京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『白夜』その2 (『ドストエーフスキイ全集2 スチェパンチコヴォ村とその住人』P371―P392より、1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

二度と返らぬ過去に調子を合わせて、現在を築き上げるのが好きなんです。こうし、て、よく必要もなければ目的もなく、影のように侘しくもの悲しげに、ペテルブルグの街々や横町をさ迷い歩くのです。その思い出のすばらしいこと! たとえば、ちょうど一年まえに、ここを、この歩道を、この時分、かっきりこの時刻に、今と同じように孤独で、しょんぼりさ迷った、ということが想い起こされる。そしてその時の空想もやはり沈み勝ちだったことを想い起こす。以前だって別にいいことはなかったのに、なんだかずっとよかったような、落ちついて暮らすことができたような気がする。いま自分に絡みついている真っ黒なもの思いもなく、現在昼も夜も心を噛みつづけている暗澹とした、陰惨な良心の呵責もなかったような気がする。そこで、いったいおれの空想はどこへ行ったのだ、と自問する。そして、頭をふりながら、年のたつのはなんて早いものだろう? とつぶやくのです。それから、またこうも自問する、いったいお前は自分の年をどうしたのだ? 自分の最もよき時代をどこへ葬ったのだ? お前は生きていたのかどうだ? いいか、気をつけろ、世の中は冷たくなっていくぞ、と自分で自分にいい聞かせる。また更に何年かたつと、その後に侘しい孤独がやって来る、老年が杖をついて慄え慄えやって来る、すると、更にそれにつづいて、憂愁と落胆が見舞うのだ。お前の幻想の世界は色あせて、お前の空想も萎《な》えしおれ、秋の枯葉のように散ってしまうだろう……おお、ナスチェンカ! 一人きり、まったくの一人ぼっちになって、哀惜するものさえ何一つ持たぬということは、なんと悲しいことだろう、――何一つ、それこそ何一つない……だって、何もかも残らず失くしてしまったんだからなあ。あると思ったものは、みんな無だったのだ。ばかばかしいまったくのゼロだったのだ。いっさいはただの空想だったのだ!」
「まあ、私《ひと》を泣き落としにかけないでよ!」とナスチェンカは目から一雫こぼれた涙を拭きながらいった。「もうこうなったら、話はきまったんだわ! もうこれからあたしたちは二人いっしょよ。今後あたしの身にどんなことが起こったって、二人はもうこんりんざいわかれっこなしよ。ねえ、あたしはただの小娘で、あまり学問なんてないけれど(もっとも、お祖母さんは家庭教師を雇ってくれたこともあるのよ)、でも、あたしまったくのところあなたのおっしゃることがわかるわ。だって、今あなたが話してくだすったことは、あたしも自分で経験したことなんですもの、あのお祖母さんがピンであたしの着物を自分の着物に留めてから。そりゃもう、あたしはあなたみたいに上手には話せませんわ。あたし学問がないんですもの」と彼女は臆病そうにつけ加えた。わたしの悲愴な話振りと調子の高い言葉に対して、何かある尊敬をいだかされたのである。「でも、あなたがそうして、何もかもうち明けてくだすったので、あたしとても嬉しいわ。今こそあなたって人がわかりましたわ、すっかり、どこからどこまでも。でね、どうでしょう? あたしもあなたに自分の身の上話をしようと思うのよ、何から何まで少しもかくさないで。その代わりにね、その後であなたあたしに忠告をしてくださいな。あなたはとても賢い方ですから、忠告をすると約束してくださいね?」
「ああ、ナスチェンカ」とわたしは答えた。「ぼくは一度も人に忠告などしたことがないから、まして賢い忠告などできっこないけれど、こうなってみると、もし二人がこんなふうに暮らしていったら、それこそ何かしら非常に賢いことになるよ。そして、各々がお互いにうんとこさ賢い忠告をするだろうよ! かわいいぼくのナスチェンカ、どんな忠告がしてほしいの? ざっくばらんにいって。ぼくは今とても愉快で、幸福で、大胆で、賢いから、言葉にまごつくようなことはありゃしない」
「いえ、いえ!」とナスチェンカは笑いながらさえぎった。「あたしに必要なのは賢い忠告だけじゃなくって、兄弟のように隔てのない心からの忠告も必要なのよ、ちょうどあなたが今までずっとあたしを愛していらしったみたいに!」
「よろしい、ナスチェンカ、よろしい!」とわたしはうちょうてんになって叫んだ。「たとえぼくがもう二十年間もあなたを愛していたって、それでも、今以上に強く愛することはできなかったでしょうよ!」
「じゃ、お手を!」とナスチェンカはいった。
「さあ!」とわたしは手を差し伸べながら答えた。
「じゃ、あたしの身の上話をはじめますよ!」

[#4字下げ]ナスチェンカの物語

「あたしの身の上話の半分は、あなたもうごぞんじでしょう、だってあたしに年取ったお祖母さんがあること、知ってらっしゃるんですもの……」
「もし後の半分もそれと同じくらい簡単だったら……」とわたしは笑いながらさえぎった。
「黙って聞いてらっしゃい。まず第一に約束があるのよ。話の腰を折らないこと、でないと、あたしまごつくかもしれないんですもの。さあ、おとなしく聞いてらっしゃいよ。
「あたしには年とったお祖母さんがあるの。あたしがこの人の手にかかったのは、まだほんの小っちゃな時だったわ。というのは、お父さんもお母さんも亡くなったからなの。どうやらお祖母さんはもとお金持ちだったらしいわ。だって、今でも昔よかった時分のことを思い出すんですものね。このお祖母さんがあたしにフランス語を教えたり、家庭教師を雇ってくれたりしたの。あたしが十五になった時(あたし今十七なのよ)、もう勉強もおしまいになっちまったわ。その時なの、あたしが悪ふざけをしたのは。どんなことをしたか、それはあなたに聞かして上げはしない。ただね、その悪戯は大したことでなかった、とそれだけいえばたくさんだわ。でも、ある朝、お祖母さんはあたしを呼びつけてこういうの、わたしは目が見えないから監督がし切れない、とそういってね、ピンを取り出して、あたしの着物を自分の着物に留めてしまったの。そして、お前がよくならない限り一生でもこうして暮らすんだよ、ってそういうじゃありませんか。ひと口にいえば、初めのうちどうしても傍を離れるわけに行かなくって、仕事をするのも、ご本を読むのも、勉強するのも、みんなお祖母さんの傍なの。一度あたしずるを考えついて、フョークラに代わりになってもらいましたわ。フョークラは家の女中なんだけど、これが聾と来てるんですの。で、フョークラはあたしの代わりに坐ってくれました。その時お祖母さんは肘掛けいすに腰かけたまま、居眠りしてたもんだから、あたしは近くにいるお友だちんとこへ遊びに行きましたの。ところが、結局だめでしたわ。あたしがまだ帰らないうちに、お祖母さんは目をさまして、何かきいたんですの、あたしがやっぱりおとなしく元のところに坐ってると思ってね。フョークラは、お祖母さんが何かきいてると見ては取ったものの、ちっとも聞こえないものだから、どうしたものかとさんざん考えたあげく、ピンをはずして、そのまま逃げ出してしまったんですの……」
 ここでナスチェンカは言葉をとめて、きゃっきゃっと笑い出した。わたしもいっしょに笑った。すると、彼女はすぐ笑いやめて、
「ちょいと、あなたお祖母さんのことを笑わないでちょうだいよ。あたしはただおかしいから笑ってるだけよ……だって、お祖母さんたらそんなふうなんですもの、しようがないじゃありませんか。でもね、あたしはなんてっても、お祖母さんがちょっとばかり好きだわ。でね、その時もあたしさんざんしかられちゃったわ。すぐにまた元のとこへ坐らされて、もうそれこそちょっとの身動きもできなくなりましたの。
