京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『白夜』その3 (『ドストエーフスキイ全集2 スチェパンチコヴォ村とその住人』P393―P401より、1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

たんだ! もういってしまったことは取り返しがつきゃしない! そうじゃありませんか? さあ、そこで、今あなたは何もかも知ってしまわれました。で、それが話の出発点になるのです。さて、それでよしと! もう何もかもけっこうです、まあ、聞いてください。あなたがここに腰かけて泣いてらした時、ぼくは心の中でそう思いました(ああ、どうかぼくの考えたことをうまくいわしてください!)、ぼくは思いました、その(いや、そんなことはあるべきはずがないんです、ナスチェンカ)、ぼくはあなたが……もしや何かの拍子に、その、ほんの何かのはずみに、あの人に愛想を尽かしてしまったのじゃないか、とそう思ったのです。その時、――ぼくはそのことをもう昨日も、一昨日も考えたんですよ、ナスチェンカ――その時、こんなふうにしよう、是が非でもあなたがぼくを愛するようにしなければならぬ、と思ったのです。だって、ナスチェンカ、あなたそういったじゃありませんか、あなたが自分の口から、もうほとんどすっかりといっていいくらいぼくが好きになったと、そういったじゃありませんか。さあ、それからなんだったかな? いや、これがぼくのいいたいと思ったほとんど全部です。いい残してるのは、もしあなたがぼくを好きになったら、その時はどうかということ、ただそれだけで、もうなんにもありません! まあ、聞いてください、――だって、なんといってもあなたはぼくの親友でしょう、――もちろん、ぼくは貧しい、平凡な、つまらない人間ですが、もっとも、そんなことが問題じゃないのです(ぼくは見当ちがいのことばかりいってる、これは気まりが悪いからですよ、ナスチェンカ)。ただあなたを愛するのには、こんなふうにしなくちゃなりません、――もしあなたがあの人を愛しているとしたら、ぼくの知らない男を愛しつづけているとしたら、あなたに気づかれないように、ぼくの愛がひょっとあなたの重荷にならないように、そんなふうの愛し方をしなきゃならないのです。ただあなたが毎時、毎分、自分のそばで感謝に溢れた心が鼓動していることを、感じるようにしなきゃなりません。あなたのためなら……なに[#「なに」に傍点]するのもいとわない熱烈な心が……おお、ナスチェンカ、ナスチェンカ! あなたはぼくを何ということにしてしまったんです!………」
「泣かないでちょうだい、あたしあなたが泣くのいやですわ」素早くベンチから立ちあがりながら、ナスチェンカはこういった。「さあ、行きましょう、お立ちなさいな、いっしょに行きましょう、泣かないで、泣かないでちょうだいってば」そういいながら、彼女は自分のハンカチでわたしの涙を拭くのであった。「さあ、もう行きましょう。あたし何かお話するかもしれませんわ……そうだ、もういっそあの人があたしを棄ててしまったのなら、――あたしはまだあの人を愛してるのに(そうよ、あたしあなたに嘘をいいたくないから)、あの人があたしを忘れてしまったのなら……でも、よくって、あたしのきくことに返事をしてちょうだい。もし仮りに、あたしがあなたを好きになったとしたら、いえ、もしあたしがひょっと……ああ、あなた、あなたはあたしの親友ね! それなのに、あたしったら、あなたを侮辱したんですもの。あなたがあたしに恋をしなかったからといって、あなたを褒め上げたりしたのは、あなたの愛に対する凌辱でしたわね、それを思うと、それを思うと! ああ、どうしよう! まあ、いったいどうしてこれを見通しておかなかったのかしら、どうして予感しなかったのかしら、どうしてあたしはあんな馬鹿だったのでしょう、でも……ええ、ええ、あたし決心したわ、みんないってしまいますわ……」
