京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP457-P474

口のところにあったのですが……」
「いや、覚えていませんな。いったいあすこに制服があったのですか?」
「はあ、ありましたんで」
「床の上に?」
「はじめ椅子の上に、それから床の上に」
「それで、あなたはそれをお拾いになりましたか?」
「拾いました」
「ははあ、それでまだ何か御用がおありになるんですか?」
「いや、そういうことでしたら、別になんでもございませんので……」
 彼は思ったことをすっかりいってしまう勇気がなかった。それどころか、アパート内のだれ一人にも、この出来事を話すことさえはばかったほどである、――こういう連中はこれほどまで臆病なものである。もっとも、アパートの中ではみんなむやみに余を恐れ、尊敬していた。その後、余は二度ばかり、彼と廊下ですれ違いざま目と目を見合わせて面白がったものだが、それにもやがて飽き飽きしてしまった。
 三日ばかりたって、余はゴローホヴァヤ街へ帰った。母親は包みをかかえて、どこかへ出かけるところだった。亭主はもちろん留守で、余とマトリョーシャだけが残ることになった。窓はみんな開け放しになっていた。その家に住んでいるのは、おおむね職人ばかりだったので、どの階からも終日《いちにち》金鎚の音や歌の声が聞こえていた。余と娘はもう小一時間じっとしていた。マトリョーシャは自分の小部屋にこもって、余に背を向けて、床几に腰かけたまま、針を持って何やらいじくり廻していた。と、そのうちにふと恐ろしく小さな声で歌い出した。こんなことは、この娘にかつて見られないことであった。余は時計を取り出して、何時か見た。二時だった。心臓がどきどき打ち出した。余は立ちあがって、娘のほうへそっと忍び寄り始めた。親子の部屋には、窓の上に銭葵の鉢がたくさんおいてあった。太陽がまぶしいほど明るく照らしていた。余は静かに彼女の傍ちかく、床《ゆか》の上に腰を下ろした。娘はぴくりと身を慄わせた。初めまず烈しい驚愕を感じたらしく、いきなり床几から躍りあがった。余はその手を取ってそっと接吻し、娘の体をまた床几のほうへ引き寄せながら、じっとその目を見つめにかかった。余が娘の手を接吻したということは、彼女を小さな子供のように興がらせたが、それはほんの瞬間のことだった。彼女はまたもや躍りあがった、今度はもう顔に痙攣が走るほどの、烈しい驚愕に打たれたのである。彼女はぞっとするほど据わって動かぬ目で、ひたと余を見つめていた。唇は今にも泣き出しそうに、ぴくぴく引っ吊りはじめた。が、それでも声は立てない。余はふたたびその手を接吻して、彼女を膝の上に抱きあげた。そのときふいに娘は全身をぐいと引いて、恥ずかしそうににっと笑ったが、それはなんだかひん曲ったような微笑だった。顔は一面ぱっと羞恥の火に燃え立った。余はまるで酔いどれのように、絶えず彼女の耳に何やらささやきつづけていた。やがてそのうちに思いがけなく、驚くばかり不思議なことが起こった。余はそれを永久に忘れることができないだろう。娘はふいに両手で余の頸を抱きしめると、いきなり自分のほうから烈しい勢いで接吻を始めた。その顔は極度の歓喜を現わしているのであった。余は今にもそのまま立ちあがって、出て行ってしまおうとしたほどである、――この幼いものの内部に潜んでいる情熱が、それほど不愉快に感じられたのである。しかも、それは突然おそって来た憐愍のためなのであった。
 いっさいが終わったとき、娘はきまり悪そうにもじもじしていた。余は彼女を安心させようとも、愛撫を示そうともしなかった。娘は臆病げにほほ笑みながら、じっと余の顔を見つめていた。余は急にその顔が愚かしく思われてきた。当惑の表情は一刻ごとに、見る見る彼女の顔にひろがっていった。ついに彼女は両手で顔をかくしたと思うと、片隅に引っ込んで、うしろ向きにじっと立ちすくんだ。またさっきのように、彼女がおびえはしないかと気づかわれたので、余は無言のまま家を出てしまった。
 思うに、この出来事はかぎりなく醜い行為として、死ぬばかりの恐怖を呼び起こしながら、彼女の心に取り返しのつかぬ烙印を捺してしまったに相違ない。まだおしめの中にいる頃から聞きなれたろうと思われるロシヤ式の口汚い罵詈雑言や、その他あらゆる猥雑な会話にもかかわらず、彼女はまだなんにも知らなかったに相違ない、と余は確信して疑わない。そして、とどのつまり、彼女は言葉に尽くされぬほど大きな、死に価すべき罪を犯して、『神様を殺してしまった』というふうな感じをいだいたに違いない。
 その晩、余は前にもちょっと述べたとおり、酒場へ行って喧嘩をした。けれど、翌朝目をさましたのは自分の下宿だった。レビャードキンが運んで来てくれたのである。目をさましてからまず頭に浮かんだのは、娘が告げたろうかどうだろう? という想念であった。それは、程度こそまださほど強くなかったが、真剣な恐怖の瞬間だった。余はその朝おそろしく陽気で、だれにでも優しくしてやったので、取り巻き連中はしごく大恐悦であった。余はかれら一同をすてて、ゴローホヴァヤ街へおもむいた。余はまだ下の入口の所で、彼女にぱったり行き会った。近所の店へ菊ぢさ[#「菊ぢさ」はママ]を買いにやられた、その帰りなのである。余の姿を見ると、彼女はたとえようのない恐怖を現わして、矢のように階段を駆け昇った。余が入って行った時、母親は『気ちがい猫みたいに』家へ駆け込んだといって、さっそく娘に拳固を一つ見舞ったところで、娘の驚愕の真因はそれでおおわれた。こういうふうで、まずさし当たり万事平穏であった。娘はどこかへ引っ込んでしまって、余のそこにいる間じゅう、ちっとも出て来なかった。余は一時間ばかりいて、帰ってしまった。
