京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『九通の手紙に盛られた小説』 (『ドストエーフスキイ全集1 貧しき人々』P314―P325より、1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

九通の手紙に盛られた小説
フョードル・ドストエーフスキイ
米川正夫

                                                                                                            • -

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1 ピョートル・イヴァーノヴィチより
  イヴァン・ペトローヴィチヘ
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 親愛なる友イヴァン・ペトローヴィチ! きわめて重要な件について御相談申しあげたく、いわば貴兄の後を追いまわし始めて、もうこれで三日になりますが、どこでもお目にかかることができません。昨日セミョーン・アレクセエヴィチを訪問した時、愚妻は貴兄御夫婦のことでなかなか当を得た洒落を吐きました。いわく、貴兄とタチヤーナ・ペトローヴナは似合いの一対で、そろいもそろって、お出好きでいらっしゃる。ご結婚後まだ三《み》月もたたないのに、早くもわが家の守神をおろそかになさるのですからね。われわれ一同大いに笑ったことですが、――それはもちろん、われわれが貴兄ご夫婦を心から愛しているからですが、――しかし、冗談はさておいて、貴兄は小生の足を摺子木にしてしまいましたよ。セミョーン・アレクセエヴィチは貴兄のことを、連合協会クラブの舞踏会に行っておられるのではないか、とこういわれるので、小生は愚妻をセミョーン・アレクセエヴィチの夫人に預けて、連合協会へ飛んで行きましたが、とんだ悲喜劇です! どうか小生の立場をご想像ねがいます。舞踏会に来たのはいいが、女房なしのたった一人なんですからね、玄関で出くわしたイヴァン・アンドレエヴィチは、小生が一人きりなのを見て、小生がダンスの集まりにひどく熱をあげていると、さっそく決めこんでしまったものです(毒舌家ですからね!)。そして、わたしと腕を組むなり、もう力ずくでダンス教室へ引っぱって行こうとするのです。連合協会クラブは狭くるしくて、自分の若々しい魂の翼を拡げる場所がない、それに木犀草入りの虫取り粉の臭いで頭が痛くなった、というのです。そこで貴兄ご夫婦の姿は見あたりません。イヴァン・アンドレエヴィチは神明にかけて、貴兄は間違いなくアレクサンドリンスキイ劇場の『智恵の悲しみ』に行っておられる、と誓うじゃありませんか。
 小生はアレクサンドリンスキイ劇場へ飛んで行きました。が、そこにもおいではありません。今朝は、チストガーノフの家なら貴兄に会えると考えましたが、――どっこい、あてはずれで、チストガーノフはペレパールキンのとこへ行けと申します。――行ってみるとまた同じこと。ひと口にいうと、もうへとへとに疲れてしまったのです。小生がいかに東奔西走したかは、よろしくご賢察を願います! そこで、いま手紙をさしあげるわけですが(いたし方もありません!)小生の用件と申すのはけっして文学的なものでなく(小生のいわんとするところは、お察しくださることと思います)、むしろ貴兄と差向かいで、しかもできるだけ早く、くわしくお話合いする必要に迫られておりますから、今晩タチヤーナ・ペトローヴナご同道で、拙宅へお茶でも召しあがりにご来車ねがいたくぞんじます。愚妻アンナ・ミハイロヴナも、ご来訪を鶴首してお待ちしております。ご光来くださらば、たとえにも申すとおり、終世ご恩にきる所存です。
 ついでながら、親愛なるイヴァン・ペトローヴィチ、一たんペンを取るまでに立ちいたった以上、洗いざらい書いてしまいますが、今度は最早やむことを得ず、多少貴兄を責めなければならず、また貴兄が意地わるくも小生に試みられた、一見してまったく罪のない悪戯のことで、貴兄を非難せざるを得ない羽目に置かれました……いやはや、貴兄は悪人です。良心のない人ですよ! 先月の中頃、貴兄は一人の知人、名ざしていえばエヴゲーニイ・ニコラーイチを、拙宅へ差し向け、小生にとってはもちろん、神聖無比な親友としての紹介状をもって、同君を保証せられました。小生はその機会を欣快とし、双手を拡げてかの若人を歓迎しましたが、それと同時に首を罠につっこんだのです。よしんば罠でないにもせよ、結果はいわゆるありがたいことになりました。今くわしく説明している暇はありませんし、それに手紙では具合が悪いので、今は一つ折り入って貴兄にお願いがあります。わが意地悪き親友よ、なんとかしてかの若人に、括弧挿入といった形で、なるべく婉曲に、この首都には拙宅以外に家はたくさんあるということを、そっと耳打ちしていただけませんか。いやはや、やりきれたものではありません! われらの友シーモノヴィチの口癖ではありませんが、足下に伏してお願いします。くわしいことは拝眉の際縷々。もっとも、これはかの若人が外貌ないし精神的資質において欠くるところがあるとか、あるいはその他の点において粗忽があった、などというような意味で申すのではありません。それどころか、彼は愛嬌のいい好青年なのです。しかし、今しばらくご猶予を、いずれ拝眉の節。とは申せ、お会いの折あらば耳打ちあらんことを、ひらにお願い申します。小生自身そうしてもよろしいのですが、ご承知のごとき性質で、とてもできないのです。なにぶんにも貴兄は紹介者なのですから。もっとも、いずれにしても今晩くわしくご相談しましょう。今はこれにて失礼、敬具。
 二伸 拙宅では赤ん坊がもう一週間ばかり病気で、一日一日としだいに悪くなる一方です。歯が生えて来るその痛みなのです。愚妻は始終その看護ですが、かわいそうに、ふさぎこんでおります。莫逆の友イヴァン・ペトローヴィチ、何とぞご来車を、心底よりご歓迎いたします。