「ねえ、ナスチェンカ、ちょっと。ぼくはあなたの傍を離れてしまいます、本当に! これじゃただあなたか苦しめるばかりですもの。現にあなたはぼくを嘲弄したからって、良心の呵責に苦しんでらっしゃる。それがぼくいやなんです。自分自身の悲しみがあるのに、その上……そんなことはいやです。もちろん、ぼくが悪いんですよ、ナスチェンカ、さよなら!」
「待ってちょうだい、あたしの話か聞いて、あなたお待ちになることができて?」
「何を待つんです、どうして?」
「あたしあの人を愛しています、けれどもそれは冷めてしまいますわ、冷めるのが当たり前ですもの、冷めないはずがありません。もう冷めかかってますわ、あたしそれが感じられますの……今日にもすっかり冷めてしまうかもしれません。だって、あたしあの人が憎いんですもの。だって、あなたはここであたしといっしょに泣いてくだすったのに、あの人はあたしをからかったんですもの。だって、あなたはあたしを棄てたりなんかなさらないでしょう。だって、あなたはあたしを愛してらっしゃるけど、あの人は愛してなんかいなかったんですわ。だって、あたし自身があなたを愛してるんですもの……そうよ、愛してるわ! あなたがあたしを愛してらっしゃるのと同じように、あなたを愛していますの。これは、あたしもう前にもあなたにいいましたわね、あなたお聞きになったでしょう、――あたしがあなたを好きなのは、あなたのほうがあの人よかいいかたなんですもの、潔白なかたなんですもの。だって、だって、あの人は……」
 かわいそうに、ナスチェンカはあまり興奮が烈しいために、しまいまでいい切ることができず、頭をわたしの肩にのせ、それから胸に押し当てで、よよとばかり泣き出した。わたしはすかしたり、慰めたりしたが、泣きやめることができなかった。彼女は絶えずわたしの手を握りしめて、すすり泣きの間から「待ってちょうだい、待ってちょうだい、今にすぐやめますから! あたしあなたにお話したいことがあって……あなたこの涙が……なに[#「なに」に傍点]のせいだなんて思わないでちょうだい、これはただちょっと、気の弱りのためなんですから。落ちつくまでちょっと待ってちょうだい……」とくり返すのであった。ようやく彼女は泣きやめて、涙を拭った。で、わたしたちはまた歩き出した。わたしはものをいおうとしたが、彼女はまだ長い間、ちょっと待ってくれと頼んだ。わたしたちは黙り込んでいた……ついに彼女は気力を奮って、話しはじめた。
「あのね」と彼女は弱々しい慄え声でいい出したが、その中には思いがけなく、わたしの心臓のただ中を刺して、甘く疼くような何ものかが響いていた。「どうかあたしのことを、移り気で、尻軽な女だなどと思わないでちょうだいね。あたしがいとも易々と忘れてしまって、手軽に自分の愛情を裏切ることのできる女だなんて、そんなことを思わないでね……あたしはまる一年間あの人を愛しつづけて、神様の前ででも誓いますけれど、ほんの心の中だけでも、あの人に背くようなことはしませんでしたわ。それをあの人は馬鹿にして、あたしを笑い草にしたんですものね――まあ、あんな人なんかどうでもいいわ! でもあの人はあたしを傷つけたんです。あたしの心を侮辱したんですわ。あたし……あたし、あんな人を愛してなんかいません。だって、あたしが愛することのできるのは、寛大で、高潔で、あたしを理解してくれる人に限りますもの。あたし自身がそういう女ですから、あの人なんか、あたしに愛される価値がないんですの、――でも、あの人なんかどうでもいいわ! 結局、あの人はいいことをしてくれましたわ。だって、後で期待を裏切られて、正体を見せつけられるよかましですもの……あれはいよいよおしまいですわ! でもね、ひょっとしてわかりませんわね」と、彼女はわたしの手を握りしめながらつづけた。「もしかしたら、あの愛情は一から十まで、気の迷いだったかもしれませんわね、想像の戯れだったかも。あたしがお祖母さんの監視の下に置かれていたものだから、愚にもつかない悪戯から始まったのかもしれないわ。あたしはあの人でなく、ほかの人を愛さなければならないのかもしれない。あんな人でなく、あたしを憐んでくれるような、別の人をね。そして……まあ、よしましょう、こんな話はよしましょう」興奮のために息を切らしながら、ナスチェンカは自分で自分をさえぎった。