 夕方になって、余はまたぞろ恐怖を感じたが、今度はもう比較にならぬほど烈しかった。むろん、余はどこまでも突っぱることができたけれど、真相を暴露される恐れもあった。余の頭には流刑などという考えも閃いた。余はかつて恐怖というものを知らなかった。この時を除いては、一生涯あとにもさきにも、何一つ恐ろしいと思ったことがない。だから、シベリヤなどを恐れるわけはなおさらなかった。もっとも、そこへ流されてもいいようなことは、一度や二度でなく仕出かしたものだけれど。が、その時は余もすっかり臆病になり切って、なぜか知らないが、本当に恐怖を感じた。それは生まれて初めてのことで、――実に悩ましい感じだった。のみならず、その晩、余は自分の宿にいて、彼女に烈しい憎悪をいだき始めた。余は憎しみのあまり、殺してしまおうと決心したほどである。憎悪のおもなる原因は、彼女の微笑を思い起こしたことに潜んでいた。それから、彼女がすべて終わった後に片隅へ飛んで行って、両手で顔を隠したことを考えると、なんともいえない嫌悪を伴なった侮蔑感が余の心中に湧き起こって、名状しがたい狂憤がこみ上げて来る。と、それにつづいて悪感《おかん》が襲って来、とうとう夜明け頃には熱を出してしまった。余はまたもや恐怖のとりこになったが、もはやこれ以上の苦しみはなかろう、と思われるほどの烈しさであった。しかし、余はもう娘を憎まなかった、――少なくとも、宵に経験したような病的な発作に達するほどではなかった。烈しい恐怖は、完全に憎悪と復讐の念を駆逐するものだ。これは余の観察である。
 余は正午頃、健全な体で目をさました。それは、昨夜来の苦悩の烈しさが妙に思われるほどであった。――もっとも機嫌はよくなかった。余はいやでたまらないのを我慢して、またもやゴローホヴァヤ街へ出かけなければならなかった。今でも覚えているが、そのとき途中でだれかと喧嘩がしたくてたまらなかった。ただし、真剣な喧嘩でなくてはならない。ゴローホヴァヤヘ来て見ると、余の部屋にニーナ・サヴェーリエヴナが来ていた。これは例の小間使で、もう一時間ちかく余を待っていたのである。余はこの女をまるで愛していなかったので、彼女は呼ばれもしないのに訪れて来て、余に怒られはしないかと、ややびくびくものでやって来たのである。けれど、余はにわかに彼女の来訪を喜んだ。このニーナはちょっと渋皮のむけた女だったが、つつましやかなたちで、町人社会で喜ばれそうなものごしや話し振りなので、下宿の女房はもう前から余に向かって、さんざんこの女のことを褒めちぎっていたものである。余が入ったとき、二人はさし向かいでコーヒーを飲んでいた。かみさんは愉快な話し相手をつかまえ大恐悦だった。その小部屋の隅に、余はマトリョーシャの姿を認めた。彼女はそこにたたずみながら、母親と女客をじっと見つめていた。余が入って行っても、彼女は前のように隠れようとも、逃げようともしなかった。ただげっそり痩せて、熱でもありそうなふうに思われた。余はニーナに優しくしてやって、かみさんの部屋との境の戸を閉めたりした(こんなことは、もう久しい前からなかったことなので)。ニーナはすっかりうちょうてんになって帰って行った。余は自分で彼女の手を取って送り出し、それきり二日間ゴローホヴァヤ街へ帰って来なかった。もう飽き飽きしてしまったのである。余は何もかも片づけて、下宿のほうも引き払い、ペテルブルグから立ってしまおうと決心した。
 しかし、下宿を断わりに行って見ると、かみさんは不安と悲しみに包まれていた。マトリョーシャはもう三日前から病人で、毎晩熱に悩まされ、夜になると譫言《うわごと》をいうとのことであった。むろん余はどんな譫言かたずねた(二人は余の部屋でひそひそ話したのである)。すると、母親が余の耳にささやくには、『恐ろしい』『神様を殺してしまった』というのが、娘の譫言なのだそうである。余は自分で金を出すから、医者を呼んで来るように提議したが、女房は承知しなかった。「まあ、神様のお助けで、このままでもよくなるでございましょう。のべつ臥《ね》通しというわけでもありません、昼間は外へも出るのでございますよ。たった今もそこの店までお使いに行ったくらいなので」余はマトリョーシャ一人だけの時に来ようとはらを決めた。幸い女房が、五時頃に川向こうへ行って来なければならぬと口をすべらしたので、晩方にまた帰って来ることにした。
 余は小料理屋で食事をして、ちょうど五時十五分にゴローホヴァヤ街へ引っ返した。余はいつも自分の鍵で中へ入るのであった。マトリョーシャのほかにはだれもいなかった。彼女は小部屋の屏風の陰で、母親の寝台に臥ていた。余は彼女がちらと覗いたのを見たが、気がつかないようなふりをしていた。窓という窓はみんな開いていた。空気は暖いというより、むしろ暑いくらいであった。余は少し部屋の中を歩いた後、長いすに腰をかけた。余はいっさいのことを最後の瞬間まで覚えている。マトリョーシャに話しかけないでじらすのが、余はたまらなく嬉しかった。なぜかわからない。余はまる一時間待っていた。と、ふいに彼女は自分で屏風の陰から飛び出した。彼女が寝台から飛びおりた時、両足が床にぶつかってどんといったのも、それに続いて、かなり早めな足音がしたのも聞いた。と、彼女はもう余の部屋の閾の上に立っていた。立って、無言のままじっと見ていた。余は卑劣千万にも、うれしさに心臓の躍るのを覚えた。つまり、余が意地を立て通して、彼女のほうから出て来るまで待ちおおせたからである。この数日来、一度も間近く見なかったが、まったくその間に彼女は恐ろしく痩せた。顔はかさかさになって、頭はきっと燃えるようだったに相違ない。大きくなった目はじっと据わって、ひたと余を見つめている。初めはそれが鈍い好奇の表情のように思われた。余はじっと坐ったままそれを見返して、身動きもしなかった。と、その時またふいに憎悪の念を感じた。しかし、間もなく、彼女がまるで余を恐れていない、それよりむしろ熱に浮かされているのだ、と見て取った。が、熱に浮かされているわけでもなかった。とつぜん彼女は余のほうへ向けて、顎をしゃくり始めた。それはゼスチュアを知らぬ単純な人間が、人を責める時にやるような、そうした顎のしゃくり方であった。と、ふいに、彼女は余に小さな握り拳をふり上げて、その場を動かずに威嚇をはじめた。最初の瞬間、余はこの動作が滑稽に感じられたが、だんだんたまらなくなって来た。彼女の顔には、とうてい子供などに見られないような絶望が浮かんでいたのである。彼女は絶えず余を嚇かすように、小さな拳を振っては、例の譴責の顎をしゃくるのであった。余は恐怖を覚えながら立ちあがって、彼女の傍へ寄り、そっと用心ぶかく、穏かに、優しく話しかけたが、その言葉が彼女の耳に入らないのを見て取った。やがて彼女は、あの時と同じように、いきなりぱっと両手で顔を隠して、余の傍を離れると、こちらへ背を向けて窓ぎわに立った。なぜ余はそのとき立ち去らないで、あることを待つもののごとくい残ったのか、ふつふつ合点がいかない。間もなく、余はふたたびせかせかした足の響きを聞いた。彼女は木の廻廊に通ずる戸口へ出て行った。そこから階段づたいに下へおりる口があった。余はすぐに自分の部屋のドアヘ駆け寄り、そっと細目にあけて見ると、マトリョーシャが小っぽけな物置きへ入るのが目についた。便所と隣りあった鶏小屋みたいなものである。きわめて興味のある想念が余の頭に閃いた。なぜこの想念がまず第一に余の心に浮かんだのか、いまだに合点がいかない。つまり、そうなるべき運命だったと見える。余は扉をしめて、また窓ぎわに腰をおろした。もちろん、いま閃いた想念をまだ信ずるわけにはいかない、――『しかしそれでも……』(今でもすっかり覚えているが、余の心臓は烈しく鼓動した)。
