京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP086-P096

間に、何もかも思い出したのである!
 最初の瞬間、彼は気がちがうのかと思った。恐ろしい悪寒《おかん》が全身を包んだ。もっともその悪寒は、まだ寝ているうちからおこっていた熱のせいでもある。ところが、今はふいに激しい発作《ほっさ》となって襲って来たので、歯は抜けておどり出さんばかりにがちがちと鳴り、からだじゅうがわなわなふるえ始めた。彼はドアをあけて耳をすました。家の中は何もかもしんと寝しずまっている。彼は愕然《がくぜん》として自分のからだと、部屋ぜんたいを見まわし、ほとほと合点がいかなかった――昨夜、はいって来るなり、ドアにかぎもかけず、服も脱がないのはまだしも、帽子までかぶったまま、長いすの上へぶっ倒れるなんて、どうしてそんなことができたのだろう? 帽子はすべり落ちて、すぐそこの床の上に、まくらとならんでころがっている。『もしだれかはいって来たら、いったいなんと思うだろう? 酔っぱらっているとでも思うかな、しかし……』彼は窓のそばへ飛んで行った。光線はもうかなり十分だった。で、彼は何か痕跡はないかと、急いで自分の全身を頭から足の先まで見まわしはじめた。服もずっとひと通り調べてみた。けれど、着たままではうまくいかないので、彼は悪寒のためにふるえながら、身につけたものを残らず脱ぎ捨てて、ふたたび万べんなく調べにかかった。彼はあらゆるものを、糸一本、切れっぱし一つ残らぬようにひっくり返してみたが、それでも自分に信用がおけなくて、三度ばかり検査をくりかえした。けれど、何も痕跡はないように思われた。ただズボンがすその方で裂けて、ふさのようにぶらさがっているあたり、そのふさの上に凝結した血のあとが濃くついていた。彼は折り込みになった大形ナイフを取って、そのふさを切り取った。そのほかには、もう何もないらしかった。ふと老婆のところで、トランクの中から引きずり出した品物や財布が、未だそっくり方々のポケットにはいっているのを思い出した! 彼は今までそれを取り出して、隠すことも考えなかったのだ! いま服を調べているときでさえ、思い出さなかった。いったいなんとしたことだろう?――彼はいきなりそれをつかみ出して、テーブルの上へほうり出しにかかった。すっかり取り出したうえ、まだ何か残っていないかと、ポケットを裏返してまで見た。彼はそのひとかたまりをそっくり片すみへ持って行った。そこには一ばんすみっこの下の下のほうに、壁紙が裂けてふわふわしているところが一か所あった。彼はすぐさまその穴へ、壁紙の下へ品物を押し込み始めた。『うまくはいった! これでもう目ざわりにならない財布同様だ!』彼は腰を上げて、その片すみのひとしおふくれあがった穴を、鈍い目つきで見つめながら、さもうれしそうに考えた。と、ふいに彼は恐怖のあまり愕然《がくぜん》とした。『なんということだ』と彼は絶望したようにつぶやいた。『おれはいったいどうしたのだろう? いったいこれで隠したつもりなのか? こんな隠しかたをだれがするものか?』
 もっとも、彼は品物など最初から考慮に入れてなかった。ただ金だけしか頭になかったので、前もって場所を用意しておかなかったのである。『いったい、いま、いまおれは何をあんなに喜んだのだ?』と彼は考えてみた。『こんな隠しかたをするやつがどこにあるのか? まったくおれは理性に見放されてるのだ!』彼はぐったりと長いすに腰を落とした。と、たちまち堪えがたい悪寒がまたしても彼のからだをゆすぶり始めた。彼はそばのテーブルの上にあった外套――あたたかくはあるが、もうまるでぼろぼろになっている昔の学生時代の冬外套を機械的に引き寄せ、それを頭からひっかぶった。すると、睡魔と昏迷《こんめい》がまたもや一時に彼を襲った。彼は前後不覚におちいった。