「ただ、あたしがお話したかったのはね……あなたにお話したかったのは、あたしがあの人を愛している(いえ、愛していた、ですわ)のをご承知の上で、やっぱりあなたがあたしを……もしあなたがご自分の愛情が大きくてとどのつまり、あたしの胸の中から以前の愛を追い出す力がある、とそうお感じになったら……もしあなたがあたしをかわいそうだとお思いになったら、もしあなたが希望もなければ慰めもないあたしを、運命の翻弄にまかせてうっちゃって置きたくないとお思いでしたら、もしあなたが今のとおりに、いつまでもあたしを愛してくださるお考えでしたら、あたし誓って申しますが、感謝の念だけでも……あたしの愛はあなたの愛情に値すると思いますわ……さあ、今こそあたしの手をお取りになりません?」
「ナスチェンカ!」とわたしは慟哭に息を切らせながら叫んだ。「ナスチェンカ!………おお、ナスチェンカ!」
「さあ、たくさんですわ、たくさんですわ! さあ、もうこれで本当にたくさん!」と彼女はかろうじておのれを制しながらいった。「さあ、これでもうすっかりいってしまったわ、そうじゃなくって? そうでしょう? ねえ、あなたも幸福だし、あたしも幸福よ。だから、もうこれからひと言もこの話はしないことにしましょう。少し待ってちょうだい、あたしを容赦してちようだい[#「ちようだい」はママ]……後生だから、何かほかの話をして!………」
「そうだ、ナスチェンカ、まったくそうだ! この話はもうたくさんだ、今ぼくは幸福なんだから、ぼくは……さあ、ナスチェンカ、さあ、何かほかの話をしよう、早く、少しも早く始めよう。さあ! ぼくはいつでも……」
 けれど、わたしたちは何を話したらいいかわからなかった。二人は笑ったり泣いたりして、脈絡もなければ意味もない言葉を、際限もなく吐き散らすのであった。わたしたちは歩道をあるいているかと思えば、急に後戻りして、通りを横切り出す。それから歩みを停めて、また河岸通りのほうへ渡って行った。わたしたちはまるで子供のようであった……
「ぼくはいま、独りぼっちで暮らしているけれどね、ナスチェンカ」とわたしはいい出した。「明日は……いや、もちろん、ぼくはご承知のとおり貧乏だよ、ナスチェンカ、ぼくは年俸千二百ルーブリしかもらっていない、けれどそんなことなんでもありゃしない……」
「もちろん、なんでもありはしなくってよ、お祖母さんが扶助料をもらってらっしゃるから、別にうるさいこといやしないわ。お祖母さんは引き取らなくっちゃ」
「もちろん、お祖母さんは引き取らなくちゃ……ただマトリョーナが……」
「ああ、うちにもやはりフョークラがいるわ!」
「マトリョーナはいい女だけれど、ただ一つ欠点というのはね、ナスチェンカ、考えがないということなんだ。まるっきり考えというものがなくってね。しかし、そんなことはなんでもありゃしない……」
「どうせ同じことよ。二人とも置いといたってかまわないわ。ただね、あなた明日にも越していらっしゃいよ」
「どうしてそんなことを? あんたのほうへ? よろしい、ぼくはかまやしない……」
「そうよ、あなた、家の部屋を借りるのよ。家にはそら、中二階があるから。今あいてるんですもの。間借りの人がいたけれど、越して行っちまったの。貴族出の年取った女の人だったわ。お祖母さんたらね、若い男の人を入れたがるのよ。あたしがね、『なぜ若い男の人でなくちゃならないの?』ってきくと、お祖母さんがいうのにはね、『なぜってこともないけれどね、わたしゃもう年を取ってしまったからさ。ただね、ナスチェンカ、わたしがお前をその人のお嫁さんにしようと思ってるなんて、そんなこと考えるんじゃないよ』ですって。そこであたしは、なるほどそのためだなと察したのよ……」
「ああ、ナスチェンカ!………」
 わたしたちは二人で笑い出した。
「さあ、もうたくさんだわ、たくさんだわ。ときに、あなたのお住居はどこでしたっけ? あたし忘れちまって」
「あの**橋の袂の、バランニコフの持ち家」
「それはあの大きな建物ですの?」
「そう、とても大きな建物です」
