アリーナさんはね、だれのところへでも行く人じゃありません。夜ふけに出るのは、専門の人がありますよ……さっさとマクシェーヴアのところへでも行くがいい。騒々しくしないでちょうだい、失礼な!」意地くね悪そうな[#「意地くね悪そうな」はママ]女の声が、はぜるようにこういった。
 ヴィルギンスキイの押し止める声が聞こえた。けれど、老嬢は彼を突きのけながら、なかなか折れて出ようとしなかった。
「ぼく帰りゃしないから!」とシャートフはまたどなった。
「待ってくれたまえ、ね、待ってくれたまえってば!」やっと老嬢をなだめて、ヴィルギンスキイはこうわめいた。「シャートフ君、お願いだから、五分ばかり待ってくれたまえ。ぼくアリーナを起こすから、どうか叩いたりどなったりしないでくれたまえ……ああ、なんという恐ろしいことになったもんだ!」
 果てしのない五分という時が経ってから、やっとアリーナが姿を現わした。
「あなたのところへ奥さんが帰って来たんですって?」という彼女の声が通風口から聞こえた。驚いたことに、その声は少しも意地悪そうでなく、ただいつもの癖で、ちょっと命令的に聞こえるばかりだった。アリーナはそれよりほかに、口のきき方を知らなかったので。
「ええ、家内が、――そして産をしてるんです」
「マリヤ・イグナーチエヴナが?」
「ええ、マリヤ・イグナーチエヴナです。もちろん、マリヤ・イグナーチエヴナです!」
 ちょっと沈黙がおそうた。シャートフはじっと待ち設けていた。家の中では、人々が何やらささやき交していた。
「奥さんはもう前から来てらっしゃるの?」またマダム・ヴィルギンスカヤがこうたずねた。
「今夜八時に来たのです。どうか早くしてください」
 ふたたび囁きが聞こえて、どうやら相談してるらしいふうだった。
「ねえ、思い違いをしてらっしゃるんじゃありませんか? あのひとが自分でわたしを迎えによこしたんですか?」
「いや、あれが自分でよこしたんじゃありません。あれはぼくにいろんな費用を負担させまいと思って、ただの婆さんをといったのです。しかし、心配しないでください、ぼくちゃんとお礼をしますから」
「よろしい、お礼はなさろうとなさるまいと、わたし行ってあげますわ。わたしはマリヤさんの独立不羇な気性に、いつも感心していましたの。もっとも、あのひとはわたしをおぼえてらっしゃらないかもしれませんがね。それから、あなたのところには、どうしてもなくてはならないものが揃ってますか?」
「なんにもありません。が、みんな揃えます、みんなすっかり……」
『あんな連中にもやはり侠気《おとこぎ》があるんだなあ!』リャームシンのところへ急ぎながら、シャートフはこう考えた。『主義と人間性、――これは多くの点において、全然ことなった二つのものらしい。おれはあの人たちに対しても、ずいぶん悪いことをしてるかもしれない!………みんな悪いのだ、みんな罪があるのだ、そして、みんなこれに気がつきさえすればいいんだがなあ!………」
 リャームシンのところでは、そう長く叩かなくてもよかった。驚いたことには、彼はすぐ寝床から跳ね起きて、鼻風邪の危険さえ忘れ、シャツ一枚で跣足《はだし》のまま通風口を開けた。彼はふだん恐ろしく神経家で、自分の健康をひどく気にするたちだった。しかし、こんなに目ざとくさっそくに出て来たのには、また特別な理由があったのだ。リャームシンは今夜の『仲間』の会議の結果、一晩じゅう戦々兢々として、いまだに寝つけなかったのである。なんだかはなはだ望ましくない押しかけ客が、四、五人もやって来そうな気がしてならなかった。シャートフの密告という情報は、何よりも彼を苦しめたのである……ところが、突然わざと狙ったように、恐ろしく猛烈に窓を叩く音が聞こえるではないか……
 彼はシャートフを見ると、すっかりおびえあがって、すぐに通風口をぱったり閉め、寝台のほうへ逃げ出してしまった。シャートフはすさまじい勢いで、叩いたりわめいたりし始めた。
「なんだってきみは夜中にどんどん叩くんだね!」やっとシャートフが一人きりで来たのを確かめたので、二分ばかり経ってから、もう一ど通風口を開けることに決心したリャームシンは、恐ろしさに胸をしびらせながら、いかめしい声でこう叫んだ。
「さあ、ここにきみのピストルがある。これをもとへ引き取って、十五ルーブリ出してくれたまえ」
「それはいったいなんのこったね、きみは酔っぱらってるのかい? そりゃ強盗じゃないか。ぼくが風邪を引くばかりだ。ちょっと待ちたまえ、ぼくは夜着を羽織ってくるから」
「今すぐ十五ルーブリ貸してくれたまえ。もし出してくれなきゃ、ぼくは夜明けまでどんどん叩いて、わめきつづけるよ。ぼくはこの窓を毀してしまうから」
「そんなことをすりゃ、ぼくは巡査を呼んで、きみを留置場へ引っ張って行かせるさ」
「きみはぼくを唖とでも思ってるのか? ぼくにも巡査が呼べないと思ってるのか。いったいだれが巡査を恐れなきゃならんのだ、きみかぼくか?」
「きみはそんな卑劣な信念をいだき得る人なんだね……きみが何をほのめかしてるのか、ぼくは承知してるよ……待ちたまえ、待ちたまえ、お願いだから、叩かないでくれたまえ! まあ、考えてみるがいい、だれが夜中に金を持ってるものかね。いったいなんだって金がいるんだね、もしきみが酔っぱらっているのでなけりゃ……」
「家内が戻って来たんだ。ぼくはきみに十ルーブリひいてやるんだよ。まだ一度も射ってみたことはないんだけれど、さあ、このピストルを引き取ってくれ、すぐ引き取ってくれたまえ」
 リャームシンは機械的に通風口から手を伸ばして、ピストルを受け取った。彼はしばらくじっとしていたが、とつぜんすばやく通風口から首をつき出して、まるで背中に悪寒でも感じるように、前後を忘れてこうささやいた。
「きみは嘘をついてるんだ。細君が帰って来たなんて、まるででたらめだ……それは……それはただどこかへ逃げ出そうという魂胆なのだ」
「ばか、ぼくがどこへ逃げるんだ? それはきみたちのヴェルホーヴェンスキイが逃げ出すんで、ぼくのことじゃあないよ。ぼくはつい今しがた産婆のヴィルギンスカヤのところへ行って来た。すると、あの女もすぐ承知してくれたよ。なんなら聞き合わせて見たまえ。家内は非常に苦しんでるのだ。まったく金が必要なんだ、さあ、出してくれ!」
 さまざまな想念がまるで花火のように、リャームシンのすばやい頭の中でひらめいた。局面がすっかり一変してしまったのだ。けれど、恐怖の念が冷静な判断を許さなかった。
「だが、どういうわけで……だって、きみは細君と同棲していないじゃないか?」
「そんなことをきくと、ぼくはきみの頭をぶち割ってしまうぞ」
「あっ、こりゃどうも、失敬した。いや、わかってるよ。なにしろ、ぼくはすっかり仰天してしまったのでね……いや、わかってるよ、わかってるよ、しかし……しかし、――いったいアリーナさんがきみのところへ行くだろうか? きみは今あのひとが出かけたっていったね? きみ、そりゃ嘘だよ。見たまえ、そら見たまえ、きみは一こと一こと嘘をついてるじゃないか」