 一分ほどたって、余は時計を眺めた。そして、できるだけ正確に時刻を見さだめた。なんのために正確な時刻が必要だったのか知らない。けれど、余はそれをするだけの余裕があった。全体に、余はその時すべてのことを見のがすまいとした。で、そのとき観察したことを今でも覚えているばかりでなく、現に目の前に見るような思いさえする。夕闇がせまって来た。余の頭の上で蠅が一匹うなって、のべつ顔にとまった。余はそれをつかまえて、しばらく指で抑えていたが、やがて窓のそとへ放してやった。下のほうで一台の荷馬車が、やけに大きな音を立てながら、門内へ入って来た。一人の仕立職人が、裏庭の片隅に当たる窓のなかで、もうずっと前から、思い切り大きな声で歌をうたっている。仕事をしていたのだけれど、姿は見えない。ふと、こんな考えが頭に浮かんで来た。余が門内へ入って、階段を昇って来るときにも、だれひとり行き会ったものがないのだから、これから下へおりる時にも、もちろん、だれにも行き合わないほうがいい。そう思って、余はほかの下宿人どもが見つけないように、用心ぶかく椅子を窓の傍から離した。本を手に取り上げたが、すぐにほうり出して、銭葵の葉にのっかっている小っちゃな赤い蜘蛛を見まもっているうちに、忘我の境に落ちてしまった。余はいっさいのことを最後の瞬間まで覚えている。
 余はふいに時計を取り出した。マトリョーシャが出て行ってから、ちょうど二十分たっている。想像はどうやら適中したらしい。しかし、余はもう十五分かっきり待ってみることに決めた。ひょっとしたら、彼女は引っ返したのに、こちらでそれを聞き洩らしたのかもしれない、――こういう考えも余の頭に浮かんで来た。しかし、それはあり得ないことだった。死のごとき静寂があたりを領して、一匹一匹の蠅のうなり声さえ聞き分けられるくらいであった。ふいに余の心臓はまた烈しく鼓動を始めた。時計を取り出して見ると、まだ三分残っていた。心臓は痛いほど動悸していたが、余はその三分間じっと坐り通した。それから、やっと立ちあがって、帽子を目ぶかにかぶり、外套のボタンをかけた後、余のここへ来たことを示す痕跡はないかと、部屋の中を見廻した。椅子はもとのように窓ぎわ近く寄せて置いた。最後に、余はそっと扉をあけて、自分の鍵で戸締りをし、さて物置のほうへ足を向けた。物置きの戸は締めてあったけれど、鍵をかけてなかった。この戸にいつも鍵をかけたことがないのを、余はちゃんと承知していたが、それでも開けて見たくなかった。ただ爪立ちをして、隙見をはじめた。この瞬間、爪立ちをしながら、余はふと思い出した、さきほど窓ぎわに坐って、赤い蜘蛛を見つめながら、いつしか忘我の境に陥ったとき、自分が爪先立ちをしながら、この隙穴まで片目を持って行く姿を心に描いたものである。このデテールをここへ挿入するのは、余がどの程度まで自分の知性をはっきり掌中に把握していて、すべてに責任を持ちうるかということを、是が非でも証明したいからである。余は長いこと隙穴を覗いていた。中が暗かったからである。しかし、まっ暗闇でもなかったので、ついに見分けることができた、余にとって必要なものを……
最後にここを立ち去る決心をした。階段ではだれにも出会わなかった。三時間の後、余は宿でいつもの連中といっしょに、上着を脱ぎすてて茶を飲みながら、古いカルタを弄んでいた。レビャードキンは詩を朗読していた。いろんな話がたくさん出たが、まるでわざと誂えたように、みんな上手に面白おかしく話してくれて、いつものように馬鹿馬鹿しくなかった。そのときキリーロフも一座にいた。ラムのびんはそこにあったけれど、だれも飲むものはなかった。ただ時々レビャードキンが一人で、ちょいちょい口をつけるくらいなものであった。
 ブローホル・マーロフは、「ニコライ・フセーヴォロドヴィチ、あなたが機嫌をよくして、くさくさしていらっしゃらないと、われわれまでがみんな陽気になって、気の利いたことをいいますぜ」と言った。余はこれをすぐその場で記憶にたたんだ。してみると、余は愉快で、機嫌がよくて、くさくさしていなかったわけである。が、それは表面だけのことである。忘れもしない、余はおのれの解放を喜んでいる自分が、卑屈で陋劣な臆病者だ、しかも、一生、この世でも、死んだ後でも、けっして潔白な人間にはなれないということを、自分でもちゃんと承知していた。それから、まだこういうこともある。余はその時、『自分の臭いものは匂わない』というユダヤの諺を、おのれの身に実現したのだ。というのは、余が心の中で卑劣だと感じていながら、それを恥とも思わず、全体にあまり良心の苛責を感じなかったからである。
 そのとき余は茶を飲みながら、取り巻き連としゃべっているうちに、生まれてはじめて厳粛に自己定義をした、――ほかでもない、自分は善悪の区別を知りもしなければ、感じもしない。いや、自分がその感覚を失ったばかりでなく、もともと善悪などというものは存在しない(それも余にとっては気持ちがよかった)、ただ偏見あるのみだ、自分はあらゆる偏見から自由になることができるが、しかし、この自由を獲得したら身は破滅だ、――とこういうふうのことだった。それは生まれてはじめて定義の形で意識したもの、しかも取り巻き連と茶を飲みながら、わけのわからないでたらめをしゃべったり、笑ったりしているうちに、偶然うかんで来た意識なのである。しかし、それでも余はいっさいを覚えている。だれでも知っている古い思想が、突然なにか新しいもののように心に映ずることがよくある。それは人生五十年の坂を越した後でも、起こり得るものである。