「ああ、知ってますわ、いい家だわ。でもね、あなた、その家はやめにして、少しも早くあたしたちのほうへ越して来てね……」
「明日にも、ナスチェンカ、明日にもすぐ。ぼく、あすこの部屋代が少々借りになってるけれど、なに、そんなことなんでもありゃしない……もうすぐ月給をもらうから……」
「ねえ、もしかしたら、あたし子供のお浚えをしてやるかもしれなくってよ。自分でも勉強して、子供のお浚えをしてやるわ……」
「ああ、そりゃ名案だ……ところで、ぼくは間もなく賞与をもらうからね、ナスチェンカ……」
「じゃ、もう明日からあなたはうちの間借り人ね……」
「そうだ、ぼくたちはいっしょに《セヴィリヤの理髪師》を聞きに行こうね、今度また近いうちにかかるから」
「ええ、行きましょう」とナスチェンカは笑いながらいった。「いえ、それよか、何かほかのものを聞きましょう、《セヴィリヤの理髪師》でなしに……」
「ああ、よろしい、何かほかのものにしよう。もちろん、そのほうがいい。ぼくよく考えなかったものだから……」
 こんなことをいいながら、わたしたちは二人とも悪いガスにでも酔ったか、霧にでも巻かれたような気持ちで歩きまわり、自分でも、自分がどうなっているのか、わからないような有様であった。一つところに長く立ちどまってしゃべり込んでいるかと思うと、またもややたらに歩き廻って、とんでもないところへ出てしまう。こうして再び笑い、再び涙……時にはナスチェンカが出しぬけに家へ帰りたいといい出す。すると、わたしはそれを引き止める勇気がなく、住居まで送って行こうとする。こうして、二人で歩き出すのだが、十五分も経つと、いつの間にか例の河岸通りのベンチのそばへ来ているのであった。かと思うと、彼女は急に溜息をついて、またぞろ涙が瞼に溢れる。わたしははっとして、身内が冷たくなる……けれども、彼女はすぐさまわたしの手を握って、ぐんぐん引っぱりながら歩き出し、しゃべり、話し込む……「もうあたしお家へ帰る時分だわ。きっと遅くなったでしょうね」と、ついにナスチェンカはいい出した。「こんな子供じみた真似はたくさんだわ!」
「そうだね、ナスチェンカ、でもね、ぼくこうなったらもう寝つかれやしない。ぼくは家へ帰らない」
「あたしもやっぱり寝つかれそうもないわ。でも、あなた送ってちょうだいね……」
「ぜひとも!」
「でも、今度こそ間違いなく家まで行き着くでしょうね」
「間違いなし、間違いなし……」
「誓って?……だって、いつかは帰らなくちゃなりませんものね!」
「誓いますとも」とわたしは笑いながら答えた。
「じゃ、行きましょうよ!」
「行きましょう」
「ごらんなさい、ナスチェンカ、ちょっとあの空をごらんなさい! 明日は素晴らしいお天気ですよ。なんて青い空だろう、なんて月だろう! ごらんなさい、あの黄いろい雲がいま月を隠そうとしているところを、ごらん、ごらんなさい! いや、わきのほうをかすめて行っちゃった。ごらん、ごらんてば!………」
 しかし、ナスチェンカは雲を見てはいなかった。彼女は釘づけにされたように、無言のまま立っていたが、しばらくしてなにか臆病そうに、ぴったりわたしに身を寄せて来た。その手はわたしの手の中で慄えていた。わたしはその顔を見やった……彼女はなおもひしとわたしに寄り添った。
 その瞬間、わたしたちのそばを一人の青年が通りすぎた。彼は突然あゆみを停めて、じっとわたしたちを見透かしていたが、ややあって、また幾足か歩いた。わたしの心臓はおののきはじめた……
「ナスチェンカ」とわたしは低い声でいった。「あれはだれ、ナスチェンカ?」
「あれはあの人よ!」なおもわななく体をひしとわたしのほうへ寄せながら、彼女はひそひそ声で答えた……わたしはほとんどその場に立っていられなかった。
「ナスチェンカ、ナスチェンカ! お前じゃないか!」という声がわたしたちのうしろに聞こえた、とその瞬間、青年はわたしたちのほうへ幾足か近寄って来た。