「あのひとはきっと今ごろ、家内の傍に坐ってるに相違ないのだ。もういい加減にしてくれ。きみが間抜けだからって、ぼくの知ったことじゃないよ」
「嘘だ、ぼくは間抜けじゃないよ。失礼だが、ぼくはどうしても……」
 彼はもう何が何やらわからなくなって、三たび戸を閉めようとしたが、シャートフが恐ろしい勢いで、わめき出したので、彼はまたもや大急ぎで首を突き出した。
「こりゃ、きみ、純然たる人権侵害だよ。いったいきみは何をぼくに要求するんだね、え、何を、何を、はっきりいいたまえ。それに、考えても見たまえ、考えても、――こんな真夜中にさ!」
「十五ルーブリの金を要求してるんじゃないか、なんてばか頭だ!」
「しかし、ぼくは全然ピストルを買い戻したくないかもしれないんだぜ。きみにはなんの権利もないのだ。きみは品物を買っただけだ、――それで話はおしまいじゃないか。きみにそんなことを要求する権利はない。ぼくはどうしても、夜中にそんな金をこしらえるわけにいかない。どうしてそんな金が手に入るもんかね?」
「きみはいつでも金を持ってるよ。ぼくは十ルーブリひくといったじゃないか。なんだ、折紙つきのユダヤ人のくせに」
「あさって来たまえ、――いいかね、あさっての朝、正十二時に来たまえ。すっかり耳を揃えてあげるよ、いいだろう?」
 シャートフは三ど兇暴な勢いで窓を叩いた。
「じゃ、十ルーブリよこしたまえ。そして、明日の朝ひきあけに五ルーブリ」
「いかん、明後日の朝五ルーブリだ。明日はどうあっても駄目だ。まあ、来ないほうがいいよ、まるで来ないほうが」
「十ルーブリよこしやがれ、こん畜生!」
「なんだってきみはそんなに悪口をつくんだい? まあ、待ちたまえ、あかりをつけなきゃ。ほら、こんなにガラスを毀しちゃったじゃないか……よる夜中、こんなにどんどん叩くやつが、どこにあるものかね? さあ!」と彼は窓から紙幣《さつ》をさしのぞけた。
 シャートフは引っつかんだ、――紙幣は五ルーブリだった。
「どうしても駄目だ。たとえ殺されたってできやしない。明後日は都合できるが、今はどうしても駄目だ」
「帰りゃしないぞ!」とシャートフはわめいた。
「さあ、これを取ってくれたまえ。もう一枚。いいかね、もう一枚あるだろう。もうそれより駄目だ。きみが喉の張り裂けるほどどなったって、ぼくは出しゃしないから。どんなことがあったって出しゃしないから。出さない、出しゃしない!」
 彼は前後を忘れて夢中になって、汗をたらたら流していた。彼が後からさし出した紙幣は、一ルーブリ二枚だった。こうして、シャートフの手には合計七ルーブリできた。
「じゃ、勝手にしやがれ、明日はまた来るから。リャームシン、八ルーブリ用意しておかなかったら、ぼくはきみをのしちゃうから」
『ふん、おれは家にいやしないんだから、ばか野郎!』とリャームシンははらの中ですばやく考えた。
「待ちたまえ、待ちたまえ!」もう駆け出したシャートフの後から、彼は気ちがいのようにわめいた。
「待ちたまえ、引っ返して来たまえ。ねえ、きみ、いま細君が帰って来たといったのは、ありゃ本当なのかい?」
「ばか!」シャートフはぺっと唾を吐いて、一目散にわが家をさして駆け出した。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 断わっておくが、アリーナは、ゆうべ会議を通過した決議のことを、少しも知らずにいたのである。帰宅した時、ヴィルギンスキイはすっかり顛倒してしまって、まるで力抜けしたようになっていたので、今夜の決議を妻に告げる勇気がなかった。けれど、やはり持ちこたえることができないで、事実の半分だけうち明けた、――つまり、必ずシャートフが密告するに相違ないという、ヴェルホーヴェンスキイのもたらした報知である。しかし、彼はすぐその場で、どうもこの報知は十分信用できかねるとつけ足した。アリーナは恐ろしく仰天してしまった。こういうわけなので、シャートフが迎えに駆けつけた時、ゆうべ夜っぴて一人の産婦を相手に、さんざん骨を折らされたにもかかわらず、さっそく出かけようと決心したのである。彼女はふだん常々、『あんなシャートフのようなやくざ者は、きっと社会的に卑劣なことを仕出かすに相違ない』と信じ切っていたが、しかし、マリヤ・イグナーチエヴナの到着は、事件に新しい光を投げた。シャートフの動転した態度や、助けを乞うときの絶望的な哀願の調子などは、明らかにこの裏切り者の感情の転化を示していた。単に他人を亡さんがためのみに裏切りまでしようと決心した人間なら、いま実際に見受けられたのとは、ぜんぜん別な様子をしているはずだ。とにかくアリーナは、万事自分の目ですっかり見きわめようと、決心したのである。ヴィルギンスキイは妻の決断に大恐悦だった、――まるで五プード([#割り注]約二十貫[#割り注終わり])の重荷を、肩からおろしてもらったような気持ちがした! それどころか、一種の希望さえ彼の心に生じた。実際、シャートフの様子は、ヴェルホーヴェンスキイの想像と、少しも一致するところがないように思われたのである。
 はたしてシャートフの想像は誤らなかった。彼が家へ帰ったとき、アリーナはもうマリイの傍に坐っていた。彼女はここへ来るとすぐ、階段の下にぽかんと立っているキリーロフを、ばかにしきった態度で追い出してしまった。そして、どうしても彼女を旧知と受け取らないマリイと、手早く初対面の挨拶をすました。産婦は『恐ろしく険悪な徴候』を示していた。つまり、取り乱して、意地悪げで、おまけに『気の狭い絶望』に陥っているのであった。アリーナはわずか五分ばかりの間に、産婦のさまざまな反抗を、すっかり抑えつけてしまった。
「あなた上等の産婆がいやだなんて、なんだってそう駄々をこねるんですの?」シャートフが入って来た瞬間に、彼女はこんなことをいっていた。「ばかげきった話ですよ。あなたのアブノーマルな状態から起こった不正直な考えですよ。ただのちょっとした婆さん、――教育のない取上げ婆さんの手にかかったら、十中の五までは悪い結果をみるものと、覚悟しなきゃなりません。そうすると、上等の産婆にかかるよりもよけい騒ぎが大きくなって、余計お金を費わなきゃなりませんからね。それに、どうしてわたしを上等の産婆に決めておしまいになるの? なに、払いは後でいいんですよ。あなたから余計なお銭《あし》はいただきゃしませんから。そして、お産のほうは請合いますよ。わたしにかかったら、死ぬようなことはありません。これどころか、まだまだひどいのを手がけましたからね。ところで、生まれた子供は明日にも養育所へ送って、それからしばらく経ったら、田舎へ里子にやってあげますよ。そしたら、もうことはおしまいですよ。そのうちに、あなたもよくおなんなすって、何か恥ずかしくないだけの仕事についたら、いいじゃありませんか。そうすれば、ごく僅かな間にシャートフさんへ、部屋代だの諸がかりだのを返せるわけですよ。諸がかりだって、ほんの知れたもんですからね……」