 五分もたつかたたぬかに、彼はまたもやはね起きた。そして、すぐさま夢中になって、自分の服のほうへ飛んで行った。『ああ、またしてもよく寝られたもんだ。まだ何もできちゃいないじゃないか! はたしてそうだ。はたしてそうだ。わきの下の輪だって、いままで取ってないんだ! 忘れてる、こんなかんじんなことを忘れてるんだ! たいへんな証拠じゃないか!』彼は輪をちぎって、いそいでそれをずたずたに引き裂きながら、まくらの下の洗たく物の中へぐいぐい押し込んだ。『ぼろの切れくずなら、どんなことがあったって、嫌疑の種になる気づかいはない。そういったわけらしい、そういったわけらしい!』と彼は部屋のまん中に突っ立ったまま、そうくりかえした。そして、痛いまでに注意を緊張させながら、何かまだ忘れものはないかと、ふたたび床の上からすみずみまでもあたりを見まわしにかかった。すべて何もかもが、記憶や単純な判断力までが、自分を見捨てようとしているのだと確信すると、たまらないほど苦しくなってきた。『どうしたんだ、もうそろそろはじまってるんだろうか?これはもう罰がやって来てるんだろうか? それ、それ、このとおりじゃないか!』じっさい、彼がズボンから切り放したふさの切れ端が、そのまま部屋のまん中の床の上にころがっていた。だれかはいって来たらすぐ見られてしまう!『ああ、いったいおれはどうしたんだろう?』彼はまたとほうにくれたようになり、思わずこう叫んだ。
 するとそのとき奇怪な想念が、彼の頭に浮かんできた――もしかすると、自分の服はすっかり血まみれなのかもしれない。しみだらけなのかもしれない。ところが、判断力がにぶって、ばらばらになって……知力が曇っているので……自分だけそれが見えもせねば、気もつかずにいるのかもしれない……と、ふいに、財布にも血がついていたことを思い出した。『やっ! してみると、ポケットにも血がついているに相違ない。あの時まだべたべたの財布をねじ込んだから!』彼は即座にポケットを裏返して見た。と――はたせるかな――ポケットの裏にも血痕《けっこん》があった。しみ! 『してみると、まだぜんぜん理性に見放されたわけでもないな。自分で気がついて察したくらいだから、つまり、判断力も記憶もたしかにあるんだ』と彼は勝ち誇ったような思いで、深く胸いっぱいに吐息をもらしながら、喜ばしげに考えた。『あれはただ熱病性の衰弱だ。ちょっと熱に浮かされただけだ』そこで、彼はズボンの左のポケットから裏をすっかり引きちぎった。そのとき太陽の光線が左の長ぐつを照らした、とたん、長ぐつの中からのぞいていたくつ下に、何やら証拠らしいものが見えたような気がした。彼はくつを脱いだ。『はたして証拠だ! くつ下のつま先がまるで血だらけじゃないか』きっとあの時、うっかり血だまりへ踏み込んだものにちがいない……『だが、こんどはこいつをどうしたものかなあ? このくつ下や、ふさの切れっ端や、ポケットをどこへやったものだろう。 彼はそれをすっかり両手へかき集めて、部屋のまん中に突っ立っていた。『ストーヴの中へ隠すかな? しかし、ストーヴの中はまっさきに捜すだろう。焼いてしまうか? だが、なんで焼くんだ? マッチもないじゃないか。いや、それよりどこかへ行って、みんな捨てちまうほうがいい。そうだ! 捨てちまうほうがいい!』また長いすに腰をおろしながら、彼は考えた。『すぐ、今すぐ、猶予なしに!………』けれどそうする代りに、彼の頭はまたしても、まくらの上へ傾いてしまった。またしても堪えがたい悪寒がからだを氷のようにしてしまった。彼はまた外套を引っかぶった。こうして長いこと幾時間も幾時間も、たえず一つの想念がちぎれちぎれに彼の夢を訪れた。『今すぐにも、猶予なしにどこかへ行って、何もかも捨ててしまおう、二度と人の目にはいらぬように、すこしも早く、一刻も早く!』彼は幾度も長いすから身をもぎ放して、起きあがろうとしたけれど、すでにそれはできなかった。激しくドアをたたく音がやっと完全に彼の目をさました。
「あけなさいってばよ、生きてるの、死んでるの? いつもぐうたらぐうたら寝てばかしいてさ」こぶしでドアをたたきながら、ナスターシヤがわめいた。「毎日毎日、側から晩まで、犬みたいに寝てばかしいるんだ! まったく犬だよ! いいかげんにあけなさいってば! 十時過ぎよ」
「いねえのかもしんねえぜ」と男の声がいった。
『やっ、あれは庭番の声だ……なんの用だろう?』
 彼はがばとはね起き、長いすの上にすわった。心臓が痛いほど動悸《どうき》を打ち始めた。