 ああ、なんという叫び声! なんというおののき! 彼女がわたしの手を振りほどいて、彼のほうへ飛んで行ったその身早さ!………わたしは叩きのめされたように、じっと立って、二人を眺めていた。けれども、彼女は男に手を差し伸べて、その抱擁に身を投じるか投じないかに、突如ふたたびわたしのほうへ振り返って、風のごとく、稲妻のごとく、わたしの傍へ飛んで来た。そして、わたしがわれに返る暇もなく、両手をわたしの頸に巻きつけて熱い熱い接吻をした。それから、わたしにはひと言もものをいわないで、またもや男のほうへ飛んで行き、その手を取って、ぐんぐん引っぱって行った。
 わたしは長い間そこにたたずんで、二人のあとを見送っていた……ついに二人は眼界から姿を消した。

[#4字下げ]朝

 わたしの夜は終わって朝となった。いやな日であった。雨がじゃんじゃん降って、憂鬱な音を立てながら、窓硝子をたたいている。部屋の中は薄っ暗く、外は灰色に曇っていた。わたしは頭が痛み、目まいがした。熱けが四肢に忍び込んで来る。
「手紙がまいりましたよ、旦那様、市内便で、いま郵便屋が持って来ましたんで」とマトリョーナがわたしの頭の上でいった。
「手紙! だれから?」とわたしは椅子から躍りあがって叫んだ。「知りませんよ、旦那様、まあ見てごらんなさいまし、だれから来たのか、そこに書いてあるかもしれませんよ」
 わたしは封を切った。それは彼女から来たものであった。
『おお、ゆるしてください、わたくしをゆるしてくださいまし!』とナスチェンカはわたしに宛てて書いていた。『膝をついてお願いします。どうぞわたしをゆるしてくださいまし! わたくしはあなたをも、また自分をも欺いたのでございます。あれは夢でした、幻でした……今日わたくしはあなたのために悩み通しました。ゆるしてください、わたくしをおゆるしくださいまし!………
『どうかわたくしをお責めにならないでくださいまし、だって、わたくしは何一つあなたに背いたことがないのですもの。わたくしはあなたを愛すると申しましたが、今でも現に愛しております。いえ、愛するというより以上でございます。ああ! もしあなた方お二人を一度に愛することができましたら! ああ、もしあなたがあの人でしたら!』
『ああ、もしあの人があなたでしたら!』という声がわたしの頭の中で響いた。ナスチェンカ、わたしはお前自身の言葉を思い出したのだ。
『神も照覧あれ、今わたくしはあなたのためなら、どんなことでもする覚悟でございます! あなたが苦しい、やるせない思いをしていらっしゃるのは、わたくしにもよくわかっております。わたくしはあなたを侮辱しましたけれども、おわかりくださることでしょうが、愛している人は長く侮辱を覚えているものではございません。ところで、あなたはわたくしを愛していてくださいますわね!
『ありがとうございます! ええ、わたくしはその愛のためにあなたに感謝いたします。だって、その愛はわたくしの記憶の中に彫《え》りつけられているからでございます。それは甘い夢みたいなもので、さめてからも長いこと忘れることができません。あなたがまるで兄弟のようにご自分の心を開いてくだすったあの瞬間、そしてわたくしの打ち挫がれた心を寛大に受け入れて、大切に護り、めでいつくしみ、その痛手を癒してくだすったあの瞬間は、一生わすれはいたしません……もしあなたがわたくしをゆるしてくださいますれば、あなたの思い出はわたくしの心の中で、永久に変わることなき感謝の念によって昇華されることでしょう、それはけっして消えることはありません……わたくしはこの思い出を保存し、それに背くことがないように、また自分の心にも背かないようにいたします。わたくしの心はあまりにも節操を尊ぶのでございますから、つい昨日も永久に所属していた人のほうへと、苦もなく返って行った次第でございます。
『わたくしたちはまたお会いしましょうね、どうかわたくしどものほうへいらしてくださいまし、どうかわたくしどもをお見棄てないように、あなたは生涯わたくしの親友です。わたくしの兄さんです……どうかわたくしをお見かけになったら、お手を差し伸べてくださいまし……そうしてくださるでしょう? 手を差し伸べてくださいますわね、あなたはわたくしをゆるしてくだすったんですもの、そうじゃございません? あなたはわたくしを以前どおり[#「以前どおり」に傍点]愛してくださいますわね?