 その代わり、余は始終なにごとか期待していた。と、はたして案のとおりであった。もうかれこれ十一時ごろに、ゴローホヴァヤの家の庭番の娘が、かみさんの使いで駆けつけた。マトリョーシャが首をくくったという急報を、余にもたらしたのである。余はその小娘といっしょに出かけた。行って見ると、かみさんはなぜ余を迎えによこしたのか、自分でもわからないのであった。彼女はわめいたり、もがいたりしていた。人が大勢あつまって、警察の人も来ていた。余はしばらくそこに突っ立っていたが、やがて引き上げてしまった。余はその後もずっと別に迷惑を受けなかった。ただ必要な訊問に答えたばかりであった。余は、娘が病気して、うわごとをいっているので、自費で医者を呼びにやろうと申し出た、ということ以外には何もいわなかった。それから、ナイフのことでも何やら訊問を受けた。余はそれに対して母親が折檻したけれど、別になんのこともなかったと答えた。余があの晩行ったことは、だれも知らなかった。
 余は一週間ばかり、そこへ足を向けなかった。もう葬式もすんでしまってから、余は部屋を明けに出かけて行った。内儀さんはもう前々どおりに、ぼろ切れや縫い物をごそごそ始めていたけれど、それでもやはり泣きつづけていた。「あれはなんでございますよ。あなたのナイフのために、あの子をひどい目に遭わしたのでございます」と彼女はいったが、大して余を責めるような調子でもなかった。余はもはやああいうことがあった以上、この部屋でニーナに逢うわけにゆかないというのを口実にして、かみさんとの勘定をすましてしまった。彼女はお別れにもう一度ニーナを褒めてくれた。帰りしなに、余は決まりの部屋代のほかに、五ルーブリ心づけをしておいた。
 しかし、何よりいやなのは、頭がぼうっとするほど、生活に飽き飽きしたことである。もし自分が気おくれしたことを思い出して、いまいましさを感じることさえなかったら、ゴローホヴァヤ街の事件も、当時のあらゆる出来事と同様、危険が過ぎ去ると同時に、すっかり忘れてしまったかもしれないのである。余は、だれであろうと相手かまわず、機会さえあれば欝憤を晴らしていた。その当時、まったくなんの理由もないのに、余はだれかの生活をぶち毀してやろうという考えを起こした。ただできるだけ醜悪な方法でやりたかったのである。もう一年も前から自殺を考えていたが、それよりもっとうまいことが現われた。
 あるとき、余は跛のマリヤ・レビャードキナを見ているうちに(彼女はその当時まだ気ちがいでなく、ただ感激性の強い白痴というだけであった。ときおりこの貸部屋で余の身のまわりの用を足していたが、心ひそかに夢中になるほど余に恋していることを、取り巻き連中が嗅ぎ出したのである)、余は突然この女と結婚しようと決心した。スタヴローギンがこうした人間の屑の屑と結婚するという考えが、余の神経を刺戟したのである。これより以上の醜悪事は、想像もできないほどである。いずれにしても、余が彼女と結婚したのは、ただ『乱宴の後の酒杯の賭』ばかりのためではない。この結婚の証人は、当時ペテルブルグにい合わせたキリーロフと、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキイと、それから兄のレビャードキンと、プローホル・マーロフ(今は死んでいない)であった。それ以外のものはだれもこんりんざい知らなかったし、立ち会った連中も沈黙を約束した。余はいつもこの沈黙がいまわしい行為のように思われたが、しかし、今日までその約束は破られなかった。もっとも、余は公表の意図を持っていたが……今こそ何もかもいっしょに発表してしまう。
 結婚後、余は母のもとに帰省するためN村へ向けて出発した。この旅行は気ばらしが目的だった。故郷の町に余は気ちがいという印象を残した、――この印象は今だにしっかり根を張っていて、疑いもなく余に害をなしている。そのことは後で説明するつもりである。それから余は外国へ旅立ち、そこで四年を過ごした。
 余は東洋へも行った。アトスでは八時間の終夜祷を立ち通しても見た。エジプトへも足を踏み入れたし、スイスで暮らしたこともある。氷島アイスランド》へさえも渡った。ゲッチンゲンでは一年間の講義を完全に聴講した。最後の一年間に、余はパリであるロシヤの上流の家庭ときわめて近しい間がらになり、スイスでは二人のロシヤ令嬢と知合いになった。
 二年前フランクフルトで、ある紙屋の店先を通りかかった時、余はたくさんの売物の写真の中で、優美な子供服を着た娘の小さな写真に目をつけた。それが恐ろしくマトリョーシャに似ているのであった。余はすぐさまその写真を買って、ホテルへ帰ると、マントルピースに飾って置いた。そこで写真は一週間ばかり手つかずにのっかっていた。余はちらとも振り返って見なかった。そして、フランクフルトを立つとき、持って行くのを忘れてしまった。
 こんなことをここへ書き入れるのは、ほかでもない。どれだけ余が自分の追憶を支配して、無感覚になり得たかということを証明するためなのである。余はそれらの追憶を一まとめにして、一どきにほうり出してしまう。すると一群の追憶が、いつも余の欲するがままに、おとなしく消えていくのであった。余はいつも過去を追憶するのが退屈で、ほとんどすべての人がやるように、昔話を喋々することができなかった。ことに余の過去は、余に関するいっさいのものと同様に、憎悪すべきものばかりだから、なおさらである。マトリョーシャのことにいたっては、写真をマントルの上に置き忘れたほどである。
 一年ばかり前の春のこと、ドイツの国を通過中に、ぼんやりして乗換え駅を通り過ごし、ほかの線へ入ってしまった。余は次の駅で降ろされた。それは午後の二時すぎで、晴ればれとした日であった。場所はドイツの小さな田舎町である。余はある旅館を教えてもらった。次の列車は夜の十一時に通るので、かなり待たなければならなかった。余は別にどこへも急ぐわけでなかったので、むしろこの出来事を喜んだくらいである。旅館は小さくやくざなものだったけれど、すっかり緑に包まれ、四方から花壇に取り囲まれていた。余は狭い部屋を当てがわれた。気持ちよく食事をすますと、徹夜で乗り通して来たので、午後四時ごろにぐっすり寝入ってしまった。
 そのとき余は実に思いがけない夢を見た。こんな夢はかつて見たことがなかったのである。ドレスデンの画廊に、クロード・ローレンの画が陳列されている。カタログには『アシスとガラテヤ』となっているが、余はいつも『黄金時代』と呼んでいた。自分でもなぜか知らない。余は前にもこの画を見たことがあるけれど、その時も三日前に、また通りすがりに気をつけて見た。というより、この画を見るために、わざわざ画廊へ出かけて行ったのである。ドレスデンへ寄ったのも、ひっきょうそのためかもしれない。で、この画を夢に見たのだが、しかし、画としてでなく、さながら現実の出来事のように現われたのである。