「だって、このかぎはだれがかけたの?」とナスターシヤは いいかえした。「まあ、かぎなんかかけるようになってさ! ご当人が盗まれそうで心配なのかしら! あけなさいよ、このへんぼく、起きなさいよ!」
『やつら何用があるんだろう? なんだって庭番なんか? 何もかもわかっちまったんだ。抵抗したものか、あけたものか? ええ、どうともなれ……』
 彼はなかば身を起こして、前のほうへ身をかがめ、かぎをはずした。
 彼の部屋は、ベッドから起きなくてもかぎがはずせるくらいの広さだった。
 はたせるかな、庭番とナスターシヤが立っていた。
 ナスターシヤは、何やら妙な顔をして、彼をじろりと見まわした。彼はいどむような自暴自棄《じぼうじき》の表情で庭番を見た。こちらは無言のまま、二重に折って安封ろうで封印した灰色の紙きれを彼のほうへさし出した。
「呼出状です、役所から」彼は紙をわたしながらいった。
「なんの役所だい?………」
「つまり警察から呼んでるんでさ、役所へね。なんの役所って、わかりきってまさあ」
「警察へ?……なんのために……?」
「そんなことわしの知ったこってすかい。来いというんだから、行きゃいいんでさ」
 庭番はじろじろ彼を見て、あたりを見まわした後、踵《きびす》を返して行こうとした。
「なんだかほんとの病人になっちまったようだね?」ラスコーリニコフから目をはなさないで、ナスターシヤはこういった。庭番もちょっとふりかえった。「昨日から熱があるんだからね」とナスターシヤはいいたした。
 彼は返事をしないで、まだ封も切らない紙きれを、手に持っていた。
「そんならもう起きないほうがいいよ」と、彼が長いすから足をおろそうとするのを見て、あわれを催したナスターシヤは言葉をつづけた。「病気なら行かないほうがいいよ――だいじょうぶだあね。あんた、その手に持ってるもの、いったいなあに?」
 彼は何ごころなく見ると、右の手に例のふさの切れっ端と、くつ下の先と、引きちぎったポケットの裏を握っていた。こうしてそのまま寝ていたのだ。もう後になってこのことを考えたとき、彼は熱に浮かされながらも夢うつつに、それを手の中に固くしっかと握りしめながら、また眠りに落ちていったのが思い出された。
「ちょっ、こんなにぼろっきれを集めてさ、まるでお宝みたいに抱いて寝てるんだよ……」
 こういってナスターシヤは、例の病的な神経性の笑い声を高々と立てるのであった。
 彼はすばやくそれを外套の下へ押し込んで、じっと食い入るように彼女を見つめた。そのとき彼は十分に理路整然と、ものを判断することができなかったけれど、人を逮捕に向かうときには、こんなふうに扱うものでないと直感した。『しかし……警察へ来いとは?』
「お茶でも飲んだら! ほしいかね? 持って来てあげるよ。残ってるから……」
「いや……ぼくは行って来る。これからすぐ出かける」と彼は立ちあがりながらつぶやいた。
「どうも、階段さえおりられそうもないね?」
「行って来るよ……」
「じゃ、好きにするがいい」
 彼女は庭番のあとについて行ってしまった。彼はやにわに明るいほうへ飛んで行って、くつ下とズボンの切れ端を調べにかかった。『しみはあるが、しかし大して目にたちゃしない。すっかりよごれて、こすれてしまって、色がさめてるからな。前もって知らない者には――てんで見分けなんかつきゃしない。してみると、ナスターシヤもあれだけ離れてたから、なんにも気がつきゃしなかったろう、しめた!』そのとき、彼は胸をおどらせながら、呼出状の封を切って読み始めた。長いことかかって読んだ後、ようやく意味がわかった。それは今日九時三十分に、区の警察署へ出頭せよという普通の呼出状だった。