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2 イヴァン・ペトローヴィチより
  ピョートル・イヴァーノヴィチヘ
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 尊敬するピョートル・イヴァーノヴィチ!
 お手紙昨日落掌、一読して怪訝の念に打たれました。貴兄はとんでもない場所で小生をおさがしの由ですが、小生はほかならぬ自宅にいたのです。十時までイヴァン・イヴァーノヴィチ・トロコーノフを待った後、すぐさま愚妻同伴にて、失費をも顧みず、馬車をやとい、かれこれ六時半頃、貴宅に参上したところ、貴兄はお留守で、ご令閨がお出迎えくださいました。十時半までお待ちしましたが、それ以上は不可能なので、愚妻同伴、失費をも顧みず馬車をやとって、愚妻を拙宅へ送りとどけ、小生自身はペレパールキンのもとへおもむきました。そこでお会いできるかとぞんじたのですが、またぞろあてはずれでした。帰宅後も終夜まんじりともせず、不安のうちに明かし、翌朝は九時、十時、十一時と、三回も貴兄を訪問し、三回も馬車を傭って散財したにもかかわらず、またもや貴兄に鼻をあかされました。
 貴兄の手紙を拝読して、驚き入りました。エヴゲーニイ・ニコラーイチのことについてお申越しがあり、耳打ちをご依頼ですが、理由のご指示がありません。ご用心はけっこうですが、紙にもいろいろありますから、小生は必要書類を捲髪《カール》用として女房に渡すようなことはしません。結局、いかなる意味でああしたことを書いてよこされたか、了解に苦しむ次第です。もっとも、こうなった以上、申しあげますが、いったいなんのために小生をこの事件にまきこまれるのです? 小生は世間のすったもんだにいちいち首を突っこみはしませんからね。出入りを断わるのは、貴兄自身でもできるはずではありませんか。ただわかっているのは、貴兄とじきじききっぱりした話合いをつけなくてはならぬ、ということです。のみならず、時もどんどん経っていきますから、小生は当惑しています。貴兄が約束を無視される以上、どうしたらいいのかわかりません。道は鼻の先にあるし、道は何かの役に立つのですからね。しかも、おまけに女房がぐずぐずいうのです、流行型のビロードの部屋着をこしらえろというわけで。エヴゲーニイ・ニコラーイチのことについては、取り急ぎご報告します。昨日、一刻も無駄にしないため、パーヴェル・セミョヌイチ・ペレパールキンのところへ行ったおり、完全に調べてみました。あの青年はヤロスラヴリ県に五百人の農奴を持っており、なお祖母から農奴三百人ついているモスクワ在の村を、遺産にもらうあてがあるのです。現金がどれだけあるかぞんじません。それは貴兄のほうがよくおわかりのことと思います。ここでいよいよはっきりと、出会いの場所のご指定を願います。ご書面によれば、貴君は昨日イヴァン・アンドレエヴィチと遭遇せられ、彼の口より小生夫妻がアレクサンドリンスキイ劇場にて見物中とお聞きになったそうですが、小生はあえて申しあげます。彼はでたらめをいったのです。まして、彼はこのような事柄については信用し難い人物であって、現に一昨日も自分の祖母をごまかして、八百ルーブリせしめたにおいてをや、です。匆々敬白。
 二伸 愚妻は妊娠いたしました。のみならず、彼女は小心ものにて、時おり憂鬱症にかかります。ところで、芝居には時としてピストルの射ちあいや、道具仕掛けの雷の場面が挿入されるので、小生は愚妻を驚かすことを恐れて、劇場へは同行せぬことにいたしております。小生自身は、芝居にさして興味をもちません。