「ところでね、あたしいい忘れたんですけど、あたしたちは、いえ、お祖母さんは、自分の家を持ってたんですの、といっても、小っぽけな家で、窓が三つしかない木造の家でね、お祖母さんと同じくらい古ぼけてるんだけど、上には中二階がついてるんですの。つまり、その中二階へ新しい間借り人が越して来て……」
「して見ると、古い間借り人もいたわけですね?」とわたしはちょっと口を入れた。
「そりゃもちろん、いましたわ」とナスチェンカは答えた。「その人はあなたより黙るすべを知ってましたわ。もっとも、やっと舌を動かせるだけでしたがね。それは乾からびたようなお爺さんで、唖で、盲目で、跛だったもんだから、とうとうこの世に生きていられなくなって、死んでしまいましたわ。さあ、そこで新しい間借り人が要ることになりましたの。というのは、あたしたち間借り人なしじゃ生きていかれないんですもの、この間代とお祖母さんの遺族扶助料が、あたしたちの収入全部といっていいくらいでしたからね。その新しい間借り人がちょうどわざとみたいに若い人でしたの。ここの人じゃなくって、よそから来た人でね。その人は値切ったりなんかしないもんだから、お祖母さんも入れることにしたんですけど、後になってあたしにきくんですの、『ナスチェンカ、今度の間借り人は若い人かえ?』あたし嘘をいいたくなかったから、『そうよ、お祖母さん、ひどく若いというほどじゃないけど、まあ、年よりじゃないわ』
『それで、気持ちのいい様子をした人かえ?』とまたお祖母さんはきくじゃありませんか、あたしは今度も嘘をつきたくなかったので、
『ええ、気持ちのいい様子の方ですわ、お祖母さん!』というと、お祖母さんは、『ああ! なんの罰が当たったんだろう、なんの罪が! わたしがこんなことをいうのはね、ナスチェンカ、お前がその人をあまりしげしげ見ないようにと思ってだよ。ああ、なんて世の中になったんだろうねえ! そんなつまらない間借り人のくせに、気持ちのいい様子をしてるなんて、昔はそんなことはなかったがねえ!』
「お祖母さんは何でも昔のほうがいいんですのよ! 年だって昔は若かったし、お陽《ひ》さまも昔のほうがなんだか暖かったようだし、クリームも昔はこんなに早く酸っぱくならなかったし、――何もかも昔は、なんですの! その時あたしはじっと坐って考えたもんですわ、――なんだってお祖母さんは自分のほうから、あたしにそんな考えを起こさせるんだろう? 今度の間借り人は若い綺麗な人かなんてきくんだもの。でも、ただちょっとほんのちょっとそう考えたきりなの。お祖母さんはすぐまた目を勘定しながら、靴下を編みにかかって、その後ではすっかり忘れてしまったふうですの。
「ところが、ある朝、その間借り人があたしたちのとこへ来て、部屋の壁紙を貼り変える約束だったが、とたずねるんですの。いろいろと話し合ってるうちに、お祖母さんは話し好きだもんだから、『ナスチェンカ、わたしの寝台へ行って、算盤を取って来ておくれ』といいました。あたしはすぐに跳びあがりましたが、どういうわけだか知らないけれど、顔を真っ赤にしてしまいました。そして、ピンで留められてることを、すっかり忘れてしまったんですの。間借り人に見つからないように、そっとピンをはずしたらいいものを、いきなりさっと立ったものだから、お祖母さんの肘掛けいすがぐらっと揺れたじゃありませんか。あたしは間借り人にすっかり見られてしまったと思うと、顔を真っ赤にして、釘づけにされたように、その場に立っていましたが、不意にわっと泣き出しました。その時はもう生きてるのもいやなくらい恥ずかしくって、つらくなったものですわ! お祖母さんは何をぼんやり立ってるの? ってどなるんですけど、あたしはもうなおのこと……間借り人はその様子を見て、あたしが恥ずかしがっているのを悟ったものだから、お辞儀を一つして、出て行ってしまいました!
「それからというもの、あたしはちょっとでも控え室で足音がすると、まるで死人みたいになったもんですの。あの間借り人が来たのじゃないかと思ってね。そして、万一の場合の用心にそっとピンをはずしましたが、いつも人違いで、間借り人はやって来ませんでしたわ。三週間ばかりたった時、フョークラを使いに寄越しましてね、自分はフランス語の本をたくさんもっていて、その中にはいろいろいい本があるから、お読みになってもよかろうと思います。お祖母さんも退屈しのぎに、お嬢さんに読んで聞かせておもらいになったら如何です? というのです。お祖母さんは礼をいって、その申し出を受けたのですが、ただ修身の足しになるような本か、どうかとたずねたものですわ。『だってね』とお祖母さんはいうんですの、『よくいかがわしい本があってね、ナスチェンカ、お前なんかにはこんりんざい読まされやしない、すぐ悪いことを覚えるからね』
『いったい何を覚えるんですの、お祖母さん? 何が書いてあるんですの?』
『何がって、お前、若い男が品行のいい娘をそそのかしてさ、自分がちゃんと引き受けると口先ばかりうまいことをいって、親の家から連れ出したあげく、とどのつまり、その不仕合わせな娘をどうなとしろとおっぼり出してしまう、それで娘の末路は哀れなことになってしまう、そういうことが書いてあるのさ。わたしもねえ』とお祖母さんはいうんですの。『そういう本をたくさん読んだけれど、とてもうまく書いてあってね、一晩じゅうじっと坐り込んで読んだものだよ。だが、いいかね、ナスチェンカ、お前はそういう本を読んじゃいけないよ。いったいあの人はどういう本をよこしたのかねえ?』
『みんなウォールター・スコットの小説ばかりよ、お祖母さん』
『ウォールター・スコットの小説! それならいいがね、だけどその中に何か悪企みはないかしら? 何か恋文でも挾んでないか見てごらん』
『いいえ、お祖母さん、手紙なんかありませんわ』
『でも、表紙の下を覗いてごらんよ、あいつらは時々表紙の下へ突っ込むからね、あの悪党どもといったら……』
『いいえ、お祖母さん、表紙の下にもなんにもありませんわ』
『まあ、それならいいけれど!』
「こうして、あたしたちはウォールター・スコットを読み始めて、一月ばかりの間に大方半分ばかり読んでしまいました。それから後も、その人はいろんな本をよこしてくれました。プーシキンもよこしてくれました。こんなわけで、しまいには、あたし本なしじゃいられないようになって、支那の皇子のとこへお嫁に行くことなんか、考えるのもやめてしまいました。
「こんなふうにしているうちに、ある時あたしはひょっくり階段の上で、その間借り人に会いました。何かの用でお祖母さんがお使いに出したんですの。その人は足を停めましたが、あたしが顔をあかくすると、向こうも顔をあからめるじゃありませんか。でも、笑いながら挨拶して、お祖母さんの加減なんかきいた後で、『どうです、本を読みましたか?』というのです。あたしが『読みました』と答えると、『何が一番お気に入りました?』とききます。『アイヴァンホーとプーシキンが一等すきですわ』とあたしは返事したものです。その時はそれだけでおしまいになりました。
「一週間ばかりして、あたしたちはまた階段で出会いました。その時はお祖母さんのお使いでなく、なんだったかしら、あたし自分で用があったんですの。二時すぎでしたっけが、間借りの人はその時分いつも家へ帰ってくるのでした。『今日は!』と声をかけましたから、あたしも『今日は!』といいました。『どうです、あなたは一日お祖母さんと二人でじっとしてて、退屈じゃありませんか?』