『いったい、いつこんなためしがあったろう? おれは警察に用なんかいっさいないんだがなあ! しかも、おりもおり今日にかぎってどうしたわけだ?』と彼は悩ましい疑惑に包まれながら、とつおいつ考えた。『ああ、神さま、もうこうなったら、とにかく早くすみますように!』彼はいきなりひざまずいて祈ろうとしかけたが、われながら笑いだしてしまった――それは祈禱《きとう》を笑ったのではなく、自分自身を笑ったのである。彼は急いで着がえにかかった。『破滅するなら破滅するでいいさ、同じこった! このくつ下をはいてってやれ!』こんな考えが急に彼の頭にわいた。『もっとほこりの中でこすれたら血のあとも消えてしまうだろう』しかし、それをはくが早いか、またすぐ嫌悪《けんお》と恐怖の念に襲われ、引きむしるように脱ぎ捨てた。が、脱ぎ捨てはしたものの、代りのないことを思うと、また取り上げてはいてしまった。そして、またからからと笑いだしたのである。『こんなことはすべて条件的だ、何もかも相対的だ。こんなことはすべて形式にすぎないんだ』と彼はちらと、ほんの頭の端っこだけで考えた。けれど、そう考えながらも、同時にからだじゅうがふるえるのであった。『ほら、このとおりはいてしまったぞ――見ろ、けっきょく、はいてしまったじゃないか!』とはいえ、たちまち笑いは絶望に変わった。『いや、とても力におよばない……』という考えがしぜんにわいて出る。彼の足はぶるぶるふるえた。『恐怖のせいだ』と彼はひとりでつぶやいた。頭はぐらぐらして、熱のためにずきんずきん痛んだ。『これは策だ! これはやつらが策略でおれをおびきよせて、ふい打ちに面くらったところを完全におさえてしまおうというんだ』と彼は階段へ出ながら、ひとりごとをつづけた。『何よりいけないのは、おれがほとんど熱に浮かされていることだ……何かうっかりへまな口をすべらすかもしれやしないぞ……』
 階段の上に立ったとき、彼はふと、いっさいの品をあのまま壁紙の穴へ残してきたことも思い出した。『これはもしかすると、わざとおれのいないうちに、家宅捜索をやるかもしれないぞ』と気がつき、彼は足を止めた。けれど極度の自暴自棄と、極度の(もしこういいうるならば)滅亡のシニスム(自嘲心)が、ふいに彼を領してしまった。彼は片手を一つ振って、そのまま先へ進んで行った。
『ただ一刻も早くすんでくれ……』
 通りはあいかわらず堪えがたい暑さだった。この四、五日の間に、雨の一滴も降らばこそ、相変わらずのほこり、相変わらずのれんがや石や石灰、相変わらず安店や酒場から出る臭気、相変わらずひっきりなしに出会う酔漢、フィンランドの行商人、半分こわれかかったようなつじ馬車の御者。太陽はぎらぎらと彼の目を射て、ものを見るのが痛いくらい、頭はすっかりぐらぐらになってしまった――それは、強く太陽の照る日、とつぜん町へ出た熱病患者に、普通ありがちの感じだった。
 昨日の町へ曲がる角まで出ると、彼は悩ましい不安を感じながら、そのほうを、あの家のほうを見やったが……すぐに目をそらしてしまった。『もしたずねられたら、おれはいってしまうかもしれない』と、彼は、警察へ近づきながら考えた。
 警察は彼の家から、四分の一露里ばかりのところにあって、新しい建物の四階に、移転したばかりだった。もとの事務所へは彼もいつかちょいと行ったことがあったが、それもずっと前のことである。門の下をくぐるとき右手に階段が見えた。帳簿を持った百姓がひとり、その階段をおりて来る。『庭番だな、つまり、してみると、あすこが役所なんだ』こう考えて、彼はあてずっぽうに昇り始めた。何によらず、人にものを聞く気になれなかったのだ。
『はいって行ったら、いきなりひざをついて、何もかも話してしまおう……』と彼は四階へ上りながら心に思った。
 階段は狭くて急で、一面にきたない水がこぼれていた。一階から四階までのすべての貸室は、台所口が全部この階段に向かっていて、しかも、ほとんどいちんちあけ放されているので、むんむんするような熱臭《いきれ》が立ちこめていた。小わきに帳簿をかかえた庭番や、巡査や、種々雑多な男女の外来者などが、上ったりおりたりしている。警察の入口のドアもやはりあけ放しになっていた。彼は中へはいって、控え室に立ちどまった。そこには何やら百姓|体《てい》の連中が立って待っていた。ここの息ぐるしさもなみひと通りでなく、そのうえ新しく塗られた部屋部屋の、腐った油でといたペンキが、まだかわききらないで、胸のわるくなるほど鼻をついた。しばらく待った後、彼はさらに先へ進んで、隣室まではいって行こうと思案を決めた。どれもこれも小っぽけな、天井の低い部屋だった。恐ろしい焦噪《しょうそう》が、彼をなおも先へ先へと引っぱっていった。だれも彼に気のつくものはなかった。次の部屋には、彼よりも少しはましかと思われるくらいの服装《なり》をした、書記らしい連中が控えて、せっせと書き物をしていた。見たところみんなへんてこな人間ばかり。彼はその中のひとりに近よった。