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3 ピョートル・イヴァーノヴィチより
  イヴァン・ぺトローヴィチヘ
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 莫逆の友イヴァン・ペトローヴィチ!
 失礼、失礼、幾重にも失礼、がしかし、取り急ぎ弁明いたします。昨晩五時過ぎ、ちょうど小生夫婦が心から熱心に貴兄のお噂を申しあげているところへ、叔父のスチェパン・アレクセーイチのもとより急使が駆けつけて、叔母が危篤だとの報をもたらしました。愚妻を驚かすまいために、何事も申さず、別な用事にかこつけて、叔母のもとへ駆けつけました。行ってみると、虫の息なのです。正五時に脳溢血の発作が起こりました。過去二年間に三度目のやつです。同家の主治医カルル・フョードロヴィチは、今夜ひと晩も保《も》たないかもしれぬと宣告しました。親愛なるイヴァン・ペトローヴィチ、小生の立場をよろしくご推察ください。終夜一睡もせず、繁忙と悲しみのうちに過ごしたのです! ようやく朝になって、全身の力を費い果たし、身心ともに疲労困憊して、同家の長いすに身を横たえたところ、適当な時刻に起こすように頼むことを忘れたのです。目がさめて見ると、もう十一時半でした。叔母の容態がもち直したので、妻のもとへおもむいたところ、妻はかわいそうに小生を待ち侘びておりました。そうそうに食事をすまし、赤ん坊をちょっと抱いて妻をなだめ、貴兄の宅へおもむきましたが、ご不在です。ただエヴゲーニイ・ニコラーイチに出くわしたばかりです。帰宅するなりペンを取って、今この手紙を書いている次第です。親愛なる友よ、何とぞご憤懣、ご立腹ないように、たとえ貴兄にうち打擲され、この首を打ち落されようとも、貴兄の高誼だけは失いたくありません。ご令閨より承知したところによれば、今夕貴兄はスラヴャーノフ氏の宅へまいられる由、小生も必ず参上いたす所存です。拝眉の機を楽しみつつ。敬具。
 二伸 小生夫婦は赤ん坊のために心底より悲鳴をあげております。カルル・フョードロヴィチは大黄《だいおう》を処方してくれました。始終うなりどおしで、昨日などはだれの見わけもつきませんでしたが、今日はようやくわかるようになり、まわらぬ舌で、パパ、ママ、ブウ……などと申しております。妻は朝のうちじゅう泣きどおしでした。