「わたしのいうのはそんなことじゃありません……わたし、あの人にそんな迷惑をかける権利がないんですの……」
「そりゃ筋の立った、立派な公民らしい感情です。でも、わたしのいうことをお聴きなさい。もしシャートフさんが気ちがいめいた空想家を廃業して、ほんの少しでも正しい思想の人となったら、ほとんど何一つ失わないですむんですよ。ただ馬鹿な真似をしなきゃいいんです。仰山に太鼓を叩いて、はあはあ舌を吐き出しながら、町じゅう駆け廻るような真似をしなけりゃいいんです。あの人は傍《はた》から両手を抑えていなかったら、夜明けまでにはこの町の医者を、大方みんな叩き起こしてしまうでしょうよ、まったく。さっき家《うち》の通りの犬という犬を、すっかり起こしてしまったんですもの。医者なんかいりゃしません。今もいったとおり、わたしがいっさい引き受けますよ。しかし、婆さんくらいは、手廻りの用に傭ってもいいでしょう。いくらもかかりゃしませんから。もっとも、あの人だって、馬鹿な真似しかできないわけじゃない、たまには何かの役に立つかもしれませんわ。手もあれば、足もあるんですもの。薬屋へ駆け出すぐらいは、してくれるでしょう。それっぽちのことを恩に着せて、あなたの感情を侮辱するようなことはないでしょうよ。それに、なにが恩なものですか! だって、あなたをこんな境遇に落としたのは、あの人じゃありませんか。あなたがよその家庭教師をしてらっしゃるとき、あなたと結婚しようという利己的な目的で、家の人と喧嘩をさしたのは、あの人じゃありませんか。わたしたちも少しは聞いています……もっとも、あの人は今も自分から、まるで気ちがいみたいに飛んで来て、往来一杯に響くほどどなりたてましたがね。わたしはだれのところへも押しつけがましく出かけはしないんですが、わたしたちはみんな同じように、連帯の責任があると信じてればこそ、あなたのためを思って来たんですの。わたしはまだ家を出ないうちから、このことをあの人に宣言したくらいですからね。もしあなたがわたしに用がないとお考えなら、これでごめんこうむりますよ。ただ何か不幸が起こらなければよござんすがね。しかも、そんなものは、わけなく避けることができるのに」
 彼女は椅子を立ってまで見せた。
 マリイはこうした頼りない身の上ではあり、またずいぶん苦しんでもいたし、それに実際のところ、間近に迫った産を思う恐れがあまり強かったので、彼女を帰してしまう勇気がなかった。とはいえ、マリイはこの女がとつぜん憎くてたまらなくなった。いうことが見当ちがいだ。マリイの胸にあることとまるで違っている! しかし、無経験な取上げ婆さんの手にかかって、命を落とすかもしれないという予言は、ついに嫌悪の念を征服してしまった。けれど、その代わりシャートフに対しては、この瞬間からいっそうわがままになり、いっそう容赦がなくなった。ついには自分のほうを見るばかりでなく、自分のほうを向くことさえ禁じてしまった。陣痛はまたつのって来た。呪詛の声、罵詈の声は、だんだん狂暴になっていった。
「ええッ、もうあの人をよそへやってしまいましょう」とアリーナは断ち切るようにいった。「あの顔色ったらありゃしない。ただあなたをびっくりさせるだけですよ。まるで死人みたいにあおい顔をしてるわ! いったいあんたなんの用があるの、どうか聞かしていただきたいもんですねえ、なんておかしな変人さんだろう! まるで喜劇だわ!」
 シャートフは返事しなかった。もういっさい返事をしまいと決心したのである。
「わたしもこういう場合に、よく馬鹿げた父親《てておや》を見ましたよ、やはり気が狂ったようになるんですがね、しかし、そんなのはなんといっても………」
「やめてちょうだい、それでなければ、わたしをうっちゃっといて、勝手に片輪にしてしまってちょうだい! 一口もものをいっちゃいけない! いやです、いやです!」とマリイは叫び立てた。
「もしあなた自身が、分別をなくしていらっしゃらないなら、一口もものをいわずにいられないぐらいのことは、おわかりになりそうなはずですがねえ。と、まあ、わたしはこの場合、あなた方のことを考えますのさ。なんにしても、用事だけはいわなきゃなりません。ねえ、何か用意がしてありますか? シャートフさん、あなた返事してちょうだい。あのひとはそれどころでないんだから」
「つまり、何がいるのかいってください」
「じゃ、なんにも用意してないんだ」
 彼女はぜひ欠かすことのできない品を、すっかり並べて聞かせた。しかし、彼女の察しのよさも認めてやらなければならぬ。彼女はこの際、まったく裏長屋のお産同然な、ほんのなくてならぬ物だけですましたのである。二、三のものはシャートフのところに見つかった。マリイは鍵を取り出して、彼のほうへさし出しながら、自分のカバンの中をさがしてくれと頼んだ。彼は手がわなわなと慄えるので、馴れないカバンを開けるのに、普通より少し長くごそごそしていた。マリイは前後を忘れるほどいらいらしたが、アリーナが飛んで行って鍵を引ったくろうとすると、彼女はどうしてもアリーナにカバンを覗かれるのをいやがった。そして、恐ろしい声を立てて泣き叫びながら、カバンはシャートフ一人にしか開けさせないといい張った。
 ある品は、キリーロフのところへ取りに行かねばならなかった。シャートフが身を転じて、外へ出ようとするやいなや、彼女はすぐに兇猛な声を立てて彼を呼び返した。シャートフが一目散に引っ返して、自分はちょっとの間、ぜひなくてはならぬものを取りに行くだけで、すぐに帰って来ると説明した時、はじめてやっと安心したのである。
「まあ、まあ、奥さん、あなたのご機嫌をとるのはむずかしいことですね」とアリーナはからからと笑い出した。「じっと壁のほうを向いて、顔を見てもくれるなというかと思うと、今度は急に、ちょっとの間も傍を離れてはいやだなんていって、泣き出しなさるんですもの。そんなことをすると、あの人がまた何か考えるかもしれませんよ。さあ、さあ、そんなにだだをこねたり、むずかったりするのはおよしなさい。わたしなんか笑ってるじゃありませんか」
「あの人はけっしてそんなことを考えやしませんよ」
「おっとっと、もしあの人が羊みたいに、あなたに惚れ込んでいなかったら、あんなにはあはあ舌を吐きながら、通りから通りを駆け廻って、町じゅうの犬を起こすような真似はしなかったでしょうよ。あの人はうちの窓を叩きこわしてしまいましたよ」

[#6字下げ]5[#「5」は小見出し

 シャートフが入って行った時、キリーロフは依然として部屋の中を、隅から隅へと歩き廻っていたが、すっかり放心状態になって、マリイの到着のことなど忘れてしまったように、相手の言葉を聞きながらも、なんのことか合点がゆかないふうであった。