「お前はなんの用だ?」
 彼は呼出状を出して見せた。
「きみは大学生ですか?」呼出状をちらと見て、相手はこうたずねた。
「そうです。もとの大学生」
 けれど、書記はいっこう好奇心らしいものも示さず、じろじろ彼を見まわした。それは、なんだかこう特別に髪をぼうぼうさした男で、目つきに何かイデー・フィックス(固定観念)みたいなものを浮かべていた。『こんなやつに聞いたって何もわかりゃしまい。こんなやつの知ったことじゃないんだからな』とラスコーリニコフは考えた。
「あっちへ行きなさい、事務官のほうへ」と書記はいって、一ばんはずれの部屋を指でさして見せた。
 彼は、順番からいうと四つ目にあたる、この狭い部屋へはいった。部屋は人でいっぱいになっていたが、皆これまでの部屋部屋にいた連中よりは、いくらか気のきいた服装《なり》をしていた。外来者の中には婦人がふたりまじっていた。ひとりはみすぼらしい喪服《もふく》を着て、事務官とさし向かいにテーブルの前に腰をかけ、何やら口授《こうじゅ》されながら書いていた。もひとりは恐ろしくふとった婦人で、紫色に見えるほど赤い顔にしみがあったけれど、なかなかりっぱな押し出しで、なんだか恐ろしくけばけばしい服装《なり》をして、胸には茶わんの受け皿ほどもあるブローチをつけている。これはちょっとわきのほうに立って、何やら待っていた。ラスコーリニコフは事務官に呼出状を突きつけた。相手はちらと見て、「ちょっと待ちなさい」といっただけで、喪服の女の仕事をつづけた。
 彼はほっとした気持ちで息をついた。『こりゃ確かに違う』彼はだんだん元気づいてきた。元気を出せ、正気に返れと、懸命に自分にいって聞かせるのであった。
『何かちょっとばかなことをしても、何かちょっとしたささいな不用意をやっても、おれは自分でしっぽを出してしまいそうだ! ふん!………どうもここは空気の流通が悪いからつらいな』と彼は心の中でつけたした。『息ぐるしい……頭がぐらぐらしてくる……思考力だってそうだ』
 彼は総身に恐ろしい混乱を感じた。自分で自分を支配しえないのが恐ろしかった。彼は何かにすがりつこう、なんでもいい、ぜんぜん無関係なことを考えようとつとめたが、それはどうしてもうまくいかなかった。にもかかわらず、事務官はひどく彼の興味をひいた――彼はその顔つきで何かを読み取り、最後の判断を下したくてたまらなかった。それはまだ二十二くらいの生若《なまわか》い男だったが、よくうごく浅黒い顔つきは、年よりもふけて見えた。流行のハイカラな扮装《いでたち》で、ポマードをしこたまつけ、くし目をきちんと立てた髪は後ろ頭まで分け目を見せ、ブラシでみがき上げた白い指には、さまざまな指輪をでこでこにはめ、チョッキには金鎖を光らしていた。彼はいあわせた外国人のひとりとフランス語でふた言ばかり話したが、それも相当ものになっていた。
「ルイザ・イヴァーノヴナ、あなたお掛けになったら」と彼は軽い調子で、けばけばしい身なりをした赤ら顔の婦人に声をかけた。こちらは、いすがすぐそばにありなから、勝手に掛けるのを遠慮するように、ずっと立っていたのである。
「イッヒ・ダンケ(ありがとう)」と女はいって、きぬずれの音を立てながら、静かにいすへ腰をおろした。白いレースの飾りのついた薄い空色の服は、軽気球みたいにいすのまわりへひろがって、ほとんど部屋を半分がた占領してしまった。香水がぷんぷん匂いだした。けれど婦人は、自分が部屋を半分も占領して、香水の匂いをぷんぷんさせるのが、いかにもすまない様子で、おくびょうらしいくせに、ずうずうしいところもあるような微笑を浮かべていたが、とにかく明らかに不安らしいふうだった。
