京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『白夜』その1 (『ドストエーフスキイ全集2 スチェパンチコヴォ村とその住人』P349―P370より、1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

白夜
感傷的ロマン
――空想家の追憶より――
フョードル・ドストエーフスキイ
米川正夫

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《》:ルビ
(例)石島《カーメンヌイ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)贋|紙幣《さつ》

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…それとも彼は束の間なりと
そなたの胸に寄り添うために
創られた人間だろうか…?
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ツルゲーネフ
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[#4字下げ]第1夜

 素晴らしい夜であった。それは、親愛なる読者諸君よ、われらが若き日にのみあり得るような夜だったのである。空には一面に星屑がこぼれて、その明るいことといったら、それを振り仰いだ人は、思わずこう自問しないではいられないほどである――いったいこういう空の下にいろいろな怒りっぽい人や、気まぐれな人間どもが住むことができるのだろうか? これは親愛なる読者諸君よ、青くさい疑問である、ひどく青くさいものではあるが、わたしは神がしばしばこの疑問を諸君の心に呼び醒ますように希望する!………いろいろな怒りっぽい人や気まぐれな紳士方のことをいったついでに、わたしはこの一日を通しての、いとも殊勝な自分の行状を想い起こさないわけにいかぬ。朝っぱらから、何かしら驚くべきふさぎの虫がわたしを悩まし始めたのである。ふっと出しぬけに、この一人ぼっちのわたしがみんなに見棄てられようとしている、みんながわたしを離れ去ろうとしている、というような気がし出したのである。それはもちろん、どんな人だって、「だれだねいったい、そのみんなというのは?」とたずねる権利をもっているに違いない。なにぶんにも、わたしはもうこれで八年間ペテルブルグに暮らしていながら、ほとんど一人の知人をもこしらえる腕がなかったのだから。しかし知人なんてわたしになんの必要があるのだ? それでなくとも、わたしはペテルブルグ全体をよく知り抜いているではないか。つまり、それがために、ペテルブルグじゅうのものが急に腰を持ち上げて、それぞれ別荘地へ行ってしまった時、みんなに見棄てられるような気がしたのである。わたしは一人で取り残されるのが恐ろしくなって、自分がどうなっているのやら少しもわからず、深い憂愁をいだきながら、まる三日間、街じゅうをさ迷い歩いたものである。ネーフスキイ通りへ行っても、公園へ行っても、河岸通りをぶらついても、今まで一年間きまった場所で、きまった時間に出会い馴れた人に、一人として行き会わない。もちろん、向こうではわたしを知らないけれども、わたしは向こうを知っているのだ。彼らはわたしにとって近しい知人で、わたしは彼らの顔だちまでほぼ研究しつくしているくらいだ、――彼らが朗らかな時には思わず見とれるし、彼らの顔つきが曇っている時には、こっちも腐るというわけである。わたしは毎日きまった時間にフォンタンカで会う一人の老人と、ほとんど親交を結ばないばかりであった。ひどくものものしそうな考え深い顔つきをしていて、のべつ口の中でぶつぶついい、左手を振るのだ。右手には金の握りのついた、長い、節くれだったステッキを持っている。向こうのほうでもわたしに気がついて、心からわたしに興味を持っている様子である。たまたまわたしがきまった時間に、かのフォンタンカのきまった場所にい合わさないと、老人はふさぎの虫に見舞われるに違いない、わたしはそれを確信している。こういったわけで、どうかすると、わたしたちはすんでのことにお辞儀をし合わないばかり、ことに両方とも機嫌のいい時にはなおさらである。つい近頃も、まる二日出会わないで、三日目にまた行き会った時などは、両人ともあやうく帽子に手をかけそうになったが、幸い早く気がついたので手をおろし、暖かい気持ちで互いに傍を通り抜けたことである。
 家もわたしにとっては知合いである。わたしが歩いていると、一軒一軒がわたしの前へ駆け出して、ありったけの窓でこちらを眺めながら、ほとんどこんなふうにいわないばかりである。『今日は、ご機嫌いかがですか? わたしもお蔭で達者です。ところで、わたしは五月にもう一階建て増しをしてもらえるんですよ』とか、『わたしはあやうく焼けてしまいそうになりましてね、いや、驚きましたよ』といった調子である。それらの中にはわたしのひいきもあれば、親友もある。一軒の家はこの夏、建築家に治療を受けようとしている。もしひょっと治療のし損いをしやしないかと心配なので、毎日わざわざ行って見るつもりである、そんなことでもあったら大変だ!………が、一軒のとてもかわいい薄ばら色の家に起こった事件などは、一生わすれることでない。それは美しい石づくりの小家で、いかにも愛想よくわたしを眺め、さも誇らしげにぶざまな近所の家々を見渡している様子といったら、その傍を通りかかるたびに、わたしの心がよろこびに躍るほどであった。ところが突然、先週その街を通りかかって、ふと自分の親友を見ると、さも悲しげな叫びが聞こえるではないか。『わたしは黄いろいペンキを塗られています!』悪党め! 野蛮人め! やつらは円柱も蛇腹も、何一つ容赦しないのだ。こうして、わたしの親友はカナリヤみたいに真黄色になってしまった。わたしはこの出来事のために、あやうく肝臓が破裂しないばかりであった。それ以来、わたしはいまだに支那人のように黄いろく塗りたくられて、見る影もなくなった哀れな親友に、面会する気力がない始末である。
 右の次第で、親愛なる読者諸君よ、わたしがペテルブルグ全市と知合いのわけが、おわかりになったことと思う。
 前にもいったとおり、わたしはまる三日間、不安に苦しめられたが、やっとその原因を突き留めた。外へ出ても気分が悪いし(あれもなければ、これもない、だれそれはいったいどこへ行ったのだ、というわけである)、家にいてもさっぱり気が落ちつかない。いったいこの侘住居に何が不足しているのだろうかと、二晩わたしは苦心惨澹した。どうしてこの部屋はこうも居心地がわるいのだろう? とわたしは怪訝の念に打たれながら、緑色に塗った煤けた壁や、下女のマトリョーナのお手柄でしだいに殖えていく蜘蛛の巣だらけの天井をと見こう見し、家具類を仔細に点検し、椅子まで一つ一つあらためながら、いやな気持ちの原因をここかかしこかとさがしたものである(なぜというに、わたしは椅子一脚でも昨日と位置が変わっていたら、いても立ってもたまらないのだから)。こうして窓まで調べるのだが、いっこうになんのかいもなく……気持ちはいささかも楽にならない! わたしは一度マトリョーナを呼びつけて、蜘蛛の巣を初めその他一般にだらしのないやり方を責め、父親としての訓戒を与えてやろうなどという気を起こした。しかし、マトリョーナはあきれ顔でわたしを見たきり、ひと口も返事をしないで向こうへ行ってしまった。という次第で、蜘蛛はまだ今日までつつがなく元の場所にぶら下っている。とうとう今日になって、ようやく原因がわかった。ちぇっ! これはみんながおれを棄てて、別荘へ逃げ出しやがるからだ! どうか下品な言葉づかいをおゆるし願いたい、わたしは美辞麗句どころではないのだから……なにぶんにも、ペテルブルグじゅうのものが、別荘地へあるいは行ってしまい、あるいは行ってしまおうとしているのだ。堂々たる風采をした立派な紳士が、辻馬車を雇っているのを見ていると、たちまちわたしの目の前で、尊敬すべき一家のあるじとなってしまう。毎日のお役所仕事をすました後で、別荘にいる家庭の懐ろへ身軽に飛び込もうという寸法なのである。今はどんな通行の人でも一種特別な顔つきをしている。それはほとんど出会う人ごとに、『皆さん、わたしがここにこうしているのは、ほんのちょっとなので、もう二時間もしたら別荘へ行くんですよ』といわないばかりなのである。砂糖のように真っ白な細い指で、初め軽く硝子を叩いていたが、そのうちに窓をさっと開けて、かわいい娘が頭を覗け、草花の鉢を売っている男を呼び留める。それを見ても、わたしはすぐこんなことを想像する、――この花は息苦しい都会の住居で春の色を楽しむために買われたのでは更になく、やがてほどなく一家じゅう別荘へ出かけるので、草花もいっしょに持って行くつもりなのだ。のみならず、わたしはこの特殊な新しい発見に甲羅をへてしまって、一目みただけでも、これはどういう別荘に暮らしている人かということを、間違いなく見分けることができるようになったほどである。|石 島《カーメンヌイ》、薬局島《アプテーカルスキイ》、ベテルゴフ街道などに住んでいる人たちは、凝りに凝った優雅な身のこなしや、洒落た夏服や、街へ出て来る時の見事な馬車などでそれと知れる。パルゴロヴォか、それよりさきの方角に住んでいる人たちは、その分別ありげな重味のある様子で、一目で人を『威圧する』し、十字島《クレストフスキイ》から出て来た人たちは、徹底した快活振りで見分けがつくのだ。わたしはよく、ありとあらゆる家具類を山のごとく積み上げた荷馬車の長い行列に出会うことがある。馬方は手に手綱を持って、大儀そうに車の傍について歩いている。テーブルや椅子や、トルコふうのやトルコふうのでない長いすや、その他さまざまな道具類が積み上げられたそのてっぺんには、痩せこけた台所女が乗って、ご主人様のお道具をわが眼《まなこ》のように後生大事と守っていることがよくある。それから、家財道具をずっしりと積み込んだ舟が、フォンタンカやネヴァ河を滑って、|黒 河《チョールナヤ》や河口の島々まで下って行くのを見かけたが、そうした荷馬車や舟は、わたしの見ている目の前で十倍になり、百倍になって行く。どうやら、何もかもが足もとから鳥が立つように騒ぎ出して、無数の隊商《キャラバン》のように、別荘さして引っ越して行くような感じである。何かペテルブルグ全市が沙漠に変わりそうな気がして、とうとうわたしは恥ずかしくもあれば、癪にもさわり、情なくもなって来たほどである。わたしはもうこうなると徹頭徹尾、どこも別荘などへ行くところがないし、また行く必要もなくなった。わたしはどの荷馬車とでもいっしょに行きかねなかった。辻馬車を雇っているれっきとした風采の紳士なら、だれとでもいっしょに、どこかへ行ってしまいたかった。が、だれも、だれ一人として、いっしょに行こうとはいってくれなかった、まるでみんながわたしを忘れてしまったように、まったくわたしが彼らにとって赤の他人であるかのように!