 それはギリシャ多島海の一角で、愛撫するような青い波、大小の島々、岩、花咲き満ちた岸辺、魔法のパノラマに似た遠方《おちかた》、呼び招くような落日、――とうてい言葉で現わすことはできない。ここで欧州の人類は、自分の揺籃を記憶に刻みつけたのである。ここで神話の最初の情景が演じられ、ここに地上の楽園が存在していたのである……ここには美しい人人が住んでいた。彼らは幸福な穢れのない心持ちで、眠りから目ざめていた。森は彼らの楽しい歌声にみたされ、新鮮な力の余剰は、単純な喜びと愛に向けられていた。太陽は自分の美しい子供たちを喜ばしげに眺めながら、島々や海に光を浴びせかけていた! これは人類のすばらしい夢であり、偉大な迷いである! 黄金時代、――これこそかつてこの地上に存在した空想の中で、最も荒唐無稽なものであるけれど、全人類はそのために生涯、全精力を捧げつくし、そのためにすべてを犠牲にした。そのために予言者も十字架の上で死んだり、殺されたりした。あらゆる民族は、これがなければ生きることを望まないばかりか、死んでいくことさえできないくらいである。余はこういうような感じを、すっかりこの夢の中で体験した。余は本当のところ、なんの夢を見たのか知らないけれど、眠りがさめて、生まれてこの方初めて文字どおりに泣き濡れた目を明けた時、岩も、海も、落日の斜な光線も、まざまざと目のあたり見るような心地がした。かつて知らぬ幸福感が痛いほど心臓にしみ込んで来る。もう暮近い頃で、余の小さな部屋の窓からは、そこにならべた植木鉢の緑を通して、落日の斜な光線が太い束になって流れ込み、余に明るい光を浴びせていた。余は過ぎ去った夢を呼び返そうとあせるように、急いでまた両眼を閉じた。けれど、ふいに、さんさんたる日光の中から、何かしら小さな一点が浮き出すのを見つけた。この点はふいに何かの形になっていき、突然まざまざと小さな赤い蜘蛛が余の眼前に現われた。余は忽然と思い起こした、それは同じように落日の光線がさんさんと注いでいるとき、銭葵の葉の上に止っていたものだ。余は何ものかが、ぐさと体を刺し貫いたような気がして、身を起こしてベッドの上に坐った……
(これがそのとき生じたことの全部である!)
 余が目の前に見たものは! (おお、それは、うつつではない! もしそれが本当の映像であったら!)余が目前に見たのは、痩せて熱病やみのような目つきをしたマトリョーシャ、――いつか余の部屋の閾の上に立って、顎をしゃくりながら、余に向かって、小っぽけな拳を振り上げたのと、そっくりそのままなマトリョーシャである。余はこれまでかつて、これほど悩ましい体験を覚えたことがない! 余を威嚇しながらも(しかし、なんで威嚇しようとしたのだろう? いったい余に対して何をすることができたのだろう? ああ!)、結局、わが身ひとりを責めた、理性の固まっていない、頼りない少女のみじめな絶望! こういうものは後にもさきにも覚えがない。余は夜になるまで、じっと身動きもせずに坐ったまま、時の移るのも忘れていた。これが良心の苛責とか、悔恨とか呼ばれているものだろうか、余にはわからない。今でさえなんともいえないに相違ない。しかし、余はただこの姿のみがたまらないのである。つまり、閾の上に立って、余を威嚇するように、小さな拳を振り上げている姿、ただこの姿、ただこの瞬間、ただこの顎をしゃくる身振り、これがどうしてもたまらないのだ。その証拠には、今でもほとんど毎日のように、これが余の心を訪れる。いや、映像のほうから訪れるのではなくて、余が自分で呼び出すのである。そういうふうでは生きて行くことができないくせに、呼び出さずにいられないのである。たとい幻覚でもよい、いつかうつつにそれを見るのだったら、まだしも忍びやすいに相違ない!
 なぜ生涯を通じての追憶中、どれ一つとしてこういう悩ましさを、余の心に呼び起こすものがほかにないのだろう? 実際、人間の裁きの標準からいえば、それよりはるかにひどい追憶が、いくらでもあるはずではないか。それらの追憶によって感じるものは、ようやくわずかに憎悪の念くらいにすぎない。それも現在こんな状態だから現われるので、以前はそんなものなど冷ややかに忘れるか、わきのほうへ押しのけるかしたものである。
 それ以来、余はその年いっぱい放浪を続けて、気を紛らそうと努めた。今でもその気になれば、マトリョーシャさえ脇へ押しのけることができる、と信じている。余は前と変わらず、おのれの意志を完全に支配することができる。ところが、困ったことには、けっしてそうしようという気持ちを起こさないのである。自分でそうしたくないのだ。これから後も、そういう気にはなるまい。こういう状態が余の発狂するまで続くことだろう。
 スイスへ行って二月ほど経ったとき、余は烈しい情欲の発作を感じた。それはかつて初期の頃に経験したのと同じような、狂暴きわまる性質のものであった。余は新しい犯罪への恐ろしい誘惑を感じた。ほかでもない、二重結婚を決行するところだったのである(なぜなら、余はすでに妻帯者だから)。けれども、ある娘の忠言にしたがって、そこから逃げ出した。この娘に余は何もかもうち明けてしまった。自分のあれほど望んだ女さえまるで愛していないし、全体に、かつて一度もだれひとり愛したことがない、ということまで告白したのである。――けれど、この新しい犯罪も、いっこうマトリョーシャからのがれる役には立たなかった。
 こういうわけで、余はこの手記を印行して、三百部だけロシヤヘ携行することに決心した。時いたったならば、余はこれを警察と土地の官憲へ送るつもりである。と、同時に、すべての新聞社へ送付して公表を乞い、ペテルブルグとロシヤの国土に住む多数の知人にも配付しようと思う。これと並行して、外国でも訳文が現われるはずである。法律的には、余は別に責任を問われないかもしれない。少なくとも、大問題を惹起することはなかろうと思う。余一人が、自分自身を起訴するだけで、ほかに起訴者がないからである。それに証拠が全然ない、或いはきわめて少ない。また最後に、余の精神錯乱に関する疑いは、牢固として世間に根を張っているので、必ずや肉親の人々はこの風説を利用して、余に対する法の追求を揉み消すことに努力するだろう。余がかかる声明をするのは、わけても、自分が現在完全な理知を有していて、おのれの状態を理解していることを証明せんがためである。しかし、余の身になって見れば、いっさいのことを知るべき世上の人々が残るのである。彼らは余の顔を見るだろうが、余も彼らの顔を見返してやるのだ。余はみんなに顔を見られたい。これが余の心を軽くするかどうか、余自身にもわからない。が、とにかく最後の方法に訴えるのである。