 喪服の女はやっと用をすまして、立ちにかかった。するととたんに、かなり騒々しい音をさせて、ひと足ごとになんだか一種特別な肩の振りかたをしながら、ひとりの警部がだんぜん景気よくはいって来て、徽章《きしょう》のついた制帽をテーブルの上へほうり出すと、肘掛いすに腰をおろした。けばけばしい婦人はその姿を見ると、いきなりいすからおどりあがって、一種特別な歓喜の色を浮かべて、小腰をかがめにかかった。けれど、警部がいささかの注意も向けようとしなかったので、婦人はもう彼の前で腰をおろすのを遠慮してしまった。これは区警察の副署長で、両方へ水平にはねている赤みがかった口ひげをはやし、一種のあつかましさを除いては別段なんの表情もない、いかにも浅薄な顔の輪郭をしている。警部はいささか憤慨のていで、横目にラスコーリニコフを見やった。彼の服装があまりひどかったし、しかも、そうした零落《れいらく》ぶりにもかかわらず、なりに似合わぬ尊大な態度を持していたからである。ラスコーリニコフはついうっかりして、あんまり長いことまともに彼を見つめたので、警部はとうとうむかっ腹を立ててしまった。
「なんだお前は?」と彼は叫んだ。このぼろ男が、いなずまのような彼のまなざしを受けて、こそこそ隠れようともしないのに、どうやら驚いたらしい。
「出頭を命じられたんです……呼出状で……」とラスコーリニコフはどうやらこうやら返事をした。
「それは、その男から、大学生[#「大学生」に傍点]から金を取り立てる件です」と事務官は書類から目を放して、せかせかと口を入れた「そら、これです!」と彼は帳簿をラスコーリニコフのほうへ投げて、場所を示した。「読んでごらんなさい1」『金? なんの金だろう?』とラスコーリニコフは考えた。『しかし……してみると、もう確かにあれじゃない!』彼はうれしさにぶるっと身ぶるいした。彼の心は急にどかっと、言葉に尽くせないほど軽くなった。すっかり重荷が肩からおりた思いだった。
「いったいきみは何時に出頭を命じられているんだね。きみ?」警部はどうしたのか、いよいよ侮辱を感じながら、こうどなりつけた。「九時と書いてあるのに、もう十一時過ぎておるじゃないか」
「ぼくはつい十五分ばかり前にこれを受け取ったのです」とラスコーリニコフは同じくふいに、自分でも思いがけないほどむらむらとなって、しかもそれに一種の満足さえ見いだしながら、肩越しに大きな声で答えた。「それにぼくは病人で、熱をおして出て来たんですからね、それだけでもたくさんでしょう」
「どなるのはよしてもらいましょう!」
「ぼくはどなってなんかいやしません。きわめて平静にいってるんです。かえってあなたのほうこそ、ぼくをどなりつけてるんじゃありませんか。ぼくは大学生です、どなりつけられて黙っているわけにはいきません」
 副署長はすっかり逆上してしまって、しばらくは口をきくこともできず、ただ口からしぶきのようなものを飛ばすばかりだった。彼は席からおどりあがった。
「お―だ―まんなさい! きみは官衙《かんが》にいるんですぞ。ぼ――ぼうげんを吐くんじゃない!」
「あなだだって官衙にいるんじゃありませんか」とラスコーリニコフは大喝《だいかつ》一声した。「ところが、あなたはどなるばかりじゃない、たばこまでふかしておいでになる。それはぼくら一同を蔑視《べっし》することになります」
 こういいきると、ラスコーリニコフはなんともいえぬ快感を覚えた。
 事務官は微笑をふくんで、ふたりをながめていた。短気な警部はどうやら荒肝《あらがみ》をひしがれたらしい。
「それはきみの知ったこっちゃない!」とうとう彼は、なんとなく不自然に大きな声で叫んだ。「さあ、そこで、きみは要求されている答弁をしてくれたまえ。アレクサンドル・グリゴーリッチ、この男に見せてやってくれたまえ。きみは告訴されてるんですぞ。借金を踏み倒そうなんて! ふん、どうもたいした美丈夫《びじょうふ》ぶりだ!」
 けれど、ラスコーリニコフはもう聞いていなかった。そして、少しも早くなぞを解こうと、むさぼるように紙きれをつかんだ。一度読んで、また二度めに読んだが、かいもくわからなかった。
「いったいこれはなんですか?」と彼は事務官にたずねた。
「借用証書によって、あなたから返金を請求しているんです、支払いの督促です。あなたは科料《かりょう》その他の諸費用をこめて借金を支払うか、それともいつ支払いうるかということを、書面で答えなければならないのです。それと同時に、支払いをすますまでは、首都から外へ出ないこと、財産を売却もしくは隠匿《いんとく》しないということもね。債権者は、あなたの所有品を売却することも自由だし、あなたにたいしては、法によって制裁を下すこともできるんです」