 わたしは長いことさんざん歩きまわって、いつもの習わしで、いったい自分がどこにいるのやら、すっかり忘れてしまっていた頃、ひょっこりと街の見付に出て来た。とたんにわたしは愉快になって、遮断機をひょいと跨ぎ越し、畑や草場の間を歩き出した。もはや疲労も覚えず、何かの重荷が胸から下りて行くような気持ちを、体のふしぶしに感じるばかりであった。道ゆく人々はだれもかれも愛想よくわたしを見て、ほとんどお辞儀をしないばかりであった。みんな何かいかにも嬉しそうで、みんな一人のこらず葉巻をくゆらせていた。で、わたしもかつて覚えがないほど嬉しくなった。まるで不意にイタリアへでも行ったかのよう、――街の四壁の中であやうく窒息しそうだった半病人同然なわたしは、それほど強く自然の美に打たれたのである。
 わがペテルブルグの自然は、春の訪れとともに、突如として天から授けられた力を残りなく現わして、芽をふき、葉を広げ、花を鏤《ちりば》めはじめる時、何か言葉に尽くしがたいほど涙ぐましいものが感じられる……なぜかわれともなしにこんな娘が連想される。ひわひわして病身で、それを見ると時には憐み、時には同情の愛を感じさせられるが、また時にはまるで気がつかないような娘でありながら、ふとした瞬間にどうしたものか、説明のできないほど奇跡じみた美女となる。で、人は驚嘆し魅惑されて、思わずこう自問するのである、――そもそもいかなる力があの沈み勝ちなもの思わしい目を、このような焔に輝かせたのであるか? 何があのあおざめて痩せた頬に血をそそいだのであるか? どうしてあの胸がかくもふくよかになったのか? 何がかくも突然にこの哀れな娘の顔に、力と、生命と、美を呼び出したのか? 何かこのような微笑に満面を輝かし、このように燦々と火花を散らすような笑いで蘇らせたのか? 人はあたりを見廻し、だれかをさがし求め、やがて推察しはじめる……が、その一瞬も過ぎて、おそらくその翌日は、また同じもの思わしげなとりとめのない眼ざし、元と同じようなあお白い顔、依然たる従順なおずおずしたものごし、それどころか、束の間の浮かれ心を悔む気持ち、人の心を化石させるような憂愁と、腹立たしさの痕さえみとめるかもしれない……で、人はかくも速かに束の間の美が凋落して、仇に空しく眼前を閃めき過ぎかのが悲しくなる、――それに惚れ込む暇さえなかったのが、名ごり惜しいのである……
 が、それにしても、わたしの夜は昼よりもよかった! それは次のようないきさつである。
 わたしが街へ帰ったのは大分おそく、自分の住居へ近くなった時には、もう十時が鳴った。わたしの道筋は堀端で、その時刻には犬っころ一匹通らないのである。もっとも、わたしの住居はひどく遠い町はずれにあったのだ。わたしは歩きながら歌っていた。というのは、わたしは幸福を感じた時には、必ず何か鼻歌をうたう癖があったからである。それは親友もなければ親切な知人もなく、嬉しい時に喜びを分かつ相手のない仕合わせ者が、だれでもすることなのである。と、不意に思いがけない事件が起こった。
 ちょっとはなれた所で、一人の女が掘割の手摺にもたれて立っていた。格子に肘をつきながら、どうやら堀の濁った水を一心不乱に眺めていたらしい。彼女は実にかわいい黄色の帽子をかぶり、仇っぽい黒のマンチリヤを羽織っていた。『あの娘はきっとブリュネットに相違ない』とわたしは考えた。娘はわたしの足音に気がつかなかったらしく、わたしが息をひそめ、胸を烈しく躍らせながら傍を通り過ぎた時も、身じろぎさえしなかった。『奇妙だな!』とわたしは考えた。『きっと何かひどく考え込んでいるに相違ない』と、わたしは突然、釘づけにされたように立ちどまった。忍び泣きの声がわたしの耳朶を打ったのである。果たせるかな! それは間違いではなかった。娘は泣いていた、そして、ちょっと間を置いて、またもや歔欷《きょき》の声。ああ、なんということだ! わたしは心臓をしめつけられるような気がした。わたしは女性に対してはかなり臆病ではあったけれども、しかしこれはこんな時刻である! わたしは後へ取って返し、「お嬢さん!」と呼びかけようとした。もしこの呼びかけがありとあらゆるロシヤの通俗小説で、すでに幾千たびくり返されていなかったら、必ず口から出したに相違ない。しかし、わたしが適当な言葉をさがしている間に、娘はわれに返って、うしろを振り返ると、はっとした様子で目を伏せ、河岸づたいにわたしの傍を滑り抜けた。わたしはすぐにその後から歩き出したが、娘はそれと察して、通りを横切り、向かい側の歩道をあるき出した。わたしは道を横切る勇気がなかった。わたしの心臓はさながら捕まった小鳥のようにおののいていた。ところが思いがけなく、ある一つの偶然がわたしを助けてくれた。
 わが未知の女性からあまり遠くない向かい側の歩道に、とつぜん燕尾服の紳士が出現した。どうやら不惑の年齢らしかったけれど、不惑の足取りとはいいかねた。紳士はよろよろしながら、用心ぶかく壁に体を支えて歩いていた。娘はおどおどして、矢のように早く道を急いだ。それは概して、よる夜中、だれにもあれ男の口から、家まで送って上げましょう、などといい出されるのが無気味でたまらない、そういう立場に置かれたすべての娘がするような歩き方であった。で、もしわたしをその場に居合わさせた運命が、彼にうまいやり方を考えつかせなかったなら、もちろん、このふらふら紳士などには、とても追っつけっこなかったはずである。不意に紳士は、だれにもひと言もいわないで、猛然と奮い立ったと思うと、わが未知の女を追って一目散に駆け出した。娘は風のごとく走ったが、ふらふら紳士はしだいに距離をちぢめて、ついに追いついてしまった。娘はきゃっと一声さけんだ――そこで……わたしは運命を祝福する。この時、わたしは素晴らしい節だらけのステッキを右手に持っていたのである。わたしはたちまち向かい側の歩道へ飛んで行った。招かれざる紳士はとたんに事態を察した。わたしの手に否応いわさぬ具体的な論拠があるのを見て取って、無言のまま引きさがった。ただわたしたちが遠く離れた時、かなり猛烈な言葉をつかってわたしに抗議を提出したが、その声はわたしたちのところまでやっと届くか届かないかであった。
「さあ、手をおよこしなさい」とわたしは未知の女にいった。「もうあいつ、あなたにうるさいことなんか仕向けやしませんよ」
 彼女はまだ興奮と恐怖に慄える手をわたしに差し出した。おお、招かれざる紳士! わたしはこの瞬間、どれだけ彼を祝福したか知れない! わたしはちらと娘を見やった。それは実に美しいブリュネットであった、――はたしてわたしの想像どおり、その黒い睫毛には涙が光っていた。それは、つい今しがたの驚愕の涙か、それとも前からの悲しみの涙か、――わたしにはわからない。しかし、唇には早くも微笑が輝いているのであった。彼女も同様、わたしのほうをそっと盗み見て、微かに顔をあからめ、目を伏せた。
「ほら、ごらんなさい、なぜあなたはさきほどぼくを追っぱらったんです? もしぼくがいたら、こんなことは起こらなかったのに……」
「だって、あたしあなたを知らなかったんですもの。あたし、あなたもやっぱり……なにかと思って……」
「じゃ、今はぼくがわかってらっしゃるんですか?」
「ちょっとばかしね。だって、ほら、なぜあなたはそう慄えてらっしゃるんでしょう?」