 なお一つ、――もしペテルブルグ警察が極力捜索したならば、或いは事件を発見できるかもしれない。あの職人夫婦は今でもペテルブルグに住んでいるかもわからぬのである。家はむろん思い出されるに相違ない。薄水色に塗った家だった。余はどこへも行かないで、当分のあいだ(一年もしくは二年)母の領地スグヴァレーシニキイに滞在するつもりである。もし呼ばれたら、どこへでも出頭する。
[#地から1字上げ]ニコライ・スタヴローギン

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 告白の黙読は約一時間つづいた。チーホンはゆっくりゆっくり読んで、所によると二度ずつ読み返したらしかった。スタヴローギンはそのあいだ始終じっと身動きもせず、無言のまま坐っていた。不思議なことに、この朝ずっと彼の顔に浮かんでいた焦躁と、放心と、熱に浮かされたような表情は、ほとんど消えてしまって、平静の色に変わっていた。そこには真摯の影さえもうかがわれて、ほとんど気品の高い感じを与えるほどであった。チーホンは眼鏡をはずして、しばらくためらっていたが、やがて相手の顔へ目を上げて、やや用心ぶかい調子で最初に口を切った。
「この書きものに、多少の訂正を加えるわけにいきませんかな」
「なんのために? ぼくは誠心誠意で書いたんですよ」とスタヴローギンは答えた。
「少しばかり文章を……」
「ぼくはあらかじめお断わりしておくのを忘れましたが」と彼は全身をぐっと前へ乗り出しながら、早口に鋭くいった。「あなたが何をおっしゃろうと、それはいっさいむだですよ。ぼくは自分の意図を撤回しゃしません。どうか留めだてしないでください。ぼくは必ず公表します」
「あなたはさきほどこれをお渡しになるときも、その予告をお忘れにならなかった」
「同じことです」とスタヴローギンはきっぱりとさえぎった。「もう一どくり返して申しますが、あなたの抗議の力がどんなに強くても、ぼくは自分の意図を変更しやしません。断わっておきますが、ぼくはこの拙い言葉で(或いは巧妙な言葉かもしれません、それはご判断にまかせます)、あなたが少しも早くぼくに反対し、意見をなさるように仕向けようなんて、そんなつもりはもうとうないんですからね」
「わたしはあなたのお考えに反対したり、ことに、計画を抛擲するようにご意見したりなど、そのようなことはしようとてできませんよ。これは実に偉大な思想で、キリスト教思想をこれ以上完全に表白することはできません。それに、あなたの計画しておられるような驚くべき苦行は、人間の悔悟が達し得られる最大限度です。ただもし……」
「ただもしなんです?」
「ただもしこれが本当に悔悟であり、本当にキリスト教思想であったならばです」
「ぼくは誠意をもって書いたのです」
「あなたは心に望んでいられたよりも、なんだかわざと余計に、自分自身を粗野なものに見せかけておられるように思われますな……」チーホンはだんだん無遠慮になってきた。明らかにこの『書きもの』は、彼に強烈な印象を与えたらしい。
「見せかける? くり返して申しますが、ぼくは『見せかけ』たことなどありません。ことに芝居など打ったことは」
 チーホンはつと目を伏せた。
「この告白はとりもなおさず、死ぬばかり傷つけられた心の、やむにやまれぬ要求から出たものと思いますが、そうでしょうな?」と彼はなみなみならぬ熱心な調子で、しゅうねく言葉をつづけた。「さよう、これは懺悔です。あなたはこの懺悔の自然な要求に打ち負かされた。そして、前代未聞の偉大な道に踏み込まれたのです。しかし、あなたはもう今から、ここに書かれたことを読む人々すべてを憎悪し侮蔑して、彼らに戦いを挑んでおられるように見えますな。罪業を告白するのを恥じぬあなたが、なぜ懺悔を恥じなさるのです?」
「恥じてるんですって?」
「恥じ恐れておられます!」
「恐れてるんですって?」
「身も世もあらぬほど。みんな自分の顔を見るがよい、とこうあなたは書いておられる。ところで、あなたご自身は、どうして世間の人の顔をご覧になるつもりですな? あなたの告白には、ところどころ、強い表現が使ってあります。あなたはどうやら、ご自分の心理に見とれて、一つ一つ細かい気持ちを取り上げておいでになる。ただもう自分の無神経さをひけらかして、読者を驚かしてやりたい、といったふうに見えますよ。ところが、そんな無神経などというものは、あなたにお持ち合わせがない。どうです、これでも挑戦ではありませんか、罪人の判官に対する傲慢不遜な挑戦では?」
「どこがいったい挑戦なんです? ぼくは自分自身の批判をいっさい排除したつもりです?」
 チーホンは口をつぐんだ。くれないの色がそのあおざめた頬をさっと刷《は》いた。
「その話はやめましょう」とスタヴローギンは鋭くさえぎった。「では、今度はぼくのほうから一つ質問さしていただきましょう。もうこれが(と彼は刷り物を顎でしゃくった)すんでから、かれこれ五分間も話をしていますが、あなたのお顔にいやらしそうな表情も、恥ずかしそうな様子も見受けられません。あなたは別に気むずかしそうな顔もしていらっしゃらないように……」
 彼はしまいまでいい終わらなかった。
「あなたにはもう何一つ隠し立てをしますまい。わたしは慄然として恐れたのです、無為のためにわざわざ穢らわしい所業に浪費された偉大な力を。罪業そのものにいたっては、同じような罪を犯したものは大勢あるけれど、みんな若気の過ちぐらいに考えて、安らかな良心をいだいて、平穏無事に暮らしておる。同様な罪を犯しながら、慰安と愉楽を味わっておる老人たちさえある。世の中はこうした恐ろしいことで、一ぱいになっておるくらいです。ところが、あなたはその罪の深さを底の底まで感じなさった。それまでに達するのは、ざらにないことですて」
「その刷り物を読んでから、ぼくをにわかに尊敬するようになったんじゃありませんか?」スタヴローギンはひん曲ったような苦笑を洩らした。
「それに対して直接のお答えは、せぬことにしましょう。しかし、あなたがその少女にされたような行為より以上に大きな恐ろしい犯罪は、むろん、ありませんし、またあり得ません」
「そんなに一々|尺《ものさし》で量るようなことはよしましょう。ぼくはここに書いたほど苦しんじゃいないかもしれません。また、実際、いろいろ自己讒謗をやっているかもしれませんよ」と彼は出しぬけにこうつけ足した。
 チーホンはふたたび口をつぐんだ。