「でもぼくは……だれにも借金なんかありません」
「それはもはやわれわれの知ったことじゃない。われわれのほうへはこのとおり、債務取立ての告訴が提出されてるんです。つまり九か月前に、あなたが八等官未亡人ザルニーツイナにわたした百十五ルーブリの借用証書です。これがその後ザルニーツイナから七等官チェバーロフの手へわたっているが、もう期限がきれて不渡手形になっている。こういったわけで、あなたに答弁を要求しているんです」
「ああ、そりゃ下宿の主婦《かみ》さんじゃありませんか?」
「下宿の主婦さんならどうしたんです?」
 事務官は『どうだい、お前、今どんな気持ちがするね?』とでもいいたげな様子で、今みんなから包囲攻撃を受け始めたばかりの新参者にたいする憐愍《れんびん》と、同時にある勝利感をふくんだ寛容の微笑を浮かべながら、彼を見つめていた。しかし、今の彼にとって借用証書がなんだろう! 支払い命令がなんだろう! これしきなことに現在の自分として、いささかなりとも心配する価値があろうか、いな、多少なりと注意に値しようか! 彼は突っ立ったまま、読んだり、聞いたり、答えたり、自分のほうから質問までしたが、それはすべて機械的だった。自衛の勝利と、心を圧迫する危険からのがれたという感じ――ただそれだけが、いま彼の全存在をみたしているのだった。予見もなければ、分析もなく、未来にたいする想像もなければ、推察もなく、疑惑もなければ、問題もない。それはきわめて本然的な、純動物的な歓喜の瞬間だった。けれど、ちょうどこのとき事務所の中では、青天の霹靂《へきれき》ともいうべき事件が起こった。さきほど受けた不敬の侮辱に、まだ腹の底まで煮えくりかえるような気持ちで、ことごとくまっ赤になっておこっていた警部は、傷つけられた尊厳を回復しようと考えたらしく、彼がはいってきたときから、にたにたとばかげきった微笑を浮かべながら彼を見つめていた、例の『けばけばしい婦人』をつかまえて、かわいそうに、頭から雷でも落ちたように、がみがみくってかかった。
「ええ、この……女!」と彼はふいにありたけの雑言《ぞうごん》をならべながら、のども裂けよとばかりどなりつけた。(喪服の婦人はもう帰っていた)「ゆうべ、きさまんとこのていたらくは、いったいなんというざまだ? あん? またしても、町内じゅうに恥さらしな大乱ちきを持ち上げやがって、またぞろ、けんかにへべれけ騒ぎだ。懲治監《ちょうじかん》へでもくらい込みたいのか! おれはもうちゃんと、きさまにいっておいたじゃないか、もう十ぺんから注意しといたじゃないか――十一ぺんめは断じて許さんからって! それを、きさまはまたしても、またしても! ええ、この……め!」
 ラスコーリニコフは、思わず手から書類を取り落としたほどである。彼はけうとい目つきで、かくも無遠慮にやっつけられているけばけばしい婦人をながめていたが、やがてまもなく事のなんたるやに考え及んだ。と、すぐさまいっさいのいきさつが、大いに愉快にさえなってきた。彼は喜んで耳をかたむけた。彼はありたけの声で笑って、笑って、笑い抜きたいような気持ちさえもした……ありたけの神経がむやみにおどり狂っていた。
イリヤー・ペトローヴィチ」と事務官は気づかわしげにいいかけたが、時機を待つことにして言葉をとめた。たけり立った警部を押し静めるには、手をおさえるよりほかに方法のないことを、これまでの経験で知っていたから。
 一方、けばけばしい婦人のほうはどうかというと、はじめのうちこそ、その霹靂にふるえあがっていたが、ふしぎなことには、警部の罵詈《ばり》がますます激しくなり、ことば数が多くなればなるほど、彼女の顔つきはいよいよあいそがよくなり、ものすごい警部に向けられた微笑は、ひとしお魅惑をましてきた。彼女は立ったままその場で小刻みに足を動かし、のべつぺこぺこ腰をかがめながら、いよいよ自分の言葉をはさむ時のくるのを、もどかしげに待っていたが、とうとうその機会をつかんだ。