「その人がそういうが早いか、あたしは自分でもなぜか知らず恥ずかしくなって、顔をあからめました。それに、何か癪にさわるような気もしましたの。それはどうやら、よその人がそんなことをいい出したかららしいんですわ。あたしもう返事しないで、行ってしまおうとしましたが、それだけの気力もないんですの。
『ねえ』と間借りの人はいいました。『あなたはいいお嬢さんです! あなたにこんな口のきき方をするのをごめんなさい。しかし誓っていいますが、ぼくはお祖母さん以上に、あなたのためを思ってるんですよ。いったいあなたはちょいちょい遊びに行くお友だちもないんですか?』
「あたしはそれに答えて、まるっきりありません、一人マーシェンカというのが、あったけれど、ブスコフのほうへ行ってしまった、といいました。
『ねえ、ぼくといっしょに芝居へ行きませんか?』
『お芝居へ? だって、お祖母さんをどうするんですの?』
『それはね、お祖母さんに内緒でそっと……』
『いけません、あたしお祖母さんをだますようなことしたくないんですもの。さよなら!』
『じゃ、さよなら』と答えただけで、何も申しませんでした。
「ところが、食事の後で、あたしたちのところへやって来るじゃありませんか。ゆっくり坐り込んで、長いことお祖母さんとお話してるんですの。どこかへお出かけになることがありますかだの、知合いがおありになりますかだの、いろんなことを』きいていましたが、出しぬけに、『実は今日オペラの桟敷を取ったんですがね。だしものは《セヴィリヤの理髪師》なんです。知合いのものが行きたいといったもんだから。ところが、後で断わって来たので、切符が余ってしまいましてね』
『《セヴィリヤの理髪師》ですって!』とお祖母さんは叫びました。『それは昔やっていたのと同じあれですの?』
『ええ、同じものです』と間借り人はいって、あたしをちらと見ました。あたしはもうすっかり悟ってしまって、顔を真っ赤にしました。心臓は期待の念で早鐘を打ち始めました。
『それならもう』とお祖母さんはいいました。『知っておりますとも! 現にわたしも家庭劇の催しがあった時、ロジーナの役をしたくらいですよ!』
『じゃ、今日いらっしゃいませんか?』と間借り人はいい出しました。『何しろ、切符が無駄になるんですものね』
『そうですね、じゃ行くとしますかねえ』とお祖母さんはいいました。『行っちゃならないって法はありませんからね。このナスチェンカだって、一度もお芝居へ行ったことがないんですもの』
「ああ、なんて嬉しいことでしょう! あたしたちはすぐ支度にかかり、おめかしをして出かけました。お祖母さんは目こそ見えないけれど、音楽だけでも聞きたいと申しましてね。それに、優しい心立ての人でしたから、まあ、おもにあたしを慰めようというわけだったんですの。あたしたち二人きりだったら、とても思い立つことはありゃしません。《セヴィリヤの理髪師》の印象がどうだったかって、そんなことはあらためていわないことにしましょう。間借りの人はその晩ずっと、とても気持ちのいい目つきであたしの顔を見つめ、気持ちのいい話をしてくれましたので、今朝あたしに二人だけでお芝居へ行かないかと誘ったのは、あたしを試験して見るつもりだったのだな、と悟りました。とにかくその嬉しいことといったら! あたしはなんともいえない誇りがましい、楽しい気分で床につきました。胸は烈しく動悸を打って、まるでちょっとした熱病にでもかかったようでした。あたしは夜っぴて《セヴィリヤの理髪師》のことばかり譫語にいっていました。
「あたしは、こういうことがあった以上、あの人はしょっちゅう家へ訪ねて見えるだろうと思っていましたが、そうでないんですの。もうすっかり鼬の道といっていいくらいでした。まあ月に一度も寄ることがあるかないかでしたが、それもただお芝居へ招待するためだけなんですの。その後、あたしたちは二度ばかり出かけましたが、あたしはちっとも嬉しくありませんでした。あの人はただ、あたしがお祖母さんに縛りつけられてるのが、かわいそうなという、ただそれだけの気持ちなんです。それがあたしにはちゃんと見えていたからですの。時が経つにつれて、あたしはだんだん気もそぞろになって来ました。居ても立ってもたまらないし、本を読もうとしても読めないし、お仕事をしようと思ってもできないんですの。時によるとお祖母さんに何か意地悪をしてみるかと思うと、時にはたださめざめと泣くばかりなんですの。とうとうあたしはげっそり痩せてしまって、ほとんど半病人になりました。オペラのシーズンも過ぎて、間借りの人はまるっきり訪ねて来なくなりました。時たま出会っても、――もちろん、いつも例の階段の上でしたが、――向こうはただ黙ってお辞儀をするばかり、それも真面目くさって、話をするのもいやだというふうなんですの。こうして、その人が入口階段のとこへ下りてしまうまで、あたしは階段の中途に立って、桜ん坊みたいに顔を真っ赤にしているんですの。というのは、その人に出会うたびに、あたしは体じゅうの血が顔へ上るような気がしたんですもの。
「さあ、もうおしまいですわ。ちょうど一年まえの五月に、その間借りの人があたしたちのとこへやって来て、ここの用事もすっかり片がついたから、また一年ばかりモスクワへ行って来なくちゃならない、とそうお祖母さんにいうのでした。あたしはそれを聞くや否や、さっと真っ青になって、死んだように椅子の上へ倒れてしまいました。お祖母さんはなんにも気がつきませんでしたの。その人は、ではこれでお暇しますといって、お辞儀を一つすると、出て行ってしまいました。
「いったいあたしはどうしたらいいんでしょう? 考えて考えて考えぬき、悩んで悩んで悩みぬいたあげく、とうとうあたしははらを決めました。明日はいよいよ出発という日、あたしは今夜こそお祖母さんが寝室へ入った時、何もかも片をつけてしまおうと決心したんですの。まったくそのとおりにしました。あたしはありったけの着物と、要るだけの肌着類を一包みにまとめ、その包みを手に持って、生きた心地もなく、間借りの人のいる中二階をさして行きました。あたしはその階段を昇るのに、まる一時間もかかったような気がしました。いよいよ部屋の戸を開けたとき、その人はあっと叫んで、あたしの顔を見つめました。幽霊かと思ったんでしょう。あたしがじっと立っていられないような様子を見て、飛んで行って、水を取って来てくれました。心臓はどきどきするし、頭は痛んでぼうっとしているのでした。やっと正気に返った時、あたしはいきなり包みを寝台の上へのせて、その傍に腰を下ろすと、両手で顔を隠して、滝のように涙を流しながら泣き出しました。間借りの人はどうやらすぐさまいっさいのことがわかったらしく、あかい顔をしてあたしの前に立つたまま、さも悲しそうな様子であたしを見つめているじゃありませんか。あたしは、胸が張り裂けそうでした。
『ねえ』とその人はいい出しました。『ねえ、ナスチェンカ、ぼくはどうすることもできないんです。ぼくは貧乏な人間ですから。今のところぼくは何一つありません、勤め口さえちゃんとしたのがないような始末ですからね。もしあなたと結婚したら、ぼくたちはどうして暮らして行くんです?』
「あたしたちは長いこと話し合いましたが、あたしはとうとうきちがいのようになってしまって、もうお祖母さんとこで暮らすわけにいかないから、逃げ出してしまう、あたしはお祖母さんにピンで留められるのはいやです、もしあなたさえいやでなかったら、いっしょにモスクワへ行きます。だってあなたなしには生きていられないんですもの、といいました。恥ずかしさも、恋しさも、誇りがましさも、――何もかもが一どきに表現を求めたんですわね。あたしは痙攣に身を揉まれて、危くべッドの上へ倒れないばかりでしたわ。あたしは拒絶されるのが、怖くてたまらなかったんですの!