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4 イヴァン・ペトローヴィチより
  ピョートル・イヴァーノヴィチヘ
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 尊敬するピョートル・イヴァーノヴィチ!
 貴兄にあてたこの手紙は、貴兄の宅で、貴兄の部屋で、貴兄の仕事づくえの上でしたためております。ペンを取る前に、二時間半以上もお待ちしたのです。ピョートル・イヴァーノヴィチ、今こそ小生は歯に衣きせず、このいまわしき事態に関する小生の意見を開陳します。小生は貴兄の手紙よりして、貴兄はスラヴャーノフ氏宅に招かれ、小生をも同家へ勧誘せらるるものと解し、さっそく参趨、五時間待ちつづけましたが、貴兄の来訪はありません。いったいどうしたことですか、貴兄のご了見では、小生は人の笑い草になるのが当然なのでしょうか? 失礼ながら、ピョートル・イヴァーノヴィチ……今朝も今朝とて、拝眉の栄を得るものと予期して、貴邸に参上しました。その点において、いつでも作法にかなった時間なら自宅で会えるものを、とんだ見当ちがいの場所ばかりで人をさがす、どこかのいかさま連中の真似はしなかったわけです。ところが、貴兄は影も形もありません。今さら何をはばかって、貴兄に苦い真理をうち明けかねているのか、われながら了解に苦しむ次第ですが、ただこれだけのことをいっておきましょう。貴兄はわれわれ両人がかわした例の約束について、逃げをうっていられるらしい。今ようやく事柄ぜんたいを思い合わして、貴兄の狡智に長けた方策にほとほと舌を巻いてしまいました。これはあえて告白せざるを得ません。貴兄がすでに久しい以前から、その悪企みをいだいておられたのは、今こそはっきりわかります。小生がかく推察する証拠は、ほかでもありません。貴兄は先週、ほとんど許すべからざる方法をもって、小生に宛てた貴兄自身の手紙を横領されたのです。その中には、貴兄よくご承知の件について、きわめて曖昧なつかみどころのない書き方ながら、貴兄自身より約束の言葉を述べておられるので、証拠書類を残すのを恐れて、これがいん滅を企て、小生にひと泡ふかそうと思われたのです。しかし、小生は泡など吹く所存は断じてありません。というのは、今まで人に馬鹿扱いされたことがないからです。この点に関しては、すべての人が小生に好感をいだいてくれました。小生は初めて目が開きました。貴兄はエヴゲーニイ・ニコラーイチなど持ち出して、小生をまごつかせ、小生の目をくらまそうとしたのです。しかるに、小生が今月七日付の貴兄の手紙の底意を看破し得ずして、貴兄との談合を求めたところ、貴兄は、口から出任せの面会を約して、身を隠しておられるのです。そもそも貴兄は、小生にそれを看破する力がないとお思いですか? 二、三の人物の紹介につき、貴兄もよくご承知の労に対して、小生に報酬を約束せられたるにもかかわらず、詳細は不明ながら巧みなからくりで、貴兄自身、小生から多額の金を受領証もなく巻き上げようと、なさっています。それはつい先週のことです。しかるに、今は金を持って姿を隠し、しかもエヴゲーニイ・ニコラーイチに関して、小生のつくした労を拒否しておられるのです。あるいは小生が近々シンビールスクに発足するものと期待して、貴兄との片をつける暇はあるまいとお考えかもしれませんが、しかし小生は堂々と声明します。いな、そのうえ名誉にかけて誓ってもよろしい。小生はわざとでも、なおまる二か月ペテルブルグに踏みとどまり、事件を完了し、目的を貫徹し、貴兄をさがし出さずにはおきません。われわれも時によっては、意地ずくでやることも知っていますからね。最後に宣言しておきますが、もし今日にも貴兄が、初め書面で、しかる後じきじき面談で、小生に満足な弁明を与えられなかったら、またその書面の中で、われわれ両人の間に存在した主要な約束を残らず再録し、エヴゲーニイ・ニコラーイチに関する貴兄のご所感を徹底的に闡明されなかったら、貴兄にとってきわめて面白からぬ、いな、むしろいまわしき手段に訴えるのやむなきにいたるでしょう。敬具。