「ところで」とチーホンはまた口を開いた。「あなたがスイスで手を切ったという娘さんは、ぶしつけなおたずねですが、いま……どこにおられますかな?」
「ここです」
 またもや沈黙がおそうた。
「ぼくはあなたに対して、大いに自己讒謗をやったかもしれませんよ」また執拗な調子でスタヴローギンはくり返した。「もっとも、仕方がない。ぼくはこの告白の粗暴な調子で、世間の人に挑戦したってかまやしませんよ、もしあなたがこの中に挑戦をお認めになるとすればね。ぼくはいっそうみんなに憎まれるばかり、それっきりです。なに、そのほうがぼくは楽なくらいです」
「それは、つまり、あなたの中の毒念が、それに応ずる毒念を呼び起こすのです。そうして憎んでおるほうが、人から憐愍を受けるよりも、かえって気が楽になるというわけですて」
「おっしゃるとおりです」とスタヴローギンは出しぬけに笑い出した。「この告白を発表したら、ぼくはジェスイット教徒と呼ばれるかもしれませんね。でなければ、しんの怪しい狂信者とでも。そうじゃありませんか、は、は、は」
「もちろん、そういう批評は必ずありましょうとも。ときに、その決心はちかぢかに実行なさるおつもりですかな?」
「今日か、あすか、あさってか、そんなことはわかりません。とにかく、近いうちのことです。いや、あなたのおっしゃるとおりです。多分そのとおりになるでしょう。ぼくはこれを出しぬけに発表するでしょう。つまり、世間の連中が憎くてたまらない、悩ましいほど復讐心の燃え立ったような瞬間に」
「わたしの問いに答えてください。ただ真実に、わたしだけに、わたし一人だけに」とチーホンはまるで別な声でいい出した。「もしだれかがこのことをゆるしたら(とチーホンは刷り物を指さした)、――それもあなたが尊敬しているとか恐れているとか、そういう種類の人でなくて、あなたの一生を知るおりのないような未知の人が、この恐ろしい告白を読んで、心中無言にあなたをゆるすとしたら、それを考えただけでも心が楽になりますか? それとも、どうでもいいようなことでしょうか?」
「楽になります」とスタヴローギンは小声に答えた。「もしもあなたがゆるしてくだすったら、ぼくはずっと楽になるでしょうに」と彼は目を伏せながらつけ足した。
「あなたも同様、わたしをゆるしてくださるという条件で」しんみりした声でチーホンはこういった。
「いやな謙抑ぶりですね。ねえ、そういう坊さんにお定まりの公式は、まったく醜態といっていいくらいですよ。ぼくはほんとのことをすっかりいってしまいましょう。ぼくはあなたがゆるしてくださればいいと望みます。あなたといっしょに、もう一人か二人の人間が。しかし、世間の人は、世間ぜんたいの人は、憎んでくれたほうがいい。しかし、それは謙抑な気持ちで迫害に耐えるためなんです……」
「世間一般の憐愍をも、同じ謙抑な気持ちで耐え忍ぶことはできませんかな?」
「できないかもしれません。なぜそんなことを……」
「あなたの誠実さの度合を信じますよ。そして、わたしが人間の心に近寄っていくことの下手なのを、もちろんすまなく思っております。わたしはいつも自分でこの点に大きな欠陥を感じております」スタヴローギンの目をまともに見つめながら、チーホンは魂のこもった真率な声でいった。「わたしがこういうことをいうのも、あなたの身の上が恐ろしいからなので」と彼はつけ足した。「あなたの前には、ほとんど量り知れぬ深淵がひらけておりますぞ」
「持ち切れませんか? 世間の憎悪が耐えきれませんか?」スタヴローギンはぴくりとした。
「ただ憎悪ばかりじゃありません」
「ほかにまだ何があります?」
「世間の人の笑い」やっとの思いでいったように、チーホンは半ばささやくような声でこれだけのことを洩らした。
 スタヴローギンはどぎまぎした。不安な色が彼の顔にあらわれた。
「ぼくはそれを予感していました」と彼はいった。「してみると、ぼくはその『刷り物』を読んでいただいた後で、ひどく滑稽な人物に見えたわけですね。どうぞご心配なく、そう間を悪がらないでください。ぼくはそれを期待していたのですから」
「恐怖はすべての人が洩れなく感じるでしょう。しかし、真摯な恐怖より、上っつらのものがむしろ多いと思います。人間というものは、直接自分の利害を脅かすものに対してのみ恐怖を感じるものでしてな。わたしがいうのは純真な魂のことではありません。純真な魂の所有者は心の中で慄然として、自分みずからを責めるでしょうが、それは黙っておるから、目には立ちますまい。ところが、笑いはそれこそ世間ぜんたいに響き渡ることでしょう」
「あなたは人間というものを、ずいぶん悪く、ずいぶん穢らわしく考えていらっしゃいますね、驚いてしまいますよ」と、いくぶん憤激のさまでスタヴローギンはいった。
「誓っていいますが、それは他人よりも、むしろ自分をもとにした判断ですよ!」とチーホンは叫んだ。
「本当ですか? いったいあなたの心に、ぼくの不幸を見て面白がるような、そうしたふうなところがあるんですか?」
「それはあるかもしれません。いや、大きにあるかもしれませんて!」
「たくさんです。ねえ、いってください、いったいぼくの手記のどこがそう滑稽なんです? ぼくは自分でもどこが滑稽なのか知っていますが、それでも、あなたの指でさしてもらいたいのです。どうかなるべく露骨にいってください。あなたとしてできるだけ無遠慮にいってください。くり返して申しますが、あなたは恐ろしくふう変わりな人ですね」
「どのように偉大な告白でも、その外形には何か滑稽なところが含まれておるものです。いや、あなたが人の心を征服し得ないなどと、そのようなことを信じてはなりません!」と彼はほとんど感激のていで叫んだ。「この形式でさえ(と彼は刷り物を指さした)征服しますよ――ただ、あなたがどんな侮辱でも悪罵でも真摯な態度で受けいれさえなさればな。謙抑な苦行の態度が真摯であったら、どのように見苦しく恥ずかしい十字架でも、ついには偉大な光栄、偉大な力となるのが常ですて。あなたの生存中にさえ、慰安を得られるかもしれません」
「では、あなたはただ形式の中にだけ、滑稽な点を発見なさるんですね?」とスタヴローギンは追求した。
「まったくそのとおりです。醜さが致命傷を与えますでな」とチーホンは目を伏せながらつぶやいた。
「醜さ! 醜さとはなんです?」
「犯罪の醜さです。世の中にはしんじつ醜い犯罪があるものですぞ。犯罪はどんな性質のものであろうとも、血が多ければ多いほど、恐怖が多ければ多いほど、それだけ効果が強まる。つまり、絵画的になるものです。ところが、また醜悪な、恥ずべき犯罪があります。いっさいの恐怖を別にして、なんというか、あまりにも美しからぬ犯罪が……」