「その人はしばらくの間、黙って坐っていましたが、やがて立ちあがって、傍へ寄り、あたしの手を取りました。 
『ねえ、かわいいナスチェンカ、優しいナスチェンカ!』と、同じように涙にくれながら切り出しました。『ねえ、誓っていいますが、もしぼくがいつか結婚のできる身分になれたら、ぼくに幸福を授けてくれるのはあなたのほかありません。まったくです、いまぼくに幸福を授けることができるのは、あなた一人きりです。ねえ、ぼくはこれからモスクワへ行って、かっきり一年むこうに滞在します。ぼくはうまく仕事を処理できるものと思っていますが、その時ここへ帰って来て、あなたの愛が冷めてなかったら、誓っていいますが、ぼくら二人は幸福になれるのです。でも、今は駄目なんです。ぼくは何も約束することができません、そんなことをする権利がないのです。でも、くり返して申しますが、一年たってそうならなくっても、いつかは必ずなります。それはもちろん、あなたがぼくをだれかに見変えない場合の話です。だって、ぼくは何らかの言葉であなたを束縛するなんてことはできないし、そういう気力もないですからね』
「こういって、その人はあくる日たって行きました。お祖母さんにはこの話を一言もしないように、二人相談してきめました。それがその人の希望だったものですから。まあ、そういうわけで、あたしの身の上話もこれで大ていおしまいですの。ちょうど一年たって、その人は帰って来ました、もうここへ着いてからまる三日になるんですけど、でも……」
「でも、どうしたんです?」話の終わりが聞きたくてじりじりしながら、わたしはこう叫んだ。
「でも、今だに姿を見せないんですの!」とナスチェンカは、気力を奮い起こそうとするかのように答えた。「なんのたよりもないんですの……」
 そういって、彼女は言葉を止め、しばらく黙って頸《うなじ》を垂れていたが、不意に両手で顔をおおって、よよとばかり咽び泣きし始めた。その慟哭の声に、わたしは心臓が痺れるような思いだった。
 こうした大団円は、夢にも思いがけなかったのであった。
「ナスチェンカ!」とわたしは臆病な、忍び入るような声でいい出した。「ナスチェンカ! 後生だから、泣かないでください! なぜそう独り決めに決めてしまうんです? ひょっとしたら、その人はまだ……」
「ここに、ここにいるんですわ!」とナスチェンカは引き取った。「その人はここにいるんですの、あたしちゃんと知っていますわ。あたしたちは一つ約束したことがあるんですのよ。まだその晩、出発の前の晩のことなんですけど、今あなたにお話したことを、二人でもうすっかり話し合って、約束ができてしまってから、ここへ散歩に出たんですの、ちょうどこの河岸通りにね、もう十時でしたわ。あたしたちはこのベンチに腰を下ろしましたが、あたしはもう泣いてはいませんでした、あの人の話を聞いてるのがいい気持ちで……あの人のいうにはね、ここへ着いたらすぐうちへ来て、もしあたしの心が変わらなかったら、二人でいっさいのことをお祖母さんにうち明けようって。ところが、今あの人は帰ったのに、――あたしそれを知ってるわ、――それなのに、あの人は来ない、来てくれない!」
 彼女は再び涙に沈んだ。
「困ったな! なんとか力をかして上げるわけにいかないかしらん!」とわたしはすっかりとほうに暮れて、ベンチから躍りあがりながら叫んだ。「ねえ、ナスチェンカ、せめてぼくなりと、その人のとこへ行って見ることはできないかしら?」
「そんなことができるもんですか?」と急に顔を上げて彼女はこういった。
「だめだ、むろん、だめだ!」とわたしもわれに返ってつぶやいた。「じゃ、こうしたらどうでしょう、一つ手紙を書きませんか」
「いいえ、そりゃ駄目よ、そんなわけにはいきません!」と彼女はきっぱり答えたが、もう目を伏せてわたしの顔を見なかった。
「どうして駄目なんです? なぜそんなわけにいかないんです?」とわたしは自分の思いつきにしがみつきながら、言葉をつづけた。「だってね、ナスチェンカ、それはどんな手紙だと思います? 手紙も手紙によりけりですよ、それに……ああ、ナスチェンカ、それは本当です! ぼくにまかせてください、信頼してください! ぼくわるいことは勧めません。これはすっかりうまくやることができますよ! あなたのほうから第一歩を踏み出したくせに、どうして今さら……」
「いけません、いけません! そうすると、何か押しつけがましいような気がして……」
「ああ、優しいナスチェンカ!」とわたしは微笑をかくしきれないでさえぎった。「そりゃ違います、違いますとも。第一、あなたには権利があるじゃありませんか。だって、向こうが約束したんですものね。それに、いろんな点から察したところ、その人はデリケートな心を持っていて、立派な行動を取ったように思われます」自分の論証の筋道が立っているのに、自分でうちょうてんになりながら、わたしは言葉をつづけるのであった。「その人の取った行動はどうでしょう?その人は自分の約束で自分を縛ったじゃありませんか。自分はもし結婚するとしたら、あなた以外の女とけっして結婚しない、とそういって、あなたのほうは今すぐにでも拒絶していいという、絶対の自由を与えたんですからね……こういう場合には、あなたは第一歩を踏み出して差支えないんです。あなたには権利があります、相手方に対して優先権を持っています、たとえば、その人の約束を解除してやるといったようなことでも……」
「ねえ、あなただったらどうお書きになって?」
「何をです?」
「その手紙をですわ」
「ぼくだったら、こう書きますね、――『拝啓』……」
「それどうしても必要なんですの、――拝啓って」
「どうしても必要です! もっとも、なに、ぼくの考えでは……」
「まあ、まあ! 先をいってごらんなさい!」
「『拝啓、まずおゆるしを乞わなければならぬことがございます』……いや、しかしおゆるしなんか乞うことはちっともありゃしない! この際、事実そのものがいっさいを証明しているんだから。ただ簡単にこう書けばいいんです。
『一筆さしあげます。わたくしの性急をおゆるしくださいまし。でも、わたくしはまる一年間ただ一つの希望で幸福だったのでございますもの、いま疑惑の一日すらも我慢できないからといって、それがわたくしの罪でしょうか? あなたは最早やお帰りになりましたが、ひょっとお気持ちが変わったのではございますまいか。もしそうでしたら、わたくしが不平もいわなければ、あなたを咎め立てもしないということは、この手紙が証明するでございましょう。自分があなたの胸を征服する力がないからとて、あなたを咎め立てなどいたしません。それがもうわたくしの運命なのですから!
 あなたは潔白な方でございます。わたくしのこの性急な手紙をお読みになりましても、にやりと笑ったり、いまいましそうに舌打ちしたりなさらないでしょうね。どうかこれを書いているのが哀れな娘だということを、想い出してくださいまし。その娘はたった一人きりで、だれも教えてくれるものもなければ、忠告してくれる人もありません。で、自分で自分の心を抑えるということが、どうしてもできないのでございます。でも、ほんの一分間にもせよ、わたしの心に疑いが忍び込みましたのを、どうぞおゆるしくださいまし。あなたはたとえお心の中だけでも、あれほどあなたをお慕いしていた、また今もお慕いしている娘を、侮辱するようなことは、おできにならない方でございます』」
「ええ、ええ! それはすっかりあたしの思っていたとおりよ!」とナスチェンカは叫んだ。よろこびの色がその双眼にかがやいた。「ああ! あなたはあたしの疑いを解いてくださいました、あなたは神様がお送りくだすった方ですわ!ありがとう、お礼を申します!」
「なんのお礼? 神様がぼくを送ったそのお礼ですか?」そのよろこばしげな顔をうちょうてんになって見ながら、わたしは答えた。 
「まあ、そのお礼としてもいいわ」
「ああ、ナスチェンカ! ある人たちに対しては、いっしょに生きているということに対して、お礼をいいたいようなこともありますからね。ぼくはあなたと出会ったことに対して、一生あなたのことを忘れないということに対して、あなたにお礼をいいますよ!」
「まあ、たくさん、たくさんですわ! さて、そこでね、一つ聞いていただきたいことがありますの。その時の約束というのはね、あの人がここへ着いたらすぐ、ある所へ手紙を置いて、それで自分のことを知らせる、とこういう話になっていましたの。それはあたしの知合いで、気の優しいさっぱりした人でね、このことについてはなんにも知らないんですの。それとも、手紙ってものはいつだってなんでも書けるときまったものでないから、手紙をことづけることができなかったとしましょう。その時には、着くとすぐ、かっきり夜の十時に、二人で約束したこの場所へやって来る、そういうことになっていましたのよ。ところが、あの人の着いたことはもうわかってるんですけど、もうこれで三日目になるのに、手紙も来なければ、当人の影も見えないんですもの。あたしお祖母さんの傍を離れるわけにはどうしてもいきませんから、今お話した親切な人のとこへ、明日あたしの手紙を届けてくださらない。もし返事があったら、あなたそれを晩の十時にご自分で持って来てちょうだいな」
「でも、手紙は、手紙は! だって、その前に手紙を書かなくちゃならないでしょう! いったいあさってまで持ち越すんですか?」
「手紙ね……」とナスチェンカはやや当惑の態で答えた。「手紙ね……でも……」
 彼女はしまいまでいい切らなかった。初めちょっとわたしから顔をそむけて、薔薇のように真っ赤になったかと思うと、不意にわたしは自分の手の中に一通の手紙が押し込まれるのを感じた。察するところ、もはやとっくに書かれ、用意され、封に入れられてあったものらしい。何かしら懐かしい、優美な追憶が、ちらりとわたしの頭をかすめた。
「R, o―Ro, s, i―si, n, a,―na」とわたしはいいかけた。
「Rosina!」とわたしたちはいっしょに歌い出した。わたしは歓喜のあまりほとんど彼女を抱かんばかりにし、彼女はもうこの上どうにもならぬというほど顔を真っ赤にして、黒い睫毛の上で真珠のように慄える涙の隙から笑いながら。[#「笑いながら。」はママ]
「さ、もうたくさんよ、たくさんよ! では、さよなら!」と彼女は早口にいった。「さ。これが手紙、これが持って行く先のアドレスよ。さよなら! ご機嫌よう! また明日ね!」
 彼女はぎゅっとわたしの手を握りしめると、一つ頷いて見せて、矢のように早く横町へ姿を消した。わたしはその後を見送りながら、長いことその場に立ちつくした。
「また明日ね! また明日ね!」彼女が眼界から姿を消した時、こういう声がわたしの頭の中に響いた。

[#4字下げ]第3夜

 今日は悲しい日だ。雨が降って日の目も見えず、まるでわたしの来たるべき老年のよう。わたしは奇妙な思想や暗い感じに緊めつけられ、まだはっきりせぬ疑問が頭に蝟集して来る、――が、それを解こうとする気力もなければ、その気にもならない。そんなことはわたしに解けるわけがない!