「ああ、そう」今まで没頭していた何かの想念から、やっとのことでちょっとの間、心をもぎ放したように、彼はとつぜん思い出してこういった。「そう……婆さん……細君だったかね、婆さんだったかね? いや、ちょっと待ちたまえ、細君と婆さんと両方だっけね、そうだ。おもい出した、――行って来たよ。婆さんはやって来るには来るけれど、今すぐというわけにゆかない。枕、持って行きたまえ。それから、なんだね? ああ……ちょっと待ちたまえ、シャートフ君、きみはときどき永久調和の瞬間を経験することがあるかね?」
「ねえ、キリーロフ君、きみはこれから、よる寝ない習慣をやめなきゃ駄目だよ」
 キリーロフはようやくわれに返った。そして(不思議なことには)、いつもよりずっと滑らかに、調子よく話し出した。察するところ、彼はもうずっと前から、この思想をすっかりまとめ上げていたらしい。或いは何かに書きつけていたかもしれない。
「ある数秒間があるのだ、――それは一度に五秒か、六秒しか続かないが、そのとき忽然として、完全に獲得されたる永久調和の存在を、直感するのだ。これはもはや地上のものではない。といって、何も天上のものだというわけじゃない。つまり、現在のままの人間には、とうていもちきれないという意味なんだ。どうしても生理的に変化するか、それとも死んでしまうか、二つに一つだ。それは論駁の余地のないほど明白な心持ちなんだ。まるで、とつぜん全宇宙を直感して、『しかり、そは正し』といったような心持ちなんだ。神は、世界を創造したとき、その創造の一日の終わるごとに、『しかり、そは正し、そはよし』といった。それは……それはけっしてうちょうてんの歓喜ではなく、ただ何とはない静かな喜悦なのだ。人はもはやゆるすなどということをしない。なぜなら、何もゆるすべきことがないからだ。愛するという感情とも違う、――おお、それはもう愛以上だ! 何よりも恐ろしいのは、それが素敵にはっきりしていて、なんともいえないよろこびが溢れていることなんだ。もし十秒以上つづいたら、魂はもう持ち切れなくて、消滅してしまわなければならない。ぼくはこの五秒間に一つの生《せい》を生きるのだ。そのためには、一生を投げ出しても惜しくない。それだけの価値があるんだからね! ところで、十秒以上もちこたえるためには、生理的に変化しなくちゃあ駄目だ。ぼくはね、人間は生むことをやめなきゃならんと思う。目的が達しられた以上、子供なぞなんになる、発達なぞなんになる? 福音書にもいってあるじゃないか、復活の日には人々生むことをせずして、ことごとく天使のごとくなるべしって。面白い暗示じゃないか。きみの細君は生んでるんだね?」
「キリーロフ、それはしょっちゅうあるのかね?」
「三日に一度あったり、一週間に一度あったり」
「きみ、癲癇の持病はないのかい?」
「ない」
「じゃ、今に起きるよ。気をつけたまえ、キリーロフ、癲癇はちょうどそんな具合に始まっていくって、ぼく、人から聞いたことがあるよ。ぼくはある癇癪持ちから、発作の前の感覚を詳しく話してもらったが、いまきみのいったのと寸分ちがわない。その男もやはり五秒間と、はっきり区切ったよ。そして、それ以上は持ち切れないといったっけ。きみ、マホメットが甕から水の流れ出てしまわないうちに馬に乗って天国を一周した話を思い出して見たまえ。甕、――これがつまりその五秒間なんだ。きみの永久調和にそっくりじゃないか。しかも、マホメットは癲癇持ちだったんだからね。気をつけたまえ、キリーロフ、癲癇だよ!」
「もう間に合わないよ」キリーロフは静かに薄笑いをもらした。

[#6字下げ]6[#「6」は小見出し

 夜はすでに明けようとしていた。シャートフは使いにやられたり、ののしられたり、また呼びつけられたりした。マリイの生を気づかう恐怖の念は、もう極度に達していた。彼女は生きたい、『どうしても、どうしても生きたい』、死ぬのは恐ろしいと叫んだ。『もういい、もういい!』ともくり返した。もしアリーナがいなかったら、どうしようもなかったに相違ない。しだいしだいに、彼女はすっかり産婦を征服してしまった。産婦はまるで赤ん坊のように、彼女の一語一語にしたがうようになった。アリーナは、やさしく機嫌をとるというより、むしろ怖《こわ》もてで脅しつけたのだが、その代わり働くことにかけたら、手に入ったものだった。やがて夜も白み始めた。ふとアリーナは、シャートフが梯子段のところへ駆け出して、祈りを捧げているのではないか、と考えついて、面白そうに笑い出した。マリイもやはり意地悪げに、毒々しく笑い出した。しかし、この笑いのおかげでなんだか気分が軽くなったらしかった。とうとうシャートフは、すっかり部屋を追い出されてしまった。湿っぽい冷々した朝が訪れた。彼は、ちょうどゆうべエルケリが入って来た時と同じように、隅っこの壁に顔を押しつけた。まるで木《こ》の葉のように慄えながら、一生懸命に恐ろしい想念を抑えつけようとした。けれども、彼の心はよく夢の中で経験するように、ただひたむきにその想念につかみかかろうとする。さまざまな空想は、絶え間なく彼をあらぬほうへ誘って行っては、絶え間なく腐った糸のように、ぷつりぷつりと切れるのであった。やがて部屋の中からは、もう呻吟の声というよりも、むしろもの凄い、純然たる野獣のような叫びが、どうにも我慢のならぬ恐ろしい叫びが洩れてきた。彼は耳に蓋をしたかったが、それもできなかった。そして、いきなり床に膝をつきながら、無意識にくり返すのであった。
「マリイ、マリイ!」
 と、ふいにまた叫び声が聞こえた。が、それは新しい叫び声だった。シャートフはぴくりとして、躍りあがった。それは弱々しいひびの入ったような、赤ん坊の泣き声なのである。彼は十字を切って、部屋の中へ飛び込んだ。
 アリーナの手の中には、小さな、赤い、皺だらけな生物が、大きな声で泣き立てながら、小さな手足をもぞもぞ動かしていた。まるで一片のちり芥のように、ひと吹きの風にも得堪えぬ、恐ろしいほど頼りなげな存在ながら、やはり生の絶対権でも持っているように、大きな声で自己を主張するのであった……マリイは意識を失ったように、じっと横になっていたが、やがて、一分ばかり経って、目を開《あ》けた。そして、奇妙な、実に奇妙な目つきでシャートフを見つめた。それはまったく別な目つきだった。けれど、どんなふうかときかれても、シャートフはまだ答えができなかったろう。しかし、彼女がこんな目つきをしたのは、今まで一度もおぼえがない。
「男の子? 男の子?」彼女は病的な声でアリーナにたずねた。
「腕白さんですよ!」赤ん坊をきれに包みながら、こちらはどなるようにこう答えた。
 彼女がすっかり子供を包み終え、寝台に枕を二つ並べた間へ、横向きにねさせる支度をするから、ちょっと抱いてくれと、シャートフに子供を渡した。マリイはアリーナを恐れるように、そっと内証で彼に合図をした。こちらはすぐにその意を悟って、赤ん坊を傍へ持って行って見せた。