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5 ピョートル・イヴァーノヴィチより
  イヴァン・ペトローヴィチヘ
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 十一月十一日
 尊敬してやまぬ親愛なるイヴァン・ペトローヴィチ!
 貴兄のお手紙は小生を胸の底の底まで悲しませました。親愛なる、とはいえ公平を欠きたる友よ、貴兄に好意を捧げてやまぬ友人にかかる態度をとって、良心のやましさを感じられませんか。事情を深く詮索せずして性急におちいるのみか、かかる非礼の嫌疑をもって小生を侮辱せらるるとは! しかし、とりあえず貴兄の非難に答えることとしましょう。イヴァン・ペトローヴィチ、昨日小生が不在したのは、突然おもいがけなく、瀕死の叔母の病床へ呼ばれたからです。叔母エフフィーミヤ・ニコラエヴナは、昨夜午後十一時に他界しました。小生は親戚たちから満場一致で、悲しくもいたましき儀式の委員長に選ばれたため、多忙をきわめ、今朝も貴兄に面会の機を得ず、また寸信をもってご沙汰する暇もなかった次第です。われわれ両人の間に生じた誤解を、衷心より遺憾とします。エヴゲーニイ・ニコラーイチに関し、小生がなにげなく洩らした冗談半分の言葉を、貴兄はまったく反対の意味に解釈され、小生を侮辱するごとき意義を、事柄ぜんたいに賦与されたのです。また貴兄は金銭のことを云々され、不安の念を表示しておられますが、小生はいっさいを率直に申しあげて、貴兄の希望なり要求なりを、ことごとく満足させる用意があります。ただここで、ちょっと貴兄のご記憶を喚起せずにいられないのは、あの三百五十ルーブリという金は、先週小生が貴兄の手からある条件のもとに受け取ったものであって、借金という形式ではありません。もし借金であったなら、必ずや借用証書があるはずです。貴兄の手紙に述べてあったその他の点に対しては、弁明するまでにおのれを卑しくしたくありません。あれが誤解であるのは見え透いています。いつもながらの貴兄の性急、熱し易さ、一本気が見え透いています。貴兄の開け放しの性質は、心内に疑いをとどめることを許さぬでしょうから、最後にはまず貴兄のほうから、小生に手を差し伸べられるものと信じています。貴兄は思い違いをしておられます。イヴァン・ペトローヴィチ、ひどい思い違いをしておられます。
 貴兄の手紙に深く心を傷つけられたにもかかわらず、小生はまず自分のほうから、今日にもすぐ、貴邸へお詫びにうかがう心の用意はあるのですが、昨日以来多忙をきわめていますので、今やまったく疲労困憊の極に達し、かろうじて身を支えている有様です。そのうえ泣面に蜂とやらで、愚妻が病床についてしまいました。重態になりはせぬかと恐れているほどです。赤ん坊の方はお蔭で小康を得ております。しかし、これで擱筆します……仕事が呼んでいますから、しかもその仕事が山積しているのです。匆々敬白。