 今日は会えそうもない。昨夜わかれる時に、雲が空に広がっていって、霧が立ち昇って来た。明日は天気が悪いだろうなとわたしはいったが、彼女は返事をしなかった。自分の意志に反したことをいいたくなかったのだ。彼女にとっては、この日は明るく晴れ渡っているのだ。一片の雲影も彼女の幸福をかげらしはせぬ。
「もし雨だったら、あたしたちは会えませんわ!」と彼女はいった。「あたし来ませんから」
 彼女は今日の雨に気がつかなかったろう、とわたしは思ったが、しかし彼女は来なかった。
 昨夜はわたしたちの三度目の逢びきだった。わたしたちの三度目の逢びきは白夜だった……
 それにしても、喜びと幸福は、なんと人間を美しくするものか? なんと心は愛に湧き立つものか! 何か自分の心を人の心に移したいような気がする、何もかも楽しくあれ、万物が笑ってくれればという気がする。そして、喜びというものはなんと人に感染《うつ》るものだろう! 昨夜の彼女の言葉にはどれだけ優しみがこもり、彼女の心にはどれだけわたしに対する親切が溢れていたことか……どんなにわたしの世話をやき、どんなにわたしに甘え、どんなにわたしの心を褒めそやし、撫でいたわってくれたことか! ああ幸福から来たあの媚態! ところが、わたしは……わたしは何もかも真に受けて、ひょっと彼女はわたしを……と思ったのだ。
 しかし、ああなんということだ、どうしてわたしはそんなふうに考えることができたのだろう? 何もかも他人に取られてしまい、何もかも自分のものでないのに、どうしてわたしはああも盲目でいられたのだろう? 第一、あの優しさも、あの心づかいも、あの愛情も……そうだ、わたしに対する愛情は、間もない再会のよろこびであり、自分の幸福をわたしに押しつけたいという望みでしかなかったのだ!………彼がついにやって来ず、わたしたちが待ちぼけ[#「待ちぼけ」はママ]を食わされたとわかった時、彼女は眉をひそめ、おじ気づき、びくびくし始めた。彼女の動作、彼女の言葉、何もかもが、最早やそれほど軽快でなく、浮き浮きと楽しそうでなくなった。そして、奇妙なことに、わたしに対して前より倍も注意深くなった。それはちょうど、彼女が自分に望んだもの、もし実現されなかったらと恐れた幸福を、わたしに流し込もうとするかのようであった。わたしのナスチェンカは、すっかりおじ気づき、おびえてしまったので、どうやら、とうとう、わたしが彼女を愛していることを悟り、わたしの不幸な恋を憐んだらしい。そうだ、われわれは自分が不幸な時には、他人の不幸をいつもより強く感じるものである。感情は割れないで、集中するのだ……
 わたしは彼女に会うのが待ち切れないくらい、胸一杯の思いをいだいて、彼女のところへ駆けつけた。わたしは自分の感じさせられることを予感しなかった。この大団円がこんなことになろうとは、夢にも思わなかったのである。彼女はよろこびに輝いていた。彼女は答えを待っていたのであり、答えは彼自身であった。彼は彼女の招きに応じて必ず来なければならない、走って来なければならない。彼女はわたしより一時間も早く来ていた。初めわたしのいうひと言ふた言に笑い声を立てた、きゃっきゃっと大きな声で笑ったものである。
「あたしがどうしてこんなによろこんでるか、あなたおわかりになって?」と彼女は問いかけた。「あなたを見て、こんなによろこんでるわけが? どうして今日はこんなにあなたを愛しているか、おわかりになって?」
「え?」とわたしは問い返したが、心臓はどきんと躍った。
「あたしがあなたを好きなのはね、あなたがあたしに恋なさらなかったからよ。だって、もしあなたの立場にほかの人がいたら、うるさくつきまとって、溜息をついたり、苦しそうな顔をしたりするに相違ありませんわ。ところが、あなたは本当によくわかった方で!」
 そういって、わたしの手を強く握ったので、こちらはあやうく叫び声を立てないばかりであった。彼女は笑い出した。
「ああ! あなたは素晴らしいお友だちだわ!」一分ほどして、彼女はひどく真面目な調子でいい出した。「本当に神様が授けてくだすったんだわ! ねえ、今度あなたがいらっしゃらなかったら、あたしどんなことになったでしょう? まったくあなたは無私なお方ねえ! あなたがあたしを好いてくださるその愛し方は、とても立派よ! あたしが結婚したら、あたしたちみんなうんと仲善しになりましょうね、兄妹以上にね。あたしあなたを、ほとんどあの人と同じくらいに愛して上げますわ……」
 この瞬間、わたしはなぜか恐ろしく気が沈んでしまった。しかし、何か笑いに似たようなものが、わたしの胸にもそろと動いた。
「あなたは発作を起こしてるんですよ」とわたしはいった。「あなたはびくびくしてらっしゃるんです。あの人が来ないかと思って」
「しようのない人ね!」と彼女は答えた。「もしあたしが、これほど幸福でなかったら、あなたが本当にしないで、あたしを咎めたりなさるので、泣き出したかもしれなくってよ。もっともあなたは、暗示を与えてくだすったわ、よっぽどよく考えなくちゃならないような問題をお出しになったんだわ。後でよく考えて見るけど、いま白状しますが、あなたのおっしゃったことは本当よ、ええ! あたしなんだかうわの空だわ。あたし待ち焦れているものだから、なんでも妙に易易と感じるんだわ。まあ、たくさん、愛情のお話はやめにしましょう……」
 このとき足音が聞こえて、闇の中に通行の人が現われ、わたしたちのほうへやって来た。わたしたちは二人ながらぶるぶる慄え出した。彼女はすんでのことに叫び声を立てないばかりであった。わたしは彼女の手を放して、向こうへ行きそうな様子をした。が、それは二人の思い違いで、彼ではなかった。
「何をあなたは恐れてらっしゃるの? なんだってあたしの手をお放しになったの?」またわたしのほうへ手を差し出しながら、彼女はこういった。「ねえ、どうしたっていうんですの? あたしたち、いっしょにあの人を迎えようじゃありませんか。あたしたちがお互いにどんなに愛し合っているか、あの人に見てもらいたいの」
「ぼくたちがどんなに愛し合っているかですって!」とわたしは叫んだ。
『おお、ナスチェンカ、ナスチェンカ!』とわたしは心に思った。『そのひと言でどれだけたくさんのことを聞かしてくれたか、お前は知っているのかい? 時によると、そうしたひと言でね、ナスチェンカ、心の中が冷たくなって、胸の中が苦しくなることがあるものだよ。お前の手は冷たいが、ぼくの手の火のように熱いじゃないか。ナスチェンカ、お前は なんと盲目なんだろう!………ああ、幸福な人間というものは、時によると、実にやり切れないことがあるもんだよ! しかし、ぼくはお前に腹を立てるわけにいかなかった!………』
 とうとう、わたしの胸はいっぱいに溢れて来た。
「ねえ、ナスチェンカ!」とわたしは叫んだ。「ねえ、今日いちんちのうちに、ぼくにどういうことがあったか知っていますか?」
「まあ、なんですの、いったいどういうことがあったんですの? 早く話して聞かせてちょうだい! なんだってあなたは今まで黙ってらしたんですの!」
「第一にね、ナスチェンカ、ぼくがあなたからの頼まれごとをすっかりすまして、手紙も渡せば、あなたの知合いのとこへも寄って、その後で……その後で家へ帰って床についたんです」
「たったそれだけのこと?」と彼女は笑いながらさえぎった。
「そう、まあ、大体それだけのことなんですよ」と歯を食いしばって答えた。なぜなら、わたしの目には愚かな涙が早くも溢れて来たからである。「ぼくは約束した時刻の一時間前に目をさましたんですが、しかしなんだかまるで眠らなかったような気持ちでした。いったいぼくはどうしたのか、自分でもわかりませんでした。ぼくはあなたに様子をすっかりお話しようと思って、ここへ歩いて来る途中も、なんだか時の歩みが停まってしまって、ただ一つの感覚、ただ一つの感情だけが、この時以来、ぼくの内部に永遠に残るべきである、というような気持ちなんです。一つの瞬間が無限無窮につづくべきであって、ぼくのために全生活が停止してしまったような……ぼくが目をさました時、とっくの昔から聞き覚えのある甘い音楽の一節が、ふと心に浮かんで来たようなあんばいでした。それは、以前どこかで聞いたことがあるのだけれど、すっかり忘れてしまってたんですね。そのメロディはしじゅうぼくの心から出て来よう、出て来ようとしていたのですが、やっと今になって……」
「まあ、なんてことでしょう、なんてことでしょう!」とナスチェンカはさえぎった。「それはいったいどうしたってことなんですの? あたしひと言もわかりませんわ」
「ああ、ナスチェンカ! ぼくはなんとかして、この奇妙な印象をあなたに伝えたいと思ったんだけれど……」とわたしは哀れっぽい声でいい出した。その中には、かすかなものではあるけれども、まだ希望のはためきが響いていた。
「たくさんですわ、よしてちょうだい、たくさんですわ!」と彼女はいった。彼女は一瞬にして悟ったのだ、油断のならぬ女!