「ああ、あなたはのっけから察しておしまいになりました!」わが少女が怜悧なたちなのを見て、わたしはうちょうてんになって答えた。これだけの美貌を持っていれば、怜悧ということはけっして邪魔にならないものである。「そうです、あなたはのっけから、相手がだれかってことを見抜いておしまいになりましたよ。まったくのところ、ぼくは女性に対して臆病なのです、ぼくはわくわくしています、それはあえて争いません。ついさきほどあの先生に脅かされた時のあなたに負けないくらいね……ぼくは今でも何かに慴えているようなあんばいなので。まるで夢みたいです。いや、ぼくは夢の中でさえ、だれか女と話をするなんてことは想像もしませんでしたよ」
「えっ? まあ、本当?………」
「そうなんです。もしぼくの手が慄えているとすれば、それはまだ一度もあなたみたいな美しい人の、かわいい小っちゃな手に握られたことがないからです。ぼくは女の人をすっかり忘れてしまいました、いや、女というものをてんで知らなかったのです。現に今だって知りゃしません、――何かあなたに馬鹿げたことをいいはしませんでしたか? どうかはっきりいってください、前もってお断わりしておきますが、ぼくは怒りっぽい人間じゃありませんから……」
「いいえ、なんにも、別になんにも、それどこじゃありませんわ。でも、はっきりいえとおっしゃるのでしたら、あたしいいますけどね、そういったふうの小心な方は女に好かれるもんですのよ。いえ、もしお望みでしたら、もっとはっきり申しましょう、あたしもそういう方が好きなんですの、だからあたし、家へつくまであなたを追っぱらったりなんかしませんわ」
「あなたの仕向け方がお上手だから」とわたしは歓喜のあまり息を切らしながらいい出した。「ぼくはさっそくびくびくしなくなってしまいそうです。そうなったら、ぼくの方法もおさらばだ!」
「方法ですって? いったいなんの方法ですの? それはもういけないことよ」
「ごめんなさい、もういいません、つい口がすべったのです。しかし、こういう場合……望みを起こさないようにしろったって、そりゃあなた無理な注文ですよ……」
「望みって、好かれたいとでもおっしゃるんですの?」
「まあ、そうですね。でも、後生ですから、お手柔らかに願います。まあ、考えてもみてください、ぼくはいったい何者でしょう? 何しろ、ぼくはもう二十六からになるのに、今までだれも見たことがないんですからね。さあ、それですもの、どうして上手に話すことなんかできましょう、うまくばつを合わすなんてことが? まあ、何もかもぶちまけて明るみへ出してしまったら、あなたに取ってもそのほうがおとくですよ……ぼくはね、気持ちが動き出したが最後、もう黙っていられない男なんです。いや、まあ、そんなことはどうでもいい……まったくなんですよ、女の人は一人も知らないんです、それこそただの一人も! まるで知合いがないんですからね! ただ毎日のように、いよいよいつかだれかに出会うだろうと、そればかり空想しているのです。ああ、ごぞんじないでしょうが、ぼくはもう幾度こんなふうに恋をしたか知れませんよ……」
「でも、どうして、だれに?」
「いや、だれも相手はないんです、理想の女に、夢に現われて来る女に。ぼくは空想の中で、幾つも小説を創るんですよ。ああ、あなたはぼくという人間をごぞんじないでしょう! もっともぼくも二、三の女に出くわしました、そういうことなしにはすみませんからね。しかし、それはどういう女でしょう? みんな下宿のおかみさんといったような種類で、その……しかし、一つ滑稽な話をして、あなたを笑わせて上げましょう。ぼくも幾度か往来で、上流の婦人に話しかけようと思ったことがあります、ざっくばらんにね。もちろん、相手が一人きりの時です。もちろん、臆病に、うやうやしく、しかも熱情的に話しかけるのです。つまり、たった一人で亡びかかっている人間だから、どうか追っぱらわないでほしい、自分はせめてだれか一人でも女性を識る方法がないか、とこんなふうにいって、自分のような不幸な男の臆病な哀願をいれるのは、むしろ女としての義務でさえあるということを相手に納得させようとしたものです。そして最後に、自分が要求するのは、ただ親身の気持ちで同胞らしい言葉をひと言聞かしてもらうこと、いきなり頭から追っぱらわないこと、自分のいうことをしまいまで聞いて、無条件で信じてもらうこと、もしなんなら笑ってもかまわないけれど、とにかく希望を持たせてほしい、何かひと言、たったひと言いってもらいたい、ただそれだけが全部であって、その後はもう二度と会わなくたって異存はない!………おや、あなたは笑っていますね……もっとも、ぼくはそのために話したんだけど……」
「気を悪くなさらないでくださいな。あたしが笑ったのは、あなたが自分で自分を不幸にしてらっしゃるからですわ。本当にやってごらんになったら、うまくいったかもしれませんわ、よしんば往来の真ん中だったとしてもね。ことは簡単なだけがいいんですわ……気立ての優しい女でしたら、馬鹿でない限り、そして怒りっぽくない質《たち》だったらなおさらのこと、あなたが臆病に願っていらっしゃるそのひと言をいわないで、追い返してしまう気にはならないでしょうね……でも、あたし何をいってるんでしょう! もちろん、あなたは気ちがい扱いされますわ。あたし自分から推していってるんですのよ。あたしこれでも、世の中の人がどういうふうに暮らしてるかってことを、ずいぶんよく知っているんですからね」
「ああ、ありがとう」とわたしは叫んだ。「あなたがいまぼくのためにどれだけのことをしてくだすったか、あなたにはおわかりにならないでしょう!」
「よござんすわ、よござんすわ! では、一つ伺いますが、どうしてあなたはあたしがそういう女だってことをお見分けになりましたの、つまり……そんなに気をつけて……これなら交際してもいいとお考えになった……まあ、ひと口にいえば、あなたのおっしゃるおかみさん型でない、というふうに。いったいなぜあなたはあたしの傍へ寄ろうと決心なさいまして?」
「なぜ? なぜですって? でも、あなたはたった一人ぼっちだったじゃありませんか。あの先生たらあまり失敬なやつだし、おまけに夜でしょう。そうじゃありませんか。それは男としての義務ですよ……」
「いえ、いえ、まだその前ですわ、あちらに、通りの向かい側にいた時。だって、あなたはあたしの傍へ寄ろうとなすったじゃございませんか?」
「あちらで? 向かい側で? そう、なんとお答えしていいかわかりません、失礼になりはしないかと心配で。実はね、ぼくは今日とても幸福だったので、歩きながら歌を歌っていました。ぼくは郊外へ出て行ったんですが、今日みたいな幸福な気分になったことは、今までついぞないほどでした。ところが、あなたは……もしかしたら、そんな気がしただけかも知りませんが[#「知りませんが」はママ]……まあ、いやなことを思い出させることになったら、堪忍してください……あなたが泣いてらっしゃるように思われたのです。で、ぼくは……ぼくは聞いていられなかった……胸をしめつけられるような気がして……ああ、なんてことでしょう! ねえ、いったいぼくはあなたのために悲しんじゃいけなかったのでしょうか? あなたに対して同胞としての憐憫を感じるのは、罪悪だったのでしょうか?………まあ、要するに、ぼくが思わず知らず、あなたの傍へ寄る気になったからって、それが侮辱になるのでしょうか?………」