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6 イヴァン・ペトローヴィチより
  ピョートル・イヴァーノヴィチヘ
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 十一月十四日
 わがピョートル・イヴァーノヴィチ!
 小生は三日間猶予しました。その三日を有益に利用すべく努力しましたが、その間にも礼譲と作法はあらゆる人間にとって第一の美徳であると感じたので、小生の最後に差し上げた本月十日付の手紙以来、小生自身のことは言葉によっても、はたまた行為によっても、兄の記憶を喚起しないことにしていました。一つには、兄をして叔母ごに対するキリスト教徒としての義務をつつがなく実行せしめんがためであり、二つにはご承知の件についていささか考察探究を試みるうえに、時日を必要としたためです。しかし、今は取り急ぎ兄と断然、最後的に話合いをつけることにしました。
 正直に白状しますが、貴兄の書かれた最初の二通の手紙を通読した際、兄は小生の欲するところを理解されないのだと、真面目に考えた次第です。こういうわけで、小生は兄と面会して、差向かいの談合を求め、筆に訴えることを恐れ、書面におのれの思想を表現する方法の明瞭を欠く点について、自ら責めた次第です。ご承知のとおり、小生は優れたる教養もしつけもなく、空疎な見得を忌む人間です。というのは、過去の苦き経験によって、外貌が時として人を欺き易く、美しき花の陰にしばしば蛇の潜んでいることを、ついに悟ったからです。が、兄は小生の意のあるところを察して、満足な返事をくださらなかった。なぜなら、兄の魂が裏切者であるがために、自ら誓った言葉に背き、われわれ両人の間に存する友情関係を破るべく、あらかじめ決意しておられたからです。これを完全に証明したのは、最近小生に対してとられたいまわしき行為、小生の利害のためには破滅的な行為です。これは小生の予期しなかったところで、今この瞬間までなんとしても信じることを欲しなかったほどです。いかんとなれば、小生は相識のそもそもより、兄の聡明なる言語動作、洗練されたる応対振り、諸般の知識、兄との提携によって生ずべき利益に魅惑せられて、これこそ真の友人、知己、同情者を発見したものと考えたからです。しかし、今こそ明白に悟りました。世の中には、他人に取り入る美しき仮面のもとに心中の毒を隠し、隣人を陥るる罠を作り、許すべからざる欺瞞を行なうためにおのれの智恵を用い、それがために筆と紙を恐れながらも、その文筆の才を隣人と祖国の利益のために用いずして、種々の関係を結び、種々の約束を結びたる人々の理性をくらまし、心を惑わすために利用する徒輩の、いかに多きことよ。ピョートル・イヴァーノヴィチ、小生に対する兄の背信は次の点に照して、明らかに看取されます。
 第一にピョートル・イヴァーノヴィチ、小生は書面の中に明白かつ的確なる表現を用いて、おのれの立場を叙述すると共に、主としてエヴゲーニイ・ニコラーイチに関し、兄の弄せらるるある種の表現と意向のもとに、果たして何をいわんと欲せらるるやを、最初の書面をもっておたずねした時、兄は概して黙殺にこれ努め、ひとたび疑惑と不審の念によって小生の心を攪乱するや、悠々と事件から身を引かれました。その後、小生に対していうに堪えざる振舞をつくしたあげく、兄自身遺憾とするという辞句を弄し始めたのです。ピョートル・イヴァーノヴィチ、これをなんといったらいいのです? その後一刻一刻が小生にとって貴重なものとなり、ペテルブルグの全市中を、兄の跡を追って奔走すべく余儀なくされた時、兄は友情の仮面をかぶって手紙を送られましたが、故意に用件を黙殺して、まったくのよそごとばかり書いておられるのです。くわしくいえば、とまれかくまれ尊敬してやまぬご令閨が病気せられたとか、赤ちゃんに大黄を飲ませたとか、その際歯が生えてきたとかの類です。兄はそういったふうのことを、小生にはいまいましく侮辱と感ぜられるほど規則ただしく、手紙のたびごとに書いてこられました。もちろん、生みの子の苦痛が父親の胸を掻きむしることには、同情をおしむものではありませんが、そのほかにより重要な、より利害関係の多い事柄がひかえているのに、なぜそのようなことを書く必要があるのです。小生は沈黙し、堪え忍んでいましたが、今や時期いたったので、事態を明らかにすることを義務と心得ます。幾度となく心にもなき面会を指定して、厚顔にも小生を欺きたるうえ、明らかに小生を兄の道化役、ご機嫌とりむすび役にし終せたるおつもりならんも、小生はさような役を勤める意志はもうとうありません。最後に、あらかじめ小生を自宅に招致し、またぞろまんまと一杯くわせたのです。正五時に脳溢血の発作を起こして、目下重態の叔母のもとへ呼ばれたなどといって、そこでも厚顔無知[#「厚顔無知」はママ]な正確を誇示しておられますが、幸いにして小生はこの三日間に問い合わせを試み、それによって次の事実を確かめました。兄の叔母君が発作におそわれたのは、まさに八日に移らんとする夜半直前なのです。これによっても明らかなごとく、兄は神聖なるべき肉親関係をば、まったく無関係なる人を欺くための手段に利用したのです。なお兄は最後の書面においては、叔母君の逝去の時を、あたかも小生がごぞんじの用件につき相談のため兄のもとへ出向くべき時と合致したるかのごとく書いておられますが、これこそ兄のいまわしき魂胆と奸計は、想像を絶するものと申さねばなりません。というのは、幸いにして小生が機を逸せずして入手したる確実無比の情報によれば、兄の叔母君は、兄があの書面で厚顔にもまことしやかに報ぜられた時刻より、まる一昼夜を経て永眠されたからであります。小生に対する兄の背信を明らかにする証拠の数々を一々あげていたら、おそらくこの手紙を終えることができないでしょう。ただ、兄はその書面の一つ一つで、小生を莫逆の友と呼び、さまざまなる愛称をもって呼びかけておられますが、それは察するところ、単に小生の良心を睡《ねむ》らせんがために過ぎないのです。この一事のみあげても、公平なる観察者にとっては十分であると思います。
 さて、ここで小生に対する兄の欺瞞と背信の主なるものに言及しましょう。ほかでもありません。兄は最近、われわれ両人に共通の利害に関するいっさいのことを常に黙殺し、曖昧模糊たる書き方ながら、われわれ相互の契約協定を述べてこられた兄自筆の手紙を、厚顔無恥にも小生の手もとより竊取し、利益の折半者という資格をもって、受領証もなく、無法にも銀貨三百五十ルーブリの借款をなしたるうえ、最後にわれわれ両人に共通の知人エヴゲーニイ・ニコラーイチに対し、忌むべき中傷をあえてされたのです。今にして思えば、貴兄は小生に向かって、彼はいわば牡山羊同然、乳も毛も取れず、魚にもならねば肉にもならぬ、どっちつかずの代物である、ということを証明したかったので、今月六日付の手紙でも、その点で彼を非難しておられます。小生自身は、エヴゲーニイ・ニコラーイチを謙遜にして品行方正の青年と認め、社交界においてもそれによって好感を与え、尊敬をかち得るものと承知しています。なお、兄がこの二週間ひきつづき、エヴゲーニイ・ニコラーイチとカルタをたたかわして、そのつど、数十ルーブリ、時としては数百ルーブリずつ、懐へねじこまれたことも承知しています。今や兄はそれらいっさいを否定して、小生の苦痛に対して賠償をがえんぜざるのみか、利益の折半者と称してあらかじめ小生を誘惑し、小生の有に帰すべき種々なる利益をおとりとして、小生自身の金をすら、まんまとせしめてしまったのです。かくして小生ならびにエヴゲーニイ・ニコラーイチの金を、不正手段にて私しながら、小生に対する賠償を忌避し、そのために中傷手段を用いて、小生が苦心惨澹の結果兄の家庭へ出入せしめたる青年の名誉を、無法にも小生の目より見てけがれたるものとせられたのです。しかるに、兄自身はそれに反して、友だちの噂によれば、今日にいたるまで彼と接吻をかわさんばかりの有様で、社交界にては彼を無二の親友のごとく見せかけていられるとのことです。しかし、きみの魂胆が果たして何をねらっているか、兄と彼との親友関係が事実上なにを意味するかを、一目察知し得ないほどの大馬鹿ものは、社交界に一人として存在しません。小生はあえて申しますが、それは欺瞞背信、人間的礼譲と権利の忘却を意味するのであって、神の教えに反するこのうえなき悪徳であります。小生はおのれを実例とし、証拠として提供します。いったい小生は何によって兄を侮辱したのですか、何がゆえに兄は小生に対して、かくも無慚な行動を取られたのか?
 これでこの手紙を終わります。いい分はすっかりいってしまいました。今度は結論です。ピョートル・イヴァーノヴィチ、もし兄が本状落掌後ただちに猶予なく、第一に、兄に手交したる銀貨三百五十ルーブリを返済されず、第二に、兄の小生に約束したる一切の金額を引き渡されざるにおいては、小生はあらゆる手段に訴え、公けの力さえ借りて右の実行を強制いたす所存です。法の保護すらあおぐ覚悟です。最後に声明しておきますが、小生は二、三の物的証拠を握っております。兄の忠僕であり尊敬者である小生の掌中に握られたこの証拠物件は、全社交界における兄の名誉をけがし、兄を破滅させ得るものであります。敬具。