 急に彼女はおしゃべりになり、はしゃいでふざけ出した。彼女はわたしの手を取って、きゃっきゃっと笑いながら、わたしにも同じように笑わせようとした。わたしがもじもじして何かひと言いうたびに、彼女は思い切って朗らかな声で、いつまでも笑い転げるのであった……わたしはいささかむっとした。彼女は急に媚態を弄びはじめたのだ。
「ねえ」と彼女はいい出した。「なんてってもね、あなたがあたしに恋なさらないのが、あたし少々ばかり癪なのよ。そうなって見ると、人間てものはわけがわからないじゃないの! でもね、あなたは不抜の意志を持った君子だけど、それでもあたしを賞讃なさらないわけにはいかなくってよ、あたしこんなざっくばらんな女なんですもの。あたしなんでもみんなあなたにいってしまうでしょう、どんな馬鹿な考えがちょいと頭に浮かんでも、みんな残らずいってしまうでしょう」
「ちょっと! あれは十一時らしいですよ」遠い市中の鐘楼から、鐘の音が響いて来た時、わたしはこういって注意した。彼女は不意に言葉を止め、笑うのをやめて、指折り数えはじめた。
「ああ、十一時だわ」とうとう彼女は臆病そうな、思い切りのわるい声でこういった。
 わたしは彼女を驚かし、時刻を数えさせなどしたのを、さっそく後悔した。そして、毒心の発作など起こした自分を呪ったものである。わたしは彼女がかわいそうになって気が滅入り、どうして自分の罪をつぐなっていいかわからなかった。わたしは彼女を慰めにかかり、彼の来ない理由を考え出し、さまざまな論証を試みた。この瞬間、彼女を欺くよりやさしいことはなかった。またこういう場合にはどんな人間でも、たとえ口さきばかりのお座なりであろうと、よろこんで人の慰めを聞くものである。もし釈明の影でもあれば、よろこんでそれに飛びつくものである。
「それに、第一、おかしな話じゃありませんか」とわたしはだんだん熱くなっていき、自分で自分の論証の明白さにうちょうてんになりながら、こんなふうにしゃべり出した。「あの人は来られるわけがなかったんですよ。ナスチェンカ、あなたはぼくまで一杯くわせて巻き込んでしまったものだから、ぼくも時間の勘定がわからなくなったんです……まあ考えてごらんなさい、あの人は手紙も受け取ったかどうかわかりませんよ。そうしたら、来られなかったはずじゃありませんか。ねえ、返事を書くことにしたかもしれない、すると、その手紙は明日より早くは届きっこないですよ、ぼく、明日は夜の引明けに行ってみて、すぐお知らせしましょう。まあ、そういうふうな場合は、百でも千でも想像できるでしょう。それから、まあ、手紙が届いた時あの人が家にいなかったために、今まで手紙を読んでいない、ということもあり得るわけですからね。ね、どんなことだってあり得るでしょう」
「そうね、そうね!」とナスチェンカは答えた。「あたし考えもしなかったけれど、もちろん、どんなことだってあり得るわけですわ」と彼女はいとも素直な声でつづけたが、その中には何か別な、遠い思想といったようなものが、苛立たしい破調となって響いているのであった。「じゃ、こうしてちょうだいな」と彼女は言葉をつづけた。「あすの朝、できるだけ早く行って、もし何かお受け取りになったら、すぐに知らせてくださいませんか。だって、あたしの住居をごぞんじなんでしょう?」そういって、彼女は自分の宿所をもう一度くり返し、わたしに説明し始めた。
 それから、彼女はわたしに対してひどく優しく、ひどく臆病になって来た……一見したところ、彼女はわたしの話を注意ぶかく聞いているようであったが、わたしが何か問いかけると、急に口をつぐんで、まごまごし、顔をそっぽへ向けてしまうのであった。わたしがその顔を差し覗くと、――はたして彼女は泣いているのであった。
「さあ、およしなさい、見っともない! やれやれ、あなたはなんて赤ちゃんでしょう! 子供じみてるじゃありませんか!………たくさんですよ!」
 彼女はにっこり笑って、気を落ちつけようとしたが、下顎が慄えて、胸は依然波立っていた。
「あたしね、あなたのことを考えてるんですのよ」と彼女は束の間の沈黙の後にまたいい出した。「あなたは本当に親切な方で、それを感じなかったら、あたしは石か木みたいな人間ですわ。ねえ、実はあたし、ひょっとこんなことを考えついたんですのよ。あたしあなた方二人を較べて見てね、どうしてあの人があなたでないのだろうと思いますの。どうしてあの人はあなたみたいでないのでしょう? あの人のほうがあなたより劣っていますわ。もっとも、あたしはあの人のほうをよけい愛してはいますけどね」
 わたしはなんにも答えなかった。彼女はわたしが何かいうのを待っているらしかった。
「そりゃいうまでもなく、あたしあの人を本当に理解していないのかもしれませんわ、十分に知り抜いていないのかもわかりませんわ。実はね、あたしいつもあの人が怖いような気がしていましたの。あの人ったらいつもひどく真面目で、なんだか高慢なような気がしていましたのよ。そりゃもちろん、ただそんなふうに見えるだけで、心の中はあたしなんかよりも優しい方だってことは、あたしにもわかっています……あたしあの方の目つきを今でも覚えていますわ、ほら、あたしが着物の包みを持ってあの人のとこへ行った時なんですの。でも、あたしなんだかあまりあの人を尊敬しすぎて、まるであたしたち二人が対等の人間じゃないみたいね?」
「いや、ナスチェンカ、ちがいますよ」とわたしは答えた。「それはつまりね、あなたがその人を世界じゅうの何よりも愛していらっしゃる、自分自身よかもずっと愛していらっしゃる証拠なんですよ」