「なんて……かわいい子だろう……」彼女は微笑を浮かべながら、弱々しくつぶやいた。
「ふっ、この人の顔つきはどうでしょう!」シャートフの顔を覗き込みながら、得意のアリーナは愉快そうに笑い出した。
「なんて顔をしてるんでしょう!」
「お浮かれなさい、お浮かれなさい、アリーナさん……これはまったく、偉大なよろこびですからね……」子供のことをいったマリイのひと言で、よろこびに輝き渡ったシャートフは、間の抜けたおめでたそうな顔つきでこういった。
「まあ、あなた、偉大なよろこびなんて、いったいなんのことですの?」アリーナはまるで懲役人のように、なりもふりもかまわず、忙しそうに後片づけをしながら、本当に浮かれ出してしまった。
「新しき生の出現の秘密です。説明のできない偉大な神秘ですよ、アリーナさん。あなたにそれがおわかりにならないのは、どうも実に残念ですね!」
 シャートフはうちょうてんになって、とりとめもないことを、むせ返るような調子でいった。ちょうど頭の中で何かがぐらつき出し、それがひとりでに胸から流れ出るような具合だった。
「今まで二人しかなかったところへ、急に第三の人間が、――新しい霊魂が生まれる。それは人間の手ではとうていできない、渾一、完成したものです。新しい思想、新しい愛、本当に恐ろしいくらいだ……これより立派なものは、この世にまたとありゃしません!」
「ええ、くだらないことをしゃべり立てたものだ! なあに、ただ有機体の発展ですよ、それっきりですよ。なんにも神秘なんかありゃしません」アリーナは心から面白そうに、からからと笑った。「そんなことをいったら、一匹の蠅だって神秘になってしまいまさあね。ただね、あなた、余計な人間は産まれる必要がありませんよ。まず初めいっさいのものを鍛え直して、そういう人間を有用な材にしておかなきゃなりません。子を産むのは、それからの話ですよ。でないと、この子にしてからが、明後日は育児院へ連れて行って……もっとも、これはぜひそうしなきゃ駄目ですがね」
「ぼくはけっしてこの子を育児院なんかへやりゃしない!」じっと床を見つめながら、シャートフはきっぱりといいきった。
「養子になさるの?」
「この子は初めっからぼくの子です」
「むろん、この子はシャートフです、法律上シャートフに相違ありませんがね、何もあなた、そんなに人類の恩人を気取ることは、ないじゃありませんか。この節の人はみんなだれでも、立派そうな文句を並べずにいられないんだからねえ。まあ、まあ、ようござんすよ。ところでね」彼女はやっと片づけをすました。「わたしもうお暇しなきゃなりません。また朝のうちに一ど来ます。もし用があったら、晩もまいりますがね、今のところ万事めでたくすんだから、ほかのほうへも行ってみなきゃなりません。もうとうから待ってるんですから。シャートフさん、どこかあちらのほうに婆さんが来てますよ。しかし、婆さんは婆さんとして、あんたもここを離れないようになさいね、旦那さん。傍についていておあげなさい。何か役に立つこともあるでしょう。マリヤさんも追っぱらいやしないでしょうよ……ま、ま、わたし冗談にいってるんですよ……」
 シャートフが門まで送り出した時、こんどは彼一人だけに向かって、彼女はこうつけ足した。
「あなたはほんとに笑わしたわね。わたし一生わすれませんよ。お金はあなたからもらおうと思ってやしません。本当に夢にまで笑わされそうだ。今夜のあなたほどおかしな人は、今まで見たことがない」
 彼女はすっかり満足のていで帰って行った。シャートフの様子やその話から察したところ、この男が『親父の仲間入りをしたがっている、意気地なしの中の意気地なし』だということは、火をみるよりも明らかだった。彼女は、そのままほかの産婦を見舞うのが、ついででもあれば近道でもあったけれど、ヴィルギンスキイにこのことを知らせたかったので、わざわざわが家へ駆け戻った。
「マリイ、あの女は、しばらく寝ないでいるほうがいいといったよ。もっとも、そんなことはずいぶんむずかしそうだがね……」とシャートフは臆病そうにいい出した。「ぼくはあの窓のところに坐って、お前を見ていてあげよう、ね?」
 こういって、彼は長いすのうしろ側の、窓際に腰を下ろした。で、彼の姿は産婦の目に入らなくなったわけだ。けれど、一分と経たぬうちに、彼女は彼を呼び寄せて、枕の具合を直してくれと、気むずかしげな声で頼んだ。彼は直しにかかった。こちらは腹立たしそうに壁を見つめていた。
「そうじゃない、ああ、そうじゃない……なんて無器用な手でしょうねえ!」
 シャートフはまたやり直した。
「わたしのほうへかがんでちょうだい」できるだけ相手の顔を見ないようにしながら、彼女は出しぬけに奇妙な声でこういった。
 彼はぎくっとしたが、いわれるままにかがみ込んだ。
「もっと……そうじゃない……もっとこっちへ」というかと思うと、ふいにその左の手が、つと男の首にかかった。彼は自分の額に力のこもった、しっとりした接吻《くちづけ》を感じた。
「マリイ!」
 彼女の唇は慄えた。彼女はじっと押しこたえていたが、ふいに身を起こして、目を輝かしながら、こういった。
「ニコライ・スタヴローギンは悪党です!」
 こういうと、彼女はなぎ倒されでもしたように、力なく顔を枕にうずめながら、くず折れてしまった。ヒステリックなすすり泣きの声をあげて、じっとシャートフの手を握りしめたまま。
 この瞬間から、彼女はもう一刻も、男を傍から離さなかった。彼女はシャートフに向かって、枕もとへ坐ってくれと、どこまでもいい張るのであった。自分ではあまり話ができなかったけれど、絶えず男の顔を見つめながら、さも幸福そうにほほ笑んでいた。彼女は突然ばかな小娘になってしまって、何もかもすっかり生まれ変わったようだった。シャートフは、時には子供のように泣くかと思うと、時には思い切って突拍子もないことを、奇妙な、むせ返るような、うちょうてんな調子でしゃべり立てた。時には、マリイの手に接吻することもあった。彼女は嬉しそうに聞いていたが、言葉の意味はよくわからなかったかもしれぬ。けれど、力の抜けた手で、男の髪をやさしくいじったり、撫でおろしたり、じっと眺めたりするのであった。彼はキリーロフのことや、また二人でこれから『新しく永久に』生活を始めようということや、神の存在していることや、すべての人が善良だということなどを話した。彼は歓喜のあまり、またしても赤ん坊を引き出して、眺めるのであった。
「マリイ」両手に赤ん坊を支えながら、彼はこう叫んだ。「古いうわごとも、屈辱も、死屍も、そんなことはみんなすんでしまった。これから新しい道に向かって、三人で働こうじゃないか、ね、ね!………ああ、そうそう、この子になんと名をつけたらいいだろう、マリイ?」
「この子になんという名を?」と彼女はびっくりしたように問い返したが、突然その顔に恐ろしい悲しみの色が浮かんだ。