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7 ピョートル・イヴァーノヴィチより
  イヴァン・ペトローヴィチヘ
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 十一月十五日
 イヴァン・ペトローヴィチ!
 兄の百姓くさい、同時に奇怪きわまる手紙を受け取って、小生は最初ずたずたに引き裂こうと思いましたが、――珍品とし保存することにしました。とはいえ、われわれの間に生じた誤解と不快事は、衷心より遺憾にぞんじます。返事は書きたくなかったのですが、必要に迫られたわけです。ほかでもありません。今後何時にもあれ拙宅に兄を迎えることは、小生としても、また妻としても、きわめて不愉快なので、この旨を本状によって声明する必要があったのです。妻は健康が衰えているので、タール([#割り注]ロシヤの百姓は普通タールを長靴に塗った。前の「百姓くさい」という言葉に対応させたもの[#割り注終わり])の臭いはごく体に悪いのです。妻は拙宅に拝借中であった『ラマンチャドン・キホーテ』を、感謝の念と共にご令閨にお返しします。最後に拙宅ご来訪の際お忘れなさったとかいうオーヴァシューズに関しては、遺憾ながら、拙宅に見当たらなかったと申しあげるよりほかありません。目下捜索中ですが、もしいよいよ見当らぬ際は新品を買ってお送りします。匆々敬具。