「そうね、それはまあそうかもしれませんわ」無邪気なナスチェンカは答えた。「ところでね、実は今あたし妙なことを考えつきましたのよ。これはあの人のことだけじゃなくって、一般に人間のことなんですけど、もうずっと前からこの考えが、しょっちゅうあたしの頭に浮かんでいたものなんですの。ねえ、ほかじゃありませんが、なぜあたしたちはみんなお互いに、兄弟同士みたいにしないんでしょうねえ? どんなにいい人でも、なんだかいつも他人に隠し立てでもしてるみたいに、むっつりと黙りこくってるんでしょう! これはけっして壁に向かってものをいってるんじゃない、ということがわかっていたら、どうして自分の胸にあることを、今すぐざっくばらんにいってしまっちゃいけないんでしょう? だって、みんなだれもかれも自分を本当よりも気むずかしく見せかけようとしてるんですもの、あんまりたやすく心の中をうち明けたら、自分の感情を辱しめることになりゃしないかと、恐れてでもいるようなあんばいなんですもの……」
「ああ、ナスチェンカ! あなたのいったことは本当です。それはなにぶん、いろいろの原因からおこるのでしてね」この瞬間、かつていかなる時よりも、われとわが感情を圧迫していたくせに、わたしはこうさえぎった。
「いえ、いえ!」と、彼女は深い感情をこめて答えた。「だって、現にあなたご自身、みんなみたいな、そういう方じゃありませんわ! あたしまったくのところ、自分の感じてることを、どんなふうにお話したらいいのかわかりませんけど、あなたは現在いまでも……あたしのために何か犠牲にしてらっしゃるような気がしますわ」ちらとわたしの顔を眺めて、彼女は臆病そうにこうつけ加えた。「もしあたしの言い方が間違ってたら、ごめんなさいね。だって、あたしはただの小娘で、あまり世間てものを見ていないんですからね。まったくのところ、時によると、話の仕方もわかりませんもの」何か心に秘めた感情のために慄える声でつけ足したが、同時に、にっこり笑顔を見せようと努力しているのであった。「でもね、あたしあなたに感謝していることは、申し上げたいと思っていますのよ、あたしだってそれくらいのことはすっかり感じていますもの……ああ、その代わりにあなたもどうか神様から幸福をお授かりになりますように! あの時あなたは空想家のことをいろいろお話になりましたけど、あんなことはまるっきり違ってますわ、いえ、言い間違い、あなたにまるで関係のないことですわ。あなたは健康を取り戻していらっしゃいます、まったくのところ、あなたはご自分でお話になったのとは、まるで違った方ですわ。もしいつかあなたが恋をなすったら、どうかお二人で幸福におなりになりますように! あたし女のかたにはなんにも祈りませんわ。だって、あなたといっしょになったら、幸福になるにきまってますもの。それはわかっています、あたし自分が女ですからね、あたしがこう申し上げる以上、あなたも信じてくださらなくちゃなりませんわ……」
 彼女は口をつぐみ、わたしの手をしっかと握った。わたしも同様、興奮のために何一ついうことができなかった。幾分か経った。
「どうやら今夜はあの人、来そうもないわ!」とついに彼女は顔を上げていった。「おそいんですもの!………」
「明日は来ますよ」とわたしは自信たっぷりの声で、断固としていった。
「そうね」と彼女も浮き浮きとしていい添えた。「今はあたし自分でもそう思いますわ、あの人あすでなければ来ませんわ。それじゃ、さようなら! また明日ね! でも、もしか雨[#「もしか雨」はママ]だったら、あたし来ないかもしれませんわ。だけど、明後日はまいります、どんなことがあっても必ずまいりますから、ぜひともここにいてくださいね。あたしあなたにお会いしたいの、あなたに何もかもすっかりお話しますから」
 それから、二人が別れを告げはじめた時、彼女はわたしに手を差し伸べて、晴ればれとした目でわたしを見つめながら、こういった。
「ねえ、これからあたしたちはいつもいっしょにいましょうね、いいでしょう?」
 おお、ナスチェンカ、ナスチェンカ! わたしが今どんな孤独を味わっているか、それをお前が知ってくれたら!

 九時が打った時、わたしは部屋の中にじっとしていられなかった。天気が悪いのにもかまわず、着替えをして外へ出た。わたしは例の場所へ行って、ベンチの上に腰をおろした。彼女の住んでいる横町へ足を向けたが、恥ずかしくなって、窓をも見上げず、その家まで二歩というところで引っ返した。わたしはかつて知らぬ憂悶を心にいだきながら、わが家へ帰った。なんというじめじめした、いやな天候だろう! もし天気模様さえよかったら、夜っぴてあすこを散歩したのだが……
 しかし、明日のこと、明日のこと! 明日は彼女が何もかもすっかり話してくれる。
 とはいえ、今日も手紙は来なかった。がしかし、そうあるべきなのだろう。彼らはもういっしょになっているのかも……

[#4字下げ]第4夜

 ああ、この一件はなんという結末をつげたことか! なんという大団円になったものだろう!
 わたしは九時についた。彼女はもうちゃんと来ていた。わたしはまだ遠く離れたところから、その姿に気がついた。彼女はあの初めての時と同じように、堀端の手摺に肘突きして、わたしがそばへ寄るのに気がつかなかった。
「ナスチェンカ!」とわたしは無理に興奮を抑えながら呼びかけた。
 彼女は素早くわたしのほうへふり返った。
「え、どうでしたの?」と彼女はいった。「さあ、早く!」
 わたしはけげんそうにその顔を眺めていた。
「さあ、手紙はどこにあるんですの? あなた手紙を持って来てくだすったんでしょう?」と彼女は手摺をつかみながらくり返した。
「いや、ぼく手紙を持ってやしません」わたしはやっとこういった。「いったいあの人はまだ来ないんですか?」
 彼女は恐ろしく真っ青になった。そして、長いこと身じろぎもしないで、わたしの顔を見つめていた。わたしが最後の希望を粉砕したのである。
「まあ、あんな人どうでもいいわ!」とついに彼女はと切れ勝ちの声でいい出した。「あんな人どうでもいいわ、こんなふうにあたしを棄てるんだったら」
 彼女は目を伏せた。それからわたしを見上げようとしたが、それができなかった。まだしばらくの間、興奮を押し静めようと努力していたが、不意にくるりとうしろ向きになり、堀端の手摺に肘突きして、わっとばかり泣き出した。
「たくさんですよ、たくさんですよ!」といいかけたが、彼女の顔を見ると、言葉をつづける勇気がなかった。またわたしに何をいうことがあろう?