「よしてください、もうたくさん、おっしゃらないで……」と娘は瞳を伏せ、わたしの手を握りしめていった。「あたしが自分で悪いんですわ、こんなことをいい出して。でも、あたし嬉しいわ、あなたという人を眼鏡ちがいしなくって……でも、もう家へ来ましたわ。あたしこの横町へ曲らなくちゃなりませんの。もうすぐひと足ですの……さよなら、ありがとうございました……」
「じゃ、いったい、いったい、もうぼくたちは二度と会わないんですか? ……いったいこのままでおしまいなんですか?」
「ほらごらんなさい」と娘は笑いながらいった。「あなたは初めたったひと言だけとおっしゃったくせに、今度はもう……もっとも、あたしなんとも申し上げませんわ……ひょっとしたら、お会いするかも……」
「ぼくあしたまたここへ来ます」とわたしはいった。「ああ、ごめんなさい、ぼくはもう要求してる……」
「ええ、あなたはせっかちよ……ほとんど要求してらっしゃるわ……」
「まあ、聞いてください、聞いてください!」とわたしはさえぎった。「ごめんなさい、もしぼくがまた何か変なことをいったら……でもね、そうなんですよ、ぼくは明日の晩またここへ来ずにはいられません。ぼくは空想家でしてね、本当の生活というものがあまりないものだから、こういったような、今のような時は実に珍しいので、それを空想の中でくり返さずにはいられないのです。ぼくはあなたのことを一晩じゅう、まる一週間、いや、まる一年間、空想しつづけるでしょう。ぼくは必ず明日の晩ここへ来ます、今日と同じところへ、同じ時刻に来ます。そして、前の晩のことを追想して幸福を感じるでしょう。もうあの場所さえぼくには懐かしいのです。ぼくはもう現在ペテルブルグに、そういう場所を二つ三つこしらえているんですよ。一度などは昔を思い出して泣いたほどです、あなたのように……実際、あなたは十分前に、思い出のために泣いたのかもしれませんね……しかし、ごめんなさい、ぼくはまた前後を忘れちまって。もしかしたら、あなたはいつかここでとくべつ幸福を感じなすったのかもしれませんね……」
「よござんすわ」と娘はいった。「たぶんあたし明日の晩ここへ来るでしょう、やっぱり十時にね。お見受けしたところ、もうあなたを差し留めることはできそうもないんですもの……実のところをいいますと、あたしここへ来てなくちゃならないんですの。もっとも、あなたに逢びきのお約束をしてるなどとお考えにならないでくださいましよ、これは前もってお断わりしておきます、あたし自分の用でここへ来なくちゃならないんですからね。でもね。あの……いえ、あたしもうざっくばらんに申しましょう、もしあなたがいらしても、それはかまいませんの。第一、また今夜みたいないやなことが起こるかもしれませんものね。いえ、これは余計なことですわ……ひと口にいいますと、あたしただあなたにお会いしたいんですの……あなたにひと言いいたいことがありまして。でもね、こういったからって、あたしを悪くお思いになっちゃいやですよ。あたしが軽々しく逢びきの約束をしたなんて、お思いにならないでね……あたしこんなお約束なんかしたくなかったんですけど、ただ……しかし、これはあたしの秘密にしておきましょう! ただこれから先、守っていただきたいことがありますの……」
「守ることですって? いってください、いってください、前にすっかりいっておいてください。ぼくはなんでも承知です。どんなことでも心構えしておきますから」とわたしはうちょうてんになって叫んだ。「ぼくは自分に対して責任を持ちます。――従順で、慇懃な態度を取ります……あなただって、ぼくって人間がおわかりでしょう……」
「わかっていればこそ、明日いらっしゃいと申し上げてるんですわ」と娘は笑いながらいった。「ようっくわかっていますわ。でも、よくって、いらっしゃるにつけては、一つ条件がありますの、第一に(ただね、お願いですから、あたしのお願いすることを実行してくださいね、――ほら、あたし明けすけにいってるでしょう)、あたしに恋しないでくださいよ……それは駄目なんですから、はっきり申し上げておきますけど。おともだちのお付合いはけっこうよ、さあ、握手しましょう……ただ恋だけは駄目、これがあたしのお願いなの!」
「それはぼく、誓います」とわたしは彼女の手を取って叫んだ。
「たくさんですわ、誓いなんか立てないでください。だって、あたしにはちゃんとわかってるんですもの、あなたは火薬みたいに爆発しやすいたちなんですもの。こんなことを申し上げるからって。どうか悪くお思いにならないでね。もしあなたが事情をごぞんじでしたら……あたしもやっぱり話相手が、相談相手がだれもないんですの。もちろん、往来で相談相手をさがすなんてないんですけど、あなたは例外ですわ。あなたって人は、まるでもう二十年からお友だちだったみたいに、よくわかるんですものね……よござんすね、約束に背きはなさいませんね?」
「まあ、見てらっしゃい……ただぼくはせめてこの一昼夜だけでも、無事に生き延びて行けるかどうか、それが心配なんです」
「ぐっすりとおやすみなさい、さよなら、――でもね、あたしがもうあなたを信用したことは、覚えていてくださいね。さっきあなたが叫び声をお立てになった、あれがとても感じがよかったんですもの。人間って一つ一つの感情を意識するわけにいかないでしょう。たとえ同胞としての憐憫だっても! まったくよ、あれをおっしゃったその言い方が本当によかったので、これは信頼できる方だって考えが、すぐ頭に浮かんだんですわ……」
「後生です、聞かしてください、いったいどういうことです、なんの意味です?」
「また明日。今のところそれは秘密としておきましょう。そのほうがあなたにもいいんですもの。遠廻しにもせよ、小説らしくって面白いでしょう。もしかしたら、明日あなたに話してお聞かせするかもしれませんわ。でも、もしかしたら、やめにするかも……まあ、もっとよくお話してみましょうね、もっとよくお知合いになりましょう……」
「ああ、ぼくのほうは明日にもすぐ、自分のことをすっかり話してしまいます! しかし、これは全体どういうことでしょう? まるで奇跡が出現したみたいだ……ああ、ぼくはそもそもどこにいるのだろう? でも、はっきりいってください、あなたはぼくに腹を立てないで、一番はじめに追っぱらってしまわなかったのを(ほかの女だったら必ずそうしたでしょうよ)、不満に思っていらっしゃるんじゃありませんか? 僅か二分間、それであなたは永久にぼくを幸福にしてしまったんですからね。そうです、幸福に。まったくのところ、あなたはぼくをぼく自身と和解さして、ぼくの疑問を解決してくだすったのかもしれませんよ……もしかしたら、そういう瞬間がぼくを訪れたのかもしれないけれど……いや、まあ、明日はすっかり話してしまいましょう、何もかもおわかりになります、何もかも……」
「よござんすわ、お受けします。じゃ、明日聞かせてくださいね……」
「承知しました」
「さよなら!」
「さよなら!」
 こうしてわたしたちは別れた。わたしはその晩、夜っぴて歩きつづけた。思い切って家へ帰る気になれなかったのである。それほどわたしは幸福だったのだ……明日までの辛抱!