[#2字下げ]8[#「8」は中見出し]

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 十一月十六日、ピョートル・イヴァーノヴィチは市内便で、自分宛ての手紙を二通受け取った。一つの封を切ったところ、洒落たたたみ方をした薄い薔薇色の手紙が出て来た。自分の妻の手である。エヴゲーニイ・ニコラーイチに宛てたもので、十一月二日付である。封筒の中にはそれ以外なにもなかった。ピョートル・イヴァーノヴィチは一読した。
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 いとしい 〔Euge`ne〕 ![#「いとしい 〔Euge`ne〕 !」はママ] 昨日はどうしても駄目だったの。主人がひと晩じゅう家にいたんですもの。明日は必ず十一時かっきりに来てちょうだい。主人は十時半にツァールスコエヘ出かけて、夜中に帰って来ます。わたしゆうべ夜っぴてすねてやったわ。お知らせと手紙送ってくだすってありがとう。なんというおびただしい紙でしょう! いったいあれをみんなあの女《ひと》が書いたんですの? もっとも、なかなかうまい文句もありますわ。ありがとう、わたしを愛してくださるのがわかるわ。昨日のことで腹をたてないで、明日は後生だから来てちょうだいね。
[#地から1字上げ]A

 ピョートル・イヴァーノヴィチはもう一通の封を切った。

 ピョートル・イヴァーノヴィチ!
 小生は仰せまでもなく貴邸に足踏みなどいたしません。無駄に紙をお汚しになったものです。
 来週シンビールスクヘ出発します。兄のためにはエヴゲーニイ・ニコラーイチが、愛すべき親友、莫逆の友としてい残るでしょう。ご成功を祈る。オーヴァシューズについては何とぞ心配ご無用に。

[#2字下げ]9[#「9」は中見出し]

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 十一月十七日、イヴァン・ペトローヴィチは市内便で、自分宛の手紙を二通受け取った。一通封を切ると、無造作に走り書きした手紙が出てきた。自分の妻の手である。エヴゲーニイ・ニコラーイチに宛てたもので、八月四日付である。封筒の中にはそれ以上なにもなかった。イヴァン・ペトローヴィチは一読した。
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 さようなら、さようなら、エヴゲーニイ・ニコラーイチ! それにつけても神のお恵みがありますように、どうかお仕合わせでいらっしゃいますように。でも、わたしの運命はむごたらしいものでございます。恐ろしい! でも、それがあなたのおこころだったものですから。もし叔母さまがいらっしゃらなかったら、わたしああまであなたを信じてしまいはしなかったでしょう。どうかわたしや叔母さまのことをお笑いにならないで。明日はわたし共の結婚式ですわ。叔母さまは、いい人が見つかって、持参金なしでもらってくれると、喜んでいらっしゃいますの。わたし今日はじめてあの人をよく見ましたが、本当にいい人らしゅうございます。わたし今せき立てられていますから、これで失礼いたします。さようなら……恋しい人※[#感嘆符二つ、1-8-75] いつかわたしのことを思い出してくださいましな、わたしの方は一生あなたを忘れることはありません! さようなら! この最後の手紙も初めの時と同じように署名します……覚えていらしって?
[#地から1字上げ]タチヤーナ

 もう一通の手紙には次のように書いてあった。

 イヴァン・ペトローヴィチ! 明日兄は新しいオーヴァシューズを受け取られるでしょう。小生は他人の懐中物をかすめたり、往来でがらくたを集めたりするのは不馴れです。
 エヴゲーニイ・ニコラーイチは数日中にシンビールスクヘご自分のおじい様にたのまれた用件でご出発されますが、道づれを心配してくれるようにと小生に依頼がありました。ご希望なさいませんか?



底本:「ドストエーフスキイ全集1 貧しき人々」河出書房新社
   1969(昭和44)年10月30日初版
入力:いとうおちゃ
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