「どうかあたしに慰めの言葉なんかいわないでちょうだい」と彼女は泣きながらいった。「あの人のことをいい出さないでちょうだい、あの人は必ず来るなんていわないで、あの人は惨《むご》たらしく、血も涙もなくあたしを棄てたんだわ、こんなやり方をするなんて、なんのためでしょう、いったいなんのためでしょう? あたしの手紙の中に、あの不運な手紙の中に、いったい何があったんでしょう?………」
 このとき、慟哭の声が彼女の言葉を中断した。それを見ていると、わたしは胸が張り裂けるようであった。
「ああ、なんて血も涙もない、惨たらしいやり方でしょう!」と彼女はまたいい出した。「それに、一行も、ただの一行も返事をくれないなんて! せめてお前は要らなくなった、おれはお前を棄てると、はっきり返事でもくれたらいいのに、まる三日間も待たして、ただの一行も書いてよこさないんですもの! ただあの人を愛しているということよりほか、なんの罪もない、頼りない、かわいそうな娘を侮辱するのは、そりゃもうやさしいこってすわ! ああ、この三日間に、あたしはどれだけつらい思いをしたでしょう! ああ、情けない! 初めてあたしが自分のほうからあの人のところへ行って、あの人の前で恥を忍んで泣きながら、せめて一雫の愛情でもと哀願した、あの時のことを思い出すと……ああいうことがあった後で!………ねえ」と彼女はわたしのほうへ振り向いてこういった。その黒い目はぎらぎら光っていた。「これは考え違いかもしれませんわね! こんなことってあるはずがないわ、こんなこと不自然だわ! あなたか、さもなければあたしが、思い違いしてるのよ。もしかしたら、あの人は手紙を受け取らなかったのかもしれないわね? 今までなんにも知らずにいるのかもわかりませんわね? まあ考えてもごらんなさい、後生だからいってください、――あたしに説明してください、――あたしどうしても合点がいかないんだから、――あの人があたしに仕向けたような、ああいう野蛮人みたいに乱暴な仕打ちが、どうしてできるものでしょう? ただのひと言も書いてよこさないなんて! この世で一ばん屑の人間だって、これよりはも少し同情のある扱い方をされるものよ。ひょっとしたら、あの人は何か聞き込んだのかもしれませんね、だれかがあの人にあたしのことを讒訴したのかもわかりませんね?」と彼女は詰問の調子でわたしのほうへ振り向きながら叫んだ。「どう、あなたどうお思いになって?」
「ねえ、ナスチェンカ、ぼく明日その人のとこへあなたの名前で行って見ましょう」
「で?」
「その人に何もかもきいてみましょう、いっさいの事情を話して聞かせましょう」
「で、で?」
「あなた手紙を書いてください、ナスチェンカ、いやといわないでください、いやといっちゃいけませんよ! ぼくはいやでも応でも、その人にあなたの行為を尊敬させます、すっかり事情を知らせます。もし……」
「いいえ、ありがとう」と彼女はさえぎった。「いいえ、たくさんですわ! もうこれ以上ひと口もいいません、――一行も書きません、たくさんですわ! あたしあの人がわからない、あたしもうあの人なんか愛してやしません、あんな人、わ……す……れて……」
 彼女はしまいまでいえなかった。
「気を落ちつけてください、気を落ちつけて! ここへお掛けなさい、ナスチェンカ」といいながら、わたしは彼女をベンチにかけさせた……「ええ、あたし落ちついていますわ。もううっちゃって。これなんでもありませんの! ちょっと涙が出ただけで、こんなのすぐ乾いてしまいますわ! あなたなんとお思いになって? あたしが自殺する、身でも投げる、とお思いになったんですの?………」
 わたしは胸がいっぱいになって、ものをいおうと思っても、声が出なかった。
「ねえ!」と彼女はわたしの手を取って、言葉をつづけた。「ねえ、あなただったら、あんな仕打ちはなさらなかったでしょうね? あなただったら、自分のとこへ来た女の顔に、厚かましい嘲笑を投げつけたりはなさらないでしょうね、か弱い愚かな娘心を侮辱するようなことはなさらないでしょうね! あなただったら察してくださるでしょうね、その娘が一人ぼっちで、自分で自分の監督ができず、恋というものから自分を護ることができなかったからって、その娘がわるいのじゃないってことをね。何も悪いことはない……別になんにもしたわけじゃないってことを……ああ、なんてことでしょう、なんてことでしょう……」
「ナスチェンカ!」と、わたしはついに興奮を抑える力がなくなって、こう叫んだ。「ナスチェンカ! あなたそれはぼくをさいなむというものです! それは、ぼくの心を刺すというものです、それはぼくを殺すというものです、ナスチェンカ! ぼくは黙っていられない! ぼくはいよいよ、ぼくの胸のここのところに煮えたぎっているものを、いってしまわなければならない……」
 そういいながら、わたしはベンチから身を起こした。彼女はわたしの手を取って、驚愕のさまでわたしを見つめていた。
「あなたどうなすったの?」ついに彼女は口を切った。
「まあ、聞いてください!」わたしは断固としていった。「ナスチェンカ、ぼくのいうことを聞いてください! これからぼくのいうことはみんな出たらめです、できそうもないことです、馬鹿げたことです! そんなことができっこないということは、自分でも知っていますが、もう黙っていられません。あなたが今くるしんでいらっしゃる事柄のために、ぼくはあらかじめあなたにお願いします、どうかゆるしてください!………」
「まあ、なんですの、なんですの?」彼女は泣きやめて、じっとわたしを見つめながらこういったが、しかも不思議な好奇心が、そのあきれたような目に閃めいていた。「あなた、どうなすったの?」
「こんなことは実現しっこないけれども、ぼくはあなたを愛してるんです、ナスチェンカ! そうなんです! さあ、もう何もかもいってしまいました!」とわたしは片手を振りながらいい切った。「これでおわかりになるでしょうが、あなたはいまいったようなことを、はたしてぼくに向かっていえるかどうか、これからぼくが話そうとすることを聞いていられるかどうか……」
「まあ、なんですの、なんだっておっしゃるの?」とナスチェンカはさえぎった。「それがいったいどうしたんですの? だって、あたしは前から知ってましたわ、あなたがあたしを愛してらっしゃるってことは。ただね、それは単純な愛し方のように思われましたの、いい加減な愛し方のように……ああ、どうしよう、どうしよう!」
「はじめは単純な愛し方だったんですよ、ナスチェンカ、ところが、今は、今は!………ぼくはね、ちょうどあなたが包みをもってあの人のとこへ行った、あれと同じなんです。いや、あれよりもっとみじめですよ、ナスチェンカ。だって、その時あの人はだれも愛しちゃいなかったのに、あなたは愛してらっしゃるから」
「あなたはなんてことをおっしゃるんでしょう。これじゃ、あたしあなたって方がわからなくなりますわ。ねえ、聞いてちょうだい、なんのためにあなたはそんなことをおっしゃるんですの、いえ、なんのためじゃない、なぜあなたはそんなふうにそう突然いい出しなさるんですの……ああ! あたし馬鹿なこといってるわ! でも、あなたは……」
 こういって、ナスチェンカは、すっかりまごついてしまった。その頬はかっと燃えた。彼女は目を伏せた。
「どうも仕方がありません、ナスチェンカ、ぼくにどうしようがあるんでしょう? 悪かったです、ぼく、自分の位置を濫用しました……しかし、違う、違います、ぼくは悪くなんかないですよ、ナスチェンカ。ぼくはそれを感じます、直感します。なぜって、ぼくの心は、お前は本当だといってるんですもの。なぜって、ぼくはどうしたってあなたを侮辱することはできませんもの! ぼくはあなたの親友でした。いや、今だってやっぱり親友です。ぼくは何一つ裏切りはしなかった。ほら、今だってぼくの目から涙が流れていますよ、ナスチェンカ。ええ、勝手に流れさしておけ、勝手に、――そんなものはだれの邪魔にもなりゃしない、そのうちに乾きますよ、ナスチェンカ……」
「まあ、お坐んなさいってば」わたしをベンチに坐らせながら、彼女はこういった。「ああ、なんてことでしょう!」
「いや! ナスチェンカ、ぼくは坐りません。ぼくはもはやここにいられない人間です。あなたはもうぼくを見ることができないでしょう。ぼくは何もかもいってしまって、立ち去ります。ただぼくは、あなたがけっして知る折のなかったことをいいたいのです。つまり、あなたを愛してるってことを。ぼくは自分の秘密を守るつもりでした。ぼくは今のように、自分のエゴイズムであなたを苦しめるつもりはなかったのです。けれども、今は我慢しきれなかったのです。あなたが自分でこのことをいい出したんですもの、あなたが悪いのです、何もかもあなたが悪いので、ぼくのせいじゃありません。あなたはぼくを追っぱらうわけにいきません……」
「ええ、違いますよ、違いますったら、あたしあなたを追っぱらったりなんかしやしません!」とナスチェンカはかわいそうに、できるかぎり当惑を隠しながらいった。
「追っぱらわないんですって? 違いますって? それなのに、ぼくは自分であなたの傍を逃げだそうとしたんですからね。もっとも、ぼくは行ってしまいますが、その前に何もかもいってしまいます。なぜって、あなたがここで話してらしたとき、ぼくはじっと坐っていられなかったからです。あなたがここで泣いてらした時、つまり、その、つまり(もういってしまいますよ、ナスチェンカ)、あなたが棄てられたために、あなたの恋がしりぞけられたために苦しんでらした時、ぼくは自分の胸にあり余るほどの愛、あなたのための愛が溢れているのを感じました、直覚しました!……その時、ぼくはその愛であなたを助けることができないのかと思うと情けなくなって、胸が張り裂けそうになりました。で、ぼくは黙っていられなかったのです、いってしまわなければならなかったのです、ナスチェンカ、いってしまわなければ!」
「ええ、ええ! いってちょうだい、そんなふうに話してちょうだい!」言葉に捉えられぬ動きを示しながら、ナスチェンカはそういった。「あたしがこんなふうにいうのを、あなたは不思議にお思いになるかもしれませんが、でも……いってちょうだい! あたしも後でいいますから! 何もかもいってしまいますから!」
「あなたはぼくが気の毒なんです、ナスチェンカ、ただもうかわいそうなんですよ。もう駄目になったものは駄目になっ