「どういたしまして、署長さま、わたくしどもはけっして騒ぎもけんかもいたしませんですよ」急に彼女は豆でもまき散らすように、達者なロシヤ語ではあるけれど猛烈なドイツなまりのアクセントで、ぺらぺらまくしたて始めた。「けっして、けっして、不体裁《ふていさい》なことはござあません、あの人たちが酔っぱらって来られましたんです。すっかり詳《くわ》しいことを申しあげますが、署長さま、わたくしが悪いのじゃござあません……わたしどもはお上品な家でしてねえ、署長さま、お客あしらいも上品なのでござあます、署長さま。そしてねえ、わたしだっていついかなる時にも、けっして不体裁をしでかしたくないと心がけております。それだのに、あの人たちがすっかり酔っぱらって来られましてね、やがてまたお酒を三本ご注文になったんでござあますよ。それから、ひとりが足をあげて、足でピアノを弾きだすんですからねえ。こんなことは上品な家では、まったくよくないことでござあます。こうしてとうとう、そのばか者がガンツ(ひどく=ドイツ語)ピアノをこわしてしまいました。まるで作法もなにもあったものじゃござあませんよ。それでわたしがそういってやりますと、そいつ、びんをつかんで、みんなを後ろから突き出すじゃござあませんか。そこでわたしは、急いで庭番を呼びましたので、カルルがやって来ました。すると、そいつめ、カルルをつかまえて目をたたきました。ヘンリエットもやはり目をたたかれました。わたしはほっぺたを五へんも打たれましたよ。こんなことは上品な家じゃぶしつけでござあますものねえ、署長さま。で、わたしはどなってやりました。するとそいつは掘り割のほうへ向いた窓をあけてね、そこに立ちはだかって、豚の子みたいにわめくんでござあます。ほんとに恥さらしな、どうしたらまあ往来へ向いた窓で、豚の子みたいに鳴けるのでしょう? フイ、フイ、フイってね! それで、カルルが後ろからそいつの燕尾服《えんびふく》をつかんで、窓から引きずりおろしました。もっとも、その時、これはほんとうでござあますが、署長さま、上着のザインロック(裾)が破れましたんで。するとそいつめ、弁償金十五ルーブリ払えってわめくんで、わたくしは自分でそのザインロックの弁償金に、五ルーブリ払ったんでござあます。ほんとうに下品なお客ったら、署長さま、ありったけの不体裁をしでかして! それでどうでしょう――おれはきさまのことを長い滑稽《こっけい》小説に作ってやるぞ、どの新聞にもみんなきさまのことを書いてやれるんだから、なんかいいまして」
「すると、そいつは文士なんだな?」
「はい、署長さま、まったくほんとうに下品なお客でござあます、署長さま、お上品な家に来て……」
「うむ、よし、よし! たくさんだ! おれはもうきさまにさんざんいって聞かしておいた。よくいってあるじゃないか……」
イリヤー・ペトローヴィチ」と事務官は意味ありげにいいだした。
 警部はちらとそのほうをふりかえった。事務官は軽くうなずいて見せた。
「……さあ、名誉あるラヴィーザ[#「ラヴィーザ」に傍点]・イヴァーノヴナ、これがきさまに聞かしてやるおれの最後のお説教だ。それこそ、ほんとに最後だぞ」と警部はつづけた。「今夜もしきさまの上品な家で、たとい一度でも不体裁をしでかしたら、それこそおれはきさまの首にツグンデル(繩)をかけてやるぞ、高尚な言葉でいえばだ。わかったか! すると何かな、文士が……作者が『上品な家』でザインロックの弁償に五ルーブリ取ったんだな? いや、作者なんて、えてそうしたもんだ」こういって、彼は軽蔑《けいべつ》にみちた視線をラスコーリニコフに投げた。「おとといも居酒屋でやはり似たりよったりの事件があった。昼食はしたが金を払おうとせん。そして、『おれはその代りこの家のことを滑稽小説に書いてやる』というんだ。ある汽船の中でも、先週同じような事があった。れっきとした五等官の家族、つまり細君と令嬢が、聞くにたえない下等な言葉で罵倒《ばとう》されたのだ。この間もさる喫茶店から突き出されたやつがある。まあ、皆こういうふうなんだ、作者だの、文士だの、大学生だの、新聞記者だのというやつらは……ぺっ! おい、きさまはもう帰れ! いまにおれが自分で見に行ってやる!………そのときは気をつけるがいいぞ! わか