 チーホンはしまいまでいい切らなかった。
「では、つまり」とスタヴローギンは興奮して引き取った。「あなたは薄ぎたない小娘の手を接吻するぼくの姿が、きわめて滑稽だとお思いになるんですね……ぼくはよくわかります。あなたがぼくのためにやっきとなってくださるのは、つまり、美しくない、いまわしい、――いや、いまわしいじゃなくて、恥ずかしい、滑稽なという点なんですね。これがぼくにはきっと耐えきれまいとお思いになるんでしょう」
 チーホンは無言のままでいた。
「わかりました。スイスの女がここにいるかどうかと、ぼくにおたずねになったわけが」
「あなたはまだ用意ができていなさらん、鍛錬が足らぬ」とチーホンは目を伏せながら、臆病らしくつぶやいた。「大地からもぎ離されておられる、信仰がない」
「ねえ、チーホン僧正、ぼくは自分で自分をゆるしたいのです。それがぼくのおもな目的なのです。それがぼくの目的の全部なのです?」暗い感激の色を目にたたえながら、スタヴローギンは出しぬけにこういった。「もうわかっています。そうした時に初めて映像が消えるのです。だからこそ、ぼくは無量の苦痛を求めているのです。自分でわざわざ求めているのです。どうかぼくを脅やかさないでください。でないと、ぼくは毒念をいだいたまま滅びてしまいます」
 この真剣さはあまりにも思いがけなかったので、チーホンはわれともなく席を立った。
「もしあなたがみずからゆるせると信じておられるなら、そして、その赦免をこの世で苦しみによって獲得できると信じておられるなら、――断固たる信念をもってこの目的をみずから課されるなら、――その時こそあなたはいっさいを信じておられるのです!」とチーホンは感激の調子で叫んだ。「神を信じておらぬなどと、どうしてあなたは、そのようなことがいえたのです!」
 スタヴローギンは答えなかった。
「神はあなたの不信をゆるしてくださいます。なぜといって、あなたは知らず識らず神を崇めておられるのだからな」
「ついでに、キリストもゆるしてくれるでしょうか?」スタヴローギンはひん曲った微笑を浮かべ、急に声の調子を変えながら、こうたずねた。その質問の調子には、軽い皮肉のかげが感じられた。
「聖書にもそういってあるではありませんか、――『この小さきものの一人をつまずかするものは』覚えておいでですかな? 聖書の教えでは、これより大きな罪はないのですぞ……」
「あなたは、ただただ見苦しい騒動を起こしたくはないので、ぼくを罠にかけようとしておられるのでしょう、チーホン僧正」そのまま席を離れそうな気組を示しながら、スタヴローギンは無造作にいまいましそうな声でいった。「一口にいえば、あなたはぼくがどっしりと落ちついて、なんならまあ、結婚でもした上、ここのクラブ員にでもなり、祭日ごとにこの修道院に参詣しながら、一生無事で終わるようにと望んでいらっしゃるんでしょう。まあ、いわば贖罪の難行ですな! そうじゃありませんか! もっとも、あなたは人間の魂の透視者だから、きっとそうなるに違いないと、予感していられるのかしれませんね。肝腎なのは、いま見せしめに、よおっくぼくにお灸を据えておくことなんですよ。なにしろ、ぼく自身もただそれだけを渇望してるんですからね。そうじゃありませんか!」
 彼は毀れたような薄笑いを洩らした。
「いや、その難行ではない、別なものを考えておるのです!」スタヴローギンの冷笑や皮肉にはいささかの注意も払わず、チーホンは熱のこもった声でいった。「わたしは一人の長老を知っております。この土地ではない、ここからほど遠からぬところに住んでおる隠者だが、あなたやわたしなどには考えも及ばぬような、キリスト教の叡智にみちたお方です。その方はわたしの願いを聞いてくださるだろうから、わたしはその方にあなたのことをすっかり話しましょう。一つその方のところへ修行に出かけて、五年でも七年でも、必要と思われるだけ、その方の戒《かい》を守ってごらんなさい。必ず掟どおりに暮らすという誓いを立ててごらんなさい。すれば、その偉大な犠牲によって、あなたの渇しておられるもの、いや、あなたの期待しておられぬものまでも、あがない得ることができましょうぞ。まったくどのような結果を得られるか、今のところ想像することもできぬくらいですて」
 スタヴローギンはまじめに聞き終わった。
「あなたはその修道院へ行って僧侶になれと、ぼくにおすすめなさるんですか?」
「あなたは修道院へ入ってしまうこともいらなければ、僧侶になることもいりません。ただ聴法者になればよいのです。それも表面には現われぬ秘密の聴法者なのですよ。或いは初めから世間で暮らしながら、戒を守ることもできるので」
「よしてください、チーホン僧正」とスタヴローギンは気むずかしげに相手をさえぎって、椅子から立ちあがった。チーホンも同じく席を離れた。
「あなたどうしたのです?」ほとんど驚愕の表情でチーホンの顔を見入りながら、彼はふいにこう叫んだ。こちらは掌を前にして両手を組みながら、客の前に立っていたが、あたかも異常な驚愕に打たれたような病的な痙攣が、稲妻のごとくその顔を走ったようにみえた。
「どうしたのです? どうしたのです?」僧を支えようとして、その傍へ馳せ寄りつつ、スタヴローギンはくり返した。チーホンが倒れそうに思われたのである。
「わたしには見える……まるでうつつのように見える」チーホンは深い悲痛な表情を浮かべ、魂へ滲み入るような声で叫んだ。「ああ、気の毒な破滅した青年、あなたは今のこの瞬間ほど、新しく大きな犯罪に近づいたことは、これまでかつてなかったくらいですぞ」
「落ちついてください!」僧正の身に心からの不安を感じたスタヴローギンは、しきりにこういってなだめた。「ぼくはまださきに延ばすかもしれませんよ……あなたのおっしゃったとおりです……」
「いや、この告白の発表前に、それどころか、偉大な決心を断行する一日前、一時間前に、あなたは窮境を脱する出口として、新しい犯罪を決行します。それもこの刷り物の公表を遁れたいがために、ただただそのためにのみ」
 スタヴローギンは憤怒とほとんど驚愕のあまり、身慄いさえはじめた。
「いまいましい心理学者め!」彼はとつぜん狂憤におそわれたていで、ぷつりと断ち切るようにこういい棄てると、そのまま後をも見ずに庵室を出て行った。
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