『ああ、愛してくださいまし、見棄てないでくださいまし。だって、今この瞬間、わたくしはあなたを愛しているのですもの、わたくしはあなたの愛に値するのですもの、あなたの愛に対して恥ずかしくないだけのことをしますもの……懐かしい友! わたくしは来週あの人と結婚します。あの人は愛に充ちて帰って来たのでございます、あの人はけっしてわたくしを忘れたのではありません……わたくしがあの人のことを書いたからといって、どうぞお腹立ちのないようにお願いします。でも、わたくしはあの人といっしょにあなたをお訪ねしたいんですの。あなたはあの人を好きになってくださいますわ、そうじゃございません?
『どうかわたくしをゆるしてください、お忘れのないように、愛してくださいまし。
[#地付き]あなたのナスチェンカ』
 わたしは長いことこの手紙を読み返していた。涙は瞼から縊れ出るのであった。とうとう、手紙は手からすべり落ちた。わたしは両手で顔をおおった。
「旦那様! もし旦那様!」とマトリョーナが呼んだ。
「なんだね、ばあや?」
「わたしゃ天井の蜘蛛の巣を、すっかり取ってしまいましたよ。もうこれならお嫁取りをして、お客さまをお呼びになっても、それこそ大丈夫でございますよ……」
 わたしはマトリョーナの顔を見やった。それはまだ元気な若い[#「若い」に傍点]老婆であったが、どういうわけか知らないけれども、急にわたしの目には腰が曲って、目の光も消え、顔じゅうに皺の寄ったよぼよぼ婆さんに映った……そして、どういうわけか知らないけれども、とつぜんわたしの部屋が、ばあやと同じくらい、年取ってしまったように思われるのであった。壁も床も色あせて、何もかもどんよりとして、蜘蛛の巣など前よりももっと多くなったよう。どういうわけか知らないけれども、わたしが窓外に目を放った時、向かいに建っている家も負けず劣らず、同様に老いぼれてどんよりとし、円柱の漆喰は剥げ落ち、蛇腹は黝ずんでひび割れ、壁も濃い鮮やかな黄色だったものが、変な斑になってしまった……
 それとも、不意に黒雲の陰から差し覗いた太陽の光線が、また雨雲の中に隠れてしまったので、何もかもがわたしの目の前で再びつやを失ったのだろうか。またそれとも、わたしの未来画が何から何まで味気なく、侘しいものとして眼前に展開され、十五年たって年寄りくさくなったわたしが、依然として今と同じように、同じこの部屋で、同じく独りぼっちで、このながの年月いささかも悧巧にならない同じマトリョーナといっしょに暮らしている、そういう有様を正しく目撃したのだろうか。
 しかし、ナスチェンカ、自分の受けた侮辱をいつまでも覚えているわたしだろうか! お前の晴れわたった穏やかな幸福の空に、暗い雲影を吹き送るようなわたしだろうか、苦い非難をぶっつけて、お前の胸に憂愁を吹き込むようなわたしだろうか、秘かな良心の呵責でお前の心を毒し、恋の三昧の瞬間に悩ましい鼓動で慴やかすようなわたしだろうか、お前が彼と並んで神前へ行くとき、黒髪の中へ編み込んだ可憐な花の一つだって、心なく揉みしだくようなわたしだろうか……おお、けっして、けっして! どうかお前の心の空の晴れやかであれかし、お前の愛らしい微笑の明るく穏やかであれかし、またお前自身、愛の三昧と幸福の瞬間に対して祝福されてあれかし、それはお前がもう一人の孤独な、しかも感謝にみちた魂に授けた三昧であり、幸福であるのだ!
 ああ、愛の三昧の完全な一とき! いったいこれが人間の一生に対して不足だとでもいうのか?……



底本:「ドストエーフスキイ全集2」河出書房新社
   1970(昭和45)年8月25日初版
入力:いとうおちゃ
校正:
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