 彼女は両手を鳴らして、ちらと責めるような目つきでシャートフを見やると、そのまま枕に顔を埋めた。
「マリイ、お前どうしたんだね?」悲しげな驚きを現わしながら、彼は叫んだ。
「あんたまでも、よくもよくもそんな……ああ、なんて不人情な人でしょう?」
「マリイ、堪忍しておくれ、マリイ……ぼくはただ、どんな名にしようかときいただけなんだよ。ぼく、どうもわけがわからない……」
「イヴァン([#割り注]シャートフ[#「シャートフ」は底本では「シヤートフ」]の名[#割り注終わり])ですよ、イヴァンとつけるんですよ」と彼女は火のように燃える、涙に濡れた顔を振り上げた。
「いったいまあ、あなたは、何かほかの恐ろしい[#「恐ろしい」に傍点]名がつけられると、思ってらしったの?」
「マリイ、気をお落ちつけよ! ああ、お前はだいぶ取り乱してるんだよ!」
「またそんな失礼なことを、――取り乱したせいにするなんて、わたし請け合っておくわ、――もしわたしがこの子に……あの恐ろしい名前をつけようといったら、あなたはすぐ賛成なさるに相違ないわ。それどころか、まるで気がつかなかったかもしれないわ! ああ、なんて、不人情な下劣な人たちだろう、ええ、みんなみんなそうよ!」
 一分の後には、二人はむろん仲直りした。シャートフは彼女にひと寝入りしろとすすめた。マリイはやがて眠りに落ちたが、それでも男の手を放そうとしなかった。そして、たびたび目をさましては、もしや行ってしまいはせぬかと心配するように、じっと彼の顔を見入りながら、やがてまたすやすやと眠りに落ちるのであった。
 キリーロフは、一人の老婆を『お祝い』によこした。またそのほかに熱いお茶と、たったいま焼いたばかりのカツレツと、それに『マリヤさんに』といって、スープを白パンといっしょに届けてくれた。産婦は貪るようにスープを飲み干した。老婆は赤ん坊の襁褓《おもつ》をかえた。マリイは、シャートフにもカツレツを食べさせた。
 こうして時は過ぎていった。シャートフはぐったりしてしまい、椅子に腰を掛けたまま、マリイの枕に頭を埋めながら、寝入ってしまった。約束どおりやってきたアリーナは、こうした二人の様子を見つけて、愉快そうに彼らを呼び起こした。そして、マリイに必要なことを何かと話して、赤ん坊をちょっと検査してみた。彼女はまたしてもシャートフに、傍を離れるなといいつけた。それから、いくぶん軽蔑したような高慢な色を浮かべながら、『夫婦』をからかった後、さっきと同じように、満足のていで帰って行った。
 シャートフが目をさました時は、もうすっかり暗かった。彼は大急ぎで蝋燭をともして、老婆を呼びに駆け出した。彼がようやく梯子段を一足おりかけた時、自分のほうへ向けて登って来る、だれかの静かな悠々とした足音が、思わず彼をぎょっとさせた。エルケリが入って来た。
「入っちゃいけない!」とシャートフはささやいた。そして、だしぬけにむずと彼の手をつかんで、門の傍へ引き戻した。「ここで待ってくれたまえ、すぐ出て来るから。ぼくはまるできみのことを忘れてたよ! ああ、なんだってきみは思い出させてくれたんだ!」
 彼は恐ろしく急いでいたので、キリーロフのところへも寄らず、ただ老婆だけを呼び出して来た。マリイは『わたしを一人でうっちゃって行くなんて、よくもそんなことが考えられたもんだ!』と憤怒のあまり絶望の色さえ浮かべた。
「しかしね」彼は揚々として叫んだ。「これはもう本当に最後の一歩なんだ! それからさきには、新しい道がひらけてるんだよ。そしたら、もうけっして、けっして古い恐怖のことなぞは、おくびにも出しゃしない!」
 やっとのことで彼はマリイを納得させて、正九時には必ず帰って来ると約束した。そして、強く彼女に接吻し、赤ん坊に接吻した後、彼は急ぎ足でエルケリのほうへ駆けおりた。
 二人はスクヴァレーシニキイなる、スタヴローギン公園をさして出かけた。それは一年半ばかり前、彼が委託された印刷機械を埋めたところである。公園の中でも一番はじに当たる、松林に接したさびしい荒れた場所で、スタヴローギン家からだいぶ離れているから、ほとんど人目にかかる心配はなかった。フィリッポフの持ち家からは、三露里半ないし四露里([#割り注]約一里強[#割り注終わり])歩かなければならなかった。
「まさか、すっかり歩きどおしじゃないだろう! ぼくは辻馬車を雇おう!」
「いや、お願いだから雇わないでください」とエルケリは答えた。「この点をくれぐれも注意されたんです……馭者もやはり証人になり得るわけですからね」
「ちぇっ……馬鹿馬鹿しい! どうだっていいや、ただもう早く片づけちゃえばいいんだ、片づけちゃえば!」
 二人は恐ろしく早足に歩き出した。
「エルケリ君、可憐なる好少年!」とシャートフは叫んだ。「きみはいつか幸福だったことがあるかね!」
「ところで、あなたは今たいへん幸福でいられるようですね」好奇の念を声に響かせながら、エルケリはこういった。

[#3字下げ]第6章 多労なる一夜[#「第6章 多労なる一夜」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 ヴィルギンスキイはこの日二時間ばかり無駄にして、『仲間』のものをいちいち訪ね廻り、昨夜の出来事を報告しようと思い立った。つまり、シャートフのところへ細君が帰って来て、子供を生んだので、彼は確かに密告なぞする気づかいはない。『いやしくも人情をわきまえているものは』、この瞬間かれを危険なものとは、とうてい想像ができないというのであった。しかし、リャームシンとエルケリのほか、どこへ行ってみても不在なので、彼ははたと当惑した。エルケリは晴れやかに彼の目を見つめながら、無言のままこの知らせを聞き終わった。『きみは六時に出かけるかどうか!』という真っ正面からの質問に対して、彼は明るい微笑を浮かべながら、『むろん行きますとも』と答えた。
 リャームシンは見受けたところ、だいぶ重い病気にでもかかったらしい様子で、頭から毛布を引っかぶって、ねていた。ヴィルギンスキイの入って来る姿を見て、彼はぎょっとした様子だった。そして、客が口を切るやいなや、いきなり毛布の下で両手を振りながら、どうか自分にかまわないでくれ、と頼んだ。が、それでもシャートフの一件は、黙って聞き終わった。だれを訪ねても留守だと聞いた時、彼はどういうわけか、なみなみならず驚いた様子であった。彼はもうリプーチンを通して、フェージカの惨死を知っていた。彼は自分からこのことを、忙しそうなとりとめのない調子で、ヴィルギンスキイに話して聞かせた。この事実は今度あべこべに、客のほうを驚かせたのである。『今夜、出かけなきゃならないかしら、どうだろう!』という真正面からの質問に対して、リャームシンはまたとつぜん両手を振って、『ぼくはぜんぜん路傍の人だよ、ぼくは何も知りゃしない。どうかかまわずにおいてくれたまえ』と哀願するのであった。