[#4字下げ]第2夜

「さあ、ちゃんと生き延びなすったじゃありませんか!」笑い笑いわたしの手を握りながら、彼女はこういった。
「ぼくはここでもう二時間から待ってるんですよ。ぼくがまる一日どんなふうだったか、あなたはとてもおわかりにならないでしょう」
「わかってますわ、わかってますわ……でも、用事にかかりましょう。あなたはなぜあたしがここへ来たかごぞんじでしょう? だって、昨夜《ゆうべ》みたいに馬鹿話をするためじゃないんですもの。そこでねえ、あたしたちはこれから、もっと悧巧なやり方でいかなくちゃ駄目よ。あたしこのことを、昨日ながいあいだ考えましたの」
「なんのことです、どういうことを悧巧なやり方でいくんです? ぼくのほうとしては、いつでもその用意ができています。しかし、正直なところ、ぼく今ほど悧巧にやってることは、生まれて以来かつてないくらいですよ」
「本当ですの? 第一にお願いしますが、どうかそうきつく手を握らないでちょうだい。第二に申し上げておきますが、あたし今日あなたのことを長いあいだ考えましたの」
「さあ、それで結局どうなりました?」
「結局どうなったかですって? 結局のところ、初めからすっかり出直しということになりましたの。だってね、最後の結論として、あなたって方はまだよくわかっていない、と、あたしこう決めたんですもの。昨夜のあたしのやり方ったら、まるで小さな子供みたいでしたわ。で、もちろんのこと、何もかも自分の善良な心のせいだ、ということになったわけですの。つまりね、自分のことをあれこれと穿鑿《せんさく》するときは、いつもそうなんですけど、とどのつまり、自分で自分を賞めたわけですの。こういうわけで、昨夜の間違いを訂正するために、あなたのことを、うんと詳しくおたずねしようと決心しましたのよ。ところで、ほかにたずねる人もいませんから、あなたがご自分でそっくり何もかも、裏の裏までお話しにならなくちゃなりませんわ。さあ、あなたはどういう人なんですの? さあ、早く始めてちょうだい、ご自分の身の上話を聞かしてください」
「身の上話ですって!」とわたしはびっくりして叫んだ。「身の上話ですって! ぼくに身の上話があるなんて、いったいだれがいったんです? ぼくには身の上話なんてありはしませんよ……」
「じゃ、あなたはどんなふうに生きてらしったんですの、身の上話がないとすれば?」と彼女は笑いながらさえぎった。
「身の上話なんて、てんで何もありゃしません! よくいうように、自分自身で生きて来たんです、つまり、まったくの一人ぼっちで、一人、まったくの一人きりで、――わかりますか、一人きりっていうことが?」
「でも、どうして一人きりなんですの? じゃ、一度もだれ一人ごらんになったことがないんですの?」
「いや、そりゃ見ることは見ますがね、――それでも一人ぼっちなんです」
「なんですの、あなたはだれとも口をおききになりませんの?」
「厳密な意味でいって、――だれとも」
「じゃ、いったいあなたはどういう人なんですの、よく説明してくださいな! ああ、待ってちょうだい、あたし察しがついたわ。あなたもあたしと同じように、お祖母さんがあるんでしょう。うちのお祖母さんは目が見えないんですのよ。そしてね、年がら年じゅうあたしをどこへも出してくれないものだから、あたし話すことをすっかり忘れてしまったくらいですの。二年前に、あたしが悪ふざけをしたもんだから、お祖母さんはあたしを呼びつけて、ピンであたしの着物と自分の着物をいっしょに留めてしまったじゃありませんか、――それ以来、あたしたちは毎日朝から晩までいっしょに坐ってるんですの。お祖母さんは目こそ見えないけれど、靴下を編みますのよ。あたしはその傍に坐って、お裁縫をするか、本を読んで聞かせて上げるかで、――こんな奇妙な習慣ができてしまったんですの、もう二年もピンで留められて……」
「ああ、なんてことだ、えらい災難ですね! いや、ありません、ぼくにはそういうお祖母さんはありません」
「おありにならないんでしたら、どうしてそう家にばかり坐っていられるんでしょう?………」
「ねえ、ぼくがどういう人間か、あなた知りたいですか?」
「ええ、そりゃもう!」
「その言葉の厳格な意味で?」
「ええ、もっとも厳格な意味で!」
「よろしい、それならいいましょう、――ぼくはタイプです」
「タイプ、タイプ! タイプってなんですの?」まるで一年間も笑う折がなかったように、きゃっきゃっと笑いながら、娘はこう叫んだ。「ああ、あなたとお話してると、とても愉快ね! ごらんなさい、ここにベンチがありますわ、かけましょうよ。ここはだれも通らないから、二人の話を聞く人はありませんわ、――さあ、身の上話を始めてちょうだい! だって、あなたには身の上話があるにきまってますもの、うち消さないでちょうだい、あなたは隠し立てしてらっしゃるだけよ。第一に、タイプってなんのことですの?」
「タイプですか? タイプって、それは変わり者です。実に滑稽な人物です!」相手の子供らしい高笑いにつられて、自分でもからから笑いながら、わたしはそう答えた。「それは一種の性格なんです。ねえ、あなたは空想家って、何か知ってますか?」
「空想家ですって! 失礼ながら、どうして知らずにいられましょう? あたし自身が空想家なんですもの! どうかするとね、お祖母さんの傍に坐ってると、それはそれはいろんなことが頭へ浮かんで来ますわ。まあ、そうやって空想をはじめると、夢中になって考えているうちに、おしまいには支那の皇子のとこへお嫁入りさえしかねないようになるんですのよ……でも、時によってはいいものね、この空想ってものは! でも、どうだかわかんないわ! 取りわけ、そんなのでなくって何か考えることがあればね」と娘は今度はかなり真面目につけ加えた。
「素敵ですね! あなたも一たん支那皇帝のとこへ輿入れしなすった以上、きっとぼくのいうことを綺麗にわかってくださるでしょう。じや[#「じや」はママ]、いいですか……しかし、失礼ですが、ぼくはまだあなたの名を知らないんですよ」
「あら、やっとのことで! ずいぶん早く気がおつきになったのね!」
「ああ、なんてことだろう! まるで考えつかなかった、それでなくてもいい気持ちだったものだから……」
「あたしの名は、ナスチェンカ([#割り注]ナスチェンカはナスターシャの愛称、本名に父称をつけて名のらず、愛称を教えたのは、隔てのない親密感を表わす[#割り注終わり])っていうの」
「ナスチェンカ! それっきり?」
「それっきりですって? それだけじゃあなた不足なんですの、なんてまあ欲の深い人でしょう!」
「不足なんですって? 十分です、十分です、まるで反対ですよ、十分ですとも。ナスチェンカ、最初からあなたがぼくのために、ナスチェンカになってくださったところを見ると、あなたは優しい、いい娘さんに相違ありません」
「ね、ほらごらんなさい! さあ!」
「さあ、そこでね、ナスチェンカ、聞いてください、どんなに滑稽な身の上話が飛び出すか」
 わたしは女の傍に腰をおろし、ペダントじみるくらい真面目な姿勢をとって、まるで書いたものでも読むようにしゃべり出した。
「ペテルブルグにはね、ナスチェンカ、もしごぞんじなければ教えて上げますが、かなり奇妙な裏町があるんですよ。そういうとこへ差し覗く太陽は、ほかのペテルブルグの住民を照らすのとは違って、そういう隅っこのために特別注文したような、別の、新しい太陽なんで、一種特別の違った光で照らすんです。そういう片隅ではね、ナスチェンカ、われわれの近くいたるところで沸き返っているような、目まぐるしい華やかな生活とは似ても似つかぬ、全然べつな生活が営まれているのです。それはきわめて真剣なこの現代に、わがロシヤではまるで見られない、遠い遠い悪魔の国の生活みたいなんです。ところで、この生活は何かしら極端に幻想的なものと、熱烈な理想主義的なものと、色褪せた散文的な日常茶飯事的なものとの混合なんですよ(悲しいかな、そうなんですよ、ナスチェンカ!)、お話にならないほど俗悪なもの、とまではいいたくないですがね」
「まあ、いやだ! なんてことでしょう! 本当になんて前置きなの! いったいこれからどんなお話を聞かされるのかしら?」