 ヴィルギンスキイは烈しい不安に悩まされながら、疲憊しきった体を家へ運んだ。家庭に隠さなければならないのも、彼にとって苦しいことの一つだった。彼は、何もかも妻にうち明けるのが癖になっていた。もし彼の焼けただれたような頭脳に、その瞬間あたらしい想念が照らし出さなかったら、――将来の行動に関する一つの新しい、妥協的な計画が浮かんで来なかったら、彼も或いはリャームシンと同様に、床についてしまったかもしれない。けれど、この新しい想念は彼に力を与えた。いな、それどころか、彼はじりじりするような思いで、約束の刻限を待ちかねた。そして、少し早目に、打ち合わせた場所へ出かけたのである。
 それは広いスタヴローギン公園の端にある、恐ろしく陰惨な場所だった。わたしは後でわざわざそこへ行ってみたが、この暗澹たる秋の夜には、ここがどれくらいもの凄く見えたことだろう、と想像された。この辺から古い禁伐林になっているので、幾百年と経った巨大な松の木が、陰欝な糢糊とした斑点をなして、闇の中に見透かされた。それはまったく真の闇で、二歩はなれても、互いに見分けがつかないほどだった。しかし、ピョートルとリプーチン、それから後れて来たエルケリは、めいめい角燈を携えていた。なんのためにいつできたものかわからないが、ここには鑿の加わらない自然石で組み立てた、何かかなりへんてこな洞窟が、世人の記憶を絶した昔からあった。洞《ほら》の中にあるテーブルや床几は、すでにとうから朽ちてばらばらに崩れていた。二百歩ばかり隔てた右手には、公園の第三の池がつきなんとしている。この三つの池は、邸のすぐ傍から始まって、互いに繋り合うようにしながら、公園の一番はずれまで、一露里以上にわたって続いているのだ。
 ここから何かのもの音や叫び声が(よしや鉄砲の音であろうとも)あるじのいないスタヴローギン邸の、召使かなんぞの耳まで届こうとは、とうてい想像できなかった。昨日スタヴローギンが出立して、老僕アレクセイが引き払って以来、大きな邸の中には、五、六人しか住んでいるものがなかったし、おまけに、それも廃物同様の連中ばかりだった。いずれにせよ、こうして淋しく引きこもっている人たちが、たとえ人間の悲鳴や救助の叫びを聞きつけたとしても、それは恐怖の念を引き起こすのみで、だれひとり暖炉の傍や、ぬくみの廻った寝床を離れて、救助に出かけようとするものはあるまいと、十分の確信をもって断定ができる。
 六時二十分には、シャートフを迎いにやられたエルケリを除《の》けて、もうみんなすっかり顔が揃った。ピョートルも今度はぐずぐずしていなかった。彼はトルカチェンコといっしょにやって来た。トルカチェンコは眉をひそめて、心配らしい顔をしていた。いつもの取ってつけたような、高慢らしい断固たる様子は、もはやすっかり彼の顔から消えていた。彼はほとんど少しも、ピョートルの傍を離れなかった。察するところ、突然ピョートルに対して、限りなき信服を感じ出したものらしく、しょっちゅうこそこそと傍へ寄り添うて、何やらささやきかけるのであった。けれど、こちらはほとんど何一つ答えずにすましたが、時々いい加減にして追っ払うために、何やらいらだたしげにつぶやくぐらいのものだった。
 シガリョフとヴィルギンスキイは、ピョートルより少し早目にやって来た。彼が姿を現わすやいなや、二人は明らかに前から企んでいたらしく、深い沈黙を守りながら、少し脇のほうへどいてしまった。ピョートルは角燈を掲げながら、人を馬鹿にした無遠慮な態度で、じっと穴のあくほど二人を見廻した。『何かいおうとしてるのだな』という考えが、ちらと彼の頭をかすめた。
「リャームシンはいないんですか?」と彼はヴィルギンスキイにたずねた。「あの男が病気だといったのは、だれです?」
「ぼくはここにいますよ」ふいに、木の陰から立ち現われながら、リャームシンが答えた。
 彼は暖かそうな外套を着て、その上からしっかり毛布にくるまっていたので、角燈を持っていながらも、その顔がはっきり見分けられないほどだった。
「じゃ、リプーチンがいないだけですね!」
 ところが、リプーチンも、のっそり洞の中から出て来た。ピョートルはふたたび角燈をさし上げた。
「なんだってきみはあんなところへもぐり込んだのだ。どうして出て来なかったんだね!」
「ぼくはね、われわれはすべて自分の……行動の自由を保有してると思う」とリプーチンはつぶやいたが、自分でも何をいおうとしたのか、はっきり意識していないらしい。
「諸君」いままでの半ばささやくような会話の調子を破って、ピョートルは初めて声を張った。それがかなりの効果を奏したのである。「今となって、何もぐずぐずいう必要のないことは、諸君もよくご承知のことと思います。もうきのう何もかもすっかり、直截明確に討議し、咀嚼したじゃありませんか。しかし、諸君の顔つきから察するところ、この中にだれか意見の発表を望む人があるように思われます。もしそうだったら、早く願います。冗談じゃない、時間はいくらもありゃあしない。エルケリが今すぐにもあの男を連れて来るかもしれないんですよ……」
「先生きっとあの男を連れて来るよ」なんのためかトルカチェンコが口をいれた。
「もしぼくの思い違いでないとすれば、まず初めに印刷機械の授受をやるのでしょう?」またしても、なんのためにこんな質問を発するのやら、自分でもはっきりわからないような調子で、リプーチンはこう問いかけた。
「ああ、もちろんむだに棄ててしまう必要はないさね」とピョートルは彼の鼻さきに角燈を突きつけた。「しかし、実際に授受をやる必要はないって、昨日みんなで決めたじゃないか。あの男が自分で埋めた地点を、きみに教えておきさえすれば、後でわれわれが自分で掘り出すさね。それはなんでも、この洞の隅から十歩離れたところだ、ということだけはぼくも聞いてるよ……が、そんなことはどうでもいいが、きみはなんだってそれを忘れたんだね、リプーチン君! あの時のうち合わせによると、まずきみが一人であの男を出迎えて、それからぼくらが出て行くことになってるんじゃないか……きみが今更そんなことをきくのは変だね。それとも、ただちょっといってみただけなのかね!」
 リプーチンは陰欝な様子をして、押し黙っていた。一同も口をつぐんだ。風は松の梢を揺すぶっていた。
「しかし、諸君、ぼくは諸君のおのおのが、自己の義務を履行されることと信じています」ピョートルはじれったそうに沈黙を破った。
「ぼくはシャートフのところへ細君が帰って来て、子供を生んだことを正確に知ってるです」突然ヴィルギンスキイがこう切り出した。興奮してせかせかしながら、言葉もはっきりと発音できないで、しきりに身振り手真似をするのであった。「いやしくも人情をわきまえているものは……いま彼が密告するはずのないことを、固く信じていいわけです……なぜって、彼はいま幸福に包まれてるんですからね……そういう事情で、ぼくはさきほどみんなのところを廻ったけれど、だれもかれも不在だったのです。こういうわけで、今となっては、全然なにもする必要がないかもしれん、と思うのです……」
 彼は言葉を切った。息がつまったのである。
「ヴィルギンスキイ君、もしきみがとつぜん幸福な身になったとすれば」ピョートルは彼のほうヘ一歩つめ寄った。「そのとききみは密告なんてことは別としても、何か公民としての冒険的な行為を延期しますか。それは幸福になる以前に企てたもので、危険とか幸福の喪失とかにかかわらず、自己の義務と考えているような行為です」
「いや、延期しない! どんなことがあっても延期しないです!」なんだか恐ろしく馬鹿げた熱心を表しつつ、ヴィルギンスキイは全身をむずむずさせながら、こういった。
「きみは陋劣漢たらんよりも、むしろふたたび不幸の人たらんことを望むでしょうね?」
「そうですとも、そうですとも……ぼくはそれどころか正反対に……ぜんぜん陋劣漢たらんことを……いや、そうじゃない……けっして陋劣漢じゃない。つまり、陋劣漢たらんよりも、むしろぜんぜん不幸の人たらんことを望みますよ」
「ね、ところで、いいですか、シャートフはこの密告を、公民としての義務と考えている。自己の最も高遠な信念と思ってるのです。その証拠には、自分でもいくらか政府に対して、危険を冒すことさえいとわないじゃありませんか。もっとも、あの男は密告のために、十分情状酌量をしてもらえるのはもちろんだけれど……ああいう男はけっして意を翻しはしない。いかなる幸福もこれにうち勝つことはできない。一日も経ったら、はっと目がさめて、自分で自分を叱咤しながら、だんぜん素志を果たすに相違ない。それに、あの男の細君が三年間の別居の後、スタヴローギンの子を生みに帰って来たということに、ぼくはなんの幸福をも見出すことができない」
「しかし、だれひとり訴状を見た者がないじゃありませんか」突然シガリョフが、一徹な調子でいい出した。
「訴状はぼくが見た」とピョートルはどなった。「ちゃんとできてるのだ。しかし、諸君、こんなことは馬鹿げきってるじゃないか!」
「が、ぼくは」急にヴィルギンスキイが熱くなり出した。「ぼくは抗議します……全力をつくして抗議します……ぼくは……ぼくはこうしたいのです……あの男が来たら、ぼくらはみんな揃って出て行って、みんなであの男を詰問する。もし事実だったら懺悔さして、あの男に立派に将来を誓わしたうえ、放免してやる、とこういうふうにしたいのです。とにかく、裁判ということは必要だ。万事、裁判によって決しなきゃならない。みんなが陰に隠れていて、ふいに飛びかかっていくなんて……」
「誓いぐらいで共同の事業を危険にさらすのは、それこそ愚の骨頂だ! ばかばかしい、諸君、今となってそんなことをいうのは、実に馬鹿げてるじゃないか! いったい諸君はこの危急存亡の時に当たって、どんな役廻りが勤めたいのです?」
「ぼくは抗議する、抗議する」とヴィルギンスキイは同じことをくり返すのであった。
「せめてそうどなるのだけでも、やめてくれたまえ。信号が聞こえないじゃないか。諸君、シャートフは……(ちょっ、いまいましい、今となってなんという馬鹿げた話だ!)ぼくがもう前にいったとおり、シャートフはスラヴ主義者なのです。つまり、この世で最も馬鹿な人間の一人なのです……いや、しかし、馬鹿馬鹿しい、そんなことはどうだってかまやしない、勝手にするがいい! 本当にきみたちのおかげで、ぼくも何がなんだかわからなくなってしまった……諸君、シャートフは世をすねた人間なんです。しかし、当人が望んでいるいないは別としても、やはりわが党に属しているのだから、ぼくは最後の瞬間まで共同の事業のために、あの男をすね者として利用できる、うまく使いこなすことができると当てにしていたので、本部から厳密な命令を受けていたにもかかわらず、あの男を容赦して守っていたのです……ぼくはあの男の実際の価値よりも、百倍ぐらいよけいに容赦してやった! けれども、あの男は結局、密告なんか企てることになった。しかし、こんなことは馬鹿馬鹿しい、勝手にするがいい……ところで、いまだれでもここを抜け出してみるがいい! きみたちはだれ一人だって、この仕事を抛擲する権利を持ってやしないんだ! そりゃお望みならば、今あの男と接吻したってかまやしないけれど、共同の事業を一片の誓言などにゆだねるなんて、そんなことをする権利はきみたちにないのだ! そんな真似をするのは豚だけだ、政府に買収された間諜《いぬ》だけだ!」
「ここにだれか政府に買収された者がいるんですか?」と歯の間から押し出すような声で、またリプーチンがいった。
「きみかもしれないよ。リプーチン君、きみはいっそ黙ってたほうがいいだろう。きみはただそんなことをいってみるだけなんだよ、いつもの癖でね。諸君、政府に買収された間諜というのは、つまり、危険に際して臆病風を吹かす連中さ。恐怖というやつは、いつでも馬鹿者を作り出すものです。こんな連中は最後の瞬間になると、いきなり警察へ駆けつけて、『ああ、どうかわたしだけはお助けください、仲間をみんな売ってしまいますから!』とわめくんだ。しかし、諸君、いいですか、きみたちはもうこうなってしまったら、いくら密告したってゆるしてもらえませんぞ。たとえ刑二等を減じられるとしても、それでもやはり、めいめいシベリヤぐらい覚悟しなきゃなりません。それにね、諸君は、いま一つの剣《つるぎ》をも免れることはできない。この剣は政府のよりも少し鋭いからね」
 ピョートルは憤りに駆られて、無駄なことまで、しゃべり立ててしまったのである。シガリョフは決然として、三歩ばかり彼のほうへ踏み出した。
「昨日の晩から、ぼくはとくと事態を熟考してみました」と彼は例の信ずるところありげな、秩序だった語調で切り出した(見受けたところ、彼はたとえ足下の大地が崩れ落ちても、やはり声を張り上げたり、秩序だった叙述の調子を変えたりしなかったに相違ない)。「とくと事態を熟考した末、ぼくは次の結論に到達しました。いま企てられている殺人は、単に貴重な時間の浪費であるばかりでなく(実際この時間はも少し本質的な、直接的な方法で使用できるのです)、そればかりでなく、ノーマルな道を逸した恐るべき彷徨であります。これは常に何より最も事業を荼《と》毒し、数十年間その成功を遅らせていました。なんとなれば、純粋の社会主義者でなく、政治的色彩の勝った軽率な人々の勢力に、屈服するからであります。ぼくがここへやって来たのは、現に企てられている仕事に反対を唱えて、一同を覚醒せしむるためにすぎません。そうして、どういうわけかきみが危急のときと呼んでいられる今の瞬間から、自分を除外するつもりなのです。ぼくが去るのは、この危険を恐れるからでもなければ、シャートフに対するセンチメンタリズムのためでもありません。ぼくはけっして、あの男と接吻なんかしたくないです。ただただこの仕事が終始一貫して、ぼく自身のプログラムに文字どおり矛盾するからです。しかし、密告とか政府の買収とかいう点につ