「いいことを聞かせて上げますよ、ナスチェンカ(ぼくはどうやらナスチェンカという名をいくらくり返しても疲れないらしい)、ほかでもありません、そういう隅っこには奇妙な人間、――空想家が住んでいるのです。空想家とは、もし詳しい定義が必要とあれば申しますが、これは人間じゃなくて、まあ、何かしら一種中性の存在なんです。彼らは主に、どこかしら容易に寄りつけないような隅っこに巣食います。まるで太陽の光線さえ恐れるようにその中に身を潜めて、いったん自分の巣の中へ入り込んだとなったら、蝸牛みたいにその隅っこに生えついてしまう、だからこの点からいうと、あの亀と呼ばれる驚くべき動物に似ています、動物であると同時に家でもあるんですからね。なぜ彼らは自分の片隅の四つの壁を、――いつも必ず緑色に塗ってあって、見るも侘しく煤けて、ぶしつけなほど煙草のけむりで燻り切ってる壁を、どうしてそんなに好くとお思いです? この滑稽な紳士は、あまり数の多くない以前の知人のだれかがやって来ると(でも、結局、知人はみんな無くなってしまうんですがね)、不思議なほど当惑して、顔の色まで変え、まるで自分の四つの壁の中で犯罪でもやったか、それとも贋|紙幣《さつ》でも造っていたか、さもなくば匿名で雑誌に送るため何かの詩でも作っていたか(その添え手紙には、本当の詩人はもう死んでしまったので、遺稿を発表するのを親友としての聖なる義務と思う、と書いてあるのです)、なんぞのようにわくわくする、これはいったいどういうわけでしょう? どうしてこの主人と客の間に話がうまく流れていかないんでしょう、え、ナスチェンカ? 不意にやって来たこの友だちは、すっかりまごついてしまって、ほかの時にはなかなか笑い上戸なのに、どうしてその口から笑い声も出なければ、うまい洒落も飛び出さないのでしょう? うまい洒落ばかりか、美しき性の話も、その他さまざまな愉快な話題も聞かれないのはなぜでしょう? そして、最後にいいたいことは、どうしてこの友だちは、おそらく近頃の知人でしょうが、初めて訪問したのに――だって、こうなると、もう二度目の訪問なんてないでしょう、その友だちは来やしませんからね、――なぜこの友だちは頓智に富んでいるくせに(もしそんなものがあるとすれば)、主人の仰向けた顔を見ながら、もじもじしたり、四角ばったりしてるんでしょう? 主人はまた主人で、会話を滑らかにしたり、変化をつけたりしようとし、自分でも社交界の知識を示そうと努め、人並みに美しき性のことを話し出して、せめてこれくらいの従順さでもって、お門違いのところへ間違って来た気の毒な客のお気に入ろうとむだな大努力をした後で、すっかりとほうに暮れ、どうにもならなくなっているのです。かつ、最後にですな、客が帽子に手をかけながら、のっぴきならぬ用事を思い出したといって(そんなものなんか、ありはしないのに)、そそくさと出て行こうとし、一生懸命に後悔の念を示し、失敗を取り返そうと努力している主人の熱心な握手を、やっとこさと振りほどくのはなぜでしょう? またこの去って行く友人が戸の外へ出ると、からからと高笑いをし、すぐにその場で、こんな変人のとこへ二度と来るもんかと考えるのは、いったいなぜでしょう? ところが、この変人は実のところ、立派な青年なんですが、それと同時に、ちょっとした空想の気まぐれが、どうしても思い切れないんです。それは、たとえば、さっき話し合っている間じゅう、その話相手のつらを、漠然とではありますが、不仕合わせな仔猫に較べる、といったような類《たぐい》です。その仔猫は子供らに揉みくたにされ、脅やかされ、不意打ちで虜《とりこ》にされた上、さんざんぱらいじめられたんですな。で、とうとう、椅子の下の暗がりにもぐり込んで、まる一時間、毛を逆立てたり、ふうっと唸っておどしたりしなければならず、それから暇にまかせて、ひどい目にあわされた顔を両手で洗ったりして、その後でまだ長いこと自然や、人生を恨めしそうに眺めるのです。おまけに、情深い女中頭が、ご主人の食べ残りを取っといてくれたのさえ、容易に食べようとしない始末ですからね。いったいそれはなぜでしょう?」
「ねえ」しじゅう目を見開き、かわいい口をぽかんとあけて、わたしの話を聞いていたナスチェンカは、こうさえぎった。「ねえ、あたし、どうしてこんなことができたのか、そしてなぜあたしにそんなおかしい質問をなさるのか、まるで見当がつきませんわ。でも一つだけ確かにわかっているのは、そういうことがみんな本当に一つ残らず、あなたの身の上にあったに相違ないってことですの」
「そのとおり」とわたしはいとも真面目な顔をして答えた。
「ねえ、もしそのとおりでしたら、どうぞおつづけください」とナスチェンカは答えた。「だって、それが結局どうなるか知りたいんですもの」
「ナスチェンカ、わが主人公が、いや、それよりぼくといったほうがいいでしょう、なぜなら、この事件の主人公は、ほかならぬ小生おんみずからなんですからね、――ぼくが自分の片隅で何をしたか、あなたは知りたいんですね? ぼくが不意の来客のためにまる一日、あんなにもあわてて、とほうに暮れたわけが知りたいんですね? 不意に戸があいて友だちが入って来た時、ぼくがあんなにびくりっとして、顔をあからめたわけが知りたいんですね? ぼくが客のもてなしが下手で、自分自身のおもてなしが重荷になり、あんな恥曝しの敗亡をしたわけを、あなたは知りたいんですね?」
「ええ、そうよ、そうよ!」とナスチェンカは答えた。「それが肝腎なのよ。ねえ、あなたはお話がとてもお上手よ。でもね、なんとかして、そんなに上手でなく話していただくわけにまいりませんでしょうか? だって、あなたのお話はまるでご本でも読んでらっしゃるようなんですもの」
「ナスチェンカ!」とやっとのことで笑いをこらえながら、わたしは勿体ぶった厳めしい声で答えた。「かわいいナスチェンカ、ぼくは自分が上手に話すのを知っています、が、――失礼ながら、これよりほかの話し方ができないのです。今はね、かわいいナスチェンカ、ぼくはソロモン王の霊に似ているんですよ。千年の間も七つの封をした箱に入っていて、やっとのことでこの七つの封を取ってもらった、あのソロモンにね。かわいいナスチェンカ、ぼくたち二人があれほど長いこと別れていた後で、再びめぐり合った今は、――だって、ぼくはもうずっと前からこのめぐり合いを知ってたんですもの、ナスチェンカ、だって、ぼくはもう前からだれかをさがしていたんですもの、それはつまり、ほかならぬあなたをさがしていた証拠です、そして今めぐり合うような運命だった証拠です、――そういう今だから、ぼくの頭の中にある千からの蓋が開いて、ぼくは言葉の洪水を溢れさせずにはいられない、そうしないと、息がつまってしまいます。そういうわけだから、ぼくの話の腰を折らないでくださいよ、ナスチェンカ、おとなしくじっと聞いてね。さもないと、ぼくは話をやめてしまいますよ」
「ええ、ええ、ええ! けっして! どうか話してちょうだい! もうこれからはひと言もいいませんから!」
「じゃ、つづけましょう。ねえ、親愛なる友ナスチェンカ、ぼくは一日のうちで好きでたまらない時間があるのです。それはね、ほとんどすべての仕事や、お勤めや、義務がすんで、みんなが食事と休息にわが家へ急ぐ時です。みんな道々すぐ即座に、その晩と、その夜、つまり残った自由な時間について、まるで違った愉快なテーマを考え出すのです。その時、わが主人公も、――ナスチェンカ、もう三人称で話さしてくださいね、なぜって、一人称ではこんなことをぺらぺらしゃべるのが、とても恥ずかしいから、――さて、この時間に、やはり多少は仕事のあったわが主人公も、みんなの後から歩いてゆくのです。しかし、なんだか少々揉みくたになったようなあお白い顔には、奇妙な満足感が躍っている。冷たいペテルブルグの空に静かに消えて行く夕映えを、何か無関心でなさそうな目で眺めるのです。いや、『眺める』といったのは嘘です。彼は眺めるのじゃありません、疲れてはいながらも、ほかのもっと面白いことに気を取られている様子で、何か無意識に瞑想しているのです。というわけで、ほんのちらりと、ほとんどわれともなしにこういう周囲のいっさいに注意を割くだけなんです。彼は自分にとっていまいましい仕事[#「仕事」に傍点]を片づけたのに満足し、教室のベンチから解放されて、好きな遊戯やいたずらに急ぐ小学生みたいに、大喜びなのです。まあ、ナスチェンカ、彼の様子を横から見てごらんなさい。そのよろこばしい感じが彼の弱い神経や、病的に苛立っている空想に、早くも作用しているのが、一目でわかるから。彼は何やら考え込みました……あなたは晩めしのことだと思います? 今晩のことだと思います? 彼はいったい何を見ているのでしょう? 逸物をつけた素晴らしい馬車に乗って傍を通りかかった貴婦人に向かって、絵にかきたいくらい優美な恰好で会釈をした、堂々たる風采の紳士だと思いますか? いや、ナスチェンカ、彼はそんな瑣事には用がない! 今や彼は、自分自身の[#「自分自身の」に傍点]生活を豊富にもっているのです。彼はどうしたのか、ふっと金持ちになったのです。しだいに消えてゆく太陽の名ごりの光線が、楽しげに彼の前に閃めいたのも、うべなるかなです。それは彼の暖められた心から、無数の印象を呼びさましたのです。さっきまでは、どんな細かい瑣事ですら印象を与えた道も、今の彼はまるで気にとめない。今は『空想の女神』が(ナスチェンカ、あなたはジュコーフスキイの詩を読んだことがありますか)、早くもその気まぐれな手で金色の地を織りはじめ、彼の眼前に古今未曾有の奇《あや》しい生命の模様をくり広げて行く。もしかしたら、この女神はその気まぐれな手で、いま家路を辿っている見事な花崗《みかげ》石の歩道から、水晶づくりの第七天へ彼を運んで行った、かもしれないのです。今ためしに彼を不意に呼びとめて、あなたは今どこに立っていますか、どういう街筋を通って来ましたか? ときいてごらんなさい、――彼はきっとどこを通ったかも、今どこに立っているかも、思い出すことができないで、いまいましさに顔をあからめ、なんとか体裁をつくろうために、何か出たらめをいうに相違ありません。こういった次第で、一人のとても上品な老婦人が、うやうやしく歩道の真ん中で彼を呼びとめて、道を迷ったから教えてほしいと頼んだ時、彼はどきっとして、すんでのことに叫び声を立てようとし、慴えたようにあたりを見廻したわけです。いまいましさに顔をしかめて、彼は先へ歩いて行く。そして通行人が一人ならず、彼を見ながらにやっと笑い、うしろから何かどなったり、どこかの小さな女の子が、彼の顔一面に広がっている瞑想的な微笑と妙な手振りを見て、おずおずと道を譲り、大きな声で笑い出したのにも、ほとんど気がつかないのです。しかし、やはり例の空想が、老婦人も、もの好きな通行人も、笑い出した女の子も、フォンタンカ(まあ、仮りにわが主人公が、その時ここを通りかかったとしましょう)をいっぱいにふさいでいる艀で、晩めしを食っている百姓どもも、万物ことごとく自分の魔法の翼に打ち乗せて、さながら蜘蛛が蠅を次々と自分の巣へ引っかけるように、自分のカンヴァスヘ面白おかしく織り込んで行くのです。こういう新しい獲物をもって、変人は自分の楽しい穴へ帰って来て、早くも食卓に坐る、やがてもうとっくに食事も終わって、年じゅう悲しそうな顔をしている女中のマトリョーナが、もうテーブルの上を片づけて、パイプを差し出したとき、彼はふとわれに返り、もう食事はすっかりすましたんだなと、びっくりして思い出し、どうしてそんなことになったのか、とんと合点がいかない。部屋の中は暗くなって、彼の胸の中はがらんとしてもの悲しい。空想の王国が一つ、彼の周囲で崩れたのです、なんの物音もなしに跡かたもなく崩れてしまい、夢のごとく過ぎたのです。しかも、彼は自分ながら、何を夢想したのか覚えがないのです。しかし、何かしら漠然とした感覚があって、そのために彼の胸は疼き、わくわくする。何かしら新しい希願が誘惑するように彼の空想をくすぐって、いつとはなしに数限りない新しい幻を呼び集める。小さな部屋の中には静寂が立ちこめて、孤独と怠惰が想像を柔らかに撫でてくれる。と、想像はかすかに燃えあがって、老婢マトリョーナのコーヒーわかしの中の水のように、徐々に沸き立って来る(老婢は隣りの台所で自分のコーヒーをこしらえながら、何の邪念もなくごとごとやっている)。やがて空想は早くも沸き返って、何のあてもなく出たらめに取り上げた本は、三ページも読まないうちに、わが空想家の手からばたりと落ちる。彼の想像はまた調子が整い、興奮して、不意にまた新しい世界、新しい魅惑の生活が、輝かしい遠景を見せながら彼の眼前にきらめく。新しい夢、――新しい幸福! 洗煉された甘い毒薬はまた更に服用された! ああ、彼にとってはわれわれの現実世界なぞ何の価値もないのです! 空想に賄《まかな》いされた彼の目から見るとね、ナスチェンカ、わたしやあなたなんかは、懶惰な張りのない生活をのろのろと引きずっているのです。彼の目には、われわれすべては自分の運命に不満でたまらず、自分の生活を悩みにしているのです! それに、まったく見てごらんなさい、われわれの間にあるものは何もかも、一見したところ冷たくって、まるで怒ってでもいるように気むずかしい……かわいそうなやつらだ! とわが空想家は考える。またそう考えるのも不思議ではないのです! まあ、彼の目のまえに魔法のような霊気に充ちた画面となって、いとも奇《あや》しく、果てしなく広々と展開されている、まよわしの幻を見てごらんなさい。そこでは前景に中心人物として君臨しているのは、もういうまでもなく彼自身です、わが空想家おんみずからです。まあ、なんという千変万化をきわめた冒険、なんという歓喜にみちた夢想が無限に蝟集していることでしょう。もしかしたらあなたは、彼が空想しているのは何か、とおたずねになるかもしれませんね。それはありとあらゆることです……初めは不遇で、後に月桂冠を与えられた詩人の役割、ホフマン([#割り注]ドイツ浪漫主義の代表的作家、一七七六―一八二二[#割り注終わり])との交友、バルテルミーの夜([#割り注]一五七二年八月二十四日の聖バルテルミーの祭日にユグノー派がパリで大量虐殺された事件[#割り注終わり])、ダイアナ・ヴァノン、イヴァン雷帝のカザン占領の時の英雄的な役割、クララ・モウブライ、ユーフィア・デンス([#割り注]イギリスの作家スコットの小説の女主人公、いずれもスコットの小説の作中人物[#割り注終わり])、大僧正の会議と彼らの前に立つフス([#割り注]一三六九―一四一五年、チェコ宗教改革者、一四一四年の宗教会議で火刑を宣告されて刑死した[#割り注終わり])、『ロベール』([#割り注]台詞スクリーブ、作曲マイエルベールの歌劇『悪魔ロベール』一八二五年、パリで初演[#割り注終わり])』の中の亡者どもの一揆(あの音楽を覚えていますか? 墓場の臭いがするじゃありませんか!)ミンナとブレンダ([#割り注]前者はジュコーフスキーの詩、後者はコズロフの譚詩[#割り注終わり])、ベレジナ河の戦闘([#割り注]一八一二年十二月十四―十六日に行なわれた、敗走するナポレオン軍とロシヤ軍の戦闘[#割り注終わり])、V・D伯爵夫人のサロンにおける叙事詩の朗読、ダントン([#割り注]フランス革命ジャコバン党の政治家[#割り注終わり])、クレオパトラ e i suoi amanti(とその情夫)、コロムナの小家([#割り注]プーシキンの作品、前者は小説『エジプトの夜』、後者は同名の詩から[#割り注終わり])、自分の片隅、そばには可憐な乙女が冬の晩、目を見開き口をあけて、彼の物語を聞いている、ちょうどいまあなたがわたしの話を聞いているようにね、わたしのかわいい天使……いや、ナスチェンカ、この熱情的な懶けものに取っては、わたしやあなたが一心に憧れている生活なんか、物の数でもないのです! 彼はそんなものなど貧しい、みじめな生活だと思っています。そして、このみじめな生活のたった一日のために、自分の幻想的な長の年月[#「幻想的な長の年月」はママ]を棒に振ってしまう悲しい時が自分にもいつか来るかも知れないということを、夢にも知らないでいるのです。それも、よろこびや幸福のために投げ出すのじゃないんですからね。いったいに彼は憂愁と、慚愧と、果てしない悲しみの瞬間には、選択などする気にならないのです。しかし、今のところそれは、その恐ろしい瞬間は訪れないから、彼は何一つ希望しません。なぜって、彼は希望を超越しているからです、彼にはいっさいが備わっているからです、飽満しているからです、彼自身が自分の生活の芸術家であって、毎時毎刻、自分の望みどおりに生活を創造しているからです。だって、その昔噺のような幻想の世界はいとも易々と、いとも自然に創られるんですからね! まったくのところ、それがみんな幻ではないように思えるんです! 本当にどうかすると、この生活が感情の興奮でもなければ、蜃気楼でもなく、想像のまどわしでもなく、それこそしんじつ現存の本質であると、信じ込むくらいですよ! ねえ、ナスチェンカ、どうして、どうしてそういう時には、息がつまりそうになるんでしょうね? 空想家はなにか魔法にでもかかったように、なにかしら未知の存在物の気まぐれに操られてでもいるように、脈が早くなって、目からは涙がはふり落ち、泣か濡れたあお白い頬は燃え、全身がえもいわれぬよろこびでいっぱいになるのですが、それはいったいなぜでしょう? 眠られぬ夜な夜なが一瞬のごとく過ぎて、ばら色の朝焼けが窓に輝き、暁はわがペテルブルグの常として、怪しい幻想的な光で陰鬱な部屋を照らし始める時、へとへとに疲れたわが空想家は、いきなりベッドの中に身を投げて、歓喜のあまり病的な心を震撼されたため、身も心も消え入りそうになり、悩ましく甘い痛みを胸にいだいたまま、眠りに落ちるのですが、それはいったいどういうわけでしょう? ねえ、ナスチェンカ、こうなるとだれでもつい騙されますよ、彼の空な幻想の中には、手に触れることのできる生命が存在していると、われともなく信じたくなろうじゃありませんか! ところが、それが大変な考え違いなんですよ。現に早い話が、愛が心に宿ったとしましょう、そこには尽きることのないよろこびも、やるせない悩みも、何もかも揃っている……それは一日みただけで、だれでもそうに違いないと思い込むにきまっています! 彼の顔を眺めていると、彼が興奮した空想の中でそれほど恋い慕っている女を、本当はかつて一度も見たことがないのだ、などということが本当にできるでしょうか、え、ナスチェンカ? ただ魅惑にみちた幻として恋人を見たばかりだ、そんな愛情はただ夢で見たばかりだ、なんてことが信じられますか? でも、この二人は実にもう何年という間、腕を組み合わせて人生を歩んだのです、――たった二人きりで、世間も何もおっぽり出して、一人一人が自分の世界、自分の生活を、相手の生活と結び合わせていたんですからね。夜が更けて別れの時刻が来た時、彼の胸に身を投げ伏して、嘆き悲しみ、暗い虚空を吹きまくる嵐の音も耳に入らず、風が自分の真っ黒な睫毛から涙をもぎ取って、吹き散らすのにも気づかないでいたのは、はたして彼女ではなかったのでしょうか? いったいあれは何もかも空想にすぎなかったのでしょうか、――二人があんなにたびたび苔むした径をそぞろ歩きして、はかない望みをいだいたり、嘆いたりしながら、あれほど長く愛し合ったあの淋しい庭、――『あれほど長いあいだ優しく』愛し合った庭、――もの凄く荒れ果てた陰惨な庭、――彼女があんなに長いこと侘しくもの悲しい生活を送った、あの奇妙な曾祖父の代からの家、――やるせない気持ちでおのれの恋を秘め合っていた、子供のように臆病な二人を脅やかす、気むずかしやの、年じゅうむっつりしている、癇癖のつよい年取った亭主。二人はどんなに苦しんだことだろう、どんなに恐れたことだろう。また二人の恋はなんと清浄無垢だったろう。そして(これはもういうまでもないことだが)、世間の人がなんと意地わるだったことか! それからね、素晴らしいことがあるんですよ。その後かれは故国の岸から遠く離れた異郷の土で、かの驚くべき永遠の都([#割り注]イタリアのローマをさす[#割り注終わり])で、灼けつくような南方の空のもとで、偶然、彼女にめぐり合うのです。光り輝く舞踏会、嚠喨《りゅうりょう》たる音楽の響、灯火の海に沈んだ宮殿《パラッツオ》(ぜひとも宮殿《パラッツオ》でなくちゃならない)木犀草と薔薇の一面に絡んだバルコン、そこで彼女はふと彼に気がついて、あたふたと仮面を脱ぎ、『わたしはもう自由なのよ』とささやくなり、全身を慄わして、いきなり彼の抱擁の中に身を投じる。二人は歓喜の叫びを上げながら、互いにひしと抱き合って、束の間のいっさいのことを忘れてしまう、――悲しみも、別離も、苦悩も、遙かな故郷の陰気な邸も、老夫も、淋しい庭も、最後の熱い接吻を交したベンチも……その時彼女は、絶望に近い苦悶に麻痺した男の抱擁から身をもぎ放すようにのがれ去ったものです……ところが、ナスチェンカ、まあ、どうでしょう、その瞬間に、のっぽで頑丈な体をした、陽気で、口の軽い、招かれざる友人が、ひょっこり戸を開けて、『ぼくはね、きみ、今パーヴロフスクから来たとこなんだよ』と洒々とした調子でどなられてごらんなさい、こっちは隣りの庭から盗んで来た林檎を、たった今ポケットへ突っ込んだ小学生よろしく躍りあがって、もじもじと真っ赤な顔をせずにいられまいじゃありませんか。ああ、なんということでしょう! 老伯爵が死んで、筆紙につくせぬ幸福がめぐって来たのに、――パーヴロフスクからやって来たなんて!」
 わたしはこういう言葉で悲愴な叫びを結ぶと、悲愴なおも持ちで口をつぐんだ。わたしはなぜか無理やりに大声で、からからと笑いたくなったのを覚えている。わたしは早くも自分の内部に意地の悪い小悪魔が、かすかに動きはじめる気配を感じたのである。もう喉がつまって、下顎が躍り、目はいよいよ潤みを帯びて来る……
 ナスチェンカは悧巧そうな大きな目を見開いて、わたしの話を聞いていた。わたしは、今にも彼女が抑えても抑えきれぬ、子供らしい愉快そうな笑いを爆発させて、げらげらと笑いころげることと覚悟していた。そして、これはあまり深入りしすぎた、あんなに何もかもべらべらしゃべってしまうのではなかったと、早くも後悔しはじめた。しかし、わたしにして見れば、これは久しい前から胸の中に溜まり溜まった感想で、それこそ原稿でも読むように話すことができたのである。何しろ、わたしはもうずっと前から自分で自分に対する宣告を準備していたので、今はどう我慢しても、それを読み上げずにはいられなかったのだ。もっとも、白状すると、他人に理解してもらえるとは期待していなかったのである。ところが、驚いたことには、彼女はなにもいわなかった。しばらくすると、軽くわたしの手を握りしめて、なにか臆病そうな同情をこめてこうきいた。
「いったいあなたは本当にそうして、今までずっと暮らしてらっしたんですの?」
「今までずっとですよ、ナスチェンカ」とわたしは答えた。「今までずっと。そして、これからもそんなふうで終わるらしいね!」
「いいえ、そりゃ駄目よ」と彼女は不安げにいった。「こんなことがあっちゃ、たまらないわ。それだったら、あたしもお祖母さんの傍で一生暮らさなくちゃならないかもしれなくってよ。ねえ、あなた、そんなふうに暮らすのは本当によくないわ」
「わかってますよ、ナスチェンカ、わかってますよ!」とわたしはわれとわが感情を抑える力がなくて、こう叫んだ。「そして、ぼくが自分の生涯でも最良の年をすっかり無駄に浪費してしまったということは、いつにもまして今よっくわかった! ぼくいまとなってそれがはっきりわかった。そして、その意識のためになおのこと胸が疼くんです。というのはね、神様がぼくのとこへあなたを送ってくだすったからです。何もかも話して、それを証明するために、あなたという優しい天使を送ってくださったのです。今こうしてあなたの傍に坐って、あなたと話をしていると、もう未来のことなんか考えるのが、変なくらいです。だって、未来もまた孤独なんですもの、またあの饐《す》えたような役にも立たぬ生活なんですもの。それにもう現在あなたの傍にいてこんなに幸福なんですからね、もう何も今さら空想することはないじゃありませんか! ああ、あなたはかわいい娘さんです、どうかあなたに天の祝福がありますように。なぜって、あなたは最初からぼくをしりぞけなかったんですもの。もうこうなると、ぼくは自分の生涯のうち、たとえ二晩でも本当に生きた、ということができます!」
「いえ、ちがいます、ちがいます!」とナスチェンカは叫んだ。涙の玉がその目に光った。「いえ、けっしてそんなことはありません、あたしたちはもうこのまま別れっこありませんわ! 二晩なんて、それなんのこと?」
「おお、ナスチェンカ、ナスチェンカ! あなたは永久にぼくを自分自身と和睦させてくれたことを、ご自分でわかっていますか? ねえ、ぼくは時々自分のことを悪く思っていましたが、もうこれからはそんなことはないです。ねえ、ぼくもおそらくこれからは自分の生涯の中で犯罪をおかした、罪をつくったといって、くよくよするようなことがなくなるでしょう。なぜって、あんな生活は犯罪ですもの、罪悪ですもの。ぼくが何か仰山にいってるなんて、考えないでください、後生ですから、そんなことを考えないでね、ナスチェンカ。実際、ぼくはどうかすると、なんともいいようのない憂愁に襲われるんです……もうそういう時には、自分は本当の生活を生きる能力がないような気がするんです。自分は本当の現実的なものに処するこつというか、直覚というか、――を失い尽くしたような気がするんです。こうして、とどのつまり、われとわが身を呪ったものです。なぜって、そういった幻想的な夜な夜なを過ごした後で、今度は覚醒の時がやって来るのですが、それが実に恐ろしいもんでしてね! しかも、自分の周囲では世間という大群衆がひしめき、渦巻いているのが聞こえる。普通の人間が生きているのが、現実に生きているのが感じられ、目に映る。彼らにとっては、生活は誂えものでないということが、はっきりわかる。彼らにとっては生活は夢でも幻でもない。永久に更新せられる若々しい生活で、その一刻一刻は互いに少しも似かよっていない。ところが、臆病な幻想は憂鬱で、俗悪なほど単調なのです。それは影の奴隷です、理念の奴隷です、とつぜん太陽をおおう最初の雲の奴隷です、あんなにも自分の太陽を尊重するペテルブルグの住人の心を憂愁で締めつける雲、――そうした憂愁に囚われたら、幻想も何もあるもんですか! とどのつまり、不断の緊張のために幻想は疲れてしまい、この尽きることなき[#「尽きることなき」に傍点]幻想が涸渇してしまうような気がするのです。だってなにぶんにも、自分が絶えず生長して、以前の理想を脱皮してゆくからです。古い理想は粉々に微塵となって砕けてしまいます。ところが、心は何か別のものを求め、欲するのです! こうして、空想家はさながら灰の中を掻き廻すように、自分の古い空想をさぐって、その灰の中にほんのかけらほどの火の粉でもさがし出し、それを丹念に吹き起こして、勢いを取り返した火で冷めた心を温め、かつてあれほど懐かしかったもの、胸を躍らしたもの、血を湧かしたもの、目から涙を搾り出したもの、あれほど美しく欺いたもの、そういういっさいのものを復活させようとする! ねえ、ナスチェンカ、そのあげくの果ては、どういうことになったかわかりますか? 実はね、ぼくはとうとう自分の感覚の一周年記念を催さなければならぬ羽目になりました。以前あれほど懐かしく思われたものの一周年記念をね、もっとも、そんなものは実際のところ、なんにもありゃしなかったんです。なぜって、その一周年記念は、いつものおなじ馬鹿げた実体のない空想のために行なわれていて、そんな記念をするのも、その馬鹿げた空想そのものさえありはしないし、その空想を生活しようにも、方法がないからなんですよ。だって、空想だって生活しなくちゃならないんですよ! 実はね、ぼくはこの頃あるきまった時期に、かつて自分流儀に幸福を感じた場所を思い出して、そこを訪れて見るのが